脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

日本語の新聞はすごい

2014-11-30 | Weblog
昨日の英語のレッスンはみんなでひとつの文章を読んだ。
英語上達のひとつの登竜門は英語の本を訳すこと、文章をある程度訳すことができたら多少の自信はつくだろう。
昨日は実際に習った文法がたくさんでてくるトピックを1時間ぐらいかけて一緒に訳していったのだが、私はこのレッスンをするたびに日本語と言うのはまどろっこしい言葉であるということを実感させられるものだと感じさせられる。
この前地元の新聞をとってほしいと代理店の人が新聞をおいていった。
しかしその分厚さを見て読む気がしない。こんな分厚いものを誰が見るのか日本語の新聞は非常に分厚い。これをサラリーマンは毎日読んでいるのだから非常に勤勉だと思う。
私は英字新聞をとっているのだが、英字新聞はその日本語の新聞に比べて非常にうすい、だいたい4分の一ぐらいの厚さであるのだが、しかしこれは内容がないと言うことではない。
基本的に英語と言うのは日本語のようなややこしい表現もなく簡素に伝える言語である。実際英語から日本語に訳すと150ページのものが300ページぐらいになるのだが、それは日本語には省略と言う習慣がないからだ。
これは笑える話だが日本人は安直が好きでよくわかりやすい何々と書店などで発売されている。
しかしそれらは非常に厚い、私は英語の哲学の安直のようなものを持っているがそれらは非常にうすく、要点をついているから安直だと言えるのだが、これでは安直の役割を果たしてはいない、おそらくそれは重要なところを抜粋しているに過ぎないだろう。
日本語の文章が長くなるのにはそれなりのわけがある。それは文を省略しないからだ。
分かりやすく言えば英語でare you playing the piano.と聞かれたらYes I am. と答える。そしてHave you ever been to Hawaii.だとYes, I haveだ。どちらもIm playing the piano. I have been to Hawaiiの省略であり、英語には省略がたくさんある。だから文を簡略化できるのだと思っている。
しかし日本語には省略と言うテクニックがない。だからページ数が多くなってしまうのだろう。
私は中学生に教える時には必ずこれは何が省略されているのかと言うことを説明させるのだが、実はこの省略になれることが英語をより鮮明に理解するひとつのコツのようなものだと思っているからだ。
それにしても日本語の新聞は分厚い。日本語によく似た文法の韓国語の新聞もここまで分厚くはない、おそらく日本語の新聞は世界一分厚いのではないかと思っているのだが、日本人の若い人たちが新聞を読まないと言うのは何かよくわかるような気がする。

私はよくスポーツの責任者で新聞も読まない奴はダメだと言っているが、これを毎日読んでいるんは非常に勤勉であると思う。その新聞をひさしぶりに見た時、日本語の新聞ってこんなに分厚かったんだと実感したが、こんなもの勤勉じゃなければ読めんだろう。







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試合を終えて 競技者とそれをさせてくれた人たちに感謝

2014-11-23 | Weblog
先週と2週間続けて試合があった。
MOBの会員はほとんどが健康維持やダイエットであるが、最近そういう中でも自分もやってみようかという人たちも出てきたことは確かである。年齢は中年層から20代の若い人たちとさまざまであるが、そういう普通の社会人たちが趣味のためとはいえ、一生懸命トレーニングして試合に出ることは非常に心うたれるものがある。
今回も何人かが出場したが、本当に一生懸命時間をとってトレーニングしたと思う。
私はそれしかできない、それしかしないという何とかチャンピオンとか何と何位と言うような人間には興味がないし、好きなことやってろという態度であるが。
しかしここの会員は責任のある仕事をして、時間をつくってここに来て一生懸命トレーニングしている。中には仕事の試験があった人間もいたがそういう人たちが本当に一生懸命トレーニングして試合に出ることは非常に光栄なことで、私ははむしろこういう人たちを心から本当に尊敬している。
今回は特にまけてしまった人たちにエールをおくりたいのだが、実は私は初戦は負けている。
一生懸命トレーニングしたけど思うような結果がでなくて負けてしまって、勝者レッドコーナーと言われた時思わず口から18 s○n of bi○chと出てしまったが、その言葉はまさに自分に向けられた言葉、その時本当に悔しい思いをしたことをおぼえている。
おそらく私もそうであるが、その負けた理由のほとんどはベストをつくせなかった、本来通りのボクシングができなかったと言うことだ。
日本人はこういう時必ず練習量が足らないと言うのだが、しかしはたしてそんな単純なことであろうか?
私は昨日出た選手なんかは練習は十分にやったと思うし、誰もがそう思っていると思う、むしろやりすたぐらいだと思っているのだが、ここまで一生懸命やった人間に私は口が裂けても練習不足だと言うことは言えないし、もっと練習しろなんて言えない。
日本人はまじめすぎる、だからさらに練習しなければと自分にむちをうってしまいそれが悪循環になる場合もある。
私は本来通りもボクシングができなかったのは練習量が足りないからではないと思う。
おそらくコンディションがよくなかったから、あるいはベストコンディションで試合にいどめなかったからで、この試合までのベストなコンディションつくりが本当の課題であると思う。

「ベストコンディションに持っていくための減量」
日本人は減量がへただ、へたというよりも減量を知らない。はっきり言ってただ体重を減らせば減らすほど有利になると言う錯覚をおこしているように思える。
ボクシングと言うのは階級制のスポーツである。だからその階級に体重をあわせていく必要があるのだが、体重をへらせばいいというものではない。
誰がそういったのかはたしてそれが医学的あるいは運動生理学的に言ってどうかはわからないが、しかしお腹がすいてエネルギーが不足した状態ではトレーニングなんてできないし、食べなくては疲労は蓄積する一方である。そういう過程を考えても必要以上に体重をおとすことは不利なことだと思っている。
競技者にとって大事なことは試合までに自分をどうベストコンディションに近い状態で持っていくこと、階級とは自分がどのウエイトで戦ったらベストであるためのもので、決して体重をなるべく小さくして出れば有利になると言うようなものではないと思う。
日本では無駄な筋肉をつけないとか言ってウエイトトレーニングはしないが、しかしアメリカ人のアスリートは日常的にウエイトトレーニングをするのだが、それは言わずともスポーツの目的そのものが体を鍛えるためであるからだ。
日本のボクシング競技者は比較的小さい人間が多い、たぶん日本人の平均の体格よりもひとまわり小さいのではないかと思っているのだが、普通ボクシングなんて言う格闘技をやっている人間なら何か怖さを感じるのだが、しかしどこかの高校のボクシング部などは小さくて細い人間ばかりなので、まったく怖さを感じない。むしろこれぐらいだったら勝てるんじゃないかと思わされるぐらいで、おそらくこれぐらいだったらラグビーをやっている多少おおがらな人間には余裕でまけてしまうのではないかと思っている。
私はなぜボクシングの人たちは体をつくらないのか不思議である。サッカーでもベースボールでも競技するための体をつくる、しかしボクシングだけが小さく小さくしていくから不思議だ、日本人の過度の減量は本来ならば体を強くしなければいけないのに試合前に体を弱くしてどうするのだとさえ思ってしまうのだが、私が成功したのは階級をひとつふたつあげたことである。日ごろから鍛えている人間がほぼナチュラルで出ると言うことはベストなコンディションで試合にいどめる、自慢になるが私は試合でよく金星を勝ち取ったが、それは実力やトレーニングではなく、試合にはベストでいどめたからで、そのベストにしていくために休む時は休み食べる時はきちんと食べたからで、ボクシングも他のスポーツとはなんらかわりないと思っている。

「足をつかう」
足を使うのはアウトボクサーだけだと思っている人もいるが、しかしインファイターこそ足を使う必要がある。これは私の感想だが日本のインファイターはインサイドパリーをあまり使わない、そのほとんどがローリングを使って中に入って行こうとするだけだ。
ローリングはジャブで対応される。だからここではインファイターはアウトボクサーに対して不利なのである。たぶんインファイターが中に入って行こうとするためにはローリングかインサイドパリーをつかって中に入って行くしかない、しかしインサイドパリーはこの前のブログで指摘したように踏み込みがあまいので逆にカウンターをあわせられる危険がある。しかし足を使って広角的に攻撃を広げていけばインサイドをとることもできるはずである。ローリングでかわすことも大事だが相手の右あるいは左をころして中にすばやく入って行くインサイドパリーは極めて有効であると思っているが、そのためには踏み込みをはやくするトレーニングが必要である。





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Bon voyage

2014-11-16 | Weblog

「Bon voyage」

本当の旅の目的は新しい風景を見ることではなく、新しい視点を持つことである。と言う宣伝がyoutubeにあったらしい。
聞いた時いい言葉だと思った。バカなボクサーの名言よりもよっぽど実のある言葉で前からも言っているようにこれからは広く物事を理解し考えていくためには、いろいろなところに出て行っていろいろな文化や考え方にふれる必要がある。
私が一番バカだと思うのが、狭い世界でしか生きていないのにすべてを見てきてこれが一番正しいと言うことをはばからない奴だ。
こういう奴に限ってたいしたこともないのに信念と言う言葉を都合よくつかい自分の考え方に固執しているが、人と話したり、いろいろな勉強をして視点をかえなければ正しい答えなんて出てこないのだが、私がいつも疑っているのは基本と言う言葉である。
基本って言うが基本って何?日本人の指導者は一つの型にははめることを基本だと言うが、しかし人間はそれぞれ体のつくりがが違うし、さらに言うならばやってきたスポーツも違うので重心がちがう、そういうひとそれぞれ体格やアドヴァンテージが違うのに安易に基本はこうだと型のようなものを決めつけるのはナンセンスである。
前にシリマン大学の人間がHIに来た時に言っていたことだが、フィリピンでは草野球ならぬ、草ボクシングがあるらしい。しかも道端でおっさんと子供がグローブをつけて楽しそうにスパーリングみたいなことをやっているそうだが、マニパッキャオが何階級も制覇できたのは小さいころから大人時まざって草ボクシングをやってきたからで、たぶんこういう習慣があるからだと思っている。
ボクシングと言うのはセンスはあってもカラテのような型がない。型がないからセンス(感覚)をみがくのがボクシングだと思っているが、我々が教えられてきたのは「相手の動きを見てそれをコピーしろ」と言うことだ。相手のいい動きを見てその動きを自分の中に取り入れていく、そういうしていくことで自分のスタイルと言うのが出来上がる、だからよくうまい選手を観察しろと言われたのだが、ボクシングはセンスをみがくことが大事であり、ボクシングに型などという考え方は非常にナンセンスである。
その件に関して日本には日本のやり方があると言う奴もいるだろうが、英語に疎い、勉強しない広く視点を持てない人間が日本のオリジナリティなんて言うのは笑える話で型や女性のテストがそうだと言うのならばそれはちゃんちゃらおかしい話人権問題も甚だしいと思う。

「まとめるな」
この前クラブの会員が、いろいろとこのクラブの運営の仕方を興味を持って聞いてくるので「俺がこのクラブを運営するにあたって二つのことに注意している。それは孤独になること。そしてまとめようとしまいことだ」と言った。
孤独であることは前のブログで書いたがまとめようとしないはえっと思う人もいるであろう。
しかしこれだけ社会的にも活躍していろいろと個性ある人間たちが日本人のクラブの監督が言うようにまとまるなんてことがあり得ない。
特にどこかの運動クラブのように監督が話したら、それをはいはいと何の反論もせずに聞いているような人間に対して自分の意見がないのかとさえ思ってしまうのだが、ここまでいけばハイはハイではなくワンに聞こえるのだが、私はそういう集団がまとまっているとは決して思えないのだ。
まとまるのではなく協力し合うではないか、体育会の言うまとまるは親玉と子分の関係で子分たちが親分を立ててまるく収まっているのがまとまるだと解釈しているが、しかしそういうサルのようなヒエラルキーは人間を大きく成長させることはできない、成長させる集団と言うのは人から何かを学ぶことができる集団で、ハイハイハイとしか言えないような個性のない奴らが集まる集団には同じような人間しか集まってはこないのではっきり言って限界があると思っている。
うちのクラブに入って来たら個性的になるかもしれない。なぜならここではそういう個性を出しやすい場で、私はボクシングのことでもなるべく人を否定しないようにしているからで、まわりもそうだからである。現に教え方を見ていてもどこかのコンプレックスのかたまりのトレーナーのようにいかに俺は偉いかと言うことを誇示するようなことはない。
試合に出るものしか教えないとか人を否定することで自己満足しているのだろうが、しかしそれはみっともない話でそういうことが通用すること自体程度のひくいジムだと思っていいだろう。
MOBは私がそう注意したわけでもないが、人を否定しないし、そういう態度もとらない。
教えてくれる立場の人は少なくとも私より謙遜で雰囲気を大事にし言葉を選んで教えてくれている。






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孤高のすすめ

2014-11-13 | Weblog
昨日のテレビを見ていて子供に質問された。
それはa lot ofは複数なのになぜaがつくのかと言う質問だ。確かにa lot ofは複数である。普通だったらa
をつけずにlot ofとなるのだろうが、しかしaがつくのにはそれなりの意味がある、それはaをつけることでこのたくさんのものをひとくくりにしている。a とかtheと言うのは学校で習ったひとつや特定の一つをあらわすのだけではなくa silentで一時の沈黙をあらわすようにひとつにくくってまとめる働きもあると思うのだがa lot ofと言うのはa lot of friendsと言うことでそのたくさんの友達をひとくくりにしているわけであってfriendsが無差別の複数に対してa lot ofは限定された複数形であると言ってもいいと思う。

前に群れる奴はだめだと言ったが、なぜ群れるとだめなのかと言うと群れるとそこで特定の関係ができてしまって言いたいことが言えないからだ。
こういうクラブの責任者は常に孤独でなければ客観性にかけるし、ドラスティックなことができない、だからもしその群れがまちがった方向に行ってもなあなあの関係を築いているといいたいことが言えないので軌道修正ができないと思っているのだが、指導者が常にその群れを客観的に見て公平に導いていくためには孤独であるべきだと思っている。

私などはまず群れ方がわからない、群れることは結託すること以外にアドヴァンテージがあるのかと思っているのだが、私のアドヴァンテージは常に孤独な立場に立っているので人間関係がこわれようがおかしいことはおかしいと言えること、まちがっていると思ったらばっさりと決断できるところである。
しかしへたにそこで先輩後輩や師弟関係を築いてしまうと情に流されて本当に正しい決断ができない不公平な集団になってしまう。
指導者が孤独な立場をとらない集団は中高生の集団と同じだ、おそらくボクシング連盟の横領や盗撮ジムの犯罪なんかはそういう先輩後輩のような関係があって仲間意識があるのだろう。特に犯罪をかくすなんて言うのは仲間をかばっているとしかいいようがない、おそらく中高生のようなのりで集まっているのだろうが、こういうところにはまともな社会人が行くべきではない、仲良くなった常連さんとそうでない人たちに差ができるのはまさに仲良しクラブ、そういう特定な関係が存在するからくだらない犯罪がおきたりそれをかばおうとして非常識な行動をとるのだ。

日本人の特にこういうクラブ的集団と言うのは群れる傾向にあるのだが、前にあげたPTAなんかも親睦会とか言ってくだらない飲み会をやるよりも勉強会を開いて意見を言い合うほうが建設的である。
PTAの会合などで自分は教育のことはよくわからないがと話す奴がいるが、わからなかったら堂々とくだらない意見を言うな、私が議事を進めていたらわからなかったら意見ではなく質問と言うかたちにしろと言うのだが、おそらくこういうことが堂々と言えるのは関係自体がなあなあだからだ、はっきり言ってそこに長くいるだけの人間がこういう堂々と厚顔無恥ともいえるようなことが言えるような集団はだめだ。
レベルのひくい奴は難しいことを言わずにとか言ってなあなあの関係を築きたがるが、しかし組織や集団と言うのはそういうなあなあの関係ではおかしくなる。第一こいつらはどこで難しいことをいうのかわからないがそういう場であるからこそ、思いっきり難しいことを言い合って交流を深めていく必要がある。

特に我々のようなクラブを管理する責任者は群れてはいけない。常に客観的な立場に立ち人との間に距離をおかなくてはドラスティックなことができない、実はこのドラスティックと言うのは日本人に最もなじみのない言葉だと思っているが、それは日本人がいい意味でもわるい意味でも和を尊ぶからである。

人とべたべた関係をつくることと人から信用されることとはまったくちがう。
私は孤独であることを徹底しているが、しかし会員ひとりびとりを尊重している。尊重しているからこそ公平に扱いたいと言う気持ちは強い。



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They are just a paper tiger

2014-11-11 | Weblog
うちの子が英語部に入部した。
実はそこの学校の英語部は全国大会で賞をとったりしていて、たぶん県では一番だと思うのだが、部員数もうちの子が行った日だけでも20人以上いたらしく、英語部は大学進学と大学卒業後の就職を有利にするために私がすすめたクラブである。
しかし英語部に入部してもスポーツはしろと言っている。まあ日本のクラブの現状を考えたらば運動クラブに入ってしまうとそれひとつになってしまうので文化部と運動部に同時に属せない、機会を見つけて運動はしたほうがいいと言っている。
私は自分の子供だけではなく中学や高校に入ったら英語部をすすめるのだが、英語部をすすめるのはこの時期の人間には必要であり、ここでやるかやらないかで将来大きな差がでてくるからである。
はっきり言って企業の面接で「自分は野球部で四番を打っていました」と言うのと「英語の弁論大会で入賞しました」と言うのとではどちらが有利だろうか?
一昔前なら運動系はもてはやされていたが、しかし今ではそんなことより国際的なアドヴァンテージを持った人間のほうが優先される時代だ。私なら迷いなく英語の弁論大会で入賞した人間を採用するのだが、若いうちに英語力を磨けば視野が広がり自分が活躍できる場を広げることができる。
しかしスポーツしかできない人間はかたよりがある。ものの考え方が一方的で多面的な考え方ができない、非常に狭い価値観を持っている人間が多いように思えるのだが、事実日本のスポーツは一部のスポーツをのぞいては戦略がない、戦略がないからオリンピックや国際大会などでよその国の人間に翻弄されるのだと思っている。
まずは言葉をおぼえて視野を広げることだ。日本人は英語を理解できないと視野が広がらないと言うことを理解していない人間が多いが、スポーツなんて言うのも英語に疎いから人権がよくわかっていない、アホな体罰も道徳とか指導の仕方だどうだというような日本でしか通用しないことを言うのではなく、まず人権をよく考えることからはじめなくてはならない。なのに指導のしかたがどうだとか、柔道家としてとかここまでふしだらなことをしておいてよくもまあ上から目線でこういうことが言えるのかと思うのだが、人をたたいたりレイプしたことなんて指導の仕方とか柔道家としてなんていうようなおおげさなことなのか、やってはいけない当たり前のことであって本当に狭い世界で生きていると思う。
自分たちではいさましいことを言っているが視野が狭く能力がないからかたまるしかない。トレーナーと称してジムなどで偉そうにしているような奴らはコンプレックスのかたまりのようなもので一人では何もできない、何も持っていないから集まってまわりでみとめあって偉く見せるのだと思う。

私がひとりでもそこそこの収入を得ることができるのは、言葉を知って視野を広げて活躍の場を広げたからだと思っている。
一方スポーツしかできないと人に頼るしかない、ひどい奴になると人にぶらさがっておいて勇ましいことを言うようであるが、しかし社会で生きていくための本当の力を身に着けないと張り子のトラのようになってしまう。
生きていくための本当の力は自分の視野を広げること、ビジネスの世界ではまさに視野を広げて先見の目を持つことが大事だと思うのだが、その点で私はクラブと言う小さな世界でしか生きていない人間よりも英語の弁論大会で活躍した人間のほうが有利だと言っているのだが、英語にしても留学にしてもボランティア活動にしても大事なのは見聞を広めて自分の視野を広げること、視野を広げることができれば自分の活躍できる場を広げることができる。

世界を目指せとかチャンピオンになれとか、そういうことしか言えないような人間は相手にしてはいけない。張り子のトラはそのトラのかたちをふくらますために勇ましいことばかり言う、いかにもボクシングをやっていることがすごいことだと言わんばかりに逃げるなとか戦えとか漫画のような言葉をつかって煽るが、しかし所詮は張り子のトラで本当に生きる知恵なんて教えてくれることはない。

これは私の意見であるが今の時代にかたまるなんていう考え方はナンセンスだ、むしろひとりでもやっていける能力を身に着け一匹オオカミ的なセンスを身に着け生きていくことが今の時代をよりよく生き残っていく生き方だと信じている。

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ホイジンガ的ボクシングクラブ

2014-11-09 | Weblog

土曜日は女性の占有率が高かった。
8時ごろにはかなり人が来たのでジムは満員御礼でさばききれずにこの日は30分の延長かなり忙しいひとときであった。
前のブログでも言ったがMOBは性別や年齢、そして目的で差別されることは決してない。
ダイエットであろうが健康維持であろうがここに来ている以上はひとりの会員だ、当たり前だがだから堂々とトレーニングに来てトレーニングをすればいいと思っている。
この前ある会員の人にトレーニングは楽しいですか?と聞いたら「僕は遊びのつもりで来ているから楽しいです」と言っていたが、おそらくMOBの社会人はここをひとつの遊び場だと思っているだろう。
ここでのサンドバックやグローブはおもちゃでリングはまさに砂場であるが、正直私はこの場が修行のような厳しい場ではなく、みんなが楽しめる公園のような場であることを願っている。

ホイジンガと言う哲学者は人間のことをホモルーディエンスと言い人間は遊びを通して文明を発展させてきたと言う。遊びと言うのは自由であるがしかしその一方では規則と言うものが存在していてそれを守ることが徹底される。もしそれが守られないと遊びではない。
ピアジェと言う幼児心理学者は「遊び」をこどもが成長する発達段階として分けているが、子どもと言うのはこの遊びを通して世の中のルールや規範というものをおぼえていくのであって、このことを通して人は社会の一員となっていくのだと思う。
だいぶ前に最近の子供の道徳がみだれているとかで道徳を必須化するとか何とか国会で話し合われたと思う。しかし道徳や社会の規範なんてただ知識として詰め込むだけでは意味がない、現代社会において問題なのは人と人とのつながりが希薄であることだ、ピアジェではないが人間は遊ぶことによって成長する、集団の中でこの遊びによってルールを学び、さらに遊びにおいては自由であるからこそ創造性が養える。
私は政府が道徳教育を必須化するというよりも子供にもっと遊びをさせるように公園などをつくったほうがいいのではないかと思っている。
さらに遊びはその創造性の中から生まれてくるものだ。この創造性によって生み出された秩序ある場が新しい世界を生み出す、まさにそれが彼の言うところの文化の発展につながるのだろうと思う。
MOBに子供が来て大人にかかわれば成長すると思う。なぜならMOBの世界は遊びの世界であってそこにつながれば自然と刺激をうけルールなどを学ぶことができるからで、いい大人がいればなおさらのことだ。
盗撮ジムのように盗みやのぞきをするような奴がいる場所で、いくらあいさつしろと言ってかたちだけは礼儀正しくさせても指導者にリテラシーがない、常識がわからないと影響力なんてない、でかい声でハイハイハイと監督の言うことを聞いているがしかしレイプなどの犯罪をおかす運動クラブの奴らはこの手のぶるいにはいるのだろう。
しかししっかりとルールを持ったリテラシーのある人たちが接することは非常に影響力のあることで、よく言っていることだがコミュニティをしっかりさせていくためにはしっかりとした人たちが集まるような場にする努力が必要である。






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インチョンでふと思ったこと。

2014-11-05 | Weblog
インチョン大会でカメラを盗んだとして略式起訴された水泳の選手が今になって自分はやっていないと証言している。なんでもカメラをカバンに入れられたとか。
やったかやっていないかというのは何とも言えないが、しかしカメラをバックに入れられたということは無きにしもあらず、日本人が何も言えないと言うことに対してとったオフェンシヴな行為かも知れない。
ただこういう時通訳は一体何をしているのだろうか?日本のアスリートの語学力なんてたかだか知れているのだから万が一の事態がおこった時のために質の高い通訳を同行させる必要はあると思うのだが、特に韓国のような反日教育があるところはなおさらのことである。
実は今回の事件でひとつひっかかっていることがある。それは韓国側のマスメディアではこの日本人選手の窃盗に関して大騒ぎしていないことで、意外にもこのことを韓国人が知らないと言うことである。
なぜこの事件を大きくとりあげなかったのだろうか?韓国は半日の国、そして自分たちのホームタウンでこういうことをされるのだから、普通だったらマスメディアがこぞってこのことを書きたててバッシングするであろう。しかしにもかかわらず書きたてない理由は何か?ひょっとして心理的なダメージを与えるために工作員のような人間がやったのではないかとさえ疑ってしまうのだが、そういうことを誰も考えないから不思議である。
日本人は危機管理がしっかりしていない。韓国なんていう国は世界一反日の国である。その国に試合に行くのに何の戦略もなしに行くことは人がいいことを通りこして平和ぼけすぎる。
もし私が監督ならば彼ら彼女らは勝つためには手段を選ばないから気をつけろ、もし何かあれば俺が委員会に直訴してやるぐらいのことは言ってやるのだが、韓国と言う国がスポーツ競技でOpened armsで歓迎してくれるとでも思っているのだろうか、現に今回の大会でもいろいろと不正疑惑が浮上してきているが、こういう国であることは以前からわかっているはずである。

反日教育を行い、日本に来て絵馬にえげつない落書きをして帰る韓国人、そういう国民性を考えたら今回の出来事は工作したあるいは日本人をおとしめるためにいたずらをしてということが10パーセントはなきにしもあらず、いろいろなことを積み重ねて、防犯カメラなどの解析などを持って真実を解明してもらいたいと願っている。

今ここで韓国と言う国のことを客観的に書いたが、しかし私にとってどちら側に立つと言う問題ではない、日本人が困っていたら手をさしのべるし、韓国人が困っていたら同じくそうするシンパシーを感じる民族であるゆえに真実を解明してほしいと願う。


ただ普通一般の人間だったらもっと強くやってはいないとさえいえるが、なんせアスリート、バカな事件をおこす人間もいるのでどちらともいえないからなさけない話だ。




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lets talk about love

2014-11-02 | Weblog
自動詞はあまり受動態にしないのは英語の常識だが、実はI love youもあまりというかほとんど受動態にはされないらしい。まあ確かにI love you とかyou love meと言う言葉は頻繁に聞くが、しかしこれが受動態となるとあまり用いられない表現である。
おそらくloveが受動態で使われないのはその性質によるものだ。
もともとloveと言うのはBibleの言葉である。
原書ではαγαpε(愛する)と言う言葉が使われていいるのだが、これは当時使われていた究極の愛をあらわす言葉でもともとギリシャ世界には「ελουs エロース「φιλosフィロス」「αγαpεアガーペー」と言う言葉がある。エロースは欲望、フィリアはギヴアンドテイク、そしてαγαpεは見返りを求めない一方的な愛でこの言葉が一般的に西洋社会において伝わった概念である。
そしてキリスト教が伝わりBibleが普及されはじめた時にαγαpηをcharity(慈愛)と言う言葉で訳していたのだが、しかしこの言葉は高尚すぎて大衆が理解できない、そこで一般的に使われていた言葉のloveと言う言葉を用いていた。
確かシェイクスピアの時代のBibleはcharityと言う言葉を使っていたと思うのだが、宗教的なバックボーンの強い西洋社会ではloveと言うのは与えられるものではなく、与えるものなのだと言う考えからloveと言う言葉を受動態にはしないのだと思う。

私は宗教学を勉強した時に非常に感銘をうけたのはこれである。
西洋文化はすべて正しいとは言わないが、しかし彼ら彼女らが言うところのloveと言うのは日本語や韓国語の愛やサランを超えて存在する。
そしてそれは自分の無力さに気づかなければ見えてこないものであり、おそらく彼ら彼女らの言うαγαpεとは神の慈愛で自分たちが一方的に与えられたものである。そういう強い確信と存在があるからこそ彼ら彼女らは堂々とIlove youと言えるのだろうと思ったことは確かである。

Amazing Graceと言う有名な歌がある。この作者はもともと奴隷商人でその奴隷商人だった彼がある時、その神の慈愛にふれて改心した時に書いた詩である。
「Amazing grace, How sweet the sound.that saved like me.I was lost now was found,was blind but now I see」と言う最初の歌詞からいかにその出来事が劇的であることがわかるのだが、もともとギリシャ世界では改心をμετανοιω(メタノイオ)と言って、このもともとの意味は180度方向転換すると言う意味だ。
愛することに無力な人間がまずそういう究極のαγαpεを持って愛されていること、αγαpεとはそのことに気づくことでいくらかでも能動的に人を愛していくことができるための行為であって、日本人には理解できないがそういう絶対的な第三者が存在しているのが西洋の精神世界である。
ユダヤ教の有名な心理学者でEフロムと言う学者は愛の性質についてこう言っている「愛とは炎のようなもので我々がそれを他者に与えていくからそれは燃え続けることができるのものだ、がしかし他者に与えていくことができなければやがてそれは冷たくなり石のようになってしまう」
愛する原動力はまず自分が誰かに愛されていることを知ることである。そして彼ら彼女らの多くはその神の慈愛を受けていると信じ、そしてそこから人を愛そうとするのだと思う。

少し話はずれるがボクシングクラブと言う場も受け入れると言う行為がプライオリティーである。
確かにMOBはDQNお断りだが、しかしここの会員になったからにはまずその人の人格を受け入れることが大事だ、だから上下関係やヒエラルキーをあらわすような規則は必要ない、ひとりの人間が人格を否定されることなく、堂々と権利を持ってトレーニングに励んでほしい。












 

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