脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

コーチの言葉

2017-05-30 | Weblog

スポーツ指導者は教育的センスがなければだめだと思う。スポーツの技術や体力だけではなく人を精神的にも成長させるためためには共同体がどういう方向に向かっているか、そしてその指導者が何を考えて運営しているかと言うことに大きくかかわっていると思う。

私のヨーロッパ系のコーチがリングを降りたらジェントルマンであれとよく言っていた。しかし彼がそういったのは運動系が言うようなあいさつしろとか先輩や親玉に服従するとかヤクザまがいのパフォーマンス的なものではなく、相手をいたわる気持ちを持てと言うことだと思っている。ボクシングと言うスポーツは女性がマイノリティである。だからジム内で裸になってトレーニングしたり、やんちゃ自慢や武勇伝をほざいたり、男性が自由にふるまうというのは女性にとっていささか威圧感があったり、不快であったりするものだ。ボクシングは男性だけのものでもないし、競技者だけのものでもない、そういうことを無視して相手のことを気づかわずに自由にふるまうのは弱いものいじめに等しい。共同体のレベルは特に格闘技のような男性中心の世界では女性や子どもをどう扱うかによると思ってる。個性か何か知らないがど派手な威嚇したようなファッション、堂々と武勇伝をほざいて、裸になって肉体をさらしてトレーニング、そういう人間があいさつや敬語もどきの言葉を使えたからと言って、礼儀正しい人間だと言えるのかどうかはわからないが、こういう人たちはうちのクラブではアウトローとみなすので入会はお断りしている。

私はよくある日本の運動系の礼儀とか言うのがよくわからない。それよりもコモンセンスとエチケットだろと思う。よく試合に終わった後に相手にあいさつに行く。おそらく勝っても負けてもお互いをたたえ合うと言う名目でいくのだろうが、ラグビーならまだしもボクシングと言うのは個人スポーツだ、負けた相手にならわからんでもないが、しかし自分がうちまかした相手のところにあいさつにいくのがよくわからない。なぜ自分が勝った相手にあえてそこに出向いて行ってありがとうございましたなんていうのか理解できないが、私がリーダーの時もしそんな奴が近づいてきたらF○ck you! コジョ(失せろ)!と中指を立てて追い返しただろう。自分が勝った相手にありがとうなんていやみでもなんでもない、その負けたくやしさがわかるのならほおっておいてやるのが武士の情けと言うものだ。お互いをたたえるとかわけのわからないことを言っているが、私は負けて悔しい時、そっとしておいてほしいと思うからあいさつになんて行かなかった。ただ試合が終わった時にthank you!とグローブをポンとあわしただけだ。あいさつに行かなかったら先輩や監督があいさつに行けとか言うこともあるらしいが、そいつらは自分の意思がないのかとさえ思う。私にしてみたらなぜ負けた相手をそっとしてあげないのか不思議だ、パフォーマンスばかりを優先させないで、見えないところでのいたわりの気持ちを持つことも大事なことだと思うのだが、パフォーマンスばかり優先させると思いやりの気持ちにかけるであろう。

前に試合に行った時に試合を終えた競技者が監督にあやまっていた。なぜあやまっていたかというのはこんな奴相手にすぐに倒せなかったことすみません的なことを言ってあやまっていたと思うのだが、パフォーマンスも行き過ぎるとこういう歪んだ形ででてくる。私はそいつらの話を聞いて不快極まりなかったが、こう言う奴らがあいさつや敬語もどきの言葉をつかえたからと言って礼儀正しいとは言えない。人をいたわる気持ちにかけている。メンタリティが子供、たかだかスポーツができても精神的な面が成長していないとウジ虫がハエになったレベルだ、監督やコーチなどがきちんとコミュニティを通してその精神的な面を成長させなくてはいけないと思う。そして精神的な面を成長させたかったならば、まず共同体の質を上げることが必要、そのためには特に監督やコーチにはある程度の知的レベルが求められるのだが、私の考え方では共同体でその弱さをおぼえていたわり、配慮の気持ちを持つためにはある程度の哲学的なものの考え方ができなければならない。そのため指導者は責任者はきちんと勉強しなければならないと思う。

たぶんそのコーチがたいした教養もなく、パフォーマンス的にリングを降りたらジェントルマンであれと言っているだけならアホかと思ったであろう。しかし彼は教養があって知性がにじみ出ている。そう言う人の声だからこそ心に響いて考える、そしてそこで考えさせられるから考える力がついてくるのだと思う。


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井の中の蛙大海を知る

2017-05-30 | Weblog

ジムに何とかタイガーとか言うベタな名前のプロのランカーが来た。なんかちょっとアホそうな奴だなあと思ってみていたのだが、私がそいつにつけたあだ名はデビルチンパンジー、ばれたら半殺しにされるようなあだ名である。そいつがスパーリングの相手が必要だと言うことでジムで有力な人間を何人か集めていた。私はジョージにやって見るかと言われていい経験になると二つ返事でイエッサーと、実力差があるので、向こうは左しか出さないからうって大丈夫みたいなことを言っていたが、しかし私はその時大胆にも倒すつもりでいたのである。スパーはこっちが3人で一人2ラウンドずつ、そして私はトップバッターでゴングが鳴るとボコボコにしてやると意気揚々と飛び出していった。しかし実力差がありすぎるので相手にならない。向こうはイッーと言ってジャブをうってくるのだが、そのジャブがあまりに速すぎてよけることができない。まるで近距離からでかい石をボコボコ投げつけられているようで、1ラウンドが終った時はフラフラでコーナーに千鳥足で帰って行ったことをおぼえている。大丈夫かと聞くジョージ、私は大丈夫だと答える。しかし内心大丈夫なわけがないだろと思っていたが、ここで引きさがっては男としてのメンツが立たんと、私は2ラウンド根性でやりとげた。しかしその後スパーリングをした奴はパンチをもらってすぐ放棄、3番目の奴も私を見てビビッてやらず、結局私が2ラウンド頑張ってしただけで、男の意地は必要なかった。異国では結構痛い思いをした。はじめてやった最初のスパーリングも相手に全く歯が立たなかったし、LAから来たアマチュアチャンピオンとか言う奴とはガチでうちあったが、これも全く歯が立たず3日ぐらいはまともに食事ができなかった。当時のアメリカは本当にすごい人間がたちがいたと思う。結局トーナメントの決勝でまけて自分は才能がない所詮Bサイドレベルだと言うことがわかり、これ以上は無理だと引退した。

私は思う。優しさと言うのは持って生まれたものであったり、親のしつけや愛情からくるものでもある。でもしかし何かに向かって行って、自分がそこでけちょんけちょんにされて悔しい思いや、傷ついたり弱さをおぼえたりすることで見えるやさしさ、そういう優しさが自分よりも弱いものをいたわる弱者へのやさしさにつながるのではないかと思う。私はスポーツ、特に格闘技はそういう機会を与えてくれるよい教師だと思う。


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ethicsとgenderを考えるクラブ

2017-05-23 | Weblog

うちのクラブは格闘技系のクラブでも雰囲気がかなり違う。どう違うかと言うときちんとした哲学的な考え方がベースにあって、その考察を通して倫理的な基準がある。その上で構成されている社会人中心のボクシングクラブだ。よく礼儀とかあいさつとか言う人間がいるが、しかし親玉が教養がなくて、たとえそこで敬語もどきの言葉やあいさつなどできても、きちんとした哲学や倫理的基準がなければそのコミュニティが健全に機能するとは考え難い。クラブの雰囲気はクラブの責任者の考え方が大きく反映する。きちんとした理念や哲学なくしてはその群れは健全な方向には向かわない。いくらボクシングにのめりこんでも、指導者の考え方がまともでなければやんちゃですとかアウトローが集まってきて独特の雰囲気を醸し出す。わたしはそれを灰色の空間を生み出す奴らと呼んでいるが、そういう人間が集まる群れは決して健全とは言えないだろう。

ボクシング廃止論と言うのがある。このボクシング廃止論と言うのは医学的な問題もそうだが、倫理的な問題をついた論文である。確かに他のスポーツもケガをすると言う点では危険性をともなっている。しかしボクシングはそのケガをさせるためのスポーツで、そこに問題があると言うのがボクシング廃止論の倫理的な考察である。ボクシングはある意味暴力を扱ったスポーツである。頭をたたくと言うことは医学的にも問題があるので試合に出す時はもちろんのこと試合にスパーリングをする時は必ずその危険性を促し、相手の同意を得ることが必要だ。さらに子供の頭をたたくことは言語道断、これはDRたちも言っているが成長期に頭をたたくことはその成長のさまたげになるし、減量なども成長期にさせることは正しいスポーツ指導とは言えない。子供にボクシングをさせて大丈夫ですかと聞くと軽くあてているとか、あぶなくなったらとめると言う人間がいるが、こういう言い訳は中学生のいいわけと同じで、ボクシングと言う競技が学校などの教育機関にかかわっているならば、そういう疑わしきことはしないと言うのが教育的配慮だ。もしさせるのであれば成長期に頭をたたくことは危険だということを十分に親に説明してから競技させるべきで、本人の希望とか自己責任とか言うけれども高校生未満の人間がどこまでそれを判断で来て責任を持てるかと言うことはわからないが、私から言わせればこういうことを何の説明もなしに、しかも未成年に自己責任を問うと言うことは無責任で非常におろかなことだ倫理観が欠落しているとしか言えない。

さらにジェンダーについてもよく考えなくてはならない。特に格闘技のクラブでは男性が中心の世界、女性はマイノリティだ。そんなところで上半身裸でトレーニングしたり女性が嫌がる話を平気でする奴がいる。よく武勇伝などを自慢に語る奴がいるが、そんな話を女性が好むはずはないし、そういう話に威圧感や怖さを感じる女性も少なくはない。こういうことを平気でする人間は非常にエチケットにかけていると思うのだが、公共の場で肉体をみせつけて、武勇伝を語ったら女性がかっこいいと思ってくれるのかはどうかわからないが、そう言う奴は我々のような倫理観をしっかり持った落ち着いたコミュニティではアウトロー以外の何者でもない。武勇伝を自慢だと思っている人間はそれでしか自分の存在価値をあらわせないからみじめだ。うちのクラブは元ボクサーみたいな人間が刑務所仲間をたよるように集まって、そこでボクシングの自慢話をしたり、特別感を出して教えるような場ではないし、そういう人間が来る場所ではない。私はボクシンググラブがそういう場所に絶対にならないようにしている。

これは私の持論だがスポーツと言うのは実際にやっている時よりも引退してからのほうが学ぶことが多く得るものも大きい。そしてそれを本当の学びにするのはその本人次第だ。若いうちに頭を耕していないと得るものも少ない。しかし若いうちに本やいろいろなことを学んで頭を耕すと得るものも多い。

 

 


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까불지마!(ふざけるな!)

2017-05-21 | Weblog

私が競技者時代に一番腹が立ったことは、試合で明らかに練習不足で出てくる人間だ。こっちは強くなることを求めてトレーニングして来ているのだから、明らかに相手が練習不足で不甲斐ないボクシングをして、すぐに勝ってしまったら「F○ck you!真剣にやれよ」と本当に腹ただしい気持ちになる。試合に出てくる人間は真剣だ。試合は自分が成長する上では一番大事な経験である。私の学生時代の一日のトレーニングはロープスキッピングを3ラウンド、シャドウボクシングを7ラウンドぐらい、そしてスパーリングがある時はそれを4ラウンド、確かミットうちは4ラウンド、さらにサンドバッグやスピードボールをうって筋トレを3セット、たぶん訳2時間近くはトレーニングに費やしていたと思う。当たり前だが試合に出てくる人間はそれぐらいのトレーニングいやそれ以上のトレーニングはしている。お互いがそれ以上のトレーニングをつんで試合に出場するからこそお互いの成長も大きい。それをちょっとトレーニングをつんだだけで試合に出てくるなどと言うのは一生懸命やっている者に対して失礼、一生懸命頑張っている人から見たら不快極まりない。年に数回しか来ていないのに試合だけは出て体力不足とかで負けるということを何回も繰り返す。リピーターと言う英語はこういうことを繰り返す人間に使う言葉だが、私自身は初めて出たハワイアントーナメントの決勝で判定で負けた時、くやしくてくやしくて15分ぐらいリングをずっと見ていた。チームメイトは決して近づいてはこなかったが、一生懸命やって負けると言うことはそれだけくやしいことだ。トレーニングしていない人間はそんなくやしい気持ちなんか出てこないだろうが、そういう一生懸命やっている人間を相手にするのだからそれなりの礼儀とマナーがある。特にそういうことを臆面もなく何回も繰り返すのは言語道断、減量して一生懸命トレーニングしている人たちに悪いと言う気はないのかわからないが、こういうことを何度も繰り返す人間は社会人としても失格、厚顔無恥でズレた感覚の人間を決して信用することはないだろう。

さらにボクシングと言うスポーツは危険なスポーツだ。学生時代私の二つぐらい前の試合ですごい倒れ方をした競技者がいた。フックをくらって受け身ができてない状態でズドンと倒れたのだが、その時シーンと静まりかえってこれはひょっとしたらと言う雰囲気で、たぶんその後競技者を見ていないので想像通りであろう、その時本当にボクシングは危険だと言うことを本能的に感じた。ボクシングは真剣にやったものにはわかることだが、本当に危険なスポーツだ。私は鼻の穴の位置が違うし、両親指が奥に入っているし、人差し指が曲がっている。幸い頭には異常はないが、しかしそれだけの犠牲を払って競技してきたのだ。だからリングの上に立つと言うことはそれなりの覚悟と準備がいる。もしそこで大きいけがをしてしまったらその人間の家族をも巻き込んでしまうのだから、こういう問題は自己責任の範囲ではない。ボクシングの試合に出ると言うことは覚悟と準備が必要だ。そして準備が不十分なら試合には出ない出さないのが責任者としての正しい判断だ。ラテン語の格言にAmat victoria curam.と言う言葉がある。日本語訳では勝利は苦労するものを愛するとなっているが、しかしCuramは世話とか準備と言う意味で直訳すると勝利は準備を愛するだ。なぐりあいの試合に出場するためには覚悟と準備が必要だ、ボクシングの試合と言うのは危険であるからどちらがかけてもケガをするおそれがあるということを試合に出る人はよく理解してほしいと思う。

ボクシングは目的に関係なく誰もが競技できる。しかし試合に出ると言うことは危険をともなっているので、絶対にケガをしてほしくないと言う思いがある。

 

 


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スポーツを一般化できない人たち

2017-05-17 | Weblog

昨日バレーボールで競技者の顔の近くにバンバンとボールをあびせるかのごとくうち続けるトレーニングが動画でとられていて問題になっていた。解説者があれは追い込んで精神力を鍛えるトレーニングで体罰ではなくてやっているものにしかわからないトレーニングだ、本人も体罰ではないと言っているから問題ないと言っていた。いつも思うがそれしかやって来なかった人の考え方は非常に恣意的である。この人たちは物事を一般化できていない。スポーツと言うのはこういうことを言う一部の人たちだけのものではない、それを強くさせるためだとか言ってこういう暴力を容認するのだが、この人たちはだいぶ前におこったバスケットボール部の事件をどう思っているのだろうか、あの事件で問題になったのはチームを強くするための愛のある体罰だというような詭弁だ。愛情があるとかないとかどこで判断するのかわからないが、自分たちの世界だけでとらえて物事を矮小化してしまう考え方は非常にいいかげんで危ないし、言ってることも灰色でうさんくさい。こういうことを容認するからスポーツでの暴力やいじめ人権蹂躙は繰り返されると思う。基本的にスポーツは遊びだ、大多数の人たちがプロになったり、それで生計をたてようなんて考えてはいない、よく解説者が自分たちがやってきたことがいかにすごいか、そしてスポーツとはこういうもんだと持論を唱えそれが恰もスポーツの目的のように聞こえるが、しかし誰にだってスポーツを競技する権利がある。だからすべての人たちに開かれなくてはならない。しごいて洗脳し人権を無視して結果を出すスポーツはもはやスポーツではない、それは解放軍とか言うどこかの軍隊と同じ、スポーツをする上で大事なことは平等にそれを楽しむことができるかと言うことである。

バレーボールの話もああいう激しい暴力ともとれるようなトレーニングを見たらこわがってその競技をしようとは思わない子供たちもたくさんいる。たかだか球技ごときであそこまでしなくてはならないのかとさえ思う子供もでてくるだろうし、強くなるためにはとか言っているが、その強くさせるための方法論がとにかく鍛えればいいと言うようにしか見えない、非常に浅はかである。どれだけのことを学んだのかわからないが、暴力とさえ思えるしごきがスポーツ学的にも倫理学的にも正しいこととは思えない。

日本人のスポーツ指導者、特にそれしかできない人は物事を一般化できない人が結構いる。こういう人たちの特徴は常に俺はとか俺たちはとか言う一人称主体で話をする。俺たちにしかわからない世界とか、やってる人間にしかわからないとか。前に柔道でレイプ事件や体罰などの問題が続いた時、柔道家としてと言う言葉をしきりに使っていたが、しかしレイプや暴力なんて人としてやってはいけないことだ。それを特別な言葉をつかって自分たちは違うんだと言いたいのだろうが、しかしレイプや暴力に柔道家がとか何をいっとるんだろうと思う。こういう言葉や態度ひとつにしても彼ら彼女らが物事を一般化できない、すべて自分たちのフィールドで物事を判断すると言うことをうかがい知ることができるであろう。スポーツは楽しむものだ、そこでいろいろな人たちとふれあいそれを楽しく競技できるところにスポーツの意味がある。私自身もボクシングでマイノリティがそこで生き生きと競技するボクシングに救われたことは確かなことだし、スポーツでの思い出は楽しいことばかりだ、だから私にしてみたらスポーツで責任を感じて子供が自殺するなんてありえないことだ。

精神力とか根性とか言うのだったら大学の授業、英語の会議、シンポジウムどれでもいいからきちんと自分の意見を言ってみろと思う。たいていの監督は怖気づいて何も言えないと思うのだが、彼ら彼女らの言う精神力と言うものその世界だけのもので、自分たちの子飼いに親も言えないことをえらそうに言っているが、実は内弁慶で井の中の蛙である。

とどのつまり何を言いたいのかと言うとスポーツと言う枠を一部の人間んが考えるような狭い枠でとらえるなということである。うちのクラブはアウトローとかならず者は別だが年齢や性別に関係なく多くの人が集まってトレーニングしている。社会人が多く女性が半数以上在籍しているのも一般のスポーツジムとしては珍しいと思うのだが、それはたぶんスポーツを一部の人間ではなく一般化できているからだと思う。

 


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うちのクラブでは全員が主役だ

2017-05-11 | Weblog

時々ある人から質問のメールが来る。私が書いたものを興味を持って見てくれているらしい。この方は六大学でサイコロジーの勉強をしたそうで、私とのやりとりを書いてもいいと言う了解を得たので詳しいことは書かずにふれさせる程度にさせてもらうが、その人とはメールで5回ほどやり取りをした。文章の様子から女性とうかがえるが、おおまかな内容は自分にはトラウマがある。自分はそう言う勉強をしてきたので自己分析できて、自分がどこに向かえばいいかわかっているつもりだ。しかしそれでも自分は幸せであると感じない。と言うような内容である。私のコミュニティのとらえ方は人間は弱い、しかしその弱さを認め合う中で、お互いがささえあうことで弱さをアドバンテージにかえて行くと言う考え方だ。人間が幸せかどうかと言うのはそれぞれ主観的なものであるが、けれどもその幸せになると言うことは幸せになる方法がある。私がもつ幸福感はお互いが認め合い、支え合うという相互関係によって成り立つもので、それはお互いが誰かを必要としていて必要とされると言うことを感じる幸福感だ。

それゆえに人間が自分の弱さを認めることは大事なことだ。自分の弱さが見えてそれを受け入れることができたら、人の弱さがわかり受け入れることができるだろう。そしてそこから本当の助け合いや支えあいができるのだと思っているが、お互いが支えあって補い合うことでその群れは成長し、その人とのかかわりの中で自分を発見できるのではないかと思っている。自分の弱さを認めると支えられう、そして支えると言う相互関係が見えてくる。実際私自身うちにクラブを運営するにあたって多くの人から支えられ、多くの協力をいただいている。たぶんチーフトレーナーがぬけたらそこでジムは混乱、トレーナーや重鎮の存在や協力は大きく、本当にそう言う人たちからの支えと協力がなければここはやっていけないと思っている。私自身は社会的に強者に見られるが、しかしそのことを全面的に押し出して俺はすごいとこれみよがしにボクシングの実績をあげて運営して行ったら、これだけの協力は得ることができなかっただろうと思う。前のブログでも書いたが私自身、人を認めると言うことができるようになった。おそらく自分はエライとか強いとかできるんだということを全面的に押し出して運営したら、利益や損得関係でのつながりでしか人とつながることはできないし、人は動いてくれないだろう。大事なことは自分の弱さを認めること、そして認め合ってフラットな関係を築いて支え合うと言う精神だ。武勇伝や苦労話をベラベラとするようではまだまだ何かに対して小さいながらに抵抗している。個人が成長し自分を発見できる場としてどういう人たちがそのコミュニティに集まっているかと言うことは重要なことであり、フロムは著書「愛すると言うこと」で愛情は炎のようなものでそれをわけあたえないと消えて石のように冷たくなると言っているが、私は愛とか親切とか思いやりと言うのは、与えたり与えられたりと言う人間の相互関係の中から生まれるもので、コミュニティの中でそれを可能にするのはお互いを認めることだと思う。それゆえに自分がどういう群れに属しているか、そこで人とどうかかわっているかということは大事なことであると思う。

聖書の中にある狂人の話がある。これは墓場に住んでいる狂人が、昼夜かまわず叫び続けて、自分の体を石で傷つけると言う話。聖書はそれを悪霊のせいだとしているが、彼は今で言うと精神的な疾患をわずらった人間であったと思われる。しかしこの人間の姿は単なる物語や寓話での話ではない。これは現代人、人間そのものの姿を映し出していると思う。本心を知られることをさけて人との距離を置き、そして失敗したり傷ついたりして自己憐憫になり、時には自分を追い込む人間はまさにこの狂人のようである。この疲れた人間がともに運動すること、そしてそこでお互いを認めることで成長し、癒される場としてクラブが存在できたらと願っている。

 

 


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外国人としての国歌の一考察

2017-05-10 | Weblog

アメリカの試合は時々独立記念日など特別な日に国歌斉唱をする。この日も試合の前にThe Star-Spangled Banner を斉唱、全員胸に手をあてて目をつぶって斉唱している姿に私はどうしていいかわからずただ同じように目をつぶっていた。国歌はすごい力だ。それを歌うことで国民の意識は高まりひとつとなる。日本の国歌の由来は千年以上前から続くらしいが、アメリカはたかだか建国二百年だ。君が代は侵略の歌だなんて間違った認識を持たないで、千年以上前から続く、日本民族の絆と繁栄を詠った歌で、そこには外国のように侵略して国を繁栄させると言う意図はない。私はバックグラウンドが違うので、個人としては君が代を歌うことには抵抗があるし、靖国とかには足を踏み入れないし、神社に行くことも多少抵抗がある。しかし言いたいことは君が代には一般的に言われているような意図はない。海外に行っても堂々と胸を張って斉唱できると言うことだ。こういうことを言うと右寄りだとか言われるが、しかしそれは純粋にそう思うだけで、厳密に言えば私は日本国民であって日本人でもないと思っている。

学生時代私は3度トーナメントに出たが、結果は銀、金、銀で自慢にはなるが3回決勝に出た。でも時々感じたのは外国人に優勝させてたまるかと言う威圧感だ。なぜわかるかというと判定の時の喜びようが違う。相手の手が上がるとワーッとそのチームが盛り上がり、たちまち私はヒールのような存在になる。だから決勝戦では絶対にこいつら(個人じゃなくてこいつらになっているが)叩きのめしてやると思ったものだ。日本人は外国人に優しすぎる(特に西洋人)。もちろんむこうの審判は公平であるが、しかし外国人はこういう場ではなかなか勝たしてくれないと言うのは私が肌で感じたことである。これは私の感想であるが、今日本人は韓国人に対して怒りの表情をぶつけることで国民意識は高ぶっているかのように見えるが、それは非常にネガティブな国民意識の高まり方だと思う。日本民族は何千年前から続いて来た比類のない民族なのだから堂々と威厳を持って行動できるのに、一部の民族に対してやられたらやり返せと怒りの感情をぶつけることで民族感情が高まることはネガティブである。確かに間違ったことを言われたら主張するのは正しいことだが、もっと堂々としたスタンスを持つと言うのも大事だと思うが、それは我々の国歌をどう認識するのかと言うこととは無関係ではない。なぜこれだけ素晴らしい国歌を斉唱することに抵抗を持つのかわからないが、一層のこと学校でその意味について教えてはどうかと思う。


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Encouragementは認めると言うこと

2017-05-08 | Weblog

よく人からほめるのが上手と言われるが、私はほめているつもりはない認めているのだ。よくスポーツの親玉とかが言うほめて伸ばすと言う考え方、どういう理論を持って言っているのかはわからないがしかし言う人によって浅はかであるように聞こえる。小学校低学年ぐらいはただすごいとか上手だとかおおげさともいえる言葉でほめることは大事だろうが、しかしある程度の学年になったらただおおげさにほめるだけでは成長はしないだろう。私に言わせてみれば何の考え方も持たない、視野の狭い大人がお前はすごいとかおおげさにほめても、競技の行う上でのモティベーションをあげているだけで、それはサルに芸を仕込むのと同じことだ。こういう関係は上下関係から生まれるもので根拠のない自信を生み出している。俺は絶対勝つだとかすごいモティベーションで自信たっぷりに試合に臨むが、しかし負けたらシュンとなって俺はダメだと翻ったように落ち込む競技者はまさにそうだが、肝心なのはたとえまけてもまた再び挑戦していく気持ちで、心理学的な表現ではレジリエンスできる竹のようにしなやかな心を持つことである。私はほめることと認めることを別に考えている(アドラー心理学ではEncouragement(勇気づけ)と言う言葉を使っているが、)。ほめるというのは競技をさせるための手段に過ぎない。でもしかし認めると言うのはその人の人格そのものを肯定することであるが、この違いは個人を成長させていく上では大きいと思う。しかしこの人を認めると言うことは容易なことではない。相手の長所や短所をよく見て、そして総合的に君のこういうところは評価できると言うことを気づかせていかなくてはならないのだから、それは観察力のいることと同時に、その人を受け入れなくてはならないことだからだ。人間は長所ばかりあげてもいやそうではないこういう短所もあるのだからと否定的になる。特に思慮深い人は単純にはそう考えないので結果的にはおだてていることと同じ、だからこそその人の長所と短所をよく見て的確で相手に届く言葉を選び取ってあげなければ認めたことにはならない。大事なのはその人の人格を認めることであり、人格を認めれれることで本当の自信がつくと信じている。

私はハワイアントーナメントの決勝で負けてしまった。しばらくして食事に行った時ジョージがこう言った。ボクシングなんて所詮才能だ。お前は才能がなかった、けれども尊敬していると。その言葉はすごく私の心に響いた。正直その言葉だけでも自分は救われたような気がして、大事な試合には負けて自分には才能がなかった、たいした競技者ではなかったことがわかったけれども、でもしかし自分の人生をさらに肯定的にとらえて前を向いて歩いて行けたことは確かである。彼の尊敬していると言う言葉は長い間、彼が私のすべてを見てくれて受け入れてくれて認めてくれた言葉である。ハワイではコーチが競技者のことをBoyと呼ぶ。しかしこれは上下関係をあらわすような言葉ではなくて自分の子供のように大切に考えていると言う関係をあらわす尊敬をこめたフラットな関係である。

 

 


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私が武勇伝がきらいな理由

2017-05-06 | Weblog

私がなぜ武勇伝や苦労話を嫌うか。それはそういう話が妬みやコンプレックスからくるもので群れを形成していく上ではマイナスだと思うからだ。実は私自身立派に振舞っているように見えるが、しかし若い時はコンプレックスのかたまりで、人を不快にさせた数々の言動や言動はそこから出てくるルサンチマン的な感情であった。質は違うがジムで武勇伝を自慢したり、苦労話を得意がってする人間と何らかわりなかったと思っている。でもしかし行動や言動がかわると生き方がかわる。うちのトレーナーはまわりから信頼されていて、あの人にはお世話になっていますと言う言葉をよく聞くが、わるく言う人などまずいない。ほったらかしのミットやグローブなど会員がかたづけてくれるのは、くだらない持論を押しつけるのではなくただひたすら前向きに指導してくれるからだと思う。まともな人は人をよく見ている。くだらない武勇伝や苦労話はどこからくるか。たいしたこともないのに武勇伝を語って大きく見せようとしたり、過去の小さな出来事をおおげさにとりあげていかにも俺はお前らよりもすごい、俺は努力してるんだと言う指導は押し付けであり、少なくとも我々のように社会人が多い集団では通用しない。私自身も認められたいと言う感情は人よりも強かったが、そういう感情はねたみや対立を生み出すだけで何んら成長しないだろう。しかし自分の弱さを認めて、小さいくだらない自分だけが評価できる栄光もどきにぶらさがらずに、ねたみやコンプレックスそしてそこから出てくる見栄、そういったことを一切後ろに捨てて前を向いて歩んでいく時、マイナス的な感情はなくなってくる。そしてそのためにはどういう人たちと付き合い、どういう集団に属するかということは大事なことだ。武勇伝や苦労話は程度をおとせば教訓のように聞こえるが、しかしそれはコンプレックスやねたみの裏返しで、そこからは何も生まれない。特にうちのクラブのようないろいろな人たちが集まる所では自慢話をこれ見よがしにしない、俺だけが特別と言うようなオーラを出さない。正直初心者相手に自慢話をして差をつけようとする人間とは同じにされたくはないが、私自身は結構孤独で自分の生き方を貫いてきたゆえに特別オーラを出して生きてきたと思う。おまけにそういう人間とは違って固まったり、子分をつくる人間ではないので非常に孤独であったと思う。共同体と言うのはともにトレーニングして何かを共有する、支え合うからお互いが成長するのだと思うのだが、その関係はフラットでなければならない。うちのクラブには私の過去の小さい実績やトロフィーやメダルなどをこれ見よがしに飾ったりすることはない。大事なのは自分だけが特別なのだと言うことを思わない、出さないと言う気持ちで他者を認めていく気持ちである。


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チンピラの兄貴

2017-05-02 | Weblog

MTオリーブは一つの共同体である。共同体は社会的集団でなければならないから、そのコミュニティが持つ雰囲気は非常に大事だと思っている。私自身いろいろな経験や経歴をかわれて施設などから協力を求められたことがある。そこで育って非行などにはしる子は、たいてい人間関係の絆が結ばれることなく育ってきた子が多く、往々にしてその人間関係の絆と言うのは親や兄弟などから伝わるもので、それが十分に伝わっていないと平気で人をうらぎったり、社会のルールや常識を軽視する傾向がみられるようになる。少し話はとぶかもしれないが、私は常識や道徳と言うものは人間関係によって育まれると思っている。だから人間がよりよく生きていくためにはどういう環境で生きるかということが大きな問題となってくる。確かに少し問題をかかえた子供はアウトローくさい人間が集まるような格闘技のジムなどに居場所を感じるだろうが、しかしその集団が少しずれたような感覚を持っていたら、子供は決していい影響が与えられるとは考えがたい。少しくせのあるような人間とつきあい、たいした教養もなければ、指導者としては失格、チンピラの兄貴のたぐいである。いろいろと現実を見て言えることはコミュニティは健全でなければいけない。子供や若い人にとってどういうコミュニティにつながるかということは非常に重要なことだ。そしてそのためには指導者にはある程度の教育レベルは必要だ。人間のコミュニティは言葉によって形成されるのだから、責任者の教養のレベルがひくいとくせのある人間やアウトローくさい人間が集まって来るというかそういう人間としか付きあえないそういうコミュニティはまともとは思えない、例えスポーツを一生懸命しようがどこかずれている。

うちのクラブはいろいろな人たちが在籍している。トレーナーも常識のある人たちだし、在籍している子供は比較的成績優秀な子が多く、親も教育のことをしっかりと考えている。それしかできない、少々くせのある人間やアウトローくさい人間はそういう雰囲気を感じたり、そういう子供たちを見て、武勇伝を必死で語ったり、苦労話や不幸話をして俺はお前らと違うんだと差をつけようとするが、それはコンプレックスの裏返し、そういう話で差をつけようとしても無駄、逆にみっともない。アウトローくさい奴が集まれば不幸自慢や武勇伝自慢になるのだろうが、しかし健全な子供には全く意味をなさない、そういう話が通用するのは同レベルの人間で、本当に子供にいい影響を与えたい、成長させたいと思うならば、武勇伝や苦労話をかぶせて行って仲間や兄貴になるのではなく、話していてこの人は違うと思わせるぐらいの教養をつんで、何が正しいかどういう生きるべきかという影響を与えるような大人にならなくてはいけないと思う。私が問題だと思うのは少しくせのあるような人間やアウトローくさい人間が集まるようなコミュニティだ。スポーツをしている上では問題にはならないのだろうが、しかし教育と言うことを考えたら問題ありだ。とにかく目立てばいいと言うくせのある奴やアウトローくさい奴が集まると健全性がうしなわれる。自分たちの小さい苦労話やスポーツなどの武勇伝を得意がってするような人間は、その健全性をひきさげようとする妬みがすごい。私がそういう人間を入会させないのは入会させたら、群れの性質がずれてくるからだ。私はこのクラブが子供が安心してトレーニングできて、いい影響が与えられるような健全な場でありたいと願っている。

 

 


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