脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

教室の悪魔(見えないいじめを解決するために)を読んで

2009-08-31 | Weblog
教室の悪魔を読んだ。サブタイトルは見えないいじめを解決するためにであるが、ここにはそのいじめの実態がドキュメントとして取り上げられている。
これを読んでも具体的な解決法がみえてこないが、当たり前である。
大人の世界においてもそうであるが、人間の集合体と言うものは実に複雑極まりないものである。
そしてそれは複雑化する現代社会における子供の世界においても言える事で、いじめというのはその人間の複雑な邪悪な感情が、生み出したリバイアサンであり、これを解決することは容易でないように思える。
おそらく著者の本を出したもくろみは、このいじめをどう解決するかというハウツー的な問題よりも、われわれがどれだけこういう実態を知っているかということであり、こういういじめの実態を深く知ることが、解決につながるということではないだろうか。
昔いじめられたらやり返せとか、いじめられるのにはお前にも問題があるからだとと言われたが、もはや現代のいじめはそういうものではない、複雑極まりないもののである。
自分はひとつのドキュメントを読んで思ったことがある。
そこではクラスメートが全員で、一人のターゲットを決めてかなり陰湿ないじめがおこなわれていたのだが、グリム童話にこういう話がある。
これはある作家が、残酷物語の中でピックアップした物語だと思うが、ある村で子供たちがトサツごっこをした。
子供たちはそれぞれ配役を決めて、それを実際に実行し動物の役の子供を殺したのであるが、その作家が残酷だと指摘したのは、そのトサツのシーンを子供たちが純粋にやってのけたことである。
子供の純粋性というのはこわい、まさにこの教室で起こっている例も、それに近ものがあるのだが、何も考えずみんながやっているのだからというゲーム感覚で、いじめをしている。
自分はこういうことをして誰も痛みを感じないのだろうかと思うのであるが、そんなことを感じていたらやるはずはない、多少の痛みはあるのもいるのであろうが、しかしやらなきゃなられるという理由で、いじめに加わるのであれば何かがおかしくなっているのだろう。
昔はよく悪いことをしたら罰があたるぞとか、誰も見ていなくても神様が見ているというような隠れた良心と言うものは存在していたのだが、もはやゲームが氾濫しゲーム感覚でいじめをやっていくような現代には通用しない。
欧米では何かこういう事態になってくるとキリスト教などの宗教が、ムーヴメントを起こし、良心にうったえるのであるが、しかし日本には残念ながらそういう歴史はない。
以前どこかの団体が万引きでつかまった子供を調査をしたところ、ほとんどの子供が運が悪かったというようなことを言っていたそうであるが、多少悪いことをしても、誰もみていなければいい、わからなければいいというのが彼ら彼女らのほんねである。
今子供の良心があぶない、良心の呵責と言う言葉があるが、クラス全体でいじめに走ると言うことはもはやこの言葉は死語に近い。
おそらく欧米であれば信仰覚醒運動のような、彼ら彼女らの良心を覚醒させるようなムーヴメントがおこっているであろう。われわれも良心に立ち返るか、何か新しい良心と言うかそういうものが必要ではないだろうか。




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