脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

カカオトークをつかう日本人

2016-06-30 | Weblog

この前ヘギョンからメッセージが「遊びに行っていいですか?」「どこに?」「そっちに」「안돼(だめじゃ)」「어째서 안됩니까?(どうしてだめなのですか)」とこういうやりとりが10分以上続いたのであるが、彼女は日本語が非常に堪能である。彼女とは後輩を通して久しぶりに再会したのだが、最近よくメッセージを入れてくる。たぶん私の家族や住んでいるところに興味があるのだろう、日本語が堪能、おまけに美人で面白いので人気者になるだろうが、しかしジムに来て余計なことをべらべらと話されたら私のイメージがわるくなる、だから絶対に連れてはこない。

おとついショッピングモールへ買い物に行った。どこの売り場とは言わないが清算を済ませようとレジに行くと店員が「ポイントつけますと」とカードを紙からはがしてポンと私の目の前においた。ポイントがつくんだったら、それに紙からはがして用意してくれたので「ああハイ」と言うとそこで申込用紙を持って来ていきなり書けと言う。おいおいそんな手間をとらすのだったら普通説明が先だろとあまりにもその店員の態度がぶしつけだったので「いらない」と断ったが、その時私はジャージにサンダルと言ういで立ち、それを見ておばはんはポイントやるよと言うような感じで言ってきた態度がそれだったのだと思う。しかしこういうことは今にはじまったことでもなく前にも同じようなことがあって不快な思いをしたことは事実だ。

前にインターネットの記事で高島屋の店員の態度がわるいと言う内容の記事があったのだが、そこには人によって態度をかえる。カジュアルな服装で行っても相手にしてくれないと言うような意見を取り上げていた。しかし高島屋と言うのは言わずと知れた高級デパート、日本橋の高島屋は天皇の御用達で私は実際朝高島屋を貸し切りにして天皇家がお買い物をしているのを見たことがあるのだが、そういうグレードの高いデパートにカジュアルな服装で行くのはTPOをわきまえていないともとれる。韓国もそうだが外国ではこういうデパートにはあまりラフあスタイルでは行かない、ヨーロッパのルイビトンの店などにラフな格好で行列をつくるなんていうのはTPOをわきまえていない。日本ではお客様は神様だが、しかし外国では物は人を選ぶわけでルイビトンのようなバッグはそれなりの人が持つから様になる、それが格と言えるのだ。このインターネットの記事にもあるように日本と言うのは被害者であろうと言う立場からしか物事を考えることができない国である。教養がとぼしく、やってることはめちゃめちゃでも俺は被害者だと言えば言いたいことが言える国、しかしその一方で人よりも持っている人間やステータスの高い人間には非常に厳しい国である。天皇ご用達の格式のあるデパートに海水浴にでも行くような恰好の人間が、商品を手に取ってわいわいがやがやとされる気持ちにもなってみろと思うのだが、それは学校の教室に金髪で来る子供と同じ、多くの人間は売り手側や教える側から物事を考えることができない、常に被害者意識でしか考えることができない、だからこういう記事が堂々とさも正しいかのように掲載されるのだと思う。悪用されたら困るので詳しくは書かないが、政治家や革命家にとって利用しやすい人間はまさにそういう被害者意識を持った人間だ、人間は共感されることを望むが、しかしそういう考え方しかできない人間は人に利用される。日本には新興宗教が多いのはまさにそれが理由だと理解しているが、日本人は広く深く物事を洞察する能力がとぼしい。正直私は思っているが日本人は外国人に比べて思考の仕方が違うのは哲学ができないからで、最近の企業戦略なんていうのもベースに哲学がなければそれを理解し、実践して行くことは難しいとさえ思える。安倍総理は道徳を強調していたがグローバル的にはそんな国内の小さなルールのこだわるよりも哲学を学んで、例えば人類や倫理をグローバルにとらえていく方が大きなアドバンテージになるであろうと思う。

 


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고깃집으로가자

2016-06-27 | Weblog

うちの子が大阪に行った時に動物園前と言うかなり怪しいところと、コレアンタウンにひとりで言ってきたらしい。なぜそんなところに行ってきたのかはわからないが、たぶん彼なりの考えがあったのだろう。しかしあまり治安がいいとも言えないので次からはひとりで行くなとは言っておいたが、そういう場所に社会的関心をもつことは決してわるいことではない、今度大阪に行った時一緒に彼とコレアンタウンの고깃집にでも行こうと思う。

日本人は非常に親切で助け合いがわかる民族である。最近ではボランティアなどの社会活動などに関心を持ってきた人たちが増えてきたがしかしそれでも先進国ではその意識は高いとは言えないと思う。韓国はスペックと言う就職するためには大事な条件があるのだがそれはまずtoeicの点数、留学経験そしてボランティア経験があるかないかであるが、アメリカもそうであるが就職して社会人になるのに日本のように野球部で4番をうってたとか、短所長所なんて書かない。大事なのは何ができるかということで、履歴書はその何ができるかと言うことをアピールするためのものだ。野球部で4番うってたとかどうかわからないが、そんなことビジネスとどう関係あるのかわからない。長所短所なんて言うのも仕事をする上で重要なことなのだろうか(英文の履歴書は志望動機などのせない無駄なことを省くの基本である。)話はボランティアの話に戻るが韓国ではボランティア活動がスペックにくわえられるのだから、社会自体が関心を持っているとっても過言ではない。私の知り合いの学生も必ず何かボランティア活動をやっていて、それは半ば強制的なのでいい加減にやる人間も多いが、しかし大事なことはそれを経験することだ、日本人は本当に親切でそういう意識が高い けれども経験が足りないと言うのが私の見解であるが、もし国がそういうことを奨励したら日本はボランティア大国になるだろう。

しかし私は日本のアスリートは好きではない。特に公共の電波を使ってお笑いにいじられている姿を見ると結局この人たちは楽しかったらいい、競技も何でも自分の快楽の追及なのだと理解してしまうのだが、私が日本のアスリートが嫌いな理由はあまりそういう現実を伝えたり問題意識を持っている人間が少ないからだ。特にボクサーはやんちゃ話をするけれども社会情勢や国際問題などについて語ることはできない。自分の自慢話や偉いと思わせるようなあさい話はできるが、しかしハングリースポーツとも言えるボクシングから何を学んできたのだろうか、人の勝手だと言えばそれまでだが、しかし個人的には尊敬はできない。モハメッドアリは反戦を主張して兵役を拒否したゆえにチャンピオンをはくだつされたが、彼が英雄であるのは彼がヘビー級のチャンピオンだったからということだけではなく、こういうはっきりした世の中で通用するグローバルな主義主張をしっかりと持っていたからだと思う。

人間は泣いても叫んでもひとりでどうすることもできないことがある。そういう闇にのまれてみじめとも言える涙を流せばいかに人間は無力でよわいか、そして助け合い支え合っていかなくてはいけない存在であると言うことがわかるはずだ。いろいろな国に行ったら本当に日本は裕福で民主主義の国だと言うことがわかるだろう。強くなるとか言ってたわいもないことをすごい話のように語り自慢し合うようなアホな世界も小中学生の間ならば多少は必要かもしれないが、しかしいい年をして格闘技の話しかできない目立つことしか考えていないような集団は稚拙でこういう群れでは心が成長しない、私からみたら情報量がとぼしすぎる。スポーツクラブと言えどいろいろな人が集まる集団であるからそれなりの情報量をもたなくてはいけない。英語やその他の言語で本を読むというまで行かなくても週に1冊はまともな本を読み勉強する。そのうえで人間とは何か集団とは何かということを深く考えていく必要があると思う。責任者は本当にまじめに気合をいれて勉強しなければ、底辺の立場でしか物事を考えられない、医学を無視して子供にボクシングをさせるというのはまさにそうだと思っているのだが、教育や社会と言うのはある程度何かを難しく学ばなくては理解できないことだ。本当にバカは体育会のルールが黄金律のように考えているが、もっとしっかり勉強して多くの情報量を頭に叩きこんでもっと高度な見方で集団をとらえていかなくてはその群れは成長しない、まわりに集まってくる人間もしょせん仲間程度のもので、本当の意味では社会的集団とは言えない。

눈물도 말라버려서
더는 아프다고 하지 않는 너
해맑은 니 미소를
너에게 돌려주고 싶어
니 모든 슬픔 다 사라지기를

그래 그렇게 웃어
지금처럼 그렇게
내가 언제나 니 곁에 있을게
처음으로 알게 된 사랑
너를 지킬게 놓치지 않을게
널 사랑해


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うちのクラブの理念

2016-06-26 | Weblog

うちのクラブは幸福度を上げるためのクラブであることを目指している。ダイエットや健康維持もそうだが、ここに来たら平和な気持ちになれる、そして楽しくトレーニングできる環境を目指していることは確かである。アウトローくさい奴お断りと言うのは女性や社会人が安心してトレーニングしてもらえるためである。ジムと言うのはどうしても競技者中心になるので一般の人は遠慮がちだ、平等だと言ってもそれがはたして本当に平等かどうかとは言い難い。そうはいっても力のあるものやそういった取り巻きが中心になるので、中年のおっさんや女性が本当に生き生きとそこでトレーニングするのは難しいことかも知れない。うちのクラブの理念はまずこの中で誰がマイノリティになるかと言うことを考えることだ、この中でと言うのはその日その時と言う意味で、例えばその日は子供がひとりしかいなかったら、その子がその日ジムではマイノリティと言うようにその時の少数派を顧みると言うことである。私は群れの質と言うのはその一番弱い存在をどう扱うかということにかかわってくるのだと思うのだが、私はそういう配慮が全体の幸福につながると考えている。

もはや女性はうちではマジョリティであるが、しかしまだまだ格闘技においてはマイノリティである。裸でトレーニングしない、大きい声で叫ばない、カーッとなって敵意むき出しでなぐりかかって行くような暴力的行為や発言を認めないというようなことは彼女らのここでトレーニングすると言う権利を守る上では大事なことで、うちのように男女比率がフィフティフィフティのクラブでは当然のことであると考えている。さらによくおっさんたちが若いビギナーにマスの相手をしてあげたり、ディフェンスなどを教えてあげている光景を見るのだが、もちろんそれは自己満足のためではなく、本当に親切心からくる助け合いで、特にそれは人が多くてトレーナーや私が忙しい時にそうしてくれるのだが、おそらく私の考え方をよく理解してくださって協力してくれていると思うし、ひとりでいる人を見たら放っておけないのだと思う。

安心できるクラブとは仲間と楽しくわいわいやることや何かで業績をあげたりすることではない。私は人間の幸福はそこに信用できる人間がいるかどうかと言うことだと思っているが、私のクラブづくりの基本はそこに信用できる人間がいて安心してトレーニングできるということである。うちのクラブには貴重品置き場がないし、あえて貴重品を預かったりしない。置き引きなどはもってのほかで、未だかつてそういう事件がないと言うのはそう言う信頼できる人たちが集まっているからだと自信を持って言える。そしてここに来たら間違いなく誰かに気にかけてかまってもらえる。前にトレーナーがフェイスブックに会員の動画をのせることを積極的に考えてほしい(許可があれば)と言っていたが、その理由は帰って会員の動きをチェックしているかららしい。私は彼らにやってくれと一言も頼んだことがないし、彼らもそれが義務だとは思ってはいない。しかし彼らは会員をわけへだてなく顧みてくれていることは確かであり、こういう目に見えない努力があるからここを信頼して安心してトレーニングに励むことができるのだろうと思う。


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느낌 아니까! 

2016-06-25 | Weblog

「My confidential document」

うちのクラブの男性陣は人がいい、だいぶ前に今は常連さんになっているがその人が見学に来た時の話。この人もすごく純粋で人がよく、まわりから好かれていいるのだが、その人が見学に来た。その時彼は傷心していたようで思わずそのことをぽろっと吐き出してしまった。おいおいそんなことを初対面の人に言うかと思ったが、しかしその時まわりでトレーニングをしていたおっさんたちが彼の話に耳を傾けそして聞いてあげているではないか。聞く人もそうだが初対面の人を信用して自分のことを話すなんて私にはできない、しかしおっさんたちは彼の話に耳を傾け親身になって受けとめる、うちのクラブはそういう人のいいおっさんたちで集っている。だからうちのクラブは平和である。人がごった返しに来ても、貴重品をあずけなくてもなくなったことは一切ないし、置き引きなんてもってのほか、千円がおちていてもきちんと届けてくれる、貴重品置き場など一切無用のボクシングクラブである。しかしそれゆえにきちんとした人選をしなくてはならない、盗みや暴力などがおこらないようにうさんくさい奴を入れないようにきちんと私なりのプロファイリングが存在することは事実であり、それはconfidential documentだがきちんと存在し、それがあるからこそ10年以上平和である。これからもアウトローやうさんくさい奴には容赦ない態度で接するつもりである。

「짱시룸」

私はDQNが大嫌いだ。DQNって成人式などで目立った格好であばれるような奴らのことだが、なぜ嫌いかと言うと彼ら彼女らは底辺の立場からしか物事を見ていないからである。子供に髪を染めさせるにしてもそうだ、教育や教師の立場から決して考えることができないからそれが個性だと言えるのだ。自分たちのせまい本当にごくわずかな世界で個性なんて笑わせる。私から見たらDQNはみんなほとんどすべて同じにしか見えないのだが、頭を磨くこともできない人間が個性なんて言うのは笑止である。改造車や格闘技グッズのような派手な威嚇したようなファッションがどう個性的だと言うのかわからない、そんな奴よりもジャージを着て英字新聞を読んでいる人間のほうが個性的ではないか、しかも日本語だけの低レベルのボキャブラリーで何がわかるというのだ。それがわからないからああいう滑稽な格好やをしたりバカなことが平気で言えるのだろう。医者や教師が犯罪をおかすと鬼の首をとったように新聞などは書きたてるが、しかし犯罪は圧倒的にこういう輩によるものだ、権力者をやっつけるのが今の風潮かもしれないが、しかし私はこう言う奴らに言いたいことを言わせることのほうが問題で、ゲルジャムの言葉で「悪貨は良貨を駆逐する」と言うのは有名な言葉だが、事実クラブにこういう奴がひとりふたりと入ってくると全体の雰囲気がおかしくなるのも事実である。個性か何かわからないが金髪にして学校に来ると言うのは個性でもなんでもない反抗である。そういう奴らがいて落ち着いた気持ちで授業できるか考えてみたらいい。そういうレベルで物事を考えることができない奴が言う個性とは害であるが、偉そうに個性だと言うのであればもう少し勉強して教育や指導者の立場からものを考えることができるようにしたほうがいいと思うし、こういう奴らの稚拙な言い分をまともに取り上げる必要もないと思う。

 


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みんながみんなそうじゃないではない

2016-06-23 | Weblog

よく群れる集団は嫌いだと言っているが、しかし私は何も人間の集団を否定しているわけではない。問題なのはどういう人たちがどういう目的を持って集まるかと言うことで、私が言うところの正しい集団と言うのはコモンセンスや広い価値観を持って互いを受け入れる助け合うことができる集団、しかし一方私が嫌いな群れる集団と言うのは価値観がせまい、教養レベルがひくい、仲間意識を助け合いだと勘違いしている集団のことである。

そういう考え方は友達と言う考え方に出てくる。友達とは何かと聞かれて、なんかあった時助けてくれるのが友達だと言うのだ。確かにそうかも知れないが、しかしこの言葉はそれを言う人間によって違和感を感じる。本来ならば何かがないように迷惑かけないようにするのが友達だ。我々はそういうことも含めて自立して生きているのであるから、あえてそのようには考えないだろう。しかし何かあった時になんて言う考え方は常に何かを期待している、自分たちには限界があるから仲間意識でかたまって生きるわるい意味での弱者の生き方そのものではないか。

群れを形成するにあたって大事なことは自立した人間が集まると言うことだ。自立した人間たちが集まる群れは機能している。若い人の手本になったり、お互いが刺激を受けることができるのは自立しているからで、そういう人間関係を通してお互いが刺激し合い成長する。私はそう言う群れが健全であると考えている。大きく夢を持てとか大会で優勝すると言う刺激で集まるのもいいが、そういうでかいことを言って目立つ集団と言うのは中身がない。そういう集団に限って世の中ではたいしたことがないような人間がそれしかできないからとまけおしみで集まって武勇伝や自慢話をしあう、恰好や髪型で目立とうとするのはまさにそうだが、責任者の教養のレベルがひくいとそういう人間たちが集まる。私はそういう奴らを灰色の人間と呼んでいるが、基準も道徳も非常に曖昧で体育会のルールが世の中の常識みたいに思っている人間たちである。うちのクラブにはあいさつしろとかそういう小学生のようなルールは存在しない。それはみなさんがきちんとしたコモンセンスを持っているからで、髪をど派手に染めて改造車にのっている奴はダメだと言ってみんながみんなそうじゃないなんて言わない、当たり前の感覚を持った自立した人たちが多く集まるのがうちのクラブである。群れると言うのは一つのイデオロギーに向かっていないからだ。それはサルの群れと同じで、言葉を言いかえればきちんとした哲学がその群れに存在するかどうかと言うことである。しかし俺は俺はと言いたいことを言わせてもらえるから言うと言う哲学ではなく、きちんと学問的にも裏付けされた少々インテリが聞いても納得するようなものでなくては哲学とは言えない、そういう哲学的な考え方が群れに存在するとその群れは少々のことではずれることはない。そのためには責任者が教養をつむことが大事だ。

 

 


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Beat him up!

2016-06-19 | Weblog

k1の選手でタケルだったかおもしろい選手がいる。インタビューを聞いていてもボクサーは勉強できない素直な子と言う感じでまったく興味がないが、彼は個性があって人を引き付ける何かがある。格闘技嫌いの私も彼の試合だったら見てもいい。その彼だが何かえげつない挑発をうけているらしくこの前インタビューで怒りをおさえて「相手をつぶしてやる」言っていた。私も結構個性が強かったから挑発行為のようなものを受けたことがあるが本当にはらただしかった。特に人種が違ったらそれゆえに不快感がある。私が嫌いだった人間はスペイン語を話す人間で、時々そいつの仲間とスペイン語で何か言っていた。それは明らかに私に対して何かを言っているのだが、私はスペイン語を話さない。むかつくのでA○s holeかF○ck youぐらい言ってやろうと思ったが、しかしそんなこと言ったらえらいことになる、そこはこらえて何も言わなかったがその時「こいつだけは絶対にぶちのめしてやる」と思ったことは間違いない。そしてついに対戦の時が、セコンドのアレンが私に「お前あいつ嫌いだろ」と私が「当たり前だ」と言うと彼は私の肩をポンとたたいてbeat him up!とbeat himは相手を試合などで打ち負かすと言う意味であるがbeat him upはボコボコにしろと言う意味だ。もちろんその時闘志満々であった私はそうするつもりであったが、しかしそれは相手も同じ、試合は序盤からすごい打ち合いになって、何回か意識が遠のいたことをおぼえているが、それはえげつない打ち合いと言うかいがみ合いだったと思う。そして試合は判定まで持ち越されたがその時お互いの顔がかなりはれていて、それは試合が終わってジョージとアレンと一緒にとった記念撮影を見たらわかるのだが、本当にアホだったと思う。

ロッキー4だったか、ロッキーが敵地当時のソビエトに言って試合をする。そしてその試合は敵地しかも共産主義国であったので人々は敵意むき出しで彼らを迎え、そしてそこには様々な妨害が、しかしそのことにもめげずに正々堂々と力いっぱい戦うロッキーに敵対心を持っていたまわりの群衆もやがて彼をみとめるようになり、そしてファイナルラウンドには敵地でロッキーコールが起り、その試合で勝利したロッキーの言葉「I can chane you can change everybudy can change」と言う言葉が非常に印象的である。

ボクシングって何が不思議かと言うとそのなぐりあった人間を尊敬できると言うことである。確かに最初はこいつだけはぶちのめしてやると思っていた相手でも尊敬できるから不思議で、それはなぐりあえばなぐりあうほど「ああこいつも一生懸命トレーニングしたのだ」と言う実感と言うかそういうものが伝った時にお互いを尊敬できるそれがボクシングと言うスポーツだと思う。でその試合お互いがリングからおりてきて日本人のようにありがとございましたなんてあいさつには行かなかったが、すれ違った時にニコッとお互いが笑ったのだが、私にしてみればあれが精いっぱいの敬意であって、相手もそうだったと思う。試合はアレンがいつもビデオにしてとってくれていたのだが、おわってリングからおりてくる私の顔は非常にいい顔をしている。韓国人の女の子も試合の後は非常にいい顔だと言っていたが、本当にその時は充実していたのだと思う。

私は正直会わない嫌いだと思う人種はいる。でもボクシングはそういう相手でも尊重できるスポーツだ。あのカ○ー野郎二度と起き上がってこれないぐらいボコボコにしてやると何度思ったことか、でもボクシングは不思議と相手を尊敬できる気持ちがわいてくる不思議なスポーツであると私は思う。

 

 

 


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mais c'est un roseau pensant.

2016-06-17 | Weblog

個性と言う言葉が乱用されている。特に私が嫌いなのは個性とか言って子供にへんな格好をさせたり髪を染めさせる親だ。私のイメージするところでは髪をど派手に染めて改造車や改造車まがいの車に乗っている。そういう人間が仲間でかたまって飲食店などで我が物顔で騒いでいる、所謂DQNである。事実そういう集団をときどき見かけるがこういう奴らは本当に不快だ、子供に同じような格好をさせるとほぼ高確率で親と同じような人間になる。私はこういう奴らの言う個性は個性ではなく害だと思っているが、こういう奴らに限って髪を染めさせることを個性だと言って憚らないのだが、個性だとか言うのならばまずパスカルのパンセを日本語でいいから読んでみろ、そしてそれを読んで理解してからこういう言葉を使えと思う。

個性と言うのは英語ではuniqueだ。これはあなた特有のと言うことではっきり言ってそれはDQNが自分の都合で個性だと言うようなものとはかなり質が違うと思う。それに対してindividualと言う言葉があるがこれは個人とか固有のと言う意味であるが、DQNの言う個性と言うのはindividualぐらいのものだと思う。髪の色を染めたりかわった格好をするというようなたかだか色が違うぐらいのことは識別であって個性ではない。individual animalでかわった動物と言う意味だが、DQNの言う個性と言うのはこの程度のものだ、個性だか何だか知らないが教師の立場に立ってみろ、決められたルールの中で髪をど派手に染めたような一人だけ目立ったような子供が堂々と授業を受けていたら多少の弊害はあるだろう。何が言いたいかと言うと授業を受ける権利もあるが、授業を行う側にも権利があると言うことである。しかし残念ながらDQNはそういう底辺の立場からは物事を考えることができても、授業を行うと言う側の立場に立って物事を考えることができない。彼ら彼女らの言い分は自分たちのいわゆる底辺からの立場の考えを一方的に時には威嚇して言うだけで、所謂教育とか教師の側からの立場など理解できないのであるから、まともに話し合いなどできるはずはない。パンセを読めと言うのは言いたいことを言うのであるならばせめて教養を身に着けてから話せと言うことだ。パンセと言うのは人間は思考を持っているからすばらしい生き物だと説くがまさに知性とは人間が与えられた特有のものである。PTAとかでも俺は教育のことはわからないけどと言ってべらべらと無知な持論を語るような奴がいるが、私が司会ならわからなければ話さないほうがいいと言うだろうし、わからなければ質問と言うかたちでものを言うほうが公平である。

うちのクラブが安心できるのはだいたい皆さん常識的な見解を持っているところである。髪をど派手に染めて改造車にのっている奴はまともな奴じゃないと言うと、みんながみんなそうじゃないというような稚拙なことは言わない、みなさんだいたい共通した常識を持っている。責任者もある程度教養がないと運営するのにむずかしいクラブだ。だからこそ女性や社会人が安心してトレーニングできるクラブである。

 

 


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ten commandmentsに書いてある。

2016-06-16 | Weblog

Oh my godをイデオムみたいに思っている人がいるがあかん。これは使ってはいけない言葉でキリスト教を問わずイスラム教においてもこの言葉は神への冒涜となる。だからむやみやたらに使ってはいけない。聖書に10 commandmentsと言う戒めがある。聖書はユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する書物であるが、この10 commandmentsの一つに主の名をみだりに唱えるなと言う戒めがある。主と言うのは神のことでその神の名前を気安くもちいるなという掟である。Oh my godとかOh jesuseと言うのはまさにこの戒めをあえてやぶる行為にスラングの意味があるので、特にそういう宗教を持っている人たちの前では使ってはいけない言葉であると理解したほうがいい。私はよく何か驚くことやわずらわしいことがおこったりしたら、Oh my geeとかOh my gosh(子供が使う)と言うが、それはそういう宗教を持った人たちへの配慮だ。

 

「commandments」の画像検索結果

英語を話すと言うことは今の時代には大事なことであるが、さらに宗教や哲学を知ると言うことも同じように大事なことだ。私が宗教や哲学の勉強をしたのは人が何を考えているか知りたいからで、宗教や哲学を学ぶと心理学の本もかなり理解しやすくなることは確かなことで、宗教や哲学を学ぶことは人間とは何かそして集団とは何かということを知ることである。特に集団をひきいるスポーツクラブのリーダはこの二つのことを学ぶ必要はあると思う。人間の集団はサルの集団ではないからその群れのリーダーや指導者が何を考えているかどういうものさしを持って動いているかと言うことは非常に重要でその資質によってまわりに集まる人たちの質も違ってくることは確かである。武勇伝やクズな苦労話を自慢し合うような集団は本当に程度がひくい、ことある度にありきたりの苦労話やサクセスストーリーを語ったり、ワルをやったら人の気持ちがわかるなどというたわけたことを言うのは愚か者だ、しかしきちんと学問を学んでこなかった人間のものさしなんて所詮こんなもんだ、きちんと勉強して頭の中を広げなくては視界がせまくなる。まともに何かを学ぼうとしない人間が率いる集団は非常にでたらめである。

うちのクラブは40代が多く、そのほとんどが元ボクサーとかそう言ったたぐいではなく、社会的にも影響力のある人たちである。普通はこういう激しいスポーツなどさける年代であるが、うちのクラブは女性と中年がやたら多く、それぞれが本当に楽しそうにトレーニングしているそういうクラブである。そういう人たちが集まりやすいのははっきりした理念があるからだ。画像をやたらのせたり動画を使ったりして客寄せのようなことは決してやらない、なぜならそういう刺激で来る人よりもきちんと文章を読んで理解してくれる人たちのほうが安心できるからで、そういう人たちが集まることでクラブの雰囲気はよくなると考えている。社会的にもたいしたことがない、他に何もできないからとまけおしみで生きているような奴らが集まって、目立だつために小競り合いをしたり、これ見よがしに自慢話をしたりするような集団にまともな社会人は違和感を感じるだろう。そういう集団ではへんなヘアスタイルや奇抜なファッションが個性になるのだろうが、しかしここではただの目立ちたがり屋、1回勝ったら優勝とか言うマイナースポーツの実機とかではなくもっと違うところに基準をおいて集団を見るのがうちのクラブであって、所謂ここは学校の運動クラブではない社会人が安心して集える場である。

 


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fight with your back to the wall

2016-06-12 | Weblog

、韓国語と日本語は助詞がある。けれどもその助詞の使い方は多少異なるのだが、興味深いのは「は」と「が」の使い方である。日本語では「が」は多少物事を強調するときに使うが韓国語は逆である。例えば名前は何ですか이름이 뭐에요(イルミモォエヨ)이름 뭐예요は韓国語で言うところの「が」にあたるのだが、韓国語では何々は何ですかとかどこですかと聞く時日本語で言うところの「は」は使わずに「が」が使われるのだが、それでもあえて「は」を使う時は取り立てて強調する時である。したがって韓国語で名前を聞く時に日本語と同じような感覚で「は」を使うと君の名前は何なんだと言うニュアンスがあるので注意して使う必要があると言うことである。

我々の世代の男性は男は涙を見せるものではない、悔しい時も悲しい時も黙ってこらえろと教えられてきたと思う。この言葉はすべてただしと思わないが、しかし最近の子はそういう感情をあらわにしすぎるように思えるのは私だけだろうか?

昔強い競技者がいた。当時は私も含めて4人ぐらい頭一つぐらい出て強いのがいたのだが、しかし彼はその私たちよりも数段格が上の選手でうわさでは彼はプロに転向するらしく、たぶんその年のマッチが彼のアマチュアでの最後のシーズンであったようである。そのある試合での話、彼は勝った試合にも関わらず自分の試合に納得できなかったのか悔しそうに控室でたたずんでいた。その時あまりに悔しかったのか彼の眼からはうっすらと涙がにじんでいて彼はそれをこらえるようにしていたのだ。私はその時彼を見てこいつは本当に強くなるなあと思った。事実彼はその後めきめきと頭角を現し遂にはWBCの1位まで言ったそうであるが、こんなこと言ったらフェミニズムにおこられるかもしれないが、男が一度悔し涙を流したら本気の涙でなければならない。本気でプライドをかけて次は絶対やってやると言う気持ちがなければ本当に安っぽい涙だ。

悔し涙だけではない、俺は絶対勝つとかでかいことを言うわりにはたいした努力もしないし、まけてもケロッとしてまた同じようなことを言う、ドラクエでもやっている感覚なのだろうか、特にたいした努力もしていないのに泣いたりしているのを見ると가(帰れ)とさえ言いたくなるが、最近個性とか言って言いたいことが好き勝手に言える時代はそういう人間が増えてきたようにさえ思える。それでも受験とかある程度やるべきことをやってきた人間はわかっているのかそういうみっともないことを言わない、だいたいこういう大風呂敷を広げるのは、勉強嫌い何もまともなことを頑張ってこなかった3流の人間が多いと言うのが私の個人的な意見である。私自身もたいしたことではないが実際に優勝すると言ったら優勝したし、次はあいつをたたきのめしてやると言ったらたたきのめしたのだが、それは背水の陣で挑んだからだと思う。何を言いたいかと言うとそういう大きいことを言うのであるならば、ある程度覚悟して言わなくてはならないと言うことで、背水の陣で挑めと言うこと、競技に身をおいている者は軽々しく俺は勝ちますと言ったり、悔し涙を流すなと言うことである。




 


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너 정형했어요! お前整形した!

2016-06-06 | Weblog
인연と言う言葉がある。漢字で書くと因縁であるが、この年齢になると인연を感じることが多い。
인연は韓国語では再会と言う意味合いが強いと思うのだが、今年になってもう2度も懐かしい人たちとの再会をはたした。中には私を探している人間もいてこの前その人物と友達からの連絡で再会を果たした。彼女は私よりもだいぶ年下である。時間は夜11時SKYPEを通しての再会ではあったが、画面の中のその人はあまりにも美人だったので思わず「Oh my gosh!お前へ○ヨンか」と、さらに美人だったと言うイメージがなかったので 「お前整形したんちゃうんか」と言いそうになってしまった。
話は最初はお互いの現在のことを話していたのだが、おもしろがって私の昔の話をするのでそんな話をするんだったら切るぞと言ったらわかったと、彼女は私のジムに来たいと言っていたが、日本語が堪能だ、こいつもジムに来て余計なことをベラベラしゃべられたら私のイメージがわるくなるので絶対につれてこないだろう。
 
うちのクラブは人でにぎわっている。あまりにも多いので体験入門は余裕がなく承ってはいないのだが、それゆえにあれこの人誰だったっけと言う人もいる。うちのクラブは女性が半数以上在籍している。おそらく一般のこういうスポーツクラブでは女性専用のクラブ以外でまずうちよりも比率が高いところはないと思っている。
私はマイノリティである。ボクシングでも日本人は応援しない。どちらかと言うと発展途上国の人間を応援してしまうのだが、勉強もしない、競技のことや女や車とかにしか興味が持てないボクサーはまけてしまえとさえ思う。マイノリティであるがゆえに格闘技ではマイノリティにあたる女性はなるべく大事にしようと言う気持ちがある。
 
フェミニズムの講演の中にこういう話があった。二人の女性ひとりは白人女性そしてもう一人は黒人女性。フェミニズムを主張する白人女性に黒人の女性がこう言った。「あなたは朝起きたら鏡に何が見える?」白人女性は言った「女性が見える」しかし黒人女性は言った「そこが問題である。なぜなら私が朝起きて鏡を見たら黒人が見える。人種とは私の目には見えるけれどもあなたの目には見えないものなの、それが特権というものよ」そして講演者は続けるもしあなた方が一瞬でも人種のことを考えることがなかったらそれは贅沢なことだ特権を持っている人にはそれが見えない。話はクラブの話になるが格闘技のクラブと言うのはどちらかと言うと男性社会で日本人で男性であると言うことはジムにおいては特権を持っている。まあ特権と言っても実社会とはまったく別の話であるが、しかし男性で日本人そして競技者であると言うことはすでにクラブにおいて特権を持っていると言っても過言ではないと思う。何が言いたいのかと言うとダイエットでも健康維持でも気軽に入ってこれると言うのであればもう少し勉強しろと言うことだ。おそらくクラブはジェンダーだけではなく年齢や能力の問題など様々なディスアドバンテージが(私は思っていないが)存在する。年配の女性が迷惑にならないようにトレーニングすると言う声を聞いてどう思うか?そんなことはない自由にやってくれと言うのは無神経な言葉のようにさえ聞こえるが、我々教える側はこの特権を外して相手のことを考えなくては本当の問題が見えてこない、このいろいろな立場の人たちが集まる群れを正しく公平に導いていくためには様々な問題や思いが見えていないと偏ったアウトロー中心の集団になると言うことだ。こんな小さい世界はたかだか知れているが、しかしクラブに属する人たちにとってはここに来たときはその世界の住人になる。私自身も一応日本人、競技者であった、そして男性であるので格闘技の世界ではこの特権を持っていると言ってもいいだろう。まあ男性であること以外は一応と言うカッコつきではあるが、それでもクラブでは特権を持った一人の人間である。ボーボワールと言う女性は女は女として生まれるのではなく女性になっていくのだと言うするどい言葉をのこしている。これは男性社会で女性が抑圧されているということを意味しているのだが、女性の立場さらによわいものに対して目を向けることはその集団がいかに社会的集団であるかと言うことを意味している。自分たちは楽しくやってます。と言う時その楽しくやっている自分たちとは誰のことか?よく考える必要はある。ここでは怒号をひびかせたり、裸でトレーニングをするのは禁止していると言うかそういうことをする雰囲気はない。それははっきりとは言えないがそれはジェンダー的なこともあって女性を軽んじてはいないから、そういうことが自然に起こってくるのだと思う。うちには体育会のようなルールや上下関係など存在しないが、しかしジェンダーや国籍や年齢を越えて平等にトレーニングできる社会的集団でありたいと願っている。
 
 
 
 
 
 
 
 

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