うちのジムは格闘技でもユニークなジムだ。女性が半数以上いるし、女性のほうが実績がある。会員も進学校出身者で優等生っぽいのは多いが、けんかはからっきしだめというのがほとんでで、この前も試合に行った時のこわい輩についてのへたれ話で盛り上がっていた。だいぶ前もうちの小学生が同級生をおこらせ、ぼこられるという事件があったし、ここにきたら本当に強くなるのかとさえ疑問さえ抱かせる場所である。しかしここにもそれなりのメリットはある。それはそれだけへたれが多いぶん、めちゃめちゃ強い選手やこわいヤンキーに気をつかわなくてもいい。へたれでも堂々と自由に練習できるのである。プロのジムで会員がプロに気を遣い、サンドバックをたたく時もプロや強い奴が優先とか、そりゃ競争の原理が働けば当たり前のこと、しかしここには小競り合いはあっても、競争の原理などないに等しい、だからへたでもへたれでも堂々と練習ができるのだ。私は試合に行く人たちには勝ってこいと言うようなことは言わない、特におっさんにはもう年だから勝敗など気にせずに試合に出ることを楽しんで来いと言うのだが、それは若い人たちも同じこと、勝敗よりもボクシングを競技することをひとつの楽しみそしてそれを生きる活力として思い出にしてほしいと思っている。うちのジムは究極の強さを求めるには物足りないジムかもしれない、けれどもここに来てトレーニングする人たちの顔はすごく楽しそうで、本当にそこは助け合い支えあうコミュニティで、そういう面では私はどこよりもすぐれたボクシングクラブであると思っている。
日本人が個性を強調して言う「そのままの君でいい」と言うような言葉、これを英語に訳せるだろうか。少し前から個性を大事にしろということで「たった一つの花」とか、一見こういう西洋的で個性を大切にするかのような言葉が使われだしたが、しかしこの「そのままの君でいいとか」「何々は何々のままでいい」という言葉は英語にはない特別な言葉だと思っている。確かにBilly joelの歌にあるようにJust the way you areとか最近ニューヨーカーなんかがつかうKeep it trueというような、それらしい言葉があるのだが、しかしそれらの言葉は日本語とは明らかにバックボーンが違うと思う。だいぶ前の話であるが、このことをある外国人に聞いたことがある。彼はかなり日本語が流暢で、日本の文化に慣れ親しみ、もうすっかり日本人になじんでいるのでこういった言葉をよく理解しているのだが、その彼に「そのままの君でいい」と言うような言葉を英語で訳すとどうなんだと聞いたら、それをあえて言えば「God loves you」らしい。彼曰く、そのままの君でいいと言えるのは、逆説的であるが自分を愛して受けとめてくれる、西洋だったら神とか、あるいは両親の存在があるから、そう言えるわけであって、日本人の言うように単に自分らしさと言うのを主張して、奇抜な格好をしたり、人に迷惑をかける個性とは違うらしく、日本人は特に若い人は、この個性という言葉を勘違いして受け取っているらしい。
彼曰くもし自分が誰かに受け入れられて、愛されているのなら自分を大切にするだろうという。そのままの君でいいというのは、自分らしく生きることであるが、しかしその自分らしく生きると言うことも、自分が誰かに受け入れられているからこそできるのであって、個性とは、まずその自分を受け入れてくれる相手を認めることから始まり、自分がやりたいように生きる半ば本能的な生き方とは違うのだというのだ。われわれは誰かに認められ、受け入れられているからこそ、自分を大事にでき、他人のことも考え、認めることができるのだ。私は彼のこの言葉はすごく価値のある言葉だと思っているが、個性と言うものが恣意的なものにならないためにもまず自分が誰かによって受け入れられ生かされていると言うことを知る必要があると思う。
アスリートだった頃、チームがリングに上がるとき胸に手をおいて言った言葉がある。
ラテン語の「Alea jacta est(賽は投げられた)」である。この言葉はユリウスシーザーがルビコン川を渡るときに、戦士の志気を高めるために言った言葉である。ルビコン川はガリアとローマの境界線で、当時この川をこえてローマに入る時は武装を解除して入らなくてはならないという法律が元老院によって定めらていた。カエサルはガリアとの戦いに勝利しローマへと、そして当然ローマへ帰るにはそのルビコン川を渡らなくてはいけないのだが、しかしその武装解除はカエサルをたたきのめす口実であって、そのことを知ったカエサルは、あえてその掟をやぶってまでも武装解除をせず、そのままローマに突入、ポンペイウスとの内乱へ、そのローマに突入する時に、ルビコン川で戦士に語った言葉、それが「賽は投げられた」である。
トーナメントの時であった。この試合はアメリカ国民でない私にとって非常に大きな試合で、まさに州のチャンピオンを決める大きな大会である。そのトーナメントの前にコーチがこのことについて書かれた紙が配られ、レクチャーしたのだが、それは確かこのような内容だった。
「われわれは、今大きな戦いに直面している。この勝ち抜かなくてはならないトーナメントは、技術とと体力、そしてさらに精神力が必要だ。しかし諸君、カエサルの言葉を思い出して欲しい。彼はルビコン川を渡る時「ここを超えれば人間世界の悲惨。超えなければわが破滅。さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた。」と言ったが「賽は投げられた」と言うのは喜劇からの引用だ。ガリアで戦った後に、またさらに厳しい戦いを強いられようとしているのに、この言葉に悲壮感など感じられるだろうか、むしろこの言葉からは生き生きと勝利の実感が伝わってくるではないか。恰も彼らはその戦いの先に、自分たちの理想の世界があるかのようである。トーナメントを勝ち抜く秘訣は、信じること、そして信じ続けることである。彼らがその厳しい戦いが、やがて大きな利益をもたらすことを信じたように、この試合の後にわれわれに何が起こるのかと言うことを信じて、戦い抜こうではないか。」
この言葉が紙にもつづられていたのだが、間違いなくこの言葉でみんなの志気が高まったことは確かである。試合前の指導者の言葉は時には人の心を動かし、魂を高ぶらせる。
私は常日頃から言葉を研鑽しろと言う意見を言っているが、そういうことを言うのはこういった体験があるからで、この彼の言葉によってわれわれは助けられたことが多かったからである。
私自身も試合前に、どれだけ励まし勇気づける言葉をかけてあげられたらいいかと思うことがある。しかしその言葉というのは、その言葉を通して何か成長のきっかけを促すものでなければならないし、単にマンガのきりぬきのような言葉をかけるだけでは、無味乾燥なものになってしまうだろう。志気を高めるというのは、単に「あおる」ことではない、トレーナーで「試合は殺し合いだ」とか「相手は殺しに来るから殺すつもりでやれ」というのがいたが、そういう言葉はまさにあおっているだけの言葉であって、動物を戦わせるわけではないのだから、本当に知性のひくさをうかがわせる。私がボクシングクラブをやりだして、思ったことは言葉は人間の志気を高め、それをその人の成長へと結びつけることである。試合というのは大きい選択である。そしてそこから得れるものは大きく、何が得れるかと言うことは、われわれの言葉が大きなきっかけとなるだろう。指導者のかける言葉と言うのは非常に難しい、教養、品格、思いやりと言うものが必要であり、私自身も、その言葉を力にかえていくには、まだまだもっといろんなことを学び研鑽しなくてはならないだろう。
弱い者の立場に立ちと言うのが私のモットーでありジムの方針であるが、しかし偉そうに言ってもきちんと自分はそれができていなかったことを反省し懺悔する。たぶんそれができないひとつの理由は自分のおごりや傲慢さであろう。昔、こんなことを言ったらまわりがひくのではないかと言う傍若無人な態度ゆえにまわりに迷惑をかけたこと、自己主張が強くて偉そうなので外国ではどえらい目に何度もあいかけた、何十年前の過去の非礼を先日詫びたが、本当に私は自己中心で俺様的なとんでもない奴だったと思う。人間は弱い弱い、ゆえに間違いをおかすこともある。そういう人間の弱さも受け入れることも大事なことで、それができないと関係がぎすぎすしてそのコミュニティが心から安心してそこでトレーニングできなくなるであろう。うちのクラブのコミュニティの人たちは弱さをもったと言うよりむしろそれを自覚してる。時には何をうじうじしてるんだとさえ思うこともあるが、そういう人たちが集まっているからこそ、私のような人間が暴走しないできないのだ。クラブで一番迷惑がかかるのは私の傲慢な態度があらわれ暴走することだ、トレーナーや常連さんたちに気をつかわせるし、一般社会の強者的存在だけのクラブになる。完璧な人間なんていない人間だから間違いもおかすし、失敗もする。人間は相互関係の中で生きている。コミュニティをさらにもっとよくしたければ、私自身が人間の弱さを受け入れ、自分こそが本当に弱い人間だと言うことを認め受け入れなくてはいけないと思う。そして私自らがそういう立場に立てることでこのコミュニティがさらによくなり、本当の意味で助け合いの精神が生まれるのでろうと思う。
私はいろいろな民族を見ているが、日本人はおとなしい民族である。争いごとを好まず、言いたいことを言わない、すぐに固まると言う島国独特の考え方や気質を持っているが、平和的でいわゆる大陸や半島の人間とはかなり違うと思う。
これは私のはずかしい話だ。笑い話として聞いてほしいが小学校の時上級生とけんかになった。
けんかといっても鉄棒の取り合いであるが、最初は私が遊んでいたのだが、いじのわるい上級生がのけといって、後ろからはがいじめにしてどけようとしたので、後ろに跳ぶように頭突きをした。思い切り伸び上げたのでかなりいたかったろうと思う。彼はその場にうずくまって、その時は戦意喪失して教室に帰って行ったのだが、私はその時上級生をやっつけたので得意げになっていた。しかし次の日、私は階段の踊り場で襲撃されてどえらい目にあわされた。笑い話だが頭突きを警戒して、はなれてけり技でひどい目にあわされた。小学生の子供がこういう戦略を練っていること自体笑えるが、そしてうずくまった時にネリョチャギ(かかとおとし)のようなものをくらわされた。その時くやしくてやりかえしてやろうと心に誓ったが、しかし女の子にチクられて、お前ら何をやっているんだと、お互い先生にもっとひどい目にあわされた。島国の人間と半島の人間は似て非なるのものだ。両方を見ているが、私はどちらかと言うと半島の血をひく部分が強い。日本人は言いたいことをいわない。感情をあらわにしない、これはかなり異質である。私は今ではコントロールして日本人以上におとなしくなったが、それでも昔は自分の性格やまわりと比較して、あまりにも違うので、俺は病気じゃねえのかと思えたぐらい特別で、島国の人間と言うのは独特の文化や性質を持っている素晴らしい民族だと思う。
ヘギョンが日本に滞在した時、日本語堪能な彼女は日本でカラオケに行った時に「ドリンクの持ち込みOK」と言う内容の張り紙に少し違和感を覚えたらしい。たぶん韓国や中国ではやっていいことよりもむしろやってはいけないことを書くのが普通だ、でもしかし日本ではやっていいことをあえて書くことに驚き、違和感をおぼえたのだと思う。日本人はすごく道徳的で礼儀正しく、自分たちの暗黙のルールをもって責任を持っている世界でもたぐいまれな優秀な民族だと私は思う。だから店に迷惑がかかったり、不利益になると言うことはやってはいけないことだというルールが暗黙のうちにあって、それらのことは共通としてすでに持っているのであえて書く必要がない。「やっていいですよ」と言う表現は、それらは一般的には迷惑だとみなさん理解しているが、しかしうちでは大丈夫ですよと言う許可である。最近中国人としておくが、その中国人の店でのマナーのわるさが目立ち問題になっている。でもしかしもし中国やその他の国がその店を利用するとなったならば、はっきりと「これはしてはいけませんよ」と言うことを張り紙にして警告しておく必要があると思う。国によっては日本人のように共通の道徳観をもたない民族もいる。中にはやってはいけないと書かれていないことはやっていいと解釈する人もいるだろう(このことはヘギョンもそう受け取ると言っていた)。日本人はすごく道徳的、他の国の人間も日本人は礼儀正しいと言っているが、これはそこまで礼儀正しく道徳的であるのは日本ぐらいだということである。
うちのクラブはコミュニタリアンのクラブだ。人と人との結びつきを大事に、そのかかわりの中で共通の正しさを模索してクラブにとって何が正しいことなのか、そして何が平等なのかということを考えて、信頼されここに来たら安心してもらえるコミュニティを目指している。よく集まる人間の質が大事だと言うのは共通善がどのレベルかということだ。私は時々うちのクラブにペットボトルを捨てるところはないのは、みなさんがそれを捨てずに持って帰ってすててくれることでジムや他者に対する気づかい、小さな親切がそこにでてくる。そういう小さな親切や思いやりが健全にクラブを運営してうえでは大事なことだと言っているが、そういうことができるのは会員のみなさんの道徳のレベルが高いからで、そういう人たちが集まっているからだと思う。クラブでも何々しろとか何々するなというような決まりみたいなこと、そしてそういうことしか言えないクラブは質がわるく、それはそういうたぐいの人間しかあつまらない、コミュニティの質をわるくするものだ。はじめにも言ったが日本人や在日韓国朝鮮人はもともと道徳意識が高くて、そのよさや正しさを引き出すことでそのコミュニティは健全で正しく素晴らしいものになると思っている。そしてそのよさや正しさを引き出すのは教育的な何かだと思っている。
2020年のオリンピックでボクシングが正式競技種目からはずされようとしている。理由はAIBA の会長が麻薬の取引にふかくかかわっていると言うこと、そしてボクシング競技が過去に数々の不祥事をおこしてきたこと、特にアメリカの外務省だったか麻薬がらみの人間が会長に就任するとは何ごとかと猛反対しているようだ。その危機に関して連盟では署名を募っているのだが、その署名の文章が公に出すには不適切だ。それは私だけではなく、その文章を見たまわりの人がこの文章は法人が書面として出すにはいささか不適切であると言っていた。まず文章の日本語があいまいで公に出す文章としてはいささか稚拙だと思う。おまけに文章からは自分たちがなぜこれを存続させてほしいのかつたわってこない、ボクシングなのにパンチがきいていないのだ。もちろん我々も署名に協力しているが、私がなぜこういうことを書くかというのは、その文章が公的に出すのに不適切なことはもちろんのこと、その文章の一面に競技者たちの気持ちが入っていないことに大変残念な気持ちがあるからだ。オリンピックにボクシングが正式競技として認められるかどうかボクシングは存続の危機にひんしている。もし正式競技として認められなかったら今まで一生懸命トレーニングしてきた人間たちの夢がそこでいったん壊されてしまう、そういうことにならないためにもその競技者たちの気持ちをくんで言葉にして表現してまわりのひとたちにわかってもらうことが大事なのではないかと思う。競技やファーストとか言っているが私にしてみたらそうは感じない。社会人の全日本が12月のしかも5日間開催されたり、日程が大きな大会の都合でいきなり変更したりと、要領がわるいのか組織力がとぼしいのかはわからないが、私自身はこういうところに不信感を持っている。
私自身も競技者であった。だから一生懸命やっている競技者にとって目標をたたれることはどれだけつらいかということはわかっているし、純粋に一生懸命競技している競技者を応援しているのも確かなことだ。だからこそそういう気持ちを大事にして伝えていかなくてはいけないと思う。言葉と言うのは力だ、署名を書く人書く人の賛同を得るためにはしっかりとそこで自分たちの気持ちや意志を表明し力強くアピールしなければならない。所謂パンチの聞いた言葉で自分たちの気持ちを伝えることが大事だ。英語のことわざに「The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりも強い)」と言うことわざがあるが、言葉や文章は人に何かを伝えるための手段であり大きな力だ。前に言葉のみだれは組織のみだれだと言ったが、本当にその組織やコミュニティをよくし、理解してもらいたかったらその言葉の重さや力をよく理解して言葉を大事にあつかうことが重要なことだと思う。
だいぶ昔ある先生からメールをいただいた。この方は時々自分にメールをくれる方で、自分のブログは時々読んでくれているそうである。この先生が言っていた、与えることは大切なことだと、しかし残念ながら、最近の子供は与えられてばかりされてきたので、与えることはできない、モンスターペアレンッやモンスターチルドレン現象に見られるように、与える、与えられるを通り越して、むしろ奪われてしまうのが現実であるそうだ。
確かに昔はもう少し助け合いと言うものがあったように思う。
今の80代ぐらいの人たちと接することが、あったがこの世代の人たちには、思いやりと言うものを感じることが多々あった。おそらく戦後、まずしい中でそれぞれが支えあって生きてきたからであろうか。この世代の人たちは、少々自分が困っても、人に与えるということを知っていると思う。しかし戦後日本は裕福になり、そこからどんどんと変わりだした。ある評論家はこの戦後の豊かさが、モラルの低下につながったと言うが、豊かさを享受できた日本人が、それぞれが助け合うことなく生きていける時代の中で、逆に見失ったものは多いかもしれない。文や表現から若い女性の先生と察するが、おそらくこの先生は、教育という現場において、行き詰まりを感じておられるのだろうと思う。その言葉をここで書くことはできないが、文の内容からかなり教育に真剣に取り組んでおられる様子がわかる。
Eフロムは「愛」についてこう言っている。「愛とは炎のようなものである。それは誰かに分け与えないと、消えてしまいかたくつめたい石のようになるだろう」と。Eフロム曰く愛とは、愛されることではなく、愛することであるということだ。この言葉は「愛は惜しみなく与える」と聖書の中にもでてくるが、この言葉はたいへん有名な言葉で、確かマザーテレサなんかも引用している言葉である。
かなり前の話だが、私は一人の子供の面倒をみることになった。それは学校の先生の紹介で、何でもその子供は授業中にあばれてこまるそうで、たまりかねたある先生が、私のところに来て、この子をなんとかさせたいので、協力してほしいという。この時正直言ってめんどくさかったが、彼のかわいそうなおいたちを聞いて引き受けることにした。
案の丈、やっかいであった。すぐにすねるし、心に傷があるので、学校で暴れ、ときどきふさぎこむ、何べんどなりつけたかわからない、あまりにやっかいなので途中で関わりをきろうと思ったことがなんどかあるが、それでもここで関わりをきったらだめだと思い、かかわっていったのだが、しかしかかわってくるうちに、彼との間にひとつの信頼関係が生まれてきた。
おそらくそこまでにいたるには、彼が大人になったということが大きいことだが、自分も自分なりに、彼にぶつかっていったことが、そういう結果をもたらしたのだと思う。
そして二人の間に信頼関係もできて、彼が中学卒業して働く時に、私は彼を呼んでこう言った。なぜこうして呼び出して言ったかと言うと、彼がこれから大人になっていく上で、彼に根本的にかけているものがあると感じたからである。確かに彼は人のことを気遣うやさしさのようなものは持っている、しかしそれらは情であって愛情ではない。
それはかなり単刀直入にいったのであるが、確かこんなこと言ったと思う。
「君は愛すると言うことがわかるか?愛というものは非常に大事なことだ、しかしこれを知ることはむずかしい。でもたぶん君は大人になって好きな人ができて結婚するときがくるだろ。そして子供ができる、その時その子供に愛せ、与えろ、人は自分に愛されたという体験がなければ、人を愛することは難しいと言ったが、しかしその子を自分だと思ったら好きになり、愛することができるやろ、愛するというのは与えることだ、しかし与えるのはものではなく心だ、これ以上は言葉ではいえないが、とにかくその子供を自分と思って大事にしろ、大事にして愛したら、今度は君が子供に愛されるやろう、その時本当に大切なものがわかるやろう」と。
人間と言うのはおそらく、生まれた時から愛されることを、永遠に求める存在であろうと思う、しかし自分たちはEフロムが言うように愛されることだけではなく、愛することの大切さに気づかなくてはならない時がくる。それが大人になって子供の誕生が、ひとつのきっかけになるのではないかと思っている。この言葉を聞いて彼がどう思ったかはわからない。残念ながら私には、偉そうなことを言っているが、自分自身も未熟であるがゆえに、彼にこの与える愛を与えることができなかった。しかし将来、彼に子供ができた時、子供をいくらかでも愛せる力になり、彼がそういう中で信頼関係を築き、愛し愛されるものの関係を築くことを、心から願っている。
フランス語を1日10分勉強している。フランス語は発音そして文法にたくさんの規則があってひじょうにややこしく、数の数え方なんかはどうしてそういう数え方をするんだと理解できないのだが、英語のhaveにあたるavoirの使い方が広範囲、形容詞が名詞の後に来るなど、おそらくマスター出来たら、フランス人だけではなく、ヨーロッパ系の人間が書く英語の論文のくせをみぬいて理解するのに役に立つのではないかと思う。話は語学の話になるが、日本の50音は音をつくりだすには完璧な言語であると言っても過言ではない。だいぶ前に隊長とハングルはすべての音をつくることができると韓国人が言っていたと言う話から、それだったら日本語のほうが偉大だと適当に難しそうな横文字を並べて、やや正確に詰まった音をまぜながら日本語であらわして「すごい全部いけるやん」とふざけていたが、日本語はそもそもアルファベットのように一定の文字と文字がと重なると躍音して変化したり、音が消えたりしない母音と子音のコンビネーションでなりたっている。だから日本語の音は言葉をつくりやすく、おおまかにいって多少無理はあってもすべての音を言葉にできると思っている。
ただひとつ助詞の使い方で不思議に思うことがある。助詞は韓国語にもあるのだが、その助詞の使い方が日本語と少し違うのだ。例えば좋아해요チョアハダ(好きです)と言う言葉がある。日本語では何々が好きですと言う時、助詞は「が」を使うが、韓国語では何々が好きですと言う時、助詞に「を」使うのだが、ここがなぜ日本人は何々好きだと言う時「を」ではなく「が」を使うのかわからないのだ。でもそういっても逆に多くの日本人は「を」を使うことを不思議がる。えっなんで「を」なの?でもここでの大きな違いはその助詞の「が」のとらえかただ。一般的には何々がというと動詞の主語となる。だから犬が好きだと言うのは犬が主語だから、日本語のように暗黙のルールで私が犬が好きだということにはならないし、もし主語が私なら私が犬がと言う二つも並列してしかも目的語のない主語を並べることはおかしいことであろう。犬が好きと言うのは犬が目的語だ。だから犬が好きだと言う時(私が)犬を好きだとなるのが韓国語で、なぜ日本語では犬が好きになるのか不思議だ。
韓国人はキリスト教徒が多い、学生の時議論になったのでこう言った。「そもそも君らは時代錯誤で勉強不足だ、今何世紀かわかるか21世紀だ、それなのにtrinityでなければイエスと神の関係を証明できないとか、なんで神の子がvirginマリアから生まれなくてはならないのか?そもそも1500年代の宗教改革の人間なんてインターネットどころか電話もなかった時代だ、そういう時代の人間と我々を比べたら情報量が違うし、世界観も違う、我々は情報量がほとんどなく迷信を信じていた中世の人間たちとは違う。科学や心理学などが発達した時代に生きているのだ。一神教が難しいのは考え方がその時代にとどまっているところである。アーミッシュのように厳格に生きると言う意味ではいいことなのだろうが、しかしそういう生き方は時代錯誤であって、私から見たら積極的に生きているとは思いがたい。
私はよく人間は生きているのではなく生かされていると言うことを言うが、しかしそれは初めから客体を認識してそこにすがれということでもなく、神の存在を100パーセント否定しているわけでもない。人間が客体によってではなく主体的に生きることは大事なことだ、考え抜いてそこに導かれるのは正しい選択だろうが、しかし何も考えず付和雷同に宗教を信じるのは危険なことで、それは自爆テロなどが物語っている。人間には人間としての生き方が存在する。ハイデガーと言う人は人間の存在を時間もって解釈する。人間だけがここに存在していると言うことを認識しているから時間の感覚が持てる特別な存在だ。ハイデガーは世界をザインとザインデスと言う言葉にわけた。ザインというのは存在そのものでザインデスは存在者と言う意味、ウサギや犬は時間の感覚を持たないのはただそこに存在しているからだ、しかし人間が時間の無駄と感じるのはただ存在しているのではなく、その存在そのものを認識できる存在者だからだ。そう考えると人間だけが時間の感覚を持ちそれをどう生かすは人間次第であるということが言える。彼はその著書「sein und zeit((存在と時間)」の中で時間は我々の外側を無関係に流れているのではなく人間にはあるべき未来を目指す未来と自分がひきうけなくてはならない過去が存在すると言っている。ザインデスである人間だけが時間の感覚をもつことができるのは、それは時間はただ流れるものではなく自分にとって与えられたものだからだ。時間と言うのは平等に与えられる。それを巻き戻すことはできないし、かといって早回しする必要もないだろうが、しかし我々はその与えられた時間時間を大切に有効に使うことができる権利と特権があたえられているのだ。引き受けなくてはならない過去の時間を巻き戻して未来の時間を浪費するよりもこれから始まろうとする時間を大切に有効的に使うことで、人間はよりよく生きることができる。生かされると言うことはこれから自分に起こるであろうと言う未来を積極的に受け入れていくことだ。確かにハイデガーによれば人間は死に向かう存在であるが、しかしその与えられた時間を有効的に自分のために使うことができるのが人間で、そこに人間を人間たらしめるものがあるのだと思う。