脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

TINY HERO

2008-01-31 | Weblog
アメリカ人はヒーロー求める。
私はむこうへ行ってキャプテンに任命されたが、言葉や習慣にハンデのある人間に求められたのは、それはヒーローになることであった。
ヒーローと言っても漫画に出てくるバットマンやスパイダーマンのようなものではない、ここで言うヒーローとは、ある種の強さが要求されるということである。
日本ではしばしばリーダーに要求されることは調和である。
人の意見を聞き、それらをうまくまとめていく資質がリーダーに要求される。
しかしアメリカ人をまとめて行くには、人の話を聞いてまとめることではリーダーになることはできない、もともと言っていることがばらばらであるから、ある種のカリスマ性、強いということが相手をまとめる条件なのである。
しかし強いと言ってもそれは腕力による腕っ節の強さや権力というようなものではない。確かにMウエーバーが「力の原理」(力あるものが求心力をもつ)と唱えるような単なる力というものが存在するが、しかしここでいう強さというのは、心の強さ、意志の強さである。
確かに歴代の大統領や政治家をみると、リンカーンやケネディのように強い意志を持った人間が国を動かしてきた事実がある。
自分事で恐縮であるが、たぶん自分がリーダーに選ばれた理由は目的がはっきりしていたからだと思う。
政治家とは比べものにはならないが、コーチがいうには、自分は信じる力が強いらしい「たとえ全員負けても、自分は絶対勝てるんだ」という気持ちを持ち続けることができる。
そういうオーラをだしているそうで、そういう気持ちを周りが認め、士気が高まるからリーダーにしたような気がする。
ここまで書いてしまえば自画自賛のような気がするが、しかし私は決して自慢している気はないし、自分はすごいと思ったことなどない、本当である。
大切なのは心の持ち方、意志、自分を信じる力である。
たとえ自分のように習慣や言葉の壁、能力がなくても自分を信じ、戦えば周りはその人をヒーローとして認め、それについてきてくれるということそのことを伝えたいのだ。
ヒーローというのは目立つことではない。
私は若い人が考えるヒーローは目立ちたがり屋であるように思えて仕方がないが、そんな奴は宴会にいったらいくらでもいる。大切なのは意志の強さであり、自分を信じることそのことがヒーローに求められる条件であり、そういう人間をボクシングを通して育てたいと願う。

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いじめとイスラエルの法

2008-01-30 | Weblog
古代イスラエルの法に「汝隣人について偽証してはならない」という法がある。
これは古代のハンムラビ法典のような共同体におけるイスラエルの法律であるが、この言葉は裁判で「偽証するな」と言うことだけではなく、知っていることはすべて話さなくてはならないという義務と責任に基づいた、能動的なイスラエル独特の法でもある。
この時代は、今のように科学的な捜査や方法がないので、人間の証言というのが重要な証拠となり、その人を生かすも殺すもその証言次第であった。
だから証言というのは、大きな意味を持っていたことは確かなことであり、積極的に裁判に関わっていかなくては、もしその人が罪をおかしていなければ、その人を見殺しにしてしまうそれだけ証言すると言うことは重大な責任があったのである。
少し話は飛ぶが「いじめ」ということもこれと同じ事が言えるかも知れない。
よく「いじめをするな」ということばを口にはする。
しかしいじめを見て見ぬふりをすること、いじめを他人事に考えていると言うことはこれと同じ事が言えるのではないだろうか。
確かにいじめをしないということは、何も悪いことをしていないから人からとやかく言われることはない、しかしイスラエルの法の観点から見ればあきらかに間違いであり、おおげさに言えばその人の「いのち」「人格」を救うために能動的に関わらなくてはならない責任があるのだ。
個人的な意見であるが私はどうも「いじめるな」と言う言葉に、今の日本の現状を見てしまう。
確かにいじめなければそれですむのであるが、いじめはそんななまやさしい問題ではない、私の周りには教育関係者が多いが、いろいろ話を聞いてみれば「やらなくてはいい」という消極的なな考えでは解決にはつながらない、「いじめるな」と今の若者に言っても、ある意味それは「関わらなくてはいいや」という消極的な姿勢しか見えてこないような気がする。
いじめというのは教師や被害者そして加害者だけの問題ではない、それは学校、社会という共同体におけるひとりびとりの責任の問題であり、その共同体に於いてひとりびとりが責任を持ち関わって行かなくては解決は見えてこないのではないだろうか。
大切なのはいじめをするなではない、いじめをゆるすなである。
そしてこれらはひとりびとりの責任に基づいた義務である。
同じ痛みをもった人間としてその人を見殺しにしてはならない。



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得意パンチ

2008-01-29 | Weblog
ミット撃ちは私がボクシングを学んだ国と日本では違う。これは自分が練習したクラブとの比較であるが、日本ではミット打ちをする時、いろいろなコンビネーションをまんべんなくこなさせる。
しかし向こうのミット撃ちは、ほとんど自分の得意なパンチを撃たせるのである。
これはいかにもプラグマティズムの国である、アメリカらしい練習の仕方であるが自分の得意なパンチを持つと言うことは大事であり、私の経験上そのパンチをしっかり持っているものと持っていないものでは、実力の差がでてくるし、試合の駆け引きに於いても大きな差が出ることは確かである。
日本人の練習の仕方は、私からみればすべてがステレオタイプな練習である。
まんべんなくすべてをこなすのではあるが、しかし自分のこれといったパンチを作り出すには乏しい練習の仕方のように思えて仕方がない。
ちなみによく試合や練習で「自分のボクシングをしろ、そうしたら絶対勝てる」などというがこれは裏をかえせば、日本人は自分のボクシングができないということでもある。
もしこれを英語に訳してアメリカ人に言えば間違いなく笑われるし、お前何いってんのということになるだろう。
自分のボクシングをするというのは、やはり得意パンチが徹底しているからではないだろうか。
自分の得意なパンチが打てるからこそ、自分の戦い方が見えてくるし、それが自信につながる。
一歩間違えればそれはワンパターンにもなりかねない、しかしそれでも徹底して得意なパンチを練習し、自分のものにすることは大事なことである。


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汝自身を知れ

2008-01-26 | Weblog
勝負事に於いて相手を知ると言うことは大事なことである。
孫子もその著書「兵法」において「彼を知り、己を知ることは百戦危うからず」と述べている。
しかし、相手を知ると言うことは意外にも難しいことである。
少し前私はブログの中で「自分が相手だったらどう攻めるかと言うことを考えろ」と言ったが、それは相手を想定してシャドウボクシングをしろというのと同じぐらい抽象的で、難しいことである。
しかし孫子は「彼を知る」という後で「己を知る」と言い、そしてそうすれば百戦危うからずと語る。
我々は試合のことになると相手ばかり意識し、そしてあいてがどうかということばかり考えるが、意外にもこの孫子が言うように、相手に勝つということは己を知ることと深く関係しており、まずそのことを知らなければ相手が見えてこないのではないだろうか。
自分事で恐縮であるが、自分が短期間でかなりの勝ち星をあげ、大会で優勝できたのは自分のボクシングを知っていたからだと思う。
自分はまず相手がどう攻撃してくるかと言うことをわかるために、何度の何度も自分の試合やスパーリングをVCRで見てチェックした。
周りからは日本人は変わっているなあと言われるぐらい、コーチからVCRをかりて研究したことを覚えているが、まさにそのことによって、自分がどういうボクシングをしているか、そしてどういうボクシングをすればいいのかということが見えてきたことは確かである。
日本だったらアメリカのようにコーチや親しい人以外はアドヴァイスしてくれないということはない、スパーリングやマスボクシングをした人間が親切にアドヴァイスをしてくれるだろうし、VCRを撮ると言うこともたやすいことである。
結論からいうとその自分を知るという繰り返しが、相手を知るという結果を生む、言い換えれば自分がどういうボクシングをするかということが見えてくれば、自然とその「彼」が見えてくるのである。
だからボクシングはただ身体を動かし、人をどつくだけのスポーツではない、考えなければ、勝ち残れないのだ、本当にレベルアップし試合に勝ちたければ「汝自身を知る」ことが大事である。
コメント (1)
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おやじたち

2008-01-24 | Weblog
最近さらにまたおっさんの入会者が増えた
たぶん日本で平均年齢が高いジムではないかと思っている。
しかし中年のおっさんパワーには驚かされる。
時々夜9時になると仕事帰りのおっさん達がリングを占領し、マスボクシングに興じている姿は、ある意味ひかされるものがあるが、しかしその頑張りには励まされることが多い。
フーコーだったかレヴィーストロースかは忘れたが現代社会に於いて「老い」は文明がもたらしてきたガンであると、文明が進んだ現代社会に於いて、老うことは役に立たなくなることだと、いうような意味のことを言って文明社会を批判していたが、まさに現代人は先細りの人生を生きている。
おおげさではあるがある意味、中年からボクシングをはじめがんばっている中高年姿はフーコーやレヴィーストロースの言葉を逆行し、たくましく生きている姿である。
そんなことを言えば俺はまだ「老い」というには早すぎる年代だと反論する人もいるだろう。しかしいずれにせよ人間は強く生きて行かなくてはならない、そのことをおっさん達から学ぶことができる。

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I am japanease.

2008-01-23 | Weblog
異国でボクシングを学ぶと言うことは、思った以上にたいへんである。
文化や習慣が違うのであるから、とまどいがあるし、疎外感というのも起こってくる。
たまに国民の休日などで試合がある時、God saves Amareicaが流れ、その時みんなが胸に手を当てるが、自分はどうしていいかわからず困ったものである。
私がスポーツを通して大事だと思ったのが、アイデンティーである。自分がどこで生まれ、どのような教育をうけ育ってきたかということは、非常に大事なことだと言うことを実感したことは確かなことであり、むしろこのことをしっかりさせておかなければ、流されてしまうし、軽く見られてしまうことは確かなことである。
だから自分はジャパニーズであるということを通した。
言葉は日本語を話すわけにはいかないが、調整の仕方、クラブのコミュニケーションのとりかたなどはひたすら日本語的理解を受け入れてもらった、さしずめチームはアジア人が多かったので問題はなかったが、この点を認めてもらうことでクラブの結束力は強くなり、斬新な考え方をクラブに入れることができたと思っている。
特にアジア人の場合は本能的にチームワークや結束力を求める傾向があり、ボクシングという個人競技においても周りを意識する民族である。
例えばチームのメンバーが負けたから自分は勝たなくてはいけないとか、応援してくれるからがんばろうということを西洋人から見て極端に意識する。この点が個人主義主体の西洋人とは違うのではないだろうか。
日本人は人に合わせる傾向があるので、海外に行ってもどうしても周りに合わせすぎる傾向がある。
しかしアメリカはメルトポットと言われているぐらい、民族に関しては多様であり
意外にも考えている以上にそれが通ることもあり、そしてそれを通しすぎるが故に人種差別が起こる現実があるように思う。

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MOBというところ

2008-01-22 | Weblog
最近さらに新入会者や見学者が多くなってきた。
そのほとんどが女性あるいは中年層である。
MOB(Mt olive boxing club)は、特に女性や中高年からボクシングをはじめようと思ってくれた人に開かれたクラブであり、そういう人たちが入って来やすいように、努力している。
よくある質問が「ジムにヤンキーみたいなこわい人はいますか」という質問である。
答えとしてはやさしいヤンキーはいても、暴力的な人や、がらの悪い人はいない、なぜならそういう人は入会を拒否するか、知らずに入ってきても、一般の人が気を悪くしたり、迷惑をかけられたりすれば、やめていただくことになるからである。
MOBのボクシングは一部の人をのぞいては、レベル的にはそれほど高くはない。
しかし社会人としては、きちんとした人が多い、レベルの高い人たちの集まりであると思っている。
一般的にジムと言うところはある意味、常識がひっくりかえることがある。
よくあるのがうまい選手がはばをきかせ、新しい人や、中高年、女性は遠慮して練習しなければならないという間違ったジムの常識である。
MTOは能力差によってわけへだてはしない、むしろできない人間に対して力を入れて指導するというのが、基本的な考えである。
またMTOはボクシングが好きで来てくれた人たちによって成り立っている。
その気持ちをたえずもちながら感謝しつつ、ボクシングを教えたいと思っている。

ちなみにどういうのがNGかというと
存在感を見せるためにでかい声でしゃべりまわりを威圧する。
下ねたを自慢げに話す。
武勇伝を自慢げに話す。
あきらかな女性蔑視。
極端にモラルの低い大人(高校生以下は教える義務があるので)

これらはクラブにはいるのに決して条件をつけているのではなく、会員の人が気持ちよく練習をしてもらうための最低限のルールだと思っている。


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WE LIVE IN JAPAN.

2008-01-21 | Weblog
少し前星野監督が、メジャーリーグに対して日本には野球という文化があるというようなことを言っていた。
これはベースボールと野球は違うと言うことを意味しているのかわからないが、個人主義で物事をすべて合理的に考える、ベースボールの国の人に向けられたある種の批判のような気がした。
アメリカという国は基本的にはプラグマティズムの国である。
プラクマティズムとは、大まかに言えば使えるか、使えないかでそのものの価値を決める思想である。
確かに戦術とか戦略というのは、プラグマティズム的に物事を考え判断しなくてはならない、しかしそれはあくまで勝ち負けにこだわった場合のみであり、東洋人はこの点からして価値観が違うのではないだろうか。
だいぶ昔アメリカの教会で食事をしていたときに、宣教師が神の存在について話してきた。
彼は言う「空気は目には見えない、しかしその存在を否定することはできない、否定すれば生きてはいけない、神もそれと同じように存在し、否定できないんだ」だから信じない根拠はないと。
彼はこの説明をしたあと満足そうな顔をしていたが、たぶんこの点が合理性を重んじるアメリカ人と東洋人との大きな違いではないかと思う。
私は彼にこう言った「確かにそれは合理的で、神の存在証明をするには適切である。しかし我々日本人は納得しない、日本人というのは、泣くものと共に泣き笑うものと共に笑う、そういう人間の姿に神や仏の存在を感じる民族なんだよ」
アメリカのボクシングはとにかく合理性や目的を重んじる。
そしてそれが時には日本人の目から見れば新鮮にうつることもある。
しかし根本的には、それは勝ち負けという弱肉強食にこだわったボクシングであり、正直言って人間の心を豊かにすることとは違うような気がしてならない。


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日本語を話す。

2008-01-18 | Weblog
日本語には共通認識が必要である。
だから国語教育というのがある。
前回「あけおめ」は不快であると言ったが、言葉というのは自分たちの共通認識だけで語れば、時に聞き手には深いきわまりないものとなりうる。
最近あきらかに世話になった人や、目上の人に使われるべき言葉でない言葉がつかわれているが、おそらく学力や常識が著しく低下しているので、言っても理解されないのではないかと危惧している。
言葉というのは大切である。
そして日本語を使う人間は、諸外国の人が考える以上に言葉に対して敏感である。
日本人は相手のことを考えすぎる傾向がある。我々はときどき手紙を書くときいろいろ考え、迷い言葉を使うように、日本語をつかうということは、ただ日本語を話すのではなく、聞き手の気持ちを察し、考え選びとっていかなくてはならない、そういう義務が時には生じてくる、それが日本語の奥深さではないだろうか。
私は携帯とカラオケが言葉の文化をだめにしていると思う。
特に携帯は自分たちだけの共通認識を生み出しやすく、造語もここから生まれてくるのではないだろうか。
少し前アメリカ人がテレビで言葉というのは文化背景によって変わる、だからギャル語もみとめろと言っていたが、たかだか200年の歴史が文化と言うから大笑いだ。
日本には古来から語られてきた言葉がある。
そしてそれらはいくつかの言葉の変遷を重ねてきたが、相手を重んじ、礼節をわきまえた言葉として残り語られている、それが日本語ではないだろうか。
すこし話は大げさになるかも知れないが、日本語の著しい低下は思いやりが、欠如するということかもしれない。



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We speak japanease you know?

2008-01-17 | Weblog
少し前「ジコチュー」という言葉がはやった。
「俺ジコチューだから」と、自分は自分らしく、流されて生きていないんだということを主張しているのか、恐らくこの言葉は若い人たちの間では往々にして、肯定的につかわれてきたように思える。
しかしこの言葉英語で言えば「IM SEIFISH」である。
大の大人が英語でそんなことを言えば「お前何子どもみたいなことを言っているんだ、馬鹿じゃないのか」ということになる。
英語に比べて日本語はあいまいだというが、それは言葉そのもののことではなく、表現の問題である。
国語学的にはどうかわからないが、私はブログなどを書いていた思うのだが、言葉ひとつひとつの意味においては、日本語ほどはっきりしたことばはないと思うし、重みのある言葉はないと思う。
それにくらべて英語は表現ははっきりしているが、言葉そのものは曖昧で重みがない、例えば昔つかわれていた「charity」と言う重みのある言葉が「love」という世俗的ななことばに変わったように、時代と共に言葉そのものが一般化され変遷を経た歴史がある。
「自己中心」と言う言葉は明確である。
辞書を引いてもわかるように間違いなく否定的な言葉であり、一般的には恥ずべき言葉である。
日本人には恥の文化というものがある。そしてそういうひとつひとつの漢字や言葉には文化があり、深い意味がある。
だからそれらのことをもっと考えて、日本語は選びとられなくては恥をかく、言葉が悪いが、日本語をある程度勉強しなければ恥ずかしいことなのだ。
最近言葉を軽んじてつかわれる傾向がある。
女子高生がメールで「あけおめ」と送ってきたのには正月早々不快であった。
本当に「こいつらあほかはずかしいやつやなあ、恥を知れ」と思ったものである。
日和見主義の人間は気持ちが大事、気持ちを表してくれただけでいいじゃないかというが、しかし日本語を話す自分たちには、その日本語をある程度そういう恥や重みを含めて共通認識する必要があり、ここまで日本語にギャップがあるならば、これは自分たちの恥というよりも、相手に不快感を与えていると言っても過言ではない。
日本語を完璧にマスターしろとはいわない、自分もそれほどわかっている訳ではない。
しかしせめて人に不快感を与える、害のある日本語を使うなと言いたい。



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