脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

人権と英語教育

2014-03-28 | Weblog
今日ある会員の人が言っていて、この人はよく見ているんだなあと感心させられることがあった。
それは私の子供をここで練習させたらいい、いろいろな大人がいるので、そういう人たちからたくさんのことを学べる、私がそれをうけて、子供は本格的にボクシングなんてさせることはできないから、ここでは練習の質よりも共同体の質だということを言うと、まさにそうだということであったが、この話を聞いて見ている人は見ているんだなあと実感させられた。
私が目指しているのは、成長できる共同体である、ここに来たらいろいろと刺激をうけたり、共有できたり、大人も子供も成長しながら癒されていく共同体である。
そのためまず第一にしているのは共同体の質である、共同体の質をよくするためには知性を重んじることとそして責任者が健全であることだと思っている。
しかしまだまだスポーツの世界は質のわるい指導者が目立つ、質がわるいと言うのは言葉を持たない人間、外の世界を知らない指導者で、封建的な考え方から脱却できていないアホだ、こういう人間が暴言をはいたり、勝負という名のもとに、たかだかボクシングごときで試合は殺し合いだなどと、アホな言葉を使い、程度のひくいがもっともらしい人生論ぽいことを語り、間違った価値観を植え付けていくのだと思うが、子供は武勇伝やおしつけの礼儀では成長なんかしない、群れの指導者が知性を重んじて、子供の知的好奇心を刺激することで自尊心を呼び覚まされた時に行動が変わってくるのだが、そういう刺激をうけて成長した子供は将来の目標をしっかりと持つだろう。
スポーツというのは家族的とか言って同じような人間が仲間と称して集まる場所ではない、考え方や価値観、そして国籍や宗教の違う人間たちが集まる共同体である。そういう多様性を認め尊重するためには、指導者は広く世界を見る必要がある。世界というのはどんどん縮まっている、縮まっているというのは、国と国との関わりが身近になってきたということであり、グローバルスタンダードで物事を考えていかなくてはならないということである。

私の意見では今ボクシングに必要なのは、人権問題をよく考えることと英語教育である。
女性が試験を受けなくては試合に出られないというのは男女差別だし、いまだにえげつない権威主義が横行している。そして何年か前まではチ○コを出して軽量をしていたのだから、どれだけ人権に疎かったか理解できると思う。
たぶん英語が話せたら、そういう世界がいかに滑稽か人権を無視しているかと言うことがわかるのだが、しかし英語どころか日本語さえもきちんと話せない奴もそう少なくはない、そういう奴が集まるとまともな話し合いができないので、権威主義が横行し、まわりもその世界を守ることが正しいことだと錯覚し、それに意見するどころか、えげつなく間違った方向に行っても組織を守るためにと何も言わない、追従することしかできない本当になさけない話だ。

これは私の意見であるが絶対やってはいけないことは、弱い者いじめと差別である。
私は英字新聞を購読しているが、英字新聞には毎日のようにマイノリティな民族、女性、そして子供が迫害されている記事を目にする。
その記事が意味するのは、世の中というのは、争いごとがおきて権力の犠牲になるのは常に女性や子供そしてマイノリティであるということだ、日本人は単一民族で日本語しか話さない人間が多いので、ここまで書くと敏感過ぎるとか、そこまで考えて生きてられないなんていう人間もいる、がしかし多民族国家はここまで考える、なぜ日本の英字新聞がそこまで民族問題などをたくさんとりあげるのか考えてみたらいい、そういう問題が自分たちの身近にあるからであり、おそらくこれが日本人と多民族国家で生きる人間との大きな違いであると思っている。
この多様性の時代に民族問題、ジェンダーの問題など今まで日本人が問題にしてこなかったことが問題になってくるだろう、そういう問題をうけとめ競技者が生き生きと競技できるように指導する立場の人間は広く世界を見ていく必要がある、そのため英語は必須条件である。

私はマイノリティだ、そのマイノリティがアメリカでボクシングを競技した時、マイノリティの民族が生き生きと競技していたのを見て、ボクシングこそがこういうマイノリティが一番堂々と競技できるスポーツだと実感し、救われたことは確かなことだが、私はボクシングに対していまだにそういう気持ちを持ち続けている。






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言葉、宗教、文化

2014-03-25 | Weblog
浦和レッズの試合会場で「japanease only」と掲げられていることが問題になっている。
無観客試合はいささか厳しい処罰であったと思うが、日本も国際化の波をうけてようやくこういう民族的ことが問題になることはいいことかも知れない。
前に夜中の4時ごろに二日連続で人種差別のメールを(人種差別のメールは1回だが)送ってきた、夜中に二日連続でおくってきたことから、ボクシング関係者で昼間から活動する奴と推測、そういう奴がいるとブログで書いたことがあると思う。
私はかなりシビアな意見を言うので、たぶんいたいところをつかれてはらただしい思いをしているのだろうが、しかし私はあくまで客観的に見てそうだと思うからそう表現するだけで、間違ってはいない、むしろこれはひとつの意見だと思っているが、アホは話が伝わらないので感情でとらえてしまうのだろう、それに対して人種差別発言で返すのだからこいつらの教育レベルを疑う、外に出たことがない、きちんと勉強して言葉を持たないからこういうバカな表現しかできないのだと思う。

人種間の問題は非常にデリケートな問題だ、私自身も実際にそういう経験をしているが、私がよく言われたのは「法事もできない奴」である。
何のこっちゃと思うかもしれないが、韓国人はヨクと言って人をののしる時オリジナリティの言葉を持つ、悪口にオリジナリティがあるのはこの民族ぐらいだと思っているが、法事もできないというのは祭ごとができない甲斐性のないやつと言うことで、私の場合はお前にはその権利すらないということであろう。こういう悪口には文化的背景がある。
まあ夜中にインターネットでボクシングかなんだか知らないが、自分たちだけが通用する世界での掲示板を見て喜んでいるような奴が表現する人種差別的な発言は非常に程度がひくいのだが、スポーツというのは一番いろいろな人種とかかわることが多いのだから、相手のことをよく知り、尊重しなければならない、そのため言葉を学ぶということは大事なことである。

しかし相手を知るというのは何もすべて受け入れるということではない、当然その民族を知ることで、受け入れることはできない、合わないということがよくわかることもあるのだが、日本人の場合は合わないとか受け入れれないという時それが非常に感情的であったり、自分たちのルールから見てということは往々にしてあることだ、おそらくその背景には民族的なアイデンティティがかけているので、その好き嫌いもはっきりと主張できないからあいまいになっているのだが、例えばイスラム国の人間は豚肉を食べない、安息日がある、おまけにむちうちという人権を無視した刑罰があるが、これらはイスラムのコーランによって定められている、彼らの文化であるが、こういう宗教的文化は世界的によく知られていることであり、その文化を通用させているが、これは彼ら彼女らがたとえ宗教的な背景があるにせよ自分たちの文化をしっかりと主張し認めさせているからである。
一方日本人の場合、合わせることばかり求められて、日本文化というものが浸透していない、日本文化というものをはっきりと主張できないから、ただ周りに合わせて行動することが国際化だと勘違いしている感があるが、これではただふりまわされているだけだ、これからは言葉をおぼえることと同時に自分たちの文化をしっかり学び、その文化から見てこれはできない、うけいれることができないということを主張をすること、Japanese Wayを通すことも大事なことだと思う。
大陸は侵略があって、侵略されるたびに自分たちの文化をふみにじられて来たという経験があるので、文化をこわすな、これは自分たちの文化だということをはっきりと主張すれば、区別の領域で片付けられることもあるだろう、米作りなんていうのはもともと宗教的なことと関係しているのであるから、そういうことを関連付けて外米の流入をふせぐことも可能であろう、まあこの例は唐突な例だが、しかし我々がもっと言葉をおぼえて、文化を知ることで、大事なものが見え始めるのではないだろうか?

だいぶ昔にあるアパートに引っ越してきた韓国人と日本人の間でちょっとしたトラブルがあった、韓国では借りた家を勝手に模様替えしてもいいというルールがあって、たぶん部屋のカベなどの色をかえるのはOKなのだが、どうやら彼はその壁の色をみどりだか青だかは忘れたが、そういう色にしてしまったのだ。
その時私は仲裁に入っていて、壁の色をかえたらダメだというと、いやいや向こうでは当たり前だという、しかしここは日本だと言っても平行線をたどるのでこう言った。
確かに向こうではそれぐらいはたいしたことがない、むしろ寛容とも言えるケンチャナヨの精神でから見たら心の狭いことかもしれない、がしかし日本人は他人と人との間には距離があって、たとえ大家と借りた人の間にも距離がある、日本人の場合は人から借りたものは、他人のものだから大事に扱わなくてはならないという遠慮というものあって、これが日本人の文化だ、だから君もそのことをよくわかってほしいと言ったのだが、意外にもこの説得は納得がいったようで、その後トラブルはなかったようである。 外国人がなんでこんなことをするんだろうということは実は文化的背景が多く、その文化的背景を無視して、ここは日本だからと遮断するから問題がおきる、阻害されたと思われるのだが、それが文化と文化の話し合いになれば、ちと話が違ってくるのではないかと思っている。
これからは日本にも多くの外国人が生活してきているので、いろいろな文化とかち合うこともしばしばあるであろう、特にスポーツはそういう機会が多いので、言葉や宗教さらに文化史などの勉強をする必要はあると思う。

最近悲しいことにうちの子供は韓国人はわるい民族だと思い始めてきている、おそらくネットなどの影響からか、掲示板などを見たらいろいろと書かれてあって、言われてもしかたがないこともあるし、それはお互い様だと思うが、しかし民族をさげずんだり否定するようなコメントは控えたほうがいいと思う。
私は子供にはっきり言っていいことは客観的にそれがそうだと言えることだ、客観的に正しいことだったら人にきらわれようがはっきりということが大事だ、ただし客観的に物事を考えるためには、しっかりと勉強しなければならない、そして絶対に民族を否定したり、さげずんだりするような言葉を口にしてはいけないと言っている。






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これを機会にそろそろ勉強せい

2014-03-23 | Weblog
小山台高校という高校がが甲子園に出場した。おしくも一回戦でまけたが、この学校は偏差値が高く、進学校にもかかわらず練習して甲子園に出場した、文武両道をつらぬく姿が話題となっている。
この学校は勉強が第一である、監督もそのことをつらぬいているので、練習時間も90分とほかのスポーツ校にくらべてみじかいが、その限られた時間の中でどう練習するかということを問うために試みられたのが日誌を書くこと、いわゆる「心をつなぐノート」である。
ある番組でその内容がいくつか紹介されていたが非常に含蓄の深い内容だ、日誌を書くのに時には1時間以上かかるという子供もいるそうだが、文章を書くということは思考能力を養うためには必要なことで、私はこういう思考能力を養うことで練習の質や幅をひろげていくことができると信じている。
だいぶ前に私がミーティングのあり方をかえろ、監督が一方的に決まりきったことを言うのではなく、部員にもっと議論させるようにしろといったことがある。
私が聞いた程度のひくいミーティングは全員集めてひとりひとりにいいとこわるいところを言わせていくという、小学生の終わりの会のようなミーティングであるが、こういうミーティングをするのは、それを指導する奴がアホだからだ、こういうミーティングをするのはそいつ自身が教養がなく、勉強不足、こういうミーティングは論外であるが、ミーティングにしろ、日誌にしろ、きちんとした指導の下で、3年間続けていけば進学や社会に出ていく上での大きな土台をつくることができるだろうが、これからのスポーツは将来的にもこういう知的な部分を養わなくては通用しないだろう。

これからのスポーツはコミニケーション能力が大事だ、しかしコミニケーション能力と言っても今までの監督中心のクラブや同じ程度の奴ばかりが集まって群れるようなジムではなく、もっと知的な手段でコミニケーションをはかることができる集団である。
海外のスポーツは自己主張が大事だ、サッカー選手が言葉をおぼえるのはまずそのチームプレイや戦術などを理解するため、そしてつかってほしかったら自分をアピールし、そして自分はどういうスタイルで競技するかということをはっきり伝えなくてはならないからだと思うのだが、これからは自分たちが考えて、練習のありかたやチームの戦術などを考えていく時代だ、もちろん監督はそのプロであるから戦術や戦略を考える上では中心になるが、しかしどうつかわれるかというのは選手個人の問題だから、はっきりと自己主張できる能力がなければいけないのだが、そういう能力を養うための手段というものを考えなくてはならない、これからはしっかりと勉強して、語彙力や、表現力、そして想像力などを養い、きちんとした自己主張
できる人間を育成することが必要で、そういうことを養うことで人間ひとりびとりの考え方や意見が練習、そしてその自分がやっているスポーツに意味を持たせると信じている。
その野球部のノートにこういうことが書かれてあった「1生活2勉強3野球1、2をしっかりさせないと生きていく上での土台をしっかりさせることができない」
彼らは勉強を第一にしてその自分たちがつくれる時間を利用して練習をしていたそうだ、ある子供は昼食前に食事をして昼休みの時間に練習していたそうだが、それしかできない奴がそのことしか考えずに一生懸命サルのように練習しても、もし優勝して勝たなくては何も意味がなくなる、がしかしこうやって勉学を第一に考えて一生懸命将来に向けて生きるために練習している人間は何かが違う、もしまけてもそこで得るものは大きく、ここがそれしかできない奴とそうでない人間との大きな違いだと思う。

MTオリーヴは社会人中心で、どちらかと言えばストレス発散仕事や学業を充実させるためのクラブである。
もともと小学生にボクシングの試合に出して、頭をたたくこと自体おかしなことであるが、ここでは小中学生にはスポーツするための基礎体力やおもにコミニケーションをはかるための能力を養うために、コミニティーを利用してもらっている。
だからここでは練習よがどうと言うよりも、どういうコミニティーかと言うことが大事なことだ、ここには英語を話したり、ほかの語学もできる人間がいるし、知的な人もいる、そういう人達と関わっていくことでコミニケーション能力がつく、そういう能力を持ってスポーツクラブに入ってある種の革命を起こしてほしいと思っている。

小山台高校の試合であるが、1回戦で大差でまけてしまった、ノーヒットでゲームセットかと思いきやポテンヒットで出塁した、まわりの歓声がワーッとわいたらしい。
私は思う、はっきり言って相手が100点とっても何点とっても彼らの勝ちだ、彼らはそれしかできない、それしかやらせない、偏差値がひくいからせめて野球で優勝して名前を上げるというような高校ではない、たぶんそれしかやってきたことがないような人間が集まるクラブだったら、ヒット一本しかうてなかったら思い切りへこみ、監督にめちゃくちゃおこられるだろう、しかし彼らはきちんと勉強して高校生としての責任を果たして出場してきた高校だ、そういう中で勝ち取ってきたことが、そのポテンヒットでも自分たちはやればできるんだという希望につながる、まけても前を見て生きることができる、そう言う姿にたいする歓声で、それは文章を通して考えることで、自分たちの生き方を真剣に考え、コミニケーションや意志力を養った結果である。
日本のクラブの人間はどちらかというとやらされている感がある、なぜ俺のいうことが聞けないのか、なぜ俺の言うとおりにやらないのかとどなられたり、いうことを聞かない人間は無視される世界である。
こういう世界がまかり通るのは競技者に考える力がないからだ、第一朝から晩まで練習づけにして、まともな思考が働くはずがない、こういうことを洗脳や虐待と言わずして何というのか、こういう問題は本人が納得するとかしないという問題ではなく、まわりの大人が客観的に見てやめさせなくてはいけない問題だ、朝から晩まで練習しなくても1日90分の練習で甲子園に行くことはできる、このことをスローガンに掲げて練習する必要はある。











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逆説の孫子の兵法

2014-03-19 | Weblog
うちの子は来年中学生になるが、進学校というのは制服でわかるらしい、ここの会員の人たちもよくかつあげをされそうになったと言うので、用心のために走って逃げるための体力をつけるために、なわとびをとばせている。
この前は囲まれたら飛び蹴りをして逃げるんじゃと、飛び蹴りの練習をして遊んだのだが、半分冗談だがこういうことにかこつけてするトレーニングは面白い。
せがれも本気になってやっているのだが、かつあげから身を守るためならば、ボクシングをさせればいいという人もいる。ボクシングをさせたらいざという時なんとかなるということだが、確かに男という生き物は、単純だからやらなければやらない時はある、がしかし無駄な戦いをしないのが懸命で、私は子供には男ならやらなければいけない時があるが、しかしまず逃げろと教えているが、いくら自分が勝てると思ってもまず逃げること、無駄な戦いはしてはいけないということを教えている。
アホで理想しか語れないような奴は、戦うことを煽り、逃げるな向かっていけなどということをしきりに言うが、こういう人間に限って言っていることは理想だけに過ぎず、現にそういう奴の生き方を見たらしょむない生き方をしている奴が多い、頭をつかわない、現実を知らないからこういうことが言えるのだが、大事なことはひくことを教えることだ、孫子の兵法でも逃げるが勝ちと言っているが、賢いのは無駄な戦いはしないと言うこと、子供には強さを求めるよりも賢さを求める方が懸命だと教えている。

孫子の兵法を読んだらわかることだが、一番理想的な勝ち方は戦わずして勝つということだ、おそらく孫子の兵法の極意はここにあって、戦わずして勝つことが孫子の兵法の目的だと言ってもいい。
物事の根本を思慮ぶかくとらえることもできないのに、戦うことを煽り逃げるな向かっていけなどということを言うような奴はバカだ、アインシュタインだったか、人間の欲望とバカには際限がないと言ったが、本当にバカというのは自分がわからなかっても(わからないからということもあるが)平気で無責任なことを言うからおそろしい、こういうバカは聞いてくれる人間がいたら際限なくバカな話をするのだが、ボクシングの試合に出たりボクシングをすることが強い人間だという証明にならない、ボクシングは肉体的にも精神的にも強いということを強調するスポーツだが、勉強しない、本を読まないような奴が求める強さというのは、わかっているようなわかっていないようなマンガのような考え方で稚拙であるが、にげるな向かっていけという強さの根拠をボクシングをすることに結びつけて考える考え方は、まさにそうである。
孫子の兵法を逆説的に読んだら、孫子の兵法は相手と戦って相手をたたきのめす本ではなく、いかに争いごとをなくすかというために書かれたものだいうことがわかる。
指導者は子供にけんかをうられたら男だったらやらなくてはならない時があると、アホが勢いにまかせてもっともらしいことを言うよりも、まず逃げろと逃げることから教える必要はある。










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韓国人の大学生はToeic700点だと就職できないらしい

2014-03-16 | Weblog
うちの子供は学校に入ったらクラブに入るそうだ、受験が終わったのでジムでなわとびをとばせているのだが、会員の人がうちの子に「クラブ何入んの」うちの子がぴしぴしとなわとびをとびながら「卓球部」「......えっ卓球部」
何も卓球をバカにしている気持ちはさらさらないが、少し意外だったようだ、私の子供だからサッカーとか言うと思っていたらしい。
本当はテニス部に入りたかったそうだが、テニス部がないのでそれにかわって卓球をするらしいのだが、私は卓球は地味なので、それやったら英語部か演劇部ににせいやと文化部をすすめているのだが、本人は一応文武両道を目指して、今年の夏は大阪には行けない、部活と勉強でいそがしいと言っていたので何か運動部には入ると思う。

話は英語の話になるが、よく英語を仕事に生かしたいという人の話を聞く、留学経験があるのでそのスキルを仕事に活かしたいということであるが、ここ何年前からか企業でも、どこでも英語が重要視されている。
さらに前までは英語が話せる人間が優遇されていたのが、最近では話せないとだめだぐらいの企業も増えてきて、英語熱がかなり高くなってきている。
実際TOEIC600点代なんていうのはざらにいて、うちのクラブには英語で論文を書くぐらいの実力のある人たちもいるが、もう英語は日本でもそこそこできる人たちの間では、共通語になりつつある。
だからもう今の時代はバイリンガルの時代ではない、よっぽど英語が堪能でない限りは、せめて三ヶ国語を話すことができないと仕事に生かすことはできないと思うのだが、英語のほかに中国語やフランス語、スペイン語などを目的に応じて習得していく必要はあると思う。
Hiはバイレイシャルの多い州である。お父さんが韓国人お母さんが日本人、お父さんが日本人お母さんが台湾人と言うようなアジア人どうしのバイレイシャルも少なくはなく、こういう組み合わせを知るとよく聞かれるのは、家では何語を話しているかである。
私のアメリカ系韓国人の友人の女性は、父親が日本人だったので、家では日本語を話していたそうだ、さらにおもにお父さんと話す時は韓国語、お母さんと話すときは日本語、そして家を出ると英語を話すというような人間もめずらしくはない、日本人は最近になって国際化と言われてきたが、しかし国際化というのはただ日本人が他国の現状を知っただけにすぎず、国際化というのはまさに多民族国家を知るということで、私はこういうバイレイシャルの存在が大きくアメリカを支えてきたと思っている。
アメリカ人というのは基本的には英語しか話せない民族だ、ブラックジョークにトライリンガルやバイリンガルに対して1カ国語しか話せないのはアメリカ人だというのがあるが、アメリカという国は移民を受け入れてきて、多民族国家になったゆえに、この言葉を介していろいろな恩恵を受けてきたということが言えるのではないだろうか?
日本人は基本的には世界一優秀な民族であると信じている、がしかしその唯一のディスアドバンテージは単一民族的な考え方しかできないことだが、それは語学音痴ということでもある。
21世紀は情報社会だ、そしてその情報はインテリジェンスとも訳されるが、その情報をインテリジェンスにするのは言葉であるが、インテリジェンスを収集するにはより多くの言葉を使う方が有利である。

話は韓国語の話になるが、韓国語は日本語は文法が同じだから日本人には習得しやすい語学で、フランス語やドイツ語の半分ぐらいの時間で十分習得できると思っている。
しかしそうは言っても日本語にはない表現もあって、どちらかと言えばそれを英語で表現するほうがしっくりくる場合もある。
ひとつあげれば未来連体形は日本語にはない表現だ、どちらかといえば英語のbe going toに近くて、未来表現のつくりかたは、乗ると言う動詞と飛行機と言う名詞をを未来連体形のリウルでつなげて、乗る予定の飛行機となるが、こういう表現は日本語にはないが、語学というのはこういう発見があるから面白いのだが、こういことを知ることで言葉の広がりを持つことができるし、他の国の文化に興味を持つようになる。

私があえて希望者に語学を教えているのは、言葉を知ってもっと外の世界を見てほしいからで、特にアスリートであるならば、英語ぐらいは話せないと通用しない、そういう常識を持ってほしいからである。
ボクシングと横文字を使っているのに、ジムに入ると英語のにおいがまったくしない、どこをどうしぼっても英語のエの字も出てこないトレーナーがファイトとか、ラスト30と言うアホな和製英語を堂々と叫ぶ姿にアホさを感じているのは、私だけではないだろうが、本当ならば責任者が話す必要があるが、ジムにひとりも英語が話せる人間がいないということはスポーツクラブとしてはダメな部類のスポーツクラブだ。
根性とか努力とか偉そうに言っているのだったら、命懸けで英語を習得したらいい。今時英語感覚ゼロのクラブなんてナンセンスだ、これからのスポーツは語学が必要だ、地方で同じような人間ばかりでかたまっていたら気がつくことはないが、しかし世の中のレベルを考えて、恥をかかないためにも、自分たちにそういう能力がなければ、そういう人間に金を渡してでも何とか来てもらうようにしたほうがいい。

3.11のあの日からもう3年になる。震災はいまだに大きな傷跡を残しているが、うちに1年ほどいたフランス人の子もこの震災で帰国命令が出て帰国を余儀なくされたのだが、その子が帰ったあとに最後に局に出すはずだった報告書を見つけた。
その報告書はその局に出すものだったのだが、震災後即帰国だったので提出できないまま残っていたのだ。その報告書はいろいろと質問の項目があって、その最後の質問にこう書いてあった。その質問は「今まで日本に来て一番楽しかったことは何か」であったのだが、それに対してこう書かれてあった。
「一番楽しかったことはひとつもない、なぜなら毎日が楽しかった」と
すごく粋な文だと思った、10代にしては粋な言葉ださすがパリっ子である。
私はこの言葉が一番うれしい言葉だったが、この時私は、ヨーロッパ人とアジア人が心がかよいあったということを確信した。
外国人を受け入れるとか、外国人として迎えられるというのは言葉の問題だ、日本に来たら日本語を話せとか、ここは日本だなんていうことを言う人間は時代錯誤だ、これから日本もたくさんの外国人を受け入れていくのだから、特にスポーツなどは、せめて共通語ぐらいは話す必要はある。








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そこまで言うんだったら、学校の試験で意地を見せてみい クイズ番組でチャンピオンの意地を見せろ

2014-03-14 | Weblog
もうすぐ子供の卒業式、四月から私立中学に入学する。
最近日課としてやらせているのが腕立て伏せとなわとびだ、受験で運動不足なので、この春休みに体力をつけて学校のクラブに入ってもついて行けるようにしようと思っているのだが、この春休みにもうひとつの課題として英語を学ばせている。
たぶん学校では英会話をすでに習っている子供もいるので、なるべく学校でもアドヴァンテージをとらせるためだが、うちの子だけではなく、往々にして言えることだが、受験を乗り越えた子は教えやすい。
普通だったら1から順番に教えるところを、1、2をやったら一気に4か5ぐらいまで楽に理解できるので、いちいち説明を詳しくする必要はない、いわゆる勉強のこつをよく理解してると思うのだが、こういうことを理解できるのは今まで訓練してきたことだと思う。
訓練というのは英語ではdrill、これはおもに反復練習を意味しているのだが、学校で渡される算数や国語のドリルというのはまさにこれ反復練習のことだが、何をするにしてもこの反復練習は大事なことだ、学校で習ったことを生かすために本を読んだり、人と話をすることは自分たちの知恵や知性を養って行くための反復練習ドリルであると言ってもいいと思うが、この反復練習をしない奴は会話力がとぼしい。
この前個人スポーツとか団体スポーツなどとかいちいち区別して、俺は団体スポーツが苦手だなんて言うことを言うのは日本人ぐらいだということを言ったと思うが、外国では団体スポーツも個が集まった団体スポーツと考えるので、いちいち周りに合わせてなんていう考え方は希薄だと思う、サッカーなんかもそうだが、向こうでは自分はどういうスタイルでやりたいかということを堂々と自己主張して伝えていくことが必須だ、おそらくサッカー選手が言葉を覚えるのは向こうでははっきりと自己主張しなければ通用しないからだと思う。
これからの時代はスポーツバカは生き残っていけない、さらに言うならばこれからのスポーツ選手は語学などの知的な部分をみがいていくことが必要なことで、それはよく勉強ができない奴でもスポーツができたら何の根拠もないのにバカではない、スポーツできるから賢いというようなことを言われるが、そういうことではなく、語学のようにきちんとした学習能力のことで、そういう能力を養う必要がある。

私が勉強しろというのはそれなりに理由がある。
勉強して言葉や知識を持たなければ、自分の世界を広げることができないからだ。
勉強して教育を受ければ自分の世界を広げて行くことができる、私自身もマイノリティだったので人を見返してやろうと思ってボクシングをやったということは否定できないことかもしれないが、しかしそんなことで自分をかえていくことはできない、その世界では通用しても、ほんのちょっと世界を広げたらそういう考え方は通用しない、言葉がわるいがバカだと結局みじめなだけ、本当に人に認められたかったら何かを一生懸命学び知性をみがくことである。
ボクシングしかできない奴がインテリ層に何を話すのだ?ボクシングでなんとか大会に出たなどと言えば尊敬してもらえるとでも思っているのか?
勘違いも甚だしい、時にはこういう奴が自分の自慢話を程度の低い奴に聞かせるのだが、それは不良や愚連隊が中学生の不良に刃物をちらつかせていることと何らかわりない、本当にバカだと思うが、それしかできないような奴らが集まれば自然とそういう世界になる。こういう奴らは本当に小さい世界で生きている。
英語を勉強しろとか本を読め、真面目に勉強しろ言えない奴はスポーツ指導者失格だ。
今まで何をやってきたのかわからないが、本当に成長して行きたかったら、いろいろなことを知って自分の世界を広げていくことだ、若い人にはここに来たら、いろいろな人がいるので、たくさん話して刺激をうけて自分の世界を広げて行ったらいいということを言うが、その自分の世界を広げていくためにはある程度学習することが大事なことだ。

日本のある野球部はその監督が部員をあごでつかって、パフォーマンスか何か知らないが、部員がそいつのお茶を持ってきたり、いろいろと奴隷のような世話をするらしい。
野球をやりに来たのかそいつの子分になりに来たのかはわからないが、ここまでして自分の価値をさげてまでもスポーツをやりたいのか理解できない。
はっきり言ってこういうアホが集まると民主主義でなくなる、なぜなら話し合いができない、能力がないから権威主義にたよる、こういうアホな世界をそろそろかえていく必要はある。







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onがぬけてるよ

2014-03-09 | Weblog
最近よく見るのがカフェで外国人が英会話をしている姿である、ひとりの外国人を囲んで何人かの人が英語を習っているのだが、結構その姿を見る、どういうつながりでやっているのかは分からないが年配の人から若い人たちまで楽しそうにレッスンというよりも会話を楽しんでいるのだが、この前そこにいた人が「休みの日は何をしているのか?」と聞きたかったのだろう、その外国人に「what do you do holiday」と言っていた。
しかしその外国人はよくわからない、わからないようなので、まわりが一生懸命説明してようやくわかったのだが、たぶん日本人ならばこの表現を聞いても、何のことを聞いているかわかると思う。
ではなぜ外国人はわからなかったのか?
正確に言えば「what do you do on your holiday」でonがぬけている、日本人にしてみたらonがぬけているぐらいどうってことはないが、しかしイングリッシュスピーカーにしてみれば前置詞がぬけるだけで大きな違いである。
だいぶ前に他動詞と自動詞の説明をした、最近文法的にもこのことを区別させることが賢明と考えたのだろうか学校でもこのことをしっかりと区別させていると思うのだが、私が説明した他動詞はその言葉を聞いて「何を」と思う動詞、この動詞は何をであるから直後に目的語が来るのが通常の法則である。
I know Brad Piddがブラッドピッドのつれだぐらいの勢いで知っているというのは、他動詞が目的語を支配するからだ、じゃあちょっと知っているとかテレビで見て知っていると言う時どういう言うんだと思うかもしれないが、そういう時はI know of himとかI know about himと言うのだが、私の持論ではこのofもaboutもsomethingが省略されていて、もとのかたちはI know something of himだと思っている。
他動詞というのは直接目的語をとり目的語に直接影響を与える動詞だ、I play baseballとI play in the parkが意味が違うように、doの後にholidayを続けるとそれが目的語になるからholidayするなんて意味のわからない言葉になってしまう、日本人からすればそんなことぐらい機転を利かせろよと思うのだが、しかしたぶんネイティヴは後ろに目的語が来るか来ないかでその意味をとらえているので、doの後に言葉が直接来るとうーんと考えてしまうのだが、外国人が「what do you do holiday」を理解できなかったのはここではないかと思っている。

オリーヴクラブでも英語が過熱してきた今、10人以上の人を見ている。
自分でいうのも何だが、私のレッスンはわかりやすくて面白いらしい、私は大人に基礎英語を教えるにあたっても教養的なことも教えているが、せっかくやるのだからアドヴァンテージをとってもらうためにラテン語やギリシャ語などを説明して、その語源やそうなった理由はおそらくそういうことだろうということを持論を交えて話している。
この前はbeの説明で「to be or not to be, thats the question」を引用しシェイクスピアの四大悲劇について聞いた、シェイクスピアの四大悲劇って聞いたことある?えっと言うので「貧乏だったとか、妻が悪妻だったとか言ったら笑っていたが、どうやらそういう冗談は通用しないようだ。
もう英語は共通語であるという常識は浸透している、アホがいるスポーツクラブはそう言う常識は通用しないようだが、しかし英語というのは何をするにも必須条件、俺たち英語がまったくわかりませーん、トレーナーのどこをどうついても英語のえの字も出てこないようなクラブでは、この時代は失格だ、こういう奴らが集まりすぎると、これからの小中学生に悪影響さえ与えるのではないかと思っているが、俺たち勉強きらいでーすという奴らも、ここいらで基礎英語一ぐらいからがんばる気持ちを見せてほしいものである。

私は大事なものはさがさなくては見つからない、なんでもそうだが楽して手に入るものはろくなものではない。と子供によく言っている。
しかしこの大事なものをさがすためには、ひろく世界に出て行ってさがさなくては本当にほしいものや大切なものが見つからない。
私が子供に英語以外にも言葉をおぼえろと言っているのは、自分の行動の範囲をひろげて行ってほしいからで、特にこれからの時代は英語ができなければ出世できないのだから、人と差をつけるというよりも同じ土俵に立つためにと言っても過言ではないだろう。
外に出ていったことがないような人間は考え方にも限界がある。
地元で進学してたり、英語を話すということでカバーできればいいが、しかし英語も話せない、専門分野もない、よその土地に行ったことがないというのは、考え方に偏りがでてくる、こういう人間は若い時に何をやって来たんだろうとさえ思ってしまうが、ボクシングしかやったことのない奴の話はどういう減量をしたかとか、なんとかそこに自分を持って行って評価されようとするが、だいたいボクシングのメダルやトロフィーにいくらの価値があるのだ、そんなものを質屋に持って言っても1銭にもならん、しょせんそんなもんだと思っていたらいい、それしかできないやつほど昔話が大きくなって、それにしがみつくが、しかしこれからの時代は英語が話せないことに危機感を持たなくては通用しない、第一社会にでていく子供たちに、スポーツがどういう影響を与えることができるかという問題でもあるので、サッカーのように語学を重視することは大事なことである。
ボクシングクラブはボクサーになるような人間だけの常識が通用するようではいけない、私がそれしかできないような奴が、居場所をもとめて刑務所仲間をたよって集まってくるような場にはしたくないと言うのは親玉がアホだとそういう場になりやすいからで、英語を重視するというのはある意味そういう常識を考えていると言うことでもある。









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アルマゲドンなんてない

2014-03-07 | Weblog
よく家のポストに新興宗教からのチラシが置かれている、よくあるのが病気が治ったとか言ったたぐいの話が書かれていて、あなたも信心すれば幸せになれるというようなことを人の体験や宗教用語を交えたわかりやすい説明をしているが、どちらかというとその説明は合理的というよりも心情にうったえかけるようなかたちで、自分たちの宗教をアピールしている。
私は宗教を勉強してきたが、日本の宗教が感情的なのに対して、西洋の宗教は合理的だと思う、どう合理的かというと西洋の宗教は、日本の宗教にくらべて物事の原理をすべて言葉によって説明していることである。
言葉は哲学用語でλογοsと言う。これは言葉に関連する英語やその言語の語源となっている言葉でもあるが、λογοsと言う言葉は、もともとは聖書の言葉であり、言葉そのものの他に神の行為を表していて、人間はこの言葉を通して生きている、すなわち言葉は人間が生きていく上でのすべての原理であるということをあらわしている。
日本はどちらかというと宗教を心の問題として捉えているが、しかし西洋において宗教や哲学というのは言葉の問題である、言葉は神の行為であるから、言葉を正しく解釈することで、ある事柄を理解し自分にある何かを解明していく、心理学なんかも根本はフロイトであるが、しかしカウンセリングの方法としてユングが用いられているのは、ユングが患者との対話を望み、対話によって心の闇をさぐり解決しようとしたからで、心の問題を単なる神話におきかえただけではなく、言葉という手段で合理的に解決しようとしたからだと思っている。

日本人の宗教は論理的かというとそうではない、西洋の場合は聖書の翻訳を皮切りに修辞学の発達やスコラ哲学などが出てきて、その言葉による合理化を進めてきたが、日本にはそういう歴史がなく、ありがたい教えはむしろ念仏というかたちでつたえられることが多い。
中でもおもしろいと思うのはある宗教家の話だが、この宗教家の話はなかなか学もあるので興味深いことを言う、確かに勉強もしていてかなりセンスのいいことをいうのだが、しかしかなり話が深くなってくるとこれがでたらめだったりする、なんでこういう解釈をするんだおかしいじゃないかということもしばしばあるが、そういうでたらめによくあるのが、終末思想やアルマゲドンである。
こういう宗教的な解釈になってくると、筋が通っているとか、わかりやすいということが問題ではない。問題なのはその原書を正しく読み理解できるかということで、もし聖書を解釈するならば、その原典で書かれたヘブライ語やその背景となっているコプト語などを理解し、さらに考古学や原典の解釈学によって解釈することが求められるわけで、これを抜きにして正しい解釈などありえない。

日本人がありもしないハルマゲドンや終末思想などを鵜呑みにするのは、それを批判する能力がない、すなわち合理的に物事を解釈しようとしないからだ。
日本人は物事を正しく理解する歴史がない、西洋には哲学や修辞学さらに演劇などの特筆すべき学問が存在するが、しかし日本にはそう言った学問はなく、そういう学問が入ってきた今もそう盛んでないことは確かである。
これからの日本人に求められることは合理的に物事を解釈すること、すなわち論理的思考を養うことだ。この論理的思考を養わないと西洋の合理主義に対抗することはできない、日本人はもともと優秀なのだから、考え方をちょっとかえて論理的という意味で言葉を大事にすれば、国際社会で通用する国として大きくかわると信じている。
簡単なことだが、論理的思考は本をよく読むことで養われると思う、前に進学校に行く小学生たちの作文が淡々としていて表現力がとぼしく驚いたという話をしたが、彼ら彼女には暗記力や買得力は長けていても肝心な論理的思考と想像力がとぼしい。
中高生の時期は暗記よりも本をよく読むことは大事なことだ、この時期にむずかしい本を読むことは論理的な思考を養う上ではたいへんいい訓練になると思うが、こういう時期に本よたくさん読んで思考したり、想像したりするための確かな基礎を築きあげていくことが大事なことである。

私の経験上悩みや、何かもやもやしたことがあれば思い切り難しい本を読むことだ、読んで葛藤することでそう言った悩みが解決されることもある、しかし読むと言っても基礎運動のできていない人間がいきなり、ロールズの正義論なんていうものを読んでもまったくちんぷんかんぷんなので、最初は読みやすいものからはじめて、そして徐々にレベルをあげていくことだ。
本を読む上で大事なことは自分がわかる範囲だけで読書をすると、それだけであたかもすべてのことがわかったような気持ちになって、中途半端なレベルでバカなことを言い出しかねない。
リーダとしての条件とか、人を動かすとか、センスのないいかにもという本しか読まないようではダメだ、こういうわかりやすく単純な本では肝心なものが養われない、自分を鍛えるための読書というのは常に葛藤しながら読んでいくこと、そうすれば頭と心が鍛えられる。
難しい本を読むというのは実にだいへんな作業である、難しい本だったら5ページぐらいよんで解読するだけでも3時間以上かかるのもあるし、その内容がまったくちんぷんかんぷんであったりする。しかしそうやって葛藤していくうちに著者と同調したり、いやあこれは違うなあと対立がおこり、次第にもうひとりの自分がでてきて、そのもうひとりの自分が客観的に物事を考える自分で、物事というのは客観的に見なければ解決しないことが多く、この客観的に物事を解決していく上でもうひとりの自分の存在、客観的に物事を見ていくことが必要である。
 

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Stop your cheap imitation

2014-03-06 | Weblog
近くのスターバックスでよく仕事をする。
この前DQN高校生らしき奴らが近くの席に座った、一応校則を守っているのかいないのかは微妙な服装と髪型であったが、しかしバカそうな雰囲気をかもし出していたので、うるさい奴らが来たなあと思っていたら案の定うるさい奴らであった。
なぜこういう奴らはアホみたいな目立ちかたをしようとするのかわからない、わざとでかい声でさわいだり、手をたたいて喜んだりして、まるでサルのようである。
もしマグナムを持っていたら近くをかすめてやるのだが、少ない語彙できゃっきゃきゃとサルのような奴らが騒ぐのはアホ丸出しで非常に不快である。
髪をど派手に染めるのも勝手であるが、しかし髪をど派手に染めるのは個性がないから目だとうとしているだけだ、むしろナチュラルな髪の色を否定しているのだから、髪をど派手に染めることは個性ではない。
せめて学校に行っているのなら、それらしい振る舞いをすればいいが、しかし個性個性と言っているわりには、自分たちの将来を傍観していて、将来にたいして半ばあきらめの境地もある。こいつらが多少おとなしくなるのは就職が決まるある一定の期間だけ、あとは楽しく騒いで過ごすというのがDQNの生き方だが、こういう奴らにとって勉強の優劣よりも目立つか目立たないかが問題で、ボクシングや格闘技というのは、こういう人間の受け皿になることもしばしばある。
勉強ができない、個性がないような人間が、ただ目立ちたいからと言って、こういう特別なスポーツをする、しかしこういう人間に格闘技をさせるのは勘違いの元、時にはそれが刃物を与えるような結果となることもある、大事なのはその群れの中でしか通用しないルールを教えるのではなく、教養を身につけてコモンセンスを理解することである。

話はボクシングの話になるが、日本人はよく防衛何回とかと言うことを問題にしているが、V何とかってそんなに重要なのかと思ってしまう。
アメリカではヘビー級のチャンピオンが一番有名なのは一番大きいからだ、パッキャオがあれだけアメリカで有名になれたのは、彼が階級をどんどんあげて行って大きい相手をことごとく倒して行ったからで、欧米諸国では大きいものに向かっていくことが、人々から賞賛されるのだ。
聖書の中にダビデの話がある、ダビデというのはイスラエルが一番繁栄した時代の王様であるが、彼がまだ少年だった時に敵国の有名な大男を石投げの道具をつかって倒したという記述がある。この記述はボクシングの試合でも時々引用されるのだが、この物語の重要なポイントは大きいものに向かって行ってそれを倒すということである。
たぶん欧米人は子供の頃からこういう話を聞いているので、強いものを倒すとか大きいものに向かっていくということが強さの象徴としてDNAの中にあるのだと思う。
だから減量をして小さくしていって、自分の階級を守るなんていうことは、たいして偉大なことではない。私がよくわからないのが減量の過酷さを、それがかっこいいかのごとく自慢げに語る奴だ、おそらく減量の苦しさとか過酷さをあれだけ強調するのは日本ぐらいで、そういうことを自慢げに言うとバカだと思われてしまう、しんどかったらやらなければいいのだ、第一そこまで過酷な減量にどれだけのアドヴァンテージがあるのかわからないが、そんなことは科学的に説明できない、その説明できないことを必死でやるのは得策とは思えない。
ボクシングというのはかなり古い歴史があるらしい、テレビではローマ時代からあるなんて言っているが(私は実際はアメリカ建国時代ぐらいからだと思っているが)、しかし歴史はあっても科学的な要素は少ないと思っているが、日本人の減量のとらえかたが、まさにそうではないだろうか?
それでも日本はほかのスポーツの影響からか、なるべく学問的な要素を取り入れて、論理的に物事を考えようと試みているが、しかし致命的なのは語学力がひくいということ、語学力がひくいとこの時代はダメだ、理解がとぼしくなる。特にオリジナリティなんて持つことはできない、だからほとんどサルまねで終わってしまうのだ。
最初の話に戻るが、かっこいいからとか目立つからやるというのはサルまね。
あまりかしこくない、個性がないからこういう単純なことで目だとうとするが、しかしそれは本当にみじめで恥ずかしいことだ。













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日朝首脳会談

2014-03-03 | Weblog
「日朝首脳会談」
日朝首脳会議が1年半ぶりに行われた、今回遺骨と墓参りについて議題に取り上げられていたのだが、墓参りというのが非常に気になった。前回の日朝首脳会談では議題にあがったのかどうかもわからないが、今回は遺骨と墓参りについて交渉したと政府がそのことを強調しニュースでもとりあげられていたのだ。
たぶんこの言葉を聞いたら、なぜ遺骨や墓参りをニュースで取り上げ、優先的に取り上げるのだ、7時間にわたる交渉だったので、ミサイル問題などほかに重要なことはあるだろうと、おそらく誰もがそう思うだろう。
しかしこれには北朝鮮をゆさぶる政府の意図が見える、日本の外交も北朝鮮というやくざ国家を相手に修羅場をくぐって、ようやく外交らしい外交ができるようになったと評価しているのだが、日本が墓参りを強調したのはそれなりのわけがある。
1年ぐらい前のブログで北朝鮮が日本は約束を守らないと言ったことの対して、北朝鮮にじゃあ拉致被害者に墓参りさせろやと言ってやったらいいということを言ったことがある。
朝鮮文化は儒教だ、朝鮮民族にとって先祖を敬うことは義務である。だから墓参りを要求するというのは非常に相手の痛いところをつく上で効果的である。
チェサという祭があるが、これは昔年7回ももたれていた、先祖を敬う儀式のようなものである、ソウルではこの習慣もすたれてしまい、手間がかかるし、仰々しいので、年2回ほどになってしまったが、しかしそれでも未だに朝鮮民族はこのチェサを行っているのだが、それは彼ら彼女らの文化が先祖を崇拝し、儒教に基づく文化だからだ。
私はこの墓参りと議題にあげたのは非常によい作戦だと思っている、おそらくその背景には朝鮮文化に慣れ親しんだ人間の存在があると思うのだが、この墓参りという言葉を武器にどんどん有利に交渉してほしいと思う。
今日語学を教えている高校生に、1カ国語でしか話せない人間と2カ国語話せる人間では、考える上でかなり差が出てくる、3カ国語ならなおさらのことだと言ったが、本当に他国の文化を知ろうと思ったら、まず言葉をおぼえること、言葉をおぼえて会話したり、本を読んだりしたりすることでいろいろなものが見えてくる。

「ボクシングクラブであってそうではない」

うちのクラブはボクシングクラブらしくないクラブだ、ボクシングの賞状やトロフィー、ボクシングのポスターと言ったたぐいのものは貼らない、飾らない、私はどちらかと言うとスポーツクラブの感覚でいるのだが、非常にシンプルである。
はっきり言ってもうこれぐらいの年になると、そういうことを強調することがアホらしくなってくる、そういうよくわからないボクシングの実績など、会員の人と何が関係あるのかわからないが、他に自慢できることがないのだろう、しかしそれは非常にみっともない話だ。

私がいつもここで考えていることは会員をどう遊ばせるかということ、しかしあくまでボクシングなのでケガをさせないということが前提にある。
遊びというとけしからんというアホがいるが、しかしそういうことをいう奴は、日本語しか話すことができない人間だ、英語で遊ぶと言うのを考えてみたらいい、遊ぶというのはplayであるが、それはサッカーをするとかベースボールをするという時にもつかわれるのだが、この言葉が意味するようにスポーツというのは遊びの感覚がなければならない、スポーツというのは楽しむためにある。
特にここには仕事帰りの社会人がいるので、できるだけけがをさせないで遊ばして、楽しい思いをさせてあげようというのがここの方針である。



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