脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

小さな島の大きな野望

2011-02-28 | Weblog
日本に滞在したことのあるアメリカ人と話をしていた。
彼の話によると最近売れて来ている女優がいるらしい、彼女のそのデビュー作となったのがボクシングの映画で、名前は忘れたがむこうでは結構有名になりつつある女優であるそうだ。
彼はカリフォルニア出身の青年だが、ボクシングはここカリフォルニアと言うか、LAなどのヒスパニックやフィリピン系が多い地域では人気があるスポーツで、よくボクシングの中継をテレヴィなどで見たそうであるが、彼のお父さんはボクシングが好きでよくリビングでその中継を見ていたそうだが、彼の小さいころの思い出と言えば、その父がカウチにすわってボクシングを見ている姿だそうで、ボクシングを見ていると彼は何となくノストラルジアを感じるそうである。

ハワイところもは移民が多いせいか、ボクシングが盛んであった。
それは日系人の間でも人気があったのだが、実際私がいた頃も盛んで、その当時は日系人とかフィリピン系などがヴォランティアで試合などの運営をしていたのだが、結構試合なんかもひんぱんに行われていて、年間に練習試合みたいなものをあわせたら20試合することは十分可能で、俺は100戦やっていると言うのがざらにいたことをおぼえている。

その当時はアマチュアでも結構スターっぽい選手がいて、彼らは強くなればプロになり、そう言う人間が世界を目指してメインランドに旅立った。しかしそういうスターっぽい選手たちだが、ハワイではずば抜けて強いので、まるでチャンピオンのごとく新聞などに書きたてられるが、しかしメインランドはもっとひろく、競争も激しく、強豪もたくさんいる。そういう中で彼らがサヴァイヴしていくのはかなり難しく、ほとんどの人間が夢半ばにしてかえってくる。
私の知り合いのオギというハワイアンの人間もそうだが、彼は今ラジオのDJをやっている。
その彼が「大きな国で勝ち残っていくことは難しい」と言っていたが、むこうに行ったらやはりまずレヴェルの違いを思わされるそうだ。

私も実際人階級上だったが、向こうから来ていた黒人の世界ランキング何十位とかいう選手とスパーリングをやらされたのだが、これがえげつなかった。みんなスパーをしたがらないので、じゃあ俺が根性をみせてやるとばかりに志願したのだが、これが間違いだった。
正直その時は無謀にも倒してやろうというようなことを本気で考えていたのだが、それはめちゃくちゃ甘い考えだった。
相手はレヴェルがあまりにも違いすぎるので、左のパンチしか出さないと言うことだったが、しかしその左がめちゃめちゃ強く、例えるならば10キロぐらいの石を直接、頭と言うかでこにおとされているような感じで、生意気に倒そうと狙ってくる私に多少のいらだちを感じたのだろうか、それは結構厳しいパンチを入れられて、1ラウンドが終わった時はほとんど脳しんとう状態で、まっすぐコーナーに歩けなくて、千鳥足のような感じでふらふらと歩いてかえっていったことをおぼえている。
2ラウンドのスパーが終わるとまわりの人間が「おまえよくやったなあ」とか「おまえは根性ある」なんて言うことを言っていた。私の親友の台湾人は冗談で私のグラブをほどきながら「お前あんなスパーを志願するなんて、神風の生き残りだ」と半分笑いながら言っていたが、しかしあんなえげつないパンチはもうもらうのはごめんである。

当時のハワイにはプロボクサーが何人かいたが、たいていはアマチュアで実績を積んでライセンスを取って何戦かしてからメインランドに行くのだが、彼らの実際の戦いはここから始まる。
まずメインランドに行くにはここで相当の実績を積んでいかなくてはだめだ、しかし実際実績をつんでもむこうではそういう実績を積んだ者は掃いて捨てるほどいるわけで、現に私がいたころ何人かプロになってメインランドに渡ったが、今まで成功と言うか世界ランキングの1位にまでのぼりつめたのはヘススというフィリピン系の人間ぐらいで、それはメインランドで勝つことはいかに難しいかということを物語っている。
スポーツは才能がものを言う世界である。しかし才能は磨かなければそれが発揮されることはない。
たぶんアメリカでは才能があっても努力しないと生き残っていけない。なぜなら才能ある人間なんて掃いて捨てるほどいるからで、努力と言うのはそういう中で生き残っていくための術でもある。
天才と呼ばれる人たちが多くいるアメリカで、そのことを私は彼らから感じとったと思う。
よくアメリカは大きい国で世界中の人たちが集まるので、才能ある人が多く、そういう人たちは自分の才能ひとつでのぼりつめたというようなことを考えてしまいがちだが、しかしその考え方は一面的である。
あの国では常に競争の原理が働いているので、生き残っていくためには努力が必要である。
ここではたとえ才能があってもどう努力するかが問題である。才能というのは英語で「Gift」すなわち天からの授かりものだ、その天からの授かり物をどう生かすかというのが、われわれに与えられた課題であり、その才能を信じて彼ら彼女らは生き残りをかけて戦っているのだろう。そういう姿を私はこの小さな島から感じることができた。
オギーは実際自分がメインランドで成功しなかった理由を自分には才能がなかったからだと言わない。自分の努力が足りなかったんだと言う。実際彼は自分には才能があったと信じて疑わない、しかし努力が足りなかっただけで、その気持ちは今の仕事に生かせているだろう。


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おっさんの英語勉強法

2011-02-25 | Weblog
かなり前から爆発的に売れている英会話の教材がある。
有名なプロスポーツ選手がCMにも出ていて、聞くだけで覚えると言う英会話の教材であるが、昨日本屋である雑誌を立ち読みしていたら、その教材はプロの英語講師たちが選ぶワースト1の教材として挙げられていた。
実際私は聞いたことがないのだが、しかし聞くだけで覚えられると言うのは、いささか誇大広告ではないだろうか。
まあ幼児期から小学生の子供についてはそういうことが可能かもしれないが、しかし完全に成人化した人間の脳というのは、今までインプットされていない情報は処理できないので雑音として受け取ってしまうので、聞き流すだけで、しかも日本語とは全く構造のちがう英語をおぼえられると言うことはかなり難しいことだと思う。
おそらくあの状況に応じた場面であるならば、まったくあの通り会話すれば、問題ないので海外旅行に行く人たちにはいい教材となるのだろうが、しかしTofulやToeicなどを受けようとする人たちにはあまり必要のない教材かもしれない。

今日は冒頭から英会話の話をしたが、おっさんからおぼえる英会話ということで、私が考えたこと聞いたことなどを紹介したいのだが、ここ近年英語の需要性が高まりつつある。特に企業などは英語を率先的に仕事につかい、友人の会社ではメールなどもたとえ日本人同士でうつ時でも英語でうたなくてはならないという規則があるそうだが、このにわかに導入されたと言うか、グローバル化がすすみ外国人との取引などが当たり前のようになってきた今、コミュニケーションや情報を受け取りためにはこの英語というのは欠かせない道具である。

しかし英語は日本語とはまったく構造が違うので、日本人にはたいへん難しい言葉である。実際これをマスターするには相当な時間が必要で、特に我々のような頭がかたくなった中年には、さらに一から覚えるとなると聞き流すだけでは絶対おぼえられない、新たな学習法が必要である。

そして我流であるが私がおっさんにすすめる勉強法は「とにかく文をつくる」という勉強法である。
実際にそういう状況に自分をあてはめて自分の言いたいことを文章化して、それを実際に言ってみると言う勉強法であるが、おそらく30代後半よりも上の年代は、もうすでに脳ができあがっているので、聞き流しておぼえると言うことは幼児でもあるまいし、不可能である。
しかし文をつくると言うことはある意味、頭の切り替えである。
もう頭が出来上がってしまっていれば、幼児のようなかたちで、半ば自然的におぼえることはできないが、しかし頭を切り替えると言うことは訓練によって可能である。
文をつくると言うのは、日本語のスイッチを英語に切り替えてやっているのだから、この作業をすることによって今まで日本語でしか物事を考えられなかった、頭が徐々に英語頭に切り替わってくる。
そしてこの訓練を繰り返すことで英語を習得するという方法であるが、おそらくもう頭が固くなってきて、記憶するのがむずかしい我々にはこの方法がベストではないかと思っている。

でこの「とにかく文をつくる」勉強法であるが、方法としてはまず自分の言いたいことを捜すのに、思いついたことをメモしたり、日記をつけることでもいいし、英検の面接を参考にするなんて言うのもいい、とにかく何かを話すと言うか説明する機会を持ち書いてみる。まあ少し次元は違うが「とりあえずビール」なんて言うのも、そんな発想は欧米にはないので、そういうことを日本語でどういうのだろうかということを考えるだけでも、頭が徐々に切り替わってくるのである。

そしてここで必要なのは翻訳機、翻訳機は必ずしも正確とは言えないのでなるべく精度のいいものを選び、自分が実際いいたいことをそこにうちこんで、それが正しいか正しくないかと言うことを確認しながら文をつくる。
翻訳機の制度が高ければ、自分の書いた英語が間違っていればちんぷんかんぷんな日本語になる。そうやって自分の言いたいことを翻訳機にうちこみ、繰り返していくと、かなり発想が英語的になるのではないかと思っている。

また英英辞書をひくと言うことは、かなり英語のイマジネーション能力が広がる。
英英辞書と言ってもだいたい3000語ぐらいの語彙があれば読める。「Time」という雑誌を読むのに訳6500語必要であるそうだが、だいたいその半分ぐらいであるから、そう考えると読むのにそう難しくはないだろう。
一つの単語を英語で理解すると言うことは、かなり英語的発想の切り替えになるので、辞書をひく時は徹底してそれをやってみればいいと思う。

おっさんは人の話を聞かないと言うのが通説である。聞くと言うことも大事であるが、しかしおっさんはその専売特許であるいいたいことを言うということができれば、英会話教室でもおっさんは水を得た魚のようになり、会話が広がるのではないだろうか。

オリーヴには貿易を仕事にしたり、語学関係の仕事の人が何人か来ているが、彼ら彼女らを見ていたら地方だからと言って、英語が必要がないということは絶対ないということがわかる。ここ高知にも外国人が増えて来て英語教育も盛んになってきた。
特に私の住んでいる地域はかなりの欧米人をみかけるが、学校にもハーフの子や外国から来たこどもなども在籍しているらしい。

現にこういうスポーツクラブでも海外から情報をひろっていけなくては、最新のベターな情報を集めることができない現実である。

これは私の意見であるが、スポーツ選手でも語学ができたり、それを習得している人間の言葉と言うかインタヴューは深いと言うか先のことを見据えているように思える。サッカーの三浦選手なんかは「へーっそうなのか」と思わされることはしばしばある
彼は単身でブラジルに渡ったそうであるが、その時ポルトガル語をおぼえたそうである。
しかしこれにたいしてあまりそういうことが得意でないというか、興味のない人間のインタヴューはあまりインパクトがない。
偉そうに「世界とか俺がかえる」なんていうのがいるが、聞いていてもその場限りで、その先が見えないのである。
あるボクサーはスペイン語をメキシコ語と言っていたが、笑ったとんでもない間違いだ。ここまでくれば無知も甚だしい。
確かにメキシコ語らしき言葉があるが、ここで公用語として使われているのは「Spanish」なので、正確に言えば「Mexican spanish」で彼の言うメキシコ語とは違う。まあ彼はメキシコだからメキシコ語だと言うような発想で言ったと思うが、これを見ている人はかなり増えて来ているので、勘違いがあってはいけないので書いておくが、言葉というものを意識しないと理解できないことが多いし、実際見えてこないものはある。
世界に出ていく人間だからこそ、そういう広がりをもった考えができるように語学習得は必要だと思っている。












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試合会場におけるパワハラ

2011-02-21 | Weblog
先週書いたボクシング廃止論であるが、いろいろとメールをいただいた。
中でも自由主義的同意に関してはかなり専門的なアドヴァイスをいただき、本当に勉強になったと思っているが、だいたいのボクシング廃止に反してなされる意見は、いささか感情論的で、それをうちくずすには不十分だと言う意見である。
たぶん多くの人たちが本人たちが覚悟を決めているからいいではないかという意見を持っていると思うし、こういう意見はよく聞く、しかしこういう意見が出てくること自体、物事を客観的にとらえていない証拠であって、覚悟を決めているんだということを問題にするならば、ボクシングは覚悟を決めなくてはできないスポーツなのかということで、さらに危険視されるであろう。

もうこういう議論は精神論や根性論の範囲でとらえれれるものではない。その議論がなされている背景にはバイオエシックスや倫理学、そして社会学の問題があるので、そういうことを無視して俺は覚悟はできているんだと意気込んでも、感情論と切り捨てられてしまうであろう。
ルールに関してもたいへん不思議に思っていることがあるのだが、外国とのルールの違いである。経験や見た目、聞いたことだけでこういうことも何であるが、日本はアメリカなどに比べてかなり厳しいように見える。
しかしそういう厳しいルールがあるが、はたして議論したり、自分たちの主張と言うものをもって、そうしているかというと疑問である。ただ国際的に厳しくなって、風当たりが強いからおとなしくしていなければならないというような感じで、とりあえずルールをがんじがらめにしとけなんていう感じがしてならないのだが、お上がうるさいから過敏になると言うのは、江戸時代のメンタリティそのもので、正直もっと自分たちの意見と言うか主張を持つべきではないだろうかと思うのだが、これからは感情論ではなく、その彼ら彼女らと対等の立場に立てるためにも、もっと言葉を勉強して、そういう主義主張を磨くことは大事なことであろう。

しかし西洋のスポーツを競技しているのに、メンタリティーは未だに江戸時代だ、ここには独特のヒエラルキーがあってついていけない。よく会場で弟子みたいな人間を集めて、偉そうにしているのがその典型的な例だが、ああいうみっともないことは避けるべきである。
彼らは尊敬されたいとか、お山の大将でいたいという気持ちが強いのだろうか。しかし見ていて見苦しいし、威圧感がある。
私などはああいうグループが跋扈する限りはスポーツの一般化をはかれないと思っているのだが、さらに私が聞いていて頭に来ると言うか、ここまでくればパワハラの領域だと思っているのだが、「おいお前」とか「おいそこ」というように偉そうに言う人間だ。しかもそういう奴に限ってたわいもないことをリングサイドからでかい声で注意するのだが、何様だと思っているのだろうか、こういうことは自分たちのテリトリーのボクシング会場だから通用するのであって、おいそことかあまり知らない人間をたわいもないことで、自分の立場を利用して、でかい声で人前で注意するのは、パワハラであって、社会通念上ゆるされるべきことではない。
特に我々のようなあまり知られていない集団はいいやすいのか、それとも位置関係を示したいのか、言われることが多い。
さらに「審判の印象をわるくする」と当たり前のように言われているが、そもそも審判の印象をわるくするということはどういうことなのか?ここにもよくわからない権威主義が見え隠れしているような気がしてならないのである。

昔アメリカの試合で、試合中に自分の試合に納得がいかなくてコーナーマットをけったことがある。
たぶんこんなことを書いたらひかれるかもしれないが、しかしその時は気が立っていて思わずコーナーにかえってくるなり「クソー」とコーナーをけったのであるが、今こんなこと今すればとんでもないことである。
実際試合が終わって控室のようなところで、審判が諭すように、あれはよくないと言ってくれたのでよくおぼえているのだが、しかし彼は人前で見せしめのようにおこることなく、今のはよくなかったんじゃないかと、あえて控室のようなところにまで来てくれたのだが、そうだからと言って私の印象がわるくなるということはなく、また乱暴な奴とレッテルをはられることもなかったのだが、実際その試合も判定勝ちであったが、 そういうことがあっても色眼鏡で私のことを見ないで公平にあつかってくれたことには感謝している。

以前うちの選手もこれと同じようなことがあって、その審判には感謝している。
それはある試合でその選手が故意ではないが、何か相手を挑発したというようなことであった。
試合の進行上は問題なかったと思うのだが、しかし少し出過ぎたことらしく、スポーツマンとしてはあまり好ましいことではない。しかしその審判と言うかジャッジの偉かったのは、その場で「おいお前と」注意せずに、後で直接私のところに来て、こうだから注意してくれと言うことであったのだが、これは非常に感謝すべきはからいであった。
普通だったら自分の試合でそういう行為をされると思わずその場で「おいお前」いいたくなるものだが、その人は彼のことを気遣って、自分のメンツよりも彼のメンツを大事にしてくれたのだが、そのはからいには本当に競技者を大切にし、尊敬してくれていると言う気持ちが表れている。
偉そうにおいお前とか人におこるやつは往々にして、人前で聞こえるように、自分の権威を誇示するかのごとくおこるが、しかしそういうことはアスリートのことを考えればはたしていいことだろうか。
人前でこわい顔で注意されて、気をつけようとするがしかしかえって委縮するだけであるし、そういう関係の中にはヒエラルキーが存在しているのである。
私が思うに大事なのは監督やコーチそして学校などのメンツではない、その人がいかに競技を楽しめるかで、いちいち監督の顔や審判の印象をよくしようということを考えていて、本当にその競技を楽しくできるか疑問であるのだ。


次回は面白い話し。







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Dangerous sportsだって。

2011-02-18 | Weblog
ここ何年か前からボクシングによる事故が相次ぎ、イギリスではボクシング廃止論を提案する人たちがでてきている。
実際アマチュアにもその影響というか圧力がかかり、何年か前から突然ボクシングのルールが厳しくなったのだが、世界ではこのスポーツに対しての風当たりは決してよくない。
現在のところこの廃止論はおもにプロスポーツに対してであるが、しかし中にはアマチュアボクシングも廃止しろと言う声も少なくはない。
特に医師でもあるDr Mukesh Haikerwalは次のように言っている。
「The dangerous sports boxing should be purged from the common wealth and olympic game.」
これはおそらくフォーラムで彼がそのボクシングは、なぜ廃止しなくてはいけないかということを語った時に冒頭で述べた言葉であるが、英語は単純であるほどきつく聞こえるが、まさにそんなものは廃止されなくてはいけないんだということを彼は冒頭から述べているのである。
この文は単純なので見れば訳せると思うのであえて訳さなかったが、この文にはひとつ見慣れない単語がある。それは「purged」という言葉であるが、これは「除く」とか「追放する」という言葉である。
この言葉は英語の辞書で見て見るとまず第一発目に「to force your opponents or people who disagree with you to leave an organization or place, ofthen using violence」と書かれているが、単純に言って「should be purged」とはそういうあぶないスポーツは競技されるべきではなく、何が何でも追放されるべきだというような強いニュアンスを含んでいる。

でなぜボクシングが危険で追放されるべきなのかと言うのは、その競技性にある。
あまりごちゃごちゃかくとややこしくなるのでかいつまんで説明すると、以前アメリカのアマチュアボクシング協会で、ボクシングが、他のコンタクトスポーツにくらべてけがが少ないと言うようなことを報告していたレポートがあったが、しかしここで危険性について問題になっているのはどれだけけがの確立が高いかどうかという問題ではなく、そのボクシングの競技性が問題であって、すなわちボクシングだけがその競技において相手をたたきのめすという目的で競技されていて、その性質が危険であるとみなされているのである。

しかしこういうことを言うとみんなそれなりに覚悟してるなどと言う人間がいるが、しかしここであつかわれている問題はそういうDQNレヴェルで考える次元ではない。
以前ボクシングは殺し合いだなんていうことを言って、失笑をかっていたバカがいるが、もうまともに義務教育をうけていたら理解できると思うが、ここで問題になっているのは、そういう覚悟がどうだというの問題ではなく、人間としての倫理、そして医学的な立場からの生命倫理の問題で、そこに立って考えるならば、もはや反論の余地はないということがわかるであろう。逆にそういう覚悟が必要ならば、倫理や生命倫理の観点から絶対にやめさせなくてはならないというようになってくる。(この件に関してはRadfordと言う擁護派がその著書「Utiltariarism and the noble art」という中で書かれていたように、ミルの自由主義的同意と言う言葉を持ち出して、競技する権利をとなえるだろうが、この件に関しては少し次元が違うと考えられる)

昨日の日記にも書いたが、あるテレヴィ局のアンケートによるとボクシングは親がさせたくない第一位のスポーツだそうだ。
確かどこかの番組でも賢くない人が多いスポーツで第一位にあげられていたが、おそらくまだまだこのスポーツに対する偏見があって、その廃止論を唱えている人たちには、そういう危険であぶない、教育レヴェルが低くてごろつきのやるスポーツだと考えている人たちも少なくはない。

おそらく今必要なのはイメージアップだ、最近テレヴィにチャンピオンや元チャンピオンが出て来てイメージアップをはかっているようだが、しかしあれは引退してもテレヴィに使ってもらおういう魂胆はみえみえで、お笑いにいじられている姿を見ると何とも言えない気持ちになるのだが、こういう演出しかできないので、ボクサー引退後お笑いという構図が我々の中でできているような気がする。

これに対して少し前あるヨーロッパで活躍するサッカー選手が、イタリア語だったかドイツ語だったか一生懸命おぼえていたのだが、その一生懸命おぼえていることに関して「たいへんですね、かなりおぼえましたか」というようなことを言われ、コメントを求められたことがあった。
その時彼は「とにかくチームの人間と言葉でコミニケーションをとることは大事で、さらにこういう勉強は自分の将来のためにもなる」というコメントをしていたが、おそらくこういう姿勢はサッカー協会が指導のひとつとしてアドヴァイスしているのだろうと思うが、バラエティーでうけをねらってお笑いにいじられる人間とは対照的である。

サッカーなんかはどんどん他の国に留学させて、言葉の重要性を重んじている。さらに彼のようにそれを学ぶのは競技だけではなく、将来のためにという言葉がでてきているが、確か私の友人の知り合いもプロで活躍していた時に、言葉をポルトガル語か外国語をおぼえて将来に役立てるとプロ選手時代から言っていたそうだが、こういう考えが持てると言うのは、スポーツだけではなく、生きていく上でもその生き方や考え方に広がりを持つことができるのではないだろうか。

今求められているのはこういう広がりをもった人材の育成である。そういう人間を輩出していくのもボクシングのイメージアップにつながるのではないかと思っている。「俺も昔は悪だったとか、勉強なんてしなかった」などと競技者と低次元で共感し、集まるのは言語道断、こういう輩は愚連隊の親玉である。
指導している人もたくさん本を読み「勉強しなかったらボクシングをやる資格はない」とおおげさだがそれぐらいのことは言ってもいいのではないだろうか。
正直私はスポーツバカと言われる人間には広がりを感じないし、話をしていても面白くない、生きている世界が狭いのと情報量が少ないせいか最終的には自分のことしか言わないからである。

卑近であるが、もしボクサーもウイットに富んだ会話ができ、英語やその他の言葉でインタヴューに答えることができるならば、世の中の見方もかわるであろう。
たぶん医学的な見地や倫理学的な見地から見て、Dr mukeshの言うボクシング廃止というのは、ボクシングは危険だ、野蛮だと言うイメージで見られている以上は、なかなか論理的にはうちくずすことができないと思う。
昔からボクシングは落ちこぼれや不良のスポーツと言うよごれてきな役割を担ってきたが、しかしもうボクシングはおちこぼれや不良のスポーツではない、そういうことがかっこいいこととして自分の世界に入っている人間がいるが、しかしそういうからをうち破り、世の中のそういうイメージを払拭する必要があると思っている。
せめて彼らの言う「野蛮で危険」から「野蛮」という言葉をはずすだけでも、彼の言うように「こんなスポーツは追放しろ」という表現にはならないだろう。

今明日のジョーが実写化されているが、あれはあまり喜ばしいことではない、映像や漫画の世界と現実は違う。逆に言えばああいうイメージでボクシングは見られているわけで、力石の死はまさにタブーである。それを男のロマンだと言っている奴は、この現実が見えてういないかもしれない。

最近は少しバッシングもなくなってきたが、しかしこの廃止論を唱えている人は多い。論文は英語などでも読めるので、勉強したい人や読める人は見ることをお勧めする。

ちなみに私のコーチは博士号をもっていたが、そのコーチは常日頃から我々にジェントルマンであれということを言っていた。












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ダイオット ハゴシップンデヨ(ダイエットしたいんですが)2

2011-02-16 | Weblog
去年からずっとダイエットの問い合わせが多い。
いろいろとブログや日記で書いているので、信用してくれているのだろうか。たくさんの相談がよせられる。
しかし最近ダイエットの相談に取り組んできてわかったことは、ダイエットと言うのはかなり難しい課題で、それはスポーツ学的なことだけではなく、生理学や医学的な知識がなければただしくそれを導いていくことができないということである。
人間の体と言うものは不思議なものである。特に女性の体は複雑なもので、マニュアル通りに練習してもそれがうまく行かず、エクササイズに励んだが逆に体重が増えたと言う不安の声を聞くこともある。
おそらく原因はむくみや冬だから体脂肪をたくわえたりするというようなことが要因としてあげられるのだが、しかしエクササイズをしていて逆に太ると言う現象はあり得ない、そこを丁寧に説明して問題点を見直して、取り組んでいくことも、ひとつの指導のあり方だと思っている。

はっきり言えることはダイエットとボクシングは別である.
ダイエットをしたい人はボクサーになるためにジムにくるわけではないので、きちんとダイエットのメニューを組んでもらうことが大事であり、指導員もそのことについてよく知っていなければならない。
ダイエットのために来たのに、すべてのことをボクシングで説明されるのは見当違いである。
ダイエットと言うのはボクシングではないのだから、本当に効率を求めてエクササイズしたかったら、質問しなければだめだ。エクササイズと言うのは幾通りもあるが、しかし本当に自分のあったスタイルの見つけるのは難しい。だから試行錯誤自分にあったエクササイズを見つけるために質問することが大事である。、

さらにダイエットに成功した人たちの体験談を読んだらわかるが、たいていの人はどこかで失敗しつまずいている。
しかしつまづいてはいるが、そこであきらめずさらにそれを改善し、自分にあったダイエットのやり方を発見し今に至っているのだが、やはり本当に効率がいいダイエットをしたかったならば、他力本願にならずいろいろと質問してエクササイズを改善し、自分なりのエクササイズを確立させることだ。
「パンチは腰をまわさなくてはきかない」とか「こうしたらパンチはきく」などと、すべての事柄をパンチと言う言葉をつかって説明するようでは、ダイエットのことなど理解していないといってもいいだろう。
いろいろと本を読んだりスタッフから聞いてわかることだが、ダイエットと言うのは人間の体を扱うことであるから、それはかなりデリケートなことであり、ある程度専門知識が必要である。
そういう専門知識をある程度持たなければ、指導することは困難だ、日本人はことこういうことになると他力本願なので、うちのように女性がたくさんいるということだけで安心する人が多いが、しかし大事なのはそのことについて何を知っているかということで、そのことは質問したらよくわかることだ、ボクシングをやりたければ別だが、しかしダイエットをやりたければいろいろと質問し自分のエクササイズを改善していくことが大事で、この質問にトレーナーは答えなくては前にはすすまない。

ここオリーヴではだいたい2,3か月ぐらいやるとたいていの人が自分のエクササイズと言うのを見つけている。
はじめのうちはあるエクササイズをルーティンにやってもらうことからはじめるわけだが、希望者にはデータをとってもらってそれを参考にしていろいろとアドヴァイスするようにしている。
そして2カ月もすると慣れて来て少し物足りなさを感じて、ミットうちを入れたり、女王様をしたりとその他いろいろなエクササイズを取り入れているのだが、おそらく女王様なんて言うのは、ある種のストレス発散でこれをやることによってストレスを発散させてエクササイズを楽しくする目的でもあるのだろう。しかし問題は順番であるこの女王様をいつやればいいのかということを、時にはアドヴァイスするのが自分たちの仕事で、この順番がその人のダイエットに意外に大事だったりすることもある。

ここは結構ダイエットに来る女性が多いが、自分たちは女性が多いなんていうことを売りにはしていない。
そういうことをうりにしてもあまり意味がない、逆に私などはうさんくさく感じるが、大事なことは自分たちがそのダイエットについて何を知っているかということである。
自分がエクササイズをしてもぜんぜん効果がないと、行き詰っている時にトレーナーはどういうアドヴァイスをしてくれるだろうか、ここからが大きな課題であり、むしろこういう時だからこそそのトレーナーの存在意義が問われる時で、そう言う時にアドヴァイスがしっかりできるトレーナーを選ぶことが賢明である。



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Objectiveな考えを持つこと。

2011-02-14 | Weblog
日記で「MONSTER」という漫画を紹介したが、その中に犯罪心理学の権威を持つドクターが出てくる。
彼は超凶悪犯罪者のインタヴューする時、必ずその内容をテープに記録するのだが、理由はその事実をドキュメントとして残しておかなければ、インタヴューが終わった後にその内容が彼の主観でとらえられてしまうからだそうで、いわゆる客観性をもって心理分析というものがなされなければならないからである。おそらくこの方法は心理分析においてとられている方法であるが、そういう真実が追求される現場において、主観性よりも客観性が求められるからである。

おそらくそれはこういうスポーツクラブや人の集まる集団においても言えることであろう。
ここを管理し、運営するにあたっては、特定な人間と仲良くしたり、グループ化をさけ、私はなるべく自分を出さないようにしている。俺はこうだとか、自分はこうだったという意見を極力いわず、常に客観的立場に立って何が正しいのか、そして何が必要なのか、どうすればいいのかと言うことを考えるようにつとめているのだが、客観的に物事を考えて判断すると言うことは非常に難しいことである。

自分勝手な人間のことをエゴと言うが、このエゴと言う言葉はラテン語の「私」という一人称をあらわす言葉である。
ラテン語などに見られる古い言葉は、動詞にもうすでに人称が含まれていて、人称代名詞をつかうことがあまりなく、もしつかうとしたら強調する時にのみつかわれるわけであって、エゴ(私)と言う言葉をつけて語られると「その私が」というような強調文になる。
ちなみにデカルトの言った有名な言葉「Cogito ergo sum(我思う故に我あり)」は主語がなく、CogitoとSumにその主語「私」と言う言葉が含まれている。
これをフランス語で言うと「Je pence donc je suis」英語では「I think therefore i am」で両方とも人称代名詞がはいるのだが、ラテン語でエゴと言う時、英語やフランス語のように誰がということを区別するためではなく、自分を強調したい時で、エゴ自分勝手と言う言葉はそこから来ている。

心理学の話になったのでついでにもう一つヒステリーと言う言葉も実は意外なところからというか、面白いところから来ている。
ヒステリーの語源はギリシャ語のヒストリア(子宮)であるが、当時はヒステリーと言うのは女性特有のもので、原因は子宮にあるとみなされていたそうだが、今こんなことを言えば女性差別であるが、しかし当時はまじめに考えていたのである。

話はエゴの話になるがよく「俺はこう、俺はこうした」というようなことをしきりに言う人間もそうだ、これは一種のエゴのあらわれでもあるが、しかし基本的にこういうことをいう人間は無知であって、これはあきらかに情報量の不足で言葉を知らない、物事を学ぶ気持ちがなく、客観的な資料、例えば本を読むだとかいう情報収集をすることなく、自分のせまい経験だけで物事を語ろうとするから俺はこうだとか、俺はこうしたというような内容のことしか言えないのである。

観察していて分かるが、学ぶ姿勢のない人間はでたらめが多い「社会でかしこいのと勉強でかしこいのとは違う」とか、勉強なんて役にたたないというようなことを強調したり、時々学歴のある人間のわるいところをあげへつらって、あいつらは勉強ができても人の気持ちがわかっていないなどと言う。
しかしこういう発言や態度は、学問を尊重していないからであって、こういういろいろな立場や年齢の人たちを正しい意味でまとめていくには客観的に物事を見ることが大事で、情報を集めたり、学ぶということは非常に大事なことなのだ。

私はその集団をまとめ運営するにあたって、客観的であると言うことが非常に大事だと思うのだが、人間が勢いとか情で集まるのは非常に全体のバランスにかけ、独特な集団を生み出すと思っている。
時々女性を○○ちゃんと呼んだり、あだ名で呼びあって、仲良くしている集団があるが、そもそも子供やホステスではないのだから、公共の場で女性をちゃん付けで呼ぶこと自体女性蔑視で、こういうことは社会通念でゆるされることではないのだが(この件に関してはまた別の機会でふれるが)、しかし仲がいいから自分を大事にしてくれるからという理由でゆるされるのである。

私の父は外国人であるが、父がこのようなことを言っていた。
当時道徳か何かの時間で、あることから私が「学校で先生がみんなと仲良くしなさい」と言うことを言っていたと言ったことに対して、父は「仲良くするよりも認めてもらうことのほうが重要だ」と言うことを言っていたのだが、まさしくこれは権利のことである。
これも以前書いたが、アジア人のハーフの男の子が、自分の仲のいい友達に自分の父は外国人だとうち明けた時に「顔が同じだからいいじゃないか」とか「友達だからいいじゃないか」という答えがかえってきたそうだが、仲良くしましょうレヴェルではしょせんこんなもので、本当に大切なのは仲良くしてもらうことではなく、権利を認め合うことである。

家族的であり、○○ちゃんやあだ名で呼びあって、わきあいあいとやるのもいいだろう。
しかし本当にそこで権利が守られているかどうか、もし考え方が違ったら本当に受け入れてもらえるだろうか。そういう仲間的な集まりは仲がいから、考え方が同じだから、大事にしてくれるだけなのではないだろうか。
公共の場で我々が女性を○○ちゃんと呼ぶのは社会通念上ゆるされることではない、調べたらわかるがそれはセクハラで、子供でもあるまいし、女性蔑視である。しかしわきあいあいと仲良くしていたらそういうことは問題ではないのである。
おおげさのようなだが、おおげさではない、また仲がいいからとか親しみをこめてという問題でもない、ちゃんづけで呼んで訴訟をおこされたケースもある。
こういうことはまず指導する側が気をつけることであり、公共の場では基本的に守られるべきことだ、もし気にならない人がいてもこういう権利を尊重してあげるのもひとつの権利を認めると言うことで、そういうことが少し前から言われている女性の自立(こういう言葉をつかうこと自体おかしいのだが)につながるのである。
しょせんきちんと情報をとらえて、何かを学ぼうとする姿勢がなければ客観的に物事をとらえることができない、情や勢いだけであつまるだけでは、本当の意味で人間の権利を尊重できない、それは仲がいいかそうでないかという問題である。

ちなみにここはいろいろな職業の人や他県の人、外国人もいる。
正直言ってこういういろいろな考え方を受け入れまとめるのは難しいが、基本的にはみなさん大人なので、まとめる必要はないと思っている。
こういう社会人が集まる場で大事なのは権利を認め合うことである。
その公共性や権利と言うものを正しく理解するために、学ぶこと研鑽が必要である。
ここにはいろいろな立場の人が来ているが、考え方や性別に左右されることなく、それぞれの目的や立場を尊重しながら、エクササイズに励んでほしいと思っている。










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Client(依頼人)

2011-02-09 | Weblog
The client(依頼人)という面白い映画がある。
監督は「評決の時」「ペリカン文書」などでも有名なジョン グリシャム。
おおまかなあらすじは、大物マフィアの殺人事件のカギを握る少年が、自供を得るために彼の命を顧みず、手段を選ばない警察の追跡とマフィアの口封じのための殺人から逃れるために、一人の弁護士をやとって自分の身を守ると言う物語である。
それにしても子供が弁護士を雇うというのは驚きであるが、私がこの映画を見ていてすごいなあと思ったのは、彼ら彼女らが子供を証言台にたたせたことで、しかもそれは立たなければ偽証罪で裁かれるという観点から立たせたことだ。
この子供がマフィアのボスの殺人のカギを握っているとはいえ、11歳に満たない子供である。
しかしそういう子供であっても容赦なく自供をとろうとしたり、強引に証人台に上げようとするやり方はやはりアメリカ、この社会では裁判となるといくら子供でも同等に扱われ証言台に立たなくてはならない義務があるのだ。
実際この映画のシーンで何か知っていると感じた相手側の弁護士が、何か知っていることがあったら話せ、知っていることを話さないとお前は偽証罪になるぞと詰め寄るシーンがあるのだが、この偽証罪と言うのは、モーセの十戒の「汝隣人について偽証してはならない」という偽証罪のことで、おそらく子供に対してもこういうことが言えるのは、彼ら彼女らの法というものがバイブルに基づいており、このバイブルと言う正義が彼ら彼女らの法制度に深く根ざしているからだと思う。
現在少しかわりつつあるが、基本的にアメリカの裁判では、証言台に立って証言する時、バイブルに手を置いて宣誓するならわしがある。
これは裁判が神の名によって行われるから、証言する以上は偽証するなよということで、もし彼ら彼女らが偽証するということは神にうそをついたことになり、神によって裁かれるということで、それは子供であってもある意味公平な証言や裁判が求められるということだが、しかしそれは東洋人的に言って少し行き過ぎているように思える。

バイブルにおいては神の下にすべては平等なのだから、子供であっても神の前にたたされるならば、それは大人と同等であるという考え方はいいのだろうが、しかし子供に関して言えば、メンタル的にも情緒的にもまだ発達の段階であるのだから、責任などもてるはずはない、大人がそれを擁護してやらなくてはならないのではないだろうか。
向こうではよく子供が大人を歌えると言うケースが見られる。アビューズドチルドレンならば話は別だが、親をうったえたり、マクドナルドに自分が太ったのはお前のせいだと訴訟した子供がいたが、たとえ権利が大人と一緒で同等にみなされたとしても、子供はまだまだ未発達段階であるし、裁判と言うさらにそのことを子供がひきずっていかなくてはならないと考えた時に、東洋人であれば裁判を起こすことに対して二の足を踏むこともあるだろう。

私は「子供らしさ」と言う言葉に、何か東洋人の愛情と言うものを感じている。
これは英語などにはない言葉であるが、親が子供に子供らしくしなさいと言う時、往々にして東洋人がそれを言う時は子供にとってそれがよくない、ふさわしくないと感じる時である。
私の友人が昔ある国に行った時に、小学生ぐらいの子供がタバコを吸いながら女と肩を組んでいるのを見て驚いたそうだが、ある人から聞くとその国では、子供であってもある程度権利が認められいるそうで、子供がタバコや酒を飲んでもとがめられないらしいが、しかしそれはたとえ子供であっても何かあれば大人と同じ責任をせをわされるということでもあり、容赦なくたたきのめされると言うことも意味しているそうだ。
確かに「Once aupon a time in America」というマフィアの映画で、子供があるチンピラ組織の縄張りに入って来た時、チンピラが子供を容赦なくたたきのめし、撃ち殺すというシーンがあったが、平等と言うことはそういうことも含んでいることは明白である。

「子供らしさ」というのは子供を保護するための言葉である。
欧米のようにおおまかな権利を子供にも認めると言うことは、ある意味平等なのだろうが、しかしはたしてそのことは子供にとってよいことなのだろうか?
子供らしくと言うことは、子供が大人から擁護され守られて、それらしく自由に生きることができると言うことかもしれない。
最近ではそう言えるかどうかはわからないが、しかしこの子供らしいと言う言葉は、何も余計なことは心配せず、そう生きてほしいという願いでもあり、我々がいかに子供を大事にしているかという言葉の現れではないかと思っている。

このクライエントと言う映画は面白いのでおすすめだ。
ちなみに私の好きなシーンは子供が弁護士事務所に行った時に
How much do you cost?((雇うのに)いくらかかるの?)と聞いた時にHow much have you got?(いくらもってるの?)と聞きかえされた時に子供が1ドル札をテーブルにポンと置くシーンである。







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わかってないなあ?

2011-02-07 | Weblog
以前若い高校生ぐらいだったろうか、ここに見学に来た。
私「こんにちは」
彼「ちょっと見学したいんだけど」
私「高校生?」
彼「まあ」
私「いや、まあじゃなく高校生なの?」
彼「うん」と言うといきなり私にここに来たら、どれだけ強くなれるのか、そして自分は世界チャンピオンになりたいのだということを言ってきた。
しかしここは社会人の憩いの場である。だからそういう意気込みでこられても困るし、第一きくところによると彼は経験者でもない。にもかかわらずそんなでかい口をたたけるなあと思ったのだが、私は「ここは社会人中心のクラブで、世界チャンピオンになりたかったら、ここに来たこと自体が選択のミスだ」と伝えてあげたのだが、どこまで本気で考えているのかはわからないが、いきなりはじめて世界チャンピオンになりたいなんて、正直小学生だったらあっそうかがんばれよであるが、しかし彼は思慮分別のある高校生だ、当然そういう発言は受け入れられることはない。
まあここは文科系でそんなに威圧感がないし、私自身もいかつくもなく、むしろ弱そうに見えるので、そういう大言壮語できたのだろうが、しかし最近こういう大言壮語をいとも簡単にしてしまう人間がふえているように思えて仕方がない。
そもそも世界チャンピオンになるということは、どういうことか知っているのだろうか。
なれるのは一握りの人間で、世界チャンピオンなど並大抵のことでは実現することはできない。それがスポーツの世界である。
余談だが私はもし世界チャンピオンになれてもなりたくない。なってどうするのか、そしてそのなった後どうするのかということを考えるとそのチャンピオンと言う肩書が自分のニーズにあわなければ、もしなれても意味がなく、むしろ商社や銀行などの企業で働いたほうが十分安定しているからである。

たぶんこの子供がここまででかいことを言えるのは、まず今の社会が子供に言いたいことを言わせる社会であるのと、そして彼は挫折と言うものを知らないからである。
失敗した時のこわさや、それができなかった時の責任がないからそう言えるのである。
今の社会はなるべく子供に挫折を味あわせないようにしているような気がしてならない。
幼稚園から大学まで一貫なんて言うのは、まさにその挫折な失敗を味あわせたくないと言う思いの表れであるが、その挫折を味合わそうとさせない社会の姿が、この若者の発言に反映されている。
人間は何か言えば必ず、その言葉に対して責任をおわなければならないのは当たり前のことで、高校生ぐらいになればそういう自覚が出てもおかしくない年頃だ。
私も昔はえげつないことを人前で言ったことがあるが、その言ったことに対する責任は大きく、後でとんでもないことを言ってしまったと後悔することもしばしばあったが、それは自分が言った後に失敗したらどうしようという心配があったからで、言いかえれば、今のように言わせてもらえるだけの社会ではなかったので、それだけ自分の言葉に責任をもたなければいけないということを分かっていたからである。

たぶん彼がそれほど本気でないことはよくわかっている。彼はそういうことを言ってもゆるされるから言っているのすぎないのだ。
前にもこういう子供がいたが、彼も辞めた後はおちこむどころか、2、3日して、けろっとしてまた違うことをやっていたらしいが、彼らが大言壮語するのは、ある意味言葉遊びのような感覚で、もしそこでやめてしまってもいいわけが用意されていて、まわりもまわりで、それほど深刻に受け止めず、むしろそのほうが無難であるからだ。
正直今うたれ弱い子供がふえているのは、言わせてもらえる社会で、彼ら彼女らが責任を持つことがない、そういう中でおそらく彼ら彼女らが挫折を経験していないからだろう。
人間レスポンスビリティというものを持っていたら、失敗したり、くじけたりしたら必ずそこで挫折を経験し、後悔する。
しかし本気で強くなりたければ、1度や2度の失敗ではくじけないだろうし、ちょっとのことで、あきらめてやめないだろう。
一度まけたぐらいで、それ以上みじめな思いをしたくないので、もういいやなんてやめてしまう人がいるが、しかし1度や2度のまけは失敗ではない経験だ。ここから本当に人間は強くされていくのだ。
スポーツの一番いいところは勝った喜びもそうであるが、さらにこの挫折した時に、人はどう立ち直っていけるかと言うことを学ぶことができるという点である。私自身もそう才能があったわけではないので、スパーリングなどでなぐられ、自分に納得いかないことが多々あって、その度に落ち込んだものだが、しかしその経験は今でもいかされているというか、ある意味挫折や失敗に対する免疫ができたと思っているが、こういう挫折と言うものをスポーツを通して経験するということは、われわれにとって貴重な経験でもある。
スポーツすることは素晴らしいことだ、特にボクシングはラテン語で芸術をつくるものという意味があるそうだが、スポーツは芸術であり、その芸術にたいして競技するものは、敬意を払う意味でも、そのスポーツを競技しているんだと言うレスポンシビリティを持たなくてはならない。

PS 確かにスポーツをするということはいいことだが、しかしスポーツだけしかしない人間はバランスが非常にわるい。
人間にとって一番大事なのは学ぶこと、知性と言うのは人間だけに与えられたセンスであるから、その知性を十分にみがこうとするのが人間らしいと言える。私は決して勢いやのりで突っ走ろうとするスポーツ馬鹿を擁護する気はない。まずそのことを第一に考えてから、スポーツに取り組むことが必要だ。









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勉強せい

2011-02-04 | Weblog
だいぶ昔の話であろうか。某バラエティー番組で大阪のかわった人たちを紹介する番組があったのだが、その番組でアジア○○という古い喫茶店が紹介されていた。
そこは大阪の人間なら誰でも知っていると言うあまりいい場所ではなく、当時そこには日本人の私のばさんの家があって、子供頃その近くに住んでいたのだ。
で実際その番組でその喫茶店が紹介されたのであるが、何やらかわったばあさんが出て来て、お笑いの人間とやりとりをしていた。どういうことを言っていたのかいちいちおぼえてはいないが、このばあさんなかなかのつわもので、わけのわからないことを言って攪乱させていたのだが、このばあさん見覚えがある。
さらに番組ではわけのわからないジュースを取り上げて盛り上がっていたが、実はそのジュースにも見おぼえがあって、後にこのジュースが話題になった時に、客がこのジュースを求めてくるようになって、1本1000円で売ると言うえげつないことをしていたそうだが、この喫茶店はうちのばあさんがよく行っていた店で、そのばあさんとうちのばあさんは友達と言うか顔見知りなのである。

実は以前この店に子供の頃連れていかれたことがある。
うさんくささがだたよう店で子供心に「ぼろいへんな店やな」と思っていたのだが、このような危険でうさんくさくディープなにおいのするところに住んでいた。
この店の他にも通○閣の近くに喫茶店があって、あそこもやくざ風の男がいて、かなりうさんくさかった、確かあれはモヒカンのおやじがたたき売りをしていた近くだが、私はこういう胡散臭い場所を見て育ってきているので、何が正しくて何がよくないかということは分かっているつもりであるし、また胡散臭い人間はよくわかる。
ここでは書けない本当の話もたくさんあって、まわりがとんでもない奴ばかりで、そういう人間を反面教師にして来て生きて来たので、私は正しく生きようとする気持ちが強く、またおやじが外国人であったので、平等とか公平を求めようとする気持ちは人一番強い。

以前そういう経歴をかわれて不良少年や問題児の教育を頼まれたことがある。
不良や問題児というのは、少年院を出て来た人間、家庭に問題というか、その家庭すらない子供たちである。
この問題児たちに、ボクシングを教えてほしいと言うことで、実際学校や施設をかりて教えてあげたのだが、今考えればこういう人間たちにボクシングなど教えることは、あまり意味がなかったように思える。
ボクシングをやったら自信がつくと言うが、しかしはたして本当にそうだろうか。
よく格闘技をやっているような人がこわそうな服をきたり、こわそうな頭をしたり、そして威嚇するような言葉を使ったり、偉そうな持論を語るが、しかしこういう自分を大きく見せようとすること自体、自信のなさのあらわれで、正直ゴリラのように力をつけたぐらいでは、本当に世の中で生きていくための自信にはならないと思っている。

おそらく彼らに必要なのは学問である。
教育をきちんと受けていないと言うことは、今の社会においては大きなディスアドヴァンテージである。
暴走族や不良と言うのは必ず仲間をつくるが、この仲間が問題である。
言葉や事柄を知らないから情や本能で集まり、傷口をなめあい威嚇だけで生きる。
言葉がわるいが、格闘技で強くなってもチンピラのようなかっこうで威嚇するのも五十歩百歩で、たとえボクシングで強くなっても、教育をしっかりとうけなくては、それはただの威嚇であって、情や仲間意識でつながっている以上は、本当の意味で自律していないのだと思っている。
必要なのは字を書いたり読んだり、外国語を話せる能力、また生きていく上での知恵のようなものではなく、学んで得ることができる知識、そういう力が必要で、そういうものが本当に彼ら彼女らを高め生きていく上での自信につながると信じている。

結局いろいろなトラブルがあり、どえらい迷惑をこうむったが、しかし今考えれば有意義な時であった。
私自身彼らに「君たちの気持ちは分かった」というようなことは言ってはいない、むしろ君たちの気持ちがわからないという立場で物事を見ていたのだが、しかしその気持ちと言うか理屈がわからなかったからこそ、真剣に悩み、対話し、取り組んでいけたのだと思っている。
ある時、子供に「先生は根性が偉い」みたいなことを言われたことがある。
たぶんずけずけものを言い、それでもあまりものおじしなかったので、そう思っていったのだろうが、しかし教えてやっている自分が、なぜおまえらのようなガキに遠慮しなくてはならないのかというのが私の本音である。
その時「バカなこと言ってんじゃないよ。根性なんかなくても字を覚えろ」みたいなことを言ったが、正直私はこういう子供たちがボクサーになるよりも、自分の足りなさに気づいて何かを学んでくれるほうが、うれしいし、それが社会に出ても本当の力になると思っている。
何人か見て来た人間には学校に行けと言っているが、しかし彼らは学校は嫌いである。当時勉強もろくにしなかった人間に「ボクシングや格闘技もいいけど、学ばなかったらゴリラと同じだ」と言ってけむたがれてたが、けれども彼らが年をとったら必ず学問をしっかり学んでおけばよかったと言う時が来る。その時相談に来たら必ず力になってやろうと思っている。














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ケンチャナヨ

2011-02-02 | Weblog
私の最近の知り合いで在日4世がいる。
彼との出会いは語学関係の仕事であるが、「岡崎さんですか」と声をかけてきた彼に、私はネイティヴだと思って「君日本語がうまいねえ」「いやいや私は3世ですから」「あっそう失礼、俺もよくそう言われるので(日本語上手ですねと)」と爆笑した後、何となくうまがあっていろいろなことを話しだし仲良くなった。

昨日の話題はサッカーの話になって、あのサッカーの大会で日本人に対してサルまねをした選手にあれはあかんやろということで話をしていたのだが、むこうでは日本人をサルにたとえるのはよくあることである。
しかしあのポーズは日本人から見たらたいした挑発には見えない、実際テレヴィ番組で日本人にあのサルマネを見てもらって感想を述べてもらっていたが、たいていの人は怒るどころか「えっこれ何なの」という反応であった。
しかし向こうの人が日本をサルに例えるのはよくあることで、見る人が見れば「あっやりよった」というようなゼスチャーで、おそらくあの非難は日本人が側から抗議したのではなく、韓国側の善良な市民からそういう非難の声があがったのだと思っている。

今韓流ブームあるが、しかしその一方日本人に対する反日感情も大きくわきあがっていることも確かである。
最近KPOPがはやっているが、そのKPOPにも反日の歌が結構ある。
私もどちらかというと日本の歌よりも向こうの歌のほうが好きで聞いているのだが、しかし以前「Funk zAPAN」という曲を聞かせてもらったのだが、これはひどすぎる。
それはあきらかに日本人をバカにした内容で、差別用語で日本を揶揄している部分もあり、聞くにたえないが、日本語が多くつかわれていて字幕などもあるので、聞くとどうひどいか私の言っていることがわかるはずである。
反日と言うのは向こうの人間と付き合う上では大きな壁である。
特に我々のように向こうに行き来しなくてはならない人間にはそうであるのだが、このことに関して私自身個人レヴェルの付き合いでそれを解決していくしかないと思っている。

これはその友人から聞いた話であるが、最近ある日本人の子供がお父さんの仕事の関係でソウルかどこかに行って、ある小学校に入学させたそうである。私が「えっ普通の学校に行ったの?いじめられたんじゃない?」と聞いたら、言葉の壁はあったけれども意外にもゲームのことで盛り上がり、人気者になったそうであるが、たぶん今彼ら彼女らと付き合う上では、こういう単純な付き合い方がベターだと思っている。
彼ら彼女らの精神と言うかよく使う言葉にケンチャナヨ(Its OK, No proplem)と言う言葉があるが、何も深いことを考えず、一部の人間は受け入れないだろうが、しかし韓流ブームにはまっている人たちのように、そう深いことは考えず、ただ好きだからとか感動したからというような付き合い方が、お互いにとって賢明なことかもしれない。

PS しかし実際歌を聞いてみたらすごい、私的にはこっちのほうが国際的な問題ではないだろうかと思うのだが。














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