今日ハワイアントーナメントのファイナルの組み合わせがファイスブックの記事に。そういえばここに出てたんだよなとノスタルジアにふける。小さな島なので大したことではないが、しかしこんな才能がないケグジェンイな人間を二人三脚で導いてくれたジョージとアレンには感謝している。
ジョージの正式名はジョージタナベ、日系人だ。ジョージとの出会いはカラカウアジム、ヒスパニックの人間とスパーをした時全然相手にならなくて、悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら声をかけてきてくれたのがジョージであった。ジョージは謎多き人物だ。まわりの聞く話によると彼はボクサー時代は才能があってオリンピック候補にもあがるほどのボクサーであったらしい。でも素行が悪いのか何か事件をおこしたのかはわからないがはずされたと言っていた。その後はギャンブラーとなってハチャメチャな生き方をしてきたジョージ、私と同じぐらいの年の娘がいると言っていたが、しかしその娘とは合わせてもらえないそうである。私はなぜかジョージとはウマが合った。彼が私を気に入ったのは私がやんちゃ坊主だからと言っていたが、ジョージ曰く「ボクシングはホク(当時のキャプテン)のような人間はだめだ。お前のように少々やんちゃ坊主でないと強くなれない」そうである。韓国ではやんちゃ坊主をケグジェンイと言うが、これは実際にジウンによく言われた言葉である。しかしやんちゃと言っても威嚇するためにド派手なファッションに身をつつんだり、髪を染めたり、けんかをしたりしていきがるようなやんちゃさではなく(DQNのやんちゃは犯罪)、私の場合は自己主張がすぎるということだ。言わなくていいことを言ったり主張する。まわりのことを少しは見ろよと思うのだが、ベトナムの帰還兵をおこらせたり、元チャンピオンをブチ切れさせたり、挙句のはてにはクラブの連中の前で、まけたらお前らの視界から消えてやると優勝宣言をする。本当に今考えたら病気だったと認める。でもこんな人間だったから彼とはウマが合ったのだと思うのだが、そのおかげて私はジョージのボクシングを理解できて才能はまったくなかったが、それでも十分すぎるぐらいの実力は発揮できたと、今考えたらそう思える。私のボクシング人生はすごく楽しかった。失敗もしたし、くやしい思いもした、そして最後にはまけてしまったが、しかしジョージと歩んだその競技人生は自分にとってドラマのようであったし、充実していたと思う。
当時のハワイのトレーナーは競技者のことをボーイと呼んでいた。ボーイと言うのは私の息子と言うことだ。でもボーイと言っても日本の監督のように競技者をひょっこあつかいするのではなく、リスペクトをこめて対等にあつかってくれるそういう関係である。競技は思い切りしかったり、しらじらしくほめれば上達するが、人間の心や人格というのはリスペクトされなくては育たないし、競技そのものが本当の意味で充実したものにならないだろう。その競技をやってよかったと思うのはそこにお互いをリスペクトする気持ちがあるからだ。おそらく私が人として成長できたのはこのリスペクトがあったからだ、だから私は彼が私にそうしてきたようにここに来ている人たちを子供から大人まで心からリスペクトしたいと思っているが、それが私の方針である。
笑い話でいいことだと思ってはいないが、私もジョージもまっすぐには走れない、人とは違った方向に走るハチャメチャな人間、いわゆる病気である。私たちはまっすぐ走れないやつらのコンビだったと思う。
ジョージの正式名はジョージタナベ、日系人だ。ジョージとの出会いはカラカウアジム、ヒスパニックの人間とスパーをした時全然相手にならなくて、悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら声をかけてきてくれたのがジョージであった。ジョージは謎多き人物だ。まわりの聞く話によると彼はボクサー時代は才能があってオリンピック候補にもあがるほどのボクサーであったらしい。でも素行が悪いのか何か事件をおこしたのかはわからないがはずされたと言っていた。その後はギャンブラーとなってハチャメチャな生き方をしてきたジョージ、私と同じぐらいの年の娘がいると言っていたが、しかしその娘とは合わせてもらえないそうである。私はなぜかジョージとはウマが合った。彼が私を気に入ったのは私がやんちゃ坊主だからと言っていたが、ジョージ曰く「ボクシングはホク(当時のキャプテン)のような人間はだめだ。お前のように少々やんちゃ坊主でないと強くなれない」そうである。韓国ではやんちゃ坊主をケグジェンイと言うが、これは実際にジウンによく言われた言葉である。しかしやんちゃと言っても威嚇するためにド派手なファッションに身をつつんだり、髪を染めたり、けんかをしたりしていきがるようなやんちゃさではなく(DQNのやんちゃは犯罪)、私の場合は自己主張がすぎるということだ。言わなくていいことを言ったり主張する。まわりのことを少しは見ろよと思うのだが、ベトナムの帰還兵をおこらせたり、元チャンピオンをブチ切れさせたり、挙句のはてにはクラブの連中の前で、まけたらお前らの視界から消えてやると優勝宣言をする。本当に今考えたら病気だったと認める。でもこんな人間だったから彼とはウマが合ったのだと思うのだが、そのおかげて私はジョージのボクシングを理解できて才能はまったくなかったが、それでも十分すぎるぐらいの実力は発揮できたと、今考えたらそう思える。私のボクシング人生はすごく楽しかった。失敗もしたし、くやしい思いもした、そして最後にはまけてしまったが、しかしジョージと歩んだその競技人生は自分にとってドラマのようであったし、充実していたと思う。
当時のハワイのトレーナーは競技者のことをボーイと呼んでいた。ボーイと言うのは私の息子と言うことだ。でもボーイと言っても日本の監督のように競技者をひょっこあつかいするのではなく、リスペクトをこめて対等にあつかってくれるそういう関係である。競技は思い切りしかったり、しらじらしくほめれば上達するが、人間の心や人格というのはリスペクトされなくては育たないし、競技そのものが本当の意味で充実したものにならないだろう。その競技をやってよかったと思うのはそこにお互いをリスペクトする気持ちがあるからだ。おそらく私が人として成長できたのはこのリスペクトがあったからだ、だから私は彼が私にそうしてきたようにここに来ている人たちを子供から大人まで心からリスペクトしたいと思っているが、それが私の方針である。
笑い話でいいことだと思ってはいないが、私もジョージもまっすぐには走れない、人とは違った方向に走るハチャメチャな人間、いわゆる病気である。私たちはまっすぐ走れないやつらのコンビだったと思う。