脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

言葉の力

2011-12-28 | Weblog
最近電子辞書辞書がこわれてしまったので、新しい電子辞書を購入した。
約3万円ぐらいで購入したのだが、最近の電子辞書は便利でいろいろな辞書が入っているので、この価格ではかなりお得な買い物であった。
私は常に電子辞書を持ち歩いていて、最低でも1日に3回は分からない単語の意味を調べるのであるが、人に何か説明したり教えたりする仕事は、言葉をしっかり学んで知ると言うことが大事だと思うからだ。
言葉を知ると言うことは何か物事を説明したり、教えたりする人間にとって必要である。
特に日本語と言う言葉は言葉の構成がしっかりしていて、ボキャブラリーが豊富にあるので言葉自体をを学び言葉を知ると言うことは教えたり、説明したりすることはもちろんのこと議論する上でも大きなアドヴァンテージになると信じている。
子供を持っている親なら分かるが、子供はいろいろなことに興味を持ち、そして分からない言葉があればそれはどういう意味かと聞いてくる。
そう言う時国語辞書を引き慣れていると、それがどういうことかということを割合うまく説明できるものであるが、我々は日ごろ使い慣れている言葉にしても、その本質を理解していないことが多く、この言葉の本質を知るか知らないかと言うことは我々のような言葉を扱う仕事においてのいわゆるプロ意識のひとつのようなものであると思っている。
我々は言葉の中で生きていると言っても過言ではない。
だから我々がどういう言葉を語り理解しているかということは日常生活においても重要であり、言葉を知り理解すると言うことは、物事を説明する上でも非常に役に立ち、意外と口下手だと言っていても、そういう訓練を日ごろから行い、言葉を理解できると人前で自信を持って話すことができるようになることもあるのだが、言葉を学ぶと言うことは、人間のコミニケーションの本質知り、おおげさに言えば支配することで、ボクシングや格闘技なんかをやってかりそめの自信をつけるよりも、将来の本当の自分の持つべき自信につながるのではないだろうか。

また言葉と言うのは、そのことによって人間の質が問われる。
最近格付けと言う言葉がよく聞かれるが、人間は無意識のうちに人に対して格付けをおこなっている。
ちょっと前にあった公演デビューなんてそうであり。特にそれはビューロクラシーの傾向が強い都会に見られるのだが、まさにそれは格付けである。
我々が語る言葉も言葉もそうだ、英国なんかでは使われる英語に「上層」「中流」「下層」というランクがあるのだが、言葉と言うのも相手がどういうレヴェルの人間かと言うことを格付けする手段であり、こういういろいろな人間が集まる場においては、自分たちがどういう言葉を持っていて、どういう言葉をつかうかということは非常に興味深いことで、それは集団の質を問うということにもつながってくるのではないだろうか。
私はここで決して格付けすることが当たり前だとかいいということを言っているのではない。
格付けは人間自身半ば本能的に行う区分けのようなもので、それがひどいかたちになると差別につながるのだが、しかしそういうことを実際に構造的にとらえ、自分たちは一体どの位置に立っているのかと言うことを確認していくことは自分たちの質を問う意味では大事なことだと理解しているが、ボクシングのイメージがわるいのは一般的に格付け的に下のランクだからと見ている。

私自身観察していても実際わるい言葉や間違った言葉、差別用語、不適切な言葉を使う人間が結構いることに気づく。
話す内容も自慢話か程度のひくい持論、日ごろ本など読むこともなく、見る番組も漫画、バラエティー、スポーツと言うような程度で、そう言う奴は「NHKは見てません」と言いきれるのではないかと思うのだが、そういう奴に限って「俺はボクシングに関しては真剣だ」と持論を語るが、しかし半ば本能的に自分の好きなことしかしない人間の話しはためになるわけでもなく、聞くだけ時間の無駄である。
差別用語にしてもそうだ、わかっているのかいないのか、それがグレーゾーンであればつかわないというのが常識であるが、しかし実際わかっているのかいないのかそういう言葉や人権を無視した態度や暴言などを時々耳にする。
子供にとってどういう言葉をつかうかということは非常に大事なことで、子供と言うのは言葉による影響が大きいからで、豊富な語彙力と陳腐な語彙力とではその影響に大きな差が出ると思っている。
日本語と言うのは世界的にも完成されたむずかしい言葉であるのだから、それを理解して使うことが必要であると思う。
使う言葉がしっかりしていれば、まわりを取り囲む環境もかわってくるというのが、私の持論であるが、実際言葉に気をつけて運営していくとしっかりした人間が集まり、教育的なレヴェルも高くなったと思っている。
同じような人間が集まってジムという狭い社会の中で使われる言葉であれば、少々言葉が不適切で乱暴でもいいのだろうが、しかしほとんどが社会と言う場に出て生きていくのであるから、われわれも言葉の質を問うことも大事ではないかと思う。




 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ト マニ アルゴ シポ もっと知りたい

2011-12-26 | Weblog
以前ここに来ていたフランス人の留学生とはほとんど家族のように付き合っているのだが、今年も我が家にクリスマスプレゼントが届いた。彼女とはよくSKYPEで話しをしているが、おもしろいことに私のSKYPEには彼女のお姉さん、お母さん、お父さん、そしておばあさんなど、ほぼシュナイダー一族のSKYPEアドレスが登録されている。
彼女は去年から今年にかけてここに滞在していたのだが、特にうちのせがれとは本当の姉弟のような間柄で、彼女の「facebook」には私のせがれの名前が弟として登場しているらしい。
おねえちゃんもそうだが、彼女は末っ子で家族でもかなり成績がいいようで、所謂向こうではエリートコース、今年17歳で大学1年になるそうである。
欧米の人間と日本人を比べて言えることは、向こうは無駄な勉強をしない、専門性を十分に磨くことができる教育システムを持っていると思うのだが、無駄な勉強と言うのはただおぼえるだけの丸暗記方式で、これが教育システムにおける弊害だと思っている。
確かに低学年などは暗記させると言うことは、脳に活力を与え発達させる意味では必要なことだが、しかしそれだけでは本当の学力と言うものが育つはずはなく、その本当の学力をつけるというところが少し不十分ではないかと理解している。
私などは前から思っていたのだが、県庁所在地や特産などおぼえて何になるのか?あれこそ無駄な学習で、ああいうものは興味があれば自然と覚えるものであると思うのだが、日本はその手の学習が多く、これだと学習することに興味など持てない。暗記をさせてそれを答えさせることが学力をつけることだと思っているが、それは少し違うのではないだろうか。

以前ブログで米国の大卒の人間に世界の首都を答えさせたところ、意外と答えられなかったということを書いたが、しかしそうだからと言って彼らの学力がひくいわけではない。
むしろ自分たちの専門とは全く関係のことがないので興味がないだけで、そんなものは必要があればおぼえることができる。
彼ら彼女らはその専門性については十分な学習をし、そして十分な知識を蓄えていると言ってもいいと思う。
アメリカでもそうだが、フランスの大学には日本のような試験がない、しかしだからと言って大学があまいということではなく、これからが本当の勉強がはじまるわけであって、学生はしにものぐるいで勉強させられるのだが、所謂ここからが本当に自分のためにしなくてはいけない勉強がはじまり、本当の学力、その専門性が身につくのであるが、大学の勉強は非常に厳しく、100人入学しても卒業できるのは15人ぐらいだそうだ。
正直私は暗記中心の教育システムでは、本当に将来に学ぶための備えができていないと思っているが、本当の勉強と言うのは自分の専門を選択した時からはじまる。それが大学などの勉強である。
確かにフランスの教育プログラムを見ていると、のんびりしすぎて日本人だったら若干不安になると思うが、しかし私の経験も踏まえて言うと本当の勉強と言うのは、自分が何をしたいのかということを選択した時からはじまり、そのことがわかってこそ専門の知識と言うものが身につき、一生懸命勉強をしなくてはならないという立場においやられる、そこで学習し学んだことが本当の知識になると信じている。
実際私自身宗教学や哲学と言うものを学んだが、かなり専門性が身についた。学校を卒業するまでに少し時間がかかったが、それでも十分に思想や語学なども学べたし、そのことは何をする上でも役に立っている。
小中学校の学力すべてが必要ではない。必要なのは学ぶことにたいする興味と楽しさ、この興味と楽しさは自分が本当にこれがしたいと思わなければ決してもつことはできないが、そのため彼ら彼女らの視野を広げ、小中学時代にいろいろと将来について、考える余裕と言うものをもたせるべきではないか。
日本、中国、韓国と言う国は科挙システムが根深くのこっているせいか、試験と言うものに対してかなり厳格に重要視してとらえているが、しかし小中学校でまる暗記したことというのは、生涯学ばなければならないことの一部で、必要以上に暗記したり、学習することをやめて、もう少し将来について考えることのできる余裕と言うものを、子供たちに与える必要があるのではないだろうか。こういうシステムだと本当にに勉強しなくてはいけない時に勉強ができない先細りだ。
正直私は日本人のような優秀な民族がどうして外国に行ってまで教育をうけなくてはいけないのかと思っているのだが、やはりそれは自分たちの教育システムに問題があるからだろう。

オリーヴには子供が結構来ているが、彼ら彼女らはボクシング予備軍ではない。
所謂ここで育てて将来中学高校と競技をさせるというような非常識な考え方はしないのが自分たちのやり方である。
そもそも同じ競技をずっとさせるということは異常である。ましてやボクシングのような特殊で危険なスポーツを10年近くに渡ってさせるということは非常に問題であり、小中学生にはむしろ純粋にスポーツを楽しむいうかたちで競技させることがふさわしいことであると思うが、ここではボクシングがすべてだというような教え方をしないし、そういう雰囲気にももっていかない。
なぜなら小中学生と言うのは非常に影響されやすい時期であるから、彼ら彼女らに減量などさせてボクサーのように扱い、ここでボクシングがすべて見たいなことを言ってしまえば、そうなってしまうからで、彼ら彼女らにはこれだけではなく他にもたくさん可能性があるのだから、そのことにも目を向けなくてはならず、もし予備軍にしてしまってしまったならば、子供の興味の範囲をせばめているからだ。
ただ予備軍にしてしまうのもそれはそれで意味があるのだろうし、大真面目にやっているのだろうが、しかし危険で脳のダメージがあるので、あくまで子供の時期は戦うこととか節制などというようなアホな御託をならべるよりも、むしろスポーツのひとつだということで、スポーツすることの楽しさや充実感を教えることがふさわしいやりかたで、そういうことを無視して勢いでやってしまうのは、いささか教育のレヴェルに問題があると言っても仕方がないだろう。
こういう競技は常に客観視して見ていかなくてはならず、最近ではCTスキャンなどの導入により、さらにアマチュアの安全性と言うものが求められてきたが、小中学生に長きにわたって競技させると言うことは危険であり、それは子供の意志の問題ではなく大人の問題である。
私などは子供の脳の問題や心理的に働く影響などをいろいろと調べたが、思いこみと勢いだけで行く人間はそういうことを学習できないのだろうかと思うが、大事なのはひとつにとらわれず、将来どうであってもスポーツを楽しみ趣味としてできるということを伝えていくことが大事だと思う。













  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イスラエルの首都は?

2011-12-21 | Weblog
おとつい北朝鮮のkim jong ilの訃報が流れた。うちのクラブでも話題になったが、彼の突然の死は謎をのこすところが多い。
クリスマスが近づいてきたのでよくここ最近外国人の友人とskypeで話すことが多くなったのだが、昨日の話題はもっぱらそのことで彼の死は外国人にもかなり関心が高い。
その時もいろいろと質問をあびせられたのだが、ここで自分はどういう見解を持っていて今後どうなっていくのかと言う憶測を書くことは控えるが、ただ私の民族的な意見としては朝鮮民族の行動を考える時、いささか感情と言うものを切り離して考えることができないが、しかし意外とここが彼ら彼女らの行動を読むには重要な事柄だと思っている。
以前北朝鮮がヨンピヨンを砲撃した事件があったが、私はこの事件をメンツをうしない、感情を傷つけられたと言う報復であると思っていたが、その感情を傷つけられたら、思いきった報復に出るのも彼ら彼女らの思いっきりのよさでもある。

でその友人とは約1時間ぐらい会話を楽しんだのだが、しかし意外と彼らは北朝鮮のことも聞いたことがあっても詳しいことはよくわからないのだが、おそらくよその国の人間はアジアのことなどよく知らないし、興味をもたない。
中には自分の国のことしか知らない人間も少なくはなく、知っていてもアメリカやヨーロッパのことぐらいで、特にアメリカ人は典型的である。
まあアメリカやヨーロッパの人間が自分の国のことしかわからないと言うのは、日本人が自分の国のことしか知らないと言うのとわけが違うと思うのだが、以前外国人何人かで世界の首都クイズというのをやったことがある。
突然の私の提案でみんないやがっていたが、彼ら彼女らのがどれだけよその国に関心があるのかと言うことを知りたかったので、「何々の首都はどこ」なんて子供のようなクイズをしたのだが、しかしこれが意外と答えられない。
オーストラリアを「シドニー」と言ったり、カナダの首都はと聞くと「えっどこだっけ」と言うような感じで、ほとんどが他の国の首都など知ろうとしないし、興味など持たないのだ。
一応ことわっておくが、全員大卒、中には大学院を出たものもいるが、こういう高等教育を受けた人間が、他の国のこととなるとこれぐらいのレヴェルであるが、さらに政治学を学んだ人間が、日本のプライムミニスターの名前もわからないのだが、アメリカ人は日本の政治に関しては非常に希薄で、関心がうすい。
この北朝鮮の問題での日本の重要議題はもちろん「拉致問題の解決」であるが、その解決にはアメリカの協力が不可欠である。
しかしそう考えたら、彼ら彼女らが日本のような小さな島国の拉致問題に本当に関心を持っているのか不安で、私などは拉致問題をもっと人権問題に発展させて強固な姿勢で主張していくことも必要ではないかと思っているのだが、欧米諸国には感情的にうったえるよりもむしろ戦略を練って、論理的に物事を推し進めていくほうが有効だと思っているからだ。
拉致問題を解決させるにはアメリカの協力が必要だ。メディアは家族の気持ちや感情の部分を伝えているが、しかしこういう問題は政府がもっと国家的戦略を練って、いろいろなかたちで交渉していかなくてはならないのだが、正直その様子が見られない。
私はひとりの日本国民としてこの拉致問題には非常に関心を持っているし、北朝鮮の人権問題に関してもそうであるが、これを機会に、戦略を練り直し、北朝鮮でおこっている真実をひろめてほしいと願っている。

ちなみにイスラエルの首都はイスラエル側の見解では「エルサレム」しかしここは特別区でもあるので、国連が受け入れることができず、国連ではテルアビブが首都として認められている。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中華街の大王

2011-12-19 | Weblog
ここから毎年年に何回かのスパーリング大会に出場しているが、正直ここ何年かは全体的にいい結果をのこせてはいない、しかしそうであっても参加する人たちは楽しそうなので、出場しているが、ここでは結果よりもひとりいびとりの満足度を重視している。
前回2,3キロ以上の減量はよくない、もしそれ以上おとすのだったらビルドアップして体をつくって階級を挙げたほうがいいと言うことを書いたが、実際に無理な減量をする先週はいい結果が残せていない、それに対して少し体重がたりなかってもナチュラルウエイトで出た人は全体的にいい結果がでているのだが、このことを考えるとやはり栄養と言うのは大事である。
アメリカのオリンピック選手に向けられたガイドブックも、その中で栄養学、栄養のことがかなりのページで書かれているが(英語で書かれている)、スポーツ選手にとって栄養を十分に摂取することは大事なことであり、そのことをぬきにしてはいいパフォーマンスができない。
しかしいつからかはわからないが、日本では減量して体重をおとして出ることが有利だと考えられている。
修行僧でもあるまいし、そこまでおとして大丈夫なのかと言うところまでおとす人もいるが、しかしそんな労力はむしろ他のことにつぎ込んだらいいと言うのが、私の考え方で、最近では専らこの考え方に同意してあまり減量しないでナチュラルウエイトで出場しているが、そのほうがベターな選択で、案外いい結果をのこしているような気がする。

オリーヴはストイックと言うことにはかなり無縁なボクシングクラブであるが、ここではその人の個性と言うことを大事にしている。しかしその分安易に順応することなく、他のボクシングの人たちの集団とは少し違うので、そのせいか勘違いもあると思うのだが、先日もこんなことがあった。
その人は非常にまじめでいい仕事をしてくれている。そしてセコンドの仕事などもテキパキとやってくれてオリーヴには貴重な存在であるのだが、しかし今回も本人も言っていたが、オリーヴの選手たちがあまりにもユニークなので多少とまどったようである。
正直どうユニークかと言うことを書くと勘違いされはいけないのですべて書くわけにはいかないが、しかしアメリカではOKであると解釈しているが、それでも普通はあまりやらないようなことである。
これはここのあっさんファイターの話しであるが、このおっさんファイターがスパーリング大会に出た時に、彼がセコンドについた。このおっさんファイターまあまあのできで、1ラウンド目は少しポイントを取られたが、何発かあたっていたので、2ラウンド目で巻き返しをはかれるような感じであった。
普通だったらここで2ラウンド目に巻き返しをねらうわけであるが、しかし私はかえってきた時、かなりつかれた様子であったので「あっあの作戦に出る」と思った私はここで煽ってはいけないと思ったので、一応ここは様子を見ようということを提案。
おそらく普通一般的なセオリーだったら技術的なことをアドヴァイスして巻き返しをはかるが、しかしそう言われてもこれからがまきかえしの大事な時で様子なんか見てられない、少し納得がいかなかったようだが、2ラウンドが始まると案の定そこで必殺技がさく裂したのだ。
でどういう必殺技かと言うと「ほとんど2ラウンド休んで体力回復する作戦」日ごろから省エネパンチとかフットワークとか言って真面目に試合でどうしたらつかれないかと言う課題に取り組み練習をしていたので、実際休むのがうまいうまい、事実2ラウンドで体力を回復して、結果はポイントでまけさえしたが、しかし見事3ラウンド目はポイントを取っていたのであるが、オリーヴはなるべく個人を尊重し個性と言うものを大事にする。
この人も一応ポイントをいくつかとることがノルマだったので、今回もノルマ達成、勝ち負けにこだわっていたらそういうことは言わないだろうが、しかしここはそう勝ち負けにこだわらず、たとえそれが豪快な負け方であっても本人が納得すれば、ここまで来た意味があるのである。
現にみんないろいろとあったが、帰りの車中では楽しそうであった。
いいおっさんたちがまるで遊園地の帰りのように楽しそうに話していたが「自分たちたぶん大学のクラブだったら偉い目にあわされていますよ」というある人間の一言に笑ってしまった。
あまりまわりに順応しようとしない自分たちは、ひょっとしたらまわりから見たらなんだあいつらと思われるかもしれないが、しかし私自身はまわりからどう思われようが、余裕がある。
どういう余裕かと言うとそれぞれその個性に見合った能力を持っているからであり、ボクシングしかできないというような幅の狭い人間ではなく、その能力が人間としての面白みが個性に表れているからで、そういう人たちがここでボクシングを趣味としてはじめてくれていることを光栄に思っているからだ。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 説明する責任と義務

2011-12-14 | Weblog
オリーヴにはたくさんのおっさんたちが在籍しているが、中にはあてるマスをしたり、それだけではなく試合にまで出場するつわものまでいる。
自分たちは時々ある地方の大会に出場しているのだが、少し離れた土地に1日かけていくのでほとんどが試合どころか、旅行気分である。
この前も何人かの女性がそこだったらいろいろと観光できるしということで、観戦ツアーを組んだのだが、たぶん権威主義的な学校のクラブだったらどなりちらされているだろう。
この試合は非常に雰囲気がよく他県でおこなうその試合に行くのに、我々はいつも前日に行っているのだが、この前何時に集合したらいいかということを決めのだが、普通試合に前日だから夕方ぐらいにつくのが、ベストだと思うが、しかしここのメンバーは他県に行くと言うことで半ば観光気分もあり、早く行きたいと言う。
何時だと聞くと7時でも8時でもと言う。「えっそれって早すぎるでしょ」と言うと「いや途中みなさんとお昼でも」「えっ昼ご飯を食べる余裕があるんですか?」と聞くと「余裕ですよ」と言う答えが返ってきたのだが、非常に試合を楽しんでいる様子がうかがえる。話しはこれだけではおわらない、何でも向こうに言ったら中華街に行って餃子をお持ち帰りすると言う計画があるのだが、オリーヴのメンバーは減量など考えていない。ただ楽しむためにボクシングをしている。
私は「試合に勝ったら餃子の王様と言わせてもらう」と言うと「残念なあだなじゃないですか」と笑っていたが、本当にボクシングを趣味としてエンジョイしている。
よくここの人は冗談で「自分をふくめここの人はボクシングをなめてますねえ」と言うが、しかしなめているのは競技と言うことでなく、アホな権威主義である。
ここの会員の人は大人である。そして教育をしっかりうけているので、所謂くだらないことはよくわかっている。
だから私がよく非難するような権威主義や稚拙な制度もよく理解しているわけで、審判の印象がわるくなると言うようなやくざのようなしきたりなど気にすることなくみなさん考えて試合に出場していると思う。
現に仕事をしてそして中には育児もしながら、その時間をさいて練習に来ているが、それぞれその時間を有効的につかっている立派な社会人であるのだから、正直私はそういう人たちに、よくわからんが漫画の世界のようなストイックさや中高生のルールやしきたりのようなものをそのまま適応させるのは失礼であると思うのだ。

私は基本的にアマチュアの選手が減量すると言うことには反対である。
なぜならおもにこれは高校生について言えることだが、その成長期に一時的とは言えどその時期に必要な栄養をかくということは成長のバランスを妨げる要因となるからである。
こういうことを言うと減量はたった1週間ぐらいじゃないかたいしたことがないという小学生並みの反論をするバカもいると思うが、しかし1週間と言っても試合数の多いアマチュアではその1週間がかなり大きい、それが普段から鍛えられて、体脂肪も少なく、無駄な脂肪もない成長期の子供であるお3キロおとすことも無理があると思うのだが、それが10キロ以上となるとフィジカル的にかなりの負担があり、それを続けると何か将来支障が出てくると言う懸念さえもある。
アメリカのUSAのオリンピック選手にむけられたガイドブックがある。これは約250ページぐらいからなるアマチュアボクシングの手引書であるが、その約半分が栄養のことやけがのことが書かれているのだが、おそらくこういうことが半部に以上にわたって書かれてあるということは栄養を十分にとることやけがを防止することが、アマチュアボクシングにおいて最重要視されなくてはいけないということである。
高校生や十代の人間に減量と称して10キロ以上体重をおとさせるのは、かなり無理があると思うし、させるべきことではない。
よく高校生以下の未成年に節制しろと言うバカがいるけど、節制とは一体何なのか?むしろそういう時期は十分な栄養をとらないといけない時期で、十分な栄養をとらなくては頭に養分がまわらない。
それだけをやるのならまだしも、勉強もしなくてはいけない成長期にそういうバカなことをさせるというのは教育的配慮にかけるし、そういうことで節制なんて言う言葉をつかうのは言語道断、修行僧でもあるまいし、前回も言ったようにもう少し学問的な基準と見解を持てばいいのだが、そういうことを無視して勢いや理想だけで指導していくのはかなり無理があると思う。
ここで言う教育的配慮と言うのはその危険性を十分調べた上で、それが危険だ、疑わしいと言うことであればしない、させないということである、。
ボクシングと言うのは頭をなぐられる非常に危険なスポーツで、ボクシング廃止論と言うのもあるが、正直多くの親たちが子供にはさせたくないスポーツではないかと思う。
実際外国のサイトや文献などを見たら、ボクシングにたいする風当たりはかなり厳しい。
医学会などからはかなり多くのバッシングがあり、そのことを受けてアマチュアはルールが厳しくなったのだが、正直そういうバッシングなどを見たら、いつなくなってもおかしくないスポーツであると思わされる。
今求められているのはおそらく医学や生理学、そして倫理的な基準に立って物事を考えていくことであるし、そう言った説明が求められるのではないかと思う。
漫画のような理想や、自身がつくとか、礼儀正しくなるというようなバカなメリットを挙げてボクシングは素晴らしいなどと言っても、まともな親にはわからないし、そんなことは他のことでも養われる。
アカウンタビリティーと言う言葉がある。
これは説明する責任、義務と言うことだが、この言葉は言わずとも「account(説明する」)と「 ability(能力)」の合成語で、説明するには能力が必要で、その能力をもって十分な説明が求められると言うことである。
ここでは未成年が入会する前に、ボクシングが脳に与える危険性と減量の間違いについてなど、十分に親に説明してから入会してもらうようにしているが、そういうことは入会させるにあたって伝えなくてはならない義務と知っとかなくてはならない権利があると考えるからだ。
未成年にたいしてよく安全性を考えてと言うが、しかし脳の問題はその安全性も軽くあてるとか、よく注意して見ていると言う問題ではないと言うことはおわかりいただけると思うが、正直そういう発言はいいわけにすぎず、うさんくさい言葉である。
私はこの問題に関しては小中学生はコンタクトの禁止、そして高校生は自己責任の問題であると思うのだが、どこまでよくてどこまでがいけないのかということをきっちりと定義する必要があると思う。
うさんくさい人間を定義するとしたら、そういう奴らは常にどちらとも言えないような行動をする。
つまりクラブで女性にちょっかいをかけるようなバカがそうだが、練習を見てやっているのかちょっかいをかけているのかわからないような行動をとるのだが、真面目に教えてやっている人間ならすぐわかるが、そういう奴は曖昧な態度をとる。だいたいこういう輩は往々にして学力がひくく、幼稚で未熟、ちょっとスポーツをやっていたらそのことを自慢したがるボクシングをやっているからかっこいいと思っている勘違い野郎も少なくはない。
オリーヴは、そういううさんくさい人間がいると弊害になるのでかなり警戒しているが、脳などの危険性について指摘した時に、軽くあてているというような発言も無責任で、そういう輩が言いそうなことだと思うのだが、曖昧にしてはいけない課題はこのアカウンタビリティーということをよく考えて決断できる常識のある社会人が入ってきやすいクラブにしたいと考えている。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひきつづき

2011-12-12 | Weblog
よく根性論は間違っていると言うが、そもそも根性論とは何であろうか?多くの人は根性論と精神論と結び付けていると考えるが、しかし私は我々がつかう「根性論はだめだ」と言うのと「精神論」とは少し違うような気がするのだ。
正直私は「精神論」と言うのはスポーツをする上でも何をする上でも大事なことで、精神力と言うものがなければいいアスリートを生み出すことはできないと考えている。
しかし日本人はバランスにかけている。どうかけているかというと、今やスポーツ科学などが発達した時代で、スポーツとも言えど学問は無視できない。
一部のスポーツをのぞいては組織的学問が成立していないので、どういうことをまず優先的に考えたらいいのかと言うことがわからず、昔ながらの伝統や師匠の言うことに頼ってしまい、そういうことが封建的な社会をつくる。そう言った考え方が根性論と深く結びついているような気がしてならないのだ。
このスポーツを競技するにあたって重要なことが3つある。
それは医学、スポーツ科学、倫理学であるが、これらの学問はアマチュアスポーツと言うものを考えた場合、われわれが中心にすえて取り組まなくてはならない課題であり、これらをよく理解し重要視するからこそスポーツは健全であると信じているが、そう言ったことを無視して勢いだけでやろうとするから「根性論」などと言われるのである。

まず医学的根拠であるが、アマチュアは安全性が求められるので、医学的にボクシングは危険だと言うことであれば、その見解を受けて、よく吟味することが必要で、よく言うが子供のボクシングなどがそうである。
もう当たり前だが医学的には誰が考えても危険なことである。
軽くあてるとか注意して見ていると言う問題ではない。おそらく教育的配慮と言うものをもってするならば、うたがわしき危険性のあることはすべきではないということだ。
私の子供の小学校では、子供が軽く頭をうっただけでも電話がかかってくる。頭と言うのは人間の持つ体の中でも最もデリケートなもので、ましてや子供は発達段階だ、そういう段階で脳に刺激をあたえるとどうなるのか、そのことをよく理解する必要があると思うのだが、これらの問題はやはり医学的な事柄をまず根拠において考えなくてはならないのではないだろうか。
しかし中には子供に自信がつくとか、集中力がつくとか、あきらめない、おれない心が育つなどとまったく医学的な事柄を無視して言う奴がいるが、しかしだいたいそういうことを言う奴は無知も甚だしく、学問的な見解など理解していない、こういう輩の考え方が、根性論などと言われる原因だと思うのだが、こういう問題は医学的にどうかということが重要課題である。

さらに倫理学であるが、私は前回のブログでも挙げたように、それだけしかやってこなかった運動部の稚拙な道徳レヴェルを上げる必要があると考えている。
何々するな程度ぐらいの道徳や、組織に順応するための規律では意味がない、現に親玉になってからでも暴力(言葉も含めて)をふるったり、下半身場暴走する奴もいるからで、親玉になると子分たちが目をつむるから多少のことはゆるされると思うのだろうが、おそらくこういう体質がレイプ事件などの極悪犯罪を生み出すのだろうと思う。

もし青少年や子供を率いていくならば、それはもう規律の問題でもなく、道徳うんぬんの問題でもない。
もうここまできたら基本的な事柄として、指導する人は倫理学と言うものを基本から学ばなくてはいけない時代であるのだが、特にいろいろな事件が起こっていることをうけて我々は謙虚にこのことを受けとめ、考え学ぶべきだと思っている。
しかし英語はともかく本すらろくに読んだことがない人間が、子供や青少年に何が正しいかと言うことを語っても限界がある。
そういうレヴェルで指導しても、指導者自体が引き出しがないので、何が正しいことか、自分たちは何をすべきかということも、きちんと考察することができなければ、小学生レヴェルの道徳でおわってしまい、おそらくそういうレヴェルだと教えられている子供たちも、そのスポーツ以外ではまともな知識や考え方など育たない狭い社会に順応して生きるだけである。

「根性論」と言うのは「精神論」とはかなり違うと思う。
「根性」が「gut」にたいして「精神」は「spilit」であるが、この言葉の違いでもおそらくそれらがどう違うかと言うことが見えてくるのだが、根性論と言うのは、客観的に物事をとらえたり、考えることができない限界で、ひろく言えば「がんばれ」とか「行け」とか言って煽ってモティヴェーションを高めるのも「根性論」である。
精神論も学問的な考察を含めて、客観的に見て考えたらば、その必要性と言うものが見えてくるのだが、やはりそういったことも学問と切り離して考えることはできず、我々が子供に本当に正しいことを伝達したいならば、それ以上のことを学んで理解し、咀嚼して伝える必要がある。
偉そうな意見であるが、もう今やスポーツの世界はいろいろな問題を含め、学問的に理解し考えて行く必要がある。
スポーツ科学になると日本語のものでも結構難しいものがるが、こういう専門書はある程度専門の勉強をしたり、訓練されていないと呼んで理解できないと思うが、本を読んだり、言葉を学ぶと言うのは21世紀のこれからの指導者に課せられた基本的な事柄だと思う。
バカな集団は子供や青少年をなびかせることに関心を払っているが、今こういう時代だからこそ指導者にそういう資質が問われるのではないだろうか。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人的な意見

2011-12-09 | Weblog
柔道部の準強姦事件以来最近ブログのアクセス数が増えている。
ここまで増えれば何か書くことを期待されているんじゃないかと思いタイプしているが、私自身この問題に関してどちらもどちらでよくわからないが、しかし未成年に酒を飲ませたりするような風潮があること自体おかしいし、そんなところに未成年が参加して酒を飲んでいること自体違法ではないか。
私はこういうことは氷山の一角だと思っている。
この事件をきっかけに自重した奴も少なくはないと思っているが、現に火のないところに煙は立たずで、そういう奴らのえげつない話しをよく聞くが、こういう軍団はお酒や女性にはゆるく、時には下半身が暴走するバカがいるのだが、非常に物の考え方が稚拙で、命令系統で動き、何々するなという小学生並みに道徳しかもたないので、行動自体は非常に稚拙だと思っている。

正直私自身こういう集団にはついていけない。
何がついていけないかというのは、常に先輩や監督の顔色をうかがっていなければならず、こうなると正しいこととそうでないことの判断が監督などの一番上にのっかっている輩から見て、それが正しいかそうでないかということになってくるからだ。
過去にも何度か集団レイプというような事件があったが、普通集団で女性をレイプするなどと言う異常なことはしないだろう。
レイプなんて、しかも集団でするなんて、誰が考えてもおかしいことで、何がそういう鬼畜なみのことをさせるのかわからないが、ここまできたら、個人の問題としてとらえるのには限界がある。
どう考えても集団でレイプしたりすると言うことは異常なことであり、そのクラブの体質に何か問題があると誰も思わないのか不思議であるのだが、その体質や組織についてもっとよく考える必要がある。
しかしこういうことになるとトカゲのしっぽきりのようにそれをあたかも、それを個人だけの問題とし、自分たちは問題ない、そういうことに注意しやって来ていると言うが、しかしここまでいくつも事件が起こってくると、それはただ単に規律や個人の問題ではなくクラブそのものの体質にも問題があると考えるが、そう言った問題解決にむけて何か対策を考える必要があると思うのだが、学校としても芸をおぼえさすわけでもないのだから、それだけさせて、他は甘く見るというのではなく、高校生や大学生が当たり前にしなくてはいけないことをさせる必要があるのではなかろうか。

ここでは必要な時以外は子供に何かを伝える時は、命令型では伝えないようにしている。
それはそういう伝達になれさせないためである。
例えばこの前もバスケットボールをほったらかしにしていた子供がいたのだが、その子供にはいきなり「かたずけろ」とは言わない。
どう言うのかと言うと「ここにおいていたら誰かがころぶので直しておくね」と言うのだが、たいていの場合はそれだけで「すみません」とか「あっありがとう」という答えがかえってきて次気をつけねばということになるのだが、もし「これ誰がやった」「僕です。」「こんなとこおいとったらあかんやろ」では伝わることは伝わるだろうが、しかしこちらの言い方ひとつでクラブそのものの雰囲気もかわってくるのではないかと思う。
オリーヴが他の封建的な運動系のクラブと違うところはそういう点である。
ボクシングのレヴェル的にはそうたいしたところを目指していないので、それなりにであるが、しかしたいていの人間は雰囲気がいい、知的なイメージのある人が多いというのは、言葉を考えて選んでつかっているので、そういう理知的な人間が安心して集まりやすいのだと思っている。
まわりくどいが感受性の強い子供など、子供によっては人前で否定されることに非常に抵抗を感じる子供もいるので、上から頭ごなしにお前がわるいのだからと命令するように言うのはかえって逆効果の場合もある。
確かにそういう回りくどいことをしていたら埒が明かないこともしばしばだが、しかし上の権威と言うものを認めさせて、命令系統だけで伝えていくと言うのはやくざの世界と同じで、こういう社会での道徳や常識というのが認められてしまうと、間違いがおこるのだろう。

正直運動系はあいさつをでかい声でして、目上の人に敬語らしき言葉をつかい、かたちだけでもその人を立てると言う点ではうけがいいが、しかし後は何もない、それだけだ。まあ最近ではすすんでいるスポーツは語学を勉強したり、スポーツ科学を学んでいるが、しかしまだまだ全体的にそれだけという奴も多いのではないかと思っている。
きつい一言だが、今やもうでかい声であいさつするのと一応敬語らしき言葉を使うことで評価される時代ではない、おそらく昔は勉強ができなくても、よそでは不良をやっていてもこの二点ができれば礼儀正しいと評価されていたが、しかしプロ選手になるのなら問題ないが、もし社会にでて仕事をするのなら、他の肝心なこともしなくては認められるようなものではない。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身のまわりでおこっていること

2011-12-07 | Weblog
日本を留学や仕事ででたことがある私のまわりの何人かの人間が言っていた。
「日本人はとにかくルールというものをつくりたがる。」
私もこの意見には同感だ。よく試合会場でおこられている人がいるが、こういう様子も何かこの場では守らなくてはならないルールや態度があって、それが十分にできていないとリングサイドから犬をおこるように注意する奴もいるそうで、もう少し自由にやらせてやれよと思うのだが、しかしそういう場では親玉たちの顔色をうかがうことが要求されるのだ。
私のようにいくつかの文化を経験した人間から見たら、スポーツの世界は何かよくわからないへんなルールができている。
言ってみれば親玉の顔色をうかがうことがそのルールの根源で、何で注意されるのかわかったようでわからないのだが、しかし態度ひとつ間違えるとおこられてしまうよくわからないspecificな世界である。

今道徳とかやさしさというのは、日本だけを基準にして考える時代ではない。
地球温暖化やエコなんかもそうだが、あの福島の大震災が起こった時、外国の対応はどうであっただろうか?
各国は日本のことをニュースで取り上げ、義援金や支援団体をこぞっておくってくれたことは記憶に新しく、特に台湾は最も多くの義援金を贈ってくれたそうだが、感謝すべきことだ。
これに対して日本はどうだっただろうか?タイの大洪水、台湾の大地震、アメリカの台風による水害、確かにニュースで報道されたが、しかし私はこういう問題に対して日本人は問題意識が希薄であったように思える。
福島の大震災が起こった時にはあれだけ多くの人間が助けい合い励まし合うことができたのだが、しかし他国のことになると問題意識が希薄になる単一民族の限界である。

日本人は優秀だと思う。実際に海外で活躍している日本人は多いし、私自身も国籍を選択したことは光栄なことで、誇りに思っている。しかしこの単一民族であると言うことはある固定観念にとらわれてしまい、広くものごとを考えることができない、ディスアドヴァンテージだ。
そう考えたら体育会のオウンルールの世界がいかに狭く、みっともないということがわかる。
よく体育会の顧問が部員を人前でおこっているのを見かけるが、こういうことは人権にうるさい国ではありえない、さらにあいさつの強要、問題なのは教育しているのではなく、命令だからだ。あいさつなどは気持ちがつたわれば会釈ぐらいでいい。
なのにでかい声をだせとか元気にしろというのは、ともすればその子の人格や性格を否定するわけであって、おまけにでかい声ならばチワーッスでも、あいさつになるのだからここまでいけば日本語に対する冒涜である。

こういう集団は組織やメンツが大事なのか、はたして個が大事なのかわからない?私はメンツが一番大事なのではないかと思っているが、今個を育てなければ、かわりつつ世の中に対応できない。
個を育てると言うのは同じような仲間が集まるような場のspecificなルールの中で生きていては育たない。
個を育てるためには、もっともっといろいろなことを知るためにいろいろなところに出て言って、何かを学び感じることが大事だと思う。

実際にこの世界では我々の身のまわりでたくさんのことが起こっている。
さっきの災害もそうであるが、北朝鮮でおこっていること、そしてタイやカンボジアの少女買春に日本人が深くかかわっていること、数えあがたらきりがないぐらいいろいろなことが我々の身のまわりでおこっている。
私が心をいためたことはアメリカには韓国人の養子が多いということである。
なぜ多いかと言うのは女性に権利がないので、子供ができても父親もなく、母親が育てられないので泣くなく養子にするということがあるそうだが、その話しはハワイの韓国人から聞いた話であるが、よその国に行けば、日本とは違う現実が見えてくることがあるし、他国の国の人間は日本人以上に政治や民族、そして権利について考えていることが多く、そういう現実にふれることが若い人間には必要で、そういうことを経験した中で、自分には何ができるのかと考え、自分にぶちあたる、その時、自分は何ものかと言う個が見えてくるのである。
元サッカー選手がそういう問題意識をもって、実際にボランティア活動をしているのも彼ら彼女らが海外に行ってサッカーだけではないいろいろなことを吸収してきたからだと思うが、よく解説などで見る北沢という選手がそうであると思うのだが、その他最近水泳の元金メダリストもそういうボランティア活動をしていると聞いたが、彼らもまた日本だけではなく海外で学び、いろいろなことを吸収してきた人たちである。
何が正しいと言うことが定義できない今の世の中、視野を広げるために見聞をひろめて物事を考えていかなくては、公平な考え方ができないと思っている。
たぶん21世紀はそういうやさしさというものが要求される時代だ、先日も書いたが指導者もそういうことを無視して、ただ自分のクラブを強くすることだけを考えているだけでは教育的配慮にかけるだろう。
私は自分の子供に言葉をおぼえさせるのは将来、向こうの大学をすすめるのと同時に、向こうで何かボランティアをすすめるためだ。いろいろな立場の人間を理解し、問題について悩みいい意味で傷つくことは必要なことだし、そのことが彼を成長させることだと信じている。

自分の指導者に「人間の権利とは何か」ということを聞いてみればいい。
こういうことを聞くと、稚拙なことを言ったり、まともに答えられない奴はだめだ。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイロニーの使い方 要注意

2011-12-05 | Weblog
最近うちの子が勉強面でたるんできているので、サルの王様の話しをしてやった。
サルの王様と言うのは以前ブログにも書いた、韓国のことわざで井戸の中に映った月を見て月がおとてしまったと勘違いして、家来をつかって取り出そうとしたが、しかし全員井戸からおちてしまったという話しで、このことわざが意味するところは、サルが何匹集まっても所詮サルだと言うことで、私がその後続けて話したことは、人間だったら考えることができる、人間は考えると言う能力が与えられているのだから能力に従って一生懸命勉強しなくてはならない。
さらに子供にはこの考えると言うことに関連して「使う」と「使える」ということを教訓として伝えた。
どういうことかと言うと「使う」というのは頭をつかう、つまり考えることで、勉強することである。
例えば私が英語を勉強するのが頭を「使う」ことで、英語が話せるのは「使える」である。すなわち人間として考える能力が与えられているのだからそれを使って、やがてそれを使えるようにしなくてはならない、そういう努力をするのが人間であり尊い生き方であると。
おそらくこのたとえをもって勉強を一生懸命しろというのは、いささかアイロニーがきつすぎるように思える。
しかし私は子供には時にはそういうアイロニーを持って毒を吹き込まなくては、刺激と言うものを十分に与えることはできないと思っている。
最近聞くところによるとおとぎ話の内容などがかわり、話し自体も猿蟹合戦が仲良しになる。ハッピーエンドで終わるように、かなりオブラートに包まれるようになったと聞くが、しかし私は子供には昔のようなえぐいとも言えるおとぎ話も必要で、こうなったらいけないという危機感と言うものをもたせるのも、一つの教育ではないかと理解しているが、私は子供には時にはこんなことをしたらなさけないとか、バカじゃないのかという危機感と言うか、そうならないためのきつい言葉と言うのは時には必要であると思っている。

しかし人間は平等であるが人間の能力には差があると言うこと、一生懸命頑張っても、その分野では理解できない子供もいることに対する配慮を忘れてはいけない。
こういう寂肉強食のスポーツの世界では、常に前に向かっていくことが求められるので、時には弱いものに対するいたわりがかけることもある。
時々格闘技の指導者は強くなって弱いものを助けるというようなことを言うが、しかし弱いものをいたわると言うのは、自分が強くなってというような現実ばなれした理想ではなく、感情や心の問題だ。
第一自分が強くなってなどというのは傲慢であり、私にしてみたらそう言う言葉は、かっこつけの漫画の言葉のように聞こえるのだが、もう必要以上に書く必要がないが、往々にしてこういう言葉は、自分が何を言えば人を感動させれるとか、かっこいいと思われたいだけの言葉である。

聖書の中に「good samarian」と言うのがある。
私が向こうにいた時、学生会のクリスマスの余興で主人公として劇に出演した物語であるが、それは道端に一人の人間がたおれていたが、そこを通りがかった二人の立派な人物は彼をむしして通り過ぎて行ったが、しかし彼を敵対する民族が彼を助けたという物語で、人間がその人の隣人になるのは身分や血統ではない、人をいたわる気持ちであるという教訓が込められた物語である。
後になってわかったことだが、なぜ私が主役に選ばれたかと言うのは、私が演技がうまかったからではなく、大きな意味がある。
このサマリアンというのはユダヤ人と他民族のハーフであったそうだが、当時は血統とというものが非常に重要視されていたので、他民族の血が混ざった人間はさげずまれ敵対されていたのだが、そのサマリアンがその倒れていた人の本当の隣人になったのだが、その主役に私を選んだのは、アジアの問題を含め、民族の多いアメリカならではの配慮であったと思っている。
その物語で道を通りかかった時に、サマリアンが倒れた人を見た時に「彼の心が動かされた」というようなことが書かれてあるのだが、この動かされると言うもともとの言葉は人間の内臓に関連した言葉であり、よく日本語でも断腸の思いという言葉があるが、彼はその倒れた人を見て心を動かされたから、かわいそうになって助けたのである。
たぶんこの物語は人間の真の姿をとらえていると思う。
人間と言うのはきれいごとで善意を行えるものではない。
あの聖人とも言われるマザーテレサだって人を助ける理由は「その人の中にイエスを見る」すなわち心が動かされるからだと言っているが、自分たちがもし本当にいろいろな能力の人たちや立場の人と向き合って生きるためには、偉そうな理屈や理想ではなく、その中に入って見て実際に感じることが大事である。

少し話しはそれるが私が中学生にbe動詞をこのように説明している。
be動詞と言うのはそれぞれ人称によって違うのだが、なぜ違うのかと言うとそれぞれには人格と言うものがあるからで、英語ではPersonalと言うが、人称動詞は人格を持った動詞である。
beというのは基本的には存在をあらわす言葉であるが「I」には「I」の人格 「You」には「You」の人格そして「 He」には「He 」「She」には「She」の人格があってそれぞれを大切にしなくてはならない、だからそれを尊重して存在をあらわす動詞はそれぞれ違う。
小さなことであるが、時々私は子供に何かを語る時はそういうことをできるだけ伝え感受性にうったえるようにしている。
人格とか人権と言うものは守られるべき最も重要な問題で、このことを十分に配慮しなくては結局きついアイロニーも本当の教訓として生きない、人をみくだし、けおとすような弱肉強食の世界にみちびくだけだ。
大事なのは互いの人権や権利、そして能力を認めあって今の自分の能力を最大に生かすことではないか。
ボクシングでもそうだが、その人間の能力で差をつける指導者は教育的配慮にかける。
人間は能力差があっても、すべての点において等しい。
プロ選手ならまだしも強さだけにこだわったり、できる人間を特別かわいがるということは、学校などの教育的な場においてはあってはならない。
クラブを強くしようと思ったらそうなるのだろうが、しかしこういうクラブは教育を放棄したクラブだ。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

従順であるな

2011-12-02 | Weblog
ここに一枚の写真がある。
そこには自分をはさんでジョージそしてアレンがいっしょに写っている。
これを撮ったのは試合の後で、少し目をはらした姿で写っているのだが、自分にとってこの写真は思い出の一枚である。
ここではコーチは競技者を「boy」と呼ぶ。それがたとえ20歳を越えた大学生であろうと「boy」と呼ぶので多少の違和感はあったが、しかしこの呼び方は日本のように単に上下関係をあらわす言葉ではなく、自分の子供のようにその競技者を尊敬し、尊重すると言う意味が込められている。

むこうのコーチはめったなことでは競技者にあれこれ言わない。
たとえそれがよくないんじゃないかと思うことであっても、言葉にせずとにかく彼、彼女のやり方を尊重するのが「hawaiian way」である。
しかしやり方を尊重するのはもうひとつ大きな意味がある。
それはアメリカではスポーツをする人間は子供のころからいろいろなスポーツを競技してきているので、その競技を引きずって来ているので、ひとつの型にはおさまらないからである。
日本ではひとつのことを続けて競技するのが尊いことだという錯覚があるが、しかし向こうではありえないことで、むしろそんな奴は退屈でつまらないと思われるだけだ。

私が思うに日本のスポーツのシステムは間違っている。どう間違っているかと言うと同じスポーツにこだわりすぎで、小さいころから同じスポーツばかりさせているとバランス感覚が育たないし、それをやっていること自体将来の予備軍なので、他のスポーツをやってみょうというような余裕など持てない「基本」とか「型」とかと言う言葉をやたら使い、徹底してそこに順応させるやり方は洗脳に近く、結局スポーツを楽しむものとして競技していないから燃え尽き症候群なるものが存在すると思う。
私はこういうシステムにはめ込むこと自体、単純で個性のない人間をつくり出すと思っているが、むこうの選手に天才が多く、時々おそろしくバランス感覚がいい選手がいるのは、間違いなく小さいころから複数のスポーツを競技しているからで、時々メジャーリーにとんでもないかまえで、えげつないホームランをうつ選手がいるが、まさにそういう選択肢があり、バランス感覚が身についているので、そういう一番自分にあったスタイルを見出すことができるのだ。
他国でボクシングでも競技したらわかるが、なんじゃこいつはという選手も少なくはない。
最近ではスイッチするのは多少あるが、しかし当時はあまりなく、それでも当たり前のようにスイッチをしてくる選手には驚かされたし、時々こいつはどこからパンチをうってくるんだという選手もいて、とにかく個性が強かったのだが、そう考えると型にはめ込み「勝つために」というニンジンをぶらさげて競技させるやり方は、教育的配慮にかけるし、やっていてつまらないと思う。

今でも思い出すのはよくリングサイドで彼らが言っていた言葉である。
「OK boy! co-me on boy!」「boy」という言葉は文字通り受け取れば「少年」だが、しかしそこには愛情と尊敬、尊重の意味がこめられている。私自身競技して来て彼らからひよっこ扱いされたことはなく、対等で会ったことは確かなことで、だからこそ「boy」という言葉は尊敬の言葉になるのだろう。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする