脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

コギトエルゴスム 

2022-10-27 | Weblog
デカルトという哲学者がいる。デカルトはもともと数学者だったわけだが、その数学的考察を哲学に取り入れた哲学者である。じゃあどのように彼は数学的考察を取り入れたかというと、数学には公理と定理という言葉がある。公理とは問題をいろいろと考えていって突き詰めていってこれが正解だろうという公に認められるだろうという答えのことで、その積み重ねが定理になる。例をあげれば三平方の定理である。これは直角三角形の2辺に接する正方形の面積を足すと長い斜辺の正方形の面積と等しくなるということだが、この定義は平行線はどこまで行っても交わらない、三角形の内側の角度を足すと180度になる公理から導き出されたものである。デカルトはまずすべてのものを疑った。そして疑って疑って最後にいくら疑っても自分を疑うことができない自分の存在にたどり着いたわけであるが、彼はそこを一つの公理として物事を考察しようとした。いわゆる考えている自分そのものの存在は否定できないということであるが、おそらくデカルトが導き出した公理は思考することであり、どう思考すれば真理である定理にたどり着くことができるかということが書かれているのが「方法序説 」である。さらにデカルトは机上の学問だけではなく外の世界に出て行っていろいろなことを経験することは大事なことだと言っている。これは私の持論であるが思考できる人間は強いと思う。特に経験値の高い人はその経験から多くのことを学び思考できるのでぶれない何かを持っている。一方人の話が聞けない、聞いてもそれを理解して受け入れることができない人は行動に脆弱さを感じてしまうのだが、やはり思考できる人とそうでない人とでは生きていく上で大きな差があると思うが、実際管理職などの人がいい哲学の本があればすすめてほしいと聞かれることも多々ある。考えることは大事である。人間悩んだときは自分が一番不幸ぐらいに思ってしまうが、しかし考えて考えて知恵を振り絞った結果何かが見えてくる。私は立場上いろいろな人たちから相談を受けることがある。そしていつの時代になってもまじめに一生懸命生きている人たちは悩み事が多いことを実感している。生きていく上で我々は多くのことを経験し、そして大きな試練に出くわすこともあるだろう。でもそれを回避できるすべを身に着けるために多くのことを経験しぶれない思考できる能力を身に着けることは大事なことだ。

参考文献「方法序説 (まんがで読破)」ルネ デカルト イーストプレス

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サルのコミュニティと人間のコミュニティの違い

2022-10-27 | Weblog
日本が世界をリードする学問としてサル学というのがある。これは今西錦司という人が提唱した学問であるが、この今西氏が言った言葉でたいへんおもしろい発表がある。それはサルは「餌付け」をすると非常にだらしなくなると言うことだが、「餌付け」というのは人間がサルを観察するための一つの手段である。ところがこの「餌付け」を人間がすることによって、サルたちは獲物を確保することをせず、サルどうしの関係をでたらめにさせるらしい。朝起きれず昼間で寝ていたり、ノイローゼになるサルまででる始末だと言っているが、つまりこの「餌付け」によってサル社会にあったあるはっきりした「規律」というものが壊れてしまって、バラバラになっていく、そういう状態が生まれる。サル社会は人間社会に近づくと道徳的にだめになっていくというのが、彼の意見である。この発表はいささか人間社会を揶揄しているように見えるのだが、確かに世の中が便利になり文明が進むと秩序や道徳が乱れる傾向はなきにしもあらずだ。
パスカルは「人間は考える葦である」と言った。これは人間が自然から見てどんなにもろく弱くても、人間はその自然について学び、知る知性がある。その点ですべての自然より勝っているのだということであるが、我々はサルではない人間である。我々の「規律」や「道徳」はただ生きるための法則のようなものでもない、人間には考える力がある。その考える力によって「規律」や「道徳」というものを定め守っていく、それが人間の社会であり、その人間の社会をかたちづくって行くのが「教育」の力であり、その教育によって人間の社会はよくもなり、わるくもなるのである。この論文はどちらかというと動物世界の本能や生態系の中でとらえられた秩序(はっきりいって人間も動物だが)であって、私の意見では確かに動物の本能や生態系で考えればそこに行きつくのだろうが、しかし私は人間の世界はむしろそのパスカルの言う知性や教養によって進歩していくと思っている。我々の秩序をかたちづくっているのは知性や教養であり、それらは教育によってみがかれる。教育の力が強ければ人間の規律や道徳があたりまえだが退廃することなどないであろう。コミュニティに公平で平等な正しい道徳観を浸透させたかったら教育的であるべきだと思う。





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私が考える弱者とは

2022-10-24 | Weblog
クラッシックを聞く、語学を学ぶ、本を読むというのは管理者のたしなみであるというのがコミュニティを管理していくうえで大事なことだ。ジムには一般の社会人が集まってくるのだから、ある程度言葉や行動が洗練されていないとそこにどういう人たちが集まってくるかということに影響する。私はそのことがジムの質につながってくると思っているが、大した教養もない、とりえもない人間が、まわりにまけじまいと武勇伝ややんちゃ話でマウントをとろうとすると半グレみたいな輩が集まってくる。そういう輩が2,3人いるだけでも厄介なことで、コミュニティの害になる。
ニーチェの思想のワードにルサンチマンという言葉がある。これは著書「ツアラストラはかく語りき」の中で表現されている弱者の定義であるが、「ルサンチマン」とは弱者が敵わない強者に対して内面に抱く憤り、怨恨、憎悪、非難、嫉妬といった感情で、そこから弱い自分は正しくて、強者は悪だという価値の転倒のことを言う。世間的に自分よりも能力の高い人間にコンプレックスをもって、ほかに何もないからと武勇伝ややんちゃ話を針小棒大に語ってマウントをとろうとするのはまさにルサンチマンのあらわれであって、そういう人間たちを私は弱者だと思っている。そういう一般的にみたされないルサンチマンを持った自己承認欲求の強い人間が集まって誇示するためにために自分よりも力のないものに力を行使し見せつけたり、自慢話をして見栄を張りあったり、仲間意識でかたまったりすると、しょうむない上下関係ができ、そういう輩は常に人を自分よりも上か下かで見ているので、そこには必ず不公平や理不尽な人間関係が存在する。そういう意味でジムを弱者の集団にしたくないと思っているが、そういう人間たちをジムに引き寄せないことが大事なことだ。私はこの多様化する時代に正論なんて存在しないと思っている。コミュニティにおいて何が正しいかというのは、正論であるという考え方を論理的に述べることができる能力と、何が正しいかという感覚をしっかりと学んで持つことだ。そしてそれらのことがジムを運営して行く上で大事なことであり、ジムの雰囲気をよくし、ジムを健全に保ち、質をよくするのだが、そのため語学を学ぶこと、そして読書をすることは管理者に必要なことだと思っている。

参考文献 「「最強!」のニーチェ入門  幸福になる哲学」 飲茶 河出文庫

高知のボクシングジムMTオリーブフィットネスボクシングクラブ




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マックスウエーバーの「職業としての政治」から暴力を考える

2022-10-24 | Weblog
マックスウエーバーは「職業としての政治」でまず国家であるためにはmonopoly on violence(暴力の独占)が第一だと言っている。所謂力なき国家と言うのは無意味であり、国家としての意味をなさないということであろう。確かにそれは国の秩序を守るためには当然のことだ。しかしその権力と言うのは時にはゲバルトになる。私は国家権力=ゲバルトと考えているが、その権力側の言動が時には相手に対する威圧になったり、強制になったりするもので、そこをよく理解しなければ権力者側と国民との間に摩擦が生じる。為政者や国家権力にたずさわる人間はそこをよく理解して行動しなければならないのだろうと思う。卑近な例だが、刑事が犯人をつかまえるためにまわりの迷惑おかまいなしに勢いだけでつっぱしっていいということはない。人権やモラルを無視してずけずけと人の空間に入り込んで、たとえそのことによって検挙率があがったとしてもそれはゆるさせるべき行為ではないだろう。権力を行使する側は当然のモラルや常識そして時には思いやりと言うものを示さなくては国民には理解されないと思うのだが、それは当たり前のことであろう。
そしてこれは監督やコーチも同じこと、いくら自分たちは上下関係がないとか言っていても監督やトレーナーと言うのは競技者から見たらある意味権力者であり、我々の言動が時にその競技者にとっては威圧になったり、強制になったりするものだ。人を指導するというのは熱意や勢いだけでは、相手の権利や人権を侵害することさえありうる。私はそこをよく理解して我々の言動を気をつけなくてはならないと思っている。指導者は教養をつめというのは、まさに物事の本質を深くとらえて、コモンセンスを理解する能力を養うためだ。指導者は子供でも読めるスポーツのハウツー本を読むよりもさっき言ったマックスウエーバーの「職業としての政治」やハンナアーレントを読んで暴力とは何かということを学ぶ方が競技者との関係をよくする。言い方をかえればそれぐらいのことを理解できなければ力を行使するなということである。もちろんコミュニティと政治は違うが、しかしコミュニティにも小さな権力が存在している。そしてこの権力がどう行使されるかということが重要なことであり、その権力を行使することが暴力的になったり、相手を支配するものになってはいけないと思っている。
「職業としての政治」 マックスウエーバー 岩波文庫


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メンタルは強化できない、心の持ちようだ

2022-10-19 | Weblog
よく人にメンタルが強いと言われる。それは友人の精神科のDrにも言われるのだが、しかし私は実際は弱い人間だと心から思っている。基本的に人間は弱くメンタルなんて鍛えることはできないというのが私の考え方だ。でもひょっとして私がメンタルが強いと思われている理由は、切り替えができること、そして何事にも固執しないということ、いわゆる自分の生き方をobservation出来ているからだろう。自分はえらいとか自分は強いということを示すために努力するのではなく、その弱くなった自分を受け入れて、自分は他者によっても支えられているんだということを受け入れて、人に譲ることがことができるようになった。そういう柔軟性が強さにつながっているのかも知れない。(しかしこれは年をとったから言えることで、若いうちはいろんなことに挑戦していって、失敗したり、不安と戦ったりして経験を積んでいくことも重要なことであろう。)
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の中で、自らの世界観を世界はτὸ κινοῦν ἀκίνητονを中心に構成されていると結論付けている。古典ギリシャ語のτὸ κινοῦν ἀκίνητονは日本語では不動の動者と名づけられているが、不動の動者とはもうこれ以上分割できないもの、すなわち自ら変化したり動いたりせず、逆に事物を変化、運動させる存在のことである。私自身もこの世界には何かそういう不動で不変な存在があると信じている。私は学生時代外国で生活し、ボクシングを競技してわかったことは自分は弱い弱すぎるということである。実際に自分よりも強くて才能のあるものはたくさんいるし、そういう人間たちとの差を埋めることは不可能である。そして世の中には自分の力ではどうすることもできないことがたくさん存在する。そういう不条理に自分が巻き込まれた時、本当に自分は無力で何もできない弱い人間だと思い知らされる。しかし人間は本当に何か大きな壁にぶち当たって自分の弱さを知った時、何か大きなものの存在が見えてくる。そしてそこからそれらの経験を踏まえて、自分は小さい存在だが目的を持って生かされているんだと言うことに気づづかされるのだが、その何かによって動かされていると実感したら、生きる力が湧いてくる。そしてその時今まで見えなかったものが見え、自分の歩むべき道が整えられていくのだろう。私は自分には自分の生き方があるいうよりも、むしろ自分には生きていく目的がすでに備えられていて自分はそこに向かって生きているんだと信じている。そうしてそこから自分の生き方をobservationしていくことで、人よりもより柔軟に生きていけるのだと思っている。

基本的にメンタルなんて鍛えることはできない。おそらく重要なのは心の持ち方である。

参考文献「アリストテレス入門 」山口義久 ちくま新書


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与えられた時間の中で

2022-10-12 | Weblog
最近人からおすすめの哲学の本があれば教えてほしいと聞かれることがある。学生であったり会社役員の人だったり様々ではあるが、おそらくこの複雑な社会において人間関係についてどう対処するかということを知りたい、学びたいという気持ちがあるのだと思う。複雑化するこの社会において哲学は不可欠だと思う。私などはこの時代はもう少し解釈を広げていって実践哲学が必要であると思っているが、多様性が求められ複雑化した社会において自分はいったい何者なのだ、そして何のために生きているんだということをふとした時に考えてしまう。その生きていく道しるべとして哲学が必要であると思う。

ハイデガーは著書「sein und zeit((存在と時間)」の中で、人間だけが時間の感覚を持つ生き物だと言っている。この話を韓国人の後輩に話したら「おにいさんは犬の気持ちがわかるのか、犬になったことがあるのか」と言われたが、その話は置いといて、ハイデガーは人間の存在を時間もって解釈する。人間だけがここに存在していると言うことを認識しているから時間の感覚が持てる特別な存在だと言うことである。ハイデガーは世界をザインとザインデスと言う言葉にわけたが、ザインというのは存在そのものでザインデスは存在者と言う意味である。ウサギや犬は時間の感覚を持たない。それはただそこに存在しているからだ。しかし人間が時間の無駄と感じるのはただ存在しているのではなく、その存在そのものを認識できる存在者だからだ。そう考えると人間だけが時間の感覚を持ちそれをどう生かすかは人間次第であるということが言える。彼は時間は我々の外側を無関係に流れているのではなく人間にはあるべき未来を目指す未来と自分がひきうけなくてはならない過去が存在すると言っている。しかし人間の時間には限りがあるゆえに人間は死に向かう存在である。その死を受け入れつつ自分の可能性に向かって生きるのが人間がその時間の中に存在すると言う意義ではないかと解釈している。ここからは私の解釈であるが人間が時間の無駄と感じるのは自分の時間には限りがあり自分がその死に向かって生きると言うことを知っているからである。そう考えればもっともっと積極的に正しくその時間を有効に使おうとするであろう。時間は平等に与えられる。そしてそれを巻き戻すことはできないし、かといって早回しする必要もないだろうが、我々はその与えられた時間を大切に有効に使うことができる権利と特権があたえられているのだ。私に流れる時間は無限ではなく限りがある。その限られた時間の中で精一杯生きることは人間らしい挑戦であり覚悟だと思う。
そしてその限りない時間を有効にするためには自分の世界を広げることである。例えばスポーツをするのもそうである。未知のものに挑戦している時は生きている実感がわくし、外の世界に出て行って他の文化を知ったり、言葉をおぼえたら2倍人生が楽しくなるというのは自分の世界が広がるからであり、そういう体験を通して生きている実感をえることができるであろう。
前に自分は一人だという大学生に「お前世界に人口は何人いるのかその人すべと会ったのか」と半ば強引なことを言って説得したが、自分の世界にとどまって同じということだけで安心している人間はある意味孤独だ。たとえ少しかわっていてまわりに共感できなくても世界を変えればどこかで必ずその自分を受け入れてくれる人間に出会うことができる。そういう体験が人を本当に成長させ、その体験が人を受け入れれる器になるのだと思う。自分とは違う世界に出ていくことは不安であるし、エネルギーも必要だ。時間は無限ではなく、与えられたものだ、その時間を最大限に有効活用したければ自分の世界を広げていくことも大事だと思う。

参考文献「ハイデガー『存在と時間』入門」轟/孝夫  講談社現代新書


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