脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

To Angel 그래 그렇게 웃어

2018-03-29 | Weblog

私はよく英字新聞を読んでいるのだが、それには理由がある。理由は地方の新聞は読まないようにしているからで、時々モラルに反していると感じるからである。
だいぶ前の話だが、女性の連れ子を殺した男の裁判の記事が載っていた。こういうやつは極刑にしてやれと思うのだが、しかしその量刑が確か懲役10年に満たなかったことに誰もが裁判の不公平さを感じたと思う。私が地方の新聞に不信を感じたのはその記事の一番最後の言葉である。その記事には「その実の親である女性が、男の出所を待つ」というようなことが書かれてあったのだが、私は少しこの記事を読んでかなりの不快感をおぼえてしまった。非常に無神経、こういうことを平気で書く気持ちが理解できない。もしその子供が生きていてこの記事を読んだらどう受け止めるであろうかということを考えたら、そういう余計なことを記事にしないとは思うのだが、なんせ表現の自由だから仕方がないが、この記事以外にも無神経な表現があるので私は読まない。

私はその愛した男がすべてで男につくしたり、男や女のために生きるとか、恋愛に生きる人間は信用できない。そういう人間はともすれば、男や女のことになるともうまわりのことなど見えなくなり、さんざんえぐいことをしておいて、時にはそれを美談にしてしまうのであるから恐ろしいのだが、西洋哲学ではこういう愛情をエロスと言って、小説なんかに表現されているのだが、その人を得るためならどんなことをもいとわない、欲望の愛、私に言わせればSluttyである。よく幼児虐待の話で、その男と付き合う前はやさしいお母さんだったが、その男と付き合ってから人がかわって虐待しだしたと言う話は、まさにそれはそのお母さんにとってその時から男がすべてになったからで、もし男が子供を疎ましく感じたら、母親もその子を疎ましく思い、男に気にいられようとして虐待するのである。子供にとってはたとえ虐待しても親は親である。親がどうであれ子供は愛情を注いでもらおうと必死である。そう考えると自分を殺した人間を待つと言うことは、どれだけその裏切りが大きいかということが分かるのだが、私の意見としてはこういう残酷な記事を書く時は、常に弱者の立場からとらえ、特にこういう子供の気持ちをよく考えて記事にしてもらいたいものである。

幼児虐待やいじめ、また肉親の死などを体験した子供たちのことを考えた時に、こういう時代だからこそスポーツの指導者は生きること、そしてその生きるために彼ら彼女らが何をすべきか、すなわち生きる力を与えなくてはならないのではないかということを実感している。しかしこういう時代に「夢を持て」とか「希望を持て」ということをノーテンキに語っても、それは彼ら彼女らの心には響かないであろう。世界をとれとか、男だったらやってみろなどと煽るような言葉をかけるのも一つの指導法であるかもしれないが、しかしそう言った発言は時に無責任さえ感じる。

この時代を生き抜いていく必要な力はいきおいではなく「知恵」や「知性」によってうらづけられた言葉であると思う。その言葉が力強く響く時その人間の勇気や支えとなるのだ。よく漫画のような言葉をならびたててそれがかっこいいと思っているのかわからないが、やたら人を煽って前進させるような奴がいるが愚かである。単純な人間にはいいのだろうが、しかし子供と言うのは時には単純であるが複雑で、こと感受性においてはある意味大人よりも豊かである。言葉というのは魔法のようなもので、特にそれが自分に即した状況や場面ではすごく心に響いてくるもので、スポーツなどはまさにそうであろうと思う。本当に言葉を響かせたいと思うならば、指導者はその言葉の基本というものを学ぶことが求められるのだが、文学や古典などの言葉や知性が人間の考えていく上でのベースになる。スポーツを教える指導者は文学や哲学に無関心ではいけない。本当に言葉を響かせたければ知性を身につけることだ。時々指導者に新聞すらも読まない奴がいると言う話を聞くが、本当にその指導する人の言葉が子供に影響すると考えるならば、真面目に文学や哲学に取り組むことも必要だ。子供と言うのは大人に影響されやすい、情や勢いで集まるのもいいが、しかし大人が知恵や知性を磨きたくさん言葉を蓄えていなければ、子供の考えていく力を養えない。精神的な成長はないと考えている。

私は思う、今こういう時代だからこそわれわれには本当に考える力が必要である。
パスカルは人間は考える葦だと言ったが、人間は苦難や逆境に会った時、唯一考えていくことができる動物であり、言葉にはそれを乗り越えていく力があると信じている。
古典や文学、そして哲学から学べることは大きく、スポーツというのもまさにそうであろう。人間は考えるから人間であり、そのことをやめてしまったらそこで夢も希望もなくなるのだと思う。アリストテレス的に言えば、世界チャンピオンになりたいというような、何々になりたいというだけの発想は物の発想で、人間はなぜそうなるのか、そしてそれは自分にとってどういうことなのかと言うことを問うことができるからこそ、存在の意味があるのではないだろうか。

動画は以前韓国で番組放映されていたボランティア番組のテーマ曲。人間は弱い、弱すぎる。自分ではどうすることもできない現実にぶちあたればそのことがいやというほどわかる。だからこそその弱さをおぼえて支えあうことが人間には必要だ。テレビを見て心を動かされて流す涙と実際に見て流す涙とでは100倍以上違う。でもそういう悲しみを共有できるということは自分が大きく成長できるということだと思う。スポーツは国境をこえると私は信じているし、そうでなければだめだと思う。

 


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2018-03-28 | Weblog

 「いいね!」
子供が小さい時の時話、英語に興味を持ち始め、何か思いつくと「これ英語でなんて言うの」と言うようなことを聞いてきた。子供と言うのは思ったことを聞いてくるので、時にはそれに対して何と答えていいのか返答にこまることがあるのだが、しかし子供と言うのは好奇心が強い。
この話はファミレスでの話である。
案の定そこで彼と私のゲームがはじまった。まず砂糖をとって「これは」「Suger」、そして次に「じゃあこれは」「Pepper」などと近くのものを指差していろんなものを手当たり次第にあれはあれはと聞いてきたのだが、さらに聞くものがなくなった時、彼がある方向を指さした。
その彼の指の先には例のうるさい女性たちがぎゃあぎゃあと騒ぐ姿があったのだ。私はその時思わず「Bit○h」と言いそうになった、あぶなかった。彼はたぶんその時ぎゃあぎゃあ騒いでるその女たちを見て、あいつら一体何ものなのかと思ったのだろう。私が何と答えるかを興味深々な目つきで見ていたのだ。あとこういう公共で迷惑を考えずに騒ぎ立てるDQNはSl〇ttyでもいい、ちなみに韓国語にもこれによく似た言葉「ケー○ジ」と言う言葉がある。


「無知はこわい」
時々ボクサーでまぬけな人がいる。
解説を聞いていても意味不明なことを言うのだが、だいぶ前ボクシング中継を見ていたら、あるボクサーが解説をしていてこういうことを言っていた。それは黒人と日本人が試合をしていた話であるが。その試合は日本人が有利で試合をはこんでいた。その時解説者が「相手の選手顔が赤くなって来ていますね。でも黒いからわかりませんね」と大真面目で言っていたらしい。
あと、関西出身のボクサーがクリティカルなフックが入った時に「あっ今バリバリのフックがはいりましたよ」と言っていたが、これは全国放送での話である。
このまぬけなボクサーは日常にも存在する。
試行錯誤を知らなかったり、「自分の型にはまったら」を「おまえは自分のつぼに入ったら強い」など、格言やことわざを曲解し、まわりをシーンとさせるそうだが、ある人からこういう話を聞いた。
それはスパーリングかマスが終わった時のこと。
ひとりのボクサーがつかつかとこわい顔をして近づいて来たそうである。
何があったのかと思いきや、彼はこわい顔をしてこう言ったらしい「レフトって右のことか?」「えっ........」「普通右でしょ」と答えたものの、彼は思ったそうである「えっライトとレフトが分からなくてパンチ出していたの?」まさにSpeechlessである。ちなみに私はガッツは結構好きだ、面白いことを言うがあの素朴さがいいと思っている。


「それって日本語じゃないの」
大阪で日本人の友人とアメリカ人の友人3人でピザを食べに行った。
アメリカ人はカリフォルニア出身で、私の友人はカリフォルニアにホームステイしていたらしく、話ははずんだ。話はカリフォルニアの話ではずんだのだが、どうやらカリフォルニアにはオットセイがいるらしい。そこで彼はオットセイを見たことがあるので、自分はオットセイを見たと言うが彼には通用しない。何回も何回も「Iv seen オットセイ オットセイ」というが、通用しない。そこでオットセイの発音が間違っていると思い。何回もかたちをかえて「おっっとせい」とか「おうっとせい」「おとせい」と言っていたが、通用しない。しかしよく考えて見ればオットセイは日本語だ。英語ではたぶんSealとかSea lionとか言うらしいが、自分たちにはこういう勘違いはよくあることだ。だいぶ前もハワイでビーチサンダルがほしくて、必死で定員にビーチサンダルをくれと言っていた人がいるが、おそるべし和製英語である。


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ジンメルの「社会学の諸形式の研究」から見たいじめの一考察

2018-03-27 | Weblog

「排除されていないものは、包括されている」
これは「社会学の諸形式の研究」の中で書かれたジンメルの言葉である。この言葉は差別の構造を表した言葉であるが、差別には差別する側と差別される側があるのだが、しかしそれを傍観しているものも、差別している側と同じであるというジンメルの立場を表した言葉である。

文学博士に森田洋司さんという人がいる。
この人がいじめの研究の中で、いじめの被害について言及しているが、いじめの被害の大きさは、いじめっこの数ではなく、傍観者の数に相関すると言っている。
すなわち差別を傍観したり、無関心である人の存在は、そのいじめている人間に無言の指示を与え歯止めをきかなくさせているというのだ。

私は宗教学が専門なのでユダヤ教の掟について言及したいが、ユダヤ教の教えにこういう教えがある。「You shall not give false testimony against your neighbors」これはモーセの十戒の掟で日本語訳では「隣人について偽証してはならない」となっていると思う。しかしこの言葉は、何々するなというただ否定するだけの消極的な言葉ではない。おそらくその当時現代社会のように、科学的な鑑識やそういったたぐいのものがなかったので、裁判においては人の証言と言うのが重要な証拠であり、その裁判で裁かれる人間を生かすも殺すも、まさにその人間の証言次第であったからで、もちろんそういう環境で偽証するなというのはあたりまえなわけだが、しかしこの言葉はもう一つ積極的な意味をもっている。それは知っていることはすべて証言しなさいと言う、積極的にあなたは真実をそこで語りなさい、そうでないと偽証していることと同じことなんですよと言う意味である。

こういうことを言えば、ジンメルの研究者に違うと指摘されるかも知れないが、私はジンメルの差別について考える時、ユダヤ教が彼の考え方に非常に密接にかかわっていると思う。実際彼はキジナウムというユダヤ人の共同体の学校に入学し、そこで教育を受けているし、彼自身もユダヤ人である。おそらくこのかれのこの言葉の背景には少なからずとも、そのユダヤ教の影響があるというのが私の見解であるが、差別を何も感じないで何も行動を起こさないのは、差別するのと同じだという「排除されないものは包括される」というのは、まさに偽証するなと同じことではなかろうかと思う。

現在でも事実いじめというのはあるようだが、この言葉は今のいじめをとりまく環境にいる私たちにとって考えさせられる言葉である。私がいじめについて考えるようになったのは、ここにそういう子供たちが来たり、親が相談にくることがあってそうなったわけだが、その中でいじめを問いなおした時に思ったことは、私もそうであったが、まわりが本当にこのいじめにたいして解決しようとしているのだろうか、ただ単純にいじめられなければいいということだけで、終わっていないかと言うことである。少し難しくなるので割愛するが、ジンメルのこの言葉は今のいじめをとりまく、私たちに提言している。いじめというのはいじめられる側といじめる側の問題だけではない、それを取り巻く全体の問題でもある。すなわち共同体でそれを解決していかなくてはならない問題でもある。少し前から欧米社会ではこのいじめに対して、まわりの人間がそれをどう考え対処していくかということが問題になっているが、問題になっているのはいじめをなくそうではなく、いじめをゆるすなである。たぶん日本はまだいじめが、そのいじめられている子といじめている子、そして教師や親という中でしか問題にしていないが、しかしこれはそれをとりまく全体の問題であって、もう少しまわりの人間にも、このジンメルの言葉のように責任をおわすことも必要であると思う。




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体育会のあいさつは本当にダメ

2018-03-26 | Weblog

オリーヴには細かい規則は存在しない。もともと社会人があつまって構成されているのだから、むしろ中高生のようにあいさつしろというような、何々しなくてはならないというのは失礼なことであり、中高生のような何々しなくてはいけないという規則は必要ないと思っている。ただ私の組織論的なことで言えば言葉の質を高くしたら、それに見合った人たちが集まってくる。それに見合った人たちというのは知的で少し上の次元でコモンセンスをとらえることができる人たちで、そういう人たちが集まってくれば自ずとその群れの秩序は保たれ、さらにお互いを尊重し、協力しあうことができる関係ができると思っている。

ここでは子供に対してもあいさつというのを義務づけてはいないのだが、それにはわけがある。
確かにあいさつというのは大事なことであるが、しかしそれを上から軍隊のように義務づけて教えるのもかなり問題があると思っているからである。これは実際被害にあった例であるが、うちのクラブの子供が殴られて少しけがをしたそうであるが、理由はあいさつをしなかったからだ。運動クラブではあいさつをしなかったということで、先輩から呼び出されたり、殴られたりすることはしばしばあるらしい。ひょっとしたら暴力をふるった子供は、先輩にあいさつしなかったのだから、どつかれて当然のこととむしろ相手に常識を教えてやったんだと言うように思っているかも知れない。しかし私はこの子供が暴力に至るのは、この子供に問題があるからではなく、こういう軍隊のようなシステムに問題があるからだと思っている。こういうシステムをくずさない限りは、あいさつができないとか、礼儀がなっていないということを正当化して暴力やいじめが起こることは否めないことである。あいさつとか言ってもできない子もいる。できない子はいろいろと事情があってできないのだが、しかしそうだからと言ってあいさつは基本だとか日本語もまともに話せないような人間があいさつを義務付けることは無理があると思っている。

しかし我々が心がけていることがある。それはこちらからあいさつし、声をかけてあげることである。むこうが何も言わなかっても、こちらが相手のことを受け入れて、あいさつをこちらからするようにしている。反応がないと「声が聞けないからさみしいなっ」と言うようなことを場合によっては言うこともあるが、しかしあいさつしろとは言わない。それが私のやり方である。あいさつというのは大事である。しかし本当にあいさつが大事だというならば、上から命令するようなかたちで義務付けるものではない。本当に大切なことは一朝一夕に教えるものではなく、ゆっくりと時間をかけて教えていくものであると思っている。

ヘブライ語であいさつを「シャローム」と言う、朝鮮語では「アンニョンハセヨ」と言うのだが、これはこんにちはという意味で、アンニョンを漢字で書くと「安寧」と書くのだが、このあいさつは直訳すると安寧がありますように、すなわち平和がありますようにで、シャロームと同じ意味である。当然この言葉は相手に対して向けられた言葉であるから、相手の平和を願う言葉で、相手に対する思いやりが込められた言葉である。韓国はこのことを言うのに少し無理があるが、しかし言葉の趣旨としては、相手のことを考えて、相手をなごませたり、励ましたりするためのものであり、あいさつというのは決して上から軍隊のように義務付けることでもないのだ。

最近仕事でSkypaをつかうようになり、外国人と話す機会が多くなった。時々クラブでもSkypaで英語で話しているので、あの人何をやってんのだろと思われているかも知れないが、仕事である。そのSkypaというのは、テレヴィ電話のようなもので、相手の顔が見えるのだがテレヴィに映ると、まず交わす言葉は「Hi」とか「アンニョンハセヨ」とあいさつを交わすのであるが、Skypaにうつる相手はあいさつする時必ず微笑んでいる。少し前もフランス人の友達と話をしていたのだが「Hello」とうれしそうにあいさつをされると何かすごく明るい気分になってくる。思わずこちらもにっこり笑って「Helo」と言うのだが、私は外国人と付き合うようになって笑顔で人に接するようになれたが、それはかなり大きなことだと思っている。失礼だが、私はたとえ声が大きくて、元気があっても、仏頂面でされるあいさつは何かよくわからないがそれは形式的過ぎて心には響かない。ひどいやつになると「チワーッス」とか「チーッス」「ウイーッス」なんていうのもいるが、これがあいさつでないということは保育園児でもわかっているのだが、あいさつはコミュニケーションをとる手段である。どっかの大親分が出所してくるわけでもないのだから、たとえそれがでかい声であろうと、形式的にあいさつをされても、かえって戸惑うだけで、コミュニケーションはとるきっかけにはならないだろう。むしろにっこり微笑んで「how are you」と言うからこそ「Im fine thank you」とか「Im great」と言えるのではないだろうか。

そしてお互いそういう気持ちがわいてくるからこそ、会話もできるのである。形式的なあいさつはぎすぎすした関係や雰囲気をつくるが、うちにはそういう雰囲気は必要ない。大切なのは義務ではなくて、あいさつすることで相手の気持ちが和むことである。簡単なことだが、こちらがにっこり微笑んであいさつすれば、相手も同じような気持ちになる。そういうあいさつを心がけ伝達していくほうが大事であると思っている。そしてあいさつ自体がヘブライ語や朝鮮語の言葉が生きているのであれば、子供たちもそれを意識するようになり、自然とあいさつの大切さがわかり、あいさつができるようになると思っている。






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I AM ASIAN

2018-03-23 | Weblog

正直言って私はどちらかと言えばオンチなので、あまり歌うことは好きではない。
時々アジア人の友人にいっしょに行こうとと誘われるのだが、あまり気乗りがしないので行かないと断っていたのだが、韓国人の女性に、そんなこと言ってたら暗くなると、半分拉致のようにピーターの車に押し込められて、カラオケクラブに連れて行かれた。
アジア人はこういう時は違う。個人主義の徹底しているアメリカ人だったら、行かないと言ったら、それ以上は誘うことはしないが、しかし協調性を重んじるアジア人は、友達に行かないといわれるとどこか傷つくようで、アメリカ系韓国人のジヨンもこういう気質であるから、誘ってもついてこない私に、何かさびしさを感じたのだろう。とにかく私がおごるから来いとひっぱっていかれた。そのカラオケクラブだが、今のカラオケボックスのように完全個室ではなく、一つのホールに客が集まり、リクエストした歌の順番を待って、その順番がきたらステージにでて行って歌うというシステムである。しかし実際行って驚いたのだが、そこは日本によくある温泉街のスナックのような場所ではなく、かなり大きい。大げさに言うと講堂のような大きさで、見渡すと大体100人以上の客やウエイターやウエイトレスみたいな人間がいる。歌う時その一番前のステージで歌うのだが、これはかなり度胸がいる。
席に通された瞬間あまりの人の多さにおじけづき「オレ絶対ここでは歌わない」と誓ったのだが、「今日はみんなホヨンの歌を聞きに来たんだから、しっかり歌ってね」と日本人のようなことを言われ、そこで拒むと厄介なことになるので、観念して適当に選んで歌った曲がだいぶ古い歌だが「夢の途中」である。
この曲を選んだ理由は、キーがそう高くなく、歌があまりうまくないオレでも大丈夫と踏んで選んだのだが、しかし以外にも盲点があった。
実はこの曲は違う歌手も歌っていて、そっちのほうが有名でかつキーが高いのであるが、ハワイのカラオケクラブにそんな気の利いた選択権はない、当然流れた曲はキーの高いほうで、結局私はキーについていけずか細い声になり、歌いきれず恥をさらしてしまったのである。
私はこの曲しか知らず、結局行くたびにこの曲ばかり歌うのだが、ある時ジウンがこう言ってきた。最初へたくそなのでこの詩の内容をじっくり聞こうとしなかったが、最近少しましになったのでその歌詞の内容をじっくりとらえて聞いているが、この歌詞は非常にいい歌詞で気に入ったのだという。特に「さよならはわかれの言葉ではない」というフレーズが好きだそうで、どことなく日本的であるというのだ。
だいぶ前朝鮮のドキュメンタリーがあって、その時子どもにインタヴューをしたのだが、そのインタヴューが終わって子どもが帰る時に、その取材陣に「ッアイチェン」といったことを覚えている。「ッアイチェン」は中国語でさようなら。漢字で書くと再会と書く。
北朝鮮ではさようならを中国語で言うのかと少し驚いたのだが、この中国語の言葉はアジア人の気持ちをあらわしていると思う。アジア人は個人主義が徹底している欧米に比べて、別れの受け取り方が違うと思う。よく映画やドラマの別れのシーンで走り去る列車にむけて、いつまでも手を振っているというのがあるが、別れはアジア人にとって特別な感情を持ってしまう言葉である。
この人とずっと一緒にいたいとか、はなれたくないと強く思うのは、アジア人の感情の持ち方で、それは年をとって死んでも、同じ墓に入りたいという「偕老同穴」という言葉にあらわれているが、独立心の強い欧米人に比べて、アジア人はそこまで他者との結びつきを考えて生きている。
ッアイチェンということばは、そういう別れを惜しんでの言葉であろう。
私が帰国をする日、ピーターとジオンが空港に見送りに着てくれた。確かジオンはメインランドの大学に編入、ピーターは留年、本人はもう少し勉強したいと言っていた。
そして帰り際に彼女が「手紙ちょうだいねっ、さようなら」の後に言ったのがトマンナヨ(また会おう)である。しかしその後、彼女とはソウルで一度あったきりで、それから一度も会ってはいない。ピーターと会った時に消息を聞いたが、たぶん今はアメリカ本土でビジネスパーソンとして活躍しているだろう。また彼女と会えるとは思っていない。
しかしこうしていっしょにカラオケクラブに行ったことや、たくさんのことを共有できたことは、私の楽しかった思い出である。
おそらく日本にいたらこういうアジア人の結びつきというものはわからなかったであろう。私はこの米国でより一層自分がアジア人であり、そのアジア人として生きているということをこのアジア人の友人たちを通して実感した。






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色あせてはいけないもの 見栄のためにスポーツをやっているのではない

2018-03-22 | Weblog

久しぶりにハワイに行った時にアレンから試合のビデオを見せてもらった。特に印象的であったのは勝ってリングから降りてきた時の私の顔、近寄ってきたジウンに何かを言っているのだが、すごく達成感のある顔ですごくいい顔をしていた。自分で言うのもなんだがすごく絵になる。たぶんこういう顔はあの時代にしかできない表情だろう。それだけ私はボクシングを楽しんでいたのだと思う。スポーツの語源はラテン語でdeportareだ。これは楽しむということを意味しているのだが、この言葉が示すようにスポーツは楽しむもの、それは決して修行ではない。私から見たら日本のスポーツは修行、そして不公平だ。親玉におこられて気をつかって、一部のアスリートだけが特別扱いされる。会場に行くと偉そうにしている奴らがいて、そいつらがあたかも自分たちは試合の中心だとでかい顔をしてかたまっている。親玉も親玉で自分がそこでは偉いと思っているのだろうか、よその競技者をおいそことか、大したことでもないのに人前で戒める。私はこういう奴らを見ていつも思うことは、こいつらこういう態度を外国でもできるのかと言うことだ。たぶんできない。なぜならまず英語がわからないし、主張できない、私が競技者だったらそういう人間を心から監督には持ちたくないと思うだろう。

ハワイは平等で競技者が生き生きと競技できたと思う。負けたと思った試合で判定勝ちした時は終わってなぜ俺が勝ったんだと聞きに行ったこともある。しかし審判に聞きに行っても決して態度が生意気だとかそういうことは言わずにきちんと説明してくれたのだが、たぶん日本だったらなんだお前と戒められていたと思う。私の競技人生はたいした実績ではなかったが、しかしすごく楽しかったと心から言える。学生時代に経験したハワイでの試合ひとつひとつは貴重で、外国のリングで戦う自分はあたかもドラマの主人公のようであった。はじめての試合はダウンをとられたが逆転勝ち、会場は盛り上がって、ジョージやアレンがすごくエキサイトして、終わってブルーコーナーとコールされた時、ジョージが私の頭を引き寄せて頭にキスしたことをおぼえているが、本当に外国人が経験するリングでの出来事は貴重な経験であった。私はそんな自分をすごく楽しんでいたと思うし、楽しいから努力もできた。そしてそういう貴重な体験はまわりの雰囲気や人間関係から生まれるもので、そういう環境でボクシングできたことが本当によかったと思っている。勝ったとか負けたとかそんなことも大事なことだが、しかし私の経験上それを一番の思い出にするためには、どれだけそのスポーツを楽しんだかと言うことが一番重要なことだと思う。我々はすべてが主人公である。ボクシングをどういうかたちであれ、やっているということ自体その人たちそれぞれのドラマがあり、そしてその主人公が経験することは自分だけの経験で、それに向かって自分なりに一生懸命トライすることでその経験が本当に自分だけの貴重な経験となりうる。運動音痴、おっさん、女性そしてヘタレやビビり、そういう人たちにもそれぞれのドラマがある。そしてそれらすべての権利と存在を尊重したい。そしてそういう彼ら彼女らがここで楽しくボクシングを競技して思い出をつくってもらいたいと思う。

今日あげた曲は試合の帰りにかかっていた曲、この歌を聴きながらピーターの車で海岸線をはしって帰って行った。

 


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100%ボクシングのクラブにしない

2018-03-20 | Weblog

これは私のまわりにいた奴らの話だ、自分よりも年上のある高校のボクシングの奴が新人王をとった。そのことをそいつは自慢げに語っていたのだが、しかしこいつが有名な暴走族のメンバーで、ボクシングというのは実践的な格闘技なので、乱闘ではかなり活躍したらしい。私はこういう奴らはみんな格闘技をやっているのかと思って、そのそばにいた親玉に○○くんはなんかやってるのかと聞いたら、彼は俺か俺はこれやとおもむろに鉄パイプのようなものを取り出したが、思わず絶句してしまった。今もボクシングはそういう輩が集まりやすいが、昔はボクシングといえばそういう奴がわんさか集まってきたもので、そうであるから私がボクシングに対してあまりいいイメージを持っていないことは確かなことで、競技者だけではなくコーチなんかも結構アホが多い、いろいろな話を聞いているので、こういう格闘技はコミュニティをつくるのにはかなり警戒してる。

どうしても競技者中心にすると、くせがあったり、何かコンプレックスや問題をかかえている人間が集まってくる。この世界はむかし俺はワルだったとか、逆境を経験したなんていうことが賞賛されて、よくわからないが何かに抵抗して生きることがかっこいいと思われがちだ。
しかしハングリーだの逆境だの、そういう漫画みたいな空想を描いて武勇伝を語るような奴は本当のバカだ、何かにさからったり、抵抗することがかっこいいと思うのは間違いで、そういう生き方は暴走族ややくざの世界で十分だ。大事なことは真面目に机にむかって勉強することだが、この真実を伝える人間は少ない。はっきり言って自分がそうでないから言えないのだろう。
自分には欠けがあるのに、自分はすごい逆境にいて一生懸命努力して、たいした偉業でもないのに、それをいかにすごいことをやってのけたかということを必死で語るアホ。アマチュアボクシングなんてたいして勝てなくてもランキングに入れる、冗談ならまだしも、こういうことで競技者を鼓舞させようとする奴は程度がひくい。政治のことや新聞に書いてあることは何一つまともに話せないくせに、自分の武勇伝となったら、紙芝居のように話す。おそらく同じことを何度も何度も繰り返し話しているのだろう、そういう話は雪だるま式に大きくなるので注意、そういう負け惜しみなのかコンプレックスなのかはわからないが、コンプレックスをもった奴が、ここでは自分たちの常識が認められるからと集まってくるのは群れの害になる。そういう奴を入会させてはいけないというのが私の考え方である。

ボクシングクラブと言えど人間が集まってくる共同体だ、特にここは社会人が多いので、ボクシングの常識なんていうのは通用しない。ここでは重要なのは彼彼女が人としてどうかということ、ボクシングや格闘技のよくわからない肩書きを振りかざしてもアホだと相手にされない。そんなことよりも英語が流暢に話せるとか研究者の方が興味を持たれるし、そういうことに一目置かれるクラブである。
悔しさをばねにしていくということは何も間違ったことではない。しかしそれしかできない奴がマンガの世界のように美化して、独特の世界を作り上げ、何かに逆らって生きることがかっこいいみたいなくだらないことをほざくのはアホだ。教育上問題があるので、もう少し自分のレベルをあげてまともなことを言ったらどうであろうかと思う。一般的に考えてスポーツクラブと言うのは社会人が多く集まって来るのだから、まず世の中のコモンセンスありきで、うちのクラブはそういうルールをしっかりと持った人たちが集まってくるので、気持ちよくトレーニングできる。はっきり言って世の中のルールよりもクラブや親玉のルールが先行するような組織はアホだ。パワハラなどもそうだが、スポーツなどの組織でもまず専門家などの協力を得て、どういうことをしたらハラスメントかと言うことをきちんと文章化して監督もアスリートもよく理解して行動する。でも日本の場合はアスリートもそういうレベルで物事を解釈できないから、親玉中心の群れになって親玉の言葉が絶対的になる。うちでは言葉を重視しているのは、少し上のレベルでモラルやハラスメントを理解できるという人たちを意識してのことだが、ここにはドキュメントのようなものは存在しないが、それぐらいのレベルで解釈できる人たちが集まっていると思っている。ここはボクシング100パーセントのクラブにはしない、100パーセントのクラブにしないというのは、ボクシングができるとかできないことが問題にならないということである。ここではみんながけがをせずにそれなりに楽しくストレスを発散してくれたらいい、ここに来たらみんな思いっきり楽しんでほしい。それがこのクラブの存在意義だと思っている。




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アドラーと私の集団を考える社会学

2018-03-18 | Weblog

「It is optimistic. Rather than regretting the past, nor having anxiety vision to future, he sees only now, the current here.」

楽観的なことだ。過去を悔やむのではなく、未来を不安視するのでもなく、ただ今現在のここだけを見るのだ。 アドラー

私がアドラーが好きなのは言葉が前向きであるからだ。フロイトは幼児期に体験したトラウマを問題にして、そこから本来あるべき姿を取り戻すのが目的であるが、しかしアドラーは未来に目を向けることで自分自身を成長させかえていくという非常に前向きな心理学である。私は英語の論文を少し読んだだけであるが非常に刺激を受けた。一時期スクールカウンセラーがにわかに出だした時に心理学がはやったと思う。その時結構うさんくさいえせカウンセラーみたいなやつもたくさんいて、何かあれば親との関係とか過去の問題を持ち出してネガティブな解決を試みていたが、とにかく受け入れられていないから受け入れろとさもわかったように、同じことの繰り返し、それが原因で学級崩壊なんて言う話もあったようだが、たかだか3流の学校で心理学をちょっとやってましたぐらいで認められていたという時代があったと思う。

人間は集団的生き物である。人間がかわっていくためには集団の影響が大きいと思う。すなわちその集団にはどういう人たちが集まっていてどういう刺激を受けるかと言うこと、そしてそういう相互関係において人は成長し未来の課題を与えられていくというのがアドラーの集団のとらえ方の一つであったと思う。人間は相互関係の中で生きている。だから他者と言うのは自分にとって重要な存在であり、その他者から自分たちは刺激を受けて影響されて生きているのだ。だからその集団が健全で前むきに生きている、さらに楽観的である。そして自分はそういう人たちの中で今を生かされているならば、あえて自分の過去や失敗にこだわらず、同じように前向きに未来に向かって生きていくことができる。いわゆる自分にはそのロールモデルとなる人たちがいて、今自分が生かされている現実を知ることで自分の未来を明るくかえていけるのだと思う。

さらに「勇気づけ」と言う言葉があるが、これはお互いを励ましあい、文字通り人を勇気づけることで、日本人がよく言うほめるということとは全く違う。はっきり言ってその集団を健全で力強いコミュニティにしたかったらこの勇気づけが大事なことだと思っている。しかし勇気づけはほめることとは違う。よくスポーツでもほめて伸ばすなんて言うが、私はその言葉には懐疑的である。子供ならまだしもいい大人にほめるなんておかしいことであろうし、まずほめるなんていうのは上から目線だ。こういう言葉自体スポーツでは常識とされているのだからおそろしいもので、いい年をしてこういうほめるという行為が認められるのはまさに親玉と競技者は親子関係のようなものヒエラルキーが存在しているからだ。勇気づけと言うのはまさしく相手を尊敬できることだ。私は子供でもある程度まで成長したら対等な関係を持たなければ、その子は本当に成長しないと思っている。特にスポーツは人間が成長するいい機会である。勝っても負けても一生懸命競技したならば相手を尊敬できる。よく競技者同士がナイスファイトと励ましあうのを見て、スポーツって素晴らしいと感動さえするが、これはお互いが本気で相手のことを尊敬できるからだと思う。そしてここからは体験したものにはよくわかるが、試合がおわってお互いをたたえあうことで、自信であったり、人を尊敬することであったり、何か大きなものをそこでお互いが得ることができる。私はスポーツと言うのは有機的で、そういう貴重な体験ができる場であると思う。

私自身も試合を通して成長させられた。日本のようにべたべたすることはなかったけど、試合がおわってハグしたり、ニコッと笑ってグローブをポンとたたきあった時、本当に心から相手に感謝できたし、尊敬できたと思うのだが、この経験が私に成長をもたらしたと思う。少なくともほえたりでかいことを言ったりしなくなったことは確かであるが、それは相手に認められることで自信がついたからだと思っている。スポーツから学ぶことはたくさんある。けれどもそのスポーツが本当に競技者のためにひらかれていなければだめだ。スポーツマンシップにのっとってと言うのはお互いを尊敬できること、そしてそういうお互いを尊敬できる人たちが集まる集団が本当に成長でき、未来を明るく導く集団だと思う。そしてそのためには私自身が心から人を尊敬できるようにしたい。

 


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I respect japanease.

2018-03-16 | Weblog

私が共同体を重視するのにはわけがある。それは日本人はその共同体の中で互いに影響を受け成長していく民族であるからだ。欧米は個人主義の国である。欧米では哲学などにも見られるが、物事の合理化をはかるのは、まさに民族も違う、宗教も言葉も違う、他者の中で自分たちが何者であるかと言うことを実現させるためのアイデンティティを確立させるためであり、自己主張と言うのは自分たちは他者とは違うという差別化のようなものであり、こういう中で彼ら彼女らのアイデンティティが確立され、彼らが言うところの個性が生まれてくるのだと思うが、ある意味個性と言う英語は分離を表す言葉であり、少し我々とはかけはなれた違った言葉だ。

日本人が個性がないと言うのは、それは教育の問題ではなくて環境の問題である。単一民族で日本語しか話さない、宗教的な対立もないので合理化をはかる必要もない環境において徹底した個人主義を通す必要はない。日本は他国から侵略されたこともない、対立や軋轢が少ない環境において日本人は和を尊びコミュニティを大事にしてきた民族であると理解している。

日本人や在日韓国朝鮮人は集団を重んじる民族だ。だから考え方や導き方で素晴らしいコミュニティを築き上げることができるというのが私の考え方である。前回のブログで女子部の雰囲気がいいと言ったのは、お互いを尊重しあって、協力することができるからだ。ジムで語学を教えたり、女性が半数以上氏占める健康維持専門のクラブなので、当然大会を目指して気合を入れて頑張るという雰囲気はない。そういう中で自称運動音痴たちが、そこそこ結果を出せているのは、コミュニティの雰囲気がいいからであり、女性が堂々と誰にも遠慮せずにとレーニングしやすい雰囲気をつくってくれているからだろう。たぶんうちの女性の競技者はこういった雰囲気の中から楽しそうだから私もやってみようとなるのだと思うが、それは一言で言えばういのコミュニティは有機的であるからだ。

話はスポーツ指導者とアスリートの話になるが、コミュニティの質をよくしたければ、まず言葉をきちんと学ぶこと、そしてそこで語彙力を高めて正しい日本語を話すことだ。スポーツの親玉は一応そう言っておかなくてはいけないので「勉強もしろ」と建前では言うが、しかしそういって朝練や練習時間で子供を拘束する。親玉はしてこなかったことを建前上言うのではなく、勉強や学習をさせる雰囲気にすること、指導者が正しい日本語を話す。語彙力が高い、教養があると子供も影響を受けるであろう。我々はそのようにつとめるべきだと思う。運動系にありきたりの薄っぺらい感動話やあいさつしろとか中身のないルールが黄金律かのように考えているようではまともな人間はついてはこない、いい年をして自分の日本語が低レベルで教養がとぼしいと思ったらほざくな。と言うのが私の意見だ。


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Don't Let Me Down

2018-03-15 | Weblog

うちの女子部は活発である。活発になったのはここ2年ぐらいであるが、去年はB級検定に二人合格その後続々と検定をうけて合格する人も出てきた。そして今回の4月には4名が検定を受けるのだが、うちの女子部はに非常に活発で、みんな楽しくトレーニングしている。その女子部を見ていて思うのだが、彼女らは非常にいい雰囲気の中でトレーニングをしている。雰囲気がと言ってもDQNレベルの雰囲気がいいではなくて、お互いを尊重しあって協力してトレーニングしていることから出てくる雰囲気であるが、うちの女子部はほぼ社会人なので運動クラブ的なのりで集まっていない。何か少しでもやった人間は自分たちのやったことの価値を上げるためにもったいぶってこれぐらいやらないとだめだなんて言うことを言うが、しかしそういうことは一切言わない。現にC級を合格した女性はダイエットの女性たちにも気軽に声をかけておしえてくれるのだが、こういう人たちがいるとダイエット目的の人たちも事実ここに来やすいし、楽しくボクシングができる。そしてそういう雰囲気がボクシングをやっているんだったら、私もやってみようという気になってまわりが盛り上がり活発になってくるのだと思う。さらに男性もその雰囲気を非常に大事にしてくれているのがわかる。うちのクラブには怒号をひびかせたり、威嚇したような雰囲気で独特のDQNオーラを出すような人間はいないし、裸でトレーニングなんて言うのはもってのほか、とにかくこの雰囲気をよくするように気をつかってくれることがよくわかる。ある意味うちで女性たちが活躍できるのは男性たちのおかげでもあると思っている。

私は米国のクラブと日本のクラブを知っているが、日本のクラブ的な共同体とアメリカのクラブ的な共同体を比べて、ここが日本のアドバンテージだと思うことは「教えあう」ことができることだ。日本人は個人主義のアメリカ人に比べて共同体を大事にする。うちのクラブでも女子部に見られるように自分が教えてもらった技術やおぼえた技術をおしみなく人に教えているのだが、しかしアメリカのクラブは徹底して競争社会なので、自分が努力してきた技術をたやすく人に教えることなんてありえない。そういう意味で日本人は共同体と言うものを大事にできる、そしてその共同体の中で影響を受けやすくそこで成長していく民族であると思う。

しかしその共同体も仲間程度の共同体ではだめだ。共同体をよくしたかったら、その雰囲気をつくること、うちではマイノリティは誰かと言うことを意識してそのマイノリティの目線に立って運営していくことをモットーとしているが、ボクシングで言うところのマイノリティは女性や子供、そういう人たちを顧みなければクラブにいい雰囲気は生まれないと思っている。うちではボランティアに関心があって毎年5万円ほどではあるがジムの方針で女性や子供を守る団体に協力しているのは、女性や子供をいたわるということが仲間程度のレベルではなくて、これは世界共通の当たり前のことなんだということをよく理解してもらうためであり、さらに言うならば少額ではあるが多少なりともそのために協力しているのは、自分たちがわずかな痛みをおうことが大事なことだからだ。おおげさにきこえるかもしれないが、そういう意識を持って、女性や子供たちを大事にするという意識を持つことも大事なことだと思う。さらに言葉も大事だ、言葉の質がひくかったらまともな人間があつまってこない。そういう人間が集まったところで、自分が考えているような理念を理解できるはずはない。ジムでは人にあわせて言葉を選び、英語などの語学を教えているのは、そういう雰囲気をつくるとある程度の知的レベルで話ができて理解してくれる人間が集まってくる、そしてクラブの雰囲気がよくなると思っているからだ。

日本のクラブでパワハラがおこるのは日本人は徹底した個人主義ではない、その群れやそのコミュニティがある意味その人の先を決定づける要素が高いので、あきらかにそれは親玉や制度の問題だ。本来はドキュメントなどを作成してそれを交付すべきであろうが、しかしそんなもの作ったところで親玉があほでそれしかできないアスリートが大多数を占めると意味がない。群れがサル化するとそういった公文書よりも親玉の言葉が大事だからだ。本当に大事なのは親玉も含めて教育、教養、知的レベルである。親玉はとくにこすい策略で子飼いをつくって群れを納めるのではなく、知性を持って群れをおさめる努力をする必要はあるだろう。

今日あげた曲は「Don't Let Me Down」日本語では「がっかりさせるな」かな。運動クラブはふたを開けたらパワハラみたいながっかりすることが多い、もう少し親玉のやっていることをクリアにして、ダメな奴はやめさせるか、教育したほうが賢明だ。

 

 

 

 


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