脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

自信とは自分を信じること

2018-04-28 | Weblog

前に一度ここにある若い人が見学に来た。態度はそれほど悪くはなかったのだが、驚いたのはその発言、いきなり自分は世界を目指すというのだ。私はすかさずこういった「君世界を目指すんだったらここに来たことからしてダメだ、もし行きたかったら大都会に行ってがんばらなくては、それに俺はそんなことにはまったく興味がない、君一発目からアウトだぞ」その彼は意気消沈して帰って行ったが、しかしさらに驚くのはこういうことを言われただけであきらめてしまうところだ。
推測でわるいがおそらく話を聞いていて思うのは、彼がうちを選んだのは、乱暴ではない、自分がすきなようにさせてくれるからだろう、しかし自分が思っているクラブに突っぱねられたから意気消沈したのだと思う。本当にそうなりたい気持ちがあるならばまずうちにはこない。彼はホームページをよく見たと言っていたがホームページにはっきりと書いてある。ひょっとしたら彼はただ単に世界にいきたいごっこを演じてお山の大将になりたかっただけなのかとさえ疑ってしまう。

最近目標をもてとか、やりがいのある仕事を見つけろしきりに言うが、しかし能力がなければ何もできない。しかし能力がないのにやたらでかいことを言っても無駄なこと、なぜ周りの人間は自分には何ができるかということを考えろと言わないのか不思議である。自分に何ができるかということを考えれば大きいことがいえるはずはない。若い人間を成長させるためにはある程度たたきのめすことも必要だ、しかし最近ではほめるとか個性とか言われ続けてきて、たたかれることがなくなってきた。

海外に行ったことがある人間にはわかると思うが、外国に行って何かをするということはたいへんなことだ、言葉がわからないと物ひとつさえ買うことができない無力さを知るだろう、言葉がわからないから誰からも相手にされない、そしてホームシックにかかる、大した能力もないのにえらそうに言うのならまず海外で一人暮らしをしてみたら自分の能力がいかに小さいかということがわかるだろう。海外に言ったら自分には何ができるかということを問われる。面接にしてもそうだ、向こうでまず聞かれることは自分は今までに何をしてきたかということ、そして何ができるかということだ。最近では日本もかなり実践的な人間を採用するようになったが、しかしそれでもまだ何ができるかということよりも、その企業に順応できるかどうかということの方が重要な気がしてならない。最近個性ととか個とかいう割には本当にこの個性というものを育ていない。
夢を持てと聞いてもらえるからと絵にかいた餅のような理想論を聞いてやったり、言いたいことを言わせて責任もとらさず、ちょっとできたらすごいとほめることが個性をのばすことではないだろう。個性を伸ばしたかったらまず自分の能力を知ることだ、そのためには時にはたたかれることも必要である。自分の能力を知ることで自分には何ができるか、そこから自分の可能性というものが見えてくる、そしてそういうものを磨いていくことが本当のオリジナリティーにつながると信じている。

私は子供にこう言っている「自信とは自分を信じるから自信だ、でもお前は今のお前を信じれるか」将来いろいろなことを勉強して、本当に自分を信じることができるようになってほしい、けっしてぬるま湯につからず時にはいばらの道を歩むこともあるが、しかしうちのめされても何度も立ち上がって、自分を信じることができれば本当の個が育つ。







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Tシャツ売れてます

2018-04-26 | Weblog

「うちのTシャツ売れてます」

うちのTシャツが思った以上に売れている。背中にはUnsung Heroesのロゴ、カタカナで書くとアンサンヒーローズとなるが、アンサンはおにいさんと言う意味ではなくて歴史では活躍したけど蔭に隠れてしまったヒーローたちのこと。私が何か話題になった時にその話をしたら、秋月トレーナーがそれいいですねと、自分が率いるチームの名前にしてデザインを考えてTシャツにした。デザインは格闘技によくある仰々しさはない。胸のロゴは以前は拳闘とガチのロゴが入っていたが、私の提案でフランス語でBOXEも選択できるようにした途端に女性からの注文もかなりふえた。胸のフランス語のロゴは、自分たちはボクシングだけで勝負してないんじゃとSnobishな雰囲気を持つ自分たちだからマッチするロゴだ。チームで何かをつくるということは、そのチーム愛が出てくるので、そのコミュニティをみんなが大事にしていこうという気持ちが生まれて、お互いが気づかいできる。その気づかいによってジムの雰囲気もかわってくるからいい傾向だと思う。私もチームのTシャツとトレーナーをつくった。私のはUSA Hawaii Rainbow Boxing Team.トレーナーの右の腕のところに私にはCaptainの文字が、もうどこにやったかはわからないがすごくなつかしい。

「I'm gonna give you cool nickname」

本人には迷惑だが、今うちのクラブでは悪代官ブームである。名前は知らないがほぼみんなが悪代官さんと呼んでいる。うちのクラブはニックネームのある人が存在する。そのほとんどは試合に出場する男性たちで、貧乏神とかさすらいのホームレスとか中には結構えげつないのもある。しかしすべて一応公認と言うことにしている。ハワイアンでかなりむかつく奴がいた。小太りで腕が短くてなぜかボクシングをやっている。たいした実績もないのに偉そうにしてくるのでむかついていた。ある日テレビを見ていた時のはなし。そこには子供のカバが映っていたのだが、その時そのカバを見た瞬間にああこれだと思い、そいつにコビトカバと言うあだ名をつけた。ハワイには結構日本語がわかる人間がいる。マリファナの売人だった奴はお母さんが横浜だと言っていたが、バイリンガルやトライリンガルの存在はそうめずらしくなく、私がそのあだ名を日本語のわかる人間たちに言ったら爆笑していた。しかし私が彼のことをコビトカバと言っていたことが彼にばれてしまい。大激怒していたらしい。

「ボクシングは素晴らしい」

はっきり言って私が競技したところは人種も違うし、宗教や考え方も違う人間が集まっている。ゆえに日本人のような仲良くしましょうと言う言葉は絵にかいたもち、そこには必ず軋轢が生じてくるし、嫌いな奴だって存在する。私自身もあいつだけは絶対にぶちのめしてやろうという奴がたくさんいたし、向こうも私のことをあいつだけは絶対にぶちのめしてやるというのもいて、それは人種の違いや考え方の違いからくる当然の軋轢だと思っている。スポーツは何が素晴らしいかというのは相手を認めることができるということだ。競技したものにはわかると思うが、最初はこいつだけは絶対にぶちのめしてやると言う気持ちをもって競技しても、おわったらなぜかわからないが、彼、彼女のことを心から尊敬できありがとうと言う気持ちになる。事実私はかたまる人間が大嫌いで、そういう人間には敵意むき出しでファイトしたと思う。でもおわったら不思議だがなぜか今までの敵意もなくなって、相手を受け入れるようになって、感謝の気持ちが出てくるのだ。私は試合をするたびにひとりの友ができると思っている。しかしその友はいわゆる仲良しでお話しするような友ではないが、お互いを認め合うことができる、自分の価値を高めてくれたそういう友である。

 

 

 

 


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宗教と日本の文化

2018-04-24 | Weblog

3年前バイレイシャルがミス日本に選ばれたことが問題になった。批判する人間に対して人種差別的であるとの声が上がっているし、諸外国からも人種差別だという非難の声も上がっている。個人的にはバイレイシャルが選ばれるということは光栄なことだと思っているが、しかし私は彼女が代表にふさわしくないと批判する人間が必ずしも差別的とは思わない。まず諸外国と言うのはどこの国のことか?日本が諸外国という時、それはアメリカヨーロッパ諸国のことである。じゃあ中東やアフリカそしてアジア諸国などはどう見ているのか?国によっては日本よりももっと保守的で閉鎖的な国がある。それにヨーロッパやアメリカと言うのは移民政策を余儀なくされた国であり、侵略の歴史がある。特に中南米などは侵略が繰り返された歴史があるが、そういう他民族との融合を本当に寛容を持って受け入れてきたわけではない。BCまでさかのぼるとアレクサンダーがマケドニアを支配した時に他民族との融合を奨励はしたが、しかしそれは国家をと追いつさせるための策略で、基本的にはヨーロッパの民族的な歴史は戦争と支配による融合でアメリカと言う国はその副産物であると言っていい、日本のように侵略がない他民族に支配されたことがない国は民族に対する特別な見方があると思う。

特にミス日本と言うのは日本人が持っている民族的な美意識と言うものがあるのだからそれを正しく吟味し大いに主張することは必ずしも人種差別につながるとは思ってはいない。ただこういう時に問題となるのがじゃあ日本人っていったい何なんだ?と言うことになる。アメリカのように日本で生まれれば日本人と言う定義でもないし、ユダヤ人のようにお母さんがユダヤ人であればユダヤ人だということでもない、ただ漠然と日本人は日本人だと言う風に思っているだけで、おそらくこの問題を解決するのは天皇制であると思っているのだが、民俗学的また宗教学的にも日本人にとって天皇とは何かということをはっきりさせる必要はあるだろう。そういう考え方の中で包括されるものはすべて日本人であると考えればいいのだと思う。ただ私もひとりのバイレイシャルとしてそういう存在が選ばれることはうれしいことだし、顔や文化や習慣が違うだけでいじめや迫害がおこるということに対しては憤りを感じることは確かだ。しかし日本人は唯一自分たちが築いてきた歴史と言うものがある。諸外国に何を言われようが基本的にはその歴史を大事にすることは必要であると思っている。

仏教とキリスト教の大きな違いは「支配」と「融合」と言う言葉で表すことができる。キリスト教は支配の宗教で布教活動もその土地を支配て徹底的に改宗させるというやり方で宗教的領土を広げてきた歴史がある、しかし日本の仏教はその土地の民間信仰に融合していって形をかえるというやりかたでその土地に根差していったのだが、仏教的思想の強い日本人は基本的には支配と言う考え方を持たない平和的な民族であると信じている。ゆえに仏教や神道の影響が強い日本人は平和的だと言える。

韓国語に僞人(ウエノム)と言う言葉がある。これは日本人が韓国を侵略したという最も日本人が野蛮であるということをあらわした侮辱的な言葉であるが、386世代の人間は日本人は本当に野蛮であると信じて疑わなかった。今ではそういう時代錯誤的な考え方はなくなりつつあるが、しかし私はこういう問題に直面して時にはえげつないことになるんじゃないかと言う議論までしてきたのだが、なぜここまでするかと言うと自分のアイデンティティがかかっているからだ。中にはそういう議論は危険だから避けたほうがいいというかもしれないが、しかし日本人が野蛮だと思われたくないという思いから思ったことを言ってしまう(しかも向こうで)私は歴史学を先行したわけではないが、しかし宗教学的観点とある種の歴史的な見解を持って日本人は平和的であると思っている。

 

 


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We are not perfect.

2018-04-21 | Weblog
Love is patient and kind. Love is not jealous or boastful or proud or rude. It does not demand its own way. It is not irritable, and it keeps no record of being wronged.It does not rejoice about injustice but rejoices whenever the truth wins out.Love never gives up, never loses faith, is always hopeful, and endures through every circumstance.Prophecy and speaking in unknown languages and special knowledge will become useless. But love will last forever!
 
友人のジウンが好きだったバイブルの言葉。私にLoveのところを自分の名前に置き換えて読んでみて、そうしたら最後まで読めないという。確かに私は忍耐強く、親切だ。ねたまない、自慢しない、不作法ではない、ここまで読めばOh my Gosh!とうてい私はそんな人間ではないですと言いたくなる。彼女曰く人間は完全ではない。だからその慈しみあふれる神の愛が必要である。でも私は思う。不完全だっていいじゃないか。不完全であるからこそ人間はその人の弱さや欠点に気づき、そしてそれを受け入れてカバーしあう。その不完全なもの同士が集まってお互いを支えあうことで人間は成長する。そしてそういうお互いを認め合った人間が集まる共同体が人を生かすことができるというのが私の考え方である。うちのクラブに来る人たちは運動音痴や自称ヘタレ、そんな人たちがまず言うことは「こんな自分でもできますか」だ。私はその時「目標をもってやればできる」とか「最初はそちらのペースにあわせて徐々に」なんて言うことは言わない。まずその人の弱さを理解して、ここはそういう人たちが集まるところだから安心して堂々とトレーニングしてほしいというようにしている。よく群れを率いるためにリーダーシップを発揮しろと言うが、しかし私は群れを率いるのではなくて、そういう時、好んでassistという言葉を使う。assistと言うのは援助する、助けて(…)させる、助手となって働く、(…の)助けとなるという意味で、その言葉が意味するように、自分たちが引っ張っていくのではなくて、表に出ないで彼ら彼女らを後ろで支えていく、そういう意味でassistという言葉を選んで使ってる。私は思う。完璧じゃないから人は愛せる。完璧な人間を崇拝することはできても愛することはできない。人間は完璧ではない。そのお互いの弱さを知ってともに支えあっていく共同体、そういうことを目指して存続しているクラブがあってもいいではないかというのが私の考え方だ。 
 
 
 
 

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싫은나라 私がきらいな国

2018-04-20 | Weblog

今ふたりの女性に韓国語の文法を教えている。一人は学生そしてもう一人は社会人。特に観光客の相手をしている社会人の彼女は英語を話せる人はスタッフにいるので、もうひとつ需要のある韓国語を勉強しようと思ったそうだ。韓国語は日本語と文法がほぼ同じ。フランス語やドイツ語などの言葉はまず英語が理解できないとマスターするには少し難しいが、しかし韓国語は言葉も似てるし、文法も同じだから日本人には理解しやすい言葉だ。

韓国人を表す言葉として恩とか恨という言葉がある。これについては以前述べたので書かないが、しかしそれとは別に「遠慮」と言う彼ら彼女ら独特の文化的なものがある。それは相手を傷つけたくない、お互いが苦しみたくないだから一歩下がって身を引くという気持ち、よくドラマで恋人がルキミアになって、相手が悲しむのがいやだからとあえて別れの道を選ぶ、それが彼ら彼女らの遠慮である。前にちょっとつらい目にあってヘギョンに아프지마세アプジマセヨと励まされた。아프지마세アプジマセヨあるいはパンマルで아프지마アプジマは直訳すると痛くならないでくださいと言う言葉だ。例えば頭が痛い時、そんな時相手を気遣って アプジマセヨ と言ったり、心が傷ついて苦しんでいる時にも アプジマセヨ と言うのだが、この言葉は心や体が痛い思いをして欲しくないそんな気持ちが含まれている言葉で、こういう表現はコレアン独特の表現であると思う。コレアンには独特の遠慮と言うものがある。自分が相手の心に入って行くあまり相手を傷つけてはいけない迷惑をかけてはいけない気持ちが、遠慮と言うかたちをとってあらわれる。日本人はよく奥ゆかしさと言うが、私はこの遠慮と言うのはコレアン独特の奥ゆかしさだと理解している。아프지마세요と言う言葉は日本語にない素晴らしい言葉である。友達の使っている韓国語の教科書に아름다운 한국어(美しい韓国語)と言うのがある。日本語でもそうであるが言葉を学ぶと言うのは、そういう文化にふれることができる素晴らしい手段だ。私の友達は日本語を学んで本当に日本を好きになったと言っていた。言葉を知るということは相手の文化を知るということだ、そしてその言葉を学ぶことでその国が好きになったらもっといい。そうあってほしいというのが私のひとつの願いである。

ただ遠慮とか言っているがそうでないこともある。韓国人は積極的だ。ミティンという今でいう合コンのようなものがある。今でもミティンと言っているかはわからないが、このミティンの最後のしめくくりは参加した男性と女性がお互い向き合ってせーので一斉に女性が気に入った男性をこの人と指をさす。


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ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· 言葉は命であった

2018-04-18 | Weblog

会員の女性によると私は柔軟性があるらしい。自分でも柔軟だと思っているが、その理由はたいして実績でもないがボクシングの自分の実績などすでにすててしまっている、いわゆるボクシングにまったくこだわりがないからだ。たいていそれしかできない奴は小さいことにこだわりすぎる。何とかチャンピオンだかなんだか知らないが、そういうくだらない実績にしがみついていていては前に進むことができないただの井の中の蛙だ。そういう奴に限ってボクシングはこうあるべきだ見たいなものを持っているが、しかしそれは単なる押し付けにしかすぎない。そういう奴らは実に小さい世界に住んでいる。これからのスポーツクラブは個性を重視しグローバルな視点でクラブを管理していくためには指導者が見分を広めることは不可欠である。

私は思うが、どういう人間が来ても対等に話ができないレベルでは組織を本当によくしていくことはできない。なぜならパブリックスペースには性別や年齢の違いだけではなく、いろいろな人たちが集まる場であるからだ。進学校レベルの子供が来たら指導者にコンプレックスがあるのでこわがってまともに話すことができないということもあるようだが、まともに人と話したかったら知識を得ることだ。大学に行って勉強するのはまさにそうだが、語学を勉強したり、本を読んだり、人とディスカッションをして見分を広げたら、自分はどれだけ小さい世界で生きていたかということがわかるはずだ。そうして自分の見分を広げてまた新たに物事を解釈する。一度自分の考え方をバラバラにしてそして新しい知識を得て再構築していったところに刷新はあるのだと思うが、まさにアウフヘーベン(弁証法)によって、組織に新たなものが生まれてよくなっていく、指導者に哲学が必要だというのはまさにこのことが大事だからだ。

そしてここからが私の組織論の核の部分であるが、公共の場を誰もが利用できてよくしていくためには指導者の資質が求められる。さっきどんな人とも対等に話すと言ったが、対等に話すというのは何も偉そうにすることではない。インテリジェンスの高い人に対して、コンプレックスがあるくせにでかい態度をとって何とか自分メンツを保とうとしているような奴がいるが、しかし相手に遠慮しているのが見え見え、まともに話したらバカが露呈するから語気をあらげて勢いで何かを言う。しかしそういうことはまわりから見てわかる。非常にみっともないことだ。きちんと相手の話を聞いて、相手のレベルに合わせて言葉や知識を選び会話できる能力。そして時にはさらに少し上の次元から何かを伝えていけることで安心感を与える。そういう能力を求めることがその群れを正しくよく導いていけることだと思っている。特に我々のような社会人の多いクラブにおいて、知的な意味での安心感は群れの質をよくしていくためには必要なことだと思っている。クラブにおいても何が正しいかということや正しい判断が求められる時にその指導者がきちんとした考え方を持っているのと持っていないのとでは群れの在り方が変わってくる。そういう意味で知的な安心感を持たせることは必要だ。

 

小さい実績にしがみつかずにそういったものを一度捨てて自分を見つめなおしたら、自分にはたくさんのかけがあることがわかる。そしてそういう自分のかけに気づいて自分の弱さをおぼえた時、そのかけをうめようとするところに人間の進歩があり、またさらに新しい発見がある。ボクシング以外のことでもう一度自分を磨き自分づくりをしないとだめだ。その感覚が組織論やトレーニング論といったことにたいして創造と改革をもたらすのだと思う。

 

 


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男女平等はいっしょくたではない

2018-04-17 | Weblog

最近男性か女性かわからないような人間が多くなってきた。特に高校生ぐらいの男が髪をヘアピンをとめているのにかなり違和感を覚える。もちろん私は男女平等であると考えているし女性を心から尊敬している。しかし過渡期においては男性には男性の社会女性には女性の社会があって、そこで男性には男性そして女性には女性の成長の仕方をおぼえるものだと思っている。

よく男性は子供のころ勇気をためされてできないと根性がないと揶揄されたり、小さいころにするケンカなどがそうだが、女性には理解できないことを問題にするような社会で男性になっていくのもひとつの成長の過程だと思っている。そしてその過渡期を終えて社会という場に出ていった時に、その違いを知ってお互いに尊重しあい、新たに男女平等ということを認めて生きていくことが人間として一番自然な生き方であると思っている。

この前外国人が日本人男性の印象というアンケートで女性っぽいという意見が多かった。たぶん外国ではその過渡期ティーンエージャーと言われる時期は、男と女をはっきりと意識しているのだろう。映画なんか見てもわかるように男はそういう時期に男特有の無駄なバカげた挑戦をするものである。おそらく日本人は「男女平等」と「いっしょくた」の区別がつかないのだろう、トランスジェンダーの人たちは別として、最近女性のような男性が増えてきたのは男女平等という言葉が先走りしているゆえであると思っている。何も男だからと気負う必要もないが、しかし若い時は男ということをもう少し出してもいいのではないかと思っている。私の育った環境は男尊女卑の環境であったのであまり偉そうに言えないが、しかし男だったら根性を見せてみろとか意地をみせろと言われて育ってきたが、それは私が男だったからそう言われてきたことだし、このことによって自尊心を養われてきたことは確かなことだ。しかし腕力など関係ない大学生の時や社会に出た時にまた違った見方をさせられる。特に外国では意見の場は男女平等なので外国人の女性にたたかれて認めるところを改めさせられて世の中を知ってバランスを持つ。この時本当の意味でこの世界は男と女からなるものだと改めさせられた。

私は男とか女の性別や性格を無視して本能にさからっていっしょくたにするのは、その成長段階においてかえって人間としてのバランスをかくものとなると思う。男として生きたら、その成長とともに広い世界に出ていくとやがてそれが通用しなくなる。そこでたたかれて考えさせられることが必要で、お互いの違いを知ることができるからこそ、その性別を越えて尊敬しあえるのではないか。トランスジェンダーの人たちは別であるが、しかし男性が女性のような何とも言えないなよなよした恰好をするのを見たり、精神的なものとは別に汚いものをやたらいやがったりするのを見たら「Are you man enough?」とさえ言いたくなるのだが、韓国のように軍隊があって少々きつい試練に耐えなくてはならない国もあるのだから、男は男として過渡期にいろいろなことを経験させる必要があると思う。過渡期というのは人間を成長させるためのもの、その過渡期に「男であること」を経験することは大事なことだ。そしてさらにつけくわえて言うならば日本人の男はもっと女性にたたかれる経験をすべきである。私なんかは大学生の時に日本語のわかる外国人の前で「男だったら勝負しろ」と言っただけですごくかみつかれたことがあったが、たたかれたり、何かを言われるのがいやだから仲良くしましょうでは、本当に女性を尊敬できないと思う。

私はこれでも結婚してうちの伴侶にはお茶など入れさせたことがないし、「お前」とか「おい」などと言ったことも一度もない。

性同一障害という言葉があるが、私は極力この言葉を使わない。なぜならそれは障害ではなく、ジェンダーとしてはそう見えても実際は違うということ認めているからで、私はあえてそういう人たちのことを言う時は英語のトランスジェンダーと言っているが今のところこの言葉が一番差別的ではないからだ。


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リラックス 

2018-04-16 | Weblog

トレーニングで音楽をかけるのはもう常識のようなものだ。そのことによってリズム感を養う、そのためには音楽をかけてトレーニングするのはかかせないことだ、しかしハワイではリラックスもかねていた。時々リズムにあわせてクラブのように踊るように動いたり、歌いながらやっているやつもいたが、日本人の動きはかたい。行動と脳は直結しているので、日本語しか話せないという柔軟性のなさが、動きに出ているのだろう、さらに試合前にすごく緊張して顔をたたいたりしているやつがいるが、切腹するわけでもあるまいし、ただのボクシングの試合、そこまで自分をおいこんでどうするのか。こういうやつに限って十分力が出しきれなかったと反省会でいうが、それは十分に力を出しきれなかったのではなく、力を入れすぎだ。試合前は好きな音楽を聴いて踊るようにシャドウする。そうしたら体が自ずとリラックスしてくるものだ。日本人は自分から見てリラックスするのが非常にへたな民族であると思う。シャドウボクシングが理想のボクシングのスタイルだとしたら、スパーリングや試合でその理想的なスタイルがどれだけかたちとしてあらわれているだろうか?しかしたいていは、ガチで真剣で打ち合うので、スパーリングになると力んでしまい、結果以上のことが出せないのではないだろうか?

それに対して自分の経験では、米国では思い切り打ち合うことはなかった。そもそもこんなことぐらいでケガをしてしまっては意味がないので、それをさけるために力を抜いて打ち合うのだが、実際そういう練習のほうがシャドウで練習してきた型が生きるので、練習の効率としてはよかったと思う。米国ではケガなんてほとんどなかったのだが、しかし日本では話を聞いてみると高校生でも練習でケガを結構しているようだが、こういう血気盛んな時期は口で言っていても、スポーツとなぐりあいの区別がつかないので、むしろ力をぬいてたたくことを徹底して教えるほうがいいのではないかと思っている。そのほかにも反省会や声だし、気合を入れると言ってファイトーなどと叫ぶ奴がいるが、いくらモティヴェーションがあがっているのかは知らないがこういった類のあほなことはそっこくやめるべし、こういう環境ではリラックスして練習をすることができない。パフォーマンスを上げるためにも、適度な緊張とともにある程度脳がリラックスした状態でなければならないらしいが、緊張は自然にできる。しかしリラックスは環境を考えないとできない。

人間が集中した時の目を見たことがあるだろうか。
まず集中したときの目ってどういう目か理解できないといけないのだが、集中した時の目と言うのはヤンキーがガンをとばすときのような怖い顔ではない、一昔前のボクシング会場にはそういう奴がたくさんいたが、しかし集中したときの目と言うのはどちらかというと遠くを見ているような目で、例えると鉄棒をつかもうとするような、なんとなく遠くのものを見ながらそこに焦点が定まっているような目である。正直私が最後の試合で歯が立たなかった30歳の男である。
昔友人とK1のトーナメントを見ていた時に、そういう目をしていた選手がいた。私は格闘技はあまり詳しくないので名前は忘れたが、有名な選手で、私がその選手を見たときに彼はかなり集中してるから勝つんじゃないのかと言ったら、みごと優勝して、友人は驚いていたのだが、彼も遠くを見るような一見ぼーっとしていたような目でリングに上がってきたと思うが、おそらくそういう状態に持って行けたのは彼がかなりリラックスできていたからだと思う。
リラックスと言うのはスポーツのおいて非常に大切なことだ、そしてそのリラックスして練習できる環境づくりが大事なことだと思う。

ホイジンガの遊びの哲学的に言うと、仕事でもなんでも遊びの感覚が入ると効率が上がる、遊びと言うのはふざけるという意味ではなく、リラックスした楽しくそれができる環境をつくるということで、子供の遊びと言うのもそうであり、楽しいから時間を忘れてそれに没頭できるのである。アインシュタインだったか忘れたが、彼が天才についてこう言っている。
「天才とはチョウをおっていていつの間にか頂上にのぼってしまった少年」
天才と言うのは保守的で封建的なところでは育たない。天才と言うのは遊びでそれをやっているのだから、その遊ばせる環境と言うものをつくらなければ、生まれてこないし育たない。うちの福ちゃんはいつも入ってくるときこんいちはと子供がカブトムシを取りに来るような顔で来る。楽しいのだろうか、でもひとこと言えることは40をこえたおっさんがあれだけ上手になっているのはやはりトレーニングを楽しくできるからだと思う。



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今からでもStay Goldできる

2018-04-13 | Weblog

ブログにピーターという人物が出てくるが、一体何者と思うだろう。ピーターは私の友人でビジネス学部の学生、英語と中国語そして日本語を少し話すのだが、台湾からの移民で私の一つ上だったせいかたいへん気があった。彼もUHのボクシングチームに入っていたのだが、しかしそう強くはなく、がんばって試合に出ようとしても、すでにスパーリングの段階でぼこぼこにされて自信を喪失してしまうと言う繰り返しで、正直ふがない奴であった。ある時ピーターが試合に出ると言ってきた。そして「俺は今度のマッチにフライ級でエントリーする。だから少し君にスパーリングパートナーになってほしい」と言ってきたのだ。よしじゃあ俺が鍛えてやるとその申し出をかったのだが、その日から彼とわたしそして何人かのチームメイトの特訓がはじまった。
特訓と言ってもそれほど大げさではないが、試合に向けてスパーを相手をかえてすると言ったことである。しかしスパーはもともと平和主義でへたれの彼にとっては大きなハードルだ、案の定ちょっと強いパンチがあたると顔を下にむけるのだが、試合まであと2週間ぐらいとせまった時も下を向く癖はかわらず、このままではRSCまけはまのがれない、どうしたらいいのかと考えたのだが、後は実力の問題ではなく作戦の問題でこの作戦について話し合ったのだ。

でどういう作戦を考えたかと言うと、もうここまできたらえげつない、ジウンもなぜかその作戦を考えるメンバーに加わっていたのだが、試合中に相手にお願いのポーズをしておじぎをして戦意をそうしつさせるであるとか、向こうが白人だったら、チンキーアイで睨み続けるとか、なんせ素人もこの作戦に加わっているので、ほとんど遊び感覚であった。しかし私が言った作戦にはみんな興味を示した。それはどういう作戦かと言うと「あれはなんだ」と全員で指をさして叫び相手が注意をとられている間に、すかさず彼が渾身の力でパンチを入れてKO勝ちをするという作戦だ。
この「あれは何だ作戦」であるが、ここでアスリートに言わせると少し問題があるので、関係ない人間が言うのだったら問題ないだろうと言うことで、関係ない人間何人かに頼んで、本気でやろうと考えたが、しかし当たり前だがこんな作戦できるわけがない。
そして試合当日「俺だったら秒殺できる」という相手に、ほぼボコボコにされて力の差をみせつけられてしまったピーター、やはり彼にはこの競技はむいていない。

ちなみにオリーヴのへたれ大歓迎と言うのは、彼と私の関係が原点だ。
日本のボクシングは苦しむために一生懸命するが、われわれは楽しむことを一生懸命する。スポーツは真剣にできる遊びであって、別によわかってもチャンピオンになれなくても「So what」だ、この競技を楽しむことに全力を注ぎ、自分のかけがえのないものとする。それが自分たちの目的である。ピーターもへたれだったが、まわりを気にすることなくエンジョイしていたし、エンジョイしていたからこそ試合に出て勝ちたいと思ったと思う。私から言わせれば、われわれはアマチュアであってボクシングは本業ではない。たかだかボクシングであって、人生がかわるぐらい挫折したり、追い詰められて、苦しんでするものではないだろう、こんなものに自分の人生を左右されるのはナンセンスだと考えている。
大事なのは本当にこの競技が楽しいかと言うことだ、その楽しさは自分はチャンピオンだとか、何々で優勝したと言うように人と比較することによってではなく、まわりに左右されず、自分なりの目標をもって、心から楽しいと思うこと、まずそのためには自分なりの競技のあり方を考えなくてはならない。勝ったとか負けたとかそんなことも大事なことだが、しかし前にも言ったが私の経験上それを一番の思い出にするためには、どれだけそのスポーツを楽しんだかと言うことが一番重要なことだと思う。
どんな試合でも参加できたことを喜び、そしてそれを誇りにしたらいいと思っているのだが、そのやったことは人とは比較できない自分の偉業であり、そういう気持ちを大事にしていきたいと思っている。

今日あげた今日はユンナのキダリダ(待つ)という歌、春らしい歌で気分がよくなる。ちなみに彼女も韓国語、英語、日本語を話す。


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4月になって

2018-04-12 | Weblog

4月になって新入社員が入ってきて気が付けば10年、その新人の教育係的な役割をになっていた。しかし人を指導するのは難しい、特に相手が何かこれはおかしいなということをした時にそれをどう伝えて行ったらいいのだろうかと頭を悩ませている人も少なくはないと思う。

たぶん人は私のことを説得力があって伝え上手だと思っている。特に人に注意をする時も、うまくその人に伝えて納得させる。ある人は私の話や行動を見ていると参考になると言ったが、確かにそれは人に注意をすることだけではなく、人に何かを伝える時、私なりに考えて伝えていることは確かである。今日は特に自分が上司であったら不埒な部下に向かってこういう注意の仕方をするだろうということを書きたい。

「あなたはお腹がすいているか、アイスクリームがあるのだが」ときかれた。私は多少腹が減っていたと思うが、初対面の相手にいきなりお腹がすいているかときかれて、すいていると答えるわけにもいかず、すいていないと返事をした。私には多分、もう一回ぐらいすすめてくれるであろうというかすかな期待があったのである。しかし相手は「あー、そう」といって何の誤愛想もないので、私はがっかし、お腹がすいていると答えればよかったと内心くやしく思ったことを記憶している。これは土井健朗がその著書「甘えの構造」の中でつづったあまりか留学時代の自分の体験である。おそらく自分は一応建前で遠慮したが、しかしそれでもその意図をくみ取って、もう一度食べますかと聞いてくれることを期待したが、あてがはずれたということであろう。彼がくやしい思いをしたというのは聞いてくれて当然だということを表している。いわゆる日本人はちょっとした行為の中にも相手に何かを求める民族で、相互関係の結びつきが強い民族だということである。

私はどうしても注意しなくてはいけない時、絶対に「君のために言っているんだ」と言うことは言わないようにしている。よく君のために言ってやっているんだというけれども、でもなぜ間違ったことをしているのにそこまで相手にあわせてやるのか理解できない。自分のために言っているかいないかは本人が理解し、わかること、私はこういう時、その人間が世の中の中心でないのであるから、相手にあわせるのではなくて、自分がそういうことをされたら不快だ、傷つく、だからそういう行為はやめてくれと感情に伝えるようにしている。おそらくお前のためだなんていう言葉は上から目線で、こういう場合の関係は親子関係のような甘えの関係を作るようなものだ。いくら当たり前のことを言っても相手は、もう少しみとめてくれよとか、そんな言い方ないだろうとか、自分が間違っていても相手に注意の仕方をもう少しこうしてほしいと期待するだろう。私はなぜそういう率直な言い方をするのかというと、そのほうがフラットな関係で自分の思ったことが伝わると思うからだ。しかったりおこったりする関係では相手を服従させることはできても、理解させて責任を促すことはできないだろう。私は人に注意する時はなるべく頭ごなしにどなったり、一方的にお前がわるいんだという気持ちは出さずに自分や相手が不快に思ったり傷ついたことを伝えることにしているのだが、現に間違ったことをした子供にそういう伝え方をすると子供はおこられているのではなくて、うけとめなくてはならない事実として伝わることが多かった。まあ相手の痛みが理解できないというケースは別で、一般論であるが、おそらく人にその責任を促すにはおこったりしかったりする上下関係の中で伝えられるよりもフラットな関係において伝えられるほうが伝わりやすいと思う。上下関係を意識していてはフラットな関係で何かを伝えることはできない。時にはそういう立場をはずして人間としてはっきりと意見を伝えてみるのもいいかもしれない。


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