脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

戦う奇跡のヒーロー

2023-11-29 | Weblog
私が好きなウルトラヒーローの主題歌がある。リンクで張り付けておくが「ウルトラの奇跡」と言うタイトルで詩がすごくいい。ウルトラマンはもう昔からわれわれのヒーローであり続けているが、私はウルトラシリーズは教育的要素があって子供に推奨できる番組だと思っている。もうすぐクリスマスであるが、毎年クリスマスが近づくと学生の時、「クリスマスはプレゼントをもらう日ではなくプレゼントを与える日だ。この日は子供たちはプレゼントをもらう日だが、でももらう子供たちよりもそれを与える大人たちの心が満たされる、この日はもらう喜びよりも与える喜びを知る日、ここにクリスマスの貴重なメッセージがある。」と韓国人の女性が言っていたことを思い出す。一方的に地球を愛し、人間のために自分を犠牲にして悪と戦う姿は、フロムで言うところの惜しみなく与える愛アガペーである。歌詞に「弱いものをいたわれるように与えるやさしさをみせてくれる」とあるが、ウルトラマンシリーズは与えることの大切さを我々に教えていると言っても過言ではない。一方的に人に与えることはむずかしいことだ、けれどもそれがアガペーで本当に満たされるために必要なことだと理解すれば、少しでもそこに近づいていくことは可能であり、ウルトラマンシリーズはまさにそのことを教えてくれるわれわれの教科書のようなものだ。私はウルトラシリーズから3つのことを学び心がけている。それは「高尚であること」「与えるやさしさをもつこと」「弱者をいじめたり、見下したりしない」である。

MAD  ~ウルトラの奇跡~ ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟

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自分の足りなさを知る

2023-11-20 | Weblog
私が思うこの人はバカだなと思う人間は、自分はえらい自分は、かしこいと思っている人間だ。そういう人たちは往々にして、自分の存在感をあらわそうととめどなくしゃべる、俺は強い、俺はかしこい、自分はどれだけ君たちとは違うということを必死で伝えようと、マウントをとったり、知っているということを押しつけてくるのだが、見ていて滑稽、みっともない。自分もそうならないためにも自分の足りなさを知ることは大事なことだ。足りなさを知れば人から話を聞いて学ぼうとする。好奇心があって自分は足りないと感じたら自ずと人の話を聞くものだ。何年か前ジムでボランティアで受験生を教えていた。結構評判がよくて希望者が多くなったのでやめたが、教えてていて受かる子とそうでない子の正確が現れてくるが、受かる子は文法の意味を理解してもそれだけでは不安なのでさらに問題集をつかって理解しようとする。一方そうでない子は文法がわかればそこですべてがわかったと理解しようとする。ソクラテスは無知の知を説いたが、知らないと言うことは危機感だけではなく好奇心を生み出す、その何かを吸収する力はすごいと思う。よくほめてのばすということを言うが、しかし私はその前に自分はこのままではいかんとほかの大人たちを見て危機感を持つことは大事なことであると思っている。私の教えるスタンスはまずわからんということを理解させることからはじめている。わからないからこのままではいかんと危機感をもっことで、そこから本当の学習がはじまると思っているからだ。

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スポーツにおける脱魔術化

2023-11-10 | Weblog
私はアニメコナンが好きである。何年か前までは新作が上映されれば見に行っていた。コナンは教育上いいアニメだと思っている、それは彼がどんな時もいかなる状況でも考えることをことをあきらめない、その知恵や勇気をふりしぼった時には必ず解決策は見えてくるということを教えているからである。よく人はあきらめるなと言うが私に言わせてみればあきらめるなと言うことは考えることをやめるなと言うことである。しかし考えろと言っても考えるための材料がなければ考えることなんかできない。コナンは少年であるが英語を話し、学術的なこともたくさん知っている。そういう素地があるから考え続けることができるのだが、運動に例えると体力がない人間にひたすら走れと言っても走り続けることができないように、考えろと言っても考える素地がなければ同じことで、いろいろなことを学んで知識を蓄えなければ正しい答えを導き出すような思考なんてとうてい無理な話だ。私はスポーツしかできない人間を評価できない。スポーツを否定する気はさらさらないが、しかしそれしかできない人間は話していてもおもしろくない、価値観が狭く自分にしか興味がなく、最終的には自分の自慢話しかできない、そういう人間が多いからだ。こういう人間が組織を動かしたり、指導と言う立場に立つと一面的な考え方しかできないので問題がおこってくる。これからのスポーツは多面的に物事を考え理解するために、学習面を重要視すべきであると思っている。
マックス・ウェーバーは、近代とは社会の合理化過程のことであるとした。近代とは教会や聖礼典による救済あるいは迷信や神霊としての呪術からの解放であった。彼のいう合理化とは、気まぐれ、恣意性、情緒、呪術、 神霊、伝統、特殊な人間関係などによる判断と これにもとづく仕組みを排して、正確で抽象的な概念によって現実を理論的に捉え、ものごとを一般化し体系化することを意味する。」すなわち近代化や合理化は過去の宗教的な迷信や儀式に頼らない、脱魔術化をはかることだということだろう。スポーツの世界においても古い考え方しかできない人間は伝統とかしきたり、そして形式的な礼儀にこだわりそれが正しいことだと信じて疑わない。そのスポーツに没頭しろぐらいの勢いでしょうむない感動話をふきこんだり、何とか道的な陳腐な哲学まがいのことを語るのも当時の祈祷師や魔術師と同じ、こういう人間たちが子飼いをつくって独自のシステムをつくり、そこだけしか通用しない世界をつくることはスポーツ全体にとって害だと思う。最近レスリングで幼児に暴力をふるったという普通では考えられない事件があったが、まさにこういう事例はそういう世界だからおこったことで、おそらくこういうことはまだまだおこりうるだろう。話は少し複雑になるがこういう関係がみとめられ、一方的な話が堂々と語られる家父長制と言うシステムからも脱却することも必要なことで、そのためには英語を理解し、哲学や、心理学社会学などの学問的考察をもってスポーツそのものを理解することも大事なことだと思う。

参考文献
「コミュニティを問い直す 、 個人化のもとで 共同体はいかにして可能か」学術の動向 (ジャーナル)

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言葉を理解することでその人の考え方が理解できる。

2023-11-09 | Weblog
一橋大学の英語の入試問題にこういう問題があった。
「Most men will be survived by their wives」一見何を言っているのかわからない英文だ。たぶん直訳したら、ほとんどの男性は彼らの妻たちによって長生きさせられるだろうということになる。これではなんとなくおかしい、高校生だったら三角ぐらいあげてもいいが、たぶん名門大学なのでこういう訳では正解にはならない。実はこの文がわかりにくいのは受動態で書かれているからだ。
受動態と言うのは主語をぼかしたり、endfucusと言ってby何々の言葉を強調したい時に用いる表現だ。この文は受動態によって書かれているのでややこしくなっているが、しかしそれを能動態で書けばより理解できる。でこの文を能動態で書くと「Wives will survive their husband.」こう書けば、この文のは女は男よりも長生きするということを言っているということが理解できるのだが、こういう受動態で書かれたわかりにくい文は、それを能動態にしてから訳すと明確になる。我々の時代、英語学習に必要なことを学校の教師に聞くと、単語をまず覚えろと言う。しかしいくら単語を覚えても使い方が分からなくては、言葉にならない、確かに単語を覚えることも重要だが、しかしそれよりも重要なのは英語の構造を理解する(英語頭に切り替える)ということで、そのためには文法を理解することが大事だと思う。

前にブログでなぜ西洋人は、遅刻してもまずいいわけをするのかということを書いたことがある。理由はこの言葉の使い方と言うか、性質にあるということを書いたと思うのだが、たとえば日本人が会社で遅刻したらまずすみませんとあやまるのが普通のことで、それは常識であるが、西洋人はあやまるまえに言い訳をする(文化圏によっても違うし、多少の偏見もあるが)。
日本人から見たら遅刻しておいていいわけするなんてと思うかもしれないが、
しかしそれは西洋人はすべてのことにおいてまず「Reson」「 Why」を求めるからであって、時々彼ら彼女らが言う、雨が自分をそこに行けなくしたというような、日本語で考えればいささか無理とも聞こえる英文も、彼らがまず物事にたいして理由を求める性質があるからで、それは英文法を理解し彼ら彼女らの文化をわかることで理解できることである。言葉は単なる通信手段ではない、言葉の背景には文化や思想があり、言葉を学習するのは相手の考え方を知り、自分の考え方をひろげるには大きなアドヴァンテージになる。
私自身も英語を理解することで、日本語の能力が上がった、どう上がったかと言うと、日本語は説明するのに長々とはなすのだが、英語ではそれを短くして伝えなければつたわらないことがある、翻訳にしても日本語から英語になるのと、英語から日本語になるのではページの量がかなり違ってくるのだが、英語を話すということは物事を簡潔に伝える能力が必要で、そういう意味でかなり物事を簡潔にわかりやすく伝える能力がついたことは確かである。



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自分の年輪をきざめ

2023-11-01 | Weblog
うちのジムはおっさんが多い。30代は若手、20代は超若手である。みなさんそれぞれ在籍年数も長く5年以上続けてくれている人の割合が高く、そういう世代や年齢の壁をこえてトレーニングしているが、みなさんすごく楽しそうである。私はかつて競技者であったわけだが、引退してジムをオープンして思ったことは、スポーツは続けなくては意味がないということだ。健康維持でもダイエットでも楽しんでスポーツを続けることがスポーツ本来の目的であり、そういう意味ではMOBのみなさんは楽しんでボクシングを続けてくれていると思う。
ユクスキュル は著書「生物から見た世界」の中で「すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、主体的に構築する独自の世界である。」と言っている。これをユクスキュルは環世界(Umwelt )と言っているが、われわれはその自分たちがつくった主観的な世界に生きているということである。視力が弱く嗅覚がすぐれている犬と人間ではその見ている世界が違うし、視点がちがう。そのように我々は独自の視点をもって世界を解釈していいのだ。そしてそれはボクシングも同じことが言える。試合に出なければボクシングではないとか、俺たちはそんなすごいことをやっているんだぞとさもいいたげにボクシングは危険なスポーツだとか、それぞれ解釈するのは勝手であるが、しかしそういうわくに押し込めてボクシングを理解するのは愚かだと思う。試合に出なくてもリングでシャドウをして、ミットをうてばそれはそれで立派なボクシングのトレーニングだし、ボクシングは危険なスポーツだという見方も一面的で、実戦をノンコンタクトマスボクシングを中心にすれば安全にボクシングを競技することができるが、多様性を認めず、これがボクシングだという自分たちの価値観を押し付けて、ボクシングはこうだというのは無理がある。うちのクラブでは試合にでていてもみなさん健康維持と言う。それはみなさんが多様性を認めているからであり、関係がフラットだからだ。MOBでは試合に出るからと言って優遇されることはない、みなさん同じ会員であり、むしろマイノリティを大事にするという意味で平等性のあるクラブであると思っている。
ジムは公共の場である。だから試合に出るとかそういう人間たちが何をするにも優先されることは、そのクラブが多様性を認めていないからであり、そういうクラブは往々にして英語に疎い集団だと思っている。私自身競技者としてボクシングを競技していたわけだが、振り返ってそのボクシング人生はドラマのようであったと思う。ピーターに誘われ、ジョージに声をかけられて本格的にはじめたボクシング、悔しい思いもたくさんしたし、初めて大会で優勝した時は本当にうれしかったが、私はいろいろな意味でボクシングを楽しんでいたと思う。よくばりばり競技して引退した人が「競技人生に悔いはない」と言うが、しかし申し訳ないが私はこの言葉に多少の負け惜しみ感を感じてしまう。私自身たいした実績ではないが、振り返ってすごく楽しかったし、それはまるでドラマのような世界であったと思う。私は今そんな小さな実績ではなくそういう思い出とともに生きている。そういう思い出が年をとっても楽しい気分にさせてくれるし、それが私の年輪である。スポーツは修行ではなく楽しむものだ、ジムでは年齢に関係なく楽しくボクシングをして思い出づくりをしてほしいと思う。

参考文献
「生物から見た世界」ユクスキュル 岩波文庫

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