脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

脱体育会 こういう軍団はレッドカードだ

2009-03-27 | Weblog
松尾君がMixiでヴァレーボールの試合のことを書いていた。
彼はそのスポーツマンシップについて書いてたが、確かに彼のいう通りだうなづける。
日記によるとある高校のヴァレーボール部員が、準決勝でまけてもらったメダルを捨てたそうだ。
おまけにそこの監督は、まけてもどってきた選手たちに何のねぎらいの言葉はなく、こともあろうか「ああ疲れた」と言ったそうである。
常識で考えてこのような行為がゆるされるのであろうか??
選手たちは一生懸命がんばったはずである。たぶんこういう学校であるから、遊びや勉強する時間さえもおしんで練習にあけくれたのだろうが、まけてこういう態度をとるのは選手のトラウマともなりえない、仮にも連盟が用意したメダルを捨てるとは、ここまでくれば犯罪行為、連盟もこの学校に警告をいれるべきである。
時々体育系の監督は、選手だった人間を大人になっても「あの子」呼ばわりするが、しかしなんか変だ、高校生の子供ならまだしも、一人前の大人にたいしてもひょっこよばわりするのがいるが、自分から言わせれば、その人を真剣に大人としてあつかっていない証拠であろう、お前はおれが育てたといいたいのだろうか、こういう態度の中にも監督はその絶対的な権威を主張しているのである。
おそらくこのメダルの件も監督の主張であろう。
自分たちはこんなもんじゃないよという主張であろうが、その主張はあまりにも稚拙でみっともないし、こういうことが今後の選手たちにどう影響するかと言うことを考えて行動しなくては、指導者として失格である。
自分が体育会系が大嫌いな理由は監督がえばっていることと、もうひとつは「巨人の星」や「あしたのジョー」の世界を押し付けられるからである。
とにかくそういう考えの人間がいうことは、その競技にどれだけ命をかけているかということである。
わけの分からない持論を語り、自分がどれだけやってきたかを必死になって強調する。
しかしこんなこと向こうで言ったら「So what」とバカにされる。たかだかボクシングではないか。
スポーツにおいて、日本人とアメリカ人の大きなちがいは、スポーツをエンジョイできるかできないかである。
単純なことであるが、ここに大きな違いがあるのではないだろうか。
自分の哲学はこのスポーツをいかにして楽しむか、言葉をかえればボクシングを自分の友達にすることである。
オリーヴに大学でスポーツ科学を専攻した人がいる。
彼はその道のエキスパートであるが、彼がボクシングがおもしろいと言ってくれたことはたいへんうれしかった。
ボクシングと言うのは確かに過酷なスポーツである。
しかしそれをスポーツ学的にとらえるのであれば、もっと深い意味でひろがりをもつ競技となりうるということが、お互いの一致する見解であると思っている。
ボクシングを楽しむということは、いい意味で、まずその競技性をくずさなくてはならないだろう。少なくとも「完全燃焼」とか「真っ白な灰になる」なんていう言葉が、かっこいいと思っている以上は無理だろう。





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3月19日

2009-03-21 | Weblog
今日は連休前、夜から練習生がほとんどきませんので、ボクシングのテクストを読んでいました。
自分が読むのは英語のものですが、英語のものは論理的で、特にアメリカのテクストの実践にむけての組織的な練習法はたいへん役に立ちます。
テクストを読んでいて気づいたのは、その挿絵の使い方です。
日本のテクストはまず挿絵ありきで、説明は二の次です。
しかししっかりした英語のテクストで、挿絵を使うときは、よりその説明をわかりやすくにするために用いるので、その挿絵におおきな意味があります。
余談ですが、英語で挿絵をつかうという言葉は「Illustrate」という言葉で、これは別に「光をあてる」という意味もあり。
ラテン語の「Lumen(光)」という言葉の派生語です。


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日本人の善と悪

2009-03-18 | Weblog
これは自分の善と悪に関する一考察であるが、文学などで述べられる西洋の善悪は、日本の文学で述べられる善悪よりも単純である。
おそらくこれは一神教、あるいはキリスト教に見られる光と闇というドゥアリズム的な影響があるからだと思うが、それに比べて日本の文学における善悪は、その人間の心のありかたとして捉えていて、複雑極まりないように思う。
おそらく東洋人と西洋人の善と悪の区別や考え方は違うであろう。
西洋人の頭の中には常にこの善と悪の区別と言うのが存在し、それが彼ら彼女らの判断基準となっていると言っても過言ではない。
昔試合前、自分を挑発する奴がいた。
何と言ってきたかと言うと「俺たちは神の国の人間だ、お前にまけることは神がゆるさない」」と。
その時思わず「地獄をみしたる」と言いそうになったが、嘘のような話であるが、以外にもこういうことをいう奴はいる。
アメリカでは湾岸戦争やイラク戦争などで教会が勝利を祈ったと言うが、戦争が殺戮行為と考える日本人からすればとんでもない話であるが、彼ら彼女らの中には構造的な善悪が存在していて、その善悪によってものごとを判断するのである。
恐らくこれは一神教の影響が大きいと思うが、日本人が心のながれや感情で善悪を捉えるのに対して、西洋は善悪は神が決めることであると考える。
簡単に言えば日本人が結論として善悪をもってくるのではなく、西洋人はその善悪というものがはじめから存在していて、それを基準に判断し、裁くのである。
もうすぐ裁判人制度がはじまるが、こういうメカニズムを持ち合わせていない日本人が、人を判断し裁くことができるだろうか?
あきらかに西洋の裁判制度は宗教観がある。
最近その宗教観をださない動きも多少あるが、しかし国民のほとんどが神の存在を認めているのであるから、その考え方や価値基準、判断、裁きの中にその影響が大きくあることは否めないであろう。
逆に言えばそういう価値基準があるからこそ、人を裁けるのである。
しかし日本人にはこういうメカニズムがない。
漱石の「こころ」などは、恋愛する中に人間の善悪、特に悪という部分を描いたのであろうが、それらはたいへんまどろっこしく、それを悪と感じるか感じないかは、それを受ける側の感じ方、それをどう受け取るかということであるが、自分はこの小説を読んで思ったことは、日本人の善悪の価値判断は感情のあらわれと切り離せないということである。
陪審員制度は日本人にはあわないように思う。そしてその宗教観の根本的な違いに於いて、感情が支配せず、人をどう裁くかということが課題であり、何よりもその裁判委員制において、プロフェッショナル的な知識や見解を持たないわれわれが、その裁きに於いて、彼ら彼女らの神に代わるはっきりとした基準と言うものもたなくてはならないだろう。








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Respect

2009-03-13 | Weblog
HIという州は結構ボクシングクラブが存在している。
しかも日本にあるような、20坪から30坪規模のクラブではなく、ヴァレーボールの体育館ぐらいの大きさのジムがいくつもあるから驚きである。
だから結構試合が多い、人口もそこそこ多いし、競技者も多いのでHIトーナメントははっきり言って、日本の全日よりもレヴェルは上であろう。
ここでは日本の体育系のように、スポーツをそれだけというかたちでは競技しない、たいていの人間がボクシングだけではなく、野球やバスケットここではサーフィンなどのスポーツをかねているのが普通らしい。
話は試合のことであるが、ある時自分は、少しあぶない地域で試合をすることになった。ワイキキではないワではじまる地域である。
HIと言えば日本人が多く、日本人にはたいへん生活しやすい場所である。
がしかし場所が変わればぜんぜん違って、ピーターが言うには、そこは多くの人が生活保護みたいなものをうけて生活している貧しい地域である。
その地域に自分は試合をするためにジョージと行ったのだが、そこの選手たちが大きい音でRAN DMCAを聞きながらシャドウをする姿は、まるで映画の世界のようであった。
自分はあまりにも周りが異様で、自分に敵対心さえも覚えたのでジョージに「勝っていいのか」と不安そうに聞くと「You must break him(つぶしてやれ)」みたいなことを言ったが、その時のその状況では、ジョージのその発言は、たいへん無責任に思えた。
その試合で自分の試合の審判をつとめた男がいる。
ピータージュン?と言う中国系の男である。
試合は日本人の学生ということで多少注目された。
当時ここでは日本人と言えば、金持ちであるが、よわっちい民族、こんなカレッジボーイに負けてたまるかと、敵対心まるだしで、かなり気合が入っていたと思うが、案の定試合は壮絶なうちあいで、会場はかなり盛り上がった。
たぶん覚えている限りでは、かなりしんどい試合で、終わった後は両方ともエグゾーステッドであった。
その後自分は他の人間の試合もあるので、控え室のようなところで待機していたが、その時一人の男が近づいてきた。
ピータジュンである。
近づいて来て、彼は自分に手を差し伸べてきて握手も求め、そしてこう言った「Congratulations」その時自分は、審判に認められたことが非常にうれしかった。
しかも自分の試合をよく思ってくれたのか、あえてここまで握手をしに来てくれたのであるから、光栄である。
自分の体験で恐縮であるが、アメリカ人のコーチは、選手にたいへん敬意をはらってくれていることがわかる。そしてそれは審判とて同じ、だからこそ彼はあえてこうして自分に握手を求めにきてくれたのだ。
自分はむこうで競技して、縦の関係ではない、人と人とのつながり、関係と言うものを学んだ。
一生懸命そこで競技したものだからこそ分かる。どんな相手であれ、そこで出会いファイトしたのであればその相手に敬意をはらう。これがクーベルタンの言うスポーツマンシップである。
大切なのは相手に敬意をはらうことである。
これができない人間は競技者としては失格である。
以前ある高校の選手が、勝ったのに負けた選手がいる前で、監督にあんな試合をしてすいませんとあやまっていたのがいたと言うことを書いたが、まさにこういう例はいい例である。
大切なのは監督やコーチの前でいい子になることではない。
自分が対峙した相手に最大の敬意をはらうことである。
勝っても負けても、ともに向き合いファイトした人間として、敬意をはらうことが大事であり、ボクシングを大切にすることであろう。










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a letter from hawaii

2009-03-12 | Weblog
a letter from Boston


ついに帰国する日が来た。
前日彼女とはたくさんのことを話した。
お互いの将来や日本にいる友達のことなど、帰国一日前だと言うのに、お互い気持ちを確かめ合うことはなく、なぜか相手に悲しいと言う気持ちを悟られたくないという思いで、そういうたわいもない話を一生懸命、時間を惜しむように話したと思う。
そして帰国の日が来て空港に彼女は見送りに来た。
自分はこの時劇的な別れを予想していた。前日そのことを思うと胸がせつなくなり寝られなかったのだ。
しかしその別れは以外であった「じゃーねっ、たまには手紙でもちょうだいね」と言って、彼女はそのままあっさり帰ってしまったのである。
所詮異国の出会いって、こんなもんかと思うと気が楽になった。そしてむしろ彼女のそういうあっさりした態度に、多少の腹ただしさを覚えたことも確かである。
日本のことわざに偕老同穴と言う言葉がある。
これは夫婦が生きては共に老い、たとえ死んでも同じ墓に入るという、夫婦の仲むつまじさを表した言葉だが、これとは逆に韓国には人間には必ず別れと言うものがくる、その別れがつらいから、年をとると逆に冷たくすると言う言葉があるらしいが、後に自分は彼女が韓国人であることを悟った。
今自分は彼女がどこで何をしているかわからないし、知ろうとも思わない、たぶんメインランドに渡り、優秀なビジネスパーソンとして活躍していることだろう。
しかし彼女は、たいへん魅力的な女性であり、彼女との出会いは自分にとって大きなことであったことは確かである。
韓国の人はよくヘンボッカヨ(幸せ)と聞く。
たぶん今お互いももし会うことがあるならば、会ってお互いそれを聞くだろう。
あの別れは自分にとって、劇的で複雑な別れであったことは確かである。
しかし今平凡な生活であるが、自分はたいへん幸せである。



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Have you ever seen a rain?

2009-03-06 | Weblog
欧米では日本人のような東洋人は、かなり若く見られるらしい。
知恩に言わせると、20歳ぐらいまでは子供料金でバスパスが買えるらしい。
そんでもって自分のここでのあだ名というか、しばしばみんなからBoyと呼ばれた。
このBoyという言葉トレーナーが使うのであれば問題ないのだが、周りがつかうとなると少し違う、文字通り少年なのだ。
最初そう呼ばれるたびにカチンときていた。
そのことを知恩に話すと、仕方がないという、彼女も(韓国人or日系人?)であるので、かなり若く見られるらしく、逆にそんなことを気にするから子供なんだと言われ、その言葉に対しても自分はカチンときていた。
ある時自分よりも2階級か3階級ぐらいの人間とスパーリングをした。
スパーリングといっても、ここではその度合いというのがあって、言ってみればこのスパーはマスのようなものである。
しかし自分にとってこの時のスパは勝手が違った、なぜならこの相手というのが、日ごろから自分を小ばかにしている人間で、自分にしてみたら、こいつだけはいつかやってやろうという気持ちがあったので、かなり気合をいれてパンチをうっていったのだ。
怒りとも言える感情を、相手にこめてうつのだから、当然相手も本気になり打ち返す。そしてその相手の打ったアッパーが、自分のあごをかすめ口から血が出てかなり出血してしまった。
ここでStopという声が入り、スパーは中断。
この時かなり周りの人間は引いていたことを覚えている。
終わって、自分の相手であったタワーが自分に大丈夫かと聞いてきた。
それに対して大丈夫やと答えたのだが、この事件以来彼は自分を小ばかにすることはなくなったのである。
こんなことを言えば暴力を肯定するように聞こえてしまうが、若い時人間はやらなきゃならないときがある。
自分が彼に対して頭にきていたのは、同じボクシングを競技する人間なのに半人前扱いされたことである。
「俺はこのクラブに入ったのは、自分がどれだけできるか試すためだ。
お前らと違って俺は真剣だし、覚悟もある程度決めている」今から考えれば笑えることであるが、当時はそういうプライドをもっていたことは確かなことである。
プライドというものは持ち続けてなんぼのものである。
完膚なきまでにたたかれても、どういう状況でも持ち続けることができるからこそ、信念、プライドである。
松尾くんが日記に、思うようにいかなかったら機嫌がわるくなったり、やめる人間のがいると言っていたが、確かにそういうたぐいの人間も、ある種のプライドがあるのであろう。
しかしそういうプライドは単に傷ついたといった程度ももので、自分に言わせれば決して人生のこやしにならないくだらない感情である。
自分はそのプライドを持ち続けて競技した。
自分が持ったのは、日本人として、ここで真剣に競技するものとしてのプライドである。
そして自分が真剣に競技していく中で、いつしか周りの人間も自分をBoyと呼ばなくなった。
そしてキャプテンであったホクが引退する時、自分の片袖の部分にはCaptainという文字が入ったのである。
こんなことを書いたが正直言って、自分はそれほどむこうで活躍したわけでもなければ、優秀な選手でもなかった。
自分のような選手ははいてすてるほどいる。
しかしこういう人間でも周りが認め、言葉の壁はあるけれどもリーダーに選んだのである。
むこうでわかったことは、人に認められるということは、たいへんなことであると言うことである。
たぶん自分がこうして人から認められたのは、自分が優秀な選手だからではない、たたかれてもたたかれても、そのプライドを持ち続けがんばったからである。
イチローのような優秀な選手はそうざらにはいないだろう。そしてそういう優秀な選手に誰もがなれるはずはない。
しかしプライドや信念はは誰でも持つことはできる。
自分の言う信念、プライドとは自分が真剣にうちこめる理由である。
そのたたかれてもたたかれても持ち続けることができる信念やプライドをもった時、人は変わる、そして何よりも周りが変わっていく、そして、たとえそれが小さなことであっても周りに影響を与える人間となるのである。
特にボクシングを競技としてはじめる人には、自分がなぜボクシングをやるのかというのを真剣に考えてほしい、もし本当にそう考え自分の信念やプライドをもったならば、少なくともボクシングを競技する上では、つまらないことで機嫌を悪くしたり、やめたりはしないであろう。






















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力への意志

2009-03-03 | Weblog
当時ボクシングをやっている学生たちが読んでいた本がある。
それはニーチェの「力への意志(Wille zur macht)」である。
「力」という言葉はドイツ語において「権力」と同じ言葉であり、以前は邦訳でも「権力への意志」とも訳されていたが、これは「権力」という言葉が独り歩きしてはならないので、「力」と訳された。
「力の意志」とは、新しい自分に生まれることができる可能性を信じて、生きる意志である。
そのためキリスト教や、ルサンティマン的な考え方を、現実から切り離して生きることによって、自由な意志を獲得することを目的としている。
ニーチェというのはたいへん魅力的である。
特に自分たちのように強くなりたいと願うものに対しては、こういった「力への意志」や「超人思想」で述べられる言葉は、快刀乱麻を断つようであり、魅力を感じる。
しかし自分はニーチェに対していささか批判的である。
確かに彼の言う、当時群集の心を支配していたと言ってもいい、キリスト教に対する批判と言うものは鋭いものがあり、恐れや不安から、何も考えないで付和雷同に指導者に追従する群集を「畜群」と言ってさげずんだが、それは現代に生きる自分たちにもあてはまることかも知れない。
けれども彼の考え方はしんどい。
どこがしんどいかというと、平たく言えば、超人になろうとがんばりすぎ、根本的に人を信じなさすぎである。
人間は弱い。われわれは超人になるために生まれてきたのではないし、それが人間の本当の生き方ではない。
すべてが一番になるためにボクシングをやっているのではない。
そんなことを目標にしたところで自分の限界を知るだけであり、われわれはその限界を知るためにボクシングをやっているんじゃない。
アメリカではスポーツを、人生の中でのひとつのスパンとして考えるが、これはその競技が人生のすべてではないということである。
すなわちアメリカではその競技が、自分が生きていく人生の中でどうかかわり、どういうメリットを与えるかという考えのもとに、スポーツと言うのをとらえている。
ボクシングをやる人間は真剣である。
自分も競技者であったからわかるが、この競技に自分のすべてを捧げ、何かをつかもうとしている。
時々自分はそういう人間を揶揄するかのごとく批判しているが、それは以前の自分の姿をあざ笑っているのであり、本当にどれだけ切実にそれにかけているかということが分かるのである。
だからこそそれを無駄にしてやってはならない。
知恩が言っていたボクサーの試合をVCRで見た。
結構有名な試合であるそうだが、壮絶な死であった。しかし何も残らなかった。
「自分たちは限界を知るためにボクシングをするんじゃない。生きていくための可能性をみがくためにボクシングをする」これが自分の信念である。





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