脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

脱親玉宣言

2024-09-30 | Weblog
「While sports has been practiced since pre historic times, it is a relatively new subject of systematic philosophical enquiry(スポーツは先史時代以前から実践されてきたが体系的な哲学的探究の対象としては比較的新しいものである)」The Stanford Encyclopedia of Philosophy より
フィロソフィーはギリシャ語が語源で「知を愛する」と言う意味。知を愛することによって生まれる考え方はポジティブでなければならない。よってその考え方がそこにいる人たちを幸福にすると言うのが哲学の目的である。三大幸福論と言えばアラン、ラッセル、ヒルティだが、ヒルティの幸福論は、人間が不幸になる理由を分析し、頑張っていても満たされないのは、自分の内ばかりに目を向けて主観的になっているからだ、幸福になる方法は、外に目を向けて客観的に生きることであると説き、この「外に目を向ける」ということが、ラッセルの重要なメッセージである。ラッセルは客観的に生きることは「趣味」を持つことだと言う。運動でも推し活でも、なんでもいい、外部に興味を持って熱中することで主観的なとらわれから逃れ、心のバランスを保つのを助けてくれる。MOBはコミュニティである。みなさんがあれこれと自分たちの考え方を述べそこで教えあう、そのスタイルがThe MOB styleであるが、そういうコミュニティがヒルティの言うところの趣味と言えるのではないかと思う。そのクラブやジムのスタイルが出来上がっている、ジムに来ていてもただ言われたことだけをやっているだけではもはや趣味とは言えず、それは受験や会社と同じである。大事なのはいろいろな人たちの話を聞いてあれこれと自分もクリエイティブ考えて、自分がそこでかわれるかどうかだ、そういう新しい発見があるとそれ自体が楽しくなってそれが生きるためにバランスを与えてくれるだろう。5年以上の会員の割合が多く、様々なカラーを持つ人たちが集まるボクシングクラブを新しく入会する人も疎外感を感じることなく、運営することにあたって、それは非常に難しいことだという事を実感している。私の運営の基本は管理者が目立ったり、主役になるのではなく、黒子に徹することであるが、そうすることで会員主体のコミュニティが形成されると信じているからだ。そしてそういうカラーを持つ人たちが意見を出し合って互いに教えあい、上手になっていくことが理想であるが、今のところ会員のみなさんのおかげでそれが実現できていると思う。

参考文献 
超訳 「ヒルティの幸福論: 世界で一番幸せになる「思考力」」斎藤孝訳 三笠書房



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デリダと日本人

2024-09-09 | Weblog
左翼が強い時代は日本で一般論を語る時「日本人なら」と言う言葉を問題視する人がいた。例えば日本人ならコメを食べるとか、日本人ならこうだとかいう民族をひとくくりにした発言は日本には在日外国人もいるのだから適切ではない。本当に難癖と言うかそういう些細なことを問題視していた人間がいたことは確かである。よく日本人の曖昧さを指摘する人がいるが、私はそれがある意味日本人の長所だと思っている。たぶんこういう考え方も政治的なもくろみは別として、わるい意味での曖昧さをあらわしているのだが、私などは外国人の参政権が政治の議会で上がることは驚きであるが、いいか悪いかは別にして日本人は曖昧、よく言えば多様性を認めようとする民族であると思う。
日本は平和である。よく人は平和ボケとか言うけれども、しかし平和であると言うのは確かに環境のおかげもあるのだろうが、もともと日本人が持つ性格も相まってそういう環境を生み出すのだろう。おそらくそういったことは日本人の持つ宗教観、すべてに神々のの存在を認めてそれらを大事にする神道の影響が大きいと思う。少し前うちのベテランの職人さんがダンベルをつけてパンチングの前でシャドウしていて、その流れでパンチングバッグをたたいていたので、「傷がつくからダンベルをつけてたたいたらだめですよ」と言おうとしたら、パンチングバッグをたたく時、きちんとそれをはずしてたたいていたのだが、その時思った「あっこの人職人さんだ。職人さんが道具を粗末にはしない」と、確かにうちのクラブには職人さんが在籍しているが本当に道具を大事にする。グローブなんかは毎回ピカピカに磨いていて、道具はジムにおきっぱなしにしないで毎回持ってかえって手入れしている。私が競技したところはそこまで道具を大事にすると言う感じではなかったので、彼らを見て深く感心させられたが、やはりこれらはすべてのものには神が宿ると言う神道の宗教観と無関係ではない、彼ら彼女らは自然や物に対してい系の念を持つ、そのような考えかたができるから平和で多様性を理解できるのだろうと思う。これに対して西洋哲学はどちらかと言うと白か黒かをはっきりとつけたがる習性がある。特に一神教の影響が強いのだろうが、彼らの思考回路は二項対立だ、善か悪かそれが正しいかそうでないかの世界である。脱構造主義のデリダは、二項対立で物事を理解するのではなく、価値判断の保留に重きを置いた。すなわち物事は考え方次第でそれはよいものにもわるいものにもなるのだから、余白をのこして物事をとらえる。それがデリダの言うところの変化であり、そういう考え方を理解できるセンスを日本人は持っていると思う。私は学生に本をすすめられてある程度理解力が深まったら、デリダと読んだらいいとすすめるが、日本人は別の見方で哲学を理解するセンスを持っている、だからもっと哲学を学ぶことをすすめたい。

参考文献
「脱構築と正義」高橋 哲哉 講談社学術文庫

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私が本を読む理由

2024-08-21 | Weblog
読書をしない人間は言うことが薄っぺらい。どう薄っぺらいかと言うと言うことが主観的で、話をしたら結局そいつの考え方に賛同するかしないかだ。過去に私はシンポジウムなどで講師をまかされたこともあるが、そのディスカッションで日本人は優しいからエビデンスやソースがはっきりしない主観的で感情的な意見でも、受け入れて話を進めるが、しかしはっきり言ってそういう考え方は建設的ではないと思う。よくPTAか何かのミーティングで俺は教育のことはわからんけどと言って主観的な意見を述べる人間がいるが、私が司会者ならば「わからんかったら質問と言うかたちにしてください。もし教育のことがわからないと言うならば本を読んで勉強して来てください」とはっきり言う。もちろん揚げ足をとろうとして「じゃあどんな本を読むんだ」と言えば、それなりの参考文献は上げるつもりであるが、私はこういうみんなで何かを決めるようなミーティングの場では、司会者はまわりの意見を聞いてそれを建設的に話ができるような雰囲気をつくる。そのためエビデンスのない主観的な意見を黙らせることも司会者の役目だと思っている。本を読まない、専門の勉強をやったことがない人間は本当は自信がなくて、まともに行ったら自分の意見など通らないので、主観的な意見を言って目立とうとする。個性が大事だと言われている時代なので中学生ぐらいならば「そういう意見もあるそれは君の個性だ」とも言えるのだろうが、しかしいい年をした大人が、薄っぺらいただ目立つだけの意見を主張するのは浅はかすぎる。自分の言いたいことを本当に主張したければ本読むなり、勉強するなりしてエビデンスやソースをしっかりと持つことだ。本を読まない、エビデンスやソースを持たない人間は多様性にかけるので、女性やいろいろな職業の人が集まった社会人の群れを有機的にまとめていけるはずはない。体育会のルールのようなものを基準にしていること自体、私から見たらかなりずれていると思っているが、クラブと言うところが平等であると言うことを主張するのならば、たくさんのことを書物を通して学び、倫理やジェンダーそして人権について考え、しっかりとした基準や考え方を持たなくてはならないと思っている。読書は管理者のとって不可欠で、このことがその群れをよくしていく要因だと思っている。

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Mement mori

2024-08-13 | Weblog
アップルコンピューターの共同設立者であるスティーヴンジョブズは、ある大学の演説でたいへん興味深いことを言っていた。
彼が17歳の時にあることわざというか引用句を読んだそうだが、そこにはこう書かれてあったそうだ「If you live each day as if it was last, someday youll most certanity be right(もしあなたが毎日を終わりの日として過ごしていたならば、いつしかそれは本当になる)」。彼はこの日以来、毎日をどう生きるかと言うことを考えさせられ、毎朝鏡にむかって、もしその日が最後の日ならば、自分はどう生きるか、何ができるかと言うことを自分に問うたそうである。
死は人間にとって忌むべきものである。しかし時に死を考えるというのは、ある意味人間を、何かあるものそれが真実か真実でないかはわからないが、そこに向かわせるきっかけとなるのだが、彼の場合は死を考えることによって、見事に成功者の道へとたどりつくことができたのである。彼はそのしめくくりの言葉でこう言っている。「Remember that Ill be dead soon, is important too Iv ever encountred to help me make the big choice in life(死はすぐ近いということを忘れないと言うことは、人生の最も大きな決断をする時に自分を助けてくれる重要なToolとなりました。)」
まさに成功者は、常にぎりぎりの決断をせまられることによって生まれてくるものだと感じさせられる名言である。おそらくこの緊張感と日々の決断力が今の彼を生み出したのだが、その彼の力を生み出す原因となったのが死を考えることである。少し前からポジティヴシンキングという言葉が取沙汰されているが、しかしこれとは逆に、彼のようにぎりぎりの決断を促されるような状況を考えてみるのも大事なことだということも、彼の言葉からうかがい知ることができるであろう。
今日のブログのタイトルはMement moriである。
これはラテン語で「死を覚えよ」昔中世の修道院であいさつとして使われていた言葉であるが、これはいずれ人間は死ぬんだからという半ば否定的な言葉ではなく、むしろその死を覚えて今日の日を精一杯生きろと言う肯定的な言葉であり、その積み重ねによって人間は生かされるのだという問いかけでもある。
こういうことを言えば、人生なんてただ一度きりだから「生きるか死ぬか」とか「一か八か」なんていう漫画的な発想にもつながりかねないが、しかしこの人間の究極的な問である死というものを、真摯に受けとめることが大事なことであり、またそこから生きる力と言うものが与えられることも確かである。
 



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私が影響を受けた監督の言葉

2024-07-30 | Weblog
今日は私が監督から影響を受けた言葉を紹介したい。影響を受けたのは昔のことなので多少のデフォルメはあるがご容赦願いたい。
「日常のちょっとしたところでへりくだって相手に示す思いやり、それがエチケットだと思う。」
これは直接監督が言ったことではないが、たぶん自分たちに教えようとしたエチケットはこういうことなんだと思っている。運動系の人は礼儀とか言うけれども、自分本位で形式的である。うちのクラブでは運動系の礼儀よりもエチケットを重んじる。いくらでかい声であいさつができても、ジムででかい声をは出すことはむしろ迷惑で、委縮する女性もいる。カーッと来てけんかごしのスパーリング、裸で汗をまき散らしてトレーニングをしたり、女性や子供がこわがるような威圧的なトレーニングははっきり言って害である。ミットも実戦練習も優先されて自分のやりたいことを全部やって余裕があって相手に譲るのではなく、誰がジムではマイノリティなのかということを考えて、そういう人たちを優先に考えて相手に譲ることがジムのエチケットで、そういう思いやりがジムの秩序をよくしていくものであり、平等であると考えている。

「民族も違う、文化も違う人間たちを一つにまとめる力、それが言葉の力だ。」
私が言葉を勉強しろ、哲学をもてということはそういうことだ。日本人は単一民族なので何となく考えていることがわかるし、共通をたくさん持つが、USAには人種や文化そして宗教も違う民族がひしめきあって生きている。そういう中で国民をひとつにまとめていくのは言葉の力である。言葉は力だ。大統領の演説にあれだけ人が心を動かされるのはまさに言葉にはそういう力があるからだろう。私が感銘をうけた演説はケネディの就任した時の演説である。当時のアメリカはベトナム戦争や人種差別などの問題があって、さらにヨーロッパ諸国が台頭してきた。そういう中で彼はニューフロンティア政策をかかげ、より良い世界を築くための自発的な行動を国民に訴えた。 ケネディはニューフロンティア政策のために、国民に犠牲をしいたわけであるが、しかしそれでも国民は一致団結してあの混沌な時代をたえて、乗り越えてアメリカが栄華を誇ることはできたのはまさにその彼の言葉の力のよるものだと思う。私の感想では日本の政治家は言葉のこわさをよく知っているが、しかし言葉の力を信じていない。言葉は力だ、語られる言葉によって人は励まされ、勇気づけられる。私が言葉や哲学を勉強し続けるのは、その言葉の力を信じているからだ。

 

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私が読書をする理由

2024-07-16 | Weblog
私は自称読書家である。仕事が終わると必ずと言っていいほど、読書の時間にふけるのだが、読書するにあたってひとつ決めていることは、週一冊ぐらいは、なるべく英語を含む難解な本を読むようにしていることである。最近では音声で流して、読むと言うか内容を理解しようとするけど、しかしそういう読み方は私のような凡人には難解な本を読むことに限界があるし、字を追って聞くだけならば、ただ単に本の内容をコピーにしかすぎない。コピーは所詮コピー、それはやがて劣化する。また電子書籍ではなく、紙の本を買って読むのは文字は流して読むのではなくじっくりと味わって理解して読みたいからである(runとreadの違い)。ハンス・ゲオルク・ガダマーは解釈学で有名だが、ガダマーの解釈学とは単純に言うと過去から押し付けられた権威や先入観で理解するのではなく、本と対話しろという事だ。私は学生時代に3ページ読むのに2、3時間かかるような難解な本を読まされたが、哲学の本は本当に難解で何が書いてあるのかわからない。けれども読んでいくうちにその意図を理解したり、いやそうではないと否定的になったり、あっこういう考え方があるのかと自分の浅はかさを実感する。そういう本との対話を通して一度自分の考え方をバラバラにされて、そして新たな考え方が構築されていくのだが、一度考え方をバラバラにされて、またさらに構築されるという、繰り返しが自分の考え方や思想そのものを進歩させるのだと理解しているが、事実私が本を読むのは、ジムを運営する上での重要なタスクであり、ジムに不平等をおこさず、みなさんが公平で、平和にトレーニングしてもらうためである。

参考文献 「ガダマー地平の融合」丸山高司 講談社

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女性が堂々とトレーニングできるジム

2024-07-11 | Weblog
空港とかショッピングセンターの障害者の人のための駐車スペースに時々車を止める人を見る。うちのクラブにこういう人間が来たら入会は拒否。弱い立場の人たちに配慮できないような人間がうちのように女性や子どもが多く在籍しているクラブでまともにそのコモンセンスを守ってかかわっていけるとなど思えないからである。共同体の質は弱い立場の人たちやマイノリティをどうとらえていくかということと深く関わっていると思う。時にボクシングのような激しいスポーツは力が強いものが大きい顔をするスポーツだが、競技者が主体で、血気盛んで勢いのある奴がジムの中心になって、そいつら中心でジムが動いていると言うのはあきらかに差別、そういう人間しか使えないと言うのは明らかに指導者に能力がないからであり、ジムやクラブが公共の場で平等だと言うならば、もっと多様性のあるクラブとして運営させることが正しいクラブの在り方だと考えている。
そしてその上で大事なことは「何が共通の正しさ」であるかということを求めるである。うちのクラブはコミュニタリアンであると言っているのはまさにそこが大事だと考えるからだ。しかし共通の正しさと言うのはあいさつしろとか運動系の人間がよく言っている稚拙なルールではなく、自分の権利を無視されたり侵害されることなく、平等にトレーニングできるということで、それはジェンダーや民族など多様性を認め考えた上で、その群れが生き生きと活動できる共通の正しさで、それは基本的には人に対する気づかいや配慮、そして思いやりから生まれてくるものだと信じている。そしてそれを実現させていくには、その群れにどういう人が集まって来ているかと言うことが重要な課題だ。うちのクラブはコミュニタリアンだと言っているが、そういう考え方を理解するためにはある程度教育が必要だ。少なくとも私が発信していることを理解するためにはある程度の知識が必要でそういう理解できる人が一定数集まって来ることで群れが健全に保たれ、そういう考え方が生まれてくるのだと信じている。私の理解では人間は共同体によって成長させられるもので、その共同体を通して世界観が広げられていくというのが理想で、特定の人間ではなくいろいろなタイプの人とふれあうことで、刺激をうけて成長していく、そのためその共同体にはどういう人たちが集まっているかという事が大事なことだと思う。

 
 

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Friends come in and out of your life

2024-06-27 | Weblog
私の好きな映画でスタンドバイミーと言う有名な映画がある。物語はある日、バーンが不良グループである兄たちの会話を盗み聞きしてしまうことからはじまる。3日前から行方不明になっている少年が、森の奥で列車に跳ねられ死体のまま野ざらしになっているという噂。死体を見つければ有名になる。英雄になれるとそう考えた彼は仲のいい友達を誘って死体探しの旅に4人で出かける。彼らは途中、喧嘩もするが、お互い助け合いながら、鉄道の線路に沿って、冒険のような旅を続ける。鉄橋で危うく列車に轢かれそうになったり、沼ではヒルにかまれながら、その夜は森で野宿をする。物語を書く才能があるゴーディは、親に嫌われていることが傷になり、将来ものを書く希望も持てない悩みを打ち明けるが、ゴーディはクリスに進学することを勧め、励ます。そして翌日、4人はついに死体を発見するのだが、そこに不良グループが現れ、死体を渡せとせまるが持ってきた銃でおどし退散させる。そしてひと夏の冒険が終わり4人はいつものように町外れで別れるのだ。冒険を終えてそれぞれが帰って行く中「Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant(友達というのは、レストランの後片付け係りみたいに、人の人生に入ってきては出て行くものだ。)」と続くセリフが印象的だ。私はこのセリフを聞くと少年時代を思い出すのだが、誰でも子供の頃の思い出はある。この物語でもそれぞれ複雑な家庭環境を持った子供たちを描いているが、私が子供の頃も家庭環境が複雑な子がまわりにたくさんいた。中でも親が酒乱で虐待されてたチングは時々親父の暴力から逃れるために家に避難してきたものだ。ある時そいつにその殴られた日におやじを殺すのを手伝ってくれと頼まれた。何を言ってるんじゃと一蹴したがどうやら本人は本気であったようだ。当時は迷惑をかけたりかけられたり、そういう人間関係が我々のその住む世界では当たり前だったような気がするが、今思えば我々も我々なりに一生懸命生きてきたんだなあと思う。そして私が一番心に残っているのは学生時代の友人たちだ。彼ら彼女らとは励ましあったりなぐさめあったりそして時にはすごい激論さえしたものだ。最近の若い人はラインの返事が来ることか来ないとかでごちゃごちゃ言っているが、しかしそんなことを気にするようではもはやそれを友とは呼べないのではないか。親や教師には勇ましいことを言って迷惑をかけるが、しかし友達にはすごく気をつかって生きる、一体何のための友達かはわからないが、若いうちは多少友達に迷惑をかけてもいいと思うし、考え方が違えば時にはぶつかり合うことも必要である。私自身よくチングたちとはすごい激論をした。特に日本と韓国の問題はもうこれで関係は終わるんじゃないかと思うぐらい激論した。時にはお互い傷つけあうこともあったが、そういうことを議論でき、そして葛藤して受け入れることができるのは若さゆえの特権だと思っているが、我々はそういう激しい言い合いをすることでお互いの友情を深めていったと思う。私の学生時代はすごく楽しくて有意義なものであったと思う。しかし学生時代友達だった人間たちとはもうあっていない。ジョージ、アレン、ピーター、韓国人の女の子、たぶんもう会うことはないだろうが、でももし彼ら彼女らと明日会っても昨日あったように話せると思う。




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ワシの語録や

2024-06-05 | Weblog
自分のことなど誰もわかってくれないという人間に
「世界には人口は何人いるんだ。お前すべての人と会ったのか」
世界は広い私も実際に日本をはなれて、世の中の見方がかわり、自分のもっていた悩みが多少なりとも解決できた。少なくとも前に向かって生きることができるようになったと思う。世界をどう見るかは語学などの知識、経験すること、そして人との出会いは大きいと思う。  日本はせまい、かわいい子には旅をさせろと言うが、若いうちは外の世界にでていって、いろいろな人と出会い、たくさんのことを経験する。そして、そのためには語学などの知識を持つことが大事である。

ボクシング人生を振り返って
「最初ここにきてパンチがあたらなかったので、悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたら。ジョージが声をかけてきてくれたことではじまった彼と二人三脚で歩んだボクシング、そこそこ強豪のアメリカ人と対戦して勝った時は、単純だが、東洋人も彼ら彼女らと対等にやれると思ったし、メダルも取れた。そういった経験が私の中で自信になっていったことは確かである。けれども自分の実力なんて相対化されればされるほど小さくなっていく。そして一生懸命やればやるほど、自分の限界や現実を受けとめなくてはならない時があるのだ。人間は前に進むためには、時には大切なものを捨てなくてはいけない時もある。でもしかしその捨てたものが正しければ年とともに思い出となり、その人の年輪となる。それは決して今しがみつくものではないが、それが年をとって思い出となって自分の軌跡を振り返った時に、自分の生きてきたことはよかったんだと振り返ることができる。それが年を取ってからの人間の幅や自信になると思う。私は本当に向こうでは本当に小さい存在であったと思う。そしていくら頑張っても認められることはなかった。そういう平凡なちっぽけな存在である。けれども一生懸命挑戦することで自分の軌跡をのこすことができた。そしてそれは私を語る上での本当の年輪になっていると思う。」



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私のモットー

2024-05-24 | Weblog
ジムを平等、平和に運営するための3つの心得として「一定のレベルで知的レベルの高い人間が在籍する。そのため日本語力や語学力を高める。」「私自身が目立たない、黒子に徹する。ボクシングの技術的なことに関して、人の意見ややり方に自分の意見や考え方をかぶせない。会員をリスペクトする」「女性に対して紳士的な対応をする。男女平等の考え方を浸透させる」 ことをモットーにしている。
まず「一定のレベルで知的レベルの高い人間が在籍する。そのため日本語力や語学力を高める。」であるが、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の重要な主張は、言語と世界とが一対一に対応する(one-to-one correspondence)ということだ。名はモノと対応し、命題は出来事と対応する。例えば、「このバラは赤い」は要素命題で、花はモノの名前であり、「このバラは赤い」はこの世界の中で成立する出来事を表している。目の前にある花が赤い色をしている場合、この命題は真である。「バラ」という名前に対応するモノが存在し、「このバラは赤い」に対応する出来事がある。だから言葉は意味を持つ、というのが「論理哲学論考」の考え方である。我々は言語理解の中でルールをもって生きている。したがってその理解の仕方によってその世界の価値観や、ルール、雰囲気も違うというのが私の理解である。
そして「私自身が目立たない、黒子に徹する。ボクシングの技術的なことに関して、人の意見ややり方に自分の意見や考え方をかぶせない。会員をリスペクトする」ボクシングをはじめるような人間は目立ちたがり屋である。ほかのスポーツでは頭角をあらわせないから、みんなが驚くような、かつ競技人口のスポーツをやって目立とうとするような輩も存在するだろう。そういう人間が引退しても、自分は人よりも目立ちたい、勝ちたいと言う気持ちが鎌首をあげるのは当たり前のことである。そうなると人の意見に自分の意見をかぶせていったり、自分はジムでは一番の存在だと躍起になる。引退して退いたのだからそういうことはみっともない。現場では実際に動いている人間の方が上、ジムで教えてくれるトレーナーや集まって来てくれる会員に感謝し、強くなるよりも、ひとりびとりが持っている個性を重視した、ユニークなボクシングを確立させることが重要な課題であり、そういう意味で私はひとりびとりをリスペクトしている。
さらに「女性に対して紳士的な対応をする。男女平等の考え方を浸透させる」
うちのヨーロッパ系の監督はリングを降りたらジェントルマンであれと言っていたが、その根本は一番弱い立場の人間を顧みることだと思っている。格闘技の世界では女性はマイノリティである。そういうマイノリティを大事にするのが全体の平等であると理解している。うちでは上半身裸でトレーニングなんていうのは言語道断、女性がいやがったり、こわがったりすることはしないというのがここでのルールである。

参考文献「はじめての言語ゲーム」 橋爪大三郎  講談社 

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The principle of utility in MOB

2024-05-17 | Weblog
時々いじめのことで相談される。私がちょっと不快だと思うことは、こういう話を聞いたりしたりすると、今は反省してるけど自分はいじめてた側だとか、やられたけどやり返したとか、必要のない見栄をはる男、あたかもやられてない側に立つことが自分は強者の側にいると勘違い、さらに格闘家が事件をおこすと、強い人間はそんなことはしないとか、そういう発言はくだらない男の見栄が存在している。みっともないし、自分もやられる側に立たないと問題は見えてこない、だからそういういらない見栄はすてたほうがいいし、言わない方がいいと思う。
経済学者のJCハーサニーは功利主義の問題点として、自ら選択する社会で自分はどのような地位に陥るかは分からないので、期待効用が最大化すると言っているが、その時自分を他者に置き換えるプロセスが生じ、自分が最悪の状態だったらどうしようと考えることで、期待効用が最大化し、それが必然的に幸福の最大化になるということである。すなわち幸福とかと言う問題はまず自分が最悪の状態を考えて、そしてそこから必要な事柄や権利を主張することで生み出されるということだろう。
MOBには気を使わなくてはいけない人はいないし、親玉中心のヒエラルキーがない、管理者はあくまでわき役に徹する黒子である。競技者だからとか、トレーナーの取り巻きになったり、声がでかくて、強引な人間に徳をさせることはない。あくまで平等、むしろ弱い立場の人間を優先するのがMOBの考え方である。人間は弱い、私自身も差別される側だと言うことに気づき、自分ではどうしようもない不条理を体験したし、そしてHawaiian tounamentのファイナルでまけた時、人間は弱くて、もろい、だから助け合って生きなくてはならないと言う事を実感した。格闘技はまだまだ男社会である。その中で弱い立場の女性やおっさんたちが生き生きとできることがジムにおける効用であり、平等だと理解している。

参考文献 「はじめての政治哲学」 小川仁志

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秩序をもたらすコミュニティとは?

2024-05-04 | Weblog
先日見学の人が来ていたのだが、パンチングバックの近くにすわっていたので、若い会員の人が「自分の汗がとぶのでこっちに移動したしたほうがいいですよ」と気づかってくれた。うちのクラブにはこういう小さな気づかいができる人が多く、この小さな気づかいがジムの雰囲気をよくしていると思う。人間性もそうだが、育ちや受けていた教育が大きくかかわっているのだろうか、私はこういうふるまいをエチケットと言っているが、そこでそうするかしないかは大きな差であり、こういうふるまいができる人が多く在籍しているとそのコミュニティの質は大きくかわる、いわゆる女性や中年が安心して集える場となるのだと思う。
インマニュエル カントは「啓蒙とは何か」の中で「未熟さとは、他人の指導なしでは自分の知性を使うことができないということである。」と言っている。
私はよくそのコミュニティに知的レベルの高い人たちが一定数で存在していればその群れの秩序は正しく保たれると言っているのは、まさに道徳や倫理、自分はどう行動するかと言う基準を持つことは教育的な事柄とは無関係ではないと思っているからである。はっきり言ってうちのクラブには何々しろ的なルールらしきものは存在しない。私の個人的な意見ではそういう何々しろ的な自分で考える必要なないルール(黄金律的なものとは別)は形骸化し、よく言うあいさつしろ(特に先輩や監督には)と言うようなルールは「あいさつしろ、しないやつはダメだ」と制裁や、はぶられる対象になると言うようなゆがんだかたちで機能するので、そのコミュニティを平等に機能させることはできない。一般的に素行のわるい人間の特徴を言って、そういう人間にろくな人間がいないと言うと、みんながみんなそうじゃないと言う人がいるが、MOBにはそういうことを言う人はいない、なぜならみなさんが道徳や倫理的な事柄の基準をしっかり持っているからであり、その基準に従って自分で行動できる人たちも存在するからで、そのことがジムを正しく、健全に機能できる要因となっている。

参考文献「啓蒙とは何か」カント著 篠田 英雄訳 岩波文庫

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本・人・旅

2024-04-24 | Weblog
「人生を面白くする 本物の教養」の中に「私にいくばくか教養のようなものがあるとすれば、それを培ってくれたのは、「本・人・旅」の三つです。私はこれまでの人生で、「本・人・旅」から多くのことを学んできました。あえて割合を示せば、本から50%、人から25%、そして旅から25%ぐらいを学んできたといったところでしょうか。」と書かれている。私の学生時代の話になるが監督はよく「リングをおりたらジェントルマンであれ」と言っていたが、この言葉は何の実績も根拠もないのに文武両道とかしらじらしく言うのではなく、監督自身教養が高くて、所作も身につけているので、すごく説得力があった。よく運動部で礼儀と言うけれども、でかい声であいさつとか敬語もどきの言葉を使って服従することが礼儀ではないだろう。私は正しい日本語を話すことが礼儀正しいことだと理解しているが、敬語もどきをつかって相手に服従の姿勢を示すぐらいは反社でもできることだ。私が解釈するに監督の言う「リングをおりたらジェントルマンであれ」と言うのはコモンセンスとエチケット、教養を積む、そして弱者をいたわることがそうであり、そのため本を読んだり、半グレのような集団ではなく、大人が集まるコミュニティで人と交流すること、そして外の世界に出て行って見聞を広めることは必要なことだと思う。海外に出ていっていろいろな国の人間と交流を持てば、日本がいかに裕福で、自分たちは恵まれた環境で生きているという事がわかるだろう。そして私自身もドネイションをしているが、それは海外で友人がかかわっていること、そして話を聞いて、自分も何か役に立ちたいと思ったからであり、私の人の役に立つ仕事をするという考え方はその体験が大きい。
ジムで英語やほかの言葉が話せて、教養ある人が一定数で存在することは子供にとって大きなアドヴァンテージだと思う。不良がボクシングやったからと一時的に変わるというのではなく、ここに来ていろいろなことを押し付けられることなく雰囲気の中から学んで成長する、家族の人が安心できるようなジムにしたいと思っている。
参考文献 「人生を面白くする本物の教養」出口治明 幻冬舎新書

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Replace the word Love with I

2024-04-08 | Weblog
"Love is patient and kind. Love is not jealous or boastful or proud or rude. It does not demand its own way. It is not irritable, and it keeps no record of being wronged.It does not rejoice about injustice but rejoices whenever the truth wins out.Love never gives up, never loses faith, is always hopeful, and endures through every circumstance.Prophecy and speaking in unknown languages and special knowledge will become useless. But love will last forever!"

友人のジウンが好きだったバイブルの言葉。私にLoveのところを自分の名前に置き換えて読んでみて、そうしたら最後まで読めないという。確かに私は忍耐強く、親切だ。ねたまない、自慢しない、不作法ではない、ここまで読めば「私はそんな人間ではないです」と言いたくなる。彼女曰く人間は完全ではない。だからその慈しみあふれる神の愛が必要である。でも私は思う。不完全だっていいじゃないか。不完全であるからこそ人間はその人の弱さや欠点に気づき、そしてそれを受け入れてカバーしあう。その不完全なもの同士が集まってお互いを支えあうことで人間は成長する。そしてそういうお互いを認め合った人間が集まる共同体が、人を生かすことができるというのが私の考え方である。うちのクラブに来る人たちは運動音痴や自称ヘタレ、そんな人たちがまず言うことは「こんな自分でもできますか」だ。私はその時「目標をもってやればできる」とか「最初はそちらのペースにあわせて徐々に」なんて言うことは言わない。まずその人の弱さを理解して、ここはそういう人たちが集まるところだから安心して堂々とトレーニングしてほしいというようにしている。よく群れを率いるためにリーダーシップを発揮しろと言うが、しかし私は群れを率いるのではなくて、そういう時、好んでassistという言葉を使う。assistと言うのは援助する、助けて(…)させる、助手となって働く、(…の)助けとなるという意味で、その言葉が意味するように、自分たちが引っ張っていくのではなくて、表に出ないで彼ら彼女らを後ろで支えていく、そういう意味でassistという言葉を選んで使ってる。私は思う。完璧じゃないから人は愛せる。完璧な人間を崇拝することはできても愛することはできない。人間は完璧ではない。そのお互いの弱さを知ってともに支えあっていく共同体、そういうことを目指して存続しているクラブがあってもいいではないかというのが私の考え方だ。 


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ラテン語のすすめ

2024-03-25 | Weblog
以前本の紹介で「教養としてのラテン語の授業」 ハン・ドンイルをあげたが、この本が韓国では100刷を超えるロングセラーになり「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっているそうである。 温故知新は韓国語では「온고지신 」意味は日本語とおなじであるが、四字熟語は中国から来ているので日中韓と共通であるが、言葉によって意味がかわる言葉もある。例えば八方美人は日本では誰にでもいい顔をする人のことでネガティブな使い方をするが、しかし韓国では社交的な人のことでポジティブな使い方をする。話は論文の話になるがだいぶ前友人のDrに文系の論文の評価はどこにあるかと聞かれたことがある。その時文系は比較が重要だからなるべく多くの文献を読んで比較すること、その上で参考文献の量だと言ったことがあるが、私は文系は比較が大事であり、さらにその研究によっては原書で読むことは必要な作業だと理解しているが、ラテン語はそういう意味では王道であり、当時世界の共通語的なラテン語を理解することで多くのことが得れると思う。
「Carpe diem」と言う好きなラテン語の言葉がある。これは私の監督が言っていたことでホラティウスの詩の一文、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。 私は時々クラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言う。失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。 自分がそこで一生懸命、力を出せたか、そしてそのための準備をしたかということ、本当に満足できる競技人生はその積み重ねの結果ではないかと思う。勝ち負けだけにこだわっていたら成長などするはずはない。ドイツの詩人ヘルマンヘッセはこういう言葉を残している
「鳥は卵から出ようともがく。卵は世界だ。生まれようとする者はひとつの世界を壊さなければならない。」
ドイツ語 "Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muss eine Welt zerstören."
英語 "The bird fights its way out of the egg. The egg is the world. Whoever will be born must destroy a world."
失敗や挫折とも思えることも実は後になって考えてみたらその自分の小さな世界をこわすひとつのきっかけである。失敗は成功とはいえないが、しかしそれらのことは人間特に若い人たちを成長させるこやしだ、語学を学ぶことは温故知新を知るだけではなくいろいろな角度から世界、そして自分を見ることができる。実際私はそのことが年を取った今わかりつつあある。


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