脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

戦う奇跡のヒーロー

2023-11-29 | Weblog
私が好きなウルトラヒーローの主題歌がある。リンクで張り付けておくが「ウルトラの奇跡」と言うタイトルで詩がすごくいい。ウルトラマンはもう昔からわれわれのヒーローであり続けているが、私はウルトラシリーズは教育的要素があって子供に推奨できる番組だと思っている。もうすぐクリスマスであるが、毎年クリスマスが近づくと学生の時、「クリスマスはプレゼントをもらう日ではなくプレゼントを与える日だ。この日は子供たちはプレゼントをもらう日だが、でももらう子供たちよりもそれを与える大人たちの心が満たされる、この日はもらう喜びよりも与える喜びを知る日、ここにクリスマスの貴重なメッセージがある。」と韓国人の女性が言っていたことを思い出す。一方的に地球を愛し、人間のために自分を犠牲にして悪と戦う姿は、フロムで言うところの惜しみなく与える愛アガペーである。歌詞に「弱いものをいたわれるように与えるやさしさをみせてくれる」とあるが、ウルトラマンシリーズは与えることの大切さを我々に教えていると言っても過言ではない。一方的に人に与えることはむずかしいことだ、けれどもそれがアガペーで本当に満たされるために必要なことだと理解すれば、少しでもそこに近づいていくことは可能であり、ウルトラマンシリーズはまさにそのことを教えてくれるわれわれの教科書のようなものだ。私はウルトラシリーズから3つのことを学び心がけている。それは「高尚であること」「与えるやさしさをもつこと」「弱者をいじめたり、見下したりしない」である。

MAD  ~ウルトラの奇跡~ ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟

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自分の足りなさを知る

2023-11-20 | Weblog
私が思うこの人はバカだなと思う人間は、自分はえらい自分は、かしこいと思っている人間だ。そういう人たちは往々にして、自分の存在感をあらわそうととめどなくしゃべる、俺は強い、俺はかしこい、自分はどれだけ君たちとは違うということを必死で伝えようと、マウントをとったり、知っているということを押しつけてくるのだが、見ていて滑稽、みっともない。自分もそうならないためにも自分の足りなさを知ることは大事なことだ。足りなさを知れば人から話を聞いて学ぼうとする。好奇心があって自分は足りないと感じたら自ずと人の話を聞くものだ。何年か前ジムでボランティアで受験生を教えていた。結構評判がよくて希望者が多くなったのでやめたが、教えてていて受かる子とそうでない子の正確が現れてくるが、受かる子は文法の意味を理解してもそれだけでは不安なのでさらに問題集をつかって理解しようとする。一方そうでない子は文法がわかればそこですべてがわかったと理解しようとする。ソクラテスは無知の知を説いたが、知らないと言うことは危機感だけではなく好奇心を生み出す、その何かを吸収する力はすごいと思う。よくほめてのばすということを言うが、しかし私はその前に自分はこのままではいかんとほかの大人たちを見て危機感を持つことは大事なことであると思っている。私の教えるスタンスはまずわからんということを理解させることからはじめている。わからないからこのままではいかんと危機感をもっことで、そこから本当の学習がはじまると思っているからだ。

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スポーツにおける脱魔術化

2023-11-10 | Weblog
私はアニメコナンが好きである。何年か前までは新作が上映されれば見に行っていた。コナンは教育上いいアニメだと思っている、それは彼がどんな時もいかなる状況でも考えることをことをあきらめない、その知恵や勇気をふりしぼった時には必ず解決策は見えてくるということを教えているからである。よく人はあきらめるなと言うが私に言わせてみればあきらめるなと言うことは考えることをやめるなと言うことである。しかし考えろと言っても考えるための材料がなければ考えることなんかできない。コナンは少年であるが英語を話し、学術的なこともたくさん知っている。そういう素地があるから考え続けることができるのだが、運動に例えると体力がない人間にひたすら走れと言っても走り続けることができないように、考えろと言っても考える素地がなければ同じことで、いろいろなことを学んで知識を蓄えなければ正しい答えを導き出すような思考なんてとうてい無理な話だ。私はスポーツしかできない人間を評価できない。スポーツを否定する気はさらさらないが、しかしそれしかできない人間は話していてもおもしろくない、価値観が狭く自分にしか興味がなく、最終的には自分の自慢話しかできない、そういう人間が多いからだ。こういう人間が組織を動かしたり、指導と言う立場に立つと一面的な考え方しかできないので問題がおこってくる。これからのスポーツは多面的に物事を考え理解するために、学習面を重要視すべきであると思っている。
マックス・ウェーバーは、近代とは社会の合理化過程のことであるとした。近代とは教会や聖礼典による救済あるいは迷信や神霊としての呪術からの解放であった。彼のいう合理化とは、気まぐれ、恣意性、情緒、呪術、 神霊、伝統、特殊な人間関係などによる判断と これにもとづく仕組みを排して、正確で抽象的な概念によって現実を理論的に捉え、ものごとを一般化し体系化することを意味する。」すなわち近代化や合理化は過去の宗教的な迷信や儀式に頼らない、脱魔術化をはかることだということだろう。スポーツの世界においても古い考え方しかできない人間は伝統とかしきたり、そして形式的な礼儀にこだわりそれが正しいことだと信じて疑わない。そのスポーツに没頭しろぐらいの勢いでしょうむない感動話をふきこんだり、何とか道的な陳腐な哲学まがいのことを語るのも当時の祈祷師や魔術師と同じ、こういう人間たちが子飼いをつくって独自のシステムをつくり、そこだけしか通用しない世界をつくることはスポーツ全体にとって害だと思う。最近レスリングで幼児に暴力をふるったという普通では考えられない事件があったが、まさにこういう事例はそういう世界だからおこったことで、おそらくこういうことはまだまだおこりうるだろう。話は少し複雑になるがこういう関係がみとめられ、一方的な話が堂々と語られる家父長制と言うシステムからも脱却することも必要なことで、そのためには英語を理解し、哲学や、心理学社会学などの学問的考察をもってスポーツそのものを理解することも大事なことだと思う。

参考文献
「コミュニティを問い直す 、 個人化のもとで 共同体はいかにして可能か」学術の動向 (ジャーナル)

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言葉を理解することでその人の考え方が理解できる。

2023-11-09 | Weblog
一橋大学の英語の入試問題にこういう問題があった。
「Most men will be survived by their wives」一見何を言っているのかわからない英文だ。たぶん直訳したら、ほとんどの男性は彼らの妻たちによって長生きさせられるだろうということになる。これではなんとなくおかしい、高校生だったら三角ぐらいあげてもいいが、たぶん名門大学なのでこういう訳では正解にはならない。実はこの文がわかりにくいのは受動態で書かれているからだ。
受動態と言うのは主語をぼかしたり、endfucusと言ってby何々の言葉を強調したい時に用いる表現だ。この文は受動態によって書かれているのでややこしくなっているが、しかしそれを能動態で書けばより理解できる。でこの文を能動態で書くと「Wives will survive their husband.」こう書けば、この文のは女は男よりも長生きするということを言っているということが理解できるのだが、こういう受動態で書かれたわかりにくい文は、それを能動態にしてから訳すと明確になる。我々の時代、英語学習に必要なことを学校の教師に聞くと、単語をまず覚えろと言う。しかしいくら単語を覚えても使い方が分からなくては、言葉にならない、確かに単語を覚えることも重要だが、しかしそれよりも重要なのは英語の構造を理解する(英語頭に切り替える)ということで、そのためには文法を理解することが大事だと思う。

前にブログでなぜ西洋人は、遅刻してもまずいいわけをするのかということを書いたことがある。理由はこの言葉の使い方と言うか、性質にあるということを書いたと思うのだが、たとえば日本人が会社で遅刻したらまずすみませんとあやまるのが普通のことで、それは常識であるが、西洋人はあやまるまえに言い訳をする(文化圏によっても違うし、多少の偏見もあるが)。
日本人から見たら遅刻しておいていいわけするなんてと思うかもしれないが、
しかしそれは西洋人はすべてのことにおいてまず「Reson」「 Why」を求めるからであって、時々彼ら彼女らが言う、雨が自分をそこに行けなくしたというような、日本語で考えればいささか無理とも聞こえる英文も、彼らがまず物事にたいして理由を求める性質があるからで、それは英文法を理解し彼ら彼女らの文化をわかることで理解できることである。言葉は単なる通信手段ではない、言葉の背景には文化や思想があり、言葉を学習するのは相手の考え方を知り、自分の考え方をひろげるには大きなアドヴァンテージになる。
私自身も英語を理解することで、日本語の能力が上がった、どう上がったかと言うと、日本語は説明するのに長々とはなすのだが、英語ではそれを短くして伝えなければつたわらないことがある、翻訳にしても日本語から英語になるのと、英語から日本語になるのではページの量がかなり違ってくるのだが、英語を話すということは物事を簡潔に伝える能力が必要で、そういう意味でかなり物事を簡潔にわかりやすく伝える能力がついたことは確かである。



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自分の年輪をきざめ

2023-11-01 | Weblog
うちのジムはおっさんが多い。30代は若手、20代は超若手である。みなさんそれぞれ在籍年数も長く5年以上続けてくれている人の割合が高く、そういう世代や年齢の壁をこえてトレーニングしているが、みなさんすごく楽しそうである。私はかつて競技者であったわけだが、引退してジムをオープンして思ったことは、スポーツは続けなくては意味がないということだ。健康維持でもダイエットでも楽しんでスポーツを続けることがスポーツ本来の目的であり、そういう意味ではMOBのみなさんは楽しんでボクシングを続けてくれていると思う。
ユクスキュル は著書「生物から見た世界」の中で「すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、主体的に構築する独自の世界である。」と言っている。これをユクスキュルは環世界(Umwelt )と言っているが、われわれはその自分たちがつくった主観的な世界に生きているということである。視力が弱く嗅覚がすぐれている犬と人間ではその見ている世界が違うし、視点がちがう。そのように我々は独自の視点をもって世界を解釈していいのだ。そしてそれはボクシングも同じことが言える。試合に出なければボクシングではないとか、俺たちはそんなすごいことをやっているんだぞとさもいいたげにボクシングは危険なスポーツだとか、それぞれ解釈するのは勝手であるが、しかしそういうわくに押し込めてボクシングを理解するのは愚かだと思う。試合に出なくてもリングでシャドウをして、ミットをうてばそれはそれで立派なボクシングのトレーニングだし、ボクシングは危険なスポーツだという見方も一面的で、実戦をノンコンタクトマスボクシングを中心にすれば安全にボクシングを競技することができるが、多様性を認めず、これがボクシングだという自分たちの価値観を押し付けて、ボクシングはこうだというのは無理がある。うちのクラブでは試合にでていてもみなさん健康維持と言う。それはみなさんが多様性を認めているからであり、関係がフラットだからだ。MOBでは試合に出るからと言って優遇されることはない、みなさん同じ会員であり、むしろマイノリティを大事にするという意味で平等性のあるクラブであると思っている。
ジムは公共の場である。だから試合に出るとかそういう人間たちが何をするにも優先されることは、そのクラブが多様性を認めていないからであり、そういうクラブは往々にして英語に疎い集団だと思っている。私自身競技者としてボクシングを競技していたわけだが、振り返ってそのボクシング人生はドラマのようであったと思う。ピーターに誘われ、ジョージに声をかけられて本格的にはじめたボクシング、悔しい思いもたくさんしたし、初めて大会で優勝した時は本当にうれしかったが、私はいろいろな意味でボクシングを楽しんでいたと思う。よくばりばり競技して引退した人が「競技人生に悔いはない」と言うが、しかし申し訳ないが私はこの言葉に多少の負け惜しみ感を感じてしまう。私自身たいした実績ではないが、振り返ってすごく楽しかったし、それはまるでドラマのような世界であったと思う。私は今そんな小さな実績ではなくそういう思い出とともに生きている。そういう思い出が年をとっても楽しい気分にさせてくれるし、それが私の年輪である。スポーツは修行ではなく楽しむものだ、ジムでは年齢に関係なく楽しくボクシングをして思い出づくりをしてほしいと思う。

参考文献
「生物から見た世界」ユクスキュル 岩波文庫

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弱者を集めるボクシングクラブ

2023-10-20 | Weblog
うちのクラブは会衆制の立場をとっている。会衆制とはジムではボクシングをする上で上下関係や優劣はなく、みんなが同じ立場でトレーニングをしているコミュニティである。スポーツはいろいろな視点で見ることが大事なことだと思う。確かにトレーナーに教えてもらうことは大事なことだが、しかし会員の人たちがその人の仕事や生き方を通して理解し、コツを習得する視点も非常に大事なことだと思う。ジムには職人やドクター、プロフェッサーなどの専門職の人たちが在籍しているが。独自の視点を通して理解するボクシングもまた興味深く、上達するためには不可欠であったり、そういう様々な人たちのかかわりを通して上手になっていくのもMOBのコミュニティの在り方だ。
これは私の持論であるが、考える=弱者であることである。ボクシングは本能が優先し才能がものをいうスポーツだ。例えればサルはチンパンジーには勝てないし、チンパンジーはゴリラに勝てない、やはり戦うスポーツはそういうもって生まれたものが有利になる。しかし人間は考える葦であり。自分の弱さを知っている。私は人間だけがその弱さを知り克服していく動物だと思っているが、その弱いと自覚しているがゆえにそれを克服しようと自らの知恵を絞って立ち向かっていくことにスポーツをする意味があると思っている。うちのクラブはユニークなボクシングクラブである。最大のアドヴァンテージはそういう人たちを通して刺激をうけ、たくさんのことを学ぶことができる。そしてボクシングも然りで、MOBは専門書がないボクシングの教科書的なことだけを学ぶのではなく、まわりのいろいろな意見を聞いてアドジャストしていくボクシングのコミュニティである。


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Believe it or not, I used to be an athlete

2023-10-16 | Weblog
私も競技者であった。ゆえに競技者の矜持をよく理解しているつもりである。私が時々えっと思うのは試合後あいさつにいくことだ、特に勝った人間が試合に負けた人間のところにあいさつに行くのだが、あの心境はまったくわからない。おそらく私の競技したところで、ずけずけと近寄ってきて「ありがとうございました」なんて言ったら「なんだてめえは」と場合によってはぶちのめされてしまうことさえありうる。方針によっては監督がそうさせる場合もあるが、しかし私はまけた人間のくやしさがわかる、じぶんがそうされたらいやだし、みじめである。だからそういう時は武士の情けでそっとしてやるのがエチケットだと思っている。試合に出る競技者は試合にむけて一生懸命トレーニングしているし、不安と戦っている。試合でけがをする覚悟もあるだろうし、それなりの覚悟で試合に臨むのが競技者であると思っている。しかし日本の場合は極端で、そこまでしなければボクシングではないというような感じがあって、そういう小さくかたまる考えかたが狭い世界をつくり、試合後勝った人間が堂々とあいさつにいくような、自分たちだけで理解し納得できるような考え方ができるのだと思う。
私はスポーツごときに命をかけるというようなことを平気で言ったり、そういう雰囲気をにおわすような人間とはどうも合わない。
一生懸命やっているのかどうかわからないが、こういうことだけを命がけでやっているという人間に限って、我々のような趣味程度にやっている人間を軽く見て、偉そうにしている。しかし命をかければ何をやってもいいのか?特にそういうことを言っている人間に言いたいが「テロリストだって命をかけている。だからと言ってテロは正しい事なのか?」そういう言われると何も言えないと思うのだが、命をかけるとか勉強や社会を無視してそれだけに集中しろと言うようなことをいったり、選手をそういう環境に置く人間は、本当に大事なことがわかっていない、わかっていないからこういうバカなことが言えるのだと思う。スポーツは一部の人間のためだけにあるものではない。基本的に楽しむためにあるものだ。アメリカに留学してスポーツチームなどに入って競技したものはわかると思うが、アメリカではスポーツを楽しむものとしてやっている。だからスポーツの大会なども楽しそうである。観客もアスリートも含めて全員がスポーツを楽しんでいる。しかし日本のクラブなどが集まる大会などには、この楽しむと言う気持ちがない。最近は少しはましになってきたと言う人間もいるが、しかし根本的にスポーツは楽しむものだと言う基本的な考え方が我々のスポコン世代の人間たちには理解できないと思う。

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哲学者の言葉

2023-10-05 | Weblog
「人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企することを意識するものである。」
これは実存主義者、ジャンポールサルトルの言葉『実存主義とは何か』からの抜粋。ここで投企と訳されているもともとの原文はフランス語でprojet(計画)と言う言葉で、哲学用語では可能性を求めて自らを投げ出すと言う意味で使われている。以前韓国人の後輩に、私が人間だけが自分の命は永遠ではない、時間には終わりがあることを知っていると言ったら「お兄さんは犬の気持ちがわかるのか、犬になったことがあるのか」と言われたが、人間は、時間におわりがある、永遠に生きることはできないことを知っているから未来を大事にするのではないかと思う。カエサルはルビコン川を渡る時「Area jact est(賽は投げられた)と言った。しかしこれは一か八かの言葉ではなくて、自分たちの向こうには神々の世界が待っていると言う希望に満ちた言葉であったわけだが、彼らは前を見て自分たちの未来を信じて戦ったから勝利できたのだと思っている。少し強引な言い方だが、私は後ろを振り返らない、前を見て生きる方が人生をよりよくできると思っている。投企は未来を信じてダイスのように転がると言うことだ、時には双六のように一休みしたり、思っていたこととは違う試練にでくわすこともあるが、しかし私の場合は常に選択は常に前、未来だ。マルティンルターは「私は明日世界がほろびようともリンゴの木をうえる」と言っているが、自分に与えられた時間は永遠ではない。けれども未来に希望をいだき後ろを振り返らずに、未来に目を向けて生きることが大事なのだと思う。

"Morality is a matter of attention not of will"(モラルとは意志の問題ではなくて気配りの問題だ)
これはベーユの言葉である。ベーユは感受性豊かで、今でいえばHSPではないかと思っている。ゆえに洞察力がするどく、グサッと来る言葉も多いが、この言葉もまさにそうだ。例えば女性が多いクラブでは裸でトレーニングしない、でかい威圧的な声を出さない、対人関係になれていない子供がいたらあいさつを強要しない、こちらから小さい声でにっこり笑ってかけてあげるというようなことだろう。運動クラブはどちらかというとまとめることがいいことだと思っているので、あいさつひとつにしてもでかい声でしろとか強制しがちであるが、しかし多少コミニケーションに障害を持つ人間はそういう掟には入っていけない。スポーツクラブは公共の場で運動クラブではない。だからいろいろなタイプの人間がいることを理解しなくてはならないのだ。うちのクラブには様々な年齢の人や外国人が在籍している、そういう多様性の中でどうしたらみなさんが平和でかつ公平にトレーニングできるかと言うことを考えることは大事なことであり、多様性を考えて何が正しく、配慮すべきことなのかということを考えることは大事なことだ。

産国文献「実存主義とは何か」J.P サルトル 人文書院

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アドラー心理学と正義論

2023-10-01 | Weblog
アドラー心理学における共同体感覚は「自分はあくまで大きな共同体のなかにいる一人だ」ということを理解すること。ベストセラーにもなった「嫌われる勇気」は、まず共同体感覚を理解するために「世界を地図ではなく地球儀だと考えてください」という話をしている。たとえば日本が中心の世界地図だと、アメリカやヨーロッパは端に位置する。そんなふうに地図には端っこの概念が生まれてしまう。これは自己中心的な考え方であるということだ。MOBの基本概念は平等である。健康維持やダイエットそして競技目的であっても同じ目線で平等にトレーニングできる場を目指しているが。そのことを実現させるためにはひとりびとりがこの共同体につながっているという認識が必要であり、自己中心的な考え方をすててお互いが協力できる関係を築くことが大事だと思っている。
私が影響を受けた政治哲学の本でロールズの「A Theory of Justice(正義論)」と言う本がある。かなり有名な本なので知っている人も多いかと思うが、サンデルはこの本をたたき台にして自分の政治哲学を確立させたと言っても過言ではないが、アメリカの政治哲学にかなり影響を与えた本である。その考え方の一つの特徴として「無知のベール」と言う言葉が出てくる。特に第一原理について特筆すると、人間は何もない状態ならば、自分が必ずしも恵まれた状態であるとは考えない、むしろそうではないと考えるのではないかということから、格差の被害者になった場合を考えて社会秩序を選ぶと言うこと、さらに私流に解釈して、弱者の立場に立って自分の利益ばかり考えないで、まず相手の利益を考えて、そこから自分たちにとって何が一番得なのかと言うことを考えていきましょう。そして弱者と言う言葉をマイノリティと言う言葉にかえて、誰が格闘技では一番マイノリティかと言うことを考えると、格闘技ではダイエット目的で来る女性やおっさんたち、そういう人たちを大事にすることで平等性が見えてくると言う立場に立つのがMOBの哲学である。
そして最初の共同体感覚にもどるが、MOBの哲学は会員の人たちの協力のもと成り立っている。ここではみなさん自己中心的な考え方をすてて、私ではなく私たちと考えて行動してくれていることに感謝しているが、そのみなさんひとりびとりの考え方や行動がジムを来やすい場そして平等にトレーニングできる場として実現させているのだと思う。

参考文献 
「嫌われる勇気」岸見一郎 ダイヤモンド社
Reference
John Bordley Rawls "A Theory of Justice"


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Dear George

2023-09-27 | Weblog
”Friends come in and out of your life like busboys in a restaurant“ 

ジョージ私のトレーナー、正式名はジョージタナベ、日系人だ。ジョージとの出会いはカラカウアジム、ヒスパニックの人間とスパーをした時全然相手にならなくて、悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら声をかけてきてくれたのがジョージであった。ジョージは謎多き人物だ。まわりの聞く話によると彼はボクサー時代は才能があってオリンピック候補にもあがるほどのボクサーであったらしい。でも素行が悪いのか何か事件をおこしたのかはわからないがはずされたと言っていた。その後はギャンブラーとなってハチャメチャな生き方をしてきたジョージ、私と同じぐらいの年の娘がいると言っていたが、しかしその娘とは合わせてもらえないそうである。私はなぜかジョージとはウマが合った。彼が私を気に入ったのは私がやんちゃ坊主だからと言っていたが、ジョージ曰く「ボクシングはホクのような人間はだめだ。お前のように少々やんちゃ坊主でないと強くなれない」そうである。韓国ではやんちゃ坊主をケグジェンイと言うが、これは実際にジウンによく言われた言葉である。しかしやんちゃと言っても威嚇するためにド派手なファッションに身をつつんだり、髪を染めたり、けんかをしたりしていきがるようなやんちゃさではなく(DQNのやんちゃは犯罪)、私の場合は自己主張がすぎるということだ。言わなくていいことを言ったり主張する。まわりを少しは見ろよと思うのだが、ベトナムの帰還兵をおこらせたり、元チャンピオンをブチ切れさせたり、挙句のはてにはクラブの連中の前でまけたらお前らの視界から消えてやると、本当に今考えたら病気だったと認める。でもこんな人間だったから彼とはウマが合ったのだと思うのだが、そのおかげて私はジョージのボクシングを理解できて才能はまったくなかったが、それでも十分すぎるぐらいの実力は発揮できたと、今考えたらそう思える。私のボクシング人生はすごく楽しかった。失敗もしたし、くやしい思いもいっぱいした、そして最後にはまけてしまったが、しかしジョージと歩んだその競技人生は自分にとってドラマのようであったし、充実していたと思う。当時のハワイのトレーナーは競技者のことをボーイと呼んでいた。ボーイと言うのは私の息子と言うことだ。でもボーイと言っても日本の監督のように競技者をひょっこあつかいするのではなく、リスペクトをこめて対等にあつかってくれるそういう関係である。競技は思い切りしかったり、しらじらしくほめれば上達するが、人間の心や人格というのはリスペクトされなくては育たないし、競技そのものが本当の意味で充実したものにならないだろう。その競技をやってよかったと思うのはそこにお互いをリスペクトする気持ちがあるからだ。おそらく私が人として成長できたのはこのリスペクトがあったからだ、だから私は彼が私にそうしてきたようにここに来ている人たちを子供から大人まで心からリスペクトしたいと思っているが、それが私の方針ジョージから教えられたことだ。私もジョージもまっすぐには走れない、人とは違った方向に走るハチャメチャな人間、いわゆる病気である。私たちはまっすぐ走れないやつらのコンビだったと思う。そのジョージは今はいない。おそらく私の存在と言うのはおそろしく強烈だったので、その時までわすれることはなかったと思うが、それは私も同じである。


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黒子に徹する

2023-09-22 | Weblog
私が徹底していることは「指導者が黒子に徹する」ことである。
自分の経験上ボクシングやっていた人間は、もともとナルシストな人間が多いので、目立とうとする。例えば自分の実績をそれとなく強調したり、教える時に偉そうな持論を語ったり、そんなんじゃ通用しないと偉そうに言うのも、俺はこんなもんじゃなかったんだという主張の裏返しである。しかし正直な話ジムに来て誰もそんなたわごとや自慢話を聞きたいとは思わない。会員の人たちが求めているのはその日の一日の成果である。その日一日が楽しく練習でき、ある程度結果をのこせてストレスを発散できれば、それで満足なのである。ここには多くの会員がいるがここが運営で来ているのは、みなさんのおかげである。その会員ひとりびとりに感謝し、なるべく自分たちは目立たず会員に仕えることが自分の役割であると思っている。




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나의 DNA는 한반도에서 왔어. My DNA came from Korean peninsula.

2023-09-19 | Weblog
「紙ウサギ ロぺ」という映画が始まる前のちょっとした時間に放映される動画があるのだが、最近それがおもしろくて見ている。
ロぺと言うのは主人公でウサギである。そのウサギが先輩のリスと今時の若者の間抜けな会話を淡々とするのだが、その間というか受け答えが面白いのではまっている。この物語は何が面白いのかと言うと、おしゃべりで間抜けなリスととぼけたウサギの持つ独特の間で、そういう独特の間をこのリスとウサギがうまく醸し出しているところである。日本人はこういうのんびりした間を楽しむ民族である。おそらくこういうのんびりした間というものを理解できる民族は少ないと思うが、これは日本人が平和だと言うことを意味しているのではないかと思う。
学生の時アメリカ系韓国人の先生が授業で「韓国は和の国で、日本は武の国だ」と言ったことことを聞いた。「部」の国だったらわかるけど、日本人は平和だ、違うと言い返してやろうとしたが、どうせ戦争のことを持ち出して侵略したとしか言わないのでバカらしくなって言わなかったが偏見も甚だしい。
私はいろいろな民族を見ているが、日本人はおとなしい民族である。争いごとを好まず、言いたいことを言わない、すぐに固まると言うわるいところもあるが、しかし島国独特の考え方や気質を持っていて、平和的でいわゆる大陸や半島の人間とはかなり違うと思う。
これは私のはずかしい話だ。笑い話として聞いてほしいが小学校の時上級生とけんかになった。けんかといっても鉄棒の取り合いであるが、最初は私が遊んでいたのだが、いじのわるい上級生がのけといって、後ろからはがいじめにして、どけようとしたところを私は後ろ頭突きをした。足でけって思い切り伸び上げたのでかなりいたかったろうと思う。彼はその場にうずくまって、その時は戦意喪失して教室に帰って行ったのだが、私はその時上級生をやっつけたので得意げになっていた。しかし次の日、私は階段の踊り場で襲撃されて、どえらい目にあわされた。笑い話だが頭突きを警戒して、はなれてけり技でひどい目にあわされた。小学生の子供がこういう戦略を練っていること自体笑えるが、そしてうずくまった時にネリョチャギ(かかとおとし)のようなものをくらわされたが、たぶん私が日本人ではじめてネリョチャギをくらった人間だと思う。島国の人間と半島の人間は似て非なるのものだ。両方を見ているが、私はどちらかと言うと半島の血をひく部分が強い。日本人は言いたいことをいわない。感情をあらわにしない、これはかなり異質である。
私は今ではコントロールして日本人以上におとなしくなったが、それでも昔は自分の性格やまわりと比較して、あまりにも違うので、自分は病気じゃねえのかと思えたぐらい特別で、島国だけしか知らない人間と言うのは独特の文化や性質を持っていると思う。最近ようやく日本人も主張するようになったが、しかしまだまだ国際社会ではもっと言わなくてはならないことがいっぱいあると思うが、しかし未だに遠慮して主張しなかったり、そういう問題に関心のない人間も多いことも事実である。
これは個人的な意見であるが、日本人にかけているのは民族教育だ、アジアでは韓国や中国を除いては、日本人は優秀な民族だとレスペクトしているし、マレーシアの大統領のルックイースト政策は日本をそのまま表したものであるが、もっと民族に誇りが持てるような教育を導入していくことも必要だと思っているが、意外とこれが肝心なことかもしれない。


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What is the equality of our community?

2023-09-11 | Weblog
少し前の世代は父または母が外国人だと言うと、少し気まずいような感じで、そしてよく言うのが「顔がいっしょだからいいじゃない」である。しかし今の世代の人は「かっこいいじゃないですか。英語も話せたらトリリンガルですよ」と言うのだが、今の世代は我々の世代に比べて、グローバル社会になり、多様性を認める時代になったものである。
基本的に私は差別や不公平をゆるせない人間である。私も実際カウンター差別を試みて抵抗した人間であるが、差別や不公平は構造の問題であり、マジョリティが幅を利かすとマジョリティが有利になる構造社会ができる。そこから排除されるものとそうでないものがでてくるのだと思っている。差別や不公平をなくすためには誰かが有利になったり、特別であるという存在をつくらない。わかりやすく言うとジムが公共の場であるというのならば、コミュニティに集まっているのは同じ会員、そこで競技者が優先であったり、取り巻きができるのはそういう人間に特権を与えているのと同じことだと考えたらいい、ジムに来る人達は年齢や性別、そして目的がそれぞれ違うのだから、ひとりびとりを大切にとかそういうきれいごとではなく、コミュニティの性質上、ジムでは優越性を認めないようにするのが差別や不平等をなくすことだと考えている。そしてそういうコミュニティを目指すためにはそこにどういう人たちが集まっているかと言うことは大事なイッシューである。差別や不平等に関しても「自分はやっていない、自分は平等に接している」レベルではなく(よくあるのがジムで優越性をもった競技者や取り巻きが自分たちは自由にやっている。ジムは問題なく平等だとのたまうこと)構造的にイッシューをとらえ考えることができる。だからある程度教育レベルも必要だし、インテリジェンスの高い人が一定数在籍するとそのコミュニティは安定するというのが私の考え方である。うちのクラブではマイノリティを大事にすることが全体の平等だと考えているが、自分たちの満足や充実だけを考えることしかできない余裕のない人間はそれができない。それは道徳や知的レベルが多少なりとも関連していると思っている。

参考文献「ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? 」ロビン・ディアンジェロ 

不公平や差別を理解するためにはJennifer L. Eberhardtの"Biased"もおすすめ。「私たちは見て判断するのではない。判断して見ているのだ。」と言う彼女の言葉はストロングインパクトを持つ。

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λόγια

2023-09-04 | Weblog
夏休みに大阪に遊びに言っていたが、外国人が多かった。観光客から店の定員もはや日本人よりも多いのではないかと錯覚をおこすぐらい大阪の繁華街は外国人でにぎわっていた。私はよく外国人に道を聞かれたり、電車の乗り方を聞かれたりするのだが、今回もやはり何度か聞かれる。たぶん私は他の人よりも外国人に話しかけられる率が高いと思っているが、それには理由がある。日本人は外国人が何か話しかけようとしても(例えば道を聞きたい時とか)言葉がわからないので目をそらす。しかし私は話しかけようと向こうがアクションをおこしても目をそらさず堂々としているので、話しかけやすいのだと思う。よくボクシングや格闘技をやったら自信がつくと言うが、しかしそんなことよりも言葉をおぼえて言葉のアドバンテージをとったほうが自信がつくというのが私の考え方である。外国人の例もそうであるが、自分は言葉を理解できるという自負と自身が堂々とした態度につながっているし、その自信が人を受け入れ、コミュニケーションを円滑にできるものである。コミュニケーションは言葉によってなされる。当たり前だが言葉が流ちょうだと交渉や話し合いなどが有利になるし、正しい日本語を流ちょうに話すことで人から得る信用度も違うであろう。それなりに商社で働いているサラリーマンが見学に来て、語彙力がない、言葉の使い方が稚拙である人間に信頼などもてるであろうか。私は言葉をみがくために国語辞書をこまめに引いたという話はよくするが、国語辞書は難しい言葉を簡潔に表現し、説明しているので引いているうちに意味を理解するだけではなく、説明能力が身についてくる。いわゆる言葉を支配することで表現力を豊かにする。人と話す時、言葉の意味を理解して、表現力を養えば自分の言っていることは言葉に裏付けされている、正しいと信じることができるんだということが自信になるのではないかと思う。スポーツして体を鍛えることは大事なことだし、体力をつけることは必要である。しかしそういうことが一般の社会で多少アドバンテージになることはあっても自信にはつながらない、やはり言葉をおぼえて表現力を養うほうがベターではないだろうか。



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MOBは女性とおっさんがおおいジム

2023-09-01 | Weblog
MOBは女性とおっさん率が高いボクシングクラブである。そして夜になるとどこからともなくおっさんたちが集まってトレーニングをはじめるがおっさんと言っても大体が40以上普通だったらもうとっくに引退している年であるが、そういう世代の人たちがジムに来てミットをうったり、マスをしたりして楽しそうにトレーニングしている。しかし中年と言っても中には、大学生や20代の人と互角に、というか相手によってはそれ以上のレヴェルの人もいることには驚かされている。そういう人を見るたびに「最近のおっさんは強いなあ」と思ってしまう。そしてマスのあとおっさん同士の会話が始まる。
「○○さんはどれぐらいやっているんですか?」
「だいたい1年ぐらいです」
「えっ1年ですか、1年ぐらいやったら私もうまくなれますかねえ」
「大丈夫ですよ、○○さんの攻撃何発かいいのがあたってましたよ」と結構健気にお互いをほめあっている。
自分も中年であるが、中年と言うのは一番ストレスを抱える世代である。ここ10年ぐらい中高年の自殺と言うことが問題になっているが、そのあたりの年代は精神的にも弱くなってくる年代である。
フランスの哲学者であるアランは悩みがある人間は、体育教師のところへ言って運動しろと言っているが、精神的な問題はある程度運動することで解消されると言っているのである。運動することは体にいいことだけではなく、ストレスなどを解消することができ、精神的にもプラスになることは誰もが体験を通して知っていることである。自分がこのクラブを開設した目的のひとつは、中年といわれる世代の人たちを仕事の疲れや、その他もろもろのストレスから開放したいからである。運動することは非常に大切なことである。自分は女性や中年そしてこの社会でまじめに生きている人たちをはげましたい、勇気づけたいと思っている。うちのクラブは力による関係ではなく、むしろ弱いものをいたわるボクシングクラブであることをモットーにしているが、ここに来たら何もかも忘れて楽しくボクシングができるような環境を常に提供したいと思っている。

参考文献 「幸福論」アラン 白水社

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