Harassment理解は英語理解だ

2018-11-19 | Weblog

最近はじめたフランス語勉強の仕方はわかるのだが、時間を管理する意味でも知り合いに少し報酬をあげて教えてもらうことにした。私が語学を勉強するのは頭の中のイマジネーション能力を広げることといろいろな角度で物事を見るためである。

この前雑誌を読んでいたら元スポーツ選手の記事で「監督の厳しい指導をすべてパワハラと言う言葉でかたづけるな」見たいなことが書かれてあった。とどのつまりしごきがあるから潜在的な能力がひきだされる。パワハラに見えることは愛のムチだといったような内容だったと思う。しかし書いている人の年齢からしてパワハラに関してどうこう言うのはナンセンスだ。多少の犠牲を払ってもスポーツが上達したら文句はないだろうと言うような考え方自体が人権無視してるし、問題にしている論点がせますぎる、それはいささか功利主義的でもあると思うが、考え方がせまいと物事を多面的に見れないから自分たちがやってきたことが正しいと錯覚するのだろう。特にその競技を最後まで続けてある程度実績が残せたものはそう思うだろうが、彼ら彼女らの中ではいまだに愛ある体罰は必要で、パワハラはわるいことだと理解していると言うよりむしろ世間がうるさくなってきたぐらいの感覚でしかとらえていないのだろうと思う。

ある世代以上の指導者は私から見たらハラスメントがわるいことだと理解していない人間が多いように思う。暴言をはいたり、無理なトレーニングをさせたり、朝練なんていうのも過度な練習で勉強の機会をうばうから虐待だと理解しているが、人のいる前で「おいそこ」なんて言うのは言語道断、物でもないのだからたいへん失礼、私はもしそういうことを言われたら「Fuck you asshole!」ぐらいは言うと思うし、実際パワハラではないが米国でよそのコーチに言われて「お前よりましじゃ」と言って、どえらい目にあいかけたことがある。

話は日本の死刑制度の話になるが、少し前から死刑廃止をとなえる人たちがでてきた。日本人の多くは死刑制度を肯定するが、確かに政治哲学上で「功利主義」をもとにすれば、重犯罪の1人の命と人権よりも、それを失うことによって得られる社会的利益のほうが大きいと判断することができると考えたらそれは肯定できる。しかし西洋では死刑廃止国が多いのは自然法を根拠とする人権が絶対であるから、そういう犠牲を強いる功利主義を採ることはできないのだが、日本人が死刑に対して肯定的なのは単一民族で全体主義でその点においてはどちらかと言えば功利主義的であるからだ。

西洋では自然法に基づいて人権がもっとも重要視される。英語が話せない、海外留学の経験がとぼしいのはある世代から上の人たちだが、私はパワハラ(英語ではHarassment)なるもの人権の理解にとぼしい、多面的な見方ができないできないからで、文化や言語などをふくめて単一民族から見たから正しさや利益というものしか見えていない、それは若い世代に比べて語学が苦手、海外留学がとぼしいと言うことに関係しているように思える。何度も言うがパワハラはやってはいけないと言う程度で理解するのではなく暴力であり悪いことである。体操のコーチが競技者に暴行を加えて、その説明がきとんと親になぜそうしたか説明しているとかなんとか言っていたが、そういうことがいいわけとして通ること自体おかしな世界、人権を軽んじている世界だからおこりうると思う。


私のちょっとした組織論 トレーナー編

2018-11-19 | Weblog

前みそであるがうちのクラブは来た人に雰囲気がいいとよく言われる。時には教育的で考え方がしっかりしていると言われることもあるが、最近よくほかの人からコミュニティの管理について聞かれることがある。うちのクラブの雰囲気がいいというのはそれは決してのりがいいといいことではない。それは常識のある大人たち健全な人たちが集まるゆえの安心感であると言ってもいいだろう。

私がこのコミュニティをよくするためにまず考えたのは誰をトレーナーにするかと言うこと、競技者の中からトレーナーを選び、そしてここで成長させるということだ。基本的にトレーナーは自分のクラブから出す。いわゆるはえぬきと言うやつであるが、そういうトレーナーをクラブの中心に選ぶということは重要なことである。十年ぐらい前に原監督がチームに就任した時、方針を聞かれてジャイアンツ愛だと言っていっていたが、それはプロの集団を率いていくにしてはいささか甘いと響く言葉であった。その時はなんかしっくりこんなと思ったものだが、しかしチーム愛と言うのは大事なことだ。生え抜きを選ぶというのも、競技者としてそのジムに在籍し、そしてそのクラブにかかわっている人間にはそのチーム愛があると思うからだ。ある程度ボクシングの技術もあって人間的にもポテンシャルの高い、最初から完成されている人間だとお互い変化が求められないし、進歩もない。それは粗削りであっても失敗してもクラブとともに成長できるポテンシャルのある人間を選ぶことは大事なこと。さらにただボクシングができるだけではだめだ。人としての能力も重要だ。面倒見がいい、何よりも弱い存在をおぼえてサポートできるということ、そして自分だけが得をするというような人間はなく、大人としての自己犠牲がある人間。そういう人間はおのずとまわりから信用されるものだが、そういうチーム愛がある人間を中心におくことで、群れの存在は安定する。みんなが安心してトレーニングできるだろう。
私自身いろいろな人間を見てきたがくだらない人間と言うのはすぐに言い訳をするし、結果的に自分が得をすることしか考えていない。そういう奴らは往々にしてクラブを利用しようとする。中途半端にジムだからいばれると自分の実績をこれみよがしに自慢する奴がまさにそうだが、金をもらえないからトレーナーをしないとか、特別扱いされるからとか、何もすることがないから教えているというような人間にはここでは教えることはできない。なぜならここに来てくれている会員の人も同じ共同体の仲間であり、そういう人たちが楽しくトレーニングできるためのクラブでもあるのだから、そういう人たちからも信用されないとここまでは雰囲気はよくならないであろうと思うからだ。私自身はトレーナーもそうだがここに来た会員の人たちにはここに来てよかったと思ってくれたらいいと思っている。そのため全体の雰囲気をどうよくしていくかということは重要である。そして最近つくづく俺の考え方は間違っていなかったんだと彼ら彼女らを通して思う。


海外でえらそうに言え

2018-11-14 | Weblog

私はかつて競技者であったが、たぶん私のように自由すぎる人間は日本では受け入れらなかったであろう。まず米つきバッタのようにへこへこしない態度は横柄にうつるだろうし、大きい声であいさつなどできない、監督の言うことにはいはいはいと従って従順さを示すことができない、所謂素直なバカになれないのだ。さらに私が理解できないのは師匠みたいな奴の存在である。うちでは冗談でビギナーにマスをやってもらったりミットをもってもらったりする時「あれが君の師匠や、なんでも好きなように使ってくれ」と言うが、しかし格闘技の世界はガチでそういう関係があるのでついていけない。たぶんそういう関係をつくるからハラスメントが起きやすいのだと思っているのだが、私から言わせてみたらスポーツをやっている人間は個性がない。素直なんだけども何かが足りない、本当に自己主張できる人間がかなり少ないと思っている。

最近運動クラブのセクハラや暴力が問題になっている。英語ではそういった行為をハラスメントと言うが、こういった行為にたいして欧米では規則があって、そういうことがおこらないようにしているのだが、それはただ指導者をしばるだけのものではなくて、競技者もこういうことをされたら声をあげてもいいよと言うことでもある。日本では競技者は就職などの進路をにぎられているからそう従わざるを得ないと言う人もいるがこの意見は受け身すぎると思う。私にしてみたらなぜもっと自分の権利を主張しないのか不思議だ。自分たちが逆らったら試合に出してもらえない、でもしかしそうだからと言ってアメフトのように人がケガをするぐらいのタックルをするのか、私からしたら言うほうも言うほうだが言われて従うほうにも問題はある。おかしいことはおかしいし、間違っていることは間違っている。たとえ就職を取り消されても試合に出してもらえなくても間違ったことは間違っていると言える強い心を養うのがスポーツの精神だと思う。私から見たらスポーツの監督は自分に服従させて従わせてコントロールすることが第一の関心ごとだ、本当にスポーツを通して精神を鍛えようなんて思っていないと思う。

監督をお父さんのようにあがめて一門みたいなヒエラルキーは個性をのばすには非常にナンセンスだと思っている。やくざでもないのになぜそういう奴を親玉と認めてそいつらの一門に入らなくてはいけないのか。監督によっては親でも言えないようなことを平気で言って、そういうことを言えるのが自分の特権だと思っているが、俺のおしめをかえたわけでもないのに言っていいこととわるいことがある。しかし師弟関係ではそれがゆるされ、ともすれば自分のために言ってくれているとなるからバカげた話だ。

私のコーチであったジョージはまわりから疎んじられていた。アレンも「彼は変人だと思われている」と気にしていたが、彼は名コーチなのだが、気難しく競技者のほとんどは彼から教えてもらわなかった、どちらかと言えば彼をさけていたようであった。でも意外と私とはうまがあったようで、アレンによるとジョージは気難しいが、ジョージは私のことを認めていて、私だから衝突しながらもうまくいっているらしい。自分で言うのもなんだが私は損得では動かない、おかしいことや間違っていることは違うと言うし、暴力には絶対に服従しない。私はその考え方を海外で貫き通してきたし、暴力排除、弱者の立場に立つと言うのはジムでの基本方針であると言ってもいいだろう。そういう私だからこそわかる違和感が日本のスポーツ界にはある。特に家父長制的なヒエラルキーがきてれつでおかしいともいえる人間関係を生み出していると思っているのだが、常に強者である存在の顔色をうかがう、内弁慶で聞いてもらえる立場でしか自分を主張できない、人にぶらさがる、一方的であることが信念だと勘違いしているあさはかさ、日本でえらそうに言えても海外ではおとなしいと私のもっているネガティブなイメージをあげたら枚挙にいとまがないが、スポーツをやるのにお父さんは必要ない、先輩やそういう人間たちの顔色をうかがうようではだめだと思う。


God Bless you! 모든 것이 기적이라고 생각하며 사는 것이다

2018-11-12 | Weblog

今生きていると言うことは偶然ではなくて必然である。人間が生かされているとしたならば誰にでも生きている意味があるし目的がある。人生は必ずしもいいことばかりではなくわるいこともある。でもしかし自分の苦しかった経験や体験は自分にしかできないことで、もしそのことに意味があるとしたならばその悩みや苦しみはこの私が成長するための試練であって、そこには自分だけが与えられた意味や答えが見つかるだろう。

ジウンの教会のフライデーナイトと言う学生の集まりによく言っていたのだが、ある時、韓国人の宣教師が来て話をした。その宣教師はミンゼと言う男が連れてきた何ともうさんくさいおやじだ。そのおやじはイエスが重い病気の寝たきりで立てなかった男を「この男がここに存在しているのは神の栄光が現れるためだ」と言って男をたたせて奇跡をおこしたという聖書の話から病気が治ったとか、歩けない人が歩けるようになったとかめちゃくちゃうさんくさい話をしていた。それは私にとって聞くに堪えない話で、後でふるまわれるコーヒーとケーキとクッキーがなければ帰っていただろう。そしてその後コーヒータイムと言うのがあって、そのおやじは自分のことを信じない私にさらに信じろとせまってきた。でもあまりに高圧的で宗教や哲学の勉強は自分のほうが知っていると思ったので思わず言ってしまった。「あなたの言う奇跡は自分勝手だ。神があらわす奇跡ってそんなんじゃない。人間が弱いと思っていることが実は本当のアドバンテージであって、そこにおいてこそ一番大きな力がはたらくのだ。イエスが当時盲人や病気の一番弱いとされる人間たちに奇跡をあらわしたのはその弱さを通して神の力をあらわすため、それが奇跡だ。決してご利益なんかではない。人間は傷つき、悩み不安を抱えて生きている。けれどもその悩みや不安があるからこそ人にやさしくなれるし、自分が大きく成長できる。障害を持っていてもその人を通して語られる貴重なメッセージがある。私がここに生まれてきたのは偶然ではなく必然だ。人間はすべて生きる意味を持っていて、我々は目的をもっていかされているのだ。もし奇跡があるとしたら弱いものを強くする力が神の奇跡で俺はそのことを信じる」

キリスト教徒はよくギフトと言う言葉を使う。ギフトと言うのは神から与えられた才能とか能力みたいなものだ。でもしかし私なりに考えて、それはスポーツ選手などが持っている能力とかではなく、自分が持ってるディスアドバンテージがアドバンテージにかえられる何かを私はギフトだと思っている。自分の経験や体験は自分にしかできないものだ。でもその貴重な経験や体験を偶然としてしまえば、運がいいとかわるいとか人生がばくちのようなものになってしまうだろう。でもそのギフトが自分には気づかないむしろ自分がディスアドバンテージの中にあるとしたならば、人生はばくちのようなものではなく、自分の欠点や失敗をおそれることなく生きることができるであろう。失敗や欠点が多い私だからこそ言えるが、人間はむしろ失敗や欠点を通して学ぶことが多いし、そこから得るものも多い。

おやじとのやりとりがあった後、キレておやじを詐欺師呼ばわりした私はてっきりジウンにおこられると思っていた。その帰りに彼女がひとこと「今日のあなたの話、私はよかったよ」とにっこり笑って言ってくれたことを思い出す。ひょっとして私は彼女の言うように見える人なのかも知れない。そのジウンに神様を信じるかと聞かれて「絶対者の存在は信じるかも。でも特定の宗教にこだわりはないし、特にあのおっさんの言葉は信じない」と言ったが、私自身この世界には何か大きなものがあることは認めている。

偉そうに言うが私は生きてきて後ろを振り返ったことがない、常に前を歩いてきたと思う。そして今思うことは自分は何か大きな力によって導かれてきたと言うことだ。前回の動画に「御手の中ですべてはかわる感謝に」と言う歌詞がある。人生はいいことばかりではない、むしろいやなことのほうが多い、でもしかし大きな力によって導かれて本当に自分が生きていると言うことに答えがあって意味があるならば、私の生き方はすべて肯定されるのだと思う。


On ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.

2018-11-11 | Weblog

よくブログに出てくるアメリカ系韓国人のチングであるジウンは、私が多くのことを教えられたチングのひとりである。ジウン曰く人間には二つのタイプがあって見える人と見えない人がいるらしい。見えるとか見えないとかと言うのは幽霊をみるとかということではなく、彼女の言葉を借りて言うならば(一方的な言い方ではあるが)絶対者の存在に気づきそれを知る人間とそれを知らない人間のことで、彼女から言うと私はそれを見ることができる人間であるそうだ。

私は神がいるとかいないとか言う議論はナンセンスであると思っているし、わたし自身、宗教学と哲学を勉強したが特定の宗教にはこだわりはない。でもこれだけは言えるが外の世界に出て行っていろいろな経験をしたら必ず大きいものにぶちあたる。そうしてその大きな存在にぶち当たった時に、本当に自分は小さな存在だと言うことがわかると言うことだ。人間は弱くてちっぽけな存在である。弱いから悩むし、孤独や不安を感じる。人間は弱くてそういう性質だから、いくら強がって生きてもそこには限界があり、自分では支えきれない現実がある。私自身も自分にはどうすることもできない不条理を経験したときに悔しいとか悲しさを通り越して本当にみじめさだけが残る涙を流したが、人間は本当に弱くてもろい生き物である。私は思う本当によりよく生きたかったら自分の弱さを認めることだ。そしてそこで自分の限界や弱さを知ったら大きな存在が見えてくる。大きな存在を知ると言うことは、その大きさの中で自分が生かされると言うことを知ると言うことである。今までの私は生きている答えや意味を求めて一生懸命がんばって生きてきた。けれども努力すれば努力するほどそれは遠くなっていくのだが、それは孤独や不安がそれをうわまるからだ。しかし我々が大きなものによって生かされると言うことは、目的によってこの私が動かされると言うことだ。目的によって動かされると言うことはすでにそこには答えがあって、我々のすることすべてに意味があると言うことで、その中で自分は生かされているんだと思う時、自分が生きていると言う価値をそこで見出すことができると思う。

私は時々ジムの会員から安定感があると言われる。安定感があるというのは私に能力があるとか、強いとかそういうことではない。それはたぶん私が自分の小ささや弱さを知っているからで、無理をしない、見せようとしない自然体で生きているからだと思っている。自分の小ささを知る。謙遜とかではなく大きいものの存在を認めることだ。自分はちっぽけな存在でそのちっぽけな存在がこの世の中で生かされている。そういう生かしてくれる何かがあると言うことを信じることで前向きに自分を信じて生きていくことができると思う。

今日あげた曲は前と同じく食事にありつきにいった教会でよく聞いた曲「In his hand」日本語であったのでのせるが、私の経験と気持ちにマッチしている。  

                           Hoyoung Kim 


人間の尊厳 

2018-11-10 | Weblog

Million doller baybeというアカデミー賞を受賞した映画がある。しかしこれはRockyのようなサクセスストーリーではない。物語は一人の低所得層の女性ヒラリースワンク演じるマギーという30歳代の女性が、そこからぬけだすためボクシングに出会いはじめる。しかし30歳という年齢からかなかなか結果を出すことができず、同じジムのフランク(クリントイーストウッド)にトレーナーを頼むが、女には教えんとけんもほろろにことわられる。それでも必死でしがみつき、何とか教えてもらおうとするマギーにフランクも心撃たれ、トレーナーをひきうけ、やがて世界挑戦に挑むのだが、さっきも言ったようにこの話はサクセスストーリではなく話の本筋はここからはじまる。その世界戦に挑戦することになったマギーだが、その世界戦で相手の反則により首を強打してしまい、病院にはこばれる。そしてそこから闘病生活がはじまるのだが、ある日下半身不随でボクシングができないことを知ったマギーは自殺を試みるのである。私はこのシーンですごいなあと思ったのは自殺を試みたしらせを聞いてトレーナーが駆けつけたとき、彼女がさるぐつわのようなものをかまされていて、その理由が何度も舌をかみきろうとするからだというではないか、一度死のうとした人間が何度も何度も舌をかみきろうとするするだろうか、一般的にこの行為は自暴自棄のように見える、しかし私はここにある意味人間の尊厳を守ろうとする一人の姿があるように思える。よく宗教の指導者はいのちの尊さについて高いところから語るが、しかしここにはそれらとは違う命の尊厳、生きることの問いが問いかけられているような気がする。確かに自分の命を絶つことはゆるされることではないし、してはならないことだ、しかし彼女にとってボクシングは命であり、それが自分のすべてであった、そのことを失ってしまえば終わりで、彼女にとって生きることよりもプライドを失うことの方が大きいことである。この映画を見て思ったことは、人間の尊厳とは一体何だろうかということだ。我々は何のために生きているのだろうか?生きがいとかやりがいとか言うけれども、しかし本当にそういうプライドや自分のために何かをすることだけが人間を生かし、豊かにするものかは疑問である。人間は相互関係において生かされている思っている。すなわち相手によって自分は生かされ存在していると言うことが見えなくては本当に生きる意味が見えてこない。すなわち生きる目的とは自分のためにではなく、家族や友人、相手のために何かをすることが自分を生かし幸せにする生き方だと思っている。


哲学や宗教学を勉強したけど、でも答えはここにあった

2018-11-06 | Weblog

ハワイでたぶん今ぐらいの時期だったと思う。カリヒと言うところにトレーニング出来ていた私はそのチームメイトたちとリングでプロレスごっこをして管理人のおじさんに思い切りおこられた。リングがやたらフワフワしててここでプロレスをしたらおもしろいだろうなとチームメイトにしかけたら、みんな調子に乗ってそれぞれが技をかけあったのだが(少し投げられたぐらいでは意外と痛くないことがわかった)あまりにはしゃいでいたので「お前ら何をやってるんだ」と「いやああっ、ウオーミングアップです」見たいなことを言ったらここではプロレスのような行為は認めていないときっぱりと言いきられ、けがをしたらどうするんだ、今度やったらリングはつかわせないというようなことを言われすごくはずかしかった。

そしてその時期はハワイアントーナメントが開催される時期だったと思う。私もその大会には何度か出たが、当時は米国はボクシング大国ハワイと言えど強豪がたくさんいて、そこで優勝するのは難しかったと思う。私の経験上そこにはたくさんのドラマがあった。びっくりするほどのテクニシャン、最初は相手をうまくいなしていたが、しかし3ラウンドにつめられて一発のパンチが入ってそのままKO、勝った相手は腕をつきあげて喜んでいたが、すごい逆転劇で観衆は惜しみなく拍手をおくっていたと思う。そして私自身も逆転勝ちをしたことがある。ファーストラウンドは足がついていけなくて軽くいなされてポイントをとられたが、しかし相手が疲れてきた3ラウンド目に勝負をかけて逆転RSC、体力を温存して逆転勝ちをおさめたが、その時も彼と同じくまわりが私に暖かい拍手をおくってくれた。

生きててよかったと思えることなんて人生の中でそうあることではない。でも私は何度か自分は本当に生きていてよかったとつくづく思う時があった。それがその勝利の瞬間であり、その勝利に対して惜しみなく拍手してくれたり、ジョージやアレンが「お前は天才だ」と称賛してくれた時である。でもはっきり言ってここで重要なのは勝つとか負けるとかではなくて、自分の努力や存在を認めてくれるか否かと言うことだ。私がボクシングによって救われたと言うのはこのスポーツをとおして自分が認められたからで、そこには人種や育ってきた環境なんて関係ない、ただ一生懸命努力して素晴らしいファイトをした。そのことが認められたということで、その時私は心から自分を信用することができたし、本当にスポーツには国境はないと言うことを外国のリングで体験したことは確かである。これは日本ではやってはいけない行為だが、ある時から私は勝った時にセコンドに向かって時には胸を2回たたいて、拳をつきあげるようになった。その行為はなまいきで自信をあらわした表現にもみえるが、しかしその行為は解放である。我々のような複雑な人間は戦う相手は競技者だけではない。解放と言うのは私を束縛していた敵からの解放で、そのことがまさにこのボクシングと言う自由なスポーツの中で実現されたと思う。わけのわからないことを言うがキムホヨンは私の亡霊であった。でもボクシングを競技することでその亡霊が成仏できたと思っている。人間は忘却の生き物だ、いやなこともつらいこともすべて忘れることができる。そしてさらにもっともっと貴重で素晴らしい体験をしたら、その複雑な思いは消え去ると思う。

 

 

 


不完全である人間

2018-11-05 | Weblog

日本人は完璧主義だ、トレーニング一つにしてもなぜそこまでやらなくてはいけないのか完璧性をもとめるのか理解できないのだが、本当に日本人はまじめで完璧性を求める民族だ。日本のトレーニングする場所がピリピリしているのはただ一生懸命真剣にやっているからではなく、そのトレーニングの中で完璧性を求めるからである。そういう完璧性を求めるまじめさと家父長制的な制度がパワハラと言うものを生み出しているのだが、実際我々も自分の子供のことになると期待しているからこそ、ついなぜそれができないのかと感情的になるのだが、監督やコーチが罵倒したり叱責するのはそれに近い感情であろう。確かに監督やコーチの罵倒や叱責と言うのは期待の裏返しであると言えるし、こういう気持ちの部分から愛情のある体罰と言う矛盾形容した言葉がでてきたのだろう。しかしどうであっても一般論で考えたら人をたたいたり、罵倒したり、人が傷つくような言葉を使うのは間違っている。

さらに監督に対しても完璧性が求められスポーツの監督と言うものは人間的にも立派でなければならないという間違った価値観が求められる。しかし私に言わせてみればそれしかやってこなかったと言うような人間は人としては半人前、現に今パワハラとかセクハラの問題が次々と上がってきているが、それしかやってこなかった人間なんて言うのは所詮そんなものだ。いくらその小さい世界で立派にふるまっても限界がある。完璧性を求めるのは自分が井の中の蛙で一般論で物事を理解できない、小さなものさししかもっていないからだ。人間は不完全だ。不完全だから失敗や間違いもするし、不完全だからこそ一生懸命努力する。指導者はまず自分は不完全であると言うことから認めなくてはならない。そう本当に認めることによって私は本当の人間関係の礎を築くことができると思っている。競技者のことがきらいな監督はいないと思うし、競技者もみんな本当にうまくなりたいと思っていることは確かなことだ。だから完璧を求めてそれができないとネガティブな言葉をつかってはいけない。そこからは何もうまれてはこない。今日あげた動画はジウンの教会に食事にありつきに行った時に学生のグループがよく歌っていた歌。あまりにも歌うので歌詞をおぼえてしまったが、この歌にMan shall not live by bread alone, but by every woad...とあるが、言葉は大事だ、不完全であってもお互いが支えあい、共に成長していく姿を描きながら相手を生かす言葉を選びとっていけたらと思っている。


Are you able to speak japanese?

2018-11-03 | Weblog

体育会系でよく礼儀とか、あいさつは基本だとか言って大きい声であいさつさせることがしつけや礼儀を教えることだと勘違いしている奴ら、そういうことは中身がなければ非常にナンセンスだと思っている。まずそんなことを言っている人間がまともに日本語が話せるのだろうか。そこまで言うのだったら指導者としてある程度のレベルの国語力がなければ指導者失格、あいさつとか礼儀とか言う前に自分が正しい日本語を話し、そのクラブで使われている言葉のレベルを上げることが必要だ。指導者が正しく適切な日本語を使えば、その言葉が子供に影響し、子供は礼儀正しい振る舞いをするようになるだろう。指導者の言葉がとぼしければ、その群れ自体がずれてくる。やんちゃですとか何か少しくせのあるような奴らが集まるようなクラブは責任者の話す言葉や教養レベルがひくいからそれに付随してそういう奴らが集まってくるのだと思っているが、まともな人間を集めたかったら国語力を磨いてきちんと話ができるようにすることだ。そのコミュニティで正しい日本語が語られたら自ずとそのコミュニティは安定し、品格がそなわり礼儀正しくなるものだ。その指導者のレベルを知りたかったらその指導者がどういう本を読んでいるか、その読む本のセンスでこの人は教養があるかないかということがわかると思う。本を読んでいないと言うのは論外であるが、How to本を読むのが読書なんて思っているのももってのほか、ある程度難しい言葉が使われていて専門的な知識が多少必要な本を読むことで、知識が深まり、多面的な見かたができる。そういう本を読めなくてはダメだ。小中学生を相手にするのだったら多少教育的なことも話す必要もある。本当に親から信頼を得たかったら、自分がやってきたスポーツの小さい価値観で、しかも語彙力もないのにそれがすべてだと思わないこと、読書を習慣にして日本語をきちんと学んで応対、対応すること、そのことが相手の信頼を生み、言葉を生かすことが全体をいい雰囲気にかえて行くのだと思う。

本を読むことは国語力を高めること、そして知識を深めることで、これは指導者には求められることだ。私も本が好きだが、うちのメンタルトレーナーは私以上に本を読む。この前は本屋の話で盛り上がったのだが、彼は大阪に行った時は4時間ぐらい本屋にいて専門書から一般の本までまとめて買いまくるらしい。精神医学のドクターは人の話を聞く仕事なのでその人を知るためにいろいろと共感を得たり、外側からアプローチする必要があるからだろう。現に言葉を知っているし、私があげた文学や哲学などのたとえはほぼ知っているので話がしやすいのだが、これを患者に例えたら私のような複雑なインテリ系が来てもきちんと相手に合わせて話が対応できるということだ。言葉理解は受け入れてくれていると言う安心感を生み出すのだが、相手をミスリードすることなくベターな方向に導くために日々読書をして研鑽する姿はまさにプロフェッショナルである。

うちのジムには年齢や性別をこえて多くの人が集まっている。いろいろな人が集まっているのだからプロフェッショナルとまでいかないがある程度どういう人が来てもその人の言葉をきちんと理解し受けとめ、時にはアドバイスできるぐらいの教養は必要だと思うし、それができるかできないかでそのコミュニティの質がかわると思っている。

私は基本的にバカみたいにでかい声をだしてあいさつしたり、意味のないヒエラルキーをつくってまとまっているなどとほざくよりも、女性がいるから裸でトレーニングしないとか、気合を入れて大きい声をださないと言うような思いやりや気づかいが大事だと思っている。コミュニティのレベルがひくいとこれができない、こういうことは指導者の日本語力や知的レベルに関係していると思う。

 

 

 

 


Unbreakable My Heart

2018-11-01 | Weblog

宗教学を勉強していたので興味あって、少し前インターネットでアメリカの宗教番組をみていた。その中で一人の女性が証言をしていた。内容はいかに堕落した人間が神によって立ち直ったかというよくあるありきたりの話であったが、そのあと彼女が歌った歌の詩がたいへん印象的であった。彼女は堕落し立ち直った自分の体験をふりかえってこう歌うIm no letting go ..... Lord keep me standing strong. 人間というのは弱いものだ、彼女のこの言葉には弱い自分が何かに語りかけ、そして堅く強い信頼を求めている姿がある。ボクシングには孤独と不安はつきものである。だからこそ、チームメイトやトレーナーの役割は大きいと思う。以前あるボクサーがエディさんがボクサーのことをボーイと呼ぶと言っていた。しかしボーイという呼び方は決して見下した呼び方ではなく、むしろ自分の子どものように接すると言うことでありそこには尊敬と愛情がある。私もアメリカにいたときはジョージからボーイと呼ばれていたことを思い出す。苦しいとき、孤独なとき OK boy! come on boy!と私を励ましたくれたのも彼らのその言葉だ。私は思う、人間はそんなに強くない、だからこそ、その孤独や恐れを隠す必要はない、信頼を求めその孤独や不安を共有しトレーナーと共に戦えばいいのだ。リングに上がるのはひとりだ、でもその気持ちを受け止めてくれて見守ってくれている人間が自分の後ろに存在すると言うことを忘れてはならない。

私の後ろには常にジョージやアレンがいた。そして彼らはその後ろで私を支え一緒に戦ってくれた。異国の地であっても私が心を折られることなく挑戦し続けることができたのはまさに彼らの存在が大きかったからだ。よく精神論と言うのはナンセンスだと言うが、私の精神論は不安や喜びを共に共有する仲間がいて、その共有する仲間が自分を見守って共に戦ってくれることで実力以上の力が発揮されると言うことだ。飼い主のいない犬と飼い主のいる犬では飼い主のいる犬のほうがけんかをしたら勝つと言う話が心理学の実験であったが、信頼できるトレーナーを持つと言うことはまさに私を見守ってくれている誰かがいるということだ。

 

 


ユニークなジム

2018-10-31 | Weblog

うちのジムは格闘技でもユニークなジムだ。女性が半数以上いるし、女性のほうが実績がある。会員も進学校出身者で優等生っぽいのは多いが、けんかはからっきしだめというのがほとんでで、この前も試合に行った時のこわい輩についてのへたれ話で盛り上がっていた。だいぶ前もうちの小学生が同級生をおこらせ、ぼこられるという事件があったし、ここにきたら本当に強くなるのかとさえ疑問さえ抱かせる場所である。しかしここにもそれなりのメリットはある。それはそれだけへたれが多いぶん、めちゃめちゃ強い選手やこわいヤンキーに気をつかわなくてもいい。へたれでも堂々と自由に練習できるのである。プロのジムで会員がプロに気を遣い、サンドバックをたたく時もプロや強い奴が優先とか、そりゃ競争の原理が働けば当たり前のこと、しかしここには小競り合いはあっても、競争の原理などないに等しい、だからへたでもへたれでも堂々と練習ができるのだ。私は試合に行く人たちには勝ってこいと言うようなことは言わない、特におっさんにはもう年だから勝敗など気にせずに試合に出ることを楽しんで来いと言うのだが、それは若い人たちも同じこと、勝敗よりもボクシングを競技することをひとつの楽しみそしてそれを生きる活力として思い出にしてほしいと思っている。うちのジムは究極の強さを求めるには物足りないジムかもしれない、けれどもここに来てトレーニングする人たちの顔はすごく楽しそうで、本当にそこは助け合い支えあうコミュニティで、そういう面では私はどこよりもすぐれたボクシングクラブであると思っている。


含蓄のある外国人の言葉

2018-10-27 | Weblog

日本人が個性を強調して言う「そのままの君でいい」と言うような言葉、これを英語に訳せるだろうか。少し前から個性を大事にしろということで「たった一つの花」とか、一見こういう西洋的で個性を大切にするかのような言葉が使われだしたが、しかしこの「そのままの君でいいとか」「何々は何々のままでいい」という言葉は英語にはない特別な言葉だと思っている。確かにBilly joelの歌にあるようにJust the way you areとか最近ニューヨーカーなんかがつかうKeep it trueというような、それらしい言葉があるのだが、しかしそれらの言葉は日本語とは明らかにバックボーンが違うと思う。だいぶ前の話であるが、このことをある外国人に聞いたことがある。彼はかなり日本語が流暢で、日本の文化に慣れ親しみ、もうすっかり日本人になじんでいるのでこういった言葉をよく理解しているのだが、その彼に「そのままの君でいい」と言うような言葉を英語で訳すとどうなんだと聞いたら、それをあえて言えば「God loves you」らしい。彼曰く、そのままの君でいいと言えるのは、逆説的であるが自分を愛して受けとめてくれる、西洋だったら神とか、あるいは両親の存在があるから、そう言えるわけであって、日本人の言うように単に自分らしさと言うのを主張して、奇抜な格好をしたり、人に迷惑をかける個性とは違うらしく、日本人は特に若い人は、この個性という言葉を勘違いして受け取っているらしい。

彼曰くもし自分が誰かに受け入れられて、愛されているのなら自分を大切にするだろうという。そのままの君でいいというのは、自分らしく生きることであるが、しかしその自分らしく生きると言うことも、自分が誰かに受け入れられているからこそできるのであって、個性とは、まずその自分を受け入れてくれる相手を認めることから始まり、自分がやりたいように生きる半ば本能的な生き方とは違うのだというのだ。われわれは誰かに認められ、受け入れられているからこそ、自分を大事にでき、他人のことも考え、認めることができるのだ。私は彼のこの言葉はすごく価値のある言葉だと思っているが、個性と言うものが恣意的なものにならないためにもまず自分が誰かによって受け入れられ生かされていると言うことを知る必要があると思う。


Cross the Rubicon We shall overcome

2018-10-24 | Weblog

アスリートだった頃、チームがリングに上がるとき胸に手をおいて言った言葉がある。
ラテン語の「Alea jacta est(賽は投げられた)」である。この言葉はユリウスシーザーがルビコン川を渡るときに、戦士の志気を高めるために言った言葉である。ルビコン川はガリアとローマの境界線で、当時この川をこえてローマに入る時は武装を解除して入らなくてはならないという法律が元老院によって定めらていた。カエサルはガリアとの戦いに勝利しローマへと、そして当然ローマへ帰るにはそのルビコン川を渡らなくてはいけないのだが、しかしその武装解除はカエサルをたたきのめす口実であって、そのことを知ったカエサルは、あえてその掟をやぶってまでも武装解除をせず、そのままローマに突入、ポンペイウスとの内乱へ、そのローマに突入する時に、ルビコン川で戦士に語った言葉、それが「賽は投げられた」である。

トーナメントの時であった。この試合はアメリカ国民でない私にとって非常に大きな試合で、まさに州のチャンピオンを決める大きな大会である。そのトーナメントの前にコーチがこのことについて書かれた紙が配られ、レクチャーしたのだが、それは確かこのような内容だった。
「われわれは、今大きな戦いに直面している。この勝ち抜かなくてはならないトーナメントは、技術とと体力、そしてさらに精神力が必要だ。しかし諸君、カエサルの言葉を思い出して欲しい。彼はルビコン川を渡る時「ここを超えれば人間世界の悲惨。超えなければわが破滅。さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた。」と言ったが「賽は投げられた」と言うのは喜劇からの引用だ。ガリアで戦った後に、またさらに厳しい戦いを強いられようとしているのに、この言葉に悲壮感など感じられるだろうか、むしろこの言葉からは生き生きと勝利の実感が伝わってくるではないか。恰も彼らはその戦いの先に、自分たちの理想の世界があるかのようである。トーナメントを勝ち抜く秘訣は、信じること、そして信じ続けることである。彼らがその厳しい戦いが、やがて大きな利益をもたらすことを信じたように、この試合の後にわれわれに何が起こるのかと言うことを信じて、戦い抜こうではないか。」

この言葉が紙にもつづられていたのだが、間違いなくこの言葉でみんなの志気が高まったことは確かである。試合前の指導者の言葉は時には人の心を動かし、魂を高ぶらせる。
私は常日頃から言葉を研鑽しろと言う意見を言っているが、そういうことを言うのはこういった体験があるからで、この彼の言葉によってわれわれは助けられたことが多かったからである。
私自身も試合前に、どれだけ励まし勇気づける言葉をかけてあげられたらいいかと思うことがある。しかしその言葉というのは、その言葉を通して何か成長のきっかけを促すものでなければならないし、単にマンガのきりぬきのような言葉をかけるだけでは、無味乾燥なものになってしまうだろう。志気を高めるというのは、単に「あおる」ことではない、トレーナーで「試合は殺し合いだ」とか「相手は殺しに来るから殺すつもりでやれ」というのがいたが、そういう言葉はまさにあおっているだけの言葉であって、動物を戦わせるわけではないのだから、本当に知性のひくさをうかがわせる。私がボクシングクラブをやりだして、思ったことは言葉は人間の志気を高め、それをその人の成長へと結びつけることである。試合というのは大きい選択である。そしてそこから得れるものは大きく、何が得れるかと言うことは、われわれの言葉が大きなきっかけとなるだろう。指導者のかける言葉と言うのは非常に難しい、教養、品格、思いやりと言うものが必要であり、私自身も、その言葉を力にかえていくには、まだまだもっといろんなことを学び研鑽しなくてはならないだろう。


This is my confession

2018-10-23 | Weblog

弱い者の立場に立ちと言うのが私のモットーでありジムの方針であるが、しかし偉そうに言ってもきちんと自分はそれができていなかったことを反省し懺悔する。たぶんそれができないひとつの理由は自分のおごりや傲慢さであろう。昔、こんなことを言ったらまわりがひくのではないかと言う傍若無人な態度ゆえにまわりに迷惑をかけたこと、自己主張が強くて偉そうなので外国ではどえらい目に何度もあいかけた、何十年前の過去の非礼を先日詫びたが、本当に私は自己中心で俺様的なとんでもない奴だったと思う。人間は弱い弱い、ゆえに間違いをおかすこともある。そういう人間の弱さも受け入れることも大事なことで、それができないと関係がぎすぎすしてそのコミュニティが心から安心してそこでトレーニングできなくなるであろう。うちのクラブのコミュニティの人たちは弱さをもったと言うよりむしろそれを自覚してる。時には何をうじうじしてるんだとさえ思うこともあるが、そういう人たちが集まっているからこそ、私のような人間が暴走しないできないのだ。クラブで一番迷惑がかかるのは私の傲慢な態度があらわれ暴走することだ、トレーナーや常連さんたちに気をつかわせるし、一般社会の強者的存在だけのクラブになる。完璧な人間なんていない人間だから間違いもおかすし、失敗もする。人間は相互関係の中で生きている。コミュニティをさらにもっとよくしたければ、私自身が人間の弱さを受け入れ、自分こそが本当に弱い人間だと言うことを認め受け入れなくてはいけないと思う。そして私自らがそういう立場に立てることでこのコミュニティがさらによくなり、本当の意味で助け合いの精神が生まれるのでろうと思う。


半島の血

2018-10-22 | Weblog

私はいろいろな民族を見ているが、日本人はおとなしい民族である。争いごとを好まず、言いたいことを言わない、すぐに固まると言う島国独特の考え方や気質を持っているが、平和的でいわゆる大陸や半島の人間とはかなり違うと思う。

これは私のはずかしい話だ。笑い話として聞いてほしいが小学校の時上級生とけんかになった。
けんかといっても鉄棒の取り合いであるが、最初は私が遊んでいたのだが、いじのわるい上級生がのけといって、後ろからはがいじめにしてどけようとしたので、後ろに跳ぶように頭突きをした。思い切り伸び上げたのでかなりいたかったろうと思う。彼はその場にうずくまって、その時は戦意喪失して教室に帰って行ったのだが、私はその時上級生をやっつけたので得意げになっていた。しかし次の日、私は階段の踊り場で襲撃されてどえらい目にあわされた。笑い話だが頭突きを警戒して、はなれてけり技でひどい目にあわされた。小学生の子供がこういう戦略を練っていること自体笑えるが、そしてうずくまった時にネリョチャギ(かかとおとし)のようなものをくらわされた。その時くやしくてやりかえしてやろうと心に誓ったが、しかし女の子にチクられて、お前ら何をやっているんだと、お互い先生にもっとひどい目にあわされた。島国の人間と半島の人間は似て非なるのものだ。両方を見ているが、私はどちらかと言うと半島の血をひく部分が強い。日本人は言いたいことをいわない。感情をあらわにしない、これはかなり異質である。私は今ではコントロールして日本人以上におとなしくなったが、それでも昔は自分の性格やまわりと比較して、あまりにも違うので、俺は病気じゃねえのかと思えたぐらい特別で、島国の人間と言うのは独特の文化や性質を持っている素晴らしい民族だと思う。