今日テレビのコメンテーターが、最近起こる事件に対してこのようなことを言っていた。「彼らは親や他人のせいにして殺人をおかすわけだが、なぜもっと自分自身を前向きに受け止めて問題を解決しようとしないのか?彼らは責任というのをどう考えているのだろうか」。
確かに最近殺人などを、親や他人のせいにする人たちがふえてきているのは確かである。そしてこのコメントをした人は50歳を越えた方であると思われるが、そういうことで人に害をくわえることは、おそらく40歳以上の人間には、とうてい理解できないであろう。
90年代にAC(adulut children)というのが台頭してきた。これはアメリカから来たある心理学の定義であるが、adulut childrenというのは平たく言えば、虐待を受けた子供たちのことで、ここから今までの親子関係を見直し、今自分に何かがあって、自分がうまく生きられないのは親のせいであると自覚させ、最終的には自分の責任を自覚させる通過点を示す言葉である。
しかしマスコミなどがACという言葉だけを取りあげひとり歩きさせてきたが、今この言葉の免責性が問題になりつつあるように思える。
実際この言葉の行き着くところは「自己の責任、自分の負うべき責任はどこにあるか」ということである。
だからACという言葉自体が、心理学のそれ自体をあらわすのではなく、自己の責任を芽生えさせるための通過地点であり、自分がだめなのは親のせいだと、責任をなすりつけるのとはわけが違う。
自分は学校関係者に親しい人が多いだけで、こういうのも何であるが、この言葉がひとり歩きし、この言葉の大きく意味する免責性という点では、学校社会あるいは教育に及ぼしてきた影響は大きいといえるのではないだろうか。
最近「そのままの君でいい」「あなたは世界でたった一人の存在」という言葉が、歌の歌詞やドラマの表現などでよくつかわれ、そういう言葉を周りの人たちが支持しているが、これこそまさに免責性がない言葉だから受け入れられるのであって、責任などどこにも存在しない、よく聞くのがスクールカウンセラーに相談したところ、とにかく親子の関係がしっかりしていないから、何をやっても受け入れろという指示されて、それだけで終わってしまったという話を聞くが、1年間30人から40人の児童を指導しなくてはいけない教師にしてみれば、めちゃめちゃな話である。
恐らくこれはマスコミがあげるような親=悪という図式で物事を見た結果であろう。自分の意見であるが、このACというのが入りだしてから日本人の責任という考えが欠如してきているように思える。
他人に責任を押し付けることは楽である。何か問題が起これば何かを他人や自分以外の何かに押し付けて「あなたは悪くない」「そのままのあなたでいいのよ」とやさしい言葉を投げかけてくれたとしても、しかしこれでは本当の問題は解決できず、本当の自分は見えてこない。
ボクシングはある意味この風潮を逆行している。特に試合に出るということは、自分自身にかかってくる責任は大きいし、減量や練習面でもわかるように、すべてのことにおいて責任が生じるスポーツであると思っている。
しかしそこまでするからこそ見えてくるものは大きいことだと思っている。
特に試合に出るという体験は、大きな成長を促すであろう。ある意味現代社会において役割の大きいスポーツかもしれない。
確かに最近殺人などを、親や他人のせいにする人たちがふえてきているのは確かである。そしてこのコメントをした人は50歳を越えた方であると思われるが、そういうことで人に害をくわえることは、おそらく40歳以上の人間には、とうてい理解できないであろう。
90年代にAC(adulut children)というのが台頭してきた。これはアメリカから来たある心理学の定義であるが、adulut childrenというのは平たく言えば、虐待を受けた子供たちのことで、ここから今までの親子関係を見直し、今自分に何かがあって、自分がうまく生きられないのは親のせいであると自覚させ、最終的には自分の責任を自覚させる通過点を示す言葉である。
しかしマスコミなどがACという言葉だけを取りあげひとり歩きさせてきたが、今この言葉の免責性が問題になりつつあるように思える。
実際この言葉の行き着くところは「自己の責任、自分の負うべき責任はどこにあるか」ということである。
だからACという言葉自体が、心理学のそれ自体をあらわすのではなく、自己の責任を芽生えさせるための通過地点であり、自分がだめなのは親のせいだと、責任をなすりつけるのとはわけが違う。
自分は学校関係者に親しい人が多いだけで、こういうのも何であるが、この言葉がひとり歩きし、この言葉の大きく意味する免責性という点では、学校社会あるいは教育に及ぼしてきた影響は大きいといえるのではないだろうか。
最近「そのままの君でいい」「あなたは世界でたった一人の存在」という言葉が、歌の歌詞やドラマの表現などでよくつかわれ、そういう言葉を周りの人たちが支持しているが、これこそまさに免責性がない言葉だから受け入れられるのであって、責任などどこにも存在しない、よく聞くのがスクールカウンセラーに相談したところ、とにかく親子の関係がしっかりしていないから、何をやっても受け入れろという指示されて、それだけで終わってしまったという話を聞くが、1年間30人から40人の児童を指導しなくてはいけない教師にしてみれば、めちゃめちゃな話である。
恐らくこれはマスコミがあげるような親=悪という図式で物事を見た結果であろう。自分の意見であるが、このACというのが入りだしてから日本人の責任という考えが欠如してきているように思える。
他人に責任を押し付けることは楽である。何か問題が起これば何かを他人や自分以外の何かに押し付けて「あなたは悪くない」「そのままのあなたでいいのよ」とやさしい言葉を投げかけてくれたとしても、しかしこれでは本当の問題は解決できず、本当の自分は見えてこない。
ボクシングはある意味この風潮を逆行している。特に試合に出るということは、自分自身にかかってくる責任は大きいし、減量や練習面でもわかるように、すべてのことにおいて責任が生じるスポーツであると思っている。
しかしそこまでするからこそ見えてくるものは大きいことだと思っている。
特に試合に出るという体験は、大きな成長を促すであろう。ある意味現代社会において役割の大きいスポーツかもしれない。