脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ACのつけ 

2008-07-30 | Weblog
今日テレビのコメンテーターが、最近起こる事件に対してこのようなことを言っていた。「彼らは親や他人のせいにして殺人をおかすわけだが、なぜもっと自分自身を前向きに受け止めて問題を解決しようとしないのか?彼らは責任というのをどう考えているのだろうか」。
確かに最近殺人などを、親や他人のせいにする人たちがふえてきているのは確かである。そしてこのコメントをした人は50歳を越えた方であると思われるが、そういうことで人に害をくわえることは、おそらく40歳以上の人間には、とうてい理解できないであろう。
90年代にAC(adulut children)というのが台頭してきた。これはアメリカから来たある心理学の定義であるが、adulut childrenというのは平たく言えば、虐待を受けた子供たちのことで、ここから今までの親子関係を見直し、今自分に何かがあって、自分がうまく生きられないのは親のせいであると自覚させ、最終的には自分の責任を自覚させる通過点を示す言葉である。
しかしマスコミなどがACという言葉だけを取りあげひとり歩きさせてきたが、今この言葉の免責性が問題になりつつあるように思える。
実際この言葉の行き着くところは「自己の責任、自分の負うべき責任はどこにあるか」ということである。
だからACという言葉自体が、心理学のそれ自体をあらわすのではなく、自己の責任を芽生えさせるための通過地点であり、自分がだめなのは親のせいだと、責任をなすりつけるのとはわけが違う。
自分は学校関係者に親しい人が多いだけで、こういうのも何であるが、この言葉がひとり歩きし、この言葉の大きく意味する免責性という点では、学校社会あるいは教育に及ぼしてきた影響は大きいといえるのではないだろうか。
最近「そのままの君でいい」「あなたは世界でたった一人の存在」という言葉が、歌の歌詞やドラマの表現などでよくつかわれ、そういう言葉を周りの人たちが支持しているが、これこそまさに免責性がない言葉だから受け入れられるのであって、責任などどこにも存在しない、よく聞くのがスクールカウンセラーに相談したところ、とにかく親子の関係がしっかりしていないから、何をやっても受け入れろという指示されて、それだけで終わってしまったという話を聞くが、1年間30人から40人の児童を指導しなくてはいけない教師にしてみれば、めちゃめちゃな話である。
恐らくこれはマスコミがあげるような親=悪という図式で物事を見た結果であろう。自分の意見であるが、このACというのが入りだしてから日本人の責任という考えが欠如してきているように思える。
他人に責任を押し付けることは楽である。何か問題が起これば何かを他人や自分以外の何かに押し付けて「あなたは悪くない」「そのままのあなたでいいのよ」とやさしい言葉を投げかけてくれたとしても、しかしこれでは本当の問題は解決できず、本当の自分は見えてこない。
ボクシングはある意味この風潮を逆行している。特に試合に出るということは、自分自身にかかってくる責任は大きいし、減量や練習面でもわかるように、すべてのことにおいて責任が生じるスポーツであると思っている。
しかしそこまでするからこそ見えてくるものは大きいことだと思っている。
特に試合に出るという体験は、大きな成長を促すであろう。ある意味現代社会において役割の大きいスポーツかもしれない。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BIG MOUTH

2008-07-28 | Weblog
最近ゲームの影響かどうかはわからないが、大言壮語をする人間が増えてきているような気がしている。
前にも自分は世界を目指しますというのがいたが、わずか3ヶ月でやめてしまった。理由は遊びたいからだそうだ。
こういう人間はひとりやふたりではない、何を考えているのかわからないが、できもしないことを平気で言って大胆な行動にでる。
一度や二度の失敗でくじけなければいいのであるが、しかしこういうのに限って失敗したらすぐへこみ、しばらくたつとまた同じことを繰り返す。そういう人間が多いことに少し驚いている。
「責任」という言葉があるが、こういう人たちは「責任」という言葉をどう考えているのであろうか。いずれにせよ言ったこと行動したことには、自分で責任をとらなくてはならない、これは社会の常識である。
自分も昔はbig mouthであったことは認める。よく自分は優勝宣言をしたが、しかしそれは大きいプレッシャーであり、途中あんなことをいうんじゃなかったなどと思うこともあったが、それだけ人前で大きなことを言うということは、たいへんなことなのである。
自分が思うに「自信」というのは思い込みではない、努力の積み重ねである。
自分も偉そうなことを言ったからには、やらなくてはいけないとがんばって練習したが、最近ポジティブシンキングとか何とかで、勝つイメージをつかむことが大事だといわれているが、しかし本当に自分を支えるのは、そういった非現実的なことではなく、これだけ練習してきたんだという「自信」である。
だから実績もなく、練習量も並みの人間に大きいことを言う資格はない、とにかく普通以上にがんばるからこそ「自信」が生まれ、そういう言葉がでてくるのではないだろうか。
最近自分は一番になるとか、bigになるとか軽はずみに言う人間が多い。しかし彼らは、こういう発言にこそ人間の価値が問われるということを知っているのか不思議である。
最後にアメリカのジムに一人の男がいた。彼はWBCの世界ランキングにランクインされた人間だが、自分はかつて彼の悔し泣きを一度だけ見た。
試合の内容がよほど悔しかったのであろう。
彼は周りのことなど気にもせず悔し涙を流していたのだ。
自分はその時、こいつは強くなるなと思った。なぜなら泣くということは自分のやって来たことに自信がもてるわけだから、それだけ彼は練習をしてきた、だから負けたことに納得できず泣いていたのである。
話は少しずれるかもしれないが、人前で大きいことを言うのも同じである。
それがみっともないか、真実であるかは、どれだけのことをやってきたか、あるいはできたかということにかかっている。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己主張

2008-07-23 | Weblog
「あなたの隣のモンスター」という本がある。
今はやりの、まわりがどうであろうと自分の意見だけを押し通すモンスターペアレンツに見られるような、モンスター化した人たちをあつかった本であるが、この本の中でたいへん興味深いことが書かれてあった。
それは「筋」と「論理」の違いであるが、日本人は昔からこの「筋」というのを通すことを大事にしてきたという。
ここでいう「筋」というのは、細かい行き違いがあるにせよ、当事者どうしで話し合いながら、感情的なものも含めて大筋で合意していくというスタイルであり、日本人は古くからこのスタイルを通してきた。
そしてこのことによって「和」を保ってきたのが日本人である。
この前テレビのコメンテーターがお歳暮についてこういうことを語っていた。
日本人がアメリカ人に比べて、裁判などでの訴訟が少ないのは、お歳暮のおかげであるという、つまり日本人は、お歳暮や贈り物を贈ることによって、小さなトラブルを解決しているらしく、このお歳暮の年間にかかる金額とアメリカの訴訟をおこす金額とを比べたら、圧倒的にアメリカの裁判にかかる費用の方が大きいらしく、ちょっとしたことでも訴訟をおこすアメリカ人に比べて、日本人は常日頃から小さなトラブルを、こういうちょっとした気遣いによって、解決してきたのであるというがこのスタイルもやはり彼の言う「筋」を通すスタイルではないだろうか。
最近ディベーティングなどの本が出ているが、気に入らないことなどがあればディベートなどで、徹底的に打ち負かせ白黒をはっきりさせるのが、アメリカ式スタイルと言えるかも知れない、そしてそれには論理的があることがプライオリティであり、折り合いなど関係なく自分の意見を通せばいいのである。
話しは本題に戻るが、恐らく今日本で問題になっているのは、このメカニズムが時代の変遷ではなく、崩壊的なかたちで変わりつつあるところではないだろうか。
近年明らかに日本人のスタイルが悪い意味で変わりつつある。
西洋の論理化は宗教論争に見られるように、ディベートによって相手をつぶすことである。特に正統主義と言われる宗派とアリウスの論争は、文献などを見るとすさまじいことが書かれているが、神の性質を問うだけで、論争とは別に傷害や、殺人がおきるのであるから、折り合いをつけるどころか、目的をはたせばそれでいいのである。
しかしはっきり言って日本人は論争をできる能力や力が乏しい、ディベートというのはただ自分の意見を恣意的に述べることではない、よく学校の懇談会で「昔の先生はこうだった」というような抽象的なことを言ったり、モンスターペアレンツのように、わけのわからないことを言う人間がいるが、そんな甘い、意味のないことが言えるのは、その懇談会が「言わせてもらえる会」であるからである。
最近自己主張ということが言われているが、自己主張するということは、時には相手からの攻撃もうけなければならず、ちょっと言われたぐらいでショックを受けているようでは、自己主張する資格はないのではないかと思っているが、日本のように言いたい者勝ちや言わせてもらえる場では、いわゆる欧米の自己主張というものは育たないと思う。
西洋は、白黒をはっきりさせるという一見この強引とも言えるかたちで、文化や生活を築いてきた。おそらくこの考え方の背景には、国や民族そして特に宗教観のちがいという中から生み出されたものであると思うが、現代の日本人の考える自己主張とはまったくかけはなれたものであると思う。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俺と佐藤

2008-07-18 | Weblog
ラッキースターが、8月高知に遠征というか遊びに来る。このジムのオーナー佐藤はうちの顧問でもあり、また俺の大親友でもある。
彼と再会できたきっかけは、自分をさがしていた後輩が、ひょんなことから佐藤につきあたり、そこからまたその後輩を通してお互いの居場所がわかり、また連絡をとって再会できたという複雑なものである。
しかしこうして佐藤と再会できたわけだが、まず驚いたことは、佐藤が自分を探してくれていたということである。笑い話であるが探偵ナイトスクープに投稿しようと思っていたらしい。そして実際話すことができたのだが、自分は彼がボクシングを続けているとは夢にも思わなかった。というか彼も言っているが、彼にはもともと才能などなかったので、ボクシングは大学卒業と共に見切りをつけてやめていたと思っていた。だから彼が全日に出たなんて聞いた時は驚いた。「えっあの男が、そこまでやったのか」自分の中での佐藤は、全日どころか3部リーグでも話にならん程度であり、それが全日に出て、ジムまで経営するとは本当に大きな驚きであった。
しかし本当にうれしかったのは、その彼が俺を目標にした。俺の存在があったからボクシングを続けられたと言ってくれたことである。
今ではもうジムの規模もアマチュアボクシングにおいても、彼の知識や信用は自分よりもはるかに上である。しかしにもかかわらず俺の存在は大きいとそう言ってくれるのである。
ジムにはいろいろな人間がくる。もともとボクシングをはじめる人間に器用な人間はいないが、自分は彼ら彼女らに「人間は裏切るが、ボクシングは裏切らない、一生懸命がんばったら必ず何かがのこる」と言っているが、この言葉は自分と佐藤の関係を言っているようなものである。
自分も佐藤も二人とも上を目指してがんばった人間である。自分は留学と言うかたちで海外に渡りボクシングをつづけ、かたや佐藤は学校に不満を感じのこるが、卒業後もボクシングをつづけ全日に出場したのである。
たぶんこの友情は二人がボクシングを純粋に愛し、続けたからであると思う。
勘違いしないで欲しいのは自分たちが親しいというのは、話しが合う言うことではない、むしろ話すことなどないことのほうが多いかも知れない。
しかし自分たちはライバルであるが、互いに認め、お互いを尊敬している。そういう絆がボクシングを通してできたのである。
自分はこのボクシングを通して多くのものを得たと思っている。そしてその中で最も大きいものはこの友情かもしれない。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欲望の三角形 

2008-07-16 | Weblog
ルネ.ジラールは人間には自発的な欲望がないという。
性欲や食欲というのは要求であるから、食欲ならば何かを食べれば満たされるわけであって、欲望というのは厳密に言えば対象を選択するものである。
ジラールはこの欲望を「媒体」「対象」「主体」というシステムにおいて、これらの関係を「欲望の三角形」という風になづけた。
「媒体」というのは宣伝であり、例えば有名ブランドの服を欲しいと思うのは有名人が着ているからで、この有名人が「媒体」となり、「主体」すなわち消費者である我々に「対象」としてのもの欲することを煽っているという、これが彼の言う「欲望の三角形」である。
恐らくジラールは、ものの仕組みというものをいささか批判的にとらえ、このようなかたちで構造そのものを表したと思うが、しかし自分はこの欲望の三角形は、ボクシングにおいて大事な事だと思っている。
まず自分の対象として目的がある。目的とは自分がこのボクシングを通してどうなりたいかということであるが、しかしこの目的は媒体がなければ達成することはできないだろう。言い換えればそれを手本とする人、あこがれの存在、あるいはライバルの存在である。
自分の友人は州のゴールデングローブをとった時、メインランドであこがれのチャンピオンにあって少しだけ話すことができたらしい。
その時彼は「自分はずっとあなたにあこがれていました。私はあなたのようになりたい」と言ったらしいが、これは決しておべんちゃらのようなものではない、たぶん彼がずっと彼のようになりたいとあこがれ願っていた。その気持ちが彼をゴールデングラブで優勝させたと思っている。
ボクシングが上達したいと思うならば、まず手本となる人物やライバルを見つけることである。
余談であるが自分は練習生に人の練習を見るときに、いきなりレベルの高い人間のを見てそれをまねするんじゃなく、自分よりも少しうまいぐらいこれだったらコピーできるなというぐらいの人間を観察してコピーしろ、そして徐々にレベルをあげていけと言っているが、自分がうまくなりたいという欲望をまさにライバルやヒーローの存在で高めていく、それがボクシングの上達法ではないかと思っている。
ジラールではないが人間の欲望は、その媒体であるヒーローやライバルによって高められていく、まさに自分たちがライバルやヒーローをもつということは、ボクシング上達の第一歩なのだと思っている。
またこどもの頃自分たちは夢をもつが、大きくなったときだいたいの人間は自分の夢なりたかった職業と違う職業をしている。
しかし時々小さい頃からの夢、なりたかった職業についている人が時々いる。それはどんな人か、実際にその職業の人から大きな影響を受けた人である。
自分の友人は小さい時ある素晴らしい先生との出会いで、大きな影響をうけた一人である。そしてその影響を受けた彼女は、自分もあの先生のようになりたい、その願って勉強し、学校の先生になったが、自分曰く人間の夢や希望というものは持つものではなく与えられるものであると思っている。
よく大人は子供に夢をもてという。しかし夢は与えなくてはいけないのだ。
その夢を与えることを自分たちはしなくてはならない、そして子供に夢を与えると言うことは、どういうことなのかと言うことを深く考えたいと思う。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペルソナ

2008-07-15 | Weblog
昔向こうで日本語の劇をやるので、でてくれないかと頼まれた。日本料理店でスキヤキを食べさせてくれるといので協力した。
行ってみるといきなり主役である。内容ははっきり覚えていないが、何でもその主役は自分がはまり役だそうで、とにかくやってほしいとのこと、まあ内容も日本語だし、やってみることにした。
それにしても意外に劇の練習がきつかった。教会でするボランティアの劇ごときで、何でここまですんのと思うぐらいしごかれた。
特に演出家になりきっている女性が、自分のまわりをコバンザメのようにくっつき指導、セリフをとちると「あなた日本語わかるの」きつい言葉をなげかける。
途中で「うるせい」と言って帰ろうと思ったことは何度もあったが、彼女の気迫に押されて演技を続け、小さな舞台へと立った。
今思えばこの経験は、非常にいい経験になったと思っている。
このドラマにおいて、自分が別人格になりきって演技できたと言うことは、他人だったらどう考えるか、あるいはどう行動するかと言うことを考えることができるいいきかけとなったことは事実である。
この前TVのニュースで、少年院の更正プログラムとして、劇を取り入れているという話しがあったが、このドラマ劇において何かを演じると言うことは、他人を知り、自分を理解する上では大きな意味があるだろう。
自分が演じたのは聖書の「GOOD SAMARIAN」をベースにしてつくられた劇であるが、この「GOOD SAMARIAN」という物語は「誰が自分の本当の協力者になったか」ということを伝えていて、最終的には敵対関係にあった人種が本当の協力者となったということから、人種の壁を越えて人間が支え合う必要を示している。
自分が思うにドラマというのは、感性を養うだけではなく、こういう道徳教育も養うことができる手段でもある。
劇と言っても聖書劇だけではない、シャイクスピアやいろんな名作と言われる脚本があるので、それを演じてみるのもいいだろう。
とにかく演じる側は演じた相手になりきらなくてはならないので、自分とは違う他人をその中に見ることができる。おおげさかも知れないが、日頃他人のことを考えられない人間にしてみればそれはいい機会かも知れない。
またラテン語で人格というのはペルソナというが、これはもともと役者がつける仮面のことで、人間は社会的立場や役割において、このペルソナをつけて演じているというが、まさに人が他者の役を演じると言うことは、そのペルソナをまとうということであり、心理学的に人格というものを理解する上では、重要なことかもしれないと思っている。
ドラマというのは古代ギリシャ時代からあるが、教育のプログラムとして、やり方次第では大きな意味のあるものとなりうるのである。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スピリチュアルなもの

2008-07-10 | Weblog
WHO(世界保健機関)の健康の定義は、身体的、精神的、社会的に健康であるというように定義されているが、最近そこにスピリチュアル(霊的、宗教的)に健全であるということを加える動きがあるらしい。
一体何がスピリチュアルかというと、おそらくテレビで出てくるインチキ霊媒師の言うスビリチュアルということではないだろう。
ここでいうスピリチュアルというのは、キリスト教で言う三位一体の霊ということばを公に表せないので、あえてスピリチュアルという言葉にしたのだろう。
しかしそれではあまりにも彼ら彼女らの宗教をおしつけるきらいがある。あえて言うがこういう独断的なやりかたをするから問題になるのだろうと思う。
しかし強ちスピリチュアルにおいてという言葉は否定できない、おそらくここでは大多数がその霊のことをいっているのだと思うが、彼ら彼女らの言う霊とは、霊媒師を通して都合のいいとき現れ何かをうったえかける霊ではない。
それは人格的なものよりも、むしろ実態があるようでないもののことであり、それはプネウマと言って、しばしば風や息とも訳されるそうであるが、そういう目には見えないが風をうけるように、自分たちに働きかけてくれる霊に満たされるということが、おそらくここでいうスピリチュアルにおいて健康であるということではないかと思う。
だから西洋人が教会に行って話しを聞くのは、ただ単に善いお話や、道徳の勉強をすることではない、確かに宗教教育という道徳があるが、しかしそれはこれとは別の次元で、彼ら彼女らは、その霊の部分において満たされたいから教会に来て、スピリチュアルの源であるバイブルの話しを聞いて満たされるのである。
昔向こうにいた時、友だちに教会に誘われていったことがあるが、その時なんかわからんがまわりがトランス状態になって、ひいて帰ったことがあるが、まさにこれらもその霊において満たされるための儀式であり、このことからも教会はただ単に話しを聞きに行くところではないということが理解できる。
少しうがった見解かも知れないが、日本人がすべてのことにおいて消極的であると言われているのは、まさにこの部分に匹敵するパワーの源がないからではないかと思っている。
西洋人が自分たちに比べて精力的で活発なのは、そういうスピリチュアルな霊をもとめ活力を得ているからだろう。
自分はこの霊的というかスピリチュアルなものは、たいへん重要であると思っている。そしてこのボクシングには、宗教とはまったく関係なしにそのスピリチュアルなものが働いていると思っている。
競技を終えた後に得る大きな充実感や勝ったときの自信は、まさに口にあらわすことのできない喜びであり体験であるし、何よりも試合の時、自分たちは何かの力によって支えられ、押されているという体験をするが、ボクシングとは、ある意味スピリチュアルなスポーツでもあり、それをやってる我々はWHO的にもスピリチュアルにおいて健康である。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FAIR WIND

2008-07-07 | Weblog
昨日兵庫県でゴールデングラブが開催された、毎年100名ぐらい出場する大きな大会らしい。今回兵庫県と言うことでラッキースターとして出場、お互い同盟なので、試合出場に関してはMTオリーブであっても、ラッキースターのメンバーである。今回4人の選手が優勝し、うち一人が優秀選手賞という栄誉ある賞を獲得した。特に優秀選手はMOBの選手だが、ここまで来るには彼なりのたくさんの苦労があったことを自分は知っている。
自分は50戦以上ボクシングを戦ってわかることは、ボクシングは決して一人ではできないということである。
昨日のMIXIで勘助さんがその苦労を知って、思わず2回彼の背中をたたいたと書いてあったが、戦う選手にとって大事なことは、誰かがどこかで必ずその戦う人間を見ていてくれ応援してくれていると言うことで、そのことに気づかなくては、その戦い自体が、無味乾燥なものになってしまうということだ。
自分はよく試合中にFAIR WIND(追い風)を感じた。追い風というのは声援やまわりの人の支えであり、その声援や支えががまさしく自分を強くしてくれるのである。
今回彼にも多くのFAIR WINDをおくってくれた人たちがいた。ラッキースターのひとたちである。おそらく彼もそのFAIR WINDを背中に感じ、戦ったのであるが、おそらくその声援や支え、協力がなければ彼はここまでこれなかっただろう。
試合中にそのFAIR WINDを感じる人間は実力以上の力を発揮できる。
自分の強さはここにあったと思うが、おそらく海外で孤独ということを体験したからこそそれを感じ、自分の力に取り込んでいくことができたと思う。
試合は決して一人で戦っているのではないということを自覚しなくてはならない、ついているセコンド、監督、そして何よりも試合会場にきたジムの人間が自分たちを支え応援してくれることを励みにして戦わなくてはならないと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

pros and cons

2008-07-04 | Weblog
昨日親しい専門職の人が、「仕事でいやなことがあったんですよ」と言ったので、自分の仕事論を語ってしまった。
どうやらクライエントに理不尽な人間がいるらしく、恐らくわけのわからんことを言って、困らせたり、プライドを傷つけたりするのではないかと思っている。
専門職というのは立場的に難しい、それがサーヴィス業的なものであればなおさらのこと、相手が理不尽な人間であれば、相手が専門家というよりも、自分が客という立場を強く主張し「金をはらっているのだから」という態度ででてくる。
しかし自分の場合も専門家という立場であるが、自分はこれらのことを経営するにあたってまず理念がある。言い換えてみれば自分には「夢」があるのだ。
だからボクシングクラブで言えば、自分はこういう考えでジムをやっているのだから、いくら金をつまれても、このジムの理念にあわなければ断る。
自分は利益を追求するタイプではない。何度も言うようであるが、このジムを経営したのはサラリーマンや中年、女性がボクシングを通して、この場が彼ら彼女らの癒しの場となるためである。
中年や女性、サラリーマンから、学生、子供までそういう人間が、この場につどいこのボクシングを通して、励まされ元気になって帰って行くジムをそういう場にしたい、そう思ったからボクシングクラブを経営したのだ。
だから前のブログでも言ったが、特に女性や子供に悪影響と見られる人間は、入会をことわっているし、。またジムで金をはらっているから偉いんだという態度の人もそれは違うとはっきり言う。それが自分である。
しかしこれでも30代の時は、こういうことを言っていたら「現実はちがう、お前はまだ若い、理念だけでは経営できない、考え直せと言われた」しかしそれから10年以上たってわかったことは、仕事には信念とプライドをもって臨めと言うことである。
考え方をきちんともっていれば、その考え方をわかってくれ、支えてくれる人間があつまってくれるのだ。
今現にこの自分の考えを共有してくれ、手伝ってくれる人たちがいる。
子供達のスパの相手、いろんな立場の人たちに対する会員の気遣いがそうである。
特にはじめて来られた方や、新しい方にサンドバッグやリングをゆずってくれることは、このジムのならでわと思っている。
「pros and cons」は英語で「賛否両論」ということであるが、これは決してこのことだけが正しいということではない、世の中にはいろんなタイプがあるのだから、自分のことをあまいやつ、現実がわかっていないという人もいるだろう。しかしこれが自分の仕事のやり方である。
自分はボクシングクラブをひとつの学級経営のように考えているが、この場においてボクシングを通して「勇気」と「知恵」と「力」を与えられ、お互いが励まされ、成長し、充実してもらいたいと願っている。
そのために自分はしっかりとした理念を持ち、その会員ひとりひとりの充実と成長のためいろんなことに配慮し、考えて行かなくてはならないと思っている。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

We would rather be a turtle than a rabbit.

2008-07-02 | Weblog
ある試合会場で、監督がまけた選手をあつめて、人前でののしりビンタを連発したという話しを聞いた。
こういう話しを聞くたびにはらただしい思いをするのであるが、自分に言わせればどうして好きなスポーツをやってなぐられるのかわからない、また人前でビンタをするというのはもってのほかで、負けたぐらいで人前で選手をののしりなぐることは監督としてだけではなく、社会人としても失格である。
最近へってきてるとはいえ、意外なことにこういうことはよくあることである。
特に厳しいスポーツ部ではよくあることと聞いているが、犬やネコに芸をしこんでいるわけではあるまいし、自分の要求通りにできなかったからといって、ののしりなぐると言うメンタリティーが自分には理解できないのだ。
競技をするにあたって勝ち負けにこだわることは大事なことだが、しかし負けてはいけないというのは先細りである。
選手は学校やチームのために競技をしているわけではない、こういうと個人プレーを重視しているように聞こえるが、しかし個人が競技に参加していることに意義を見いださなければ、全体のためにやれるはずはない。競技というのはまず「All for one 」であり「One for all」である。
個人の力や立場が重視され尊重されるからこそ、選手はその場に意義を見いだせるわけであって、負けたら終わりだという先細りの考えでは、そのスポーツをやっていることに意義を見いだせないのではないかと思う。
MOBは負けたら終わりだという考えはみじんもない、逆に負けたら「たかだかボクシングや」というし、連敗したからといってここに居場所がないわけではない。
ボクシングは勝つ人間もいるし負ける人間もいるのだから、それが一生懸命やってでた結果であるなら、その役割を演じたアクターのようなもので、決して恥じることではない。だからこのことをふまえ何よりも自分は負けた選手に充実感がのこるように声をかけ配慮している。
ボクシングを充実させるためには、自分の力を与えられた時間の中で、精一杯出し切ることである。
特に自分たちのポリシーは、相手よりも絶対的な力を身につけるということよりも、自分よりも強い相手に対してどうむかっていくか、自分より強いからこそむかっていくことにあるが、MOBのボクシングは、根本的に自分の弱さを認めることにある。
むしろ逆に弱いからこそ見えてくる大切なものがあり、弱いからこそそれを克服しなくてはならないという「勇気」と「力」が必要となる。
そこで本気でがんばるからこそ、それは大きな力になり、それが強い心をつくると自分は信じている。
なんども言うがスポーツをやっていて、大事なことは勝つことではない。
いかに自分がそのスポーツに養われ、努力できたかという充実感であり、そういう充実感があるならばボクシングををやっていて楽しいだろうし、逆に一度や二度の失敗ではころぶことがない、強い心を生みだすのである。
へりくつかもいれないが、もし勝ち負けがスポーツの意義を問うものであるならば、日常の義務をほったらかしにいて、それをやってきた者がもっとも多くの充実感を持つだろう。
しかし現実はそうではない、そういうものの多くは「負けてはいけない、負けたら終わりだ」という危機感をもって競技している。監督のビンタが物語っているように、いわば先細りである。
さっき与えられた時間の中で精一杯がんばるということを書いたが、我々アマチュア選手に必要なことはこれである。
ボクシングなんて一生やっていくものではないし、一生できるものではない。
その自分たちが、持つ日常の生活(学校、職場)から、与えられた時間の中でできる限りのことをしてリングに立ち戦う。そこに勝っても負けても大きな意味を見いだす。言い方を変えればそのことによって、ボクシングが我々に人生の付加価値をもたらすのである。
だから自分の考えでは、日常をほったらかしにして、ボクシングや野球やサッカーに興じることは決して自慢できることではない。
日常の生活と向き合い、その競技に一生懸命トライすることが、そのスポーツにおいて本当の意義を見いだすことができると思っている。
競技をやってきて、自分がどの大会で優勝し、その優勝したトロフィーを自慢げに飾って、これが自分のやってきたことだと言うよりも、多く負けてもボクシングを楽しく語れる人間のほうがいい、そのほうが幅のある人間に違いないからである。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする