脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

僭越ながら言わせていただく

2018-09-30 | Weblog

うちのクラブの会員の人たちは親切でみなさん余裕がある人たちだ。それしかできないからいばったり、目立とうと思って武勇伝ややんちゃ話などを自慢げにするアウトロー臭い人間もいない、女性も多くて格闘技のクラブらしくないスポーツクラブである。しかしこういう環境は自然にできるものではない。何が言いたいのかと言うと私がアウトローややんちゃですが入って来にくいと言うか来れないむしろまじめな社会人たちが入って来やすいようなしくみをつくろうとしているから、こういう環境下でトレーニングが可能になると言うことである。

ルソーは社会契約論の中で市民全体の意思を「volonté générale(一般意思)」と言う言葉であらわしている。これは国家は一般意思によって統治されることが望ましいとするルソーの考え方であるが、一般意思は英語ではgenral willと言う言葉である。この言葉は社会契約論においてしばしばでてくるのだが、しかしはっきりとは語られていない。単純に言えば個人が欲する何かではなく、誰もが望む自由、平等、平和であることを欲してそれを実現しようとするための意志で、それは公共のための意志であると言ってもいいと思う。少しルソーの一般意思の考え方からずれるが、コミュニティが自由であり、平等であり、平和であると言うことは誰もが望むことである。ここからは人間のレベルや教育の問題になってくるが、本当にコミュニティが自由で、平和、そして平等であることはひとりびとりの人間の質がわるければ実現しないことであり、公共性であるとか正しさと言うのを小学生レベルでとらえていたら決して理解できないことだ。

これはよく言うことだが、ド派手な格好で改造車にのって、武勇伝を自慢げに話すような奴にろくな奴はいないと言うとみんながみんなそうじゃないと言う人間がいる。しかしこういうことを言う人間は非常に稚拙であいまい。うちのクラブの人の大半はそういうことを言わないと思うのだが、それは彼ら彼女らがきちんとした正しさの基準を持っているからである。友達とはと聞かれて、なんかあった時に助けてくれるのが友達とか言う奴がいる。これは私のまわりのわるい奴らがもっともらしく言っていたが、しかしそんなことを言うよりも何があっても迷惑をかけないのが友達だ。いやというほど世の中のわるい部分をよく見てきた人間が言うが、きちんとした人とそうでない人はここが根本的に違う。アウトロー臭い奴は偉そうなことを言っても人を頼って生きている。だから集団で固まっているのだが、私から見たら自分に力がないので、常に人にあまえたり、利用しょうとしているようにしか見えないのだが、そのことがなんかあった時にと言う言葉によくあらわれている。しかしまじめに生きる人は自立しているので、なるべく人に迷惑はかけないように教育をうけて、一生懸命コツコツと働いている。こういう人たちはお金のことにもきちんとしている。アウトローは平気で人からお金を借りたり、貸したり、くだらないことで借金したり、社会できちんと生活していると言う自覚がないから人に頼ったり、かたまったりするのだと思う。あとこんなこといまだに言う奴がいるのかわからないが、学校でかしこいのと社会でかしこいのは違うとか、私に言わせてみれば勉強してないくせに、世の中の裏技みたいなことをかしこいことだと思っているような奴は非常に厄介、こじつけでもっともらしいことを言うが非常に稚拙で言うことが薄っぺらい。こういう奴は必ず自分の考え方を押し付けて同じような仲間をつくるから面倒で、うちではこういうグループができたらまとめて出ていってもらう。

人間と言うのは非常に自分勝手で自由や平等そして平和というのは個人差があるので、一般意思と言ってもそれを定義することはむずかしい。だからこそ一般意思の実現はその群れにどういう人たちが集まってくるかが重要なのだ。このことはよくブログで説明しているのであえて書くことはしないが、私が言う正しい人間をそのコミュニティに集めたかったら、言葉を学んで言葉の質をよくする必要がある。責任者の言葉が稚拙で、とぼしい、おまけに乱暴だとそこに集まってくるのは同じかそれ以下、決してそれは有機的であるとは言えないだろう。しかし責任者の言葉が洗練されていたら集まってくる人たちも違うし、そのコミュニティは力になると思う。




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言ったらやれ

2018-09-27 | Weblog

最近ゲームの影響かどうかはわからないが、大言壮語をする人間が増えてきているような気がしている。次の試合では絶対勝つとかすごい強気な言葉を並び立てる。しかしそういうやうに限ってまけることが多いのだが、失敗したらすぐへこみ、しばらくたつとまた同じことを繰り返す。そういう人間が多いことに少し驚いている。「責任」という言葉があるが、こういう人たちは「責任」という言葉をどう考えているのであろうか。いずれにせよ言ったこと行動したことには、自分で責任をとらなくてはならない、これは社会の常識である。

自分も昔は口がわるくて、big mouthであったことは認める。一度優勝宣言をしたが、しかしそれは大きいプレッシャーであり、途中あんなことをいうんじゃなかったなどと思うこともあったが、それだけ人前で大きなことを言うのはたいへんなことなのである。その大会はそんなに大した大会ではなかったが、実際優勝できたのだが、その時うれしかったというよりもむしろほっとしたというのが本音だ。自分が思うに「自信」というのは言わせてもらえるから言うたわごとでもなければ、思い込みではない、努力の積み重ねである。自分も偉そうなことを言ったからには、やらなくてはいけないとがんばって練習したが、最近ポジティブシンキングとか何とかで、勝つイメージをつかむことが大事だといわれているが、しかし本当に自分を支えるのは、そういった非現実的なことではなく、これだけ練習してきたんだという「自信」である。だから実績もなく、練習量も並みの人間に大きいことを言う資格はない、とにかく普通以上にがんばるからこそ「自信」が生まれ、そういう言葉がでてくるのではないだろうか。最近自分は一番になるとか、bigになるとか軽はずみに言う人間が多い。しかし彼らはこういう発言にこそ人間の価値が問われるということを知っているのか不思議である。

アメリカのジムに一人の男がいた。彼は世界ランキングにランクインされた人間だが、自分はかつて彼の悔し泣きを一度だけ見た。試合の内容がよほど悔しかったのであろう。彼は周りのことなど気にもせず悔し涙を流していたのだ。自分はその時、こいつは強くなるなと思った。なぜなら泣くということは自分のやって来たことに自信がもてるわけだから、それだけ彼は練習をしてきた、だから試合の内容に納得できず泣いていたのである。

話は少しずれるかもしれないが、人前で大きいことを言うのも同じである。
それがみっともないか、真実であるかは、どれだけのことをやってきたか、あるいはできたかということにかかっている。


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クラッシックがハードロックに勝った瞬間

2018-09-26 | Weblog

試合の前にはクラッシックを聞いてリラックスするのが私の試合前の作法だ。いつものように会場の控室のようなところでクラッシックを聞いていたら、斜め横5メーターぐらいに同じように音楽を聴いている奴がいて、たぶんハードロックを聴いているのだろう時々シャウトしやがってすごく耳障りであった。うるせーなーと合図をしたがガン無視、しかもマイケルジャクソンばりの高音でさけぶからうっとうしい。もはやこいつは私の邪魔者でしかないと悟った私は外に出て行ってクラッシックを聞いて集中力を高めた。でもその男は私よりも重い階級でエントリーしたが判定でまけていた。勝った私はそれを見てF〇ck you!とつぶやいたかつぶやいていないかは想像におまかせするが、まさにこの時クラッシックがハードロックに勝った瞬間であった。

これは私の意見であるがボクシングも含めて格闘技をやっている人間は教養のレベルが他のスポーツに比べてひくいと思う。特に共通語を話せる人間がほとんどいないというのもなさけない話だが、共通語ができないときちんとした情報が入ってこないし、こてこての体育会系でやってきた人間が海外、特に欧米の個人主義で人権を重んじるスポーツ教育など理解できるはずもない。選手ファーストなんて言ってもそういうことを肌で体験できない人間がまず全体の呪縛をといて刷新などできない、教養がなければ物の見方が一面的になるし、それ以上の考え方を理解できないので受けいれることができない。基本的に格闘技をやっている人間は気が小さい人間が多い。とにかく上下関係をはっきりさせて自分が上の立場だと親分肌で面倒見を強調し、下だと相手をしらじらしくもたてるような関係が礼儀正しいとする滑稽な関係は私には理解できない。とかく教える側は自分への尊敬と服従をもとめて、それに答える人間はかわいがるのだが、こういう人間は小さくかたまろうとする、もともと地頭が高い人間はそうでもないのだろうが、気が小さくて自信がないのでまともに人と話ができない、できないから力関係や上下関係で相手をしばろうとするのだと思う。

文学やクラッシックなどの知的教養をたしなむということは余裕を持つと言うことだ。自分の小さい世界だけで理解してその世界に同じレベルの人間たちをひきよせて小さな自己満足をする指導者は害を生む。そのスポーツをやっているときはまとまっているように見えても伝わってくる話を聞くと実際はそうではない。同じような連中がそこに集まっているからそれがそこの常識になっているのだろうが、しかし世の中一般で言えばかなりずれていることが多い。裸でトレーニングしたり、武勇伝ややんちゃ話を堂々とする。まわりがひくような暴力的なトレーニング、暴言、パワハラなんて言うのもそうだ、それはただコーチだけの問題ではなく、こういう集まりだからそういうあほな常識が常識とみなされた結果だと思っている。私の意見では問題を起こすような団体は教養的なことや教育的なことがしっかりしていない、知的教養的なことをたしなむことができないから余裕が持てない、人間としての幅が狭いのだと思う。我々のような特にこういう暴力をあつかうようなスポーツを競技している人間はクラッシックを聴いたり、文学を読んだりして知的な部分を養って余裕を持つことが大事なことだ。

 

  


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Tactics

2018-09-22 | Weblog

自分の愛読書は孫子の「兵法」と「バイブル」である。特にバイブルは英語で読んでいる。これらの書物は経営とか組織そして、指導をする者にはたいへん役に立つ書物であるので、ボクシングや格闘系のスポーツをやる大学生には必読の書である。ちなみに自分が学生たちにすすめているのは、まずこの孫子の「兵法」、マキャベリ「リゥイゥス論」、クラウゼヴィッツ「戦争論」リデルハート「戦略論」そして最後に、人類の知的遺産といわれている「聖書」である。この5つの書物は人間観察や、組織をどう形成していくかと言う上では非常にためになる書物なのでお勧めしたい。

さて話は孫子の兵法の話に戻るが、孫子の兵法は大まかに言えば、守りが基本にあるといってもよい。孫子曰く基本的に防御力は確実に自分で高めていくことができるらしい、これに比べて攻めると言うことは相手も同じく、戦力や防御力を高めているのだから、もし攻めるならば、相手の戦力や防御力をさらにうわまらないと勝てない、だから自軍の防御力を上げるほうが得策であるというわけである。確かに湾岸戦争で有名になったシュワルツコフは、攻撃側は防御側の3倍の戦力がいると言うが、孫子の「兵法」に於いて負けないと言うのは、防御を徹底してしっかりさせることなのである。
この見解はいささか議論の余地があると思うが、ボクシングにおいてもその防御を徹底させるということは、負けないボクシングを確立させる条件であると思っている。
われわれはどちらかと言うと、守りより攻めの練習を多くしているような気がする。
実際パンチをうったりするのに、多くの時間をさき練習はするのだが、こと防御になると、せいぜいコンビネーションをうつ時か、マスボクシングの時ぐらいで、きちんとしたフォーメーションで実践的な練習をしてこなかったのである。これはある会員と話をした時に、彼が言っていたことであるが、外国のチャンピオンで非常にジャブのつかい方がうまい選手がいて、彼のボクシングはガードをしっかりかためて、左を多くつかって相手を倒すそうである。自分もそういうボクシングをめざしたいんですと言っていたが、私はこの話を聞いたとき「へーっそんな選手いるの、でも左だけでたおせんのか」と半ば、それは特別な場合で、特別な選手だけだと言う感覚で言ったのだが、しかし今思えば、彼の着目点はすばらしいと思う。防御と言うのは重要である。しかし防御だけでは勝てない。
だからこそ、リスクの低い左を強化し、防御力をあげていく練習をすれば、孫子の言っている負けない、そして勝ちにいけるボクシングが実現できるのではないかと思っている。
攻めるというのは実に難しい、力のいることである。だから攻めることばかり考えるよりも、守りということからボクシングを見てみるのもおもしろいのではないだろうか。

ちなみに私がたいした実績をえれなかったのはディフェンスがへただからだ。





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私のちょっとした組織論 戦略編

2018-09-20 | Weblog

私にはクラブを管理してうえでの戦略がある。長々書くと私の考えていることがわかるので詳しく書かないが、おおまかに言うと3つのDである。
3つのDはそれぞれ心がけていることの頭文字であるが、私がクラブを運営するにあたって心がけているのは「Drastic」「dogma」「double standard」の3つである。
まず「Drastic」と言うのは思い切ってなんでもするということ。トレーニングのこともそうだが、暴力や暴言など女性や子供がこわがるような悪影響を与える人間やクラブをみだすようなグループは何人いようが容赦なくやめてもらう。うちのクラブは一般の社会人の常識に基準をあわせて運営している。それはここがおもにまじめに生きている社会人のために運営しているからであり、そういう人たちが安心してトレーニングできるようにするためだ。少し前くわえたばこをしながらたむろしていた、むかしやんちゃしてましたと言うようなカラフルなおっさん、大きい声で笑って、その吸ったたばこを平気でポイ捨てする。でもこういう奴に限って愛想よくこんにちはとあいさつできる、しかも話してみたら案外いいやつだ。でもかと言ってくわえたばこをして道にポイ捨てするような行為はクズ行為だ。おそらく私がアウトローはこうだと言うとみんながみんなそうじゃないという奴はただそいつが愛想がよくて情があるからいい奴だと勘違いして言っているが、しかし集団と言う場ではあいさつをするとかそういうことよりも、くわえたばこをしない、ポイ捨てをしないと言うコモンセンスをしっかりとわきまえるほうが重要なことである。おそらくうちのクラブの人たちはいくらその人間が愛想よくてあいさつができても、くわえたばこをしてそのたばこをポイ捨てした地点で、しかめっつらをするのではないかと思っている。そしてそういう感覚を持つことは、まともで秩序あるコミュニティを保つためには必要で重要なことである。うちのクラブは女性が多く、年配の人も多い、カラフルな人たちが少ないのは、実際にそういうところをしっかりと見て運営しているから常識的な社会人が集まりやすいのだと思っている。あいさつしろとか声が小さいと言うようなことは言葉をもてばサルでも言える。人間のコミュニティに必要なのはただそれを抑えるだけの秩序やルールではなく、洗練された人たちあるいはまじめな考え方を持った人たちが集まることによって自然と保たれる秩序やコモンセンスであり、そのことによってそのコミュニティは有機的であると言うことができるのだと思う。

クラブにどういう人間が集まってくるかということはそのクラブの質にかかわる。さらに2つ目のDは「dogma」であるが、「dogma」と言う言葉はなじみのない言葉だが、かいつまんで言うと、どういう哲学を持って運営しているかということだ。これについては特に書かないがしかしこの「dogma」がしっかりしているかしていないかで、集まってくる人間の質も違うし、クラブの雰囲気もかわってくる。しっかりとした「dogma」をもってしっかりとした人間が集まれば、おのずと群れの秩序は保たれると思う。

さらに3つ目は「Double standard」一面的な見方をしない、常にこのことに関しては違う意見があると考えることである。日本人、特に体育会は一面的にしか物事を考えることができない、あいさつは基本だと言うとあいさつできない人間をダメだとみなすが、しかしここではできない人間はその人間なりにできない理由があると考える、そしてもし本当にあいさつすることがその子にとって必要であるならばこちらから気持ちよくあいさつすることにしているのだが、物事を一面的にしか見れないようでは個性をつぶす。何事にも多面的な見方がある。その多面的に物事を見て判断できるぐらいの知的レベルを責任者に求めてもいいと思う。


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私のちょっとした組織論 責任者編

2018-09-18 | Weblog

うちのクラブもだいぶ大所帯になってきた。そこで私が持っているコミュニティのとらえかた、そしてそれをどう運営しているかと言うことを少し書きたい。

まずその責任者は孤独であること。誰からも関心をもたれなかってもひとりで立って歩くことを恐れないということだ。自分のことをわかってもらいたいとか、自分を大きく見せるような行動や言動は慎むべき、主役はあくまでここに来ている人、そういう人たちを差し置いて関心を引くために自分を大きく見せたり必要以上に自分の話をしない。常に人と距離を置いて客観的に見て、公平な立場でいれるように心がけるのが大事だと思う。ここに来ている人たちは責任者の自慢話などを聞きに来ているわけではないし、そういうことには関心がない。何も知らないと思ってたいしたこともない実績を針小棒大に語ったり、自分を大きく見せて教えるスタンスは限界がある。格闘技の世界は実際そういう人間がいるのだが、教えてもらうほうもテンションが下がるし、その人間の価値が下がる。大事なのは管理者である私が黒子に徹すること。自分よりも会員、そしてトレーナー、そういう人たちの賜物を理解して大事にしていくことで正しい有機的な相互関係がジムにうまれてくると信じている。管理者は孤独である。だから人が自分のことをわかろうがわかるまいが、そのクラブをよくするために自分の信念に基づいて行動する。そしてそのためにはしっかりとした哲学を持つことだと思う。

そしてもう一つは感謝し感謝される関係を築く。そのためにはトレーナーが気持ちよく自発的に教えることができる環境をつくる。ひとりびとりがこのジムには重要な存在であり、必要とされていると言う環境を口ではなく、その彼彼女のギフト(賜物)を理解して、働きやすい場を作ると言うことが大事だ。そして道筋がずれたら、それは違うと言えるしっかりとしたぶれない考え方をもって安心してここで教えてもらえるように努力すること。うちのトレーナーは本当に献身的に頑張ってくれている。試合に出るとかでないとかそういうこと関係なしに一生懸命公平に教えてくれるトレーナーたちには本当に感謝しているし、生き生きと楽しく教えてくれているトレーナーたちが、ジムの雰囲気を本当によくしてくれていると思う。感謝しあうことができ、信頼できるコミュニティはそれ自体が大きな力だ、ここに来てこのコミュニティの中で楽しく意味のある時間をすごすことで、希望や、勇気、そして元気と言う言葉を感じてほしい。人間はひとりびとりは無力であるが、しかし支えあうことで大きな力が生まれると思う。よくやったね。ありがとう。感謝してるよの一言は単純な言葉かも知れないが、しかしそれがしっかりとした相互関係の中で語られる時、人間の存在を確かなものとするだろう。人間は存在を認められなくては成長しないし、生きていくことはできない。感謝しあうと言うことはお互いを認め合うと言うことだ。そしてボクシングはその競技を通してそれができる素晴らしいスポーツだ、そしてそのスポーツをそのようにするためにはしっかりとした土台が大事である。

こういった私の群れに関する形成論はアドラーやフロムを参考にしている。ちなみにおもな参考文献はAlfred Adler 4 Book Collection: WHAT LIFE COULD MEAN TO YOU; THE PATTERN OF LIFE; THE SCIENCE OF LIVING; THE NEUROTIC CONSTITUTION (Timeless Wisdom Collection)

The Art of Loving erich fromm

The Art of being  erich fromm

 


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He took pity on him.

2018-09-16 | Weblog

この前障害者と思われる人がつきそいの人とスターバックスに来ていた。少しからだが不自由なのでその付き添いの人に助けてもらってケーキを食べていたのだが、その時ふと気づいたことがある。それは自分を理解ししてくれる人がいるかどうかということである。たぶんその人はその支えてくれる人がいなければここに来て何かを食べることはできない。しかしその様子を見てそういうディスアドバンテージを理解し、支えてくれる人の存在がいるということは幸せなことではないかと思った。たとえ体が丈夫であっても誰からも相手にされない、理解されないと心がやんでくる。マザーテレサはカルカッタには誰にも気づかれないで死んでいく人間がいる。そう言う人たちの隣人になるために活動をしたと言っていたが、人間に必要なことは誰かが自分を理解してくれること、そして自分を必要としてくれる人間の存在である。おそらく若い時の私であったならば、自分で何でもできないのはかわいそうだと思ったかもしれない、しかし年をとって見方をかえれば、自分を理解しそして支えてくれる人がいることは幸せなことだと言うことができる、たとえ同情的であったとしても自分の存在をうけとめて支えてくれることはある意味そこによい理解者がいるということでもあろう。

聖書の中にGood Samarianと言う有名な物語がある。もう何度も例えているので説明しない、そのまま原書をここにはりつけるが、On one occasion an expert in the law stood up to test Jesus. “Teacher,” he asked, “what must I do to inherit eternal life?”“What is written in the Law?” he replied. “How do you read it?” He answered, “‘Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your strength and with all your mind’; and, ‘Love your neighbor as yourself.’”“You have answered correctly,” Jesus replied. “Do this and you will live.”But he wanted to justify himself, so he asked Jesus, “And who is my neighbor?” In reply Jesus said: “A man was going down from Jerusalem to Jericho, when he was attacked by robbers. They stripped him of his clothes, beat him and went away, leaving him half dead. A priest happened to be going down the same road, and when he saw the man, he passed by on the other side. So too, a Levite, when he came to the place and saw him, passed by on the other side. But a Samaritan, as he traveled, came where the man was; and when he saw him, he took pity on him. He went to him and bandaged his wounds, pouring on oil and wine. Then he put the man on his own donkey, brought him to an inn and took care of him. The next day he took out two denarii and gave them to the innkeeper. ‘Look after him,’ he said, ‘and when I return, I will reimburse you for any extra expense you may have.’ “Which of these three do you think was a neighbor to the man who fell into the hands of robbers?”The expert in the law replied, “The one who had mercy on him.”Jesus told him, “Go and do likewise.”

そのサマリア人が倒れた男にかけよった理由がHe took pity on him.と書かれているが、日本語訳では憐れに思ってと訳されている。もともとpityと言うのは自分よりも弱い立場の人間に示す気持ちである。おそらく他の英訳ではSympathizeと訳されているのもあるが、しかし原書ではここはσπλγχνινομαιという言葉で、それは内臓をあらわす言葉だ。日本語でも断腸の思いと言う言葉があるが、まさに彼はその倒れた人を見て憐れに思って心を突き動かされ、いたたまれなくなったからそうしたのだ。だから英訳としてはpityのほうがσπλγχνινομαι近い言葉であると思う。おそらく自分たちが弱い人立場の人たちに何かをするとしたら、それは同情である。それはある意味、余裕のある人間が何かをしてやろうと言う傲慢にもつながるだろうが、しかし大事なことはそこに痛みを感じるかどうか、その人を見て心が痛むかどうかと言うことではないかと思う。うちのボクシングクラブも人身売買から子供を救うことを支援する団体に毎月少額ではあるが寄付している。しかしそういったことは自分の体験や経験からくる同情のようなもので、信念や哲学とかそういうことではなく、そういう存在をおぼえるといたたまれないからそうしていると言ったほうがいいだろう。もともと弁が立つので私がこういうことを強調したらきれいごとや学問的な考察のように聞こえるかもしれない、そしてひょっとしたらそれは自己満足であるようにさえ聞こえる。でもしかしもしそこに痛みを感じるならば、それは決して間違った方向に向かわない、それはやがて真実の助け合いに一歩でも近づくのだと信じている。

人間同情することは大事なことだ、それは痛みや悲しみを共有できるからこそおこってくる感情だ。ハワイでジウンが泣かないと言うことを貫こうと無理している私に「人間が悲しいと感じる時泣くことは大事なことだ、よく怒りを力に変えるとかいうけれども、人のために涙を流すことは人のために何かをしたいと言う気持ちが生まれてくる。そういう力が世の中をかえることもある。私は人のために泣けない人は信用しない。だから傷ついた時は泣いてもいいと思う」と言ったことは前のブログでも言ったことだ。人間の傷ついた感情は泣いて表現できるから伝わるし、その伝わった感情にまた同情して泣く、人間はこの特別な感情を大事にして生きていかなくては人生が無味乾燥なものになってしまう。そして人間は自ら傷つくからこそ相手の気持ちがわかり、人間特有の助け合いの気持ちが生まれるのだ。それが泣くものとともに泣き笑うものとともに笑うというキリスト教徒である彼女が言うLoveである。私は笑ったり泣いたりするのはまさに人間の気持ちや感情を豊かにし、その人間の幅をつくるものだと思っている。人間は助け合うことが大事だ。でもその助け合う前に自らも傷つき涙を流すことも大事なことである。人間はよわい、いくら強がっても偉そうにしても限界がある。それよりもむしろ弱いからこそ支えあって同情して生きるほうが強くよりよく幸せに生きれると思う。

 

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It is only with the heart that one can see rightly,what is essential is invisible to the eye

2018-09-14 | Weblog

私の私の親しい韓国人の後輩に高校生の娘がいる。日本に滞在しているので日本語が第一言語になっている日本語、韓国語、英語の3か国語を話す才女で、お父さんの都合で日本にいるので、日本の某進学校で日本人といっしょに勉強している。彼女と私はうまがあうと言うか彼女が私を尊敬しているのでよく話をする。でもこの前日本人と韓国人は明らかに違うと言った時に彼女がこう言った「私は日本人をちがうと思ったことがない、違うと思ったら仲良くなんかなれない。」彼女曰く同じアジア人だから心が通じ合えないことはない。明らかに違うなんて言うのは私の偏見だと言うのだ。その時私はたぶん彼女は今、日韓問題でいろいろなことが起こっている中、彼女なりに悩んでいる。そしてその悩みをネガティブにとらえて日本人は違うからと自分のカラに閉じこもるのではなくて、積極的に彼ら彼女らかかわって友情を築こうとしているんだと思った。おそらくその違うと言う言葉のとらえ方が思春期の子供と私では違ったのだろうが、しかしこの子は日本で日本人のように生きようとしている、友達は日本人だし、ひょっとしたら日本人と結婚する可能性もある。おそらくそれは彼女が日本に長く住んでいるので、同化であるかもしれないが、しかし韓国人としての彼女の大きな決断もあったと思う。

だいぶ前NHKのドキュメントで智弁学園と言う進学校が、毎年韓国の高校と交流しているという話があった。その交流はもう何十年も続けられているらしいのだが、日本と韓国が何十年も前から交流を持つということは軍事政権時代のことを考えれば考えられない、大きな意味のあることである。そしてその高校では毎年韓国からホームステイを受け入れているが、その注意事項でその韓国の高校の教師が生徒にこう言っていた。「日本の家庭に行って戦争のことや竹島のことは言ってはいけない、もし聞かれてもノーコメントだ、もしそこで何かを言うとそのことで将来君たちを助けてくれる友をうしなうことになる。だからノーコメントだ」半日教育を受けてきた人間がここまで言えるのはすごいことだ、普通自分たちの居場所を確保するぐらいなら、将来君たちを助けてくれる友をとそこまでは言わないであろう、お互いがお互いのことを考えて、そしてお互いが歩み寄り、交流することが大事なことだと思っている。そうでなければ何十年も交流は続かなかったであろう。今わるいことばかりに目をむけているが、しかし事実こういう友情は存在するものである。たぶんこういう交流は全体からすればかなり少ないのかも知れないが、しかしお互いが心を開いて個と言うレベルで人間として交流できれば、心と心は通じ合えると信じている。

韓国には恩や恨と言う言葉がある。しかしこの言葉は日本語のうらみつらみといったことよりも自分が何かを伝えたい、でも伝えられない時におこってくる感情のことで、韓国人の女性はその恩や恨を歌に込めてうたう。今日あげた曲もまさにその気持ちを綴った曲、詩がわかれば内容に日本人もせつなさを感じるだろう。

 

 

 


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mannerではなくmanners

2018-09-12 | Weblog

私の監督はヨーロッパ系の人間でインテリ、がさつなことが嫌いな人だった。これはエレベーターでの話、そのエレベーターに知り合いの年配の女性が乗り込んできた。その時私は後ろ向きにキャップをかぶっていたのだが、彼はHey!と促す。えっと言うしぐさをしたら帽子をとれこのバカ者がと言うぐらいの勢いでジェスチャーした。こういうことを言えば少し女性蔑視かもしれないが、いつも彼を見ていて思うことは彼のこういった行動はよくある男が女にいいところを見せるためのかっこつけの行動ではなくて、彼は常に弱い存在をいたわっているということであり、そのことを彼から学んだと思う。

うちのクラブは暴力を徹底的に排除している。まず暴力を語られる上で大事な視点は女性や子供の視点に立つということだ。暴力は力の弱い女性や子供の視点で見ることによって、それを徹底して排除できると考えているが、まず裸でトレーニングする奴、ただでさえ汗を飛ばすのにその見たくもないからだをさらして、全身で汗をとばす、女性の中には不快感をおぼえたり、人によってはこわいと恐怖をおぼえる人もいるだろうが、女性もいる公共の場で裸でトレーニングすると言うのはちょっとした暴力だと考えているが、絶対うちではこういうことはさせない。さらにただならぬ雰囲気で自分を追い込んで、へたれこんであたりかまわず寝転ぶ奴。一生懸命やっているのだろうがまわりに迷惑、そのただならぬ意味もない闘志に女性や子供はひいてしまう。トレーニングするジムは公共の場だ、自分は試合に出るとか言って好き勝手にトレーニングするのではなくて、女性や子供そして年配の人のことをおぼえて自分なりの作法をもって相手をいたわり思いやることが大事だと思っている。うちのクラブで自慢できることは、それぞれがみんな作法をもってトレーニングしているところだ。暴力的なトレーニング、威嚇するような大きい声を出さない、ゆずる。汗をかいたらシャツを着替える、どこでもへたばって寝転ばない、こう言ったことは私が禁止事項にしているわけではなく、みなさんがまわりに気をつかってくれてのことであり、そういうことが自然にできているから気持ちよく楽しくトレーニングできる。作法とはマナーのことだ、正確に言うとMannersでsがつくのだが、それはTPOを考えてつかいわけなくてはならないということだ。たいしたこともないのに自分の実績を針小棒大に自慢する元ボクサー、やんちゃ話や武勇伝をさもすごい経験かのごとく話すアウトローくさい奴、こういったことはある意味パワハラ、世の中では認められないからと言ってジムにきてこれ見よがしに自慢するような奴はうちのクラブでは害、そういうやつらに刑務所仲間をたよるようにたむろされて自慢話などされたらまわりが気持ちよくトレーニングできなくなる。

あいさつしろとか、くつがそろっていないとかそんなことは言葉を持てばサルでも言える。そういう人間に限って正しい日本語が話せない。話は監督の話になるが、私は彼からすごく大切なことを学ぶことができたと思っている。彼には確かに作法がある。日本の指導者はあいさつにこだわるが、しかしそういう小学生レベルのことをさもそれが黄金律だと押し付けるのがはたしてその人間を洗練するものかどうか、私は彼のように礼儀は知性やその人の作法を通して教えるものだと思っている。そういう意味で指導者は彼のように哲学を持ち、知性をみがくことは大事なことだ。


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Study First 2

2018-09-11 | Weblog

DVの構造は暴力をふるって、お前のためだとなだめて相手を意のままにする洗脳のようなもの、それを子供のころから繰り返されるとそれが真実になる。そしてDVの場合はそれが間違ったことだと理解させて正しい方向へと向かわせるのだが、しかしスポーツの暴力は記録のためだと本人がそうでないと言えばそれはDVではないようだ。今回の体操の事件はまさにそうだが、はっきりいって体操の内部のことなんてどうだっていい。でもしかしこういう暴力に関して一般的な価値基準を通すことができないというのは不条理であると言ってもいい。髪を引っ張ったり、平手打ちで顔がはれるまでなぐると言うのは、もうこれからしないという問題ではないだろう。そういうことが明るみに出たのだから社会的制裁を受ける必要はある。こういうアスリートはこうと思ったらまわりの意見を聞かない、何が暴力なのかと言うのは客観的に見たらわかること、本当だったら犯罪で記事裁判になることをたんなる除名で済んでいること自体あまいと考えなくてはならない。スポーツと言うのはこういう時一般常識が通らない、今回の体操の事件はまさにそうだが、これからはアスリートも好きなことばかりさせるのではなくて、もっと正しい判断ができるようにそのスポーツ以外のこともしっかり学んで多面的な考え方ができるようにならなくてはならないと思う。

ボクシング協会も新しい会長が就任したらしいが、恐喝と詐欺で前科があるって本当なのか?おまけに風俗店をいくつも経営してるとか。これって本当に選手ファーストで人選しているのか不思議だ。AIBAの会長も麻薬の親玉だと言うことで、オリンピック競技になるかならないとかでアメリカの外務省だったか、もうれつに反対しているらしいが、こういう状況の中でそういう人物が全体の指揮をとるというのはずれているようにしか思えない。AIBAと言う団体は過去においても金銭がらみのトラブルがある。私なんかはどうしてもオリンピックなどの国際試合で活躍できる環境をつくったのも、前会長が疑惑で集めたお金なんかがうごいてるんじゃないかなーと疑ってしまうし、国際舞台で活躍させるにもお金が必要なのかなーとも考えてしまう。さらにAIBAの会長はかなり疑惑が多い人なのでそういう人物と渡りあうためには、前会長のような強烈な人間じゃないとだめなのかとも思ってしまうが、しかしスポーツを競技するほとんどの場は学校、いわゆる教育機関だ。私はそういう場ではまず第一に健全性が求められるべきだと思う。うちのクラブはギャンブル関係やキャバクラとか夜の店がのっているような雑誌には絶対に載せないし、取材が来ても思い切り断る。未成年の子供をあずかっているのだから、教育上不適切だと思うものを排除しているだけなのだが、私のひとつの信条は子供を扱う組織は灰色の部分をもってはいけない。正しいことは正しい、ダメなものはダメと言う適切な判断をすることだ。そしてそのためにはその組織そのものに説得力がなければだめだと思っている。

 

 


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