うちのクラブの会員の人たちは親切でみなさん余裕がある人たちだ。それしかできないからいばったり、目立とうと思って武勇伝ややんちゃ話などを自慢げにするアウトロー臭い人間もいない、女性も多くて格闘技のクラブらしくないスポーツクラブである。しかしこういう環境は自然にできるものではない。何が言いたいのかと言うと私がアウトローややんちゃですが入って来にくいと言うか来れないむしろまじめな社会人たちが入って来やすいようなしくみをつくろうとしているから、こういう環境下でトレーニングが可能になると言うことである。
ルソーは社会契約論の中で市民全体の意思を「volonté générale(一般意思)」と言う言葉であらわしている。これは国家は一般意思によって統治されることが望ましいとするルソーの考え方であるが、一般意思は英語ではgenral willと言う言葉である。この言葉は社会契約論においてしばしばでてくるのだが、しかしはっきりとは語られていない。単純に言えば個人が欲する何かではなく、誰もが望む自由、平等、平和であることを欲してそれを実現しようとするための意志で、それは公共のための意志であると言ってもいいと思う。少しルソーの一般意思の考え方からずれるが、コミュニティが自由であり、平等であり、平和であると言うことは誰もが望むことである。ここからは人間のレベルや教育の問題になってくるが、本当にコミュニティが自由で、平和、そして平等であることはひとりびとりの人間の質がわるければ実現しないことであり、公共性であるとか正しさと言うのを小学生レベルでとらえていたら決して理解できないことだ。
これはよく言うことだが、ド派手な格好で改造車にのって、武勇伝を自慢げに話すような奴にろくな奴はいないと言うとみんながみんなそうじゃないと言う人間がいる。しかしこういうことを言う人間は非常に稚拙であいまい。うちのクラブの人の大半はそういうことを言わないと思うのだが、それは彼ら彼女らがきちんとした正しさの基準を持っているからである。友達とはと聞かれて、なんかあった時に助けてくれるのが友達とか言う奴がいる。これは私のまわりのわるい奴らがもっともらしく言っていたが、しかしそんなことを言うよりも何があっても迷惑をかけないのが友達だ。いやというほど世の中のわるい部分をよく見てきた人間が言うが、きちんとした人とそうでない人はここが根本的に違う。アウトロー臭い奴は偉そうなことを言っても人を頼って生きている。だから集団で固まっているのだが、私から見たら自分に力がないので、常に人にあまえたり、利用しょうとしているようにしか見えないのだが、そのことがなんかあった時にと言う言葉によくあらわれている。しかしまじめに生きる人は自立しているので、なるべく人に迷惑はかけないように教育をうけて、一生懸命コツコツと働いている。こういう人たちはお金のことにもきちんとしている。アウトローは平気で人からお金を借りたり、貸したり、くだらないことで借金したり、社会できちんと生活していると言う自覚がないから人に頼ったり、かたまったりするのだと思う。あとこんなこといまだに言う奴がいるのかわからないが、学校でかしこいのと社会でかしこいのは違うとか、私に言わせてみれば勉強してないくせに、世の中の裏技みたいなことをかしこいことだと思っているような奴は非常に厄介、こじつけでもっともらしいことを言うが非常に稚拙で言うことが薄っぺらい。こういう奴は必ず自分の考え方を押し付けて同じような仲間をつくるから面倒で、うちではこういうグループができたらまとめて出ていってもらう。
人間と言うのは非常に自分勝手で自由や平等そして平和というのは個人差があるので、一般意思と言ってもそれを定義することはむずかしい。だからこそ一般意思の実現はその群れにどういう人たちが集まってくるかが重要なのだ。このことはよくブログで説明しているのであえて書くことはしないが、私が言う正しい人間をそのコミュニティに集めたかったら、言葉を学んで言葉の質をよくする必要がある。責任者の言葉が稚拙で、とぼしい、おまけに乱暴だとそこに集まってくるのは同じかそれ以下、決してそれは有機的であるとは言えないだろう。しかし責任者の言葉が洗練されていたら集まってくる人たちも違うし、そのコミュニティは力になると思う。