脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

MOBの正義論

2023-07-28 | Weblog
空港とかショッピングセンターの障害者の人のための駐車スペースに時々車を平気で止める人間を見る。得体のしれない生物であるが、うちのクラブにこういう人間が来たら絶対に入会は拒否。弱い立場の人たちに配慮できないような人間がうちのような女性や子どもが多く在籍しているクラブでまともにコモンセンスを守ってかかわっていけるとなど思えないからである。共同体の質は弱い立場の人たちやマイノリティをどうとらえていくかということと深く関わっていると思う。時にボクシングのような激しいスポーツは力が強いものが大きい顔をするスポーツだが、武勇伝を得意げに語ったり競技自慢をしてアドバンテージをとろうとするのはするのはまさにそういう関係がジムの優劣をあらわすからである。競技者が主体で、血気盛んで勢いのある奴がジムの中心になってそいつら中心でジムが動いていると言うのはどう考えても平等ではないし、人間の群れではないだろう。そういう人間しか使えないと言うのは明らかに指導者がアホだからであり、ジムやクラブが公共の場で平等だと言うならば、もっと多様性のあるクラブとして運営させることが正しいクラブの在り方だと考えている。
そしてその上で大事なことは「共通の正しさ」を持つということだ。うちのクラブはコミュニタリアンであると言っているのは、まさにそこが大事だと考えるからだ。しかし共通の正しさと言うのはあいさつしろとか運動系の人がよく言っている稚拙なルールではなく、自分の権利を無視されたり侵害されることなく、平等であるということで、それはジェンダーや民族など多様性を認め考えた上で、そのコミュニティが生き生きと活動できる共通の正しさで、それは基本的には人に対する気づかいや配慮、そして思いやりから出てくるものだと理解している。私は基本的に知的レベルの高い人が一定数集まればおのずとそのコミュニティの秩序は保たれると思っているが、その群れにどういう人が集まって来ているかと言うことが重要な課題だ。障害者用の駐車スペースに車をとめる人間は論外であるが、俺、俺、俺と物事を一般化できないそれしかできないアスリート、威嚇するような恰好で武勇伝を語るアウトロー。こういう人間がジムの中心になるのはそのジムに哲学がないからだ。うちのクラブはコミュニタリアンだと言っているが、考え方を理解するためにはある程度教育が必要だ。少なくとも私が発信していることを理解するためにはある程度の知識が必要でそういう理解できる人が集まって来ることで群れが健全に保たれ、平和で平等が保てると信じている。アドラー的に言えば人間の成長はその人が属する共同体と深くかかわっている。人間は共同体によって成長させられるもので、その共同体を通して世の中全体に世界観が広げられていくというのが理想である。そのためその共同体にはどういう人たちが集まっているかと言うことが大事である。



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ジラールとスポーツ

2023-07-18 | Weblog
ルネ.ジラールは人間には自発的な欲望がないという。例えば食欲は要求であるから、食欲ならば何かを食べれば満たされるわけであって、欲望は厳密に言えば対象を選択するものである。ジラールは欲望を「媒体」「対象」「主体」というシステムにおいて、これらの関係を「欲望の三角形」という風になづけたが、かいつまんで言うと「媒体」は宣伝であり、例えば有名ブランドの服を欲しいと思うのは有名人が着ているからで、この有名人が「媒体」となり、「主体」すなわち消費者である我々に「対象」としてのもの欲することを煽っている。これが彼の言う「欲望の三角形」である。少しかたちは違うが、この欲望の三角形のシステムは、スポーツにおいても大事な事だ。まず自分の対象として目的がある。目的とは自分がどうなりたいかということであるが、しかしこの目的は媒体がなければ達成することはできないだろう。言い換えればそれを手本とする人、あこがれの存在、あるいはライバルの存在が必要であるということだ。自分の友人はゴールデングローブをとった時、メインランドであこがれのチャンピオンにあって少しだけ話すことができたらしい。その時彼は「自分はずっとあなたにあこがれていました。私はあなたのようになりたい」と言ったらしいが、これは決しておべんちゃらのようなものではない、たぶん彼がずっと彼のようになりたいとあこがれ願っていた。その気持ちが彼をゴールデングラブで優勝させたと思っている。ボクシングが上達したいと思うならば、まず手本となる人物やライバルを見つけることである。
余談であるが自分は以前会員の人たちにボクシングは型がないから上達の秘訣は人のまねをしてコピーすることだ、そしてそのコピーがいずれオリジナルになると言っていた。いきなりレベルの高い人間のを見てそれをまねするんじゃなく、自分よりも少しうまいぐらいこれだったらコピーできるなというぐらいの人間を観察してコピーしろ、そして徐々にレベルをあげていけと言っているが、自分がうまくなりたいという欲望をまさにライバルやヒーローの存在で高めていく、それがボクシングの上達法ではないかと思っている。
ジラールではないが人間の欲望は、その媒体であるヒーローやライバルによって高められていく、まさに自分たちがライバルやヒーローをもつということは、ボクシング上達の第一歩なのだと思っている。


参考文献「ルネ・ジラール」 クリスティーヌ・オルスィニ  白水社

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Do you see dead people?

2023-07-12 | Weblog
昔はやったアニメで「メゾン一刻」というのがあった。
ぱっとしない大学生があるボロアパートに越してきて、その越したアパートにきれいな管理人さんがいて、その管理人との恋のものがたりである。そのアパートには奇妙な住人がいて、その主人公をなやませていたのだが、実は私も学生時代奇妙な住人たちのいるアパートに住んだことがある。もちろんきれいな管理人などはいない。当時それほどお金を持っていない私はかなりの低予算でアパートをさがしていたのだが、探していると突然目の前にアパートが現れた。「部屋開いてます」と書かれている張り紙。こりゃあ渡りに船だと契約するために管理人のところへ行って交渉「いくらですか」と聞くと、想像していた金額よりもかなり安い。今のレートだとひと月15000円ぐらいである。「えっ本当にそれでいいんですか」と管理人の気がかわらないうちに、私は契約書みたいなものにサインをして、3日後ぐらいにそのアパートに入ることにした。しかし入った瞬間に何か冷たいものを感じる。そして部屋に通され開けているとなんと荷物がそのままのこっているではないか。テレビやベッドはもちろんのこと冷蔵庫やその他の必需品がそのままのかたちで残されていたのだ。こわかったので管理人に「ひょっとしてここ殺人現場とか」と聞くと「はははははっ殺人現場じゃないけどね」確かにそりゃそうだ、もしそうならば、よく映画やテレビなどで見る黄色いテープがはっているかその痕跡があるはずである。がしかしかなり気になる。いろいろと探りを入れるが管理人ははぐらかすばかりで、私は管理人が出て行った後、テーブルに書置きが残してあったので、読んでみると「僕は事情があって出て行かなくてはならない。この荷物のすべては君にゆずるよ」というような内容だったのだが、どうやらここの前の住人は急いでここを出て行ったようである。そしてその日部屋を見つけたと言うことで、韓国人の女性がここにあそびがてらに来てくれたのだが、その時「ホヨン、ここなんかへんよ。絶対へん。特にこの二階の部屋あやしいわよ。出たほうがいいよ」と、こいつ今契約したのにそんなこと言うかと思ったが、しかし契約したばかりなので後にはひけない。それでもその後まあ2週間ぐらい過ごしたのだが、さすがに韓国人の女性にああ言われたら電気を消して寝ることはできない。消すと何かが出そうで私は怖いので電気を消さずに寝ていたのだ。ある日日系人の人の家に呼ばれて食事をしたのだが、その帰りその方に家までの近くまでおくっていただいた。アパートの名前は言わなかったのだが、その方にだいたいの場所を教えたのだが、その時その日系の方が私にこう言った「ところであのあたりって例の幽霊アパートがあるところなんだけど、まさか君のかりているアパートって○○○ってとこじゃないよね」「あそこは黒髪のハワイアンの霊が出るって有名だけど、あまり近づいちゃあ駄目だよ」
私は一瞬ぎょっとした。なぜならその日系人の人が言ったアパートこそが、私のアパートで、近寄るどころか私は住んでいる。そしてその日を境に私ではなく、私の身の回りの人間がそのアパートに来た時に奇妙な体験をした。
特に台湾人と韓国人はこういうことには敏感で、ピーターは誰もいない廊下で足音が聞こえると言っていた。ホヨン聞こえないのかあの音誰かが廊下を歩いてるぞとかなり興奮して言っていたが、しかし私には聞こえないし何も感じない。韓国人の女性はそのアパートまで来るが入ろうとはしない。
あんたが何も見ないことが不思議でしかたがないと言っていたが、それだけえげつない場所であったそうだ。
しかし一生のうちで目に見えないものに、これだけおそれて生活したのはこれが最初で最後、本当にこの時はこわかった。聖書を3冊ぐらいベッドにおいて、その近くには塩を盛って、そして念のために投げるための塩も用意して寝た。もし目を覚ました時に自分の目の前に立っていたらどうしようとか、シャワーの時に横に立っていたらとか、いろいろあれこれ考えてビビッていたが、しかし結局引っ越すまで、私はその幽霊を見ることはなかった。

ただ一度だけ不思議なことがあった。
ある時アパートの前に夜自転車がとめてあって、アジア人の女の人が立っていた。その子は私を見るといきなり声をかけてきて、その時そこでいろいろなことを1時間ぐらい話したのだが、話しているのが何語を使ったのかわからず頭の中でテレパシーのような感じで話していたような感じだ。そして不思議なのはその子の年が管理人とかなりはなれていることだ。管理人が70歳ぐらいなので20歳そこそこの娘は若すぎる。そしてその日以来彼女に姿は見ておらず。管理人にそのことを聞くことさえもこわかったので聞いてはいないが、彼女は本当に実在したのだろうか。







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ラテン語の格言から

2023-07-04 | Weblog
私は学生時代ラテン語の勉強をしたことがある。ラテン語はローマが当時世界を支配していた時に使われていた言葉で、現在はバチカンでのみ使われている言葉である。格変化がめちゃめちゃあるので習得するにはかなり時間がかかる言語、毎週水曜日だったかその日の授業で行われる格変化の小テストは私にとってかなりきつい思い出である。今日はラテン語の格言から。

Alter ipse amicus.(友はもう一人の自分である)
これは日本語で言うところの類は友を呼ぶである。ジムでもそうだがその責任者のまわりにどういう人間が集まってくるかということはそのコミュニティの質を問う意味では重要なことである。責任者が言葉を知らない、狭い世界で生きていると集まってくる人間の質もひくくて、見た目はまさに半グレの集団、非常に下品である。そしてその質はその管理者の言葉に付随する。あいさつは基本だとか礼儀とか言う前にきちんと言葉をおぼえて正しい言葉を使う、正しい日本語、知的な言葉を使っていたらその群れは自ずと健全で礼儀正しくなると言うのが私の意見だ。いくらあいさつとか礼儀とかいってもそれらは単に力関係から生まれるもので、結果的にはサル山のようなヒエラルキーができて、不平等が生じる。私個人の意見ではスポーツでも何でもコミュニティをよくするためには言葉を学ぶことは不可欠である。

Dum spiro, spero(息のある限り希望はある)
ラテン語は動詞の中にすでに人称が表現されているが、spiro, speroも同じ一人称、正確に訳せば「私は息のある限り希望を持つ」すなわち生きる限り私は希望を持つと言うことである。希望は苦難や困難の中でこそ、我々の生き方に大きな意味を与えるものだ。そしてそれを克服することで、人間は大きく成長するものである。聖書に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生む」と書かれているが、我々には避けては通れない苦難が存在する。でもその苦難は我々を成長させるものだ。希望とは単に絵にかいた餅ではない、苦難の時にこそ我々が目指すべきゴールがあり、そのゴールは我々を成長に導くものであると思う。そして希望を持つことができるのは人間だけであり、そしてそれは人間であるあかしであると思う。

Carpe diem
これは私の監督が言っていたことで、私の好きな言葉のひとつ、ラテン語の詩人ホラティウスの詩の一文だが、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。前にクラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言ったが、失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。私自身自分の実績を振り返ってたいした実績ではなかったが、しかし自分の競技人生を振り返るとそれはすごく楽しくてかけがえのないものであったと言える。そう考えたら自分は一生懸命そこで頑張って生きたと言えるのではないかと思っている。よく言っていることだがアレンの家で昔の動画を見た時、試合がおわってジウンに何かを話しかけている時の顔は本当にいい顔だった。あの日あの時にしかできない顔である。失敗するとか、恥をかくとかそういうことにこだわっていたら精一杯生きれないし、人生を楽しめないだろう。人生を充実したものにさせるのは才能や実績ではなく生き方の問題だと思っている。

参考文献「ギリシャ、ローマ名言集」柳沼 重剛





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