脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ラダートレーニングがもたらした結果

2015-10-28 | Weblog

ジムに行ってはじめてスパーで対戦したのがヒスパニック系のボクサーなんでもゴールデングラブの代表になったことがあるとか、事実彼はけたはずれに強かった。何が強いのかと言うととにかくバランスにすぐれていた。私はディフェンスを無視して思いっきりうっていくタイプで相手の体が細いので思いっきりうちまくったらぼこぼこにできるとたかをくくっていたが、しかしうってもうっても相手の距離が縮まるどころかバランスを崩した時にカウンター気味のパンチをくらってしまう。自慢のスピードのあるパンチも相手の懐に入って行けなくては意味がない、うってもうってもかわされパンチをいいようにあてられる。ハワイとは言えどさすがアメリカボクシングの歴史の違いを感じた。結局スパーは3ラウンド行われたがいいところなしの結果に、その時非常に悔しい思いをしたことは今でも鮮明におぼえている。でなぜそのことを鮮明におぼえているかというのはその時が私と日系人のジョージの出会いであるからだ。とにかく悔しくて悔しくてずっと悔しそうな顔をしていたらジョージが近づいてきて「強くなりたいか」と私が「ああっハイ」と答えたら「じゃあ明日来い、私はいつでもこれぐらいの時間にいるから学校が終わった時でもいつでも君がここに来たらボクシングを教えてやる」と言うのが彼と私の出会いであった。そしてまずジョージが言ったことは君はガッツは十分にある。しかし足りないのはバランスだ「see」と言って最初にしたのはステップをおぼえるためのラダートレーニング(一般のラダートレーニングとは違うが)である。ラダートレーニングと言うのはおいているラダーに足をかけて前後に動きながら横に動いていくトレーニングである。このトレーニングをしつづけるとスタンスが確立する。スタンスをキープして動くと言うことはバランスがよくなるということで、ジョージは私のバランスのわるさが足の運びにあると考えて(現に追いかけていくときはバタ足であった)このトレーニングをさせたのだと思う。向こうの選手はとにかくバランスがいい、日本人はパンチをうつ時は腰をまわせとか言うけれども、しかし向こうの選手はそう言った日本人がいうところの基本はなく、バランスとリズムでうっている。現にこういう態勢からよくあんなパンチが出せるなあというのはバランスがいいからであり、日本人の言う腰をまわしてうつというのは基本的な動きではあるけれども、しかし私の考察では腰をまわすと言うのは空手の基本であってそういう武道からぬけきれていないのが当時の日本のボクシングである。確かにボクシングのパンチをうつ動作はthrow(投げる)と言う言葉でしばしば表現されているが、しかし投げると言うのはメジャーリーグでも見られるようにその投げ方は千差万別であって一つの基本に従ってというよりも、そこに到達するにはどうすればいいのかということを問題にしていて、パンチを強くうったりするためにはバランスが大事である。現にアメリカの入門書は余計な理屈ばかりで丁寧にパンチはこううつんですよというようなことはあまり丁寧に書かれていない。おそらくだいたいのイメージをそこでつかませて後は自身が持っているバランス感覚とリズムでうてということであると思う。向こうの競技者は子供のころからいろいろなスポーツをやっているので、それぞれがやってきたスポーツによってアドバンテージがある。おそらく型とか基本とかと言うとそのアドバンテージを生かすことができない、いろいろなスポーツをやっていると体幹が鍛えられバランスがよくなる、そういうアドバンテージを生かすシステムなのだろう。たぶん私から見てアメリカのボクシングがバランス重視だと言うのは競技者との関連性においてであると思う。

試合をした人間はわかるが、向こうの選手はえっなぜこんなところからパンチがとんでくるのということが多々ある。日本じゃあこんなパンチはうてないうたないというパンチがとんでくるが、ある時試合で斜めからのスマッシュを見事にうっていた人間に、どうやったらああいうパンチがうてるのかと聞いたら「its a magic」とふざけて答えやがったが、特にスマッシュ(たぶん日本では反則)はえげつない、斜めの態勢からスコーンと入ってくる威力のあるスマッシュはヒスパニック系とフィリピン系の人間がよくうってくるが警戒すべきパンチであった。笑える話だが、私が向こうで特訓したのはスマッシュとコークスクリューである。コークスクリューは使えなかったがものになっていたのでまわりがおどろいていたが、スマッシュはかなり有効であった。現役時代の話なので多少言葉がわるいが、ジョージが試合で私を送り出す時にパーンと背中を押してただ一言「you must break him(本当はもっとえげつない言葉だが)」と言っていたがボクシングは単純なスポーツだ、リングに上がって相手をたおす。私は競技者中心にしたくないのはこういう危険さをよく知っているからだ、外国のリングにひとりで上がって「俺ここでえらい目にあったらどうなるんだろう」と考えたこともあるし、ボクシングと言うのは競技者として競技している限りは100パーセント安全とは言えない、それなりのリスクはあるものだ、さもそういう世界がかっこいいかのごとく煽るようなバカがいるが、ポロボクサーとアマチュアボクサーの語源は違う、プロボクサーの語源は剣闘士から来ているが、われわれはただ単にボクシングを愛する人間でアマチュアは戦うのではなく競技するだ、さらにうちのクラブは健康維持やダイエット中心、あしたのジョー的な世界が決してかっこいいとか男のロマンだとか思わないし、興味がない、ただここに来たら楽しくボクシングを楽しむ、そういう人たちのクラブである。


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偏った報道

2015-10-25 | Weblog

この前英語で I dontと I do notの違いについて聞かれた。その違いは強調するかそうでないか、I do notと言う方がnoをはっきり表現できるので強調する時にI do notと使うことが多いと思う。例えばクリントンがかつての秘書と特別な関係を問われた時にこう言った「I do not have sexual relationship with that woman.(あの女性とは特別な関係を持ってません)」インタビューの時I DO NOTとその部分を強く言っていたが、やはりnoをはっきり言う民族はI dontと言うよりもI do notと言ったほうが強く否定できる感じがあるのだろう。

2013年ごろに北と南の南北首脳会談が公開された。実はこれはノムヒョン政権が30年間はこの記録を公表しないようにとしていたのだが、しかし議論がおこり国家情報院が保管していた対話録を公開、韓国内は騒然となった。今から約1年前におこった北と南の情報公開事件を知っている日本人はほとんどいない。実はこの情報公開が韓国の現状をあらわした事件で、このことはなぜ韓国は中国寄りでそしてメディアは反日を煽っているのかと言うことをあらわしていると思う。この対話の内容であるがノムヒョン政権がNLL(northern limt line)を譲歩する約束をしていたと言う内容で、対話は終始北のイニシアティブによって進められていたそうで、このことは政治やマスメディアがそっちより(はっきり言うと問題があるので)で韓国は北が大きな脅威となっていると言うことをあらわしている。この左翼の台頭は経済成長後にとった韓国政府のとった自由政策によるものだ、政治にも自由化を求めたことで、その自由化につけこんで拡大していったのが工作員や革命勢力の左翼でその力が政治やメディアに影響を及ぼして行ったのである。少し話はややこしくなるが左の勢力のプロパガンダはこの国は反日の勢力によって建国されたと言うことである。元来ならばこういう政策にのってはいけないのだが、しかしマスメディアが左寄りなのでどうしても半日を煽る、それは韓国の反日の実態であると思っている。現在の韓国の大統領はパククネである。彼女は非常に評判がよろしくないが、しかし消去法的でも彼女が大統領になったと言うことは正しいことでもある。なぜなら対抗していた候補者は北の傀儡とも言われていた人間で、もし彼が大統領になっていたら日韓の間に大きな軋轢を生み出すだろう。彼女が大統領になったと言うことは少なくともこの国は親日派がつくった国だということをよしとしない左寄りの人を支持することはなく新しい民主化に向けて躍動していると言ってもいいと思う。もうひとつ日本人があまり知らないことだが、彼女のお父さんであるパクチョンヒは有名だ。その彼の伝記が韓国民にひろく読まれていることを知っているだろうか。彼は歴代の大統領の中でも最も評価されている大統領の一人であって親日とも言われている大統領である。その親日でもある大統領の伝記が出版され読まれていると言うことは韓国はテレビで煽るような反日であると言うこともできない。むしろそうでない人たちもいる、少なくともこのまま左に舵をとらせるのは危険だと考えている人たちも少なくはない。その時代に立ち返ることが本当の民主化と言ってもいいだろう。私は歴史学を専攻してはいないが朝鮮半島を理解しようと思ったら、北と南の関係を軸に歴史を見なければ理解できない。日本の歴史問題も軸を間違えれば日本人はとんでもないことをしたということになってしまうが、韓国の半日も然り、ただマスコミが報道することだけを見て理解することは愚かなことかもしれない。

 

 


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ベリーって?

2015-10-21 | Weblog

I like dogはなぜ犬を食べることが好きになるのか?前に外国人の英語の講師にこう説明した。まず数えられる名詞と数えられない名詞だが数えられない名詞とは、それを切り取っても、折っても、ちぎってもそれがそれ自体と言えるもの、例えばチョークとか紙などがそうである。そこからdogが数えられない名詞と考えるとしたら、そのdogが切っても折ってもそれが犬だと言える状態でまさしくそれはロースやフィレなどの食用である。そういうと彼は「すごい天才じゃね」と言っていた。じゃあ君たちはどういう感じでそれを受け取ってるのかと言うと、それはもって生まれた感覚的なものでここまで説明しなくてもわかることらしい。英語が話せない人間はまけおしみで英語は文法じゃないと言うが、しかしこういう理屈がわからなければネイティヴと同じような感覚で物事をとらえることができない、それは100パーセント無理なことであるが、しかしある程度はこういう文法的なことを踏まえてとらえなくてははっきりと物事が伝わらないこともある。

ボクシングの対戦している時のことである。向こうの陣営からベリーベリーと応援の声がする。最初はこいつの名前はベリーって言うんだと思っていたのだが、その次対戦した時もまたベリーベリーと声がする。その時はハワイってベリーって言う奴が多いのかと思っていた。しかし試合が終わって観戦中あちこちでベリーベリー叫んでいるではないか「えっここってベリーだらけじゃないか」と思ったのだが、実はベリーと言うのはbellyは腹と言うこと、英語圏ではボディをうてと言うのを単純に腹をうてということもある。そう言うことも知らずに対戦相手がすべてベリーと言う名前と思っていたのだから恥ずかしい、この時私は学校の教科書の英語に限界を感じた。ハワイと言うところは日本人が多いがしかし観光地を外れるとやはりアメリカ日本語が通用しない。向こうではドルのことをbuckと言うのだが私は最初これが理解できなかった。2backsってなんだ2ドル返してくれることなのか?とよくわからなかって怪訝そうな顔をしていたらすかさず店員が2dollarsってあっbucksってbackじゃなくてドルのことだったのかとはじめて知ったが、やはり現地で学ぶことは多い。

あとジムに行くとスラングの使いかたがわかる。ガラのわるい奴もいるのでそういう奴らがよくつかっている。へーassholeってこういう時にも使うんだとか面白い、おまけにいろいろな人種がいるのでスラングをおぼえるのは絶好の場所である。意外とえげつないのが韓国系である。英語だけではなく18、ケ○ッキ、シ○ルセ○キ、それ以外にアメリカ生まれの韓国人が使うかなり古い罵り言葉は思わずふきだしそうである。特に18は日常的に使うと言ってもよくつかうスラングだがたぶん口のわるさは世界一と言っても過言ではないだろう。私はそういうスラングを聞いてわかったことは日本語にはそういう言葉が少ないと言うことである。バカヤローなんて巣乱舞かどうかわからないし、くそったれなんて言う言葉は韓国人のののしり言葉では初級のうちにもはいらないだろう。韓国では辱(ヨッ)と言う文化がある。これはとどのつまりどういうことかと言うと自分で悪口をつくるすなわち悪口にオリジナリティを持つことである。悪口をつくることが文化だなんて驚きであるが、しかしこれもハンプリのひとつであって自分たちの怒りややるせない気持ちの浄化である。私自身もアウトローにたいしてはかなりシビアなことを言う、しかしこれはハンプリと言うよりもうちのクラブでは必要ないからで、自分たちのクラブの秩序を守るためだ。

 


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うちのクラブはこういうクラブです

2015-10-21 | Weblog

格闘技をやっている人間は目立ちたがり屋が多い。個性とか言っているが時には人の害になるような目立ちたがり屋なんて言うのもいて、そういう人間がクラブに集まると一般のまじめに生きている人たちが非常に迷惑である。ここでは競技者優先にしないと言うのはアウトローくさい奴はもちろんのこと目立ちたがり屋が集まらないようにするためである。しかしそういうと競技者すべてがそうかというとそうではないと言う人もいるだろうが、根本的にはただ試合に出るとか出ないとかという単純なことで差をつけるよりもその人間がどういう人かと言うことを見ると言うことである。格闘技のグッズと言うのはどちらかというとアウトロー的で私から見たら威嚇に近い、そういうファッションをしたような奴らがジムに多数いたら女性や一般の社会人は落ち着いてトレーニングなどできない、むしろこういうアウトローや目立ちたがり屋の存在はここでは邪魔であるといってもいいだろう。いくらスポーツができてもバカだと意味がない、目立ちたがり屋でナルシストの奴がちょっとでも大会に出て人よりも違うことをしたらつけあがって武勇伝を語る。こういう輩は根本的にはどうしたら自分がかっこよく思われるかと言うことばかり考えているのだが、しかし肝心の学力がひくいので言うことはマンガのセリフのようなことか小学校で教えられるような道徳のスポーツ版だ、そう言う言葉を素晴らしいと思っているからたちがわるい、考えてみたらわかると思うが本を読まない新聞も読まない、マンガしか読まないと言うような人間の考え方などあさはかにすぎない、こういう話をそこそこ賢い人間がまともに聞くはずはない。きつい言葉だがいくら目立ったり漫画のセリフのようなかっこいいともいえるような言葉を語ってもバカだとどこかでぼろが出る、見る人から見たら何をバカなことを言っているんだろうと思われるだけだ。社会ではたいしたことがないので認めてもらうために刑務所仲間をたよるようにジムに来てエラそうにふるまうような奴らが幅をきかすようなクラブには絶対にしたくない、ここではボクシングの実績なんてSo what ?ケンカの自慢などしたら威嚇とみなす、それよりも英検1級とか海外留学経験があるとか自分はこういう研究をしていたとか言う方が興味を持たれるし、アドバンテージがとれる、少なくとも私は勉強をほったらかしにしてただそれだけをやってきたような人間を評価することなんて永久にない。

だいぶ前にちょっと素行のわるそうな奴が自分の先輩のことをあの人はすごいと言っていた。「でどこがすごいんだ」と聞くとみんな知っているとか言う、私はその時「バカで有名なのか」と聞きたかったが、たぶんこいつらの狭い世界でケンカが強くて少々社交的だからそういうと思うのだが、しかしみんなというのは小さい世界のしかもカッコつきの人間、いわゆる一般的には評価されない輩である。こういう価値観にあわせるのは思いっきりだるい。


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Es ist gut

2015-10-20 | Weblog

俺は次の試合で絶対勝ちますとか言う人間、いったい誰に言っているのか?アマチュアでも言わせてもらえるからでかいことを言う奴がいるが、こういうことを言って大言壮語する人間は目だちたがり屋で人の評価ばかり気にしている、いわゆる見栄だけで生きていると思っている。威嚇したような恰好でいかにも俺はボクサーだとか格闘家だなんて言う奴はたかだか知れている、こういう中途半端に人の評価ばかり気にして見栄で生きてきたような人間は引退後でかい武勇伝を語ったりこれみよがしにくだらない自分の実績を自慢する、本当にくだらないと思う。しかし競技は人から評価されるものではなく自分を納得させるためにするものだ。自分が納得できるように最善の環境に自分をおいて自分の力を最大に発揮する、そのためなら海外の大学に留学するぐらいのことも必要である。そしてそこで得た納得と言うのは誰がどう言おうと自分が得たものであるから大きなものでそういう経験が自信につながるであろう。ボクシングやスポーツでは自信など持てないと公言したが、しかし自分を納得させる競技人生であればたとえ実績がどうであれそのピリオドはこれから歩んでいくための自信となりうるだろうと思う。やんちゃか何か知らないが全員で足して割っても社会では2流以下にもならない人間の中でほえてもむなしいだけ、現実をよく見て広い世界に出ていってまず自分の無力さを知ってそしてそこでもっともっと自分を磨くことをおぼえなくては本当に充実した競技人生はない、本当に勝ちたいとか強くなりたいと言う気持ちは相手から自分にむかうものだ、競技者は常にそういう闘志を自分に向けることが必要なことで成長につながるのだと思っている。

ヒスパニック系の結構強い奴がいた。自慢になるが私もトーナメントでは優勝もしているし戦績もまあまあなのでたぶんトップ4ぐらには入ると自負しているが、しかし彼はそのトップ4を頭一つどころか三つぐらい出た人間である。ある試合でのこと彼は試合に勝ったのにも関わらずすごい形相で黙ってくやしがっていた。私はその様子を見てこいつ絶対強くなると思っていたのだが、事実その彼はWBCの1位まで行ったそうである。私は名前を知っているが、その後の人生がどうであるのかわからないのであえて書かないが、彼はまさにその時自分に納得がいかなかったからその闘志を自分に向けていたのだ。私の競技人生はさほどたいした実績ではないが、しかし納得のいく競技人生であった。くだらない仲間意識や人の評価などすべて断ち切っての日本人に言わせてみればまったく協調性のない人間であったがしかしそのおかげでes ist gut(これでよし)と言うことができた。そしてその納得と充実感は今の自分の自信につながっている。

 


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嫌われることをおそれるな

2015-10-18 | Weblog

人に嫌われることをおそれるなとアドラーの研究者が言っていた。人に嫌われることを受け入れろそうすれば気分が楽になると言うメッセージだが確かにそうだと思う。しかし日本人はこのことがなかなかできないらしいできないからいい人を演じて疲れるらしい。しかしこの気持ちはよくわからない、私などは昔「あいつはかならずぶちのめしてやる」と意気込んでいた人間が何人かは確認できたが(10何年後ピーターにあった時いろいろと学生時代の話をしていたら、ある人間も私のことをぶちのめしてやると言っていたらしいのでもうひとり増えた)自己主張しながら一生懸命生きていればそりがあわない人間も出てくるのは当たり前だ、日本人はよく仲良くしましょうと言うが、私にはよくわからない。仲良くしましょうと言うのはまさに人に嫌われたくない、みんながすべていい人だと言うことを要求しているにすぎないのだが、こういう感覚がひとりでも違う行動をとるといじめや仲間はずれをする関係をつくるのだと思う。例えば職場の飲み会などもそうである。行きたくないと言えばいいのだが、しかしまわりが行くので行かざるを得ない、そしてそういう会社の飲み会だとみんながその日に都合をつけているのだからとまわりに遠慮してその日が休みでその時間を自分のために使いたかってもそれができないのだ。私は日本人の仲良くしましょうと言う価値観は理解できない。これは私の親父が言っていたことだ、親父いわく仲良くなんかしてもらう必要がない、そうではなく尊重してもらいたいと、外国に行けばわかるが外国に行ってまず大事なことはお互いの違いを認めるだ、そしてそこから交流がはじまると思っている。しかし日本人は同じと言うことを認め合うことで仲良くなる。たぶんそれは単一民族でひとつの言語しか話せない人間が多いからだと思っている。私は基本的に日本人と在日韓国人は世界一優秀だと思っている。特に工学系は外国の大学に研究しに行く以外では行く必要はない、むしろ教えに行ってもいいぐらいだと思っているのだが、しかし前にも言ったがビジネスや政治などでは英語が話せない、自己主張できないからディスアドバンテージである。言わせてもらえるからとか何もわからないような奴が言いたいことを言うのは自己主張ではなく虚言であるが、確かに物事をよく知ることであれかこれかと迷うこともあるだろう。こんなことを言ったらまわりを敵にまわすのではと、しかし本人の考え方がしっかりしているのであれば例え敵にまわすことがあっても、それだけではないちゃんと同じ考え方を持った人も存在する。日本人は衝突したり軋轢を避けようとするが、しかし弁証法的に言えば衝突や軋轢のない進歩はない。人に合わせることよりもむしろ自分を磨くために時間を有効に使う方が世の中のためになる。そして仲良くしましょうではなく尊重する精神を持って協力しましょうである。そういう群れが一番力があると思っている。

うちのクラブはたぶんそういう関係でつながっている。まず私が試合には興味はないボクサーは嫌いだ、うさんくさい集団とは関わらないと公言している。こんなことを言えば責任者のくせにと思う人もいるだろう。しかしここではトレーナーたちが責任を持って引き受けてくれている。そこには利害関係もなく上下関係もないただ好きだと言うだけで一生懸命やってくれる。たぶんそれはトレーナーたちが自立した素晴らしい人間だからで、それは先輩後輩とか利害関係の中から生まれたものではなく、まさに大人で自立しているからできる協力である。私は彼らを心から尊敬している世界一のトレーナーたちだと信じている。本当にこのクラブがあるのは彼らのおかげで、彼らや協力者の力で持っているボクシングクラブがMTオリーブである。

私は自分の子供にはあいさつしろとは言わないそういう代わりに人の顔色を見るなと言っている。日本人のあいさつは往々にして上下関係を位置付けるためのためだ、まああいさつなんていうのはまともな集団にいてまともに生活していたらおぼえるもので、体育会のように基本だとか言ってさせるものではないと思っている。


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The protestant ethic and spirit of capitalism

2015-10-18 | Weblog

池上彰の世界をかえた本と言う番組がある。毎回1冊の本を取り上げて紹介しこの本いわゆる思想が世界をどう動かしたかということを紹介する番組である。この前やっていたのはマックスウエーバーの「The protestant Ethic and spirit of capitalism」日本語では「プロテスタンティズムズムの倫理と資本主義の精神」と言うかなり難しい本である。内容は単純に言えばプロテスタントの信仰が人間の考え方に影響し勤勉な人間をつくる。そしてそのことによって経済が発展していくと言うことである。この書物は実はかなり難しい、どう難しいのかと言うとまずそのバックボーンであるカルビニストの考え方が理解できていないとすっきりしないからである(現に彼の説明もかなり無理があったようなところもある。)まずカルビニストと言うのは宗教改革者のジャンカルバンと言うキリスト教の学者の神学を絶対的なものとしそれを教義として受け入れている集団である。池上氏も言っていたがカルバンの教義で中心をなしているのが予定説(と言っていたが予定論)である。これは我々の善行がどうであれ人間が救われるのはあらかじめ決まっているという考え方で、この考え方は勤勉に仕事に従事することによって自分は救われていると言う救いの確信を得ると言う考え方から発展して、自分たちは選ばれているんだだから自分たちがこの世界において神の栄光をあらわすのだと言う傲慢な考え方にむすびついたものだが、たぶんアパルトヘイトなどはこのカルバンによる予定説、選民思想がそのバックボーンにあると考えている。池上氏はberufはカルバンが唱えたと言っていたが、しかしbelufはドイツ語で最初に言ったのはフランス語圏のカルバンではなくドイツ語圏のルターでおそらくカルバンとルターではこのberufのとらえ方は違うであろうと思う。少し難しい話になるが私がなぜカルビニストと言う聞いたこともないような言葉をつかったかと言うのは、そのマックスウエーバーの思想そのものがカルバンの思想をそのまま受け継いでいると言うよりもカルビニスト的であるからである。カルバンが予定論を唱えたのは神の正義を貫いた時におこる消去法的な考え方である。カルバンによれば神は絶対的に正しく正義である。その絶対正義である神が人間が少しぐらい善行を積んだからと言ってそんな人の行いによってかわるだろうか、神は絶対的でなければならない。そう考えたら自分たちが救われると言うのはすでに決まっているのではないかという絶対者である神への信頼がそうさせたと言ってもいいが、しかしこの考え方はさかのぼって考えてみればそうだろうと言う考え方でカルバンの考え方の核にはなっているが絶対的なものではないと思う。私はこのプロテスタントの精神が経済の発展をもたらした理由はマックスウエーバーが言うプロテスタント特にカルバン派が台頭したということだけではないと思っている。現にドイツはカルバン派と言うよりもルター派のほうが大多数で、さっきも言ったようにルターとカルバンではべルーフのとらえ方が違う、おそらく経済発展をもたらしたのはルターがもたらした当時ローマ教皇から束縛されていた群衆の魂を解放した精神の自由化であって、どちらにしろプロテスタントはヨーロッパやアメリカに発展をもたらせたわけである。ただおもしろかったのは最後に日本はプロテスタントでもないのになぜ日本人は勤勉で経済が発展したかと言うことに対しては答えが出なかった。私はそれは文明開化や大戦後の復興と言う自由を求めて新天地に向かうエネルギーがそういった発展につながっていると思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 


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何をかくそう私はケグジェンイでした3

2015-10-17 | Weblog

私はHIではまあまあ優秀な競技者であった。私はUH(大学生のチーム)に所属していたのだが、ジョージいわくわりと度胸があって人と群れないところが結構気に入っていたらしい。ただ少し無謀なところもあって、ある意味思いっきり問題児であったことも確かである。これはあるプロの世界ランカー(何十位とか)のボクサーがうちのジムに来た話である。「お前スパーリングやってみないか」「えっ誰と」「実は今世界何十位とか言う奴が来てるんだけどスパーの相手をさがしている、で階級は一つ上だが左しかださないと言っているのでやってみないか」私はその時結構自信があったので「いいよ」と即答、実はこの時左どころか右もつかわせて俺が強いところをみせてやると思いっきり意気込んでいたのだ。しかし実際そのボクサーとスパーをした時にその実力差は半端なものではなかった。むこうは左パンチのしかもジャブだけだったがあまりの強さに脳震盪をおこしてしまい、1ラウンドがおわると千鳥足でふらふらとコーナーに戻って言った。そのパンチの強さは至近距離からでかい石を投げつけられているようでたぶんこいつ世界一パンチが強いんじゃないのかと言うぐらい強かったことを思い出す。その人のスパーは私を含め3人のアマチュアの選手がつとめたが、しかしトップバッターの私のその姿を見て後の二人は結構ビビッていた、たぶんあまりエキサイトさせるなと思っていたであろう。まああんな強いパンチを受けたのはそれが最初で最後であるがあの時は本当にいたかった。これはNBと言うゴールデングラブ出場者の話。彼は基本的には私よりもひとつ下の119パウンドで出ていた選手であるが、しかし体重が重くなってその上の階級にしばしば出場していた。HIのジムは体育館自体がボクシングの施設になっていてそこにいろいろなチームの選手が集まってくる。彼とはよくジムで会い、階級も近かったので時々話をするようになったのだが、何かあわない威嚇しているのか常に自慢話しかしない彼に好感を持てなかった。私は相手のほうが強いかもしれないのにいつかこいつはスパーでぼこぼこにしてやらなくてはいけないと密かにもくろんでいたのだ。そしてある日向こうのトレーナーがジョージと親しいこともあってスパーリングをしないかと提案してきた。基本的に向こうのスパーは思いっきり打ち合わないのが暗黙のルールみたいなところがある。しかしどちらかがしかければ別、私はその時チャンスだと思い即決、腹が立つので思いっきりやってやろうと思っていた。そして対決の日が、しかしその日になっても彼は来ない、ただトレーナーがあやまるだけでそのスパーリングは中止となった。私はその時なんていい加減な奴だと腹が立ちジョージにもあいつはいい加減だと言っていたが、しかしジョージは何も言わない。後でピーターから聞いてわかったことだがそのNBと言う男がこられなかった理由はとんでもない理由で、たしか強盗でつかまったらしい。向こうのボクシングは奇想天外なことが起こる。普段は番うスポーツをしている人間が何か月かトレーニングしていきなり優勝なんて言うのもざらにあって本当にダイナミックで面白かった。日本人の競技者は競技していると言うよりもやらせてもらっていますという感が否めない。こういうことを言うとそんなことはない事由にやらせてもらっていると言う言う人間もいるが、しかしそういう人間は本当の自由にやるということがわかっていない、親玉にちょっと逆らうことで快感をおぼえたり武勇伝になるのはそいつがもともと自由ではないからだ、私から見たらそういう人間の首にはしっかりと大きな首輪がついている。

 

 


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speak out

2015-10-16 | Weblog

時々受験英語を教えるが受験英語ってかなりまどろっこしい表現が多い。たぶんこういう文の構造で英語をおぼえようとするから会話ができないのだろう。私は英語はなるべく4行ぐらいで答えるのがベストだと思っているのだが、日本人は非常に文章を複雑に考える傾向があるからだ。英語は複雑な文章を短くするのが基本である。論文を書くのならまだしも(その論文でさえ日本語に訳すと2倍以上の分厚さになる)会話するのだからまどろっこしいことをぐだぐだと話すのではなく端的に言いたいことを伝えることが大事であり、4行ぐらいで表現する訓練によって自分のいいたいことが伝わる技術が身につくと思っている。実は英語を話す訓練は日本語力にもつながる。私が立て板に水なのは英語のおかげである。まず英語を勉強すると発想力が養われるので物の見方がかわる、そしてさらに何かを伝えるためには自分の言いたいことをまとめて伝えなくてはならないのだから、そのことにおいても大きなアドバンテージである。だから英語を勉強すると言うのは自分の考え方を広げるのはもちろんのこと思考が論理的になり言いたいことをはっきりと端的に伝える訓練にもなるのだ。さらに表現力と言うものが養われる英語でディスカッションしたら話す時はゼスチャーが大事だと言うことがわかる。まあ高度なレベルならそうではないがしかし外国と日本のディスカッションは違う。日本だと人の話を聞くのが基本であるが、しかし向こうでは自分の意見を言うことが重視で人の話をいちいち最後まで聞いていたらきりがない話の途中でゼスチャーを交えて自分の話をかぶせていかなくては話なんて聞いてくれない,自分の意見など言えない。さらに声がでかいことは有利である。話を聞かせたければでかい声でゼスチャーを交えて人の話に自分の話をかぶせていってまでも話すという気持ちが大事である。昨日ニュースでハーバードの韓国人の学生が日本の従軍慰安婦について発言したことが話題になっていたが、韓国ではこういうロビー活動が盛んである。現在韓国はハーバード大学の留学生の数が世界第3位だ、おそらくこれは人口比率で言えば世界一である。よくネットなどでさもわかったように韓国人はこういう性格だと糾弾する人間がいるが、しかし私は今や韓国人と言う人種をひとくくりにできない、特にこれだけ多くなってきている海外で生まれたり教育を受けたりバイレイシャルの人間がいるのだから、そういう事実を無視して彼ら彼女らの性格はこうだと言えなくなってきている時代だと思っている。でその留学生の話に戻るが従軍慰安婦問題はかなりねじまげられて世界では伝えられている。しかしこう言ったこともきちんとした意見をもってそれを伝えていく能力がなければ伝わらないのだ。日本の教育は暗記力は高いが、しかし発想力がとぼしいように思える。ある分野では日本式で通用するだろうが、しかしビジネスや政治などの分野では自分の言いたいことを相手に伝える能力がなければイニシアティブをとることなんてできない。こういったねじまげられた真実を伝えられる前に自分たちの立場をはっきりと伝えるべきである。前にも言ったが英語を勉強することはもちろん、自分の考え方を広げたり論理的に物事を考えるために哲学の勉強は大事なことであり、日本人は控えめでかつ哲学がないので議論の場では活躍することができない自分の言いたいことを伝えることができないのだと思う。

 

 


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see you later!

2015-10-14 | Weblog

私の初戦はフィリピン系の相手、ジョージによれば1階級上げてきたらしくオアフかマウイのチャンピオンだと言う。ジョージは相手がわるいので経験ぐらいに考えていただろうが、しかしここまで一生懸命やってきたのだから負けたくはない絶対にしずめてやると意気込んでいた。カーンとゴングがなって20秒ぐらいあれと思ったらダウンしていた。レフリーがカウントを数えていたのだ。あれれなんで俺こんなことしてるんだろと思いながらファイティングポーズをとって再開、コーナーに戻ってきた時ジョージはすごい剣幕でまくしたてていた。たぶんあの時くらったのはスイッチしながらのフックだったと思う。日本ではこういうパンチをくらうことはないがアメリカでスポーツを競技してる人間は子供のころからいろいろなスポーツをしているのでバランスがいい、だからこういう奇想天外なパンチがうてる。ここでは日本の常識が通らんなと気を引き締めて3ラウンドを戦いぬいたが、結果私の逆転ギリギリ勝利ジョージは負けたと思ったらしいが、勝利をおさめることができた。基本的にむこうの競技者はリング外ではあいさつすることはない。さらに私は勝った相手にはあいさつには行かないと言うポリシーがあったのでそのままリングをおりて控室と言うか競技者が待機しているところに戻って行った。そして試合が終わって帰る時、廊下を歩いているとさっきの相手が、そしてすれ違う前に向こうがニコッと笑うのでこちらもニコッと笑いかえす。かえした後であれはホモのサインじゃないだろうなと心配したが、彼がニコッと笑ったのはnextと言う意味だ、現に3か月後の試合では2回戦で当たった時にすごい闘志で向かって来たことをおぼえている。自慢になるがこの時も私がまたまたギリギリの判定で勝利したが、しかしこの時日本にはない雰囲気アメリカは競争の世界だなあと思わされたものである。ゴールデングラブで優勝した奴が偉そうに「優勝したとたんに俺の首をみんなが狙いに来るから気が抜けない」と言っていた。思い切り歯がうくようなセリフだが強ち向こうではおおげさではない、なぜならむこうは完全な競争社会だからだ。英語のことわざに「double or nothing」と言うことわざがあるがこれは強者が弱者から得ると言う意味である。日本語では一か八かとなっているが、しかし直訳すれば2倍得れるか何も得れないかということで敗者は何も得ることがないむしろ奪われると言う意味合いが強いだろう。向こうの人間は一度負けた相手には闘志むき出しで挑んでくる。これ以上負けてはいけない、競争社会においては負けたら何も得ることができないnothingになることをおそれるからだ。そういうルールを彼らは子供のころからたたきこまれているようにさえ思える。それに比べたら日本人は甘い、少し聞き苦しい言葉で申し訳ないが、負けた相手のところにあいさつに行って「ありがとうございました」じゃないだろ。本当に勝ちたい気持ちがあれば「i will beat you next」だろ。日本人が試合後あいさつに行くのは自然であるがしかしこういう競争社会では不自然である。あの時彼が廊下ですれ違った時にニコッと笑ったのは「次はお前ぶちのめすぞ」と言うサインで、私もただにっこり笑って「see you later f○c○ you」とサインで答えただけである。普段はこういうことは書かないが、しかし勝負事と言うのはこういう厳しい一面があって、特に競争社会ではそれがむきだしになることもある。


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