脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

クラブの集団性を問う

2011-04-27 | Weblog
私の友人の親戚の大学生が今年就職するのだが、その就職先がDQN企業ではないかと心配しているらしい。
以前彼には電話だが、言葉をうまくつかいたかったら、毎日本を3冊そして辞書を持ち歩けというアドヴァイスをしたことがある。あえて面接などで、日ごろ使い慣れたいない難しい言葉をとってつけたように選んで答えても、相手にはわかるし、そういうことに気を遣いすぎたら自分の思っていることが十分に言えない。
的確に言葉を使い表現しようとしたら、日ごろから辞書を持ち歩き、わからない言葉をひくこと、そうして辞書を何回もひいているうちに、自然と言葉に広がりがもてて表現力が豊かになってくる。スポーツでもなんでもそうだが、本当に自分がうまくなりたかったら練習しなくてはだめだ、基本的に辞書を引くと言うのは言葉の練習で、この言葉の練習をすることで表現力が養われると言ったのだが、彼はそのことを実践していたらしいが、それでそういう企業にひっかかったので多少責任を感じる。

話はDQN企業の話になるが、DQNとは粗暴で知性や知識に乏しく常識がない人間のことを言うそうで、DQN企業と言うのは所謂ブラック企業のようなものらしいが、彼が言うにはDQN企業の特徴は、HPや広告などで「茶髪の社員が肩を組んで写真をうつっている」「バカ写真満載」「明るく楽しい職場」「アットホーム」「やる気次第女性も活躍」というようなことをよくうたい文句にしているらしい。

特に私がよくあることで信じられないと言うか、ついていけないことは、自分たちはこんなに仲がいいんだと言うことを強調する集団である。
まあ肩をくんだりふざけあって写真に映ったり、アットホームという言葉は、まさにそういうことであると思うのだが、ともすればスポーツクラブは目的が同じなので、そういう関係を気づきやすいのだが、こういう世界はある意味、非常に閉鎖的で独特の価値観を生み出すと思っている。

よく私が挙げるのは、女性にちゃんづけすることである。仲良しとかアットホームと言うようなことをうたっている軍団にはありがちなことだ。
まあ個人的にはどう呼ぼうが勝手であるが、しかしこういう公共の場ではそういう呼び方をすべきではなく、子供でもないのだからいい大人に「ちゃん」なんて言うのは、明らかに女性蔑視である。
最近は企業なんかでも「ちゃん」づけや「女の子」なんていうのは、セクハラの定義に当てはまるらしいが、おどろいたのは子供の通う小学校でも男性女性は関係なく「さん」づけしていたことだが、こういう時代にいい大人をつかまえて、公共の場でちゃんづけで呼ぶのは、小学生以下、非社会的であり、まさに知識や知恵が乏しいDQNと言われてもしかたがないだろう。
正直スポーツの世界は封建的である。
はっきりいって監督中心の家父長制のようなシステムができあがっているので、本当の意味での自分の意見や権利と言うものがもてないとさえ思っている。
確かに最近女性は意見を言える時代になってきたのだが、しかし何か分からないがその意見をする時や文句を言う時でも自分の立場と言うものを越えないようにしているように思えるのだが、これは自然にそうなるのだろうか。
私が感じるには、明らかに欧米の女性と日本の女性特にアスリートの意見の質は違う。
うまく言えないが、欧米の場合は個人と個人の意見のぶつかり合いだが、しかし日本人の場合は個人的な意見を他人に言っているような感じではなく、お父さんに意見を言っているような感じで、ひどいのになると痴話げんか的である。
人間と言うのは基本的には集団的生き物である。少したとえは違うがナポレオンが「人はその制服にあった帽子を着る」と言ったが、人間と言うのはその構造にはまると、その構造から抜け出すことはできない、少なくともそこから越えることはできないのだ。
このナポレオンの時代のフランスは王政でであったので、おそらく封建的な意味で「制服にあった帽子」と言ったのだと思うが、私は人間の本当の意見は、まず最初に権利ありきで、この権利と言うものを十分に認めるからこそ、自分のアイデンティティが持て、本当の意見が言えるのではないかと思っている。
だから女性の自立なんて言っていて○○ちゃんなんて、子供のように呼ぶのは女性の権利を認めていない証拠である。
よく親しみを込めてちゃんづけするという奴がいるが、こういうことを言う奴は程度を疑うし、まず仲良くすると言うことが問題ではない。
こういう言葉が出てくること自体、アットホームとか、自分たちはこんなに仲がいいのというような軍団の限界であると思うが、大事なのは個人の権利を認めること、そして個人の権利を認めるためには単なる情ではなく、客観的な意見と言うか考えが必要だということだ。

今の世の中、語学に疎いと言うことも含めて、知識が乏しいのはかなりのディスアドヴァンテージである。
そもそもこの情報化の時代に英語に興味がなかったり、本を読まないと言うこと自体愚かなことだと思うのだが、スポーツや特にダイエットと言う新しい方法論などが入ってくるのは海外だし、生活様式だけではなく、最近ではコモンセンスもグローバル化しつつあり、こういうことにアンテナをはっていなければ、時代に取り残されて行くであろうと見ている。
しかし封建的な枠にはまっていては、こういう現実が見えてこない。
スチュアーデスやビジネスマンがなぜ問題になるのか、なぜちゃんづけはいけないのか、平気で「女のくせに」という奴がいるが、その是非を論ずることは別にして、こういうことをひっくるめて、われわれの置かれている構造の中で、権利と言うものを考えていかなければ、21世紀のスポーツクラブのあり方ではないと考えている。

さっき挙げたDQN企業であるが、人間知恵や知性が乏しければ同じような仲間を求めて集まるのだが、アットホームとか仲間が集まるというような言葉に単純な人間は集まりやすいのではないだろうか。


私が運動部を批判しているのは、監督と生徒の間が教室と先生以上に不透明で、そこでは往々にして専制政治のようなヒエラルキーができているからだ。
いい指導者もいるが、しかし一方不透明な世界なので、横暴なことを要求されたり、暴言をあびせられたり、いやみをいわれたりして、クラブをやめることを余儀なくされたり、いやな思いをしたという話をよく聞くが、かなり問題がある。
中には少し誇張しているなと思うこともあるが、しかし経験上と言うか「ああそういうことをしたり、言ったりするだろうなあ」とマッチする事のほうが多いように思える。
ただ多少口がわるくても立派な人間はいる。しかし問題なのはその言葉で人を傷つけてやろう、とういうような暴言や意地悪な考え方である。












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俺の親友

2011-04-24 | Weblog
だいぶ前にも言ったが私はコナン(名探偵コナン)のファンである。
実は今日レイトショウで「沈黙の15分(クオーター)」という映画を見て来たのだが、コナンの映画が封切りになれば、必ず映画館に行ってそれを見ると言うぐらい好きなアニメである。
私がコナンにはまっている理由は、毎回あんなトリックを考えつくなあと言うストーリーはもちろんのことだが、追い詰められても、窮地に立っても考えることをやめない、最後の最後まで自分の知恵のすべてを出し切って問題を解決していく姿であるが、そういう姿にある種の哲学的な魅力を感じているからである。
しかし納得いかないのは、コナンをとりまく人間たちのほとんどが上流階級で、しかも美人やイケメンばかりで、少し現実離れしている点ではあるが、しかし笑い話だが、実は何をかくそう子供の名前をつける時に、コナンにしようかと思ったが、漫画の名前なので改めなおしたのだが、しかしうちの子供には、いろいろなことを学び、特に英語や他の語学を身につけて、外国人と接し、自分たちが知らない文化を学び、本当の知恵をつけていってもらいたいと思っている。
私はコナンのアニメを見ればどことなく、欧米文化のセンスみたいなものを感じるのだが、この感覚は私にとって物語に入っていきやすい。外国に長く住んでいる、私の恩師もコナンのファンなのだが、主観的ではあるが、コナンはこういう外国の文化の影響を受けている人にはどことなく親しみやすいというか、ひきつけられるセンスがあるように思える。

今日はその外国の友人でピーターと言う私の親友について話したい。
彼はビジネス学部の学生で、英語と中国語そして日本語を少し話すのだが、台湾からの移民で私の一つ上だったせいかたいへん気があった。
そのピーターだが彼もUHのボクシングチームに入っていたのだが、しかしそう強くはなく、がんばって試合に出ようとしても、すでにスパーリングの段階でぼこぼこにされて自信を喪失してしまうと言う繰り返しで、正直ふがない奴であった。

ある時ピーターが試合に出ると言ってきた。「このままではらちが明かないので、俺は今度のマッチにフライ級でエントリーする。だから少し君にスパーリングパートナーになってほしい」と言ってきたのだ。
その日から彼とわたしそして何人かのチームメイトの特訓がはじまった。
特訓と言ってもそれほど大げさではないが、試合に向けてスパーを相手をかえて、来ている時は毎回4ラウンドすると言ったことである。
しかしスパーはもともと平和主義でへたれの彼にとっては大きなハードルだ、案の定ちょっと強いパンチがあたると顔を下にむけるのだが、試合まであと2週間ぐらいとせまった時も下を向く癖はかわらず、このままではRSCまけはまのがれない、どうしたらいいのかと考えたのだが、後は実力の問題ではなく作戦の問題でこの作戦について話し合ったのだ。

でどういう作戦を考えたかと言うと、もうここまできたらえげつない、そこには東洋人ばっかり女性も含めて7、8人はいたのだが、試合中に相手にお願いのポーズをしておじぎをして戦意をそうしつさせるであるとか、向こうが白人だったら、チンキーアイで睨み続けるとか、なんせ素人もこの作戦に加わっているので、ほとんど遊び感覚であった。
しかし私が言った作戦にはみんな興味を示したのだが、それはどういう作戦かと言うと「あれはなんだ」と全員で指をさして叫び相手が注意をとられている間に、すかさず彼が渾身の力でパンチを入れてKO勝ちをするという作戦で、この時「Look! what is that!」と全員ででかい声で、あほそうに言うのがポイントある。
この「あれは何だ作戦」であるが、ここでアスリートに言わせると少し問題があるので、関係ない人間が言うのだったら問題ないだろうと言うことで、関係ない人間何人かに頼んで、本気でやろうと考えたが、しかし当たり前だが彼が実力で勝ちたいと言うので、作戦は決行されずガチで試合を行うこととなる。
そして試合当日「俺だったら秒殺できる」という相手に、ぼこぼこではないが、力の差をみせつけられてしまったピーターであった。やはり彼にはこの競技はむいていない。

ちなみにオリーヴのへたれ大歓迎と言うのは、彼と私の関係が原点だ。
日本のボクシングは苦しむために一生懸命するが、われわれは楽しむことを一生懸命する。スポーツは真剣にできる遊びであって、別によわかってもチャンピオンになれなくても「So what」だ、この競技を楽しむことに全力を注ぎ、自分のかけがえのないものとする。
ピーターもへたれだったが、まわりを気にすることなくエンジョイしていたし、エンジョイしていたからこそ試合に出て勝ちたいと思ったんじゃあないだろうか。
私から言わせれば、われわれはアマチュアであってボクシングは本業ではない。
だからたかだかボクシングであって、人生がかわるぐらい挫折したり、追い詰められて、苦しんでするものではないだろう、こんなものに自分の人生を左右されるのはナンセンスだと考えている。
大事なのは本当にこの競技が楽しいかと言うことだ、その楽しさは自分はチャンピオンだとか、何々で優勝したと言うように人と比較することによってではなく、まわりに左右されず、自分なりの目標をもって、心から楽しいと思うこと、まずそのためには自分なりの競技のあり方を考えなくてはならない。
我々の話になるが、オリーヴの会員はほとんどが、社会人でそれなりの試合には参加している。
たぶん全国大会みたいな大会から比べたら、レヴェルはそう高くはないが、しかしそれでもそういう大会で優勝したり、勝利した人たちがいるのだが、みなさんそれぞれその時はたいへんうれしそうである。
私は彼らが仕事をしながらここまでがんばったのでその勝ったことを十分に喜び、誇りにしたらいいと思っているのだが、その勝利ややったことは人とは比較できない自分の偉業であると思っているが、そういう気持ちを大事にしていきたいと思っている。

私はよく彼にいたずらをしたものだ、今でも覚えているのは彼の熱帯魚の水槽に100倍だが300倍だかわすれたが、水にいれるとえげつなくふくれるたこを入れて大騒ぎさせたことがある。









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ソクラテスは言う

2011-04-21 | Weblog
スポーツの世界でよく「考えろ」とコーチから言われる。
しかし考えろと偉そうには言っても、その考える方法は教えてはくれない、当たり前だ、なぜならそういう奴に限って本当に物事を考えてはいない、考える力などないからだ。
スポーツをしていると考えさせられることがしばしばある。
それは競技と言うことだけではなくその競技を通して自分の生き方や、その人生のあり方など考えさせられることが、多々あるのだが、アメリカではスポーツをその今やっている時間だけでとらえるのではなく、自分の人生の全体を見た時に、自分は今どの位置にいるのかということを確認して、将来このスポーツが、今自分にどういう意味でかかわっているのかと言うことを問うのがスポーツのかかわり方で、こういう考え方はだいぶ前からある。
最近フットボール(サッカー)なんかは、こういう考え方をとりこんでいると言うが、それはそのサッカー選手や引退した人などのコメントから分かるのだが、よくいう三浦選手なんかは本当に考えている。本当に考えているからこそ、社会的なコメントを求められてもきちんとそれに対して、自分の立場から的確なコメントができると思っている。
本当に何かを考えている人間のコメントというのは深みがある。
単純な言葉をならべたり、誰かに言われたことをバカの一つおぼえみたいに言うのではなく、物事を客観的にとらえ、今世の中がどう動いているか、そして今自分はその世の中で何をするのが自分の目的なのかと言うことをきちんと見据えていると思う。
偉そうに考えろといっても、自分にその引き出しがなければ考えることなどできない。
たぶんその考えろなんて偉そうに言う奴に限って自分の引き出しの限界を知らない、知ろうともしないと思うのだが、本当に自分たちは社会とか教育についてきちんと自分の立場から、堂々とした意見が言えるかどうか、こういうクラブというのは子供と関わっているので、特に教育と言うことに関しては、ある程度自分の考え方と言うのをもっていなければならない。
もし人に考えろと言うのであれば、当然ではあるが自分の引き出しを広げることが第一不可欠であり、今のスポーツというものを考えるのであるならば、その競技においてだけというよりも、その競技者がこの競技を通して、どういう影響を与えられるかということを考えなくてはならないのではないだろうか。

私はこのスポーツにはソクラテスが必要だと思っている。
ソクラテスとは何だと言っているようでは話にならないが、ソクラテスと言うのは産婆法という独特の対話で、若者と対話し啓蒙して言った有名な哲学者であるが、私が思うに今子供に必要な力は対話していく力であり、単に知識を詰め込むよりも、むしろ自分の足りなさを知り考えさせるということが必要で、その対話能力をスポーツを通して養うことができると信じている。
今心のつかれた子供たちが多いことに気づかされる。
いじめなんていうのはまさにそうだが、このカオスの時代において、今まででは考えられなかったような不安やストレスが子供にのしかかってきているのは事実である。
この「考える力」というのは以前にも何度も述べて来た、人間が本当に窮地や絶望におちいった時、考えることをやめてしまったらだめだ、人間は考えることによって救われる。よく文学や哲学の言葉に励まされ勇気づけられると言うことがあるが、まさにそれらは我々が考えたあげくに与えられた力であり、そしてそのことが生きる力になるということを言ったが、こういう時代であるからこそ「考える力」というのは必要であり、この「考える力」が生きる力であり、こういう力を我々は養わなくてはならないのではないだろうか。

少なくともでかい声であいさつをしたり「です」「ます」と言う一応敬語らしき言葉をつけて、年上の人間にへいこらすることが、教育的な配慮だと思っていたら、これはおかしいことだ、こういうシステムはかえって歪を生み出す。
アスリートは犬ではない、私から言わせてみればこういうことは犬のしつけで、今の時代では人権侵害である。
あいさつすることは大事だが、しかしでかい声をだせと言ったり、いかめしい雰囲気で威圧するなどというような行為は明らかに問題で、運動部と言うのは聞いた話だけでも、監督のいやみ、暴言などパワハラがあると思うのだが、そういうことを問題にして、システムをかえていかなくてはスポーツ本来の目的や力が損なわれるのではないかと思っている。




















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ここが変だよジムの言葉

2011-04-20 | Weblog
先日営業マンと言葉理解の難しさについて話をしていた。
話しはコントラクトの時に、後でいろいろとトラブルが起こらないようにするにはどう話せばいいのかと言うことで、仕事をしてはじめて言葉を使い伝えることの難しさと言うのを知ったらしいが、おそらくこれは何かスポーツを教える人間も同じである。
まあどの世界も言葉を使わない仕事はないと思うのだが、言葉というのは大事である。
言葉を持たない集団と言うのは必ずしも社会的であるとは言えず、そこで何かを教える人間が言葉を蓄えると言うことはその集団が社会的であることと大きく関係していると信じている。
私はこのクラブを立て直すにあたって言葉改革と言うのをしたということを言ったが、言葉を蓄え、まともな言葉をつかっていたら、おのずとしっかりした人たちが集まってくるというのが、私の考え方であるが、私の経験上言葉を学ばない人間と言うのは、物事の理解や判断が恣意的になるので、同じような仲間を集めて軍団化してしまうと思っているが、言葉と言うのは我々が生活する上で重要であり、コミュニティに於いても、この言葉理解と言うものがしっかりしていないと社会的であると言うことが言えない。だから私自身もまず言葉を蓄え、その言葉を正確に伝えるようにすること、そのことによって自分たちのコミュニティは社会的であると言うことが言えると思っている。

今言葉は大事だと言うことを言ったが、今日はそのボクシングで使われる言葉で、少し笑えることをあげたい。

「お前はケンシロウか」
よくボクシングクラブでは、ラウンドの終わりにラスト30と言う。しかしなんだかよくわからない。
まあ終わり30秒というところだが、しかし私はあと30秒でお前は終わってしまうぞというような、何か少しネガティブのような言葉にさえ聞こえる。
ラストと言うのは終わりという意味であるが、しかし必ずしもこの終わりは、我々が解釈するような、残りと言うことを意味しているのではない。
例えば「he is driven to the last dich」や「the last min」は、窮地に追い込まれたと言うことを意味しているが、このように「last」という表現が、終わりと言うことで使われる時、どちらかと言うとネガティブな意味で使われることが多く「the last ward」や「the last day」のように、完全な物事の終わりを意味していることが多い。
だからラスト30なんて言うと「お前はあと30秒だ」というような感じに聞こえ、たぶん昔北斗の拳という漫画で「お前はあと3秒の命だ」というのがあったが、英語圏の人間には、お前の命はあと30秒だと言っているように聞こえるのではないかと思っている。
まあ共通のこのラスト30は共通の和製英語で定着しているので問題ないが、ちなみにラスト30というのは「30 min to go」意味はのこり30秒。

「フィットネス、ダイエット」
まずダイエットであるが、これは運動で痩せることを意味しているのではない。
もう和製英語になってしまったので、あえて直さないようにしているが、英語でdietという言葉は「Im on diet(食事制限してるの)」と言うような感じで使われるが「diet」と言うのは、おもに医師などに忠告されてする食事制限のことで、皮肉であるがボクシングでダイエットと言うと、ボクシングで思いきり体を動かして食欲を減退させて痩せましょうということにもなる。
あとフィットネスというのもあやしい曖昧な言葉である。
英語の辞書にはこう説明されている「the condition of being helthy and strong enough to hard work or sports」すなわちそれは人間が健康であること、そしてその健康であるためにスポーツなどをするということに関係していると思うのだが、そう考えると我々のフィットネスボクシングという意味が理解できると思う。
ここにはよく外国人や留学経験のある人から問い合わせが来るのだが、おそらくこのフィットネスという感覚が日本語で言うところのボクササイズ的な感覚として受け取ったのだろう。
最近運動不足でそちらのホームページを見ましたと言うような感じで来るのだが、フィットネスボクシングクラブは運動不足やダイエットのためのエクササイズのジム、よく我々は体育会系のクラブではない、そういう雰囲気はないというのは、実はこの言葉をつけているからであり、ある意味言葉を正確に使っているのである。

「ファイトー一発」
ファイトーって何?応援ならまだしも、みんなが同じことを言うような声だしはナンセンスだ。
失礼だが程度が低い集団になればなるほど、インパクトが強く単純な言葉をつかう、暴走族が目立とうと子供にえげつない名前をつけたりするのは典型的な例で、昔バンドにデビルダイナマイトとかブラックサタンみたいな名前を付けていた奴がいたが、多分響きがいいから、それだけで判断したのだろう。
横文字にこだわる必要がないが、しかし横文字に疎いととんだ大恥をかいてしまう。そういう言葉を使ったり、言うのであれば、「かっこいい」とか「すごい」と言うような感覚的なセンスではなく、せめて基本的な英語ぐらいは理解して物事を判断するセンスが必要かもしれない。
確かにファイトはボクシングや格闘技で戦うと言う時に使われる言葉だが、しかし相手に激を入れる時には使われる言葉ではない。
審判が試合の時にボックスと言っているが、アマチュアにおいては戦う時ファイトと言わずにボックスと言うのが正しい。
ボックスと言うのは拳でたたくという意味で、ファイトよりはいくらか柔らかい言葉であると受け取っている。
ちなみにスポーツをするという意味で、ボクシングをするというのは「Play boxing」ではない。
「Play」というのは団体競技やボールを使う競技に用いられるもので、格闘技のような個人スポーツには「DO」が用いられる。
さらに自然を相手にするスポーツは「Go」「Go surfing」と言うように使われる。
まあ少しというか、かなりアイロニーであるが、しかし遠からず、近からずである。






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韓国紀行

2011-04-18 | Weblog
韓国のある語学学校の講師をしていた友人から連絡があった。
その学校は日本語コースと言うのがあってにわかに生徒が増えたそうで、その増えて新しい講師が決まるまでの約1週間、こちらでかわりに講師をしてくれないかということで、休みをとって行った。
まず私のここでの名前は岡崎である。普通外国人相手にはその呼び方は発音しにくいので、ホヨンという呼び名のほうを用いるのだが、しかしそうだとチェイルキョッポ(在日)と思われるそうで、日本語を習う時はキョッポよりも日本人のほうがうけがいいそうであるからそう呼んだのだが、しかし「ざ」の音がうまく発音できずもどかしかった。
毎回ここに来れば驚かされることが多い、おばさんの道端でのけんか、路上で髪の毛をつかみあっている姿を見たことがあるが、目がわるい私は最初大型犬のけんかかと思って身構えてしまったほどであるが、ここではいろいろなことがある。
今日はその旅行で体験した出来事を伝えたい。

「運転手の迫力」
ここに長くいるとまずおそろしいと思うのはバスである。
最近ではかなりおとなしくなったそうだが、しかし5車線のど真ん中で乗客を降ろしたり、まず日本ではありえないことが起こる。とにかく私は路線バスにのるのはいやだ。行ってそうそうこういう事件があった。
それは目的地に向かう途中での出来事。
私は迎えに来てくれた女学生とバスにのっていたのだが、いきなりバスが停車、何をやっているのかと運転席を見ると、どうやら運転手は接触しかけた乗用車と口論になっていた。
それは次第にヒートアップして。ののしり合いに、私はあまりにも勢いがすごかったので、何を言っているんだろうとその女学生に聞くと、その学生は日本語で「運転手がひき殺すと言ってます。私聞きました」だって。
このバスだがここでは目的地で降りる時、日本のようにバスがとまってから優雅に出口まで行っていてはだめ、降りる合図をしたら、席を立って軍隊の訓練のように出口にむかって行き、とまったら、すぐに降りる状態にしておかなくてはブーッである。

「そんなにまけたくないのか」
私が受け持ったクラスは上級クラス。みんなそこそこ日本語を話せるのでかなり楽であるが、みんな負けず嫌いでこういう話しがある。それははじめてのクラスでのこと、自己紹介とともに何年ぐらい日本語を勉強しているかを聞いたのだが、聞いていくうちにキャリアが短くなってくる。
最初は2年ぐらいからはじまって、1年半、1年、そして最後になると3か月ぐらいになっていて。3か月でそんなうまく話せるはずはないだろと突っ込みたくなったのだが、真顔で言うところがすごかった。
これとは逆にハワイのフィリピン人は体重をさばよみした。スパリングの時にだいたい体重を聞いてあわせるのだが、私よりも腕がかなり太い奴が堂々とバンタムなどと言うのだが、あきらかにこれはさばよみ、なぜなら次の試合きっちりライト級かライトウエルターででていたからで、こういう人間が結構いたような気がする。
ちなみにむこうで階級を表す時バンタムとかフェザーとは言わない。すべてパウンドで表現するが、いきなりバンタムとかいってもわからない。バンタムだったら119と言う。

「ノレバンにて」
東洋人はカラオケが好きだ。
私も語学学校の生徒たちに誘われて行ったが、韓国にはノレバンがたくさんある。
ここでは割り勘という考えが希薄で、たいてい年長者が持つ決まりになっているそうだ。
ここでも案の定私が支払うことになった。最近ではどうかは分からないが、日本だったら俺が払うと言ったら「いやいやそこまで」と普通そう言うのだが、しかしここでは、そんなことを言ってくれる人間はまずいない。
カラオケ行くかというとぞろぞろとみんなついてくる。
そしてその支払いは俺がするのかと思うとぞっとするのだが、昔サスケという忍者の漫画があって、その歌でサスケの分身の術を歌ったくだりがある。
「サスケが1人、サスケが3人、5人、7人、10人、100人、忍法影分身」思わずこの歌が頭の中にうかんだ。

「お前も同罪じゃ」
これは私の友人が思ったことであるが、むこうでは地下鉄の改札口のバーを飛び越えて入ったり、出たりする姿が見られる。
日本だったら改札口をキップも見せずにバーを飛び越えて入ったり出たりすると駅員に呼び止められるのだが、しかし向こうでケンチャナヨである。
ある時その友人は女性の大学生に聞いた「君も入る時あのバーをくぐっていくのか?」と。
しかし彼女はこう言ったらしい「跳びこえない、くぐっていく」と。
まあおおらかなのが向こうの性格、時々日本人はついていけないこともあるが、私が行くといつも思わされるのは近くて遠い国、やはり私は日本人である。

ジムでマスなどをはじめる時スタートというのだが、そのスタートの言い方が、最近「スタト」と向こうの人間のように無意識に言ってしまう。


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心の知能指数

2011-04-15 | Weblog
オリーヴには現在8名の小中学生がいる。
一応全員平和主義で、乱暴なことは大きらい、そう言っても王様のマスなどは目をかがやかせてするのだが、彼らはみんな個性的であるが、特に彼ら彼女らの自慢できることはコミニケーション能力の高さである。
以前外国人と英会話を20分間ワンバイワン(マンツーマン)でさせたのだが、20分と言うと普通大人でも話せなければきつい、しかし彼らはその20分を講師から英語を学ぶと言うかたちではあったが、まったく日本語が話せない先生を相手に20分何も楽しくレッスンしたのであるが、これには驚かされた。

最近EQという言葉がにわかに注目をあびてきているが、EQとは「Emotional Intelligence」のことで、日本語で言うところの「心の知能指数」のことで、分かりやすく言うと「社会的知性」のことで、ある研究によればこのEQが高い人はIQの高い人よりも社会で成功する確率が高いそうである。
手前みそな言い方であるが、たぶんここにいたらそのEQは間違いなく育つ、なぜならここにいる大人の人たち自体がEQの高い人たちが多く、そういう人たちが関わってくれるからである。
ある親御さんなどはここに来てから子供が明るくなって、勉強するようになったと言っていたが、子供と言うのは好奇心が強い分影響もされやすい。
そういう人たちがかかわりを持ってくれ、一緒に何かをしてくれると言うことは少なからずとも子供がその人たちから影響を受ける機会である。ここには教育的にも社会的にもきちんとした人が多く、そういう人たちが彼ら彼女らの生きた教科書となっている。そういう刺激を彼ら彼女らは受けているのである。

私は過去にいろいろな問題にかかわって来たのだが、さっきも言ったが子供と言うのは好奇心が強く、影響もうけやすいので、どういう人間にかかわり、またどういう集団に属するのかということは、子供が影響を受ける上では重要である。
私の経験上、堕落した人間の言うのは、物事を自分の都合のいいようにしか解釈せず、また相手に伝える時も都合のいいようにしか言わないものである。
非行少年が自分のやったことを棚に上げて、警察や教師を目の敵にし、悪い奴と決めつけているのが典型的な例であるが、暴走族などが警察を目の敵にして警察を襲撃したり挑発したりするのは、目立ちたいからということだけではなく、そういう都合のいい話を共有しあって同情するから、あいつらは悪だやってしまえと警察や教師がそのフラストレーションの矛先になると思っている。
スポーツの世界は兄貴的存在がいる。
これはいい場合もあるが、しかし程度が低い集団だと少し勝手が違う、こういう存在が集団によっては厄介な存在ともなりうるのだ。
さっきも言ったが堕落した人間と言うのは、自分に都合のいいことしか言わず、相談をするにしても彼ら彼女らは客観的な意見よりもまず同情を求める傾向がある。
あにきというのはそういう人間に対しては同情してくれるのでいい奴である。
よくその人間を慕っているのか「あの人の言うことはさからえない」とか、その人間以外の言うことは絶対聞かないなんて言うような人間がいるが、こういうことは絆が深いとかと言う問題ではなく、ある意味反社会的な行為である。
いわゆるあにきというのは自分の話を聞いてくれる、同情してくれるいい奴である。時にはおこってくれるが、しかしその叱責もはじめに同情ありきなので、ここちよい叱責で所謂お涙ちょうだいのごっこが繰り返されていく、それが仲間意識で集まる集団でそこにはかならずあにきのような人物が存在し、そういう輩を慕って少し問題のある人間が集まって独特の強い絆のようなものができる、そういう仲間を求めることは愚かなことで、我々のコミュニティーが単なる仲間か、社会的集団かというのは、それを管理する責任者のEQと教育のレヴェルにかかわっていると思う。少なくとも指導者はあにきにはならない、クラブを仲間の集まりにしないことが賢明である。
本当に何が正しいのかとか社会的秩序を学ばせたければ、教育は不可欠であり、特に集団性においては公共性とか公平性とかいうのが問題になってくるが、これを仲間意識でとらえるのと社会的にとらえるのでは全く違うと思うのだが、やはりそこには何が正しいかと言うことを学ぶための教育が必要になってくるのではないかと思っている。

よく言うがもう礼儀なんて言う形骸化された儀式のようなものは必要ない。
型にはまった礼儀やあいさつなんていうのは従順性を学ぶだけで、本当に子供の知性やEQが育つかどうかは疑問だし、今のこの時代にそういうものを求めているかどうかと言えば、体育会の言う礼儀は時代錯誤ではないだろうか。
もしそういうことを言うのなら、それを指導している人間がその礼儀の概念を学ぶ必要があるだろう。今はインターナショナルな時代だから、マナーやエチケットと比較してなぜ礼儀なのかということ、また自分は謙譲語と尊敬語を正しく使い分けることができるか、そういうことを問題にしなければ礼儀なんて言うのはどんどん形骸化されていくだけである。
指導者の語彙力や言葉の正確さと言うのは電話や対応でもわかるであろう。子供たちに礼儀と言う前にまず自らがそれができるか実践する必要があると思う。礼儀などと偉そうに言ってはいるが、そういう奴に限って、意外に言葉を知らないものである。

うちの子供たちはまず中3以外は全員ためぐち、でかい声であいさつしたり、むやみやたらにハイハイとは言わないが、しかし対話能力はあると思う。
所謂おとなに気にいられるような意見や受け答えではなく、きちんと自分の考えや意見を伝えようとしていると信じているが、少なくともそう教えているのがここの方針である。

ひつこくいうがこういう指導をする人間は本を読んだり、言葉を学べというのは、物事の本質を見抜く力がなければならないからでそのことを養うためだ。
物事の本質を見抜くと言うのはカンのようなものではなく、対話力である。
時々思い込みだが、自分はカンがするどいというのを自負して勝手なことをいう奴がいるが、しかしそういう奴は往々にして知識が乏しく、本や新聞など読まないから無知である。無知であるからカンにたよろうとするのである。
しかし対話することは大事なことだ、対話すればその本質は見えてくる。その本質を見抜くために学び言葉を磨き対話するのである。
本当に人間が立ち直り、生きていく力を得るためには教育は不可欠である。
そしてそういう知識をもって対話することは非常に大きな発見があると思っている。
しかし私は今のこういうクラブは単なる居場所程度にしかすぎないような気がしている。
もっとそこから一歩前進するためには、形骸化した礼儀や煽るような指導ではだめだ。
もっと学んで教育の力、言葉の力を信じ、重んじなくてはならないと思う。

以前非行少年(一応元にしたほうがいいかもしれないが)をあることで呼びだした時に、ある子供が彼が私に呼ばれたことに、かなりあせっていたというようなことを笑いながら言っていた。しかし彼があせっていたのは。なぐられるからということではない、たぶん腕力だったら向こうのほうが私よりも数段上である。
彼がおそれていたのは、対話すること。対話して物事の本質を見抜こうとされることがこわかったのではないかと思っている。
で呼びだした理由はオートバイの名義変更、友達からゆずりうけたオートバイを名義変更せずに乗っていたので、保護観察中だった彼に変更しろと直接伝えるために呼んだのである。

最近小中学生がかわってきたように思える。
実は小学生から中学生に、私がむこうでしていた筋トレを組み合わせたサーキットトレーニングをしているのだが、これが結構功を奏し、肥満だった子供がやせたので、ダイエットにも取り入れているのだが、このサーキットはひとととおりすると全身を鍛えることになるのだが、これがかなりきつい。
もちろんその程度にあわせてサーキットのメニューを組むが、一応全身を鍛えることができるようなメニューを組むのでサーキットが終わるとみんなへとへとである。
しかしこのことによってかなり体力がついてきたので、練習の意欲が多少かわってきている。
以前はシャドウやミットマスなどをしても散漫でマス以外は集中できるような状態ではなかったが、最近はシャドウなども集中してできるようになり、体力をつけることの重要性がわかってきた。
ボクシングの練習と言うのは我々が考えている以上に体力を要するものである、シャドウボクシングなど単純でたやすく見えるがしかし3分間手をだしつづけるということは至難の技で、それを運動経験のない子供たちにいきなりさせることは無理だとようやく気づき体力づくりをさせることにしたのである。





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結果的に言葉だろ

2011-04-13 | Weblog
私の親しい人で施設の職員の人がいる。この人は私が最も信用する人の一人で、たぶんそれはお互いそうだと思う。
私が彼を信用できるのは、私のように立て板に水とまではいかないが、本当に自分の意見をもちはっきりと自分の考えを主張できるからで、お互い考え方が違えば、そうでないとたぶん衝突するだろうが、だからこそ信用できるのである。
私は以前園の子供たちや不良少年と関わってきて、思わされたのは「教育」所謂学ぶことの重要性である。
確かにボクシングやスポーツは夢中になれるものではあるが、しかし本当に自分の生き方を教えてくれない、本当に人間が誇りや自信を持って生きるためには言葉を学ばなくてはだめだと思っている。

学生時代の話であるが、言葉は悪いが私がよくタダメシをありつきに行っていた韓国系の教会がある。
たぶん留学生など外国で多少なりとも生活したことがある人間にはわかると思うが、それは教会のありがたさ、日曜日にお話を聞けば終わって食事を用意してくれる。そういう不謹慎な目的で行った人間は多いはずである。
その教会に3回ぐらい行った時のことであるが、まわりの人たちのステータスと言うか、教育レヴェルが非常に高いことに驚かされた。そう言う人たちの集まりなのかと少しためらったが、自分なりに分析してみてあることがわかった。
それは言葉、所謂語彙力や表現力の問題である。ここにいる人たちは非常に語彙力が高く、サーヴィスで語られる言葉なんかも非常に格調高く、おそらくここの会員たちは子供の時からそういう言葉を聞いているから、知性なんかが育つのだろう、さらにここにはたくさんのロールモデルがいる。
子供なんかもそういう人たちから刺激をうけるのだから、道を間違えなければまともに育つのは当たり前だ、だから優秀な人が多いんだと思ったことは確かである。

今ボクシングを少年院や不良少年に教えて更生させると言う取り組みがあるが、正直私は肝心なものがぬけてしまっていては、彼ら彼女らの生き方に終局点が見えないとさえ思っている。
以前テレヴィ番組で不良少年たちとボクサーが対談をしていたのだが、その対談がひどい、いきおいあまってけんかごしでものを言ってくる若者に対して、ボクサーの言ったことは「おまえらかたまってないで一人でやれや」であるが、こんなことを言って何になるのか、俺はひとりでチャンピオンになって真面目(とはいいがたいが)にやっているとでもいいたいのだろうか分からないが、これでは50歩100歩で、言葉を知らなければみじめであり、結局は勢いか脅しでである。
タイスンにしても、彼は恩師のダマトがなくなってから自分をコントロールできなくなってしまったが、ボクサーの犯罪は最近結構目立っている。
やはりそれは人として本当に学校教育などで学ぶ、大切なものを学んでこなかったからではないかと思っているが、たぶん今ボクシングを教えると言うのは犯罪大国アメリカでは時代錯誤ではないか。

確かに一時的におとなしくさせるのはある程度有効かもしれないが、それだったらプリズンドックという犬をしつけさせるプログラムのほうが効果は絶大だし、囚人に教育を受けさせる必要性を感じ、実際それを行っているところもあるが、前にも言ったが教育を受けていないと言うことは、今の時代では間違いなく、ディスアドヴァンテージであり、学校の勉強は役に立たないとか、社会で賢いのと勉強で賢いのは違うなどと負け惜しみを言う前に、人間は知性を磨かなくてはならない、そしてその必要性を感じなければならないし、人間はそのことによって高められていくのではないだろうか。
おそらく子供や青年にとってその集団がどういうものかというのは、彼ら彼女らの成長を促す上では重要なことで、スポーツと言うのも言葉を使うのであるから、そこをどう刺激していくかということも十分に考えなくてはならないのではないだろうか。
私自身このことに関しては一つのポリシーがある。それは言葉を有益に使うと言うことである。
自らが適切な表現や語彙をたくさん蓄えれば、集まってくる人間もしっかりしているし、また子供にもいい刺激を与えることができる。
人間が集まると、ともすれば、小学生のように仲間をつくって盛り上がろうとするが、しかしここにはそういう程度の低い考えの人間はいない。
ほとんどが社会人で自立した存在であるから、あえて同じ仲間をつくって仲良くして盛り上がろうなんて言う考え方はさらさらない、むしろコモンセンスを守り、公共性を重んじる。だからこそはじめて来た人も気兼ねなく練習できるのである。
そのためには指導者自らが言葉を磨き、知識持つと言うことを重んじなければいけないと考えている。
子供にいい刺激を与えたければ、その場ののりや勢いだけではだめである。
いい学校や言い職業につくことが本当の目的ではないが、しかし言葉を学ぶことは非常に大事なことで、一生懸命何かをするからこそその言葉は生きてくるのである。
だから自分が何かを真面目に勉強してこなかったということに対して、むしろそれをディスアドヴァンテージに考えるぐらいでなければだめ、よくそれを無視していきおいで生きようとする人間がいるが、そういうのは基本的に間違っている。
厳しい言葉だが言葉はツールであるから、その言葉をきちんと使えない人間は道具をつかえないのと同じ、我々は言葉を使う仕事であるから、言葉を十分に勉強し、伝えていく必要があるのではないだろうか。

日本はボクサーが暴言をはいても、多少は多めに見てもらえる傾向があるように思える。
たぶんあんなことサッカー選手や他のスポーツ選手が言ったら間違いなく、問題になると思うのだが、しかしそれはその程度でしか見られていないと言うことではないだろうか?非常に心外だ。

ボクサーの犯罪についてはたまたまその犯罪をおかしたのがボクサーだっただけだと言うかも知れないが、しかし問題はそれらが暴力とつながっていることであり、極めたと言われる人たちがおかしている点である。







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Speechless 3

2011-04-11 | Weblog
今日はまたまた好評だった「Speechless 3」というタイトルで、少しブラックユーモアを含んだ内容の出来事を紹介したい。

「韓国語にもあるけど」
子供が小学生1年生の時、ある時期英語に興味を持ち始め、何か思いつくと「これ英語でなんて言うの」と言うようなことを聞いてきた。子供と言うのは思ったことを聞いてくるので、時にはそれに対して何と答えていいのか返答にこまることがあるのだが、しかし子供と言うのは好奇心が強い。
この話はファミレスでの話である。
ある時家族でファミレスに行ったのだが、我々の斜め前の席の若い女性たちが、はんぱじゃないぐらいうるさい、小さい子供が近くにいるのにタバコをプカプカ吸うわ、手を叩いてでかい声で笑いまくるわで、本当にどう見てもまわりからみれば迷惑千万であった。
しかしその時彼は案の定そこでもこれは英語で何と言うのかと言うことを、ゲーム感覚で聞いてきた。
まず砂糖をとって「これは」「Suger」、そして次に「じゃあこれは」「Pepper」などと近くのものを指差していろんなものを手当たり次第にあれはあれはと聞いてきたのだが、聞くものがなくなった時、彼がある方向を指さした。
その彼の指の先には例のうるさい女性たちがぎゃあぎゃあと騒ぐ姿があったのだが、私はその時思わず「Bit○h」と言いそうになった、あぶなかった。たぶんあいつら一体何ものなのかと思ったのだろう。私が何と答えるかを興味深々な目つきで見ていたのだ。
ちなみに韓国語にもこれによく似た言葉「ケー○ジ」と言う言葉がある。

「今気がついたの」
時々ボクサーでまぬけな人がいる。
解説を聞いていても意味不明なことを言うのだが、だいぶ前ボクシング中継を見ていたら、あるボクサーが解説をしていてこういうことを言っていた。
それは黒人と日本人が試合をしていた話であるが。その試合は日本人が有利で試合をはこんでいた。
その時解説者が「相手の選手顔が赤くなって来ていますね。でも黒いからわかりませんね」と大真面目で言っていたらしい。
あと、関西出身のボクサーがクリティカルなフックが入った時に「あっ今バリバリのフックがはいりましたよ」と言っていたが、これは全国放送での話である。
このまぬけなボクサーは日常にも存在する。
彼は「自分の型にはまったら」を「おまえは自分のつぼに入ったら強い」など、格言やことわざを曲解し、まわりをシーンとさせるそうだが、ある人からこういう話を聞いた。
それはスパーリングかマスが終わった時のこと。
その彼がつかつかとこわい顔をして近づいて来たそうである。
何があったのかと思いきや、彼はこわい顔をしてこう言ったらしい「レフトって右のことか?」「えっ........
」「普通右でしょ」と答えたものの、彼は思ったそうである「えっライトとレフトが分からなくてパンチ出していたの?」
まさにSpeechlessである。
ちなみに私はガッツは結構好きだ、面白いことを言うがあの素朴さがいいと思っている。

「それって日本語じゃないの」
大阪で日本人の友人とアメリカ人の友人3人でピザを食べに行った。
アメリカ人はカリフォルニア出身で、私の友人はカリフォルニアにホームステイしていたらしく、話ははずんだ。
話はカリフォルニアの話ではずんだのだが、どうやらカリフォルニアにはオットセイがいるらしい。
そこで彼はオットセイを見たことがあるので、自分はオットセイを見たと言うが彼には通用しない。
何回も何回も「Iv seen オットセイ オットセイ」というが、通用しない。そこでオットセイの発音が間違っていると思い。何回もかたちをかえて「おっっとせい」とか「おうっとせい」「おとせい」と言っていたが、通用しない。
しかしよく考えて見ればオットセイは日本語だ。英語ではたぶんSealとかSea lionとか言うらしいが、自分たちにはこういう勘違いはよくあることだ。だいぶ前もハワイでビーチサンダルがほしくて、必死で定員にビーチサンダルをくれと言っていた人がいるが、おそるべし和製英語である。










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学校英語をなめてはいけない

2011-04-08 | Weblog
元外交官がある雑誌で、英語学習にお勧めの本として中学、高校の参考書をいくつか挙げていた。
そのあげた理由を聞いて納得したのだが、日本人は最低でも6年間英語を勉強しているのにはなせないのは、その学校で習った基本的な内容を十分に理解していないからだという。
確かに学校でならう英語は時としておかしいというか、実践的ではない場合が多い。
たとえばなんでも「Please」をつければ丁寧語になると錯覚するように教えたり「Whats your name?」や「Pardon」などと少しがさつに聞こえる表現が、ベーシックな英語として理解されている点では実践的ではないと言えるのだが、しかし文法に関してはきちんと会話する上では必要なことを教えていると理解している。
たぶん学校で習う英語を十分理解で来たら日常会話はできると思う。あとは実践と応用の問題で、自分でそれをつかう機会を見つけて話せばいい、最近ではプチ留学なんていうのもあるからそういう機会を持つのもいいだろう。
とにかく話せば学校で教えてくれた表現の違いや解釈の違いが分かる、学校の勉強で話すことに大切な基礎をつくり、実践で応用するのである。
ある大学生がプチ留学で、日本に興味があると言う外国人と知り合い話をした。
お互い大学生なので話があって、彼は自分の知っている英語を駆使して話をしたのだが、話が進むと冗談話になってくる。
そしてその外国人の男性が自分の知っている面白い話をした時に、彼はこう言った「Very funny(おもしろい冗談じゃねえか)」
この時自分はたいへんおもしろいということを表現したかったのだろうが、しかしかえって「Please」や「Very」をつければそれがそのまま丁寧語や強調する言葉になるかと言えばそうではなく、皮肉に聞こえることもある。まさにこの「Very funny」がそうだが、彼はその外国人の表情からあれっと思って分かったらしいが、まさにこういう失敗をしておぼえていく言葉は、後に生きた言葉となる。
しかし時々「英語は文法じゃない」と言い切る人間がいる。
「英語は文法ではない」と「社会で賢いのと勉強で賢いのは違う」と言う言葉は、負け惜しみの典型的な言葉であると理解しているが、じゃあお前どこまで文法をやったんだと言えば、そういうことを言う人間に限って英語は赤点であったという人間が多い。
文法じゃないと言うのは、日本人は話す時に失敗をおそれるから、話す時にそれを気にしないではなせという意味、何の言葉を話すにしても文法は無視できない。
第一英会話学校でも「Side by side」というよくつかわれる基本的な文法の古い教科書があるが、教えていることは文法で、宇宙人との交信でもあるまいし、文法を無視してどう話せと言うのか不思議である。
だいぶ前にワーキングホリディかよく分からないが、オーストラリアかどこかに行くと言う若い人が相談に来たのだが、言うことがかなり強気、というかどこからそんな自信がが出てくるのかと思うような話し方であった。
で肝心の英語は話せるのかと聞いても、今教室に行っているが全く話についていけない、何となく言っていることは分かるのだがでも英語は文法じゃないから、実際向こうで肌に触れて覚えると言うのだが、しかし肌で感じると言っても、片言の英語も話せない人間を当然現地の人間は相手にしてくれるはずはない。
ある程度人生を経験して分かるが、人間にはいろいろなタイプがあって、いろいろなタイプを見て来たが、最近気づくのは彼のように負け惜しみが先行するタイプであるが、結構こういうタイプは多い。
自分ではいさましく前向きに話しているようなつもりでも、やってもないのに英語は文法じゃないということを言うと言うのは、それは逆に自分はそれをできない、だから話せないんだということを露呈しているわけであって、そう考えると勢いよく話してもそれらはからいばりに見えてくる。
何でもそうであるが物事を習ったり、学習する上で基本的にやらなくてはならないことがある。
それらのことを無視しては上達はない。
「英語は文法じゃない」とか「勉強で賢いのと社会で賢いのは違う」などと、実際やりもしないで言うのは愚かなことである。
最近聞き流せば楽におぼえられるという教材があるが、しかしあれは専門家が選ぶワーストワンの教材、楽して語学習得はできないとにかくコツコツと地道に思えていくのが語学である。
学校英語なんて役に立たないと言うのは、たいていできない人間かそれを放棄した人間のいいわけだ、語学と言うのはおぼえるまでは非常に地道でしんどい作業が続く、しかしそれを経て会話ができるから楽しく同時に自信もでてくるのである。
少し前ある雑誌に男性が嫌いな女性のタイプというのがあって、そこに堂々とランクインしていた女性のタイプがあった。
それはどういうタイプかと言うと「英語をしゃべる女(本文そのまま)」と書かれてあったのだが、海外留学した女性は堂々と自分の意見を言えるようになるので、ある種これは自分の意見をしっかり持って、はっきり主張するタイプの人間に対するコンプレックスであると見ているのだが、女性にとって語学をみがくこと、それは今の時代に求められる自立や強さのひとつと言っても過言ではない。
やりもしないで英語は文法じゃないとか、そういう女性をさけたりするのは、コンプレックスのうらがえしだ、文法がわからないと話にならない。
さっきも言ったが英会話も文法のレッスンである。
本当にやる気があるならば、地道なことからコツコツと、中学や高校の参考書を見て学ぶのもひとつの大事な勉強法だ。


あいさつを義務化してる人間だが、21世紀は英語でもあいさつできなければだめだ、特に指導者ができなければ失格。
小学校から英語教育を義務化させている今へりくつでもなんでもない、礼儀みたいなものをおしつけるまえに、いろいろな意味で自分たちも研鑽する必要がある。そういう時代である。


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生きる力の源

2011-04-06 | Weblog
私はよく本屋に行くのだが、日本の本屋で目立つのは、あんちょこ(安直)的な本である。
アンチョコ的な本とはいわゆる何々がよくわかる本と言うように、ある物事を詳しく説明した本であるが、以前洋書特に英書で読める情報は日本語の1000倍以上あると言うようなことを書いたが、しかしことアンチョコに関しては日本のお家芸とも言えるぐらい数が多くて幅が広く出ている。
10何年前ぐらいに北欧で「ソフィーの世界」という哲学のアンチョコ的な本が出されて大ヒットしたが、しかし日本のアンチョコ本はその小説よりもさらにわかりやすく、理解できるように書いているのだが、特にある大学の学長が出した入門書などは非常に分かりやすく、おそらくこういう要領をつかんで分かりやすく説明する作業は日本人は世界一であると思っている。
余談であるが「TOFUL」のアンチョコは韓国がもっともすぐれている。問題の対策と傾向は十分研究されていて、笑ったのは、ある問題集に、迷ったら(2)だったか(3)だったかを選べというということが書かれてあって、理由は圧倒的にこの番号が正解率が多いからだそうだ。やはりお隣の国も教育制度が日本と似ていることをうかがい知ることができる。
しかしその反面、安易にアンチョコ本を出すことに対して問題を感じている。確かに経済や裁判などのしくみについてはアンチョコなどを頼りにして理解することもいいのだろうが、しかし哲学的な本はどうしてもある解釈が入ってしまうので、理解の仕方そのものがステレオタイプ的になってしまう懸念がある。
外国ではあまりアンチョコ本をあまり出さないいうか興味がないのはのは、その書物に対して自分なりの理解と言うものを尊重しているからであり、哲学にしてもヴィトゲンシュタインやハイデガーなどの難しく複雑な本なんて簡単に説明できるはずはないし、自分で読んでまず理解しようとしなければ無意味である。しかしこれをいとも簡単にアンチョコで読みこなしてしまうと、考える力を養うことができないのではないかと思う。
おそらく日本人の優等生と欧米の優等生の違いはここにあるのではないかと考えている。前回のブログで留学生が難しい本をたくさん読んでいたと言うことを書いたが、彼ら彼女らは本国でもそういう難しい本を読んでいるらしいのだが、ドストエフスキーやカミュ、ヘミングウエイなどの基本的な文学を若いうちから読むと言うことは非常に意味のあることである。
しかし日本の彼女と同じ世代の学生は、ある事柄を知識として詰め込みすぎるきらいがある様に思える。
たぶんやらなくてはならないことが多いので、本をじっくり読んでそこで立ち止まって考えている余裕などないのだろう。しかしそれに対して欧米では、文学を楽しむ余裕と本人の解釈と言うものを尊重しているように思えるのだが、おそらくこの違いが日本人は自分の意見を持たない、主義主張ができないということにつながるのだろう。
今日本人には考える力が必要であると実感している。考える力と言っても運動の練習などで「考えろ!」と言われて考えるような単なるこつのような単純なものではなく、もっともっと物事を深く知り、理解しようとする力で、そういう力を書物によって養われることが必要だ。
今年に入って私の身の回りでいろいろなことが起こった。
東北関東大震災もそうだが、失業した人や肉親を亡くした子供、本当に「人間はなぜ生きるか」そしてどう「生きるのか」と言うことを問わされずにはいられない。
しかしこれらのことに対して本当に解決を与えてくれるのは、人間の知恵や知識であると信じている。
時に文学や哲学と言うのは、そういう人間の悩みや苦しみに対してわれわれがどう生きるべきかと言うことを示した書物であり、そういう書物を通して与えられる知恵と言うのは、本当の我々の生きていく上での力になるが、むしろスポーツの指導者が教えていかなくてはならないのはこういうことである。
時々スポーツをやっていればいいというような指導の仕方や軍隊のように礼儀と称して、ステレオタイプの人間をつくっていくのがいるが、しかし大切なのは深く考えると言うことで、そういう部分をスポーツを通して刺激することも必要ではないだろうか。
ちなみに私の知り合いのコーチはよく古典を引用する。勝負事において、カエサルなどの言葉はそうであるが、マルクスアウレリアスの自省論など、その他の文学などを引用し、そのことによってボクシングやスポーツも社会の実生活と同じようなものだということを気づかされるのであるが、こういう積み重ねが実際に実生活で生きた言葉になり、何事にも負けない強い心というものを生み出すのではないだろうか。
コミニケーションにおいて、大事なのは命令や伝達ではない。インテリジェンスを共有し合うことである。
このことを共有し合うことができるコミュニティーを目指したいと思っている。
















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