脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Lets dietって??

2012-03-30 | Weblog
雑誌の広告にこういうのがあった「Lets diet」まあ文法的には間違ってはいないが、しかしニュアンスが少しおかしい。
なぜならLetsは複数で使う言葉で「Lets go hikeing」 と言えば、さあみんなで一緒にハイキングに行こうというようなニュアンスで使われるからだ。
「diet」なんていうのは、個人の問題であって、本来集団でみんなで「さあダイエットしよう」というような問題ではない。
たとえば太った人間ばかりが集まって集会を開いて、このままではいけないからみんなでダイエットでもしょうじゃないかというならまだしも、しかし雑誌で個人に呼びかける程度では、そういう使い方はしないと思うが「diet」という言葉にしても、もともとは食事制限に使われる言葉で、日本語でいうところのダイエットは「workout」とか「exercise」である。

外国人がこっちに来て驚くのは有名だが「カルピス」これは直訳すると牛の小便と言う意味で、彼はここに来てはじめてそれを見た時、たまげたらしい。最初これはなんだと思って買ったらしいが、しかし飲んでみるとかなりおいしのでさらに驚いたそうだ。

よく言うリピーターと言うのも、実はえげつない言葉だ。
日本語でリピーターとは、その店が気に入って何度も店に足を運んでくれる「good customer」のことをリピーターと言うが、ところが英語では再犯者のことで、犯罪を何回もおかして刑務所に行くような人間のことをリピーターと言うので、うちの店はリピータが多いなんて言うと間違いなくひかれる。
実際そういう格闘系のとある場所は、リピーターが多いようなところもあるけれども、しかし基本的には一般ではそういう客は危険でお断りである。

好きな子ができて、あの子にアタックしろなんていうのも危険、もうわかると思うが、アタックと言うのは攻撃すること、アメリカがイラクを攻撃したというような時に使われる言葉で、好きな人に攻撃しろなんていったら間違いなくあぶないやつと思われる。
日本語では男友達や女友達のことをボーイフレンドとかガールフレンドと言うが、英語ではボーイフレンドとかガールフレンドと言うのは特定の相手のことを指して言う。韓国語でもそれぞれナムジャチング(男友達)、ヨジャチング(女友達)と言うがこれらは英語でいうガールフレンド、ボーイフレンドと同じである。

よくカンバンや雑誌を見ると、間違った英語がよくつかわれているので面白い。
世界各国ここまで外国語を発音だけではなく、意味までかえて理解しているのは日本ぐらいで、皮肉であるがある意味すごい。
しかし5年ぐらい前に横浜に行った時に思ったのだが、メリケンパークと言う公園がある。
何がメリケンパークかと言うと、現代の言葉ではアメリカンパークのことらしいのだが、しかし昔の人がアメリカンパークをメリケンパークと聞き取ってメリケンパークになっているのだそうだが、しかし正直アメリカンよりも発音的にはメリケンのほうが正しいように思えるが、そう思うと日本人の本来持っているヒアリングの能力は高いとも言えるのかもしれない。
まあそうは言っても、実際今はにここに外国人が増え、外国語がつかわれだしたのだから、もう少しその言葉の意味を理解して使う必要がある。

言葉と言うのは面白い、使えると考え方をほかの言葉に置き換えて考えることができるので、一つしか使えない人間とは正直差があると思っている。
言葉を知るとその民族の限界や素晴らしいところが見えてくる。日本語も日本語だけで考える限界やその素晴らしさがわかるのは、他の国の言葉を理解できるから見えてくるのであって、例えば前にも言った韓国語には「困る」という言葉がない、困らないから北朝鮮の常識を越えた行動がわかると言ったが、韓国語しかわからなかったらこの困るという概念がわからない、いわゆる自分たちの感覚でしか物事を見れないのだ。

少し卑近な例でたとえるとボクシングの「Step」と言うのがそうだ。
もともと日本人は農耕民族だからそういうリズムがもともと備わってはおらず、盆踊りなどを見てもわかるように、4拍子のリズムが日本人の動きで、盆踊りは英語ではBon danceと言えるが、しかし外国のダンスのようなステップはない。
でこのステップと言う言葉は、日本語でどういう言葉に置き換えられているかというと「すりあし」である。
まあ今のボクシングの参考書にはたぶんそのままステップと言う言葉で説明されていると思うが、このように日本語にはもともとない言葉なので、訳しようがないので感覚がついていかないわからない。
アメリカ人に言わせたら日本人はリズム感がない、足の運びがへたくそだといわれているが「step」というものがどういうものかがわかるには「郷に入っては郷にしたがえ(When in Rome do as Romans do)」言葉をおぼえてまず言葉の確かさや感覚を知ることが大事である。
これだけではなく、他国から伝わったものは、もともとの言葉の意味がわからなければ、理解できないこともしばしばあって、ボクシングと言うのももともとは欧米のスポーツなので、英語を理解していないとその本来の意味と言うものが理解できず。日本式で終わってしまうことが多い。
米国でスポーツをを経験した人間から見て、明らかに日本スポーツ、特にマイナースポーツの雰囲気はおかしい。日本の練習を見ていてもボクシングではない変な雰囲気があるのだが、練習や精神論などは未だに武道のようで、声だしとか言って「ファイト」なんて言う奴がいるが、こんなこと中東で言ったらえらい目に合う。たぶん言葉がついていないから十分に理解できず、それがうまく調和しないから、武道のけいこのような練習の仕方が染みついていると思っている。
今やスポーツはいろいろな国の言葉が入って来ているので、しっかりとそれをとらえるためには、日本語だけでは通用しない。
前にも言ったように今は何とかチャンピオンとか何とか何位の時代ではない。
多少言葉がつかえれば別だが、それだけしかやったことがないというのは、日本語さえもあやういもので、これからは英語が話せるとかドイツ語、韓国語、フランス語が話せると言ったことがアドヴァンテージになる時代である。

日本、韓国、中国と言うのは言葉において共通点が多い。
例えばことわざや熟語も中国からの言葉が多く、「八方美人」「三寒四温」(八方美人に関しては意味が違うが)などと言う言葉は、三国ともに共通しているのだが、しかしさっき言った「郷に入っては郷に従えは」中国語では「入郷随俗」英語では「When in Rome do as Romans do」英語でもあるような言葉が、なぜか韓国語にはなかったように思えるのだが、この点からもお隣の国の性格がうかがえるかも。



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He is capable of speaking english.

2012-03-28 | Weblog
前回のskypeの話の続きであるが、実は私はヨーロッパやアメリカ人には韓国名で通している。
なぜなら日本名は発音しにくいからで、韓国名の「hoyoung」だと発音しやすく名前をおぼえてもらえるからで、私は外国人に自己紹介する時は「Im Hoyoung, call me Hoyoung」と言っている。
ただヨーロッパ圏では少女時代やKARAなどのユニットがうけているのでうけがいいが、しかしアメリカや国によっては評判がわるく、俺はコレアンは大嫌いだという人間もいるから要注意だ。

言葉をおぼえるということはこの時代にはアドヴァンテージである。
特にここ数年前から英語を重要視する会社も増えてきて、会社の採用条件にTEIC600点以上などというような会社も少なくはなく、企業に就職する大学生は一生懸命採用されるためにその勉強にいそしんでいるのだが、今日英語と言うのはこちらが必要とするしないにかかわらず、世の中では必要とみなされていることは確かなことである。
しかしそうは言っても外国に行くわけでもなく、日本にいるのになぜ必要なのか?世の中は英語、英語と言っているがしかし今あえてその必要性は感じない、だから英語をおぼえることは、それほど重要ではないという意見もある。
しかし本当に必要ないのであろうか。私はもう少し自分の仕事やスキルを「improve」したかったら英語を最低でも読める必要はあると思うのだが、今の時代は英語が読めなかったら、たくさんの情報を拾えないから通用しない。
情報と言うのはたくさんひろってそれが本当につかえるかつかえないかということを吟味して、つかうから生きてくるのであって、最初から日本語だけでしか情報が拾えないと杓子定規に物事を判断し考えてしまうこともあるだろうが、それは特にスポーツ界において言えることではないだろうか。

ここからは私の主観だがあたっていると思うのだが、往々にして語学に疎い集団は保守的で、くだらない伝統に固執しすぎである。
特に礼儀とかあいさつにこだわるような集団があるが、そういうことを徹底させて何になるのだろうか。
あいさつというのはコミニケーションの潤滑油のようなものだ、にこっと笑って「how are you doing」とあいさつされると何だか幸せな気分になって話をしようという余裕がもてるが、こういう奴らの言っているあいさつは少し違う。
彼らがそういうことを無視してただパフォーマンスのようにやるあいさつは、私から見たらやくざの「おひかえなすって」のように見えて時代錯誤である。
言葉も間違っているし、とにかくでかい声で聞こえるようにさせるのが目的なので、彼らが「チワーッス」とか「ウンチワッ」などという滑稽な言葉をつかうのは、ただいきおいを監督や先輩に伝えるためだ。そこでは服従の姿勢を見せればそれでいいのであるが、一般的にはたとえでかい声をだそうが「チワーッス」というようなあいさつは相手のことをバカにしている。
同じような感じで外国人に「ハッローッ」「テンクース」なんてやったら間違いなくひかれると思うのだが、こういうことが語学に疎かったり、関心がなければ理解できない、そういうセンスがもてない。
私などはそういう人たちのあいさつは親分と子分の関係があるから成立するあいさつで、決して相手を心から安心させるようなあいさつではないと思っているが、「チワーッス」などと間違った日本語を、しかもでかい声で叫ぶのは無知だからできること、バカまるだしだと思うが、中国のことわざに「一犬形にほゆれば、百犬嘘にほゆ」という言葉があるが、まさにバカがこういうあいさつをするとまわりが同じようなあいさつをする。こういうことは教育的には害にならないのだろうか?

ここではそういうあいさつは強制しない。なぜなら子供によってはそのあいさつすることさえしんどい、いろいろな問題を抱えていて難しい子供もいると考えているからである。
ただここではにっこりとほほ笑んでこんにちはとこちらからあいさつするようにしている。
中にはあいさつは基本だということをすりこまれているので、それを徹底させることが正しいことだという一方的な考え方を持っている奴もいるが、しかし私が思うにここで大事なのはそういう自分の信じていることか何か知らないが、そういう枠に子供を押し込んで型にはめてこれが礼儀だと教えることである。
私が思うに大事なのは子供とコミニケーションをはかること、最初から型にはめて親分子分のような関係をつくるのではなく、その子らしさというものを受け入れて関係をつくることが大事だと思っているが、あいさつというのはそのコミニケーションをはかるための潤滑油で、させるものではなく、こちらから気持ちとして投げかけてやるものだと思っている。
たぶん昔だったらそういうやり方で、型にはまる子供もいただろうが、しかし今はこの多様化された時代の中でいろいろな問題を抱えている子供がいるので、自分たちの信じていることか知らないが、型にはめたようなそこだけでしか通用しないような常識では、カッコつきの人間しか育たず、本当に必要な心を育てることはできない。子供によってはそういうことができないだけで、自分は不適合型だと感じ、その居場所さえうしなうであろう。
子供の心は複雑でかつどんな子供も大きな可能性を持っている。
だから子供とコミニケーションをはかることはむずかしいことだ、なのにそういう親分子分の関係のような単純なシステムにはめ込むだけのやり方では、スポーツ面は育っても肝心な心が育たない。そうなるとたとえスポーツができても、グローバルの波にはのれない、いわゆる型にはめるということは、その可能性の芽をつぶしているようなものだ。
たぶん指導する人間は権威を振りかざして、どうしたら俺についてくるかなどと言うようなこと悩みを葛藤するよりも、どうしたら彼彼女らを生かすことができるかという、コミュニケーションのはかりかたに悩み苦労する必要があるのではないだろうか。

ちなみに日本ではチワーッスも含めて運動系の間違った敬語が市民権を得ている。
しかし韓国では軍隊に入ったら語尾に「ヨ」をつけて話してはいけないそうで、すべてかたい敬語のハムニダ体で話されるそうである。



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ダイエットとトウガラシ

2012-03-26 | Weblog
SKYPEは便利だ。インターネットに接続すればどこにいてもfreeで話ができるのだから、私は仕事でもプライヴェートでも、大いにこれを活用している。
先日韓国の友人と話をしたのだが、そこでダイエットに関してたいへん面白い話を聞いた。
それは韓国人の女性が留学で日本に来ると数か月で太るということであった。日本に来たからといって向こうとさほどかわりない生活をしているそうであるのだが、しかしそれでも必ず2,3キロは太るそうである。
彼が言うには原因は食生活にあるらしい。なんでもこっちに来たら辛い物を食べる機会がへるらしく、特にトウガラシの存在は大きくトウガラシにはカプサイシンというダイエット要素の高い物質が含まれているそうであるが、むこうの郷土料理のほとんどはトウガラシをつかっているので、その郷土料理を十分に食べることができないのでダイエットの作用が母国に比べてへることが原因ではないかと言っていた。
確かにむこうの女性は日本に比べて細い人が多い。
おおげさにいえば日本でさほど気にならない程度の人でもむこうに行けば、ダイエットしないといけないという気持ちにかられるそうであるが、私の知り合いの若い女性もほとんどが痩せているが、やはりこれは食べ物の差であると言っても過言ではない。
トッポッキ(トッポギ)という若い女性が好きな郷土料理がある。
トッポギはトウガラシが使われていて、食べると結構辛いのだが、女性はこれをおやつがわりに食べているのだが、彼女らが細いのは実はこういった辛い物を食べる機会が多いからで、ダイエットを目的としている人にはトウガラシ料理を進めてみたらどうかだろうか。

この私の友人は学生時代のずっと後輩にあたるのであるが、実は彼は最近私の影響でボクシングをはじめたらしい。
実は韓国でもボクシングと言うスポーツは、だいぶ昔新聞をにぎあわせた殺人犯がボクシングのナショナルチャンピオンだったこともあって、日本と同様ほかのスポーツに比べてイメージがよくなく、不良のスポーツとして見られている。
しかしそれでも最近イシヨンという女優がはじめたことがきっかけで、サラリーマン層にストレス解消のスポーツとして趣味で始める人たちがふえたらしいが、しかし話を聞いてみると徴兵がある国、やることは少々あらいようである。
そこのジムは近くのサラリーマンたちがおもに昼休みの時間に集まってくるそうだが、なんとそこで昼休みにもかかわらず、サラリーマンたち同士でスパーリングをするそうだ。
この前はいっしょに行っていた同僚がサラリーマンの先輩にスパーリングでろっ骨をおられたそうだが、普通日本だったら仕事があるのに昼間日来てスパーリングなどというあぶないことをするだろうか?しかもこの男はろっ骨をおられたのにやめるどころか治ったらまた続けるそうだが、たぶん日本だったらこれだけ支障が出たら多少自重するだろう。
実際彼もスパーリングをしてあばらを痛めたり、この前はあやうくおれかけたと言っていたが、ジム側としてもそういうことを当たり前のこととして容認しているのもすごいのだが、第一30歳をこえた大の大人が仕事の昼休みにスパーリングなどすること自体日本では考えられないことだが、そこではそれが楽しいみたいで、おそろしいことにスパーリングの順番待ちをサラリーマンがしているそうである。
ちなみに私の友人はTOEICが高得点でないと入社できない会社で、彼はそこで確か営業をしているが、むこうではこういった普通のサラリーマンが、こういう冒険するということはひとつの魅力であり、危険かも知れないが積極的に人生を楽しんでいる様子がうかがえる。

しかしこの風景はどことなくうちのクラブに似ている。
うちのクラブもここまでえげつなくはないが、サラリーマンをはじめ社会人というかいいおっさんが、ここにきて一応マスボクシングと言う名目でガンガンと打ち合ってストレスを発散させている。
よくあるのがあてないと言ってガンガンあてるマス。
「今日は仕事で疲れているし、明日早いので軽くあてないでいきましょう」なんて言いながら、実際やったらがんがんあててくる。
あてないのならヘッドギアなんてする必要がないのだが、しかしほとんどが最初から完全装備でこのあてないマスをやる。
普通マスボクシングと言うのはあてないのが条件だが、いつからマスボクシングがあてるようになったのかはわからないが、ここでのマスボクシングはヘッドギアをしなかったら少々いたいめにあう。

しかし私はこの様子を見ているのだが、みんなめちゃめちゃ楽しそうである。
たぶんレヴェル的にもそう高くないし、みんな社会人だから、ケンカのような大振りでダメージを与えてやろうというようなパンチをうつ人はいないし、それ以上やってはいけないということはわかっているからケガをしない。一応暗黙のルールに従ってマスボクシングが成立していると思う。
まあいえばこれはスポーツチャンバラの少しいたい版で、そういう日ごろあじわうことのできない実戦のスリルを味わうことで日ごろのストレスを発散させていることはいいとこだと思っている。

うちのクラブはどことなく韓国っぽいと最近思うようになった。
私が運営しているというのもあるが、むこうに多い血液型が日本人の比率に比べてかなり多いし、マスボクシングもいつの間にかあてるようになっているのだが、彼ら彼女らをこのクラブ内では型にはめて練習させることはほぼ不可能に近い。それぐらいみなさん自由をもとめてやってくる。
まあかなりルールと言うものを守ってマスボクシングをしているのだが、しかし30代や40代の普通のおっさんがガンガンとうちあっているのは、日本ではあまり見られないケースだ。
たぶんこういう自由な雰囲気と言うかカラーのクラブは他にはないと思っているが、かっこよく言えばしばられることがきらいで、群れることができない一匹おおかみやねこ、ねずみの集まりである。
私が思うにここのいいところはお互いが個人を尊重するところで、それは大人でないとできないことだ。
ここにはボクシングを知らないし、興味ない人もそう少なくはない。
しかしそれでも気兼ねなく自由に堂々と練習しているが、ここでは試合前になってもピリピリしたような雰囲気もなく、それは個人のこととしてうけとめているので、まわりが気をつかいうというような雰囲気もなく、自分のペースでできるからいいと言っていた人がいるが、ここはそういう尊重をお互いができるいわゆる社会人のコミュニティーである。

ちなみに転勤などで違うジムで再スタートする人には、行く前に「むこうでもしやってもマスボクシングはあてたらあかんぞ」と言う。
なぜならここの人はここから興味本位でボクシングをはじめた人がほとんどなので、もしここのやり方がほかでも通じると思ってマスボクシングでいきなりあてるとかなりひんしゅくを買ってしまうからである。






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言い訳にしか聞こえない 

2012-03-23 | Weblog
オリーヴボクシングクラブはさほど競技自体に力を入れているわけではないが、しかしそれでもよく未成年(高校生を含む)の親からの問い合わせがある。
最初は「子供がボクシングをはじめたいんですが」というような感じで聞いてくるのだが、話していくうちに不安なのか「ボクシングをやって脳に影響はないのか」とか「こわい人たちがいるのではないか」というようなことを率直に聞いてくる。
正直そういうことを言ってくれるのは、少なくともここが健全であるということを認めてくれているので言ってくれていると感謝しているが、私は必ず未成年にはボクシングが脳に与えるであろうというわるい可能性と、ここでは中学生以下はスパーリングなど、練習や競技するうえでのコンタクトは認めていないということを説明するのだが、当然それはそういうあぶないスポーツをしているから、それに関しての可能性を説明するアカンタビリティーがあるからである。
アカンタビリティーと言う言葉は少し前からにわかに出てきた言葉であるが、これは英語の「account(説明する)」「 ability(能力)」の合成語で日本語では「説明責任」と言うように訳されていたと思う。
このアカンタビリティーと言う言葉は、一般的に企業と顧客そして行政と一般市民の関係に対しての社会的責任であると見られている。
このアカンタビリティーとと言う言葉はレスポンスビリティーとは違う。
レスポンスビリティーが質問されたことに関して応答するのに対して、アカンタビリティーは相手の利益を考えて積極的に答え、説明するということだと思うが、今やスポーツクラブもこのアカンタビリティーが求められる時代だと思っている。

ボクシングはあぶないんじゃないのかと聞かれて、たいした根拠もないのに「安全性を考えてやっている」とか「軽くあてるから大丈夫だ」なんていうような答えは稚拙である。
第一今はそのヘッドギアの安全性についても科学的な根拠がないとされている時代だ、ある英語の論文にも「there is no evidence that head guards reduce the incident concussions.」と書かれてあったが、外国なんかでは、むしろ危険性がうったえられている時代である。
しかしこういうことを聞かれた時、実際は脳に影響があるはずなのに、そのことには一切ふれず、とにかく自分たちは軽くあてているから大丈夫だとか、ヘッドギアやグラヴもきちんとつけて安全性を考えてやっているなどと都合のいいことだけを説明するならば、こういう説明は、正直中学生の不良のいいわけのように聞こえて仕方がないが、これでは不公平で親の実際に知りたいことに対して十分答えていないと思うが、かなりうさんくささを感じる。

実際オリーヴではパンチが脳に与える可能性について説明し、中学生以下は絶対にあてさせないという立場をとっていることを伝えているが、こういうスポーツをさせるということは自己責任が問題となってくるので、自己責任と言うものが法律的にも自我的にも成立しがたい時期は、説明すべきことはきちんと保護者に説明し、あいまいなことはさける必要があるのではないだろうか。

しかしなにもここでボクシングは危険だからなくせと言っているわけではない。
健康を第一条件に行えばこれほど適したスポーツはないし、現にオリーヴのおっさん連中はあてるマスで結構ストレスを発散しているが、日常では得ることができない刺激を得ることもその醍醐味であると言ってもいいだろう。
ただそうは言ってもこういう特殊なスポーツを競技させるに当たっては、境界線と言うのが大事であり、医学や心理学、そして法律的なものを基準にして、成年と未成年の間に境界線をおく必要があると言うことを主張している。





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Lets talk about kids boxing

2012-03-20 | Weblog
アメリカの小児科学会が2011年に子供のボクシングの危険性について発表している。
AAP boxing should be KOd for kids.
この論文では脳に影響を受けやすい子供たちに非常にボクシングは危険だということが書かれているが、非常に衝撃的な内容で、ボクシングの比較的競技人口が多い国であるから問題になる事柄でもあるのだが、それは今日われわれが抱えている柔道の危険性の問題とよく似ているかもしれない。

レポートによると北米では約18000人の子供がボクシングを競技している。
しかしそのうちの4.8%がボクシングによる外傷(顔の骨折などによる)で入院、その内の6.5-51.6%に脳挫傷が含まれて、1918年から現在に至るまで650人がその脳挫傷による被害で死亡しているらしい(between 1918 and 1977,more than 650 catastrophic deaths caused by brain injury have been reported among boxers.)。
脳の傷害というものは非常におそろしいもので、特に子供の頭蓋骨は完全な状態ではないので、衝撃を受けると何らかのかたちでわるい影響を受けやすい。
たとえば高校生以上の大人が脳震盪をおこした場合、回復するのに3日かかるのにたいして子供の場合は10日かかり、その反復的な傷害は慢性的な脳外傷を発生させ、意識障害や健忘症がのこると永続的な認知障害を引き起こすと言われている。
とどのつまり頭がやわらかいうちに脳に衝撃を与えるような行為を行うと、将来的に何らかのかたちで脳に悪い影響が見られる確率が高いということである。

おそらく日本はさほど競技人口が少ないので問題にはならないが、しかしもし競技人口が北米なみであると今の柔道どころではない、かなり問題化され非難を浴びていると思うのだが、常識で考えてそういう危険な行為を何の医学的な知識もないような人間が、ただいきおいで子供に競技させるということは、非常に軽率で危険なことである。
時々までとは言わないが以前何軒かこのことに関して、保護者と思われる方からの電話があったのだが、ここのスタッフには専門家がいるからだろうか、子供がボクシングを楽しんでいるから何も言えないが、ボクシングなどをさせて脳に問題があるのかというようなことである。
私は責任者はなんと言っているのかと聞くと、責任者はそんなむずかしいことはわからないから聞いているのだというようなことを言っていた人がいるが、笑い話だがそういうことをさせておいて、肝心なことは信用がないのかと思ったが、そういうことをさせるのは所詮その程度、以前からブログで指導者で、国語的なことやその他のことなども含めて、常識のないバカは、今の時代は信用できないというようなことを書いたが、まさにこういった奴は典型的な例で、おそらくこういう人間は英語はともかく、本もろくに読まないので学問的な基準に立って物事を考えることができない、そういうことをまともな親には見透かされているのだろうと思うが、「ignorance」というのは罪を通り越して害になるが、こういう奴に英語を読めとまでいわないが、せめてまともに本でも読んでそのことについては、多少なりとも知っておいてほしいものである。

さらに私が恐れていることは、こういうことが組織化されることで、たとえば高校などのクラブと結託してボクシング予備軍と言うものを作り上げてしまうことである。
日本の場合特に危険なのは、欧米が子供のうちはいろいろな競技に参加するのに対して、日本はそのスポーツを競技すればそれにどっぷりつかってしまうケースが多く、もし小学3年生から競技させて高校まで競技するとしたら、10年近くはどっぷりと競技することとなり、その10年間の間脳に衝撃を与え続けることがいかに危険か、その競技させた子供を半ばクラブに入れるということを条件に、半ば裏取引のようなかたちで入学させるようなことはかなり問題があると思うが、だいたいこういう輩は自分たちはスポーツを真剣にやっていますということを隠れ蓑にしているが、しかし柔道の事件なんかにもわかるように、必ずしも学校の体育会に属しているからと言って健全ではない、私もいくつかえげつない話を聞いているが、性的なみだれやモラハラやいじめはいまだに健在で、こういう体育会にどっぷりつかった奴が未だ社会で問題をおこすことは三面記事をみてもわかることだが、スポーツをする人間はさわやかだとか健全だという考え方はもう古い。
今やスポーツ指導をする上で安全性やけがの問題について指導者が十分に学ばなくてはいけない時代である。
私の手元には2005年だと思うが、アメリカのボクシング協会の手引書と言うか専門書があるがその専門書にはケガや病気のことが半分以上にわたって書かれているが、アマチュアの場合は指導者は競技者の将来を考えて、彼彼女らの健康と安全性について十分に考える必要があると思う。
ボクシングと言うスポーツは危険だ、単なるあこがれやロマンでは語ることができない危険性と言うものが存在しているが、それが子供であればなおさらのことである。

こう言ったことをうけて、この問題はある期間から依頼があってレポートを書くことになったが、今参考文献や資料などを集めている段階、なるべく早く仕上げたいと思っているが、完成すればその機関に私の書いたレポートが配られることになる。


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The chrysanthemum and the sword.

2012-03-18 | Weblog
この前会員の人に日本語の「結構です」という言葉の使い方が難しいということを話した。
結構ですというのは、いい意味にもわるい意味にもとれるので、その使い方がむずかしい、だから敬語って難しいねと言うことを言ったら「思ったことをはっきり言うのに、自分に今更敬語なんて必要ないでしょ」と言われたのだが、この話をまわりの人に話したらみんな結構笑っていた。
私は子供のころから、よくまわりの人間に言われたことは「余計なことは絶対に言うな」である。
たいした根性もないのに思ったことは、はっきりと口にする性格で、
に韓国での事件は友人の趙くんがいなかったら半殺しの目にあっていたのだが、それでも最近はかなりおとなしくなったほうだ。
どうやらこれはうちのおやじの家系であると思うのだが、実はうちのじいさんというのが、話によると、マルティリンガルのかなりのインテリであったが、政府に対して危険な思想を持っていたので、目をつけられて......という人には言ってはいけない話であるそうだが、たぶん私の自己主張が強いの遺伝的なものだろうと思う。

で今日も思ったことを書かせてもらうが、それは日本人のポテンシャルについて、正直私は日本人ほどポテンシャルの高い民族はないと思う。
戦後その日本人のポテンシャルの高さを恐れたのが米国だと思うが、そのポテンシャルの目を摘むためにいろいろと政治的にも組織的にも圧力をかけたといういくつかの逸話があることも事実であるが、これだけではなく技術的な力など自分たちのポテンシャルの高さは世界的に認められていると言っても過言ではない。
しかし失敗を恐れるがために、大舞台で結果が出せないのも我々が言われてきたことである。
今ではだいぶましになってきたのだろうが、しかしスポーツ全体をとらえたらまだまだそういった傾向にあると思っている。
これはよくミーティングで言われることだが、たぶんスポーツにどっぷりつかった人ならば、こういう話はされたことがあると思うが、それは「試合では練習の半分以上も出せない、だからもっと一生懸命練習しろ」と言う言葉だ。
私はこの言葉を聞いて「なぜ半分もだせないんだ。根拠のないことを言うな、これではもう最初からそれだけの力しかでないという暗示にかかるし、今までやってきたことに自信が持てない」と思ったのだが、しかしこれを聞いてたいていの人間は、妙に納得し明日からもっと練習しなくてだめだとなるから不思議だ。

まあこれはあげ足とりのように聞こえたらゆるしてほしいが、ベネディクトが「菊と刀」に、第二次世界大戦で米国人はどのような方法で戦うかということに対し、日本人はどのような態度で戦うかということに重きを置いて戦ったということが述べられていたが、まさに試合では今までやってきたことの半分も出ないというのは、何事も一生懸命やらなくてはいけない、必死で努力しなければならないというモティヴェーションを高めるための手段であろうが、しかしその力みがもうすでにこの言葉の中に出ている。

結果的には戦争ではまけたのだから、こういう行動心理から脱却しなくてはならない。いまだに全体の雰囲気とかモティベーションをあげるなどと言っているのは、このベネディクトが言った精神論から脱却できていないのだと思うが、大事なのは半分の力しか出せないような環境を消極的な言葉でつくりだすのではなく、リラックスして練習できる場を提供することである。
そのリラックスできるような場をつくるためには、集団で人間をとらえるよりも、むしろひとりびとりの個人の差を自由に出せる場所にすることだ。
日本人は集団になるとまとめたがるが、スポーツにおいて、体力や目的、そして当たり前だが考え方に個人差があるので、まとめるというよりも個人を尊重することが望ましい。
よく集中力がかけただけなのにやる気があるのかとおこるバカがいるが、そういうバカに質問してやったらいい、そのやる気の基準はなんなんだ、お前の判断なのか。しんどい事をすれば集中力に個人差はある。
集中力がかけただけなら少し休ませるのが適切なのだが、しかしベネディクトの言う後者のような雰囲気を重んじる集団は個を認めることができないので、結局はそういう言葉が出てくるのだと思う。

不思議なのは日本人はクラブなどで、真剣にやればやるほど集団的になり、一見まとまったように見えることだ。スポーツは個人で楽しむものなのに、やたら集団のモティヴェーションと言うか、まとまりというものを意識する。
誰もたのんでいないのに、周りががんばれファイトーと応援したり、私から見れば何か妙な一体感が生まれてくるのだが、しかし米国などの個人主義などの国ではこういう連帯感はまず生まれない、なぜなら個そのものがしっかりしていて一つの価値観では収まらないからだ。

日本人は自分から見てリラックスするのが非常にへたな民族である。
シャドウボクシングが理想のボクシングのスタイルだとしたら、スパーリングや試合でその理想的なスタイルがどれだけ型としてあらわれているだろうか?しかしたいていは、ガチで真剣で打ち合うので、スパーリングになると力んでしまい、結果以上のことが出せないのではないだろうか?
それに対して自分の経験では、米国では思い切り打ち合うことはなかった。
そもそもこんなことぐらいでケガをしてしまっては意味がないので、それをさけるために力を抜いて打ち合うのだが、実際そういう練習のほうがシャドウで練習してきた型が生きるので、練習の効率としてはよかったと思う。
米国ではケガなんてほとんどなかったのだが、しかし日本では話を聞いてみると高校生でも練習でケガを結構しているようだが、こういう血気盛んな時期は口で言っていても、スポーツとなぐりあいの区別がつかないので、むしろ力をぬいてたたくことを徹底して教えるほうがいいのではないかと思っているが、そのほかにも反省会や声だし、気合を入れると言ってファイトーなどと叫ぶ奴がいるが、いくらモティヴェーションがあがっているのかは知らないが、こういう環境ではリラックスして練習をすることができない。
スポーツの場合そうだと思うが、同じような雰囲気で集まって、同じような練習と結果を求めるのは、競争と対立などの緊張を生み出す結果となる。
しかしそれぞれの目的ややり方などを認めて集まると、目的がそこだけではないので、くだらない対立や緊張をさけて、ある程度リラックスできる状態で練習できるが、パフォーマンスを上げるためにも、適度な緊張とともにある程度脳がリラックスした状態でなければならないが、緊張は自然にできるが、しかしリラックスは環境を考えないとできないのである。

集中した時の目を見たことがあるだろうか。
まず集中したときの目ってどういう目か理解できないといけないのだが、集中した時の目と言うのはヤンキーがガンをとばすときのような怖い顔ではない、一昔前のボクシング会場にはそういう奴がたくさんいたが、しかし集中したときの目と言うのはどちらかというと遠くを見ているような目で、例えると鉄棒をつかもうとするような、なんとなく遠くのものを見ながらそこに焦点が定まっているような目である。
昔友人とK1のトーナメントを見ていた時に、そういう目をしていた選手がいた。
私は格闘技はあまり詳しくないので名前は忘れたが、有名な選手で、私がその選手を見たときに彼はかなり集中してるから勝つんじゃないのかと言ったら、みごと優勝して、友人は驚いていたのだが、彼も遠くを見るような一見ぼーっとしていたような目でリングに上がってきたと思うが、おそらくそういう状態に持って行けたのは彼がかなりリラックスできていたからだと思う。
リラックスと言うのはスポーツのおいて非常に大切なことだ、そしてそのリラックスして練習できる環境づくりが大事なことで、個を重視している欧米などでは、言われなくてもそれが当たり前のことである。
よくアメリカでスポーツをやったことのある選手が日本とは全然違う、やりやすい雰囲気の中で練習ができたというのはまさにそういうことで、私は根本的にこういうたぐいの精神論を改革していく必要があると思っている。
もうスポーツによっては体格差がそう問題にならなくなった今、パフォーマンスを上げるとしたら、今までの精神論を脱却して、リラックスした状態をつくることだと思うのだが、そのリラックスした状態が今までの半分から60%、そして70%、100%、120%になっていくのだと思う。
日本人はポテンシャルが高い、そのポテンシャルを爆発させるには、古い精神論から開放されることが必要なことで、英語やほかの言語などで書物を読んで、その感覚にふれることは、その古い精神論を解くには一番必要なことだと思っている。

最後にホイジンガの遊びの哲学的に言うと、仕事でもなんでも遊びの感覚が入ると効率が上がる、遊びと言うのはふざけるという意味ではなく、リラックスした楽しくそれができる環境をつくるということで、子供の遊びと言うのもそうであり、楽しいから時間を忘れてそれに没頭できるのである。
アインシュタインだったか忘れたが、彼が天才についてこう言っている。
「天才とはチョウをおっていていつの間にか頂上にのぼってしまった少年」
天才と言うのは保守的で封建的なところでは育たない。
天才と言うのは遊びでそれをやっているのだから、その遊ばせる環境と言うものをつくらなければ、生まれてこないし育たない。

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君はどっちの言葉をつかうの?

2012-03-15 | Weblog
昔やたらボクシングの大会にこだわる人間がいた。
時々彼と話をするのだが、話してわかったことはどうやら彼には抱えているコンプレックスがあり、そのコンプレックスを打ち消したいなんとかしたいという気持ちを、その大会と言うかボクシングにぶつけていることがわかった。
私はその時「ボクシングをがんばるのもいいけど、もし君が実績をあげれたとしても今持っているコンプレックスがどうにかなるとは思えない、ボクサーで自分はチャンピオンだとかランカーだということを自慢している奴がいるけど、そういう奴に限って何も持っていない。そういうくだらない肩書もどきのようなもので、自分は特別だと思わせたがるが、しかし実際はコンプレックスのかたまりで、それははたから見たらわかるし、かえってみじめである。そういう気持ちを引きずって競技したならば、そのコンプレックスはなくなるどころか、大きくなるだけである」と言ったのだが、人間は誰にでもコンプレックスはある。
私自身もないように見えるが、しかし昔は、自分の存在にたいしてコンプレックスを持っていたことは確かである。以前マニャゲという歌で、一人の女性があれこれと悩む姿に、少し感傷的になったと書いたが、私自身も自分の中にある国籍の壁で、たえずまわりに、こんな自分のことを本当に受け入れてくれるだろうかという気持ちがあって、そのこととこの歌詞の内容がオーバーラップしたのだと思うが、私が客観的に物事を考え、時々この人よく観察してるなあと思えるえげつない意見を述べるのも、こういう体験があるからだと思っている。

コンプレックスは乗り越えることはできない。
逃げるなむかっていけと、ボクシングやほかのスポーツに意地を見せる奴がいるが、そういう奴に限ってコンプレックスが強く、何ももてないから逆にボクシングやほかのことににげているのではないか。
コンプレックスは乗り越えることはできない、そのコンプレックスをのりこえるためにボクシングに打ち込むことはかえってコンプレックスを大きくしているだけである。
しかしコンプレックスは乗り越えることはできなくても、そのコンプレックスを小さくすることはできる。
それはたくさんの経験を積んで、そこから感じることができる生きている喜びや、実感みたいなものと深くかかわっていると思うのだが、学問を学ぶこともそうだし、遊ぶこと、恋愛することもそうだ、人間はそういういろいろな経験をして視野を広げられ、いろいろなものの考え方ができる、そうしてさらにそこから得るものや感じるものが、人間を成長させるのではないだろうか。
私自身も外国で「君は家ではどっちの言葉をつかうのか?」と言う日本では考えられない質問に「ああこういう世界もあるのだ」と驚いたのだが、そういう日本とは違う常識にふれ、驚きを体験したことが、後に「世界は自分が考えている世界だけではないんだ」ということを実感し、そういういろいろな感動と言うか体験の繰り返しが、自分のコンプレックスを少しずつ小さくし、自分が持っている他のアドヴァンテージに目を向けさせることができたのだと思う。

私はよくスポーツしかしない連中にほかにもやることがあるやろと言うことを言うが、私の実感としては、人間はいろいろなことを体験し、悩んだり、感動したりすることが大事なことだ。
なぜならあたりまえだが、そのことによって物事の視野がひろげられるからだ。
しかしボクシングやほかのことがすべてというような感じになってくると、そういう余裕が持てない。
私の意見ではスポーツしかできない奴は、自慢話しかしない、自分たちの狭い範囲での世界しか知らないし、学問的ではないから、話していても面白くない。
目標は大きくもてなどと煽り、そういう人間のほうが素晴らしいというようなことをにおわすような指導の仕方には問題があると思うが、チャンピオンになるとか、大きな目標を達成させることが、尊い生き方であるとは思わない。現にそういう世界で生きてきて、まわりがみえない人間の挫折感はひどいものだが、競争と見栄のはりあいの世界では満足感などもてるはずなどなく、そういうことに固執すると、ただくだらないプライドだけをひきづってしまい、最終的にはそれが挫折につながると思っているが、そういうくだらない世界にひきずりこむことは馬鹿げている。
前にも書いたが、私の好きな言葉に「サルマシナンダ」と言う言葉がある。
これは「生きている味がする」と言う、久しく友人が訪ねてきたり、テストで100点をとった時など、ちょっとした喜びを感じた時に使う言葉であるが、人間の幸福感や満足感と言うものは、こういうちょっとしたことでわきあがってくるもので、チャンピオンになるとか実績を上げることに目を向けることがすべてではない、我々人間は誰でも平等にこういう幸せを感じることができる、そしてそう言うことは、日常の生活を通して与えられることであり、その小さな喜びを積み重ねて生きているから、幸せだということができるのではないだろうか。











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なければそうであることは難しい。

2012-03-14 | Weblog
よく外国人と話をして、日本の文化を聞かれた時に英語には訳せない言葉がある。
よく言われるのが「甘える」と言う言葉で、これは何とか「depend on」で伝えることはできるのだが、しかしこの前「義理人情」ってなんだと言われて困ったのだが、そもそも日本語には人間関係の絆を表す言葉が多く、その人間関係をあらわす言葉も日本独特の文化的なもので、それをあえて伝えることは、まず彼ら彼女らが日本文化にふれなくては、理解できない、非常に難しいと思っている。
韓国語は日本語と文法が同じで、同じ発音で同じ意味の言葉があることはよく知られているのだが、実は韓国語にも日本語にあって韓国語にはない言葉がある。
それはなんという言葉だろうか??ここで答えは次回なんていうと面白くないので教えるが、それは「困る」と言う言葉である。
「困る」というのは、共通語である英語にはあるし、おそらく他の言語にもあると思う。ないのが不思議なぐらいだ。
しかし韓国語にはない、あえていうならば「コルランハダ(困難だ)」で、「困難だ」というのと「困る」と言うのは違うのだが、この言葉がないというだけでもむこうの人間の行動や、国民性が多少わかるのではないだろうか。
確かに向こうの人間の行為を見ていたら、せっかちで迷うことなく何をするにも即決で決める。
トラブルがあっても考えるよりも行動するのだが、だいぶ昔こういう事件があった。
それはある学生が、動物園でガールフレンドが、虎の檻に落とした帽子か何かを拾おうとしてかまれておおけがをしたという事件であるが、日本人の感覚だったらそういうあぶないことはしないと思うのだが、他にもがけの近くの花をとろうとして落ちて大けがをしたとか、普通少し考えたらわかるやろというようない無謀とも思えるような事件がよくある。
私はしぐさや行動はむこうの人間に近いらしい、はじめて外国人と話したら、香港人か韓国人かと聞かれることが多いのだが、しかしものの考え方が日本人なので、迷わず行動をおこす彼ら彼女らに時々ついていけなくなる時があるが、おそらくそういう短気でせっかちと言われる国民性は、ある意味困らないから迷うことなく行動ができるというような風に解釈できるのだが、我々が理解できない突拍子もない北朝鮮の行動も私にはわかる。彼らは困らないからだ。

私はいくつか言葉を学んできたが、言葉と言うのはその国の国民性や文化と言うものを伝えている。
英語を勉強してきた人間が考え方や行動が変わるのは、直接文化にふれたからではなくて、その言葉をつかっているうちにその言葉の中で行動をしているからである。
昔アメリカに長くいた人がいて、その人に「最近肩が凝るんですよ。ずっとデスクワークをしていたら肩を凝りませんか」と言った時に彼はこう言った「まわりから凝っていると言われるんですが、私にはわからなくて」。
実は英語にも「肩が凝る」を正確に伝える言葉がない。よくstiffと言う言葉が使われるが「i have a stiff shoulder」は日本人が肩が凝ったというぐらい頻繁に使われることがなく、ほとんど無縁の言葉である。
最近はパソコンなどの作業で凝りをおぼえてきた欧米人もいるらしいが、しかし一般的に英語圏の人間は肩を凝らないと言われているが、それは肩が凝らないのではなく、肩が凝るという言葉がないからである。

最後に私はよくブログで韓国語やむこうの人間のことを挙げているが、それはむこうの文化がいいとか素晴らしいということを言っているのではない。
私自身はこの国の国籍をとったことは、ここが自分の国だという気持ちは強いし、子供にも将来は日本のために何かできる人間になれと言っているが、それは日本人であることに誇りを持っている。
だからここで書いていることを自分たちの文化と比較してほしいという気持ちがある。
比較して自分たちの文化はここが間違っている、そしてここが素晴らしいということを感じてほしいと思っている。















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ヨルシミ コンブ ヘヨ

2012-03-11 | Weblog
ブログでよく取り上げるがフットボール(サッカー)は日本のスポーツの中でも最も近代的である。
最近まで知らなかったが、サッカーの監督やコーチにはサッカー未経験者が結構いると聞いたが、サッカーが理論を重んじるスポーツであることを意味しているが、それは近代スポーツにおいては非常に重要なことだと思っている。
中にはサッカーと全然関係じゃねえと思うところから、その世界に入った人もいるそうだが、私が特に興味を持ったのはモウリーニョと言う監督である。
英語、フランス語、イタリア語など6か国語を話せるマルティリンガルだそうだが、彼の場合はサッカーを競技したが、しかしプロでの経験はなく、通訳からコーチ、そして現在2010年からレアルマドリードの監督に就任したわけであるが、彼のインタヴューを聞いていて非常におもしろいなあと思ったのは、指導者になるために英国に語学の勉強をしに行ったことである。
普通指導者になるのだったら戦術とか、技術面などを学ぶのが当たり前のことのように思えるのだが、しかし彼は指導者になるために語学を勉強しに行ったということをインタヴューで答えているのだ。
おそらくその言語は英語であると思うが、私の推測では彼が語学を学びに行ったのは、幅広く情報を集めること、そしてコミニケーション能力を広げるためだと思っているが、そのことが彼にとって人を指導する上では重要なことだったと思う。
よくブログでも書いているが、情報を集めるには英語と言う言語は決してかかすことができないし、これが読めるか読めないかで1000倍以上の差があるのだが、アマチュアボクシングが封建的で、世界的にたいした成績を残せないのは、英語などの語学に疎いからだと思う。
確かにボクシングやダイエットなどの情報などインターネットで英語で検索するだけでも、かなりの情報量を得ることができる。
時々ダイエットだけの情報でも聞かれて、教えてあげると感心されることがあるが、英語や第二外国語が読めると質問されたことや方法に幅が広がることは確かで、これをサッカーやほかのスポーツに置き換えても同じことが言えるのではないだろうか。

さらに言葉によるコミニケーションと言うのは非常に重要なことである。
最近スポーツ関係の本を立ち読みして思うことは、最近のスポーツ関係の本はかなり理屈がしっかりしていて理論的である。
そのことはサッカーだけではなく、それは他のスポーツにおいてもそうだと思うのだが、近代スポーツは理論化されているので、まず言葉を理解する能力を身につけること、特に教える人は日本語であっても言葉と言うものを理解し、言葉の幅を広げるだけでも指導に大きな差が出るのではないかと思うが、英語に疎い、さらに日本語すらもきちんと話せない指導者は、この学力重視の時代にはみじめだと思うのだが、そういう奴はこの世界には少なくはない。
もうサッカーなんか見ていてもわかるが、バカではスポーツを競技できない時代である。
多くの選手がヨーロッパなどの海外に向けて語学を勉強しているらしいし、大陸の合理主義からくるサッカーの戦術なんかは非常に論理的であるので、学問を理解する基礎的な力が要求されるわけで、これからのスポーツはバカではできないし、指導者も情報を集める力と、そして論理的に物事を考える能力を養うことができなければ通用しない。

日本の保守的なスポーツは、未だに固まって師匠みたいな奴から教えをこうという型で技術を習得するが、漫才師でもあるまいし、そういう関係をつくってハイハイと返事をするだけでは進歩がない。
私はこのスポーツで最も弊害だと思っているのが、やくざのような封建的なシステムである。
あのがんじがらめのルールは何だ、やくざでもあるまいし、判定の時、不利に見えても名前で勝ったとか、審判の印象が悪くなるというような問題発言が横行するのも信じられないが、関係者の中には、たいしたこともないのに人前ででかい声で注意する奴がいるが、こういう環境でグループに属していない、子飼い以外の競技者が自由にできるはずはないと思うが、これでは俺のけつもちは何組だと言っているのと変わりない。
時々人権を無視した行為に、むかついて何か言ってやろうと思うときがあるが、しかし言ってしまったら最後たぶんめちゃめちゃ言ってしまうと思うので、たぶん言わさないほうがいいと思うが、外国でボクシングを競技したことがある人間から見たら考えられないことが多く、こういうことが当たり前だと思っていることにかなり驚いている。

体育会のものの考え方人間関係は「かわいがる」「かわいがられる」の人間関係で、そこからはずれたら相手にされないよそ者である。
中にはこういう稚拙な人間関係が社会で通用すると考えているバカもいるが、こいつらの特長的な考え方はさっき言った「かわいがる」「かわいがれる」そして人の話を聞かない、質問されるのがこわいので、筋を通すことが正しいことだと思い、一方的に少ないボキャブラリーでまくしたてるのだが、こういう感覚とレヴェルではまともなミーティングなどできるはずはない。 
海外に目をむけて、もう少しスポーツする意義や人権などについてしっかり考えたら、これらのことは間違っている、おかしいと思うのだが、しかし語学に疎かったり論理的でないと、こういうことがおかしいと感じないのだろうが、雰囲気的に保守的なクラブは、中高生のクラブの延長のようなのりで、指導者が語学に疎く、論理的ではないと思っているが、意外とそういう奴が結構いるのではないか。
仲間内で集まって「あの人の言っていることは筋が通っている」レヴェルでは意味がない、情報収集が幅広くでき、きちんとした学問的な見解を持ち、それを伝え理解することができる力が必要だ。
今や何とかチャンピオンとかなんとか何位とか言うしょうむない肩書よりも、英語が話せるとかドイツ語が話せるとか言うランゲージアビリティーを持った人間のほうが価値がある。
そういう人間がいると情報収集がしっかりできるし、欧米社会は論理を重視するので、くだらない派閥をつくって封建的な社会をつくろうなんて思わない。少なくとも親分を中心に固まって、やくざのような組織をつくることに価値を見出すようなバカなことはしない。その点に於いて、平等な考え方を持つことができると思う。
特にうちのように目的が健康維持やダイエットの社会人が多いところは、ゲゼルシャフト型のコミュニティーなので、論理的であるということは非常に安心感を持たれる。
論理的に語るというのは、ダイエットの人に対して自分の知っているボクシングの技術を、とぼしいボキャブラリーでべらべらと得意がって話すのではなく、語学力や知力で集めた情報に基づいてそのニーズに答えるということで、たとえ何とかチャンピオンであっても何とか何位でも、そういう力がないと我々のような社会人の多い集団からみたら「だめだこりゃ」と見限られてしまうだろうが、まともに話せない奴がそんなくだらない肩書をかさにして偉そうにふるまえばなおさらのことである。
はっきり言って私の言っていることは理想ではない、現実である。
さらに言うならば語学ができると情報収集がひろくなり、多くのアドヴァンテージを持つことができるが、今は経験がなくても論理でカバーできる時代で、スポーツの在り方も変わってきていることは確かなことである。

正直同じような服を着て威圧感たっぷりに、固まっている奴らを見ると不快だ。
何が偉いのかわからないが、自分たちは特別だと勘違いしている。
こういう奴らの多くは国内では偉そうにできるが、しかし外国では今までの威勢はどこにいったのだというぐらいおとなしい。
外国は自分たちよりも大きい人間が多く、得意のおどしや恫喝、そしていざとなったらあばれるというやり方も通用しないどころか、言葉もわからないので不安なのだろうが、その国内でやっている態度を外国でも出せたら、少しはアドヴァンテージになるのだが、やくざのようなやり方が通用するのは日本だけ、もう少し言葉をおぼえて広い世界を見る必要がある。

他の国と比べたらわかるが、日本人は練習させすぎ、体育会に入れば、ほかのことをする自由がない。
これがスポーツバカと言われる原因だと思うが、こういう奴がとてつもなく多い。
これからのスポーツは言葉を理解したり、論理的にものごとを理解することも必要であるのだから、新しい時代にむけてもう少し、学力をあげるために勉強をさせればいい。おそらくこれからはたとえスポーツであっても学力をつけなくては先細りする一方で、そういうことに関心を持たないで、競技をさせる指導者は子供に間違いなく悪影響とも言える。















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大人はもっとおこるべし

2012-03-09 | Weblog
昔おこられた時よく大人は「お前のためを思っておこっているんだ」と言う。
しかし何か腑に落ちない、時にはげんこつを力いっぱい自分の頭にたたき落とす大人に対して、ほんまかよと思ったものである。
しかし私は子供をおこる時には、めったにそういうおこり方はしない。
確かによく考えれば子供のためになるのだが、しかしおこるときたいていは子供の理不尽ともいえる行為に不快感をおぼえておこってしまうので、おこるときは正直に自分の気持ちが不快であるから、こういうことをしたら人は不快になるのだというようなことを伝えている。
今公共のマナーが悪くなっているのは、大人が子供をおこらないからだという意見があるが、大いにそのことはある。
おそらくそういう公共のマナーを守れないのは、不快感をつたえる大人がいないからだ。
電車などの公共の場で騒いでいる子供を見かけることがあるが、時には大人だからと言う建前を捨てて、自分の不快感を率直に子供にぶつけることも必要ではないかと思っている。
今子供に慎重になりすぎて、安易に子供をおこれない、子供に気を使いすぎていて、世に中の常識など子供に伝えるべきことが十分に伝わっていない、子供の受容が足りないように思えて仕方がないのだが、そういうことは公共と言う場を通して学ぶことが多いのだが、我々はそのことを往々にして大人からおこられることで学ぶのではないだろうか。
子供の受容とは、当たり前だが子供が大人を受け入れるということで、教育心理学的には大人や教師の受容ということはよく言われるのだが、子供に関してはせいぜい幼児期からの発達段階で求められる程度であまり用いられることはないと思うのだが、実は私はこの受容することができないと、成長して大人にはなれない。
私が子供にたいして時には自分の不快感を伝えるのは、このことを通してどれだけ人が傷ついたか、そしてどれだけ不快に思ったかということを受け止めてほしいからで、お前のためにおこったんだではその気持ちが十分に伝わらないからである。
おそらく子供だけではなく、本当に人間関係をタイトなものにしたかったならば、それは大人であっても子供であっても受容しあうということは大事なことであると思う。
今そうかもしれないがよく我々の時代は頭ごなしにおこられたものである。
私は小さい時は問題児だったので、おやじをカーッとさせてどえらい目に合わされたが、感情的におこられてなぐられてもすみませんと言えるのは、悪いことをしたから当たり前なのだが、それはある意味、子供がその親を受容できているからだと思う。
いちいちおこることに理由をつけておこっていては、本当におこることはできない。
おそらくそういう大人の感情を受容することで、彼ら彼女らは成長し、大人になっていく。そしてこのことを通して相手の気持ちを理解し、英語でいうところのコモンセンスが磨かれていくのだと思っている。

だいぶ前ある学校でエセカウンセラーが暴れる子供に対して、親の愛情が足りないからさせるままにさせろというようなバカなアドヴァイスをしたらしい。
カウンセラーが言うので仕方なく、その通りにさせたのだが、しかしそんなことをさせてよくなるはずはない。結局このクラスは学級崩壊寸前まで行ったらしいが、ルソーが言うように子供は高貴な蛮族、その蛮族に好き勝手させるというのは結果は火を見るよりもあきらかである。
意外とカウンセラーの中には自分の問題を解決しきれず、そのため心理学の道を目指したという者も少なくはないのだが、そういう人のほとんどが、親との関係に原因を起因する人たちが多く、私の見てきた奴の中にもそういうタイプが何人かいて、何かと言えば愛情が足りないとか親の愛情を受けていないと受容することを強調するのだが、しかしそれはそうするほうが楽に解決できるからで、私の見てきた奴らはいまだに自分の問題が克服できない、だから人を見る時もそこに自分の経験を置いて考えてしまう、いつも解決法が同じ、はっきり言えば、そういう不十分な奴に安易にスクールカウンセラーと言う職を与えすぎたと思っている。
正直な話私はそういうたぐいのカウンセラーに期待はできない。
カウンセラーなんて言うのは、天から与えられた賜物を生かさなくてはできない仕事だと思っているので、少々訓練しても才能がなければつかえないが、そのほとんどが勘違いだからだ。
最近子供を地域で育てるということが問題になっているが、今や子供を育てるというのは、心理学よりも社会学的にとらえて考える必要がある。

オリーヴにはいろいろと個性的な子供たちが来ているが、彼ら彼女らと接する時、私は受容ということよりもむしろ、おこる時に子供にどう伝えるかということを問題にしている。
おこるというのは信頼関係を結ぶカギである、がしかしそれが十分に伝わらないとそこで関係は閉ざされてしまうことさえある。
おそらく今受容ということもそうであるが、そういう感情もひっくるめて子供をどうおこるか、子供にどう伝えるかと言うことを問題にし、研究しなければならないと思う。










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