脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

道徳教育の教科化は賢明ではない

2013-02-27 | Weblog
教育再生実行会議で阿部総理が道徳の教科化を提案した。
これはいじめに限らず犯罪の低年齢化や日本人の道徳観が崩れていく中で、生き方の座標軸として不可欠だということで出された案である。
しかしこれに対して私は意味がないと思っている。その雛形は外国の宗教教育にあるとしたならば、それは大きな勘違いであって、道徳と言うのは相対的で、外国人の言う宗教教育の絶対的な価値観に相反するものであるからである。
道徳と言うのは相対的であるので、ガイドラインを決めるのにはかなりおおまかなものになることを余儀なくされると思うのだが、もし道徳教育が教科化されて本格的に指導されても、ガイドラインを決めることは難しく、結局は授業も教員のやり方次第になってしまい。何を伝えていいのか、おそらく何をどう解釈していいのかわからない、各々が勝手な解釈をし言いたいことを言うだけの授業になってしまい、まとめることができないので、最終的には個性を認めるなどというおそまつな結果になるのではないかと思っている。

道徳の腐敗ということに関してだいぶ前に学校の教員が、犯罪が低年齢化したり、いじめのような見えないところで陰湿な犯罪がおこるのは、日本人の絶対的な存在や価値と言うものの存在がなくなってきたからだということを言っていた。
確かにそれは一理あるかもしれない。
昔は誰も見ていないけどそんなことをやったら神様が見ているよとか、時代劇で使う言葉で「お前らの悪事はおてんとう様がおみとうしだ」と今では死語であるが、そういう目には見えないけど絶対的な存在やあるいは自分のおやじなど、多くの日本人はこういう絶対的な存在をおそれて生きてきたと思う。
しかし今やそういう考え方は我々の生活の中では希薄になってきた。
子供が自分の父親に友達のように接するのは当たり前のようになって来たし、自分の父親をカジュアルな場で友達に出すときにあいつと聞いたときは驚いたのだが、こういうかたちで若い人が自分の父親に自分の友達のように接することは我々の時代と言うか、我々の文化では考えられなかったことであり、よくわるいことをした時にばれたらおやじに半殺しにされるとおそれたものであるが、おそらくこういうセンスと言うものが現代の日本人にはかけているのであって、そう考えれば宗教教育と言うのは、そういうセンスを喚起させるためにも道徳教育よりも今の日本には必要だと言えるだろう。

しかしここで日本には宗教教育が必要かと言うと必ずしもそうではない。
実際に宗教教育を行っている国が日本よりも犯罪が多く、うそを平気でつく人間がいるからで、はっきり言って宗教教育が今の教育に必要かと言えばそうではないからだ。
私が言いたいのは道徳や宗教教育のように押し付けられた規範や倫理ではなく、自分で考える力が必要だということだ。
この自分で考える力と言うのが今の日本人にはないのではないかと思っているが、その自分で考える力を養うためには哲学が必要だと信じている。
私はその教科にかに学校で道徳などと言う抽象的な教科を教科化するよりも、哲学を勉強した方が役に立つと思っているが、ソクラテスからはじまってプラトン、アリストテレス、そしてヴィトゲンシュタインやそれこそ今話題のサンデルに至るまで、世の中の原理や人間の生き方を彼ら彼女らから学ぶほうが、生きていく意味では必要なことを教えてくれると思うので、授業などで生徒たちのレヴェルや関心ごとに合わせて哲学者の書いた著名な本からいくつか抜粋して、そのことについて話し合って、その哲学者の考え方を学べばいいと思う。
例えば死というテーマをあげて、それに関するハイデガーやヤスパースの「Grenzsituation(限界状況)」などという考え方を紹介して話しあってもいいし、恋愛などの関心ごとにはEフロムやキルケゴールなどを参考しして話し合っても面白いと思う。
哲学書と言うのは書いた人が悩みに悩んで書いたも、読めば読むほど理解が深まるので、そういう世界に入って「何か」を考え、答えを求めることは若い人たちには必要なことではないだろうか?
道徳と言うのはかなり昔の事柄で、はっきり言ってそれが今の社会では押し付けと言うものに等しくなることがあるが、そういう押し付けではなくて、自分で物を考える力を養うことができる力を哲学を学んで養うことが必要である。

今は道徳教育で道徳崩壊の危機なんていうことを言っているが、政策に失敗して、景気が悪くなった時に、苦し紛れに道徳教育で清貧のすすめということにならないといいが。








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本は人を成長させる

2013-02-25 | Weblog
ある会社のデータによると読書量と年収は比例するらしい。
そのデータによると年収が1000万以上の人の読書量は読書する人の平均を30分上回っているそうだ。
読書と言うのはもちろん読むことで新たな関心や興味を持たせてくれる。そしてそれと同時に脳を活性させる働きがあり、読書することでイマジネーション能力が広がり、発想力が豊かになる。そういう力が仕事などにつながるのだと思う。

私の見解では人のまねをしたり、同じことしかできないような人間はこの発想力に乏しいと考える。
言っていることも人から言われたようなことを言っているようにしか聞こえず、本を読んで情報収集をして頭を活性化させてイマジネーション能力を広げることができないから、同じようなことしかできないと考えているのだが、読書と言うのは人間にとって考え方の幅をひろげるためには重要な事柄である。

しかし読書と言ってもボクサーの伝記やハウツー本などの単純な本を呼んでばかりでは脳が単純化するだけである。
はっきり言ってどこがおもしろいのだと思っているのだが、それしかやったことがないような人間の書く物語なんて、読んでもたいした教訓にはならない。
そういう単純な本を読むよりも、意味を深く読み取って葛藤を繰り返さなくては理解できないような難解な本を特に若い世代に読むということは当たり前だが、人間の成長のためには必要なことである。

スポーツをしている人間はニーチェを読んで人間の強さを学んだらいいし、ヤスパースのような実存主義から人間の存在意義と生きることなどを学ぶこともできる。私はそういう試行錯誤しながら、葛藤して理解していくことが、前回言ったコモンセンスや人の痛みを理解できるセンスを養うことだと思っている。

私自身もバイレイシャルということで葛藤があったことは確かである。そのためいろいろと悩んだが、私が哲学や宗教学を勉強したのも人間の本質と言うものを知りたかったからだ。
よく外国人の友達から「なぜ宗教や哲学を勉強したのか」と聞かれたら、「宗教や哲学を知ることは世界を知ることだ」と答えると、そうだという共感を得るのだが、世界の国のほとんどの国の人は宗教や哲学を持っていることは確かなことである。
宗教や哲学を学ぶことは重要なことだ、インドなどではその宗教がいまだに解決できない問題になっているし、そのためにおこる人種差別なども宗教的な制度がもたらした弊害である。
政治なども哲学が深く関連しているし、世界のそのほとんどの考え方や行動などが自分たちの宗教や哲学に基づいていると言えるのだが、まさにこのことを知ると言うのは人間の考えや行動を知る上では大きなアドヴァンテージである。
さらにトルストイやドストエフスキーなんていうのも宗教がわからなければ深く理解はできないだろうし、日本の文学なんかも宗教と対比して書かれているものなんかもあるが、だいぶ前に読んだことがある三島由紀夫の小説なども知を重んじるキリスト教に対して、肉体と精神を強調したような感じがあって、こういう作品は結構あったと思うが、こういう作品を深く読み込んで考え葛藤し、自分なりに深く考えることも大切なことで、物事を深く考えるためには、たくさんの本を読んで自分の引き出しをたくさん作ることが必要である。

人間の悩みは思い切り動いて、汗をかくぐらいでは解消されないことが多い。
真面目に生きていない奴はちょっとぐらい汗を流せば悩みは解決されると思っているが、しかし人間の悩みと言うのはそういう単純なものではない。短銃ではないから人は悩むのだ。
書物と言うのはそういう人間の悩みや苦しみ、そして生き方についてヒントを与えてくれる。
特に古典と言われる書物はそうだが、先人が我々のために深く考え葛藤し、一縷の光を見出してくれた書物でそういう書物に出会うということは生きていく上では大事なことであり、自分たちの生を肯定する力になるということを私は経験を通していうことができる。





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それはセンスの問題です

2013-02-22 | Weblog
練習でよくのこり30秒を伝える時に「ラスト30」と言う奴がいる。
群れの中でも一番芸達者なサルのような奴がタイムウオッチを片手に、残り30秒になったら「ラスト30」と叫んでいるが、しかしこれは間違い中の間違い。
「Last」と言うのは最後のということで、その字の通り残り30秒と言う意味で「ラスト30」と言ったのだろうが、しかし英語で残り30秒と言う意味で「ラスト30」と言ってもわからない。
おまけにラスト30と言うのは文法的にも間違っていて、ラストは最後のと言う意味で使う時は、限定の副詞なので、普通「Last」の前にTheをつけなくてはいけない。こういうことは少し賢い中学生ぐらいでもわかることだが、間違った英語を間違った文法で使う「辱のうわぬり」とはまさにこう言う時に使う言葉である。

この前あるデリケートな問題を相談されて、ある学校に直接電話をかけたことがある。
あるデリケートな問題とはここでは書けない問題だが、彼女は私が自分の言葉をまとめてうまく説明してくれると思ったのだろう、そういうことを事実確認するのと、それについてどういう処置をとるのかと言うことを話し合ってほしいと言う相談であった。
実際にその学校と直接電話したのだが、頭に来たのがその学校の対応、相手がそういういかがわしいことをしたにも関わらず、めんどくさそうに、そのことだったら口頭では確認が取れないので、文章化してくれと言う。
しかし文章化するというのは実際に話し合ってそれでもということで裁判になれば必要かもしれないが、しかしこれは当事者側が要求することではない、それを偉そうに一方的に文章化しろなんて言うので、頭にきてなぜ文章化が必要なのかと言う理屈を言った後で、こう言ってやった。「君なあ。そういうことを文章化される女性の気持ちを考えたことがあるのか。本当に今それをする必要があるのか?たぶんこういうことを言うのはかなり勇気がいることだし、しんどかったと思う、それを裁判ならともかく、めんどくさそうに文章化しろなんて言うことをよく言えたものだ。こういう問題はデリカシーの問題だ、そういう問題を女性の立場に立ってもっと人間らしく扱え。」と言うとそいつはあわてて「いやそういうつもりはなかったんです」とあやまっていたが、意外とこう言うデリカシーのない奴はいるものだ。
たぶんこういう感覚というかセンスは机上の学問では養うことはできない。言葉をロジカルに語ることは机上の学問でも養うことができるが、しかし人の痛みや苦しみ弱さを理解すると言うのはというものは机上の学問だけではなく、センスの問題である。この電話を受けた人間はそういうセンスにかけていたのだと思うが、たぶんこういうセンスは日本の政治家たちにもないのではないかと思う。

しかしそういう気持ちを理解するということはヤンキーがやりたい放題やっておいて、わるをやったから人の気持ちがわかると言うようなわけのわからない、ほとんどたわごとに近いような屁理屈ではない。
そういうセンスを磨くためには、机上の学問ではなく経験である。
この経験はたくさんの人と出会い、そこから学ぶことのできる経験で、英語やと他の言葉を話せると言うのはかなりのアドヴァンテージになると思っている。
英語や他の言語が話せるといろいろな国の人と話すことができるし、いろいろなところでボランティアができる。
子供が英語をおぼえたら大学ぐらいによその国に行ってボランティアをすることをすすめようと思っているが、実際言葉をおぼえて他の国でボランティアをしたら日本ではできない貴重な体験ができる。
実際に私も学童保育のようなところでボランティアをしたことがあるし、そういう触れ合いを通して知りえた現実、特に韓国人の養子の問題は私にとって衝撃的で心をいためた問題であったが、人間は若いうちに違う世界に出て行って、そういう体験をすることが必要であり、そういう貴重な体験が人間の幅をつくって行くのだと思っている。

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H O L Y S ○ I T !

2013-02-20 | Weblog
私はよく韓国語の「18」と言う言葉を使う。これはよい子は絶対に使ってはいけない言葉で、実際このスラングは数字の18と同じ発音で韓国人がよく使う言葉であるので18と言っているがわるい言葉だ。
それは英語でいうところの「S○IT」にあたる言葉であるが、韓国語と言うのは日本語に比べて悪口やスラングののしり言葉が多い、面白いのは彼ら彼女らは「辱(ヨク)」と言ういろいろなわるい言葉を組み合わせた言葉を持っていて、この前はネットにイルボン ビョ○ セ○キと書かれてあったが、こういう悪口言葉にオリジナリティーを持っているのは彼ら彼女らだけだと思うが、その組み合わせは1000いや2000以上あるらしい。
ちなみにこのイルボン ピョ○ セ○キのイルボンをハングンとしたらめちゃめちゃ切れると思うが、こんな言葉を日本の掲示板に書くなと思うぐらいえげつない言葉である。
私がよく人を動物にたとえて冗談でビーバードブネズミとか閻魔白ネズミなどと言うのもこの発想と似ている。
日本人はあまりスラングやののしり言葉を使わない。罵り言葉と言えばせいぜいバカヤローかかわいい言葉ではお前のかーちゃんでべそぐらいだが、本当に日本語はそういう汚い言葉が少ないと思う。
しかし外国の言葉は国どうし対立してきたことと関係があるのか日本に比べてスラングが多いと言える。これに対して日本はそういう言葉が少ないので、たぶんスラングの使い方が一番へたな民族は日本人だと思っている。
日本人はよく英語でも冗談でスラングを使っているが、しかし使い方がわかってはいない。
この前動画でアメリカ人の男が銃の早撃ちで、銃をうっかりぬきそこねて自分の足を撃ってしまった時こう言っていた「Igot a shot fucking myself!!」やはりアメリカ人だ。わるいが笑ってしまった。その時メーガン法についてどう思いますか?言うと偉いことになると思うが、スラングと言うのは無意味に使っても意味がない、ほぼパーフェクトな状況で語られるから意味がある。
そこで今日はスラングの使い方、とは言っても辱の作り方なんていうのは不適切で、民族の恥をさらしてしまうことになるので英語限定にしておく。

まずは「S○HT」から
うちの3歳になりかけの子供を保育園に迎えに行った時、おやつを食べていた。
リンゴをフォークにさしてもぐもぐもぐとおいしそうに食べていた。
しかし彼は私が来たので、ついよそ見をして、フォークにさして食べていたリンゴをぽとりと床に、せがれは一言「S○IT!」
英語的にはかなりパーフェクトのタイミングだ、しかし場所が場所だけにちがう。
よく保育園の保育士が彼はよく英語を話しているんですよ。教えているんですか?と聞くので、最初は何のことかわからなかったが、この時わかった、まさにこのことであった。
さらに試合で審判にとめられた時はこれだ、日本人は何かとあやまりすぎだ、別にわるいことをしているわけでもないのになぜあやまるのか不思議だ。
S○ITがまずかったら肩をすくめて手を広げるゼスチャーをするぐらいのことはしなくてはいけない。韓国人のようにごねるのはよくないが、しかし日本人は何かと謝りすぎる。これだから国際社会ではなめられるのだ。

「HOLY S○IT!」

秋の市民大会でのこと、うちの選手が対戦相手表を見ていた。
自分が当たる相手が気になるのか後ろの対戦表のところに行って、自分は一体どんな奴とあたるのだろうかと対戦相手を探していた。
すると横にいた奴がその対戦表を見て「あっこいつかわいいそう間違いなく秒殺だ」と言う声が聞こえる。
気になるのでそっちに目をやると、その選手の横にはなななんと自分の名前が、そういう時大きい声でアルファベットをはっきりと「HOLY S○IT!」と言うのが、正しい使い方だ。

「使ってはいけないスラング」
Oh my god!とかJesus christ!などの神の名をあらわす言葉、これは十戒の神の名をみだりにとなえてはならないという掟に反する言葉で、よくOh my goodness!などとGodをGoodnessにかえているのを聞くが、禁句だからこのように言葉をかえている。
思いがけないことが起こった時に「なんてこったい」と言うつもりで調子にのってでかい声で「Jesus Christ」とは言わない方がいい。
ちなみにこのJesus Christは十戒の趣旨から言って「のろわれろ」とBless youと反対の意味で使われることもある。

少し前ワールドカップの代表国の監督が英語が話せない人間には厳しい罰金を課せていたことは有名な話しだ、多国籍でなりたっているチームがコミニケーションをとるためには英語が必要だからだそうだが、日本もこれからは外国人や外国人の監督がかつよくする時代になるので、英語が話せないとついていけない時代がくると思う。
日本の場合サッカーが語学が話せて重要視しているスポーツのAランクとしたら、アマチュアボクシングは番外、話にならない。

最後に韓国のはやり言葉、これはよくソヒョンが使うのだが、チャンイヤ(最高)と言う言葉、これはこれ以上のものはないと言う意味で堂島ロールケーキを食べた時にすごくおいしかったら親指を立てて、チャンイヤと言う。
これはチェゴと同じ意味の若者言葉である。

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パボ ガタ  

2013-02-18 | Weblog
スポーツ界の暴力が明るみに出て問題になっているが、本当にこの世界は倫理的に何か欠如した奴が多いような気がしている。
子供のボクシングも前から危険だと言ってきているが、欧米諸国ではかなり危険視されていることは間違いない。英語で「kids boxing dangerous」で検索すればいくつか論文や記事がでてくる。さらにもっと医学的に調べたかったら「kids boxing head trauma」などで調べたら、医学的な論文が出てくるが、それらは医師会が発表したものや医師が書いたものである。

少し前には北海道だったか、高校か大学で事故で脳障害をおった生徒が学校を相手に告訴したと言う記事があった。
日本のアマチュアボクシングはマイナースポーツなので、こういうことは地方新聞で知ることができるだけで、一般的には公にならず知らされてはいない。
しかしこういうことがあったのに、なぜ公に知らせてその危険性を促すことをしないのか、そして対策を練らないのか不思議である。
世論がうるさいのか最近では、大きな試合に関してはCTをとらせたり、ストップを早くするというようなポーズはとっているものの、しかしCTを徹底しなくてはいけないのは一般の大きな大会レヴェルではなく、子供ではないのか?
ボクシングと言うスポーツは、はっきり言ってふれられては困ることが多いと思う。
監督不行き届きでおこったケガなんかもそうだが、顧問のふしだらなこともいくつか聞いている。
減量も成長期に5キロ以上なんて言うのも当たり前のようにさせているし、ひどい奴は子供に減量させて殴り合いをさせているが、こういう医学的にもしてはいけないめちゃくちゃなことをやらせていたらふつう連盟がとめたりするはずだ、しかし親分子分の関係があったり、仲良しばかりのグループで、お互いそういうところはふれずにおきましょうという暗黙のルールが存在すると思っているのだが、たぶんこういうことを今文部科学省が入って調査すれば間違いなく、問題になる。減量や頭をたたくということは子供がどう言おうが、自己責任の範囲ではなく、大人が彼ら彼女らの将来を守るために絶対にさせてはいけないことだ。

話しはかわるが渦中の高校の暴力をふるった監督が、キャプテンを鍛えるために「リーダーとしての条件」というような本を買い与えたと言う話があったが、はっきり言ってこういうところに教育的なセンスのなさが感じられる。
中高生などのこれから頭を耕していかなくてはいけない人間に「リーダーとしての条件」とかボクサーなどの伝記を読ませるのは教師としては不十分だ。
たぶんこういう本をすすめるのは、学生時代に真剣に本を読んでこなかったからだと思うが、こういう本を高校生ぐらいの子にすすめるのは見当違いである。
こういう時期に読む本にふさわしいのは、哲学書やトルストイやドストエフスキー少し難しいがカミュなどの小説で、若いうちは少々難解な本を読んで頭を耕して、物事を理解する基本をつくることが必要ではないだろうか。
私の意見ではスポーツバカというのは、この物事を理解するうえでの基礎ができていない。
スポーツでは基本基本と言うが、しかしこういう物事を考えるうえでの基礎と言うものができていない、所謂若いうちに頭をしっかりと耕してこなかった人間が多い。
こういう物を考えると言う上での基礎的な学力がないから、医学を無視できたり、くだらないがせねたに引っかかってバカなことを言ったり、するのだと思うのだが、日本のアマチュアボクシングの過度の減量はまさにそうで、はっきり言って特にアマチュアのような短期決戦では体重をおとせばおとすほど有利ではない。
高校生ぐらいの成長期でも5キロ以上減量させるのは非常識であるが、子供に減量させて殴り合いをさせるなんて非常識を通り越して、犯罪に近い。
ケガでもしたらどうするのだ、子供に一番させてはいけないケガと言うのは頭のけがであることを知っているのであろうか?
ケガをさせて、これから防御をきちんとさせるみたいなバカなことを言っているのであれば、それは非常識にもほどがある。こういうことを言う奴は本当に物事の本質が理解できているのだろうか?こういう人間が冷静に物事をとらえ理解しているとは考えがたい。
今この情報社会と言われている時代に、そういう人間は何を基準にして物事を判断していくのか不思議である。ボクシングの理想をかかげるのはわかるが、しかし子供のヘッドトラウマに関しては情熱や信念や理想の問題ではない。さらによくダイエットやフィットネスと言う言葉を使うが、そういう言葉をきちんと説明できるのだろうか?
たぶんボクシングの理想とか信念という抽象的な考え方は人それぞれだから、そういうことしか考えていないのでさも立派に語れるが、しかしその上の子供のヘッドトラウマやダイエットやフィットネスと言うのは学問的な問題でたぶんこう言った問題は少々論文を書くぐらいの力がなければ理解できないと思っている。
これからのスポーツ指導は情熱ではない、どれだけ物事を学問的な基準で見れるか、そしてそのことを尊重できるかということである。










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Have you heard Shaken Baby Syndrome 

2013-02-14 | Weblog
ゆさぶり症候群と言う言葉は聞いたことがあると思う。英語ではSBS(Shaken Baby Syndrome)
もう説明する必要もないと思うが、このゆさぶり症候群は欧米では幼児虐待にあたり、子供の人権の条項のひとつとして挙げられている。
英語が読める人は欧米における子供の人権と言うものを調べてみたらわかると思うが、日本のスポーツ界は欧米に比べてまだまだ子供の人権と言うものが守られていない。
だから未だに愛情のある体罰などと愚かなことを言う奴がいるのだが、子供のボクシングについてももうだいぶ前から言ってきたことだ。

子供の頭蓋骨は発達段階で大人に比べて非常にやわらかい。
大人が脳震盪から回復するのに3日かかるのに対して子供は10日以上かかると言われている。
そういうやわらかくデリケートな頭蓋骨に衝撃をあたえたらどうなるか考えてみたらいい。欧米でゆさぶり症候群が幼児虐待や子供の人権の条項に挙げられているのは、子供の将来を考えて、人間の脳と言うのはデリケートなもので、なるべくそういうかたちで障害をおわせてはいけないからだが、そのような流れで欧米での子供のボクシングに対するスタンスを考えれば、禁止したり年々厳しくなっていることがわかるが、これらは医師会によって協議され問題視されたことを受けてのことである。

しかし日本は人権教育に疎い奴やDQNが多いので、ボクシングを鍛えたり、しつけのいっかんぐらいにしか考えておらず、欧米のように医学的なことや人権と言うものを考えてはいないし、理解しようとは思ってはいないと思う。
はっきり言ってここがもういいかげんだと言われても仕方がないのだが、前にも言ったがこれからのスポーツは学問的に物事をとらえなくては通用しない。
特に子供にボクシングをさせると言うのは、サッカーや野球をさせることと全く違う。
こういう慎重に扱われなくてはならない問題を医学や人権を無視して勢いだけでやることは、競技者の問題はもちろんだが、世論や世間的にも説明がつかない。
マイナースポーツだからそう問題にされないものの、しかしまともな親だったらこういう実態を考えたら、こういう馬鹿で無知な集団に子供を入れたくないと思うのは当たり前のことだと思う。
本当に子供が頭をたたきあうことは危険である。まず大丈夫だなんていう言う医者はいないだろう。
実際に私の友人の医師に「子供にボクシングさせるのは危険か?」と聞いたら、しかめっ面で「えっ、そりゃだめだろ、えっまさか君のところはやらせるの」とやらせていたらやめとけといわんばかりに言っていたが、子供に殴り合いをさせても大丈夫だと言う医者はほとんどいないと思う。
ひどい奴になると子供に減量させて殴り合いをさせてると言うが、ここまでいけば人権侵害も甚だしい。
成長期に減量なんてバカじゃないのか、もうここからしておかしいことである。
私が危険だと思うのは。仲間ができている集団である。
とにかく仲良しで、冗談を言い合って、はたからみたらその光景は非常に楽しそうである。時にはボクシングは素晴らしいとか、たいしたこともやっていないのに自分はボクシングがあったからここまでこれたとか、仲間ができたとかたわいもないようなことをもっともらしく語り合って、アホかと思うのだが、普通こんなことをしっかりした子供やIQの高い子供に言ったらバカにされるのがおちだが、しかし相手を見て言っているのだろう、ここまで行けばもはや新興宗教のようなものである。
彼ら彼女らは客観性や学問的なことを無視しているが、しかし子供は純粋なので必死にボクシングは素晴らしいなどと語るので子供もその気になってしまう。おまけにまわりが仲良く家族のように暖かく、ほめて励ましてくれるのだから、そういう場所に居場所を感じて、楽しくなるのは当たり前だ。
子供が喜んでいるから、目的を持ったというのは一時的なもので、その集団自体が客観的にものごとを見ていなければ、それが賢明かと言うとそうではない。事がおこってからではおそい。
学問と言うものさしでものごとを客観的に見ることができない人間がつくりあげる集団は危険である。
子供もはじめのうちは順調に理想的なことを語り、あいさつなどできても、集団が集団だけに無知で無学な奴がちょっとあほなことを言い出したり、バカなことをするとそこからどんどんくずれてくる。
まわりからいろいろと言われて慎重に注意しても、学問的なことを重視しない、無知で無学だと調子にのったり、追い詰められるとぼろが出ていきおいでバカなことを言いだす。聞いた話だが、そういう例は実際にある。
子供に減量させて殴り合いをさせるなんて言う行為はちょっと考えたらわかることだろう??
たぶんそういうことを聞いたら、まともに答えられないので開き直るか、逆切れするか、集団でごまかすだけでまともな回答など得られないと思うのだが、今時宗教でも神はこの世界を7日でつくったなんて考えていない時代に、学問的なことを無視して、情やいきおいだけでやっていくことは、大人相手なら問題はないが、しかし子供となると別、大問題だ。
うちのクラブでは、高校生未満の人間に対しては、まず医学が一番重要な判断基準であり、医学的にうたがわしいと思うようなことはさせないようにしているが、特にボクシングのような危険がともなうスポーツは未成年の場合は医学的なことを基準に考える必要がある。

もう今や指導者を「あの人は話せばわかる」とか「真面目にものごとを考えている」ということではかる時代ではない。
そういうふりは誰でもできる。むしろ無知な奴や元ヤンキーがまともなことを言ったらそう思われるので有利だ。
これからの国際社会で問われるのはインテリジェンスだ、ある程度物事を客観的にとらえて理解する能力がないとつとまらないと思っているが、そのため学問的に物事をとらえる訓練、情報を集めて考え方の幅を広げることが大事なことである。

こういうデリケートで人権やへたしたら人命にかかわる問題は、理想や信念の問題ではない。
人をひきつけようとくだらない信念や理想を語るバカがいるが、理想や信念というのは誰でも語れる。
むしろ信念や理想と言うのは、多くの場合は、何もできない奴が、親玉になったとたん聞いてもらえるのをいいことに語る虚言癖のようなものだと思っているが、スポーツ指導者にとって大事なのは情熱とかそういったたぐいのものではなく、客観的に物事をとらえ見る力、そういう力や能力に欠けると例の高校のような人災を引き起こすのだと思っている。

私が一番おそれていることは客観的に物事が見れなくなるということである。
そうならないためにも仲間や取り巻きはつくらない、学問的に物事を考える力を常日ごろから養うということをこころがけている。
私のカバンには情報誌や新聞なども含めて、本や辞書などが合わせて10冊近く入っているが、オリーヴのような個性の強い人たちをうまくリードしていくには、陳腐な信念を語ったり、バカな理想論をかかげたりすることではなく、何事も学問的な基準に立って判断していくことが大事なことで、そのことが公平にその集団を導いていけることだと思っている。

最後にアドヴァイスとしてそのクラブや集団がDQNかどうかという基準は

「子供の競技においてどういうスタンスをとっているか」「取り巻きがいるかいないか」「柔道などの問題を考えてもわかることだが、国際的な倫理や基準に立ってものごとを見ることができるスタンスいわゆる英語力」「恰好だけ目立とうとするような奴が多いかどうか」である。






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これからのスポーツは

2013-02-14 | Weblog
先日ここで少しの期間だがトレーニングしていた子供がお母さんとあいさつに来てくれた。
彼は他のスポーツの推薦で都会の高校に進学するので、そのあいさつとお礼をかねてきてくれたのだが、私がうれしかったのは、彼が私の話を聞いて刺激を受けてくれて、英語を一生懸命勉強してくれていること、まだ中学生であるが将来的には留学もしたいそうで、まずそのためにはTOEFLの点数をとることを目標にしていることである。
私はその時彼にこれからのスポーツは体罰問題なんかもあって、外国人の指導から学ばなくてはならない機会が増えてくる。
現に不公平だと思うが、渦中の高校もNBAの元プレイヤーが時々来て指導すると言うようなことを言っていたが、しかし欧米の指導と言うのはスポーツによるのだが、理屈中心で、その理屈や理論を理解して自分で実践して使っていく能力が求められるのだが、今の体育会の封建的で単純なことしか考えさせないシステムでは無理。
理屈を聞いてそれを理解するためには英語が必須条件だし、さらに勉強しないと論理的にものごとを考えることができない。欧米では監督から命令されて、ただそれをやるだけで言われたことにハイとしか言えないバカでは愛想をつかされてしまう。はっきり言ってスポーツバカは通用しない。
これからのスポーツは論理的に物事を考える能力が必要だ、そして論理的に物事を考え理解するためにはまず語学力は不可欠だから、とにかく英語をおぼえるといいよ。英語は世界共通語だ、俺なんかは体育会が異常だということはもう何年も前から言ってきたことだし、それは英語と言う物差しを通してそういう世界を見たから理解できたことだ、英語を理解することでいろいろなことが見えてくるからとにかくまじめにコツコツ勉強すればいいよと言うようなことをアドヴァイスしたのだが、こういう志が高い子供を見ると非常に安心する。

私が経験してきて思うことは、西洋人はスポーツに関しても論理的であるということだ。
おそらくここが日本人と欧米人のスポーツに関する決定的な違いだと思っているのだが、日本のスポーツ界は監督が言ったことを素直に実践することが求められてきた。私がバカだと思うのは、監督の言葉に対してハイとしか言えない人間だ。まあたいていの体育会系はそうとしか言えないような奴が多いと思うのだが、よく監督中心に円陣を組んで、監督が何か言うたびに反射条件のようにハイと言う光景を見るが、こういうことはまず欧米ではありえない。まず全員がいっせいにハイなんていうこと自体が洗脳と思われても仕方がないのだが、人の話を真剣に聞いていたら、条件反射のようにハイなどと言えるはずがない、たぶん何も考えてはいないのだろうと思うし、監督もハイと言う従順な答えしか求めてはいないのだろうと思う。
それに考え方は人それぞれ違うのだから、ある事柄に対しての答えはひとつではない。それを何か言うたびにハイなどと言うのだから、こいつら本当にわかっているのだろうか疑わしい。
余談ではあるが、よく運動クラブの奴らが駅の前とかひどい奴らになるとコンビニの前で試合後のミーティングをしている光景を見るのだが、ああいう暑苦しくてぎらぎらした奴らがかたまると非常に迷惑である。
特に駅は人の流れもあるので、そんなところにぎらぎらした奴らがかたまってでかい声で話すことは、迷惑条例違反の範疇に入るのではないかと思うのだが、私はこういう光景を見るたびに、こいつらコモンセンスに欠けているなと思う。
コモンセンスと言うのはこいつらの言うみせかけや上下関係を位置づけるための礼儀ではない。そういった類の物ならやくざの社会や刑務所にも存在する。コモンセンスと言うのはかいつまんで言えばTPOに応じた行いやふるまいである。
だからセンスが求められるのだが、人から見たらみっともないと思うことはコモンセンスに欠けることで、こいつらの駅やコンビニなどでするミーティングや上下関係や服従を示させるために馬鹿みたいに大きな声であいさつさせることは、はたから見てみっともないことなので、コモンセンスに欠ける行いだと言ってもいいが、これからのスポーツクラブは昔ながらの軍隊のような礼儀ではなく、TPOを意識したコモンセンスをしっかりと身に着けさせることが大事なことではないだろうか。
昔ボクシングのコーチがよくリングをおりればジェントルマンであれと言っていたが、ジェントルマンと言うのは何も進んでいいことをしろということではなく、たぶんTPOに応じてのふるまいであるのだと理解しているが、しかしこのTPOに応じた振る舞いや行動と言うのが難しいことで、しかしこういうセンスはむしろスポーツと言う共同体であるからこそ養われるのではないだろうか?

スポーツはバカではできないと言うのは、スポーツは理解力が求められるからである。
おそらく日本でスポーツをやっているぐらいではわからないと思うが、欧米はスポーツに対する考え方は非常に理論的である。
ある事柄についても延々と理屈をこねるのだが、たぶんこういう理屈が日本人には理解できない。
前にある日本の元メジャーリーガーが日本の球団に帰って来た時に、ピッチング練習で一球投げるたびに今のはどうだったかと理屈をこねてやりにくかったというようなことがある記事に書かれてあったが、欧米ではスポーツの動作やその他のことひとつひとつには理由があり、その理屈があるからこそ、ひとりびとりのやり方と言うものが尊重されるのではないかと思っている。
たぶん垂直に物事を理解させられる運動クラブの日本人に、なぜそのようなホームでやるのかと聞かれたら、誰々に教えてもらったからという答えが返ってくると思うが、それはみんなが基本だと言って同じようなかたちでそのスポーツを競技しているのを見ればわかることだ。
しかし欧米でそのスタイルは十人十色で、例えば野球をやっている人間に、お前はなぜそういううち方をするのかと聞いたら必ずこうだからこうだという答えがかえってくるのだが、そういう理屈があって競技できるからこそスポーツを純粋に楽しめるのだと思う。
もう日本の封建的な体育会の制度と言うものが国際的に見て倫理的にも人道的にも通用しなくなった今、改めて自分たちの在り方を問い直し、フラットな関係を築く必要がある。
おそらくこれからは欧米のスタイルを精神的にも取り入れ見習っていくのだろうと思うが、その欧米のスタイルやシステムを十分に理解するためには運動クラブの人間たちがやらなくてはならないことはたくさんある。
特に物事を論理的に考えるということは今までの日本人のスポーツになかったことであるが、論理的に考えると言うのは先輩や親玉に聞いたことや自分の経験を自慢げに語ることではなく、きちんとスポーツを学問的にとらえなおすことである。


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哲学しよう

2013-02-12 | Weblog
本屋に行くと最近哲学的な本が目立つようになってきた。
2年ぐらい前だろうか「ニーチェの言葉」と言う本が出てから、さらにアランや格言などの本が売り出されいずれもベストセラーになっているそうだが、特に「ニーチェの言葉」は3冊ぐらい出ているのではないかと思う。
なぜニーチェなのかというのはよくわからないが、ニーチェはこの不安な時代に心を落ち着け奮い立たすためのカンフル剤になるのだろう、おそらくこれからも、この先行きが見えない不安な時代、ニーチェのようなカンフル剤になるような哲学や、アランのような癒し系の哲学がもてはやされると思う。
哲学と言うのはこういう本がベストセラーになっていることからもわかるように人間にとって不可欠な事柄である。
私も結構読んだが、この時代私がおすすめするのはキルケゴールである。
キルケゴールと言うのは、日本語訳では文法自体なじみがないのでかなり難解であるが、しかし読んでみる価値はある。
前に「リーダーとしての条件」とかボクサーの伝記なんていうのは基礎的な考え方がしっかりしていなかったら、読んでも人の押し付けになるだけだと言ったが、そういう本を読んで読書しているレヴェルでは親玉はつとまらない。
基本とか基礎と言うのならば、教える立場の奴は、子供がスポーツバカにならないように学問の基本を身に着ける必要はある。
たぶん基本がわからないボクシングの親玉どもにキルケゴールって誰と聞いても理解できないと思うのだが、しかし彼の著書は「経済不安」や「生きることの不安」そして「人間関係の不安」の多い時代には非常にためになる本だと思っている。
かいつまんで説明すると。彼の哲学は人間は絶望を繰り返しながら絶対者に向かっていくということで、この絶対者と向き合うことが我々の人生の最終目標だと言ってもいいと思う。
しかし彼の絶対者と言うのは特定の神ではない。彼がキリスト教だったことから、そのように受け取ることもできるのだろうが、しかしはっきり言ってここで出てくる絶対者は言葉であらわすことができない、むしろ体験的なもので、信仰という概念でとらえる事柄ではないと思っている。おそらく様々な苦悩や絶望を体験し、繰り返してきた中で彼が行き着いた答えは、人間というのは、どうあがこうが弱く愚かな存在でちっぽけなものなのだ、そしてそのちっぽけな存在が絶対者にぶちあたってその徹底した弱さを知ることで、自分の力で生きるのではなくて、今自分は生かされているんだと言うことを知り、その体験によって癒され、慰められることを説いたのではないかと思っている。
思春期には悩みがつきものだが、その思春期に哲学させることは大事なことだ、スポーツもいいがしかし頭を耕すことは悩みを解決できるひとつの方法でもあり、特に知的水準の高い子供には、Maieutike(助産術)などを用いて哲学させると、その悩みが自己解決につながって行くこともあるが、私はIQの高い子供には、しばしば哲学的にかかわることもある。
私自身も若いうちはかなり悩んだほうである。そして悩みながらヘーゲルやカントなどの哲学書をよみあさったものであるが、読みながら共感したり反発したりして、考え葛藤していくうちに、いつしかもうひとりの自分がいることに気づくのだが、その体験が自分を客観的に深く見る上では必要なことで、実際そのことによって「ああこういう考え方もあるのか」と救われたものであるが、こういう体験を思春期の子供たちにさせることは必要なことではないだろうか。
最近の子供は悩み方を知らない。おそらく占いなどに安易な答えを求めるのは、自分がどう悩んでいいのか、そしてそれをどう解決したらいいのかということがわからないからだと思うのだが、哲学と言うのは我々の先人たちが悩み、葛藤し、我々に残した書物で、私の言葉で言うならば「自分は今どこにいるのか」と言うことを教えてくれる教科書である。

そういう葛藤を繰り返してきたせいか、私は外国人や帰国子女なんかが認めるぐらい個性が強いらしい。
しかし髪の毛は染めていないし、目立ったような恰好はしていない。
さらに目立つようなことを言ったり、目立つようなことをした覚えがないのだが、それでも話をしているとかなり個性の強さを感じるそうである。
たぶん個性が強いと言うのは、自分でいうのも何だがいろいろなことを学び吸収してきたからだと思う。
おそらくボクシングしかやってこなかったとしたら、個性的な人間にはならなかったであろう。
個性と言うのはチンピラのような恰好をしたり、目立とうとしたり、へんなことをしたりすることではない。
個性と言うのは比較され磨かれなくてはならないもので、そのために人間は自分の存在について考えると言うことも必要ではないだろうか。
そしていろいろなことを学ぶためには二つのことが必要だ一つは英語、そしてもうひとつは哲学することである。

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これからは縦ではなく横のつながりを考えるコミュニティが必要

2013-02-07 | Weblog

クラブと言うのは横のつながりを広げるために存在している。それは決して縦の関係をつくったり、仲間を集めるためのものではないと思っている。
前回子供とフラットな関係を持つと言ったのは、あくまでここは縦社会ではなく、横のつながりを大事にすると言う意味である。
おそらく子供にもそういう関係を意識させてかかわる方が今後の社会では役に立つと思っている。
うちのクラブはにぎやかである。にぎやかと言っても中高生のようなのりのにぎやかさではないが、お互いが目的や個性を尊重しながら付き合っているので、見ていて楽しそうである。
集まってくる人も専門知識のある人が多いので、ダイエットや体のことなどについて聞くことができるというこのクラブならではの特典であり、そういうことを通して次第に交流が深まるのだが、そういう交流を通してみなさん非常に楽しそうに練習している。
オリーヴの個性的で非常に興味深い人が多い、それは話したらわかることだが、いろいろなことを勉強したり経験しているので知識も豊富で、視野も広く話したらためになることが多い。
ボクシングしかしかできない人間が集まってくると、おのずとその群れはかたまりちいさくなっていくものだ、横文字が苦手、新聞を読まない、本も読まないと言うような輩が集まれば、その集団はおのずと縦のつながりかあるいは仲間になってしまうのだが。大事なのはそこにはどういう人たちが集まってくるかだ。おそらくボクシングしかやったことがないような奴が集まれば、同じようなレヴェルでしか話ができないので、おのずと考え方や世界が狭くなり、横の関係に広がりがもてないから、いわゆるやくざの組や暴走族のような仲間をつくりあげてしまう。
はっきり言ってこれからのボクシングクラブは、何とかチャンピオンとか、たとえそれができても、それしかできない奴よりもToeicとかTofulなどで高得点をとった人間や留学経験のある人間の方が十分に価値はある。
ボクシングクラブと言っても、社会人も来てエクササイズに励むのだから、それなりに幅をもたなければいけないと言うのが私の考えだが、もしそこで横のつながりと言うものを考えてそのコミュニティーを運営していくことができたら、会員の人、特に子供には運動効果だけではなく、多くのアドヴァンテージをもたらすと信じている。

前に外国の専門学校に行く奴が、むこうに行ったらどうやって友達をつくればいいのかということをざっくばらんに聞いてきた。
彼は大阪の大学を出てそこそこ英語が話せるらしいが、しかし人と話すのが苦手らしく、そういう自分が海外でやっていくには少々不安があって、そういうことを聞いてきたのだと思うが、日本人は外国人の友達をつくるのが苦手であるのは、日本人が集団的なかかわりしかできないからだ。
日本人は同じということを共感しあうが、しかし外国ではまず人との違いと言うものを認めることからはじまるのだが、欧米では同じだから仲間だと言う集団的なかかわりではなく、個人的なかかわりが求められる。
個人的なかかわりと言うのは俺はどこどこの何々だと言うようなやくざのような関係や会社や学校などのしがらみではなく、相手に自分を売り込んで知ってもらう、あるいは認めさせる力と言ってもいいが、日本人はこの自分を売り込むことが苦手だと思う。
英会話でも自己紹介をする時、外国人が自分のことをべらべらと話すのも自分を売り込むあいさつであるが、それに対して日本人は何を言っていいのかわからず困るらしい。
日本語でさえも初対面で自分のことをべらべらとしやべらないのに、ましてや英語でなんてと思うが、しかし欧米ではこのように初対面でも自分を売り込んで行かなくてはならない、しかし日本人はこの個人的かかわりと言うものが非常に苦手で、初対面ですぐに名刺を差し出す行為はそのディスアドヴァンテージがでていると思う。
言葉をつかって自分を売り込むという力は、さっき言った小さなみんながみんな同じようなというようなレヴェルのコミュニティでは育たない。やはり広い視野で物事を考えて、横のつながりと言うものを意識したコミュニティーでなければならない。
体罰や柔道の問題がおこって、日本のスポーツは世界と比べてかなり時代錯誤なことをやっていることに気付いたわけだが、これからのスポーツは縦ではなく横、そして横のつながりを考えるためには、世界と言うものを言葉や文化そして哲学や宗教などを通して理解していくことが大事である。

 


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たかだかスポーツごときでしつけという言葉を出すなよ

2013-02-06 | Weblog
うちのクラブには意外と多くの子供たちが通っている。ここでは子供のコンタクトボクシングを禁止しているので、健康維持や体力をつけると言った目的で来てくれているのだが、そのほとんどが2年以上ここに通ってくれていて、長い子供はもう6年になる。
オリーヴにはいい意味で個性的な子供が多く、この個性的な子供たちの面倒を見るのは結構たいへんだ。
「次何々するぞ」と言うと「いやだ」と言う答えは当たり前にかえってくるし、時にはすごいやる気がないオーラが出ている時もある。
そんな時にマスやるぞと言うと「いやだ」と言う答えが返ってくるのだが、そういう子供に何かをさせることはむずかしく、時にはこちらのテンションも下がることもしばしばある。
けれどもそういう時はマスをするかわりにミットうちは1ラウンドとかと言うように、交渉することで何かをさせることにしているが、子供と言うのは正直でおもしろくないことはやらないのだが、それでもいろいろと交渉してやらせればそれなりに楽しそうに満足してくれている。
子供と言うのはきまぐれで、やりたくないことをやりたくないと思うのが自然の姿である。
だからそれを無理に押しつけてやらせるというのは、スポーツの世界では必要のないことである。
私は運動クラブで子供が監督の言葉にたいして「ハイ」と言う言葉を即座にかえしている姿を見ると、何か不思議なものを感じるが、そういうスポーツで言う、しつけというものが本当に将来的に必要なことで、役に立つことなのかは疑問なことで、子供のうちに必要なのはスポーツに慣れたり、楽しんだりすることではないのかと思う。

しかしこれはいけないんじゃないかということに対しては必ず言うようにしている。
例えば人を傷つけたり、自分を卑下するような言葉に対して、そういうことが競技とのかかわりの中で見えてきた時は、それを見過ごすことなく、そんなことは言ってはいけないと言うようにしている。
それも高学年ぐらいになるとむしろ注意すると言うよりも「俺はこう思うけど」と言うような言い方で接しているのだが、こういうアドヴァイスをすることで、上から何々するなと押さえつけるのではなく、フラットに付き合い、そして彼ら彼女らに対等に付き合い、自分で考えさせるということを学ばさせるためであるが、子供によっては伝える時、決して正面に立って言わず、横に立ってなるべく威圧感のないように伝えるようにしている。
たぶん子供は、頭ごなしに上から権威的な態度でおこっても無駄である。
学校で注意を促すために多少どなったりすることも必要であるが、しかしスポーツではそういう頭ごなしにしかりつけるというようなことはする必要がない。
スポーツと言うのは楽しむためにするものだ、そこには服従関係はなく、お互いがフラットな関係が求められ、そのフラットな関係を築くことで、言われてやるのではなく、自分で考え行動する能力が身につくのだと思う。
屁理屈かもしれないがここではよく小学生に「わかってんのか」と言うと「わかってるよ」と言うような言い方をする。たぶんよくある運動クラブならば口答えするなと言われると思うが、しかしはっきり言って私は即座に「ハイ」と答えるよりはいいと思っている。

これは私の貴重な体験であるが、昔学生の時、頼まれて学童保育のようなところでボランティアをしたことがある。
学童保育と言ってもハワイでの話である。本土はどうかわからないが、ハワイには学童保育みたいなところがあって、そこには韓国系から日系そして中国系に至る人種の子供たちが来て勉強したり、スポーツしたりしていた。私はそこでおもに韓国系の子供とサッカーをプレイして彼ら彼女らの面倒を見たのだが、外国で育った子供と言うのは個性が強く、そのアジア系のほとんどは英語(母国語)のほかに韓国語や中国語そして日本語などの言葉を話すバイリンガルやトライリンガルである。
中には非常にIQの高い子供もいて、こういう子供たちと接したことは、わたしにとって非常にいい経験になったと思っている。
たぶんこういう個性の強い子供たちに運動部のような上から押さえつけるようなやりかたは絶対に通用しない。偉そうな態度で命令したり、何を根拠に言っているのかわからないが、あいさつは基本だと言うようなことを言っても「なぜあいさつが基本なのか?なぜ大きな声でしないといけないのか?」と逆に質問されるのがおちだ、そしてもしお前らそこまで言うのだったら外国人と会話するのに共通語を話せと言われたらどうするつもりなのか。
こいつらの大事なことというのは、自分たちに服従させることである。
しつけや教育と称してアメとムチを使い分けるのも、まさに服従させることがまとまっていることだと勘違いしているからで、こういう短絡的な指導法では個性は絶対に育たない。
おまけに国際語も話せないような奴が、日本限定でそこだけでしか通用しない考え方を伝えてもついてくるのは、子分になるような奴らばかりで、正直日本のクラブと言うシステムでは個性の強い人間ははじかれるし、育たないと思う。

欧米の小学生はだいたい3つ以上のスポーツを競技している。
日本人にしてみればとうてい理解できないことであるが、しかしたいていの場合競技形式から入って行くので、3つ以上かけもつことは可能で、欧米ではこういう競技形式で気軽に参加してスポーツを楽しむことで、将来自分はどういうスポーツをするのかということを決めていくのだ。
しかしそれに対して日本はその選択肢がない。おまけにやりたいことを見つけろとか、目標を持てとか言われて、自分のやりたいことを決めさせられるようなところがあると思うのだが、しかしやりたいことを見つけろなんていわれてもそんなものはすぐに見つかるはずはない。
私は日本のクラブと言うのはスポーツではなく、軍隊や組に近いと思っているのだが、見ていてこいつら本当に楽しいのかと思うことがしばしばある。
たぶん楽しいと言う感じ方が我々とは違うと思うのだが、はっきり言ってなぐられたり、いじめられたりすることを思い出にしているのは日本の運動クラブぐらいである。
自分のやりたいことを見つけるためにクラブに入るということははたして正しい事なのだろうか?
子供と言うのはゆっくりと時間をかけなくては育たないと思う。
時間をかけてゆっくりと自分のやりたいことを決めたらいいと思うのだが、しかし残念ながら日本のスポーツにはそういう余裕のある育て方をできるシステムはない。







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