これはいじめに限らず犯罪の低年齢化や日本人の道徳観が崩れていく中で、生き方の座標軸として不可欠だということで出された案である。
しかしこれに対して私は意味がないと思っている。その雛形は外国の宗教教育にあるとしたならば、それは大きな勘違いであって、道徳と言うのは相対的で、外国人の言う宗教教育の絶対的な価値観に相反するものであるからである。
道徳と言うのは相対的であるので、ガイドラインを決めるのにはかなりおおまかなものになることを余儀なくされると思うのだが、もし道徳教育が教科化されて本格的に指導されても、ガイドラインを決めることは難しく、結局は授業も教員のやり方次第になってしまい。何を伝えていいのか、おそらく何をどう解釈していいのかわからない、各々が勝手な解釈をし言いたいことを言うだけの授業になってしまい、まとめることができないので、最終的には個性を認めるなどというおそまつな結果になるのではないかと思っている。
道徳の腐敗ということに関してだいぶ前に学校の教員が、犯罪が低年齢化したり、いじめのような見えないところで陰湿な犯罪がおこるのは、日本人の絶対的な存在や価値と言うものの存在がなくなってきたからだということを言っていた。
確かにそれは一理あるかもしれない。
昔は誰も見ていないけどそんなことをやったら神様が見ているよとか、時代劇で使う言葉で「お前らの悪事はおてんとう様がおみとうしだ」と今では死語であるが、そういう目には見えないけど絶対的な存在やあるいは自分のおやじなど、多くの日本人はこういう絶対的な存在をおそれて生きてきたと思う。
しかし今やそういう考え方は我々の生活の中では希薄になってきた。
子供が自分の父親に友達のように接するのは当たり前のようになって来たし、自分の父親をカジュアルな場で友達に出すときにあいつと聞いたときは驚いたのだが、こういうかたちで若い人が自分の父親に自分の友達のように接することは我々の時代と言うか、我々の文化では考えられなかったことであり、よくわるいことをした時にばれたらおやじに半殺しにされるとおそれたものであるが、おそらくこういうセンスと言うものが現代の日本人にはかけているのであって、そう考えれば宗教教育と言うのは、そういうセンスを喚起させるためにも道徳教育よりも今の日本には必要だと言えるだろう。
しかしここで日本には宗教教育が必要かと言うと必ずしもそうではない。
実際に宗教教育を行っている国が日本よりも犯罪が多く、うそを平気でつく人間がいるからで、はっきり言って宗教教育が今の教育に必要かと言えばそうではないからだ。
私が言いたいのは道徳や宗教教育のように押し付けられた規範や倫理ではなく、自分で考える力が必要だということだ。
この自分で考える力と言うのが今の日本人にはないのではないかと思っているが、その自分で考える力を養うためには哲学が必要だと信じている。
私はその教科にかに学校で道徳などと言う抽象的な教科を教科化するよりも、哲学を勉強した方が役に立つと思っているが、ソクラテスからはじまってプラトン、アリストテレス、そしてヴィトゲンシュタインやそれこそ今話題のサンデルに至るまで、世の中の原理や人間の生き方を彼ら彼女らから学ぶほうが、生きていく意味では必要なことを教えてくれると思うので、授業などで生徒たちのレヴェルや関心ごとに合わせて哲学者の書いた著名な本からいくつか抜粋して、そのことについて話し合って、その哲学者の考え方を学べばいいと思う。
例えば死というテーマをあげて、それに関するハイデガーやヤスパースの「Grenzsituation(限界状況)」などという考え方を紹介して話しあってもいいし、恋愛などの関心ごとにはEフロムやキルケゴールなどを参考しして話し合っても面白いと思う。
哲学書と言うのは書いた人が悩みに悩んで書いたも、読めば読むほど理解が深まるので、そういう世界に入って「何か」を考え、答えを求めることは若い人たちには必要なことではないだろうか?
道徳と言うのはかなり昔の事柄で、はっきり言ってそれが今の社会では押し付けと言うものに等しくなることがあるが、そういう押し付けではなくて、自分で物を考える力を養うことができる力を哲学を学んで養うことが必要である。
今は道徳教育で道徳崩壊の危機なんていうことを言っているが、政策に失敗して、景気が悪くなった時に、苦し紛れに道徳教育で清貧のすすめということにならないといいが。