脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

彼女の好物

2011-01-31 | Weblog
うちの留学生はもう日本に来て半年になる。
だいぶ日本語も話せるようになり、家での会話はほとんど日本語で、前まではアリンと呼ぶと「ハイ」だったが、最近では「何?」という返事になってきたので愉快である。
彼女には特に好きな食べ物が二つある。ひとつは「てんぷらうどん」今度うちのクラブの人に、おいしいところにつれていってもらうそうだが、このことを伝えたらよほど大好物なのか、連れて行ってもらえるのをかなり楽しみにしている。
そしてもうひとつは「牛すじ煮込み」これは焼肉屋で私が食べているのを見て、それを少し食べて以来、その味にはまってしまったのだが、食べ方もわかっていて、「牛すじ煮込み」はごはんといっしょに食べるのがおいしいことがわかったそうで、今では注文して先に「牛すじ煮込み」がきても、さきにそれに手をつけずご飯がくるまで待ってごはんといっしょに食べると言う通な食べ方がわかってきた。

よくうちの家には外国人がくるので楽しそうだという人もいるが、しかし私たちは、楽しもうとか刺激を求めてそうしているのではない、ただ自分が向こうにいた時にお世話になったからということと、私の親が外国人だったので、私も彼ら彼女らの力になれたらと思って、ホームステイなどを頼まれたら引き受けている次第である。
私は彼ら彼女らが、ここには遊びに来ているのではないと言うことを認識している。
特に白人系の人はちやほやされるので、そういう付き合いはなるべくしないように、そしてそういう環境になるべく身をおかないように釘はさしているのだが、ここでフランス語をヴォランティアでしているもの、ひとつはフランスの文化を伝えることと、もうひとつは、彼女がフランス語を教えることが日本人のために何か役に立てることのひとつであるからで、ここに来たのだからせめて何か日本人の役に立ってもらいたいからである。
この前も言ったが、彼女には私は「対等な付き合いができる人間を友達にしろ」と言っている。
やたらちやほやしたり、パンダのように珍しがるのはだめ、特に金髪や青い目がかっこいいとか、自分の目の色や髪の色に誇りが持てない人間に他国の人間を本当に尊重できるはずはない。
彼女は将来外交官になりたいと言う夢があるのだが、自分の意見をしっかり持って、対等に付き合える人間は、将来的にも大切な友人になれるからであって、ここでとりまきを100人つくるよりも尊いことだと伝えてあるのだが、そのことはよくわかっているようである。

彼女の夢は外交官だが、本国から新聞をダイジェスト版で送ってきてもらっている。
先日ある文を日本語に訳したいということで、その記事を持ってきた。「フランス語は訳せない」と言ったら、意味を調べてあとは英語を訳すようなものだから見てほしいと言うことを言ってきたので、少し見てあげた。
やってみるとなかなか面白いものだ、言葉もだいたい英語ににているので、そこから意味を察して、あとは英語を訳するようにつなげていくのだが、しかし訳していて意見が食い違うことがしばしばある。
どこが食い違うかと言うと特に前置詞のとらえ方である。
いっしょに訳していて分かるのだが、欧米圏の人間はこの前置詞を感覚的にも文法的にも、我々と違うかたちでとらえていることは確かである。
どう違うかと言うことは私がいっしょに訳していて感じたことなので、間違いがあっては困るので、あえてここで詳しいことは書かないが、しかし、最近はそういった前置詞の研究が進み日本でもそのような本が売られているが、日本人と欧米圏の人間では、この前置詞のとらえかたが感覚的なものも含めて違うことは確かなことである。

「何がお望みですか」を英語でどう訳すだろうか?
よくあるのが「What do you need to me」であるが、しかしこれは間違いである。
こういう間違いは特にアジア人に多いそうだが、正確には「What do you need from me」と訳す。
私にという要求が自分に向いていくからToでいいんじゃないのかと思うかもしれないが、しかしネイティヴというか欧米の人間の感覚やとらえかたは少し違うそうだ。
なぜToではなくFromかというと、ここでは自分がある事柄が要求されているわけで、その要求されている事柄が自分から離れていくわけであるから、Toをつかうと、逆にその事柄が自分にかえってくることになる。
その要求されている事柄は自分に与えられるのではなく、自分から離れていく、だからToではなく、分離をあらわすFromをつかうのが自然らしいが、このように我々と欧米の人間では実にこういう感覚の違いがある。
この「What do you need to me」の文は間違いであるが、しかし彼女とその訳で、意見が食い違ったのも、この感覚というかとらえ方の違いであると思っている。

私は専門家でないのでこういうことをいうのもなんだが、今英語の文法がとらえなおされてきている。
最近では前置詞や動詞などに関する本が出て来ているのが、おそらく文法ではこの前置詞に関する本が一番多く出されているのではないかと思っているが、私が中でもお勧めするのが、大西泰斗の「ハートで感じる英文法」である。
これは見事にそのネイティヴと言うか欧米圏の言葉を伝える時の感覚を表しているのだが、おそらくはじめて読む人にとっては目からうろこと言ってもいい。我々が英語を話していてつまずくのは文法ではない感覚である。おそらくこの感覚がわかれば、日本人にとって英語はもっと話しやすくとっつきやすいものになると思っている。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その髪型はあかんやろ

2011-01-28 | Weblog
うちには去年の夏からフランス人の留学生が来ているのだが、もうこちらに来て半年、日本の生活にも慣れて、今ではすっかり家族の一員で本人もそのことを自覚している。
この留学生だが最近はまっていることがある。それは弓道である。週2回ほどであるがある体育館で彼女は弓道をならっていて、実にこれがおもしろく、先生や環境などにもめぐまれているそうだが、なんでも今年の6月には昇級試験があってそれを受けるそうである。

そう言えば昔私の友達で大学時代にアーチェリー部に所属していた奴がいる。しかしアーチェリー部と言っても本気でやっているわけでもなく、同好会に毛がはえたようなものであるが、このアーチェリー部というのがわるふざけがひどくて、彼らは学校でも目の上のこぶのような存在であったそうである。
ある時このアーチェリー部でかけをすることになった。どういうかけかというと、1年から4年全員でミニマッチをしてまけた人間がモヒカンにするというかけである。
モヒカンといっても今では自己主張とか何とか言って、モヒカンにする奴もいてそうめずらしい髪形でもない。しかし当時はそんな頭にする奴なんてどこにもいないし、そんな頭で町を歩けば、みんながふりかえり、思いきり目立ってしまうような、そんなえげつない髪型で、おまけに彼らのモヒカンは、真ん中だけのこすというリアルモヒカンである。
そう考えれば誰がそんな頭にしたいと思うだろうか、この時誰もがそう思ったに違いない、当時は坊主と言うことすらも抵抗があった時代であるから、そのかけでまけてモヒカンにするということは死刑宣告にひとしいのである。
そして実際そのかけは某大学アーチェリー部で行われたのだが、そいつの話ではみんなモヒカンになってはたまらないと、全員かなり気合が入り、その気合いの入り方は半端じゃなく、試合以上の迫力と緊張感があったそうだ。
ここまでできるんだったら日ごろからやれよと思うのだが、しかしなんせ弱小でいたずら好きの集まるアーチェリー部、それができるのならはじめからやっている。みんなもう「ダ、イ、ガ、ク、セ、イ」なのだから。
結局このかけにまけたのが1年生の誰かであったのだが、彼は約束通り、罰ゲームの代償としてモヒカンにしたそうである。
しかしここで意外なことが起こった。なんとその1年生の親が「学校のクラブでそういうバカなことを命令するとはどういうことか」と学校にうったえて来たことが問題になり、彼らは廃部こそまのがれたが、学校の全トイレを1か月そうじするという、小学生並のかつてない処分が下されたそうである。

この話は彼が遊びに来ていた時に聞かされた話であるが、それにしてもえげつない話である。
確かにアメリカ人の冗談と言うのもえげつないが(時には乱暴でついてはいけない)、ここまで手が込んだいたずらというかわるふざけしない。わるふざけと言ってもせいぜいリングにあがってプロレスごっこをするぐらいであるが、誰もがスポーツをこういうバカなかたちで楽しくしようとは思わないからだ。

向こうは競争社会である。確かにスポーツが一般化されて、日本のように特定な軍団が幅をきかせているというようなことはないと思うのだが、しかしトーナメントなどでもレヴェルの高いトーナメントになれば、かなりの緊張感がある。
時々判定などで、選手の名前が有名だから勝つと言うことを聞くが、しかしここでは競争社会の原理が働くので、そういうことはない。ゴールデングラブに出場する人間が「優勝したら次は俺の首を虎視眈々と狙ってくる奴がいる。練習に気が抜けない」と言っていたが、とにかくここでは競争しなければ勝ち残っていけない、そう言う緊張感が常にあるのだが、そういう中で本当に頂点まで行く人間は、たとえみせかけでも自信を常にみせなくてはいけないので、時にはその自信を見せるのにビッグマウスになるのであろう。
以前あるジムにスパーリングに行った時にカベに大きく「winner takes it all」「double or nothing」という言葉が書かれてあったが、こちらではまけるとなくなるのではなく、すべてを取り上げられてしまう。この落書きには、そういう競争社会の厳しさが表れている。
これは私の意見であるが、学校やクラブでいじめまがいのような行為があると言うことは、本当の意味で競争を意識していないのだと思う。本当に彼らのように「次は俺の首をねらってくる」とかいう緊張感があれば、たかだか先輩や監督なんかにぺこぺこしないし、そういうバカないじめというかわるふざけはしないだろう。
私が感じている競争と言うのは個人レヴェルでの競争であり、おそらく縦社会で、ヒエラルキーを中心に考える傾向は、まだまだ個人よりもクラブのメンツを重んじるからであり、そういう監督や部のメンツばかりを考えていては、本当に生き生きと競技することができず、こういう競争社会と言うものを理解できないと思っている。
まあ私のようなたいした実績もない人間が単なる分析力と経験でここまで言うのもなんだが、しかしあながちそれは間違っていることでもない。むこうに行けば分かることで、こことの大きな違いは個人レヴェルでの競争であり、日本はその個人レヴェルでの競争がむこうにくらべてとぼしいのだが、その個人レヴェルでの競争の原理をもっとひとりひとりの競技者に促すことがだいじで、そのためヒエラルキーを解体する必要があると思っている。

最後に言うが私はこのアーチェリー部は存在意義があると思っている。
確かにかけをしてモヒカンにするのはえぐいが、青春時代だからゆるされるあるふざけであり、彼らにとったらこれもひとつの思い出だと思う。ただしモヒカンになった奴意外だが、名前をアーチェリー部からイタズラ部にかえるのもひとつの提案だ。




















  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3つのAbility

2011-01-26 | Weblog
先日うちのこどもがおもしろい話を教えてやると言う。
友達から聞いた話でガッツ石松の話だ。
彼はテレヴィの番組か何かに出演した時に、司会者がなにげなく、夜空を見て「北斗七星はどこにあるんでしょうね」と言ったのだが、ガッツは「俺はこのへんのもんじゃあないからわからない」と答えたそうだ。
まあほんとかうそかはわからないが、彼はこの話を笑いながらしていたのだが、友達曰くボクサーは少し間抜けだそうで、よくこういうまぬけなことを言うらしいのだが、たぶん今彼が絶対したくないスポーツはボクシングだと思う。

このうちのこどもであるがかなり個性的で、どう個性的かと言うと、とにかくわが道を行くと言うゴーイングマイウエイタイプである。
あれは保育園の時だったと思うが、リレーの予行演習があった。
そのリレーでは全員走るので、彼も当然参加して走ることになっていたのだが、その日彼を迎えに行った時に保育士がその彼のリレーの様子を冗談交じりに話してくれた。
うちのこどもは赤組である。
しかし紅組は白組に比べてさほど足の速いこどもがいなくて、前の予行演習でも大差でまけたらしく、その日も最初からかなり差をつけられていたそうだ。
実際その日も同じようにはじめから差をつけられていた。そしてうちの子にバトンがまわって来た時は、もうかなりの開きがあって、その差約50メートルぐらいであった。
50メートルと言えば我々から見たら微妙な距離だが、しかしこれぐらいのこどもから見ればかなりの距離だ、でそんな中彼にバトンがまわってきた。
そしてその差を縮めるためにいきおいよく走ったかと言うと、実はそうではない、走るどころかあきらめて、みんなが集まっているところに行って座ったそうであるが、みんなその時唖然としていたらしい。
おどろいた先生が、なぜ走らないのかと聞くと「このぐらいの差がついたら、どう考えても追い抜くことはできない、走っても意味がないから僕は走らない」というようなことを言ったらしいのだが、しかし勝つことができないからとか、無駄だと言う理由で走るのをやめるのはいけないことである。
そう思った私はかえってから彼と話をしたのだが、私が伝えたことは「最後まであきらめるな」とか「みんなに迷惑がかかる」と言ったことではない。たぶんそんなこと個性的な人間に言っても無駄である。
そして私が彼に言ったのは、自分の「Responsibility(責任)」をはたせということで、とにかくその自分が決められた距離を走ると言うことはそれは自分の責任なのだから、たとえまけていようが走らなくてはならない、それがあなたの責任だというようなことを言って納得させたのだが、おそらく今のように個性を大事にしようという時代は、他人に迷惑がかかるとか、最後まであきらめるなというよりも、自分の責任というものを意識させ、おわせていって、その責任を徐々に広げていくほうが成長につながると思っている。

私が子供に対する教訓として持っているのが3つのAbilityである。
このResponsbilityもそのうちの一つであるが、そのアビリティというのはAccountability(説明責任)Language abitity(言語能力)Responsibility(責任)である。
何も小学生にそんな大げさな言葉をつかわなくてもと思うかもしれないが、しかしこれらは自分が持っている方針でもあり、まずこのことに基づいてこどもの成長を考えている。

以前うちの子が学校でかなりくやしい目にあったことがある。
少し理不尽なことであったので、結局自分たちが間にわって事なきを得たが、しかし本人はそのやられたことに対してはっきりと自分の口で説明できなくて、最初はとりあってもらえず、結局そのことを私に言うことで問題を解決できのだが、しかし私は彼にはっきりとそういう理不尽なことに対しては、きちんと自分で何がおかしいか、なぜそれがいけないか、そしてそのことをまわりにきちんと説明できる能力を持つことが大事だと言ったが、なぜそういうことを言うのかと言うのは、それは彼が大人になった時に必要なことだからで、私は彼に将来何が正しくて何がわるいかということをしっかりと判断でき、そして正しいことは正しい、わるいことはわるいとはっきり自分の口で言える人間になってほしいと思っているからだ。

私の言うAbilityというのはまさに言葉の能力であるが、これらのことは能力がなければできないことで、われわれが考える道徳の範疇とは少し違う。
まあAccountabilityというのは少しおおげさでもあるが、しかし最近の子供にはある種のAbilityというものがかけていて、そのことを十分に教育されていないような気がしている。
特にお笑いやヴァラエティなんていうのは、言葉の乱用で、これこそAbilityを無視している。ただおもしろけりゃいいというだけだ。
よくお笑いは賢くなくてはできないというが、どこが賢いというのか、もし賢いとしたらずるがしこいだけで、人をバカにしたり、いじめの原因になるような言葉は慎むべきで、私は彼ら彼女らのうれりゃあいいという無責任な言葉の乱用がいじめなどを促していると思っている。
そして私が特に気になっているのが学園もののテレヴィである。その番組では型破りの教師がでてきて、教室を改革していくのだが、そこには必ず教育、教師イコール悪というような構図があって、それに立ち向かうのがチンピラ教師であるが、漫画ではチンピラやヤンキーが正義になるから恐ろしい、ここまでくればアンチ教育だ。こういうことがテレヴィによって刷り込まれていくのである。

英語において能力というのは往々にして言葉にかかわっている。
以前から言葉を大切にしない人間はダメだと言っているが、なぜ言葉を大事にしないといけないかと言うことはこのブログでもしばしな言及していて、一言で言えば言葉と言うのは影響力が大きく、その人の人格をつくるからである。またこれからの時代は意見をはっきり言わなくてはならない時代であるので、言葉の教育と言うのは大事なことである。
私はなるべくこどもにこの言葉をおぼえてその言葉を知り、言葉の責任をもたせようとしているのだが、持論かもしれないが我々が言葉を知ると言うことは、それは自分の責任につながってくることであり、人間は言葉をおぼえて、その言葉を用いる中での葛藤や選択において人格的にも精神的にも成長していくのだと思っている。
そして言葉を持つと言うことは、われわれのResponsibilityに深くかかわっている。
Responsibilityというのはラテン語でRespondere(応答)という言葉から来ていて、責任と言う言葉は言葉と深くかかわっているのだが、応答するためには我々は自分の言葉を持たなくてはならないし、そのためには教育が必要だ。
最近本屋に行ったら、よく経済や政治などを漫画にして売られている。わかりやすい経済とか、1分でわかる何々というような本がかなり単純化されておかれていることに気づく。
確かに単純化されることで理解されやすくなったのだろうが、しかし、若いうちは難解な本を苦労して、葛藤しながら読むほうが、ホントの意味で鍛えられるのではないだろうか。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それはお前だ

2011-01-24 | Weblog
最近書店に行くとたくさん哲学書っぽい本がならべられている。
ニーチェやアラン、この前は高校生にもわかる資本論なんていうのが出ていたが、こう言う本が売れると言うことは、時代の波に押されてもう少しロジカルに物事を考える必要を感じているのだろうか、はたしてこの混沌とした時代の中で何かを求めているからであろうか、とにかく最近そういう哲学関係の本がでていて売れていることは確かなことだ。
これは少し笑い話だが、だいぶ前ツタヤでレンタルするヴィデオを捜していたのだが、あるコーナーにヴィトゲンシュタインというヴィデオがあった。まさかと思って見て見たら、まさしくあのヴィトゲンシュタインで、よくわからないが「論理哲学論考」を映画にしていたが、一体誰があんなものをレンタルするのか不思議であった。

これは外国に行けばわかることだが、日本人に限らず東洋人は外国で友達をつくれないから、同じような仲間でかたまる傾向がある。こと日本人に関しては特にいえることであるが、むこうの語学学校に行ったのに、結局むこうで外国人と話す機会がなく、友達もできず、日本人同士かたまるので、帰ってきても英語が話せないと言うのはよくあることである。
しかし向こうで友達をつくれないと言うのは、何も習慣や文化の違いだけではない、私はそれ以上に物の考え方の構造やその違いによるものだと思っているのだが、日本人は欧米人に比べてものの考え方がロジカルではないと言える。
特に大学などのアカデミックな場では、欧米人は我々が考えている以上に論理的かつ合理的で、個人をを重んじる国であるから、よくある何々ちゃんレヴェルでの付き合いでは相手を理解することはできない、ノミニケーションという飲み会もそうだが、酒でも飲んで本音で語ろうというのか、おそらく欧米人は日本人のそういうそういうべたべたした荒唐無稽な付き合いがよく理解できないのだと思っている。

欧米人のものの考え方は合理的だ、付き合えばわかるが、彼ら彼女らはまず物事に対して原因や理由を求める傾向がある。
以前雨がそこに自分を行けなくしたと言う英語の表現から、欧米人は物事に対して理由や原因を求めると言ったが、そういう表現はいくつもあり、むしろそういう表現をするほうがに英語的には自然であり、日本人的にはそこがなかなか理解できないかもしれない。
ボクシングの練習をしていてもそうだ「なぜ」とか「どうして」ということをよく言うのだが、これは「見て覚えろ」とか「人の癖をぬすめ」というよりも、むしろ彼ら彼女らはわからなければ質問をするという傾向が強いからで、そういう意味では合理的でかつ、ロジカルに物事を考えている。
さらに単純に言えば彼ら彼女らの個人主義的であることと実存主義は深くかかわっている。
おそらく私は西洋人の意識が「集合体」から「個」と変化したのは、宗教改革後からであり、彼ら彼女らの個人主義を確立させて言ったのが、この実存主義によってもたらされたのだと思っているが、この世界において自分たちが主体的にかかわろうとするのが彼らのありかたであり、このかかわりが彼ら彼女らの自己主張につながるのだが、それに対して東洋思想というのはどちらかというと最終的にはものごとのありのままを受け入れていくと言う客体的な考え方が強く、そういう意味では主体的に自分たちがこの世界にかかわろうとする考え方とは違うのである。

専ら最近では昔のような村社会ではないので、そういう情や仲間意識でかたまるだけのレヴェルのつきあいは好ましくないことはわかっている。ここに入会してくる人も「自分はべたべたした付き合いは嫌いだ」とか、以前仲間意識の弊害について述べたことがあったのだがある人たちは、それを読んでここだったらということで来てくれた人もいるのだが、だぶんどこにいってもそういうことがあってそれでもやっていかなくてはならないことにうんざりしているのだろう。
しかし時代がすすみ合理性が求められる中、よく言うが合理的に物事を考えることが必要で、そのため哲学のような客観的思考が求められるのではないだろうか。

最後に少し前からモンスターペアレンッツというのが出て来ているが、こういう輩は仲間をつくりたがる。
暴走族や愚連隊と言うのはそうだ、その軍団は仲間意識が強く、ある意味家族的でもある。
だいたい昔から理不尽な奴と言うのは、情や勢いで集まって村社会をつくる傾向があるのだが、客観的に物事を考えられないから仲間で集まり、共感しあい、その共感し合ったことが正しいことだと勘違いして、理不尽な考えや理不尽なことを通そうとする、いわゆるこれが仲間意識である。
さらに問題なのはこういう人間に限って、自分たちが仲間意識で集まっていると言うことを自覚していないことであるが、自分で物事を客観的に考えることができない、その結果が仲間を集めて共感し合うのである。
私はスポーツクラブと言う場は「個」を大事にする場であるから、こういう考え方を否定しなければならないと思っているのだが、そのためにもこのクラブが情や仲間意識で集まるクラブではなく、公共性や平等と言うことをしっかりと合理性を持って考えたい。
情などというものはある程度本能的なもので、人間なら誰にでも持っているものであるが、しかしロジカルであると言うことは訓練によってもたらせるものである。人間情や仲間意識だけでは成長しない。特に若いうちはそうである。
ことわざに「鉄は熱いうちにうてと言うが、若いころから難しい本を読むと言うことは、非常にロジカルに物事を考えるための訓練になる。


こういうことを言うと「お前みたいな奴は外国に行け」と言う奴がいるが、しかしそんなことは言ってられない、外国人の参選権が問題になった今逆に追い出されるのは、自分の世界やその仲間内がすべてだと勘違いして、外に向かおうとしないほうかも知れない........

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファイトの出典

2011-01-21 | Weblog
ここ何か月前からだろうか、ダイエットに関する問い合わせが増えて来た。1月に入ってみなさん練習に来る頻度はすくなくなったのだが、しかしそれでも問い合わせや新しく入会する人もいて、来週にはダイエットであるが、6組の体験入門を予定している(予定ではあるが)。
しかし実際これだけ問い合わせが増えて多少の焦りはある。なぜなら私自身ダイエットに関してはまだまだ勉強不足であり、もっともっと勉強してその希望に応えなければならないからで、確かに30代以上が結果が出て来ているのだから、まあまあの成果をおさめているのだが、それに甘んずることなく、さらなる改善が求められるからである。

ダイエットというかウエイトをおとすためのエクササイズはもはや学問である。外国なんかでは専門家がいて、Sports science(スポーツ科学)に基づいたエクササイズが流行し、それぞれ一通りの成果を上げているが、食生活が杜撰になってきた今では、エクササイズは30代以上の人たちの関心があるのだから、そういう人たちの年齢や体力にあわせるためにも、従来通りのスポーツの概念では無理がある。
若かったり体力があればいいのだが、しかし年齢も30を越えていて、体力に自信がなければああいうはげしい運動にはついていけず、へたをしたらけがをしてしまうこともある。特に30以上になると運動部ののりでは、心身ともについていくことはできないいので、そういうのりで練習をされても、本当にそれが自分にあっているかどうかわからないだろう。
自分では若いと思っていても30を過ぎると限界を感じる、だからけがを予防するためにもある程度理にかなった練習の仕方が求められるのだ。

余談であるがよく学校の運動部で「ファイト」と言うが、あれはよくわからない。「ファイト」はもちろん英語であるが、欧米人は応援などでそういうことは言わない。
リポビタンDという宣伝があって、それはかなり昔から続いているCMである。そのCMのシーンで有名な言葉がある。
CMの舞台は山、二人の主人公がその山を走っているのだが、一人が足を踏み外してがけから落ちそうになる。そこでもう一人の主人公が落ちそうになっている友人の腕をつかみ、さあ引き揚げるぞと気合いを入れる時に「ファイトー1発」というのだが、その「ファイトー1発」というのはこのシリーズの決め言葉である。
たぶん苦しい場面や、気合いを入れろと言う時にファイトというのは、あの影響ではないかと思っている。しかしおもしろいのは、日本と韓国は言葉がよく似ているせいか、向こうでもファイトはパイテンである。

話はけがの話になるが、実際ここでも無理をして体をいためたケースがいくつかある。
私自身それ以上やるとけがにつながることを言うのだが、しかしはやくやせたい成果を上げたいのであろうか、オリーヴは社会人が多いので、まず命令するようなことはいえないので、本人がそれでもと言えば、よほどあぶないことでない限りとめることはなく、結局やりすぎて関節などを痛めると言うケースがいくつかあったのだが、しかし最近ではそういう例があったので、その例を踏まえて説明すれば、たいていは私の言葉に耳を傾け従うが、ボクシングと言うのは関節、特に膝を痛めやすいスポーツで、それをわきまえないで学校の運動部のようなやり方で指導するにはかなり無理があると思っている。

正直ダイエットや健康維持ということ(英語ではエクササイズであるが)を考えてボクシングに取り組むのであれば、ある程度の専門知識を学ぶ必要があるだろう。
もちろんここには専門のスタッフがいるし、私自身も最近ではかなり大量に本を買ってきて、只今学習中である。
そして学べば学ぶほ人間の筋肉の構造はおくが深く、ダイエットの難しさがわかるのであるが、ボクシングにおいてダイエットはけがの防止なども含めて、いろいろな意味で改善が必要である。
しかしこのダイエットに関して一言言わせてもらえば、日本人は人に頼り過ぎである。ことこのダイエットに関しては他力本願だと言っていい。
自分の体のことは自分が一番よく知っているのであるから、もっといろいろ自分で調べて質問すべきである。
私が参考にしているチョウダヨンは「エクササイズはうそをつかない、もし成果が出ないならばやり方が間違っているだけだ」と言ったが、ダイエットと言うのは学習しなくては見えてこないものもある。
それをボクシングでかたずけられたり、ホームページからぱくってきたような言葉で説明されて納得していてはいけない、そういうことを言うのは、たいてい学習能力がないからで、ダイエットなんていうのはもはや学問だから、疑問を持ったり、質問をすることは、自分自身の練習法を改善していくためにも大事なことだと思っている。
私がチョウダヨンのダイエットが優れていると思うのは、東洋人に合っているというのはもちろんのことであるが、あのダイエットの方法が失敗や疑問や自分自身の問いかけ(質問)というものを繰り返し完成させていったからである。
彼女は特に大学でスポーツ科学を専攻していたとか、栄養学を学んでいたと言うことを聞いてはいない、しかし彼女のダイエットの概念は学問的であり理にかなっているのだが、それは彼女がそのダイエットやエクササイズについて学び研究したからであると思う。
オリーヴが運動音痴や文科系大歓迎、そしてここには文科系が多いのも実は理屈を重要視しているところにもある。
体を動かすのも大事であるが、しかしまずその効率を考えてその理屈で考えるのも大事なことで、ただがむしゃらにいきおいにまかせて練習するよりは賢明である。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

えっ!お前売人だったの

2011-01-19 | Weblog
ディスカヴァリーチャンネルという放送局がある。昨日そのディスカヴァリーチャンネルで、ボクシングクラブを改造してリニューアルするというような内容の番組を放映していた。
所謂経営の危機にあるNYのボクシングクラブを番組で応援し、そのためそのクラブをリノヴェイション(リフォーム)するのが、その番組のおもな内容である。
番組でボクシングクラブの沿革を説明していたが、そのボクシングクラブはNYのスラム街の一角にあるそうで、おもにその周辺に住んでいるティーンエイジャーがそのジムの会員である。
しかし会員と言ってもそこではまずしい子供たちが多いので、ボランティアで教えているそうであるが、この付近に住んでいる少年や少女は悪い影響を受けることが多く、放っておくと彼ら彼女らが、悪い仲間に入るようになるらしい。
だから少なくともこのジムに来ていればそういう仲間に入ることはなく、悪い道にそれることがないからで、ここのトレーナーたちはそういう子供たちの将来を按じて、こうしてボランティアで、ボクシングを教えているそうだ。
そしてさらに素晴らしいと思ったのは、子供たちが学校から帰った放課後をほとんどそこで過ごすのだから、勉強などの世話もしながら子供たちの面倒を見ていて、そのスラム街にあるボクシングクラブを新しく番組で立て直すという企画であった。

そう言えばハワイでも同じような団体があった。
そこも実際ギャングに入りそうな不良がかった少年たちをボクシングを通して、そういう誘惑から守るというようなことをしていたのだが、確か私の親友であるピーターと言う台湾人は、そこで子供たちの勉強のお手伝いをボランティアか何かでやっていたと思う。
日本では不良少年の更生と言う言葉をよく聞く、がしかしここでは更生と言うことよりもむしろそのギャングの仲間に入る前から問題にしていて、ボクシングをするということは、そのギャングに入らないための対策であると言ってもいいだろう。
はやいうちからその芽をつんでおくというのだろうか、まさにそういう少年による犯罪が蔓延しているアメリカ社会を反映している姿であった。
ただおもしろいのはハワイと言うかアメリカは、一つの大きな体育館のようなところにリングやボクシングの設備がいくつもあって、そこにいくつものチームが集まって練習するのだが、当然そこにはギャングの構成員みたいな奴もいる。
しかし彼らも競技者であるので一応場をわきまえていて、ここでは真面目に練習に来ている生徒たちには手を出さないと言う暗黙のルールみたいなものがあって、とにかくここいて、どこかのチームに属していれば、そういう悪い人間たちの誘惑から身をまもれるのである。

これは余談であるが、日本人観光客とワイキキのレストランに行った時のことである。
友達のホテルからレストランに向かう途中、何やらどこかで見たような奴が立って観光客に話しかけている。
通り道なので近寄っていくと、それは私が時々行く体育館ででよく見かけるプロボクサーであった。
私は彼をよく見かけるので無視をするわけにもいかず、うっとうしいなと思いつつ「やあ」と声をかけ、わかっていたが「何をやっているのだ」と言うと、ビジネスだという。
だいたい何をやっているかということは察してはいたのだが、しかしそれ以上言葉をかわすと厄介なので「あっそうか」なんて背を向けて去って行こうとしたのだが、しかしその時「ここ(ワイキキでは売人から)ではパカロロ(マリワナ)は買うなよ、根っこの部分で使えないから、安くていいのを紹介してやる」というようなことを言っていたが、しかしそんなことはよけいなお世話で、誰がそんなもの吸うか。おまえこそつかまるなよである。

私のこのクラブの原点と言うかやり方は、このHIのクラブにあると言ってもいい。
実際子供たちにかかわる姿などを見て来たが、ここではそういうボランティア精神がしっかりと根ずいているのだろうか、そのボクシングを通して悪い誘惑から守るためだけではなく、本当に人間を育てようとする姿があった。
実際あるクラブは青少年たちに勉強なども教え、社会貢献などもしていて、いろいろなことにかかわり子供たちにもその参加を働きかけているが、本当にボクシングクラブと言うコミュニティーが、青少年たちに向けて正しい集団であろうとしていることは確かなことである。
そう考えるとなぜ私が仲間意識をさけ、悪い言葉や暴言などを使わないかということ、そして格闘技にありがちな「いてまえ」とか「殺す」「やらなくてはやられる」というような、漫画で覚えたような激しい言葉は使わないと言うことがお分かりいただけると思うが、何よりもここが社会的にも安心でき、信頼できる場として存在したいからである。
私はここでボクシングというスポーツにかかわって以来いろいろなことを体験できたと思っているが、ある意味こういうHIの裏側をこういうかたちで見ることができたことは大きいことであり、他ではできないかけがえのない経験であったと思っている。

実際私はそういう人間をたくさん見て来ているのだが、暴走族や外国のそういう集団を見て来て思うことは、うさんくさく、くだらない集団ほど仲間意識が強く、仲間を大事にするということである。そういうグループに属することで甘んじててはいけない。私は思うが協力したり、助け合ったりするということと、仲間であるということは別のことだ。
人間は公共性やコモンセンスそして基本的に何が正しいことなのかということを問う時、客観的な立場に立ってそれをみなければ見えないことが多く、ある程度それを知るためには学問が必要だ。
子分をつくったり、特定の人間とべたべたと仲間で固まってしたりしていては本当に何が正しいのか公共性について見えず、不公平が生まれると思っている。

指導する人は学ばなくてはならない。学ばない人間は群れるというのが、私のコーチの意見であるが、確かにそうだと思っている。本当に頭つかって考えれば人間群れる必要はない、しかしそれを情や勢いで集まって群れをなすのは、日光猿軍団のようなものだ。悪いがそういう連中が集まって手を叩いて喜んだり、やたらテンションが高くことあるごとに、ハイタッチのような仕草をしている姿はチンパンジーのグルーミングのようにしか見えないし、そういう連中がいくらボクシングや格闘技が強くてもそれは暴力の一つにしか見えないのだ。
さらに本当に何が正しいか、そして公平でありたかったら、学んで自分の言葉を持てというのは、私の恩師の言葉であるが、私は孤独であえて孤独を選んでいる。
誰とも特別仲良くするわけでもなく、試合に出場する人間たちを誘って飲みに言ったり、食事に行くこともない、とにかく群れることができない人間なのだ。しかし孤独であるゆえに客観的に物事を考えることができ、公共性や公平に物事を考えやすいと言うのは事実であり、だから信用できると言う人もたくさんいる。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

えっ!そんな名前だったの

2011-01-17 | Weblog
先日書いたハワイ研修であるが、大学生を中心に幼稚園や小学校、そして学童保育のような所を見学したのだが、そのツアー中に6歳ぐらいの女の子がいた。
彼女は私の恩師の奥さんになついているようで、学校見学ツアーにいっしょについてきていたのである。
彼女はアメリカ人のハーフで青い目をしていたが、一応両親のどちらかが日本人なので、日系人で日本語が話せる。
時々芋虫を見つけたりしたら「あっキャタピラだ」とか英語が出てくるけど、しかし基本的には日本語がべらべらで、普通に会話できる。
私は結構この子に気にいられていたので、流暢な日本語でいろいろと話しかけられていたのだが、話しによると日本にはおばあちゃんがいるらしく、彼女は時々そこに行くそうである。
さらに話を聞いてみると、彼女は小さい時(たぶん3歳ぐらいまでだと思うが)そこにいて、ちゃんと日本名があるらしく、日本ではそう呼ばれtれいるらしい。
それを聞いて、大学生が日本名は何と言うのと聞いたのだが、しかしそこでとんでもない答えがかえってきたのだ。
日本の名前は何かと聞かれて、すかさず答えたのは「ちゃかちゃんねーちゃん」
「はっ.....  いやいや名前だよ。名前はなんて言うの」
「だから私の日本名はちゃかちゃんねーちゃん だっておばあーちゃんの家でそうよばれるんだもん」
この名前に一同ドン引きであった。最近DQNネームなんて、わけのわからない名前をつける親がふえてきているが、まさにこれはその領域をはるかにこえている。もし彼女が日本国籍を選択していたら、間違いなくいじめにあうであろう。
しかしすぐに恩師の奥さんが、実はこの子はさやかという日本名があって、日本に行った時に向こうの家では「さやかちゃんねーちゃん」と言われるので、それをちゃかちゃんねーちゃんと聞き間違えているらしい。と説明してくれた。
こう説明されると思わずああそうかと納得するのだが、しかしもし本当に彼女の名前がそうだったらおそろしいことである。

以前も書いたがハワイと言うところはいろいろな人種、特にアジア人が多く、英語以外にも違う言葉を話すバイリンガルやトライリンガルはこの子だけではなく、当たり前にいて、彼ら彼女らはそれらを使い分けて話し、ここにいれば語学の重要性がわかる。
これは個人的な意見でよく言うことであるが、外国語を学ぶと言うことは、これから何をするにあたっても必要なことで、特にダイエットなどを指導するにあたっては、この外国語を読めるか読めないか、そしてその情報を英語圏からつかめるかつかめないかで大きな差がでてくる。

ここオリーヴではうまくいえないが、語学に興味があったり、語学ができる人がいるのだが、そういう人たちがいるだけでも雰囲気は違う。
ある教員が言っていた。その学校には最近国際科という学科ができたそうだが、その国際科の子供たちは他の学科の子供たちに比べて雰囲気が違うらしい、とにかく存在感がある何よりも話しやすいというのだ。
外国を意識すると言うことは、多様性を認める第一歩である。自分たちとは違った言葉や文化を持っている人間たちを意識し、交流していくことはとても大事なことで、こういうことが、人間を成長させる。たぶんそういう意味での存在感やキャパの広さを多少感じたのだろうと思っている。
ここは公共性を大事にし、多様性を認めるクラブであるということをモットーにしているのだが、とにかくここではいろいろな人の立場や目的を尊重すると言うスタンスに立っているのだが、その多様性を認めると言う考え方も、私自身も他民族の血をひいていて、他民族の文化を今まで受け入れて来たという経験と、個性を大切にする世の中、特にこういう社会人が多い集団には公共性を保ちまとめていくためには不可欠だと考えるからである。
しかしクラブがそういう方針でありえるのは、やはり彼ら彼女らが従来のものに固執せず、グローバルスタンダード的なものの見方ができる人が多いからで、やはりそういう考え方は仕事や学業を通して与えられたものである。
それがわるいとは言わないが、ここには上下関係や師弟関係と言ったようなものはない、また礼儀などと言う抽象概念は存在しない。なぜなら道徳や倫理と言うものは多様性を考えたら、それはバランスの問題で、この社会人が集まるクラブにおいての公共性や多様性と言うのは、運動部のヒエラルキーの中で語られる礼儀とは少し違うからである。

バランスとは言葉をおきかえるとコモンセンスのことである。
コモンセンスと言うのは、私がよく使う辞書Longmanでは「The ability to behave in a sensible way and make practical decision.」と書かれてあるが、所謂コモンセンスとは思慮分別のある行動ができ、実際的な(状況に応じて)判断できる能力を持つことで、そこにはバランスが必要であることがおわかりいただけるであろう。
ここは社会人が多く、どちらかというと、ここでは上下関係や礼儀と言うようなものよりも、このコモンセンスが求められる。会員の人はそういうバランスを持った人が多く、そういうバランスを持った人たちがいるからこそ、まわりは気持ちよく練習できるのだと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドリブルの皇帝

2011-01-13 | Weblog
アメリカ本土はどうかよくわからないが、ハワイには日本で言う学童保育のような施設がある。
わたしはそこにある研修の引率のようなかたちで行ったのだが、そこにはおもにアジア系の小学生たちがいて、両親が働いていたり、何らかの理由で家に帰っても誰もいないという子供たちが、放課後そこで宿題をしたり遊んだりしている
そこにはボランティアなどのアシスタントも入れて、だいたい100人ぐらいの人たちがいたのだが、私は一人の男の子と目があったので話しかけた。
「名前はなんて言うの」
「ホヨン」(なんだか偉そうである)
「えっ、えっじゃあ君はコレアンなのか?」「漢字はどう書くんだ?」と聞いたところ「虎英」と紙に書いてくれたのだが、驚いたことに漢字で書いても私と同じ名前で、こいつの態度が偉そうなのは少しわかるような気がした。
「何で自分がコレアンだと言うことがわかるんだ」というので「僕の知っている人もコレアンで、君はその偉大な人の名前と同じだ」と言ったのだが、そう言うと彼は得意げに語り出した「この名前は偉い人が多いからね。僕は将来がんばって勉強して会社の社長か外交官になる。ところであなたの名前は何か?と言うので「Okazaki Japanease」だというと「たぶん俺が偉くなったら日本に行くこともある」とかなんとか言うので「ああそうか」と適当に話を聞いていたのだが、これから友達とサッカーをするので、いっしょに来ないかと誘われた。
まだ時間もあるので、いいよと言ってその子供の友達何人かと近くのグラウンドのような所に出たのだが、彼らはこちらには親の仕事で来たということもあって、サッカーは、人気のあるスポーツで、暇な時はこうしてグランドに出てサッカーをしているそうである。
そしてその時みんな初対面ともあってひとりひとり自己紹介をしてくれたのだが、その自己紹介がすごかった。
何がすごいかと言うと、私は聞いてもいないのに名前を言った後に勝手に「俺はシュートの王者だ」とか「ドリブルの皇帝だ」とそれぞれが自分の得意技にかけてドリブルの皇帝とかキングとにたとえるところだが、いいかわるいかは別にして、こういう自己主張は日本人の子供はしないだろう。
実際遊んでいてもたいしたシュートでもないのに「どうだ俺のシュートはすごいだろ」とか「俺のドリブルをかわせるのは誰々ひとりだ」とかもう自画自賛、自己賛辞の世界で、3対3のミニマッチはまさに「天狗チーム」と「ピノキオチーム」対戦だ。
実際小学3年生ぐらいなのでたいした技術はないので、私がドリブルをかるくブロックしても「あっ足がすべったとか」挙句の果てには「今のはファウルだ」なんて言ってくる始末で、ここまでくればポジティブに物事を考えるというよりも、自分の失敗を認めないかたくなな奴である。
まあ彼らとはだいたい約30分ぐらいサッカーをして遊んだのだが、しかし彼らは一生懸命生きている中で、子供ではありながら、自分たちの生き方にプライドと言うか誇りを持とうとしている姿があった。
自分の失敗を認めない、何かのせいにする最悪な面もあったが、しかしプライドが人一倍強い彼らとの出会いは、私にとって印象深い出会いであった。

少しこじつけかもしれないが、モハメッドアリが強さの秘訣を聞かれてこういうことを言っていた。
「強い奴なんていない。強いふりをしているだけだ」
本当に強い人間なんて存在しないし、そう自信のある人間はいない。しかし自信のあるふりは誰にでもできる。人間窮地に追い込まれたり、大事な時にそれができるかできないかということは大きなことだろう。
私は思うが自画自賛と言うのはある意味、自分を信じることであり、それが自信にもつながる。
なぜなら根本的に弱くておろかな人間が、自分自身に本当に自信が持てるはずはないからで、ある意味彼らのような自画自賛、自分で自分をほめることは、不安で自信がないけれども、自分を信じようとするポジティブな考えで、人間は根本的には弱いんだと言うことを知りえた人間の特権であると言ってもいいであろう。
時々結果をだす選手が偉そうなことを言ったり、ビックマウスだと揶揄されることがあるが、ある意味彼ら彼女らはそれをアドヴァンテージにしているのかもしれない。
おそらく日本人に必要なのは、このはったりとも言える自信だろう。他の国の人間ができそうもないことを、自信満々にできるというのに対して、我々はいささか嫌悪感を持ってしまうが、しかし時には自信があるふりをするのは大事なことであり、こういう自信によって支えられるといことも時には必要なことかもしれない。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少し違う

2011-01-11 | Weblog
 今日あるコーヒーショップで本を読んでいると、隣に外国人の女性が二人座った。
それほど大きい声をだしていたわけではないが、二人はちょうど私の真横に座っていたので話している声が聞こえる。
私がNYにいた頃なんていっているので、どうやらアメリカ人で、二人とも英会話の先生をしている。そして話は英会話のクリスマス会か何かのことを話していたのだが、こんな感じだ。
A「ねえねえキャロライン(仮名)のところはクリスマス会をやったの」
B「ええ、やったけど、それが少し変なの」
A「何が」
B「生徒たちが楽しく集まってやったのはいいけど、でもみんなクリスマスが何の日かわからず、ある生徒は生徒はクリスマスはサンタクロースの誕生日だと思っていたそうよ。だからJESUSの誕生日だっておしえてあげたんだけど......」
しばらく沈黙して
B「What?」
A「その時彼が言ったの「Lets have Jesus」って」へへっ
B Speechless
私はこの時もう笑いをこらえるのに必死であったのだが、おそらくこの生徒はJesusの意味がよくわかっておらず、のりで「lets have Jesus」と言ったんだろう。しかしこれでは「Jesusを食べよう」というとんでもない失言で、もしこんなことを公の場で言えばたいへんなことである。
最近失敗を恐れるなとか、間違ってもいいからとにかく話せ、日本人はシャイすぎるということを言われ続けて来たからだろうか、いいのかわるいのか、いきおいとのりだけで話して、とんでもない間違いをする人間も増えて来ているらしい。
もうここまで行くと自爆の域にまで達しているが、だいぶ前もLAのホテルでいきなりホテルの電気が停電になって、何が起こったのかとフロントまでいくと、ある日本人観光客の若い男が、フロントの人間にむかって停電のことをうったえているのか、しきりに「Black Black」とでかい声で叫んでいたが、もしフロントの人が黒人だったらどう説明するつもりだったのだろうか。

私も実際英会話の教室をやっていて感じることは、日本人は親切で、非常に好かれやすい性格を持っている。
しかしこと人種や宗教のことになると無知である。
ホテルやサンタクロースの話はその無恥さゆえの失言で、こういう問題は時には失言ですまされず、人種や宗教の問題は外国では非常にデリケートな問題であるのだ。

日本人の外国人に対する付き合い方のメンタリティーは、まだまだ戦後から脱却できていない。
戦後のメンタリティーとは、所謂まだ憧れ的な目でで外国人をみているということで、よく外国人のとりまきになったり、金髪や青い目がいいと言って、やたらそういう人たちを持ちあげる人たちがそうであるが、とにかくいっしょにいることがアドヴァンテージになると思っている人も少なくはない。
私自身も外国人が家に滞在した時に、いろいろとお誘いを受け、いろいろとよくしてもらっている。
時には私自身がおまけではないかと思うこともあるのだが、本当にみなさんよくやってくださるのでたいへんありがたいことであるのだが、時々その行為は行きすぎとさえ思うこともあるのも事実である。
ある時留学生にこう言ったことがある。それは彼女があまりにもたくさんの人からよくしてもらっているので言ったのだが、こうだ、「日本人は外国人が珍しく、特にあなたのようなフランスから来た人間には興味があるので、みなさんよくしてくれるけど、しかしそれが本当の付き合いだと思ったらだめだよ。多くの人はフランスやヨーロッパにあこがれているので、ともすれば取り巻きのような存在ができる可能性もあるけれども、しかしそういうところにいごこちを感じて、どっぷりつかったら自分を見失ってしまう。本当に大切なのは自分に本当に必要な友達を見つけることで、ちやほやすることとはちがうことなんだ。だから日本人でやたら金髪にあこがれたり、青い目にあこがれたりする人間、中には金髪になりたいとか、金髪と結婚したいと言う人がいるけど、しかし私がもし君の立場だったらそういう人間は信用しない。なぜなら自分の髪の色や目の色肌の色に誇りをもてない人間、自分の民族を誇りに思わない人間が、他の民族を大切にできるはずはない、自分の肌の色や髪の色、目の色を否定していること自体偏見のはじまりで、本当に大切なのは、そういう居心地のいい場所にどっぷりつかるのではなく、はっきりと意見をぶつけあうことができる友人を捜すことだ。そのために一生懸命日本語を勉強するんだ」。
しかし私は基本的にこの宗教や人種の問題を知ることをぬきにしては、本当の意味で意見をぶつけることができないと思っている。
日本人は人種や宗教のことについてよくわかっていない。たぶんよその国で自分の神の色や肌の色を理由もなしに否定できる人間なんていないだろう。それだけ自分たちの人種には誇りを持ち、それが原因で民族戦争など起こるのであるが、そしてその人種を確固たるものにしているのが宗教であるのだが、われわれはそのことをよく理解し、認めなくてはならないのだ。
しかしこんなことを言ったらナチスはどうなるのだとわけのわからないことを言うのがいると思うが、しかしここでいう自分の肌の色や目の色にほこりを持つと言うのは、ナチスや国粋主義(便宜上う使うが)のように他者と分離して自分たちの優越性を認めるのではなくて、人を愛するにはまず自分自身を愛さなくてはならないと言う心理学的でかつ基本的な事柄である。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリーヴに言葉ありき

2011-01-06 | Weblog
幼児期や子供の成長期に本の読み聞かせは、言語発達を促す重要な作業であることが何年か前から言われ続け、最近では朝の読書など実践している学校があるそうだが、しかし最近の研究では少し見解が違うらしい。
これはUCLAの研究グループの研究結果であるが、彼ら彼女らが言うには、子供の言語発達をうながすのに有益なのは読み聞かせなのではなく、大人との会話で、大人と会話することが言語発達に大きな影響を与えるそうだ。
実際に彼ら彼女らは4歳未満の子供たちを275家族を対象に18ヶ月間その子供のまる1日の生活内容を記録してもらったそうであるが、その時大人との会話が子供の言語発達に関連しているということが明らかになったそうである。
確かにそう言われてみればそうかもしれない、心理学的にも子供と言うのは模倣によって成長していくのであるから、この大人と会話しつつ言葉をおぼえていくと言うこともある種の模倣であり、この機会を通して子供は多くのことをおぼえて行くのである。
実際ここにも子供たちが来ているのだが、そう考えると自分たちの役割と言うのは大きく、子供たちとは練習以外でも学校のことやその他のことについて話すことが多いのだが、なるべく彼ら彼女らの成長になるような言葉をつかわなくてはいけないのだろう、オリーヴは言葉に気をつけていると言うことは、実は子供たちに対する配慮でもある。

ここでは乱暴な言葉は使わないときつく言っているのだが、乱暴な言葉を使ったり、指導者の語彙力が低いと言うことは、間違いなくその集団にとって弊害になるからで、特に我々のように社会人の多い集団にはそう言うことが必要である。
乱暴な言葉をつかうというのは言語道断であるが、指導者の語彙力や表現力が乏しいというのもここオリーヴでは問題である。
語彙力が低いのはもともと持っている教育レヴェルもあるのだが、しかしそれでも人に何かを教えると言うことは、言葉を交わすことであるのだから、自分の言葉や表現の壁に突き当たった時に、辞書などをひいて言葉をおぼえると言うことは必要なことではないか。
よくボクシングの指導などで人に考えろと言う人間がいるが、しかし人に考える前に、自分が考えなくてはならないことは当たり前のことで、私の意見では本当に考えているのなら、言葉や表現などに突き当たった時に、辞書が必要になるのは当然のことだ。
なのに辞書も引かない、持っていないというのは実際に考えていないと言われても仕方がないであろう。
本当に人間としてその集団の質やレヴェルをあげたかったならば、それを指導しているものが言葉をおぼえ、本などを読んで知識を蓄えることが大事なことではないだろうか。
私などはこう見えても1日に5回は電子辞書をひき、その辞書も実際にはどこに行くにも携帯している。
よく人に1日5回以上も辞書をひくなんて本当かと聞かれるが、しかし辞書を引くのは最低でも5回であって、本当に何かを考えていたら、意外と知らない言葉やあいまいなことばに突き当たることは多々ある。我々は意外と言葉を知っているようで知らないのだ。
言葉と言うのは非常に大事である。西洋哲学では言葉を「ロゴス」と言って、それは命や力を表すものだが、私はその集団の質をあげるのは言葉であり、その指導者の語る言葉の質が高ければその集団の質も高くなってくると信じている。
昔この西洋哲学のロゴスと言う言葉を「かしこきもの」と訳した日本人がいるが、当たり前だが言葉と言うのは知恵の源泉であり、われわれが成長するにいたって物事を知る上ではかかせないものである。
ここはボクシングだけではなくフィットネスという言葉を使っているぐらいであるから、目的はボクサーを育てる集団ではなく、ボクシングを趣味としてはじめる人たちの集まりである。
だからそういう面を大事に考えていかなくてはならないと思っている。

これに対してよく礼儀とかあいさつを強調する人がいるが、しかしこれらのことは暴走族ややくざでも実践している。
私はあいさつをすることを否定する気はないが、しかし問題なのはなぜあいさつをするのか、そしてあいさつとは何かということの根本的な意味を知ることが大事で、おそらくあいさつとか礼儀と言うことを強調する人間に限って、よくわかっていないと思うのだが、このあいさつとか礼儀の根本的な意味も知らず、ただそれをやくざや暴走族にみられるヒエラルキーの原理よように用いられていることが問題だといっているのだ。
よく運動部でわけのわからないあいさつをするのがいるが「チワーッス」とか「チーッス」というのが挨拶なのか。
「チワーッス」とか「チーッス」と言ったたぐいのものはあいさつでもないし会話でもない、通信だ。しかしこういう言葉でもでかい声をだして、相手に服従を示すものであれば、礼儀正しい奴と理解されるのである。
だからもしこのあいさつとか礼儀と言うことを強調したかったら、自らもこのことについてよく知らなくてはならない。
せめてある程度敬語を理解し、その礼儀とかあいさつという概念についてよく理解することが大事なのだが、しかしはたしてそういう人間がいるだろうか。彼ら彼女らにはそういう考えはなく、ただ上から言われてきたからそれをやってきたというだけで、せいぜい目上の者に服従の姿勢を見せ、でかい声で通信するぐらいである。

人間の集まる集団には知性は不可欠である。
その集団の質をあげ雰囲気をよくするには、指導する人が知性を磨いて十分な会話ができることを心がけなくてはいけないと自分にそう言い聞かせている。
人を育てるのは言葉である、その言葉をどう用いるかは、その集団をまとめる上で大事なことであり、特にこどもには十分に配慮しつつ接していかなくてはならないと思っている。

笑い話にもならない話だが、最近の子供は意外と言葉を知っている。だからこういう指導者が言葉を知らなかったり、常識的な事柄を理解していなかったりすると間違いなくなめられる。

半分冗談だが、私は人間のコミュニケーションを「会話」と「通信」に分けている。
会話とは話す言葉を理解し、お互いのコミニケーションをとることだが、しかし通信は違う、通信とは、さっき言った勢いだけのあいさつや、やたら盛り上がってハイタッチなどをすることとなのだが、そういう感情的な盛り上がりで人間の絆を深めようとするのが単なる通信や伝達で、広く言えば漫画のような言葉で感動させようとするのも通信であるが、私は言葉を大事にしない集団と言うのは基本的に信用できないし、そういう集団にいたら本当の意味で成長は見れれないと思っている。
会話とはお互いが言葉を理解し考えることで、お互いを高め合う人間だからこそできるコミニケーションのはかりかたである。
特に通信と言ったのはテレヴィなどの言葉をそのままうけて、何も考えずに付和雷同する人間に対するアイロニーである。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする