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脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ペッコプインサ

2012-02-29 | Weblog
会員の人がジムの壁を見て言っていた。
ここ世界地図が貼っていますね。
普通だったら壁に大きく全国制覇とかそういうたぐいの言葉が掲げられているのだろう。たぶんなぜ世界地図を貼っているんですかと言う含みも込めて行ったのだと思うが、しかしここにはそういうくだらない根性系の言葉にあわないしにあってはいない。
ただ子供や若い人にグローバルな視点を持ってほしいと言う願いで、一応子供でもわかるように子供向けの世界地図を貼っているのだが、グローバル社会で学力重視の時代に、いくらボクシングで全国制覇しても、勉強を無視して生きていたら。頭の中身は淡路島も制覇できないだろう。
たぶん今運動系がはやらなくなってきているのは、やくざ社会とおなじである。暴力団を取り締まる法律が改正されやくざの世界も力だけでは生き残れないように、社会も企業などで英語が共通語になりつつある今は、いくら根性があるとか気持ちが強いということを強調しても学力をのばさなくては通用しない、そういう時代になって来ているのだと思う。

話しは礼儀の話しになるが、朝鮮の伝統的なあいさつにペッコプインサというあいさつの仕方がある。
正式名は忘れたが俗名ペッコプインサ「おへそのあいさつ」一般的にはしばしば行われているあいさつではないが、しかし小学校から中学校ぐらいまでは、道徳の時間に先生から教えられる両親など敬愛する人に対して行われる非常におくゆかしい伝統的なあいさつの仕方である。
あいさつの仕方ははっきりとはおぼえていないが、男は左手を上、そして女性は右手を上にして、その手をへその上においてふかぶかとお辞儀をするのだが、おそらくそれは民俗村などに行くとひんぱんにみられるのだろうが、しかし今では一般的ではなくなりつつあるお辞儀の仕方である。
おそらく日本にもこういうあいさつの仕方があると思うのだが、正直あいさつというのはおくゆかしいほうがいいと思う。
私もハワイで韓国人の女性からパーティの帰りにありがとうという意味で、このお辞儀をされた時なつかしさがこみあげ、その女性に対しておくゆかしさを感じ、思わずかしこまってしまったほどである。
私が思うに運動系の奴らの罪は、敬語とあいさつを冒涜したことである。
彼ら彼女らは敬語やあいさつを正しい言葉や姿勢を重んじるよりも、服従と気合いを重んじとにかく間違ったあいさつの仕方でも先輩に気にいられれば礼儀正しい奴とみなされるが、彼らが使う言葉はかなり乱暴であるし、根本的に間違っている。
チワーッス、アアシタというのは何なのか?
ありがとうございましたと言っているのだろうが、私にはアアトアシタとしか聞こえない。
別に敬語を使おうと使わないと勝手なのだが、問題は言葉を冒涜していること。
中にはこういう間違ったことばを教えておいて、礼儀やあいさつにこだわる顧問や責任者がいるが、しかしそいつらが正しい敬語や正しい言葉を使っているか疑問である。
それは外部からの電話の応対を見ていたらわかると思うのだが、そういうことにこだわるのならきちんと敬語が使えているのだろうか?よく見てやればいいと思う。
前にも言ったが礼儀が正しいと言うことは、私は日本語や言葉を正しく使うと言うことと深く関係していると思う。
日本語と言うのは正しく使おうとすればするほど相手の立場や、相手の気持ちを慮るものである。
遠慮と言う言葉は日本語独特の言葉であるが、これは言葉にも表れていて、敬語と言うのはある意味相手を自分より少し距離を置くことでなりたつ遠慮のようなものだと思っている。
この距離感と言うのは英語でも韓国語でも相手に対する尊重を意味する。
例えば「What was your name again?」のように英語では過去形にすることで相手との距離を置いて表現を婉曲に表現しているが、このように敬語のない英語でも距離感をもって相手に尊重を示している。
さらに韓国語でも名前を聞く時二通りある。
ひとつは「イルミムオエヨ?」名前は何ですか?しかしこれは厳密に言うとおじいさんなどの年上の人に直接名前は何かと聞くと少し失礼で、かしこまって聞く時は「ソンハミ オットケテセヨ」これは直訳すると名前はどうなりますかということで、簡単に言えばどう書きますかと、たかだか名前を聞くのになんだか遠回しすぎるように思えるが、しかし韓国語の敬語にもこういう風に距離感をもって相手に遠慮するという姿勢が見られるが、彼らのようにでかい声で叫ぶと言うのは、ただ単に自分たちの存在をうったえているだけで、ただ上下関係だけを重視した意味のないしきたりはグローバルスタンダードから解釈してもブーッで言語道断である。

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HUSH!

2012-02-27 | Weblog
ここにはいないが時々ボクシング経験者で人に教えるときなど、滑稽なことを言う奴がいるが、こういう奴はHUSH!だ。
どういう奴かと言うと言っていることはわからんでもないのだが、国語的におかしかったり、学問的におかしいことを言う奴である。
最初私が驚いたのはパリングがパーリングになっていること。
ジムでパーリングやパーリングという言葉を聞いたが、最初何のことかわからなかった。
あげあしとりかもしれないが、もともとパリングは英語の「parry」よけるとかそらすと言う意味から来た言葉で、パリーの動名詞であるからパーとは発音しない、しかしにもかかわらずほとんどの人間がパーリングと言っていたののあるが、普通誰かが気づいておかしいと感じてもいいと思うのだが、こういうことひとつとってみても語学に疎いスポーツであることが理解できる。
またある時はオーケストラの集団でもないのに「シャドウで山場をつくれ」とか、パンチをこううったら自然にもどってくるなどというような物理学を超えたほぼ超能力に近い解釈は、何を目指しとるんだと理解に苦しむが、こういうことを言う奴に限って考えろとか感じろと言うのだが、ある意味矛盾している。

前にあるよそのクラブに行っていた人間がこういうことを言っていた。
彼は練習でこぶしをいためることがよくあるそうで、そこで教えている人間に「よくこぶしを痛めるけどなぜなのか?」聞いたそうだ。
彼が言うには、こぶしをしっかり握っていないからこぶしをいためてしまうそうで、もっとしっかり握ってうてともっともらしく言われたそうだが、しかしなぜか納得できなかったそうである。
しかし彼はまたここでこぶしを痛めたときに私に同じことを聞いてきた。
それでなんといったかと言うと「俺は医者じゃないからわからない」と言ったのだが、彼はもともとスマートなのでこの言葉ではたと気づいたらしい。
よく知らないくせに知ったようなことを言う奴がいる。
こぶしのケガや人体のことはまさに医学のことで、こういうことをあたかも自分の物差しでこうだと決めつけてしまうことに程度の低さを感じたらしいが、だいたいよく考えたら握れるグローブなんかあるのか?
最近は人間工学的に安全性を考えて握りのあまいつくりになっているので、しっかりと握れるはずはないと考えているのだが、おそらくこぶしを痛めないうちかたというのは握りではなく、ヒットポイントにあると私は見ているが、むしろ「俺は専門ではないのでわからない」と言われて安心したそうである。
考えるということは注意力と分析する力がなければできないこと、ケガや人体的な問題は英語のガイダンスを見たらある程度書いているが、しかし専門的なアドヴァイスとしてはとぼしい、こういうことからもわかるように答えれる質問と答えられない質問があるのだが、分析する力が養われていないと杓子定規に自分のフィールドだけで物事をとらえ、考えて、適当なことを言ったり滑稽なことを言ってしまうのである。

以前すべてではないが格闘技を競技する人間は負の力が強いというようなことを言ったが、格闘技にはそういう負の力をエネルギーにしていく要素がある。
ある種のコンプレックスを力に変えていって、上にのぼりつめていくのであるが、このルサンチマン的パワーが時には称賛されるのがボクシングである。
しかしそれは一昔前の話で、今こういう考え方はあまり通用しない、ここはそういうルサンチマンを持った人間が、レゾンデートルをもとめて来る場ではなし、、何かあるものを実現する場ではない、趣味としてボクシングをたしなんでいるわけで、ストレス発散程度である。

少し解釈を変えるが、韓国のことわざにこういうことわざがある。
「天才は努力するものには勝てない、しかし努力するものは楽しむ者には勝てない」
人間はそのルサンチマンをこえてニーチェがいう超人には決してなれないし、コンプレックスは決して乗り越えることはできない。
にげるな、いじをみせろとそんなとこで追い込まれて意地になって何がおもしろいのか?
おそらくそういうことを言う奴の求めるレゾンデートルなど意味がない、所詮自分がもっていないから持っているものへのねたみやうらみつらみであるが、健全な場で、肝心なものがかけている人間が野心を持つことは危険である。
漫画のカイジのその他一同のような集団が、社会でかしこいのと勉強でかしこいのは違うとまさにルサンチマンを代表するような言葉で、負け惜しみのごとく言うのをよく聞くが、ひどい奴になると人に教えるどころか自分がいかにすごいかと言うことを表現しているだけなのだが、言葉や考え方に注意しないとこういう奴らが集まってくる。
人間はルサンチマンを超えてニーチェの言う超人にはなれないし、コンプレックスから100%解放されることはない。
しかしもし今与えられた時間と言うものを有意義に使うことができたならば、少なくともそのことを忘れることはできるのではないか、そしてその積み重ねが人間の活力となるのだと思う。
以前韓国語のサルマシナンダ(生きている味がする)ということを言ったが、韓国人は何かいいことがれば「サルマシナンダ」と言う言葉を使う。
たとえばテストでいい点をとった時、思いがけない収入が入ったときちょっとした喜びを表現するときにサルマシナンダと言うのであるが、我々は日々それを感じて生きることができるから、幸せだと言えるのではないだろうか。
私はここで体重が減ったとか、少し上達したとかいいことがあった時そういう小さなことでもサルマシナンダを感じてほしいと言う願いがある。
そのことを感じてもらうためには、くだらないストイックな考え方やそういう意地は捨てたほうがいい、そしてそういう場であるためには、杓子定規な考え方ではなく、もう少し幅広く考えて運営していかなくてはならない。

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intercultural understanding

2012-02-24 | Weblog
サッカーの本田選手は時計を両手にしているらしいが、あるインタヴューでなぜ時計を両方にしてるんだということを聞かれて「えっ時計って片方だけって誰が決めたんですか」といったらしいが、私はそれを聞いてもっともだと思ってしまった。
サッカーにあまり興味はないが、私はどちらかというとスポーツ界で興味がある人間はサッカー選手に多い。
なぜなら彼らは自分のフィールドを日本という狭い場所に置くのではなく、ヨーロッパやその他の国で活躍することを願っているからであり、そのため言葉をおぼえて他の文化を吸収する力があるからである。
そういう意味では彼らは常にチャレンジャーで、そういう意気込みはどのスポーツよりも強いように思える。
それに対して以前あるボクシングの人が俺がボクシングの歴史を変えるということを言っていた。
でもその時「変えると言っても英語が話せるの?」「そういう言葉を持っているの?」と思ったのだが、結局その人はお笑いにいじられていたと思う。
言葉というのは非常に大事である。特に海外などで競技するためには英語は絶対に不可欠であるし、今や何をするにも最低ブレーインの一人は英語が話せなくては通用しない時代だ。

だいぶ前ボクシング同好会を作ることで相談にのったことがある。
その時英語が読める人間を顧問におけというアドヴァイスをしたのだが、それは英語で文献などの情報を集めるとはっきりいってその人間がたとえボクシングの経験がなくても、すぐにそのハンデをうめることができ、本気で読み漁れば、かなり力を発揮できると思っているからである。
はっきり言って日本の保守的なスポーツクラブは時代錯誤で、競技者中心のクラブではない。
私から見ればスポーツ選手製造工場で、基本と言って同じことをやらせすぎる。アメリカなどは個性重視でその個性をどう用いていくかということがコーチングの課題であるのだが、おそらくむこうの人間に基本だと言って同じことを徹底させれば、まちがいなくついてはこなくなるであろう。
向こうは小さい時から同じスポーツをさせることはない。
だいたい平均的に小学生なら野球やサッカーバスケットボールなど複数の競技をかけもっていて、競技も実戦形式から入るのが当たり前で、そこでスポーツを競技することの楽しさを学ぶのが欧米のスタイルである。
私は正直日本の運動クラブにある種の疑いを感じているのはこの点であるが、特に基本とか言って小学生に素振りなどを徹底させるのは洗脳に近いように思えるからである。よく子供にボクシングをさせるなというのは、こういうシステムだと子供がはまりやすいし、そういう点に於いては、欧米よりも危険度は間違いなく高いからだ。欧米の場合は他にも選択権がたくさんあるし、必ずしもその競技にたいしてどっぷりというわけではない。
しかし日本のシステムだと、ひとつのことを一生懸命やるのが尊いことだと教えられ、半ば洗脳のような指導をするので、それがすべてだと猪突猛進に同じことを来る返すのだが、選択権を与えないシステムで、予備軍を作るのはいささか人権を無視している。
率直に言って、もう少し人権というものをグローバルスタンダードで学ぶ必要がある奴はこういう世界にごまんといる。
たぶんそういう奴らにこういうことを言ってもわからない。
そういう奴らは往々にして語学に疎いと思っているのだが、おもしろい話がある。
それは教育学の話であるが「生徒指導」という言葉がある。
これを英語にどう訳すかということであるが、たぶん文化科学省などはこの生徒指導という言葉を英語に訳す時に「student guidance」と訳すと思う。
確かNHKの英語のニュースでもそう訳されていたと思うのだが、しかし英語圏ではそうは言わない。
生徒指導という言葉を彼ら彼女らはどう訳しているのかと言うと「student control」もう訳さなくてもこの言葉がどう響いてくるかということがわかるのだが、ここに人権とか自由のとらえかたの違いが顕著に表れているのだが、これはまさに今のスポーツ界にもあてはまることである。
私の感想ではクラブに入ると、それがすべてで選択権がなくなる。ひどいところになると勉強すらする時間も与えないのだが、こういうクラブは人権を蹂躙しているといえないのだろうか。
いくら強豪チームであっても高校生や中学生であるならば夏に「夏期講習があるのでクラブにこれません」とか「夏場はビーチバレーをやりたのでそっちに行きます」というのもありだと思う。
それをやれ全国をめざせなどとニンジンをぶらさげて煽るのは問題だし、そういうシチュエーションをつくりあげるシステムと言うのにもかなり問題がある。
ルースベネディクトが「菊と刀」で日本人は方法論よりも心の在り方すなわち士気を高めることを重要視すると言ったが、その士気を高めようとするゆえに雰囲気にこだわるのもひとつの問題点で、結束がかたければかたいほど独特の雰囲気をつくるのだが、それが俗にいうかたまるである。

赤信号みんなで渡ればこわくない。という日本人にむけたアイロニーがあるが、同じことだけをやっている世界ではそれが当たり前になり、ほかの常識など見えない。
聞いた話によるとある運動選手は分数ができないと言っていたが、普通こういうことは一般の社会と比べたらおかしいということがわかるのだが、しかしそういうシステムにのっかれば、それだけをやっていれば認められるののだが、そういうシステムがあるからスポーツバカが生まれるのだが、こういう奴はごまんといる。
その中でもボクシングは危険だ、特に日本人はひとつのことを一生懸命やるのが尊いと教え込むので、そういうシステムにのっかり子供のころから頭をなぐられつづけたらKing of sportsバカになってしまう。

Kpopが少し前からヨーロッパの市場に進出してきている。
うちのフランス人の留学生の誕生日に好きなKPOPのCDをプレゼントしたのだが、KPOPはアメリカではsosoらしいがヨーロッパではかなり人気があるらしい。
それに比べてにJPOPは日本と比べていまいちであるが、たぶんこれは戦略の違いがでていると思う。
たぶん韓国は自国ではパイが小さいので外に出て行かなくてはいけないということで、言語や歌の質やレヴェルなどをグローバルスタンダードで国家がらみで通用するように努力しているのだが、これは先進国で小国(と言ったらおこるが)が生き残っていく方法で「国家がらみで?」と非難する人間もいるが、しかし私はこういうやり方もありだと思っている。
スポーツにおいて日本は小国と言ってもいいだろう。
特にアマチュアボクシングなんかは小国の小国、日本でいえば小豆島以下かもしれない。
そしてもし小国が大国にかわるためには、自分たちの基準をグローバルスタンダードにあわせるべきだと思う。そのため英語は不可欠だ。



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Am I mentalist?

2012-02-22 | Weblog
前からはまっているドラマに「The mentalist」というドラマがある。
これはもと有名なインチキ自己啓発者であるジェーンパトリックというあやしげな男がある事件をきっかけに、CBIに加わって捜査に協力しながら、その事件の真相をおっていくという物語である。
「mentarist」という言葉はおそらく正確な英語ではない。心理学者を表す言葉に「phycologist」という言葉はあるが「mentalist」という言葉は英語にはない。
「mentalist」は心理学的なトリックをつかう人間と言ったらいいのだろうか、とにかく彼がそういう心理的なトリックや様々な手法をつかい犯人を追い込み逮捕していくのは見ものである。
先日ある会員の人と占いについて話をしていた。日本では多くの人が占いにはまっているが、私からしてみたら異常といってもいいぐらいはまる人ははまり、多くの雑誌やテレビ番組などでも占いのコーナーを設けている。
しかし信仰宗教や占いというのは心理的トリックがわかればたやすいものである。
悪用されたらどえらいことになるので、どうすればというようなことは詳しく書かないが、しかし正直私は明日からでも占い師になれば、そこそこの成功はできるという自信はあるのだが、人間というのは言葉や行動に、必ず性格やその人がどういう人かという手がかりをのこす。
私などは人の行動を観察してみているのだが(いい意味で配慮できるように)、今ではその人のだいたいの職業など判別できるようになってきたように思える。
オリーヴは留学経験のある人が来ることが多いのだが、よくあるのが数字の7の書き方である。会員登録書に住所と電話番号を記入してもらっているのだが、海外にいた経験の長い人は時々その7を書くときに真ん中にしるしをいれる人もいる。
これは外国人が7と1の区別をつけるときにする行為であるが、海外に長くいるとどうしても7と1を区別させるためにそのくせがついてしまうからだ。
以前ある人が入会してきた時にこの「7」にしるしをしたので、教えている時に「君英語が話せるでしょ」と言ったら「えっなぜわかったの」というような怪訝そうな顔をしていたが、少し前に書いた福原さんの言葉もしかり、こういう手がかりを必ず残すのが人間で、そのことを手掛かりに話を進めていけばある程度確信にせまることができ、信用を得ることができるのだが、しかしこれを悪用するのが悪徳宗教ややイカサマ占い師である。
おそらくそういう人間の関心ごとはいかにして相手の興味を自分にひきつけるかということで、おそらく彼ら彼女らは話を聞いているのをいいことになるべくアドヴァンテージをとろうとすると思うのだが、そのクライエントの言葉を手掛かりに「あなたこうでしょ」と確信にせまり、その相手の信頼を得て相談相手になって心を支配し、あやつるのが彼ら彼女らのやりかたである。
前にもテレビでイカサマくさい奴が出ていたが、イカサマくさい奴はすぐにわかる。
なぜならもう最初から人を自分に引き付けようとしているのが見え見えで、そういう奴はかならず一見滑稽とも言えるような仰々しい服を着ているからである。

西洋で占い師を表す言葉は「fortuneteller」と言って、これは未来を予測するものという意味である。
だからもちろん占いに関しては統計学的なものとしてとらえることは可能で、その人間の運命を統計学的に見てこうであるだろうということは間違いではないが、しかしそれが人間にかかわり、人生相談やアドヴァイスするとしたならば、それは占いのわくをこえてしまう。
摂理という言葉がある。
これは日本語では自然淘汰のような、なにか自然が問題を処理していくというような意味であるが、英語では「providence」この言葉はラテン語の合成語で、「pro」というのは「何々の前を」という意味、そして「vidence」というのは「 video」「見る」という言葉から来た言葉で、つなげると「何々の前を見る」というのがこの言葉の語源である。
「providence」という言葉はユダヤ人のバイブルの中によく出てくる言葉であるが、ユダヤ人の歴史は波乱万丈である。
その歴史において彼ら彼女らは幾度となく苦難を乗り越えてきたわけであるが、それは彼ら彼女らがその摂理の中に自分たちが生かされていること、自分たちが神のつくる歴史に参与しているという自信があったから、常に前を見てあるくことができたからだと思っている。
キリスト教などの宗教が来生にのぞみをおくのにたいして、ユダヤ人の歴史というのは神といっしょに歩む歴史であり、彼らの歴史観には今自分たちが神とともにこの歴史をつくっているという考えがあり、ユダヤ教徒は今を生きる宗教と言ってもいいのだが、今を強く生きるからこそ未来が見えるのではないのだろうか。
正直私は占いや悪徳新興宗教が自分たちの前を導いてくれるとは思えない。
私にしてみればそういうたぐいのことは一種の心理ゲームのようなものであって、かかわっても依存心は強くなるが、本当に必要なこと、この世界を自分の足で立って生きるということができないからである。
もちろん占いにはまる人は今をどう生きるかということを真剣に考えているからこそ、そういうところに行きつくのだと思うが、しかしそれは統計学的なものであって、本当に自分たちの生き方は示してくれない。
世界が全体的に不景気なせいか、前を向いて生きろといってもなかなか難しいことだが、しかし強いて言うならばそれは「与えられた自分の今を精一杯生きる」ということと深くかかわってくることではないだろうか。









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サルマシナンダ マシオッテヨ

2012-02-20 | Weblog

先日あるこどもの問題で学校に行ってきた。
話しによるとこの子は学校の帰りに、自分の名前を書かれて死ねと7回ぐらい書かれた落書きを見つけたらしく、ひどくショックを受けていたようであるが、話しによるとこの子は行動が少しどんくさいので、少数の人間であるがそのことをうとまれ意地悪をされていたらしい。
意地悪と言うのはいつ聞いてもあまりいい気もちがしないものである。
しかもこういうことをいう人間はうまく人を不快にさせるようなことを言っているので、それがかたちにあらわれず、言い返したり、教師に言うこともできず、言われているほうは言われるたびに傷つき、不快な思いをするのであるが、今回の件も教員の見えるところでは親切に手伝うふりをしてふりをして、そしていないところでは、さも助けてやったんだという態度で、のろまあつかいし、つばをはいたり、きもいというようなことを言うそうである。
落書きは誰が書いたかわからない。ひょっとしたらこのグループとは違う第3者が書いたかもしれないが、しかしここで深刻に受けとめなくてはならにことは、一人の人間の存在を死ねと言う一番言ってはいけない言葉で否定することである。
私に言わせて見ればこれは魂の殺人であって、実際に暴力は加えてはいないが、その人の存在を否定する行為であり、書かれた本人は深く傷つく。
特に今回の場合はそういういじめにあっていた子供なのでよりそのショックは大きいと思うのだが、私はこのことに関し犯罪につながるとみなしていいので、できるだけそのことを全校に伝えることと、このことの解決策としてある提案をしたのだが、その提案が受け入れられ学校側も動いてくれるようである。

話しはかわるが心理学用語に「vulinerability」と言う言葉がある。
これはアーヴィングゴッホマンの「スティグマの社会学」の中に出てくる言葉であるが、この言葉は専門用語をあらわす言葉で、辞書であるとかなり詳しい英英辞典にしかのっていないと思うのだが、これはあえて訳すならば「攻撃性を誘発する何か」という言葉であるが、ゴッホマンがこの言葉を彼の著書の中であげたのは、人間には優劣の差異があり、その差異がたえず犠牲者を生み出して来たということを伝えたかったからである。

今から書くことは最期まで話しを読まなければ勘違いで終わってしまうので、ここまで読んだら見てほしいのだが。
我々の時代は今のような時代ではなく、少々荒い時代であったのでよく昔はいじめられるほうも悪いというようなことを言ったが、強ちこれは社会学的には間違いではない。
いじめは確かに悪いしゆるされることではない、しかし悪は悪として認めながらも、われわれはその社会学的な事実と言うか、さっき言った「vulinerability」の可能性と言うことについても冷静に考えなくては、本当の解決のはつながらない。
さっき言ったように、いじめというのは絶対にゆるされることではないし、はっきりいって犯罪である。
しかし教師や保護者あるいは我々のような指導する立場の人間のすべきことは、そのいじめがわるいんだと言うことをマスコミのようにただ単に糾弾することではなく、その子がそのことにどう立ち向かい解決していくかということで、我々の責任は一方的にそういう問題を取り上げて糾弾しさばきを求めることとは違うからである。
私はこういうことがあったら必ず彼あるいは彼女の様子を教師から聞くことにしている。
今回も実際に学校に出向いて、いろいろと話を聞いたのだが、なるべく率直な意見を例えば、なぜこうなったのか彼あるいは彼女の弱さは何だったのか?
少し語弊があるかもしれないが、もしそういう弱さを知り、可能ならば決してそうだからいじめられたというようなことではなく、冷静にそのことを受け止めて成長していくことができたならば、本人がそのことを通してより一層前にむかって生きて行くことができるだろう。肉体的な弱さであれば、空手や柔道をやるのもいいだろう、勉強ができないからバカにされているんだったら勉強することを促すこともしかり、このことを通して必要な求められる何かを補うことができ、しんどい思いをした彼、彼女が、より一層成長し前向きに生きて行くことができるようになってほしいからで、このいじめの問題は加害者よりも本人がどうかということが一番問題にされなくては、たとえ相手を糾弾して罰しても意味がないからである。

韓国語に「サルマシナンダ」と言う言葉がある。
これは生きる味と言う意味で、100点をとったとか、いいことがある時につかう、ちょっとした喜びの表現で、韓国人はそういう喜びがある時に人生の味がすると言う表現をする。
だいぶ前いじめている人間をつかまえて言ったことがある。
「お前らの好きなものは何だ」「言ってみろ」
「チョコレート(だったと思う)」
「いじめられている子供にも好きなものはある。でもその好きなことを考えられないぐらい、それを食べたり、遊んだりできないぐらい追いつめられている。好きな物のことが考えられないこの苦しみが分かるか。」
人間は毎日小さい喜び「サルマシナンダ」がある。チョコレートを食べることも、好きなおもちゃで遊ぶこともすべて「サルマシナンダ」であり、そういう小さな喜びを我々は日々感じながら生きている。それを感じて生きているから幸せだと言えるのだ。
いじめというのはその小さな喜ぶさえうばってしまう残酷なものである。
この人間の権利を奪う犯罪を決してゆるしてはならない。








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more flexible

2012-02-16 | Weblog
韓国にこういう話がある。
それはのどがからからの日本人と中国人そして韓国人の子供がひとつの部屋に入れられる。そしてそこにはスイカがおいてあって食べることができるのだが、しかし食べるのにひとつだけ条件があって、食べる前に自分は犬畜生ですと宣言して食べなければならないのだ。
それぞれそのことを聞いて食べるのをためらうが、しかし時間とともにのどがどんどんかわいてくる。
まず最初にスイカに手をつけたのは日本人の子供、いつまでもそんなことにこだわってはいられないとスイカを食べ始める。そして次にそれを見た中国人の子供がスイカを手にして食べ始める、しかし韓国人の子供はいくらのどが渇いていても自分のことを犬畜生だと言うことができず、見るに見かねた日本人の子供が食べたらどうだとスイカを差し伸べたときはもうそのスイカは皮の状態であったという話で、これは彼ら彼女らがいかにプライドが高く名誉を重んじるかという話である。
韓国人というのは非常にプライドが高く、意固地である。周りを見ても何でこんなくだらないことに意固地になるのだと思うことがしばしばあるのだが、私は意地をはりすぎてどえらい目にあった人間をみじかに見ているので、どちらかというとプライドをかけて生きるというような生き方にはいささか懐疑的である。

昔私が信用していた女性がいた。
この方は私よりも少し年上で、私が頭がいいと思った人の一人であるが、この人は日本人なのに韓国語がペラペラ、なぜかわたしはこの人のことをヌナと呼んでいたのだが、この方が人間の心の強さについてこういうことを言っていた。
どういうきっかけでそういう言葉が出てきたのかは忘れたが、しかしはっきり覚えている言葉があって、こういってた「本当に強い心を持つというのは、何かに向かって行ったり、強くなって得る優越感やプライドから生まれてくるものではない。それは水のように生きる心で、柔軟に物事をうけとめ、変えていく力である。水は雨や雪のようにあらゆるかたちになって流れていくが、しかし水であることには変わりはない、そういう心を持つことが今の時代を強く生きれる」と
正直ボクシングもそうだが格闘技をやっている人間は、しょうむないプライドを持ちすぎるように思える。
試合は殺しあいだとつぶしあいだのというような奴は、それが命をかけてやるものだと思っているのだが、こういうわけのわからないことに意地をはって生きようとしすぎだ。
おそらくコンプレックスのうらがえしでそんなことを言っているのだろうが、こんなものに命をかけてどうするのだ、たかだかボクシングだろう、それよりももっと大事なことがあるではないか。生きることは短くて長い、だからそんな一時的にしかできないことに命をかけるというようなことを言うのは無意味だ、だいたいそういうことを言う奴に限って、現実味がないので生活力がなく、人にたかるような生活をしているのではないか。
日本ではそういう気持ちを出してモティヴェーションをたかめるたっめだろうか、侍ジャパンのように侍とか武士とかそういう言葉をよく聞くが、そういう時代はとっくの昔であってそういう時代錯誤な価値観を今頃持ち出すのはナンセンスである。
だいたい武士や侍があそこまで自分のプライドを保ち続けることができたのは、彼らが特権階級にいたからということともう一つはその妻や周りの者が支え、彼らをたてていたからである。
こういう時代であるから少々しんどい思いをしても、俺は武士だと意地を張って生きることができたが、しかし周りが彼らをたて支えることができなければ、もろいものだ。
立てられなければもてないプライドなんてすてたらいい。スポ根漫画なんか見てみても、かならず一生懸命命をかける男には女の存在があって、それをかげで見守り支えているのだが、そういう単純極まりない構造がスポーツにロマンを求めるような人間の世界にはあると思っている。

昔私の友人が外国人の人たちと日本の文化を話した時に、侍の話が出て切腹の話が出たらしい。
なぜ日本人は腹切りをするのかということを聞かれたのだが、その時彼は得意がってその侍の精神について話したのだが、しかしその腹切りの概念については、いくら潔く責任を取ってと言っても、なぜ腹を切ることが責任をすべて受けることなんだと理解できない、ややさめた目で見ていたらしいが、日本人のそういう特定の考え方なんてその程度のもの、それをプライドをかけて守った日本人の意地だ誇りだなどと言っても外国では理解されないと思う。

日本人特に運動系の奴はくだらないことにこだわりすぎである。
意地だとかプライドとかそういうことがかっこいいかのように思っているが、よく考えてみれば周りの後輩と言われる自分をたてる者がいなければなりたたない世界で、昔の古い武家社会と同じである。
よくまわりを見渡して、もしそれがしょうむないプライドや意地だったら持たないほうがいい。
そんなプライドに振りまわされていては、いずれ自分がつぶされてしまう。
この時代に大事なのはまさに水のようにかたちを変えることができる柔軟な心である。
その柔軟に生きることとは私なりに考えてみたがこうだ。
型にはまらないこと、そのためたくさんの書物を読み外国語を学ぶこと、そして体育会にはつながらないこと。

次回は「ペッコプインサ」

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Hoot

2012-02-14 | Weblog
先日ある機関の人からレポートの依頼があった。
おそらく柔道事件などのことをうけて深刻にうけとめたからだろうか、ブログを見ていて、ある事柄についてその機関で話し合いたいから、2か月ぐらいで意見をまとめてレポートにしてほしいということであった。
私自身いろいろと問題を感じていることがある。
子供のボクシング、そしてクラブの顧問などによるパワハラやセクハラなど、いろいろと子供たちの取り巻く環境においてこれはしゃれにならないということがあるが、おそらくこう言った問題は組織や体質を変えて行かないとかわらないと思っているので、私の意見を取り上げてくれるということは、まさに渡りに船、この機会を通して問題視してくれたらと願う。

話しは飛ぶがなにゆえにボクシングがハングリースポーツと言われているのだろうか?
確かに戦後何ももたない貧困層の人が、ボクシングで栄光をつかもうと努力してきたことは確かなことであるが、それはアメリカンドリームのようなものではなく、一時的には成功するがその後の人生を考えれば、それほどの成功とは思えないのだが、しかしそういうハングリーな人たちが拳一つでのしあがってきた歴史がボクシングにはある。
それゆえにボクシングはハングリースポーツだと言われているのだが、実は私はハングリースポーツだと言われる言葉の中に何かコンプレックスを力に変えていくというような負のイメージがあり、そういう負のイメージにアウトロー的な人間はひかれるのではないかと思っている。
私はボクシングほど相手を追い込んでいくスポーツはないと思っている。
自分には何もないのだからボクシングをあきらめてしまっては、もう終わりだというような、そういう精神的な危機感を煽るような雰囲気が戦後ボクシングを競技する人たちの中にあったと思うのだが、そのことはクラブによって違うが、多少の影響はあると思うが、そう考えればボクシングと言う競技は特別なスポーツではないだろうか。

人をなぐるというのは、普通に考えてありえないことだ。ある程度思慮分別のできる大人にはスポーツとわりきってできるのだが、しかしそれでもオリーヴのほとんどの人が最初はかなりためらいがあったと言うのだが、やはり一般の人にはあえてそういう闘争心をかきたてるものがないからだと思っている。
私はよく子供のボクシングを問題にあげているのだが、子供が人をなぐるということも大人以上に特別なことである。
思慮分別のある成人であればゲームとわりきって競技できるだろうが、しかし子供は別、そういう思慮分別はできないし、そういう特別な闘争心と言うのは何かのかたちで煽らなくてはそだたないと思っている。
この件に関しては、もう少し発達心理学などを詳しく調べて述べていく必要もあると思うが、しかしここでも王様のマスと言って子供が一方的にオフェンスしていくと言う練習があるが、その練習を子供にさせる限りでは、人をなぐるのは抵抗があるそうだが、おたりまえだが人をなぐったりなぐらたりすることの葛藤は、今の日本人の子供にはごくあたりまえのことだと思う。
おそらく我々の世代であれば、ここでなにくそうとなぐられたらなぐりかえすというのだろうが、しかし自己肯定感が高い人間は、自分が傷つけられるという経験もなく、人など傷つけられるはずはないので葛藤が起きるのはあたりまえのことで、そういう葛藤を弱さと受け止めさせて、それをのりこえて、あえてむかっていくと言うことを思慮分別がつかない年齢に言うことははたして正しいことなのであろうか?
なぐられることがこわいということはボクシングではディスアドヴァンテージであるが、しかし一般的にはあたりまえのことである、それをコンプレックスを持った独特の集団がやれにげるなとかむかっていけという風に、思慮分別がつかない過渡期の小中学生を煽ることにいささか懸念がある。

ボクシングを健康維持や体を鍛えるために小中学生にさせることは、いろいろなスポーツを知る上ではいい機会であるが、しかし競技目的でさせることは脳や心の問題も含めて間違っている。

中には純粋にスポーツをさせていると言う奴がいるかもしれないが、しかしスポーツでもボクシングは相手を倒すのが目的のスポーツで危険であることは周知のとおりであるが、特にその危険性はブレーインダメージを多く含んでいるのが他のスポーツとの大きな違いである。
脳に与える危険性については少し論文を読めば理解できる。
英語では「amateur boxers brains get KOd too.」という小論文があるが、読んでみればいい、これはおもにアマチュアボクシングの危険性について、ボクシングはアマチュアでも危険であると言うことが報告されている。
これぐらいの小論文は辞書をひけば読めると思うが、これぐらいの論文を読むことができなければ、医学的な問題について語ることなどできないだろう、そういうことをわかっていない無学とも言える人間がいきおいで競技目的で小中学生にボクシングをさせるのはかなり無責任なことである。

子供と言うのは純粋である。
だから何々大会優勝しようなどと目標をかかげて、まわりで励まし煽って練習させればすぐにその気になってやる気を起こすだろうし、ある程度の結果ものこせるであろう。
そしてテンポラリーではあるがボクシングをやったとたんに明るくなったとか、元気になったということもあり得るだろうが、しかし将来的にそのことがはたして正しいことかは別、10年近くも競技すれば、かえって大きいものをうしなうことになりかねない。

また同じような仲間が集まれば、そこにある程度安堵感をおぼえることもあるだろう。ましてやこの前も言ったように指導者のレヴェルがひくければ自分たちと同じような仲間のような気持になるだろうし、その群れは非常に居心地のいい場となるであろうが、こういう場が果たして本当に社会的であると言えるかはどうかで、私の意見では、自分ん好きなことだけしかまじめにしない、勉強もろくにしないアウトローがまともに子供の将来のことなど考えることはできない。
この前も言ったが注意すべき人間は、メンタリティーが子供、そしてどちらかというとアンチ勉強的な雰囲気を持っていて、子供はアンチ大人の傾向が強いので、時にはこういう人間の声に耳を傾けるようになる。
まあボクシングやスポーツをさせる上では一応ふざけたことを言うわけではないが、しかしもともとそういう人間はちゃらんぽらんで、本当に正しく生きて来たわけではないので(ボクシング以外何をやったか聞いたらわかるが)かならずどこかでひずみが生じると思っているが、こういう奴らが未だスポーツ界には存在していることは事実である。
柔道のレイプ事件や死亡事件などのことも含めて、本当に子供の体と心の問題を考えて指導するならば、ある程度常識なことを理解し、そういうことを理解できる学力があるかということも我々が問われることであるとさえ思っている。
子供と言うのは純粋だ。だからある意味自分の好きなことを教えてくれる人間には評価が甘くなり、それをうけいれてしまうこともしばしばあるが、この前言った言葉にできない破廉恥な顧問の行為をその部員たちがいつものことと笑って言っていることがまさにそうであるが、私にしてみればかなり信じがたいことで、こういう非常識な奴でもそれができれば誰からも非難されないから恐ろしいものである。

グリム童話に業の話しがある。
これは子供たちが業でさばかれるブタを見て、興味をもった子供が、そのごっこをするという話しだ。
実際子供たちはそのブタの解体を役柄を決めてやっていくわけだが、この話しのこわいところは、その役を純粋にこなしながら実際にブタの役をした子供をほふってしまうのというところで、この作者は子供の持つ純粋性が、いかにこわいかと言うことを伝えているが、
その純粋性をよく考え理解した上で危険であるものから遠ざけるのが大人の責任でもあるが、常識や知識に欠けるような大人が、まったくそういう知識のないのに、ただ煽ってやらせることは非常にそのことに対して懸念があるが、そこで大人が介入して冷静な目でアドヴァイスすることが大事だと思う。

昔年上の口の悪い韓国人に「お前混血で悔しくないのか」と言われたことがある。
「悔しい思いをさせるのはお前らじゃ」となぐってやろうと思ったが、しかし正直自分がボクシングをやってみようと思ったのは、何かそういう自分の人種的なコンプレックスをうち消したい、もう一人の自分キムホヨンを完全に消し去りたいと言う思いがあって、そういう危険なスポーツを選んだのだと思う。
しかしそういうことに逆らってつっぱって生きるよりも、その自分の境遇を受け入れるほうが楽で、そのほうが100倍幸せな生き方ができる。
逆行することがいかにもかっこいいかのごとくいうバカもいるが、それは間違っている。
ともすればボクシングと言うスポーツはそういうことを美化するので、そういう生き方がかっこいいとか、人間として生まれて来たからには、そう生きなきゃ生きている価値がないというぐらいの勢いで言うバカもいるが、しかし私に言わせて見ればむしろそういう生き方は本当に人生を考えていないからで、こういうことを考えたり、言ったりしてある特定の雰囲気を出すバカは、ただ何を言ったらかっこよく思われるかとか、目立つかということを考えているだけで、中身のないキャッチフレーズのようなことをただ伝えているだけである。
こういう雰囲気に巻き込まれたらまともに将来を考えることはできない。若い時はエネルギーがあるのでそういう逆境をはねのけてという気持ちは十分にもてるが、しかしそういうバカの意見に耳をむけたり、アウトローの言うことがが正しいと思わないことだ。







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ドンキーコング

2012-02-13 | Weblog
ある友人夫婦がファミレスで行儀がわるくて走り回る子供にやめてくれと注意したら、そのバカ親にキレられてなぐられそうになったらしい。
私の意見ではあるが、まずこういうタイプの人間は言っても無駄である。
なぜならこういうタイプの人間はいくら自分たちがおかしかっても同類以外の注意は攻撃とみなすので、いくら正当なことを言っても言うだけ無駄、かえって攻撃されたとみなされ、場合によっては腕力にうったえてくる。
むしろ席を立って店員にそのことを言って注意してもらうほうがベターな選択だと思うが、私も以前国際線でうるさいけばい女の軍団をキャビンアテンダントを通して言ったのだが、意外と英語で注意されたのでおじけづいて静かになったが、まあ場所が違うので注意しても聞くとは思えないが、へたに注意してなぐられるよりはましだと思っている。
これはある進学校を卒業した人間が言っていたことである。
彼は剣道部に所属していたのだが、この剣道部は進学校と言えどそこそこそこ強いらしく、県でもベスト8ぐらいに入る実力で、時々某スポーツ高と練習試合を組んでもらっていたらしい。
しかしその練習試合に行くのが非常に怖いと言う、なぜならそのスポーツ高でそれしかできない人間は、彼らのような進学校の生徒が行くと負けてはたまるかと闘志むき出しにし、彼が言うには竹刀をものすごい形相でドンキーコング並みにうちおろしてくるかららしいが、非常にみっともない話しである。

劣等感と言うのは誰でも持っている、しかしこういう劣等感は時には暴力的なかたちであらわれる。
よくボクシングはつぶしあいだとか、殺し合いだというようなことを言う奴がいるが、そういう輩もそうだ。
常に口では自信ありげなことを言っているが、しかしこういうことをいう奴に限って劣等感のかたまりで、そういうコンプレックスをもった人間が、コンプレックスの裏返しで、追い詰めた状況をつくって、にげるなむかっていけと競争心を煽ることはかなり危険だと思っているが、今は昔のようにコンプレックスを持った人間ばかりがボクシングを競技する時代ではない。
ここオリーヴにいたっては比較的、教育的にも経済的にも恵まれた人が多く、今やそういう人たちもたくさん競技する時代であるが、そういう人たちのほとんどが趣味でボクシングを競技しているのだが、そういう人たちに向かってボクシングは殺し合いだということは通用しないだろうし、特にそういう雰囲気を青少年が競技する場では言うべきことではないと思っている。
コンプレックスと言うのは時には人間の行動を押し出す力になるが、しかし私は少年期にこういう負の力をみとめさせて、それを人間の行動を押し出す力に変えて行くことは危険であると思っているのだが、ある特定な状況に追い込んで、まけるな行けと煽るのはまさにそうでる。
子供に戦う理由なんてない。子供がスポーツを競技するとしたらそれは遊びの延長であり、楽しむためである。
それを自分たちに劣等感があるのか、子供に減量とかわけのわからない節制をさせたり、煽って戦わせると言うことは、無意味、自分たちの意地なのかは分からないが、非常にバランスに欠けることである。
あくまでスポーツと言うのは、子供にとってやらなくてはならない指名とか責任ではない。遊びであり息抜きである。
まずやらなくてはいけないことは勉強であり、指導者はこの枠を決して越えてはいけないと思っているが、それをその枠をこえてあたかもそれをすごいことだと思わせるのは、ちゃんちゃらおかしいことであり、教育的な配慮に欠けると思っている。
没頭させることと遊ばせることは違う。もうここまで書いたら分かると思うが、物事を客観的に見る力や訓練もできていないのに、やたら自分たちの世界をつくってそこにひきこもうとするのが没頭させることであり、子供の心と体をよく理解し、優先順位をわきまえて競技させるのが、楽しませることである。

負の要素を持った人間が何人か集まるとかならずそういう負の要素を持った人間が集まり、独特の社会をつくるものだ。
最初にあげたバカ親も然り、こいつらもおそらくこいつらと同じ価値観の仲間がいて、集団を形成し、自分たちの常識と言うか価値観を持っていると思うのだが、しかしこういう社会はもともと自分たちと同じような人間ばかり集まってできた集団なので、価値観は狭く、つながる理由も情、特にこういう集団には先輩と言われるような人間が存在し、彼は人間ができているとか話しがわかるなどと一目置かれているが、しかし彼彼女はやってはいけないことがわかっているにすぎず、決してひろく公共性の問題やコモンセンスについては十分に考えることはできないと思っているが、ただ彼彼女らが信用される理由は、俺の話しを聞いてくれるとかわかってくれるという情的なものであって、正直それが正しいかただしくないかということは二の次である。
こういうスポーツクラブと言う狭い世界と言うのはともすれば、そういう世界をつくりやすく、負の要素を持ったものが集まれば集まるほど結束が堅い。
たとえ一般的に間違っていても、その集団が問題視しなければ、問題ではなく、時には少々えげつない問題を起こそうがそれは笑い話で片づけられるのである。
今まで聞いた話でこりゃあシャレにならんと言うことでも、子供は冗談のように話していたが、負の要素が強ければ強いほど、個人と監督などの人とのつながりは強く、正しいこととそうでないことの区別がはっきりしないということが往々にしてあるのだが、こういうクラブにしないためにも会員特に子供との距離感を保ち、客観的に子供に何が必要かと言うことを考えて行きたいと思っている。



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sell yourself

2012-02-09 | Weblog
8年ぐらい前大阪で淀屋橋あたりのオフィス街を歩いていると、むこうから知り合いの大学生が歩いてくる。
いつごろかは忘れたがまだ暑い季節であるにもかかわらず、ダークスーツを来て歩いていたのだが、私が気がつくとすぐにむこうも気がつき「あっ」と声をかけてきた。
聞くところによると彼は就職活動に出向いていたらしく、今日はその会社で面接があったそうだ。
最初就職活動とは知らなかったので、私は思わず「お前ところで、こんなとこで何してん、はりこみの刑事みたいやぞ」と言ってしまったのだが、その言葉は彼にとってショックだったようで「俺そんなに目つき悪いですか」と言ってきたので、これはいかんとその後彼をお茶にさそってなだめるのにたいへんであったが、彼は私のことを的確に物を言う人と評価しているので、この一言は彼にとってきつかったようだ。
まあそれでも「警備会社だったら即採用」とかからかいながら、彼とその面接の様子や手ごたえなどを話したのだが、しかし彼にしてもそうだが、なぜこういう面接の場で自分の印象をよくすることばかり考えるのか不思議だ、面接の手引書というかガイドブックもそうだが、御社のとか言って、とにかくほめまくり、賛同する姿勢が見られるが、しかし私などはそこまでして働きたくはない。第一大学を卒業して自分のスキルを売り込みにいくのに、土下座面接も甚だしい。
日本語でよく面接などで「自分をアピールする」というようなことを言うが、これは和製英語で直訳すると自分をうったえる(法廷で)ということになり、英語で言うとかなりおかしい表現である。
英語ではこういう時「sell yourself」あなた自身を売ると言う言葉を使うが、まさに面接は自分を売り込む市場のようなもの、あまり相手にあわせてしまうと安く見積もられる。
私は彼に「もともとお前みたいに厳しい顔の奴が(実際には目つきがわるいと言ったが)、無理に印象をよくしようとすれば不自然で余計に印象がわるくなる。それだったら俺はこうだと自然体で堂々とかまえて、むしろ相手にあわせることばかり考えず、自分にはこれができると毅然と答えるほうがいい」と自分の考えを言ってやったのだが、この半分逆切れに近い説得は「そういう考え方もあるのか」と意外と功を奏して、彼は元気を取り戻したのだが、その後無事に内定をいただいたらしい。
これは約8年前の話しだが、おそらくもう今では面接のあり方もかわってきているだろう。
大手なんかは外国人を積極的に採用しているそうだが、おそらく我々の時代の土下座面接では、外国人相手に自分を売りこんでいくことはかなりのディスアドヴァンテージがあると思う。
たぶんこれからの時代は自分は何ができるかという、即戦力が求められる時代ではないかと思っている。
企業でも外交的なスキルが求められるので、アドヴァンテージになるのは、まずは外国語がはなせること、そして戦略練るためのスキルやキャパがあるかということは、今の時代に最優先に求められることだと思っている。
例えて言うならば「自分は10年間ボクシングをやってきました」と言うような答えだけでは、自分を売り込むためにはいまいちどころかそれしかできないのかとマイナスになる。第一サルでもあるまいし、10年間人をたたいてきたとかボールをおいかけてきたと言うのは芸であってサルでもできる。むしろ「ボクシングを10年もやって来て、脳にダメージがのこらないのか」という質問をされたらどうするのか?
大事なのはそのことを通して自分はこれができるという具体的なスキルのようなものだ。
それで何を得たのだと聞かれて「礼儀を学んだ」とか「最後まであきらめない気持ち」と言うような子供の作文並みの答えではブーッ、むしろボクシングを通して、アメリカに興味を持って、実際に英語をおぼえて、むこうの試合に1度でた。
そしてその時知り合った人たちとは今でもメールやスカイプでやり取りしている。実際にそのやりとりは英語で行われるので、英語が上達し、向こうの文化や習慣などを理解した。付け加えて言うならば、日本のクラブは鎖国だと言うことがわかったぐらい言っても、十分自分を売り込んだことになるのではないだろうか。
たぶん面接する側も最初からぶらさがろうというような気持を持った人間は、最初から見抜き採用しないだろう。
大事なのは自分を売り込む力sell yourselfである。

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無知の無知

2012-02-08 | Weblog
相次ぐ死亡事故に伴って柔道の指導の仕方が非常に厳しくなってきている。
名古屋では柔道の授業に乱どりや足技禁止とかなり危険視しているようだが、実はこのことは何年か前のアメリカ、イギリスそしてカナダの子供のボクシングにあてはまることである。
特にアメリカでは子供のボクシングがさかんで大会など行っていたが、相次ぐケガやブレーインのダメージを深刻に受け止めた医3国の小児科の医師会は子供には直接打撃を加えてはいけないということを医学的に説明し、世論にうったえているのが今の3国の現状で、イギリスなどは16歳未満はボクシングを禁止しているのではないかと思う。

日本ではボクシングは柔道のようにメジャースポーツではなく、今のところ競争と言ってもたかだか知れているので、そう厳しく取りざたされることはないと思うが、しかし外国のメディアは厳しく、禁止している理由は子供の頭蓋骨は完全ではなく、脳しんとうをおこすと回復するのに大人の倍以上の時間がかかること、そして場合によっては頭痛が慢性化し、思考能力に影響が出てくることを3国の医師会が示唆しているが、それが競技などに参加させて、競争心をあおるのであればなおさらである。
私自身よく知っている人に何人か医師と言う立場の人がいて、パンチが脳に与える危険性について聞いてみたのだが、みなさん専門が脳神経ではないということであって、こうだという医学的根拠を言うことは控えていたが、しかしひとつはっきりしていることは、子供の頭蓋骨はまだ発達段階で打撃をくわえということに関しては何らかの影響がでてもおかしくないということで、反対の立場をとっていると言うことである。

よく言うがこういうことは学問を無視してすべきことではない、こういう体の問題は医学が優先的に考慮されなくてはいけないことであって、特に子供の場合は医学的に疑わしいことはすべきではないと言うのが私の立場であるが、まわりはどうとらえているのであろうか?
おそらくこういうことは、英語で情報をひろえばわかることである。
英語でその様子や記事などを読んだらいかにそれが医学的に危険であるかということが書かれているのだが、こういう基本的な情報もひろうことができなくて、その安全性について語ると言うことはちゃんちゃらおかしいことであって、前回も言ったように学問的な判断、特に医学的な判断と言うものは子供の体を考えて行く上では重要であって、そういう見解が持てないという無学さでは一抹の不安どころか、危険さえも感じる。
子供と言うのはよくやったとほめて、それをやらせてある程度の実績ができれば、テンポラリーであるが一見自信を持てたような気持になり、それをやっていることが非常に楽しい、人生がかわった、明るくなったなどと言うものだ。
しかし度を過ぎてしまうと失うものさえ大きく、あるボクサーがボクシングはドラッグやと言っていたが、まさに大きな代償をはらうことさえありかねない、だからこそ大人が冷静な目で見て判断して上げることが重要なのだと思う。

私が少しというかかなりおかしいなと思う指導者は、子供と接するのに子供みたいな奴だ。
大人として、特に指導者として常識的なことができるわけでもなく、どちらかというとアンチ勉強的な雰囲気を持っているのだが、ゲームや漫画などは読むが、活字は読まない、そういう次元で子供と同化できる奴、こういう人間は非常に危険だと思っている。
意外と何も学ぼうとしない人間は、やっている次元が子供と同じ、しかも年上なので自分たちよりも知恵はあるので魅力的だ。
だからこういう奴は往々にして発想がガキなので、当たり前のことを言う大人よりも、子供に好かれていると言うことがあるのだが、そういう奴に限って時には保育士顔負けに漫画を書いたり、多彩なアイデアなどをつかって子供を喜ばせるが、しかし中身は全く子供なので肝心な部分がぬけているのである。
子供は意外にこういう奴の言うことのほうがよく聞く、だからおそろしい、たぶん少し勉強のできる子ならあいつおかしいとわかるが、しかしなんかよくわからないが、子供は常にアンチ大人なのでそういう奴のほうがいいのである。
しかし子供にはそういう判断力はない。だから大人がしっかりと見極める必要があるのだが、やはりその見極めの一つとしてはきちんと話しができるかと言うことで、話していても語彙が少なく、自分の考え方しか言えないというのは、考え方がとぼしく、常識的な判断ができないと考えもいいが、簡単に言うと仲間と子供以外はコミニケーション能力が低い人間である。

たぶん私などは子供にしてみればわからずやだ、そりゃそうだ彼ら彼女らよりも何年も生きていて、考えているのだから、彼ら彼女らの目先の考え方がおろかであるということはわかっているので、安易には賛同しない、だからこそあえてそうではないという反対意見を言う、私はそれが子供を考えさせ、成長させる要素であると思っている。
私自身親が相談に来た時はなるべく客観的な意見を言うようにしている。
時には親として同情的な部分を求める人も少なくはないが、しかし将来的に見て何をどう選択し、どういうことをすべきかと言うことは同情的な部分では解決できない。
おそらく親だから客観的にそう考えることができないと思うのだが、そういうことを第三者である私がよく考えて伝えてあげることは必要であり、それが相談に答えることだと思っている。

子供のボクシングなんて言うのも危険かそうでないかというのは冷静に考えればわかること。
それをあの人は一生懸命やっているとか、子供が楽しくやっていると言うのは次元が違う。
ここでは小学生から高校生までは必ず親に来てもらい、パンチが脳にもたらすわるい可能性を説明し、中学生までは絶対にコンタクトスポーツとしてボクシングを競技させないと言うことを伝えているのだが、それはこういう危険なスポーツをするのだから、親がその危険性について十分に知る権利があり、今後さらにボクシングを続けると言うならば、そういうことを知るのと知らないのとでは選択する重さが違う、小学生から高校まで続けてたら将来脳に悪い影響をおよぼす危険性が十分にあるからで、そういうことを子供の将来のためにも説明するアカウンタビリティーがあると思っているからだ。

最近セクハラも含めて、柔道が問題になっているが、柔道と言う失敗のお手本があるのだから、そういう失敗をうけてわれわれは考えなくてはならないところに来ている。
たぶんこういう問題を上げると軽くあてるとか、あぶなくなったらとめる、本気でうたせないなどと言うだろうが、しかし論点が違う、中学生の不良のいいわけでもあるまいし、こういうことを真面目に言うのは無知であり、きちんと会話ができない証拠である。この問題は医学的な問題を含めて危険であると示唆している。だから医学的に見て危険性があるのであれば、それを医学的にこうすれば大丈夫だと言う見解でなければいけない。


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