脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

しつこく言うが語学

2010-07-28 | Weblog
今年から留学生をあずかるので、東京から担当者の人が来られて打ち合わせと言うか話し合いをした。
交換留学生を受け入れたのは、友人の勧めであるが、実際留学生を長期にわたってあずかるというのは、はじめてである。
その代表者の方も、結構期待してくれて、末永くつきあっていただきたいと、わざわざここまで来てくれたのであるが、しかしこれは子供だけではなく、私自身のためにもなると思っている。
でその留学生、飛び級のあいた1年をここで滞在して勉強するのだが、彼女は生粋のパリっ子である。
フランス人には親しい友人がいるのだが、英語が聞き取りにくい、聞き取りにくいので「お前もっとわかるように説明せい」というような感じで言うのだが、そのことを懸念して英語はどれだけ話せるのかと聞くと、さすが飛び級、彼女はかなり流暢で、おまけにスペイン語まで流暢に話せるそうである。
しかし何もこれは驚くことではない。
ヨーロッパや各国に行くと結構外国語をいくつか話せる人に出会う。
彼女も実際フランス語、英語、スペイン語、そして習っている段階であるが、日本語と中国語を話すかなりのマルチリンガルである。
今回日本に来るのも将来アジアで仕事がしたいということで、日本に留学することを決意したのだが、ヨーロッパ人や他の国の人たちは、彼女を見ていてもわかるように語学の重要性と言うものをわかっている人たちが多いと思う。
彼女も実際アジアで仕事をするには、日本と言う国が重要だということを考え、日本語を学んでいるだけだが、弱冠十五歳でこういう考え方ができるのは、彼女が外国語を話せ、自国だけを意識していないからだと思っている。
日本の留学生は何となく日本の社会と言うか、何かに閉塞感を感じて外国に留学して、そこでいろいろな人と出会い、学んでいるうちに、これではだめだと考え方を改めさせられることが多いと思う。
しかし小学生の間から民族は、自分たちだけではないということを実際交流し、肌で感じさせることは大事なことであり、またそこでコミュニケーション手段としての言葉の重要性を教えることは大事なことである。
私は彼女にいろいろな人と出会い、特に高校生や学生は交流を深めてお互いを刺激してほしいと思っている。
私がなぜ語学、語学と言うのかというのは、スポーツにおいても語学が欠かせないからである。情報も今ではほとんどが英語のものからきている。医学の世界でも昔は医者はドイツ語が必須であったが、今ではほとんどが英語のものだそうで、外国語特に英語は必要、これがなければ情報を集めることは難しく、ついでに言えばスポーツにはインターナショナル的な感覚が必要だからだ。
最近では小学校にも外国人が来て、何やら国際交流を深める時間があるそうだが、こういう時間は我々の時代にはなかったことであり、今回留学生をうけいれてわかったのだが、その学校は留学生には制服を貸したり、授業料も無料で積極的に留学生を受け入れているそうで、そういう学校はここだけではなく、いくつか県内にあるそうである。
もうこの時代に、日本独特の縦社会の運動クラブというのはないだろうと思っている。
徹底した縦社会、意味のない礼儀、特に声だしというのは誰が考えたのだろうか、稚拙でばかげている。
今思えばあれはなんだったのだと思うことが多かったのだが、こう言った独特の考え方や、雰囲気は、単一民族が集まっているからできるのであって、今や外国から影響を受け、国際社会を目指している日本では間違いなく、弊害と言えるであろう。
スポーツと言うのは、元来国際交流の場として最もふさわしい場である。
もともと文化が違う人間同士が、スポーツと言う場を通してそこで交流を深めることができる場である。
しかしお互いが互いにその人間を受け入れ、交流を持とうと言う気持ちがなければ、それは単なる未知との遭遇であって、その交流を深める手段として語学が重要なのである。










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つかうとあぶない言葉

2010-07-26 | Weblog
大阪の近畿大学が英語でのネーミングをかえるそうである。
なんでもKinki UniversityだとKinkiと言う言葉が、外国人から見て大きな誤解を招くようであるそうだ。
実はこのKinkiと言う言葉、英語で正確に言えばKinkyと言う言葉は「性的異常」すなわち変態と言うことであるそうで、このネーミング入りのTシャツが外国人に売れているとかいないとか。
そこで学校側は、学校のイメージをわるくしてはいけないので、ローマ字表記をKindai Universityにするそうである。
私は宗教学がメインなので、語学の勉強をよくしたのだが、語学と言うのは時にこういう誤解と言うのがあるからおもしろい。母国では何ともない言葉であるが、しかし他国ではちょっとした発音からとんでもない誤解を生みだすことさえある。
以前サザエさんを見ていた時のことだ、なんでもないことなのだが、私はある言葉にふきだしそうになったことがある。
それは次回予告のシーンであるが、その次回予告を宣伝する時にいきなり「カツオです」と言ったその言葉である。
実はこのカツオと言う言葉はイタリア語では、とんでもない言葉で、少し前にうちにフランス人の留学生が来るので、友人が高知はカツオが有名だけど、フランス語でカツオはあぶない言葉じゃないのか、いやいやそれはイタリア語だなんて言ってたところである。
子供がサザエさんを見ている横で本を読んでいて「いきなりカツオです」と言うのであるから、笑いをこらえるのが結構きつかった。
それでもなんとか笑いをこらえていたのだが、多分もう一回言われたらきつかったであろう。
言葉というのは結構敏感である。特にその手の言葉に対しては、だれもが敏感になってしまうことは、世界共通の感覚であると言っても過言ではないだろう。
昔アメリカ人が日本に来た時に夏のどが渇いたので、日本のゲータレードだと言って、ポカリスエットを渡したことがある。
するとそれを見るやいなや、彼は少し怪訝そうな顔をして、お前こんなものを飲んでいるのかという。聞いてみると、ポカリスエットの英語ではっきりSweatと書いているのがあまりにもダイレクトで気持ち悪く、それを見ると飲む気がうせるそうである。
あと有名なのがカルピスであるが、あれもかなり言葉としてはきつい言葉であるそうであるのだが、我々の生活空間には日本語では当たり前であるが、しかし外国語になるとその言葉は、かなりきついんじゃないのという言葉はころがっているものである。
不謹慎な話だが、外国語を学んでいて、こういう愚かな発見をすることも一つの外国語を学ぶ中での楽しみでもある。
最後に余談だがスポーツクラブで韓国人の女性にあまり言えない言葉がある。
それは「ジャージ」運動着のこと、ちよっとしたニュアンスでとんでもない言葉に聞こえる。
特にボクシングなどで入会する女性に、練習に必要なものはジャージと何々となんていうと「えっ私女性だから無理」ということになりかねないので注意。







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議論しよう

2010-07-23 | Weblog
だいぶ前の話だが、幽霊はいるかいないかというテーマで大激論があった。
よくこの手の番組で、否定派という立場で出てくる芸能人がいて意見を述べているのだが、かなり稚拙な意見である。
なぜなら議論の内容を聞いていても、ただあれはおかしい、そんなものはないと言っているだけで、ひどい奴になると、じゃあ幽霊どこにいるんだ、見せて見ろというようなめちゃくちゃなことを言う奴もいて、その否定する根拠が明白ではないからである。
仮にも議論と言うのであれば、論拠が必要である、がしかしそんなものは見えないからないとか、思い込みだと言うのはいささか稚拙であり、まあ視聴率を狙っているので、感情的になって激論するほうがいいのだろうが、しかしこういう議論のやり方は一方的であって、言葉のリンチを招きかねないことさえある。
私は否定派でもなければ賛成派でもない。
ただすべてのことが、完全にそうだと言いきれるかというとそうではない、まだまだ人間には理解できないことが多いのではないかと思っている。
最近ディベーティングの論理の組み立て方が少しかわってきた。
昔ならばアリストテレスの三段論法という定義があって、学問の世界はその定義にそって論理が組み立ててこられたのだが、最近ではこの三段論法では限界と言うか、矛盾があると言う。
三段論法というのは「生物は死ぬ」「犬は生物である」「よって犬は生物なので死ぬ」というような論理を組み立てることによって真理を導き出す手法であるが、これが最近そうとは言えなくなってきた。なぜなら近年科学の発達によって、すべてのものが必ずしもそうとは言えないからである。
例えば生物は死ぬという定義がそうである。
生物によっては細胞分裂を繰り返し、永遠に生きる生物もあるので、生物は死ぬという定義はくずれてくるし、少しあらい意見であるが、もし不老不死の薬や、クローン人間などが開発されたら、人間も必ずしも死ぬとは言えない存在になるのである。
話は三段論法の話になったが、現代ではもはやこの三段論法というのは議論をする上では、
最近では、ツウールミンロジックと言う、絶対はないがより正しいものは何かと言う論理の組み立て方が主流であり、実際これは絶対成功すると言いきることができない、ビジネスの場ではこの論理的思考によって会議がすすめられているそうである。
しかしテレビでよくあるディベーティングは間違った三段論法の応酬であるが、この論理構造はある種の絶対化を生み出し危険であると思っている。
例えばさっきの幽霊はいるかいないかであるが、これも三段論法でいけば、科学では目に見えない物体は存在しない、幽霊は目には見えない、ゆえにそれは存在しないとなるが、そういう論理構造に感情が入れば、幽霊などの目に見えないものにたいして、それを見せてみろと言い、それができなければお前はうそつきだとさえ言うことにもなりかねない。
そうなれば、一方がペテン師扱いされて言葉のリンチ状態を生み出すのであるが、こういうことは日常的にもよくあることで、日本で中高生などが人と違った意見の言えないのは、こういうちょっとした場で、間違ったたたかれ方を見ているからではないだろうか。
言葉と言うのはこわい、そしてさらにもっとこわいのは、その言葉を語る時に用いられる論理的構造である。
日本人はこの論理的構造が欧米に比べて、まだまだ弱いところがある。
話すと長くなるので書かないが、差別や迫害と言うのも、この論理的解釈の違いからくるのであって、欧米人がより論理的であるというのは、あのヒトラーによるホロコーストと深くかかわっているのではないかと思っているのだが、彼の演説もナチスドイツの絶対化、すり替えの三段論法である。
さらに言えばよく私が言われるのが、特定の国の人間からお前は日本人だからわるいだ。
もっとダイレクトに言うと、お前は日本人の子だからわるい(なっぷん)だ。これも彼ら彼女らが日本人はわるいと決めつけているから、そう言えるわけで、三段論法が導き出すわるい結果である。
われわれはもっと論理的に話すために、言葉の構造や組み立て方について学ぶ必要があるだろう。我々は知らず知らずのうちに物事の絶対化を求め、あたかもその絶対的な事柄を基準にすればそれは正しいことだと勘違いするが、しかしこの世の中に絶対はあり得ない、そこが、議論する上で最も重要なことではないだろうか。
議論すると言うことは、自分が正しいと主張する場ではない、何が正しいのかということを導き出す場である。



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型 そんなものBULLSHITだ。

2010-07-22 | Weblog
楽天で幹部は英語が話せなければクビというニュースを聞いた。
日本で働くのに何で英語が話せなければならないんだと思うのだが、しかしここ最近多くの企業が英語と言う世界の共通語を重要視し、大手の企業の中には英語で会議をしているところもあるそうである。
我々が好む好まないにかかわらず英語と言うのは、重要な言葉でこれができるかできないかで大きな差がでてきているのは確かなことである。
特にスポーツにおいても今や英語は欠かせない、この英語ができるかできないかで情報をひろうのは大きな差がでてくるのだが、おそらく英語と言うものを意識し、外国と言うものを意識すれば、そのコミュニティー自体も変わるのではないかと思っている。
私から見て、日本のアスリートは非常にまじめで、練習熱心である。
しかし外国の選手のように個性的かというとそうではない、全員が監督の言うことを聞いて同じようなボクシングをしている印象がある。
むこうは自己管理と言うのが徹底しているので、しんどかったら休んだり、中にはさぼるのもいたが、しかし個性がないかと言えばそうではない、ボクシングのスタイルにおいても十人十色で、見ていて同じようなタイプはなく、私などはパンチや防御をきれいに教科書通りにうつので、逆にそのやり方を懸念されたぐらいであるから、どれだけむこうはオリジナリティと言うものを大事にしているかおわかりいただけるであろう。
しかしオリジナリティーと言うのは一朝一夕に備わるものではなく、もともとその人の持っている特性と言うものをアドヴァンテージに変えて行くことによって、備わるものであると思っている。
前にも言ったが欧米人は小さいころから3つから4つのスポーツをかけもっていて、だいたいが実戦中心型で、日本のように集まって素振りの練習などすることはなく(声だしなんていうのは言語道断あるが)、この実戦を通して思い切り自分のスタイルで競技できるので、それなりのバランス感覚を養うことができ、そのバランス感覚が他のスポーツにも生きてくるのである。
メジャーリーガーなどで、一見めちゃめちゃなかまえに見えて、えげつないホームランをうつのがいるが、こういうスタイルは日本ではまずあり得ない、小さい時から実戦で自由に競技し、そこで通用するバランス感覚を養えたからできる技で、このバランス感覚と言うのはのちに何のスポーツをするにしても、それがおおいに生かされるのである。
しかし日本のように練習のかたちと言うものがある程度決まっていて、同じスポーツしかできない土壌では、この競技スタイルにおいて個性と言うものは育ちにくい。
欧米人の個性と言うのは、単に目立とうとしてのパフォーマンスではない。
子供の時からいろいろなスポーツをとして養われてきたものであり、かたちはめちゃくちゃでもきちんと確立していて、間違いなく欧米人はこのバランス感覚がすぐれていて、それを見せつけられることが多々あるのではないだろうか。
外国で試合をしたものならわかると思うが、外国の選手はあれっと思うところからパンチが出て来て、それになれていない日本人は、知らず知らずのうちにポイントを取られ相手のペースにまきこまれてしまっているということがあるだろう。
私から見て日本はあらゆるスポーツにおいて「型」というものが存在する。
ボクシングのような欧米のスポーツでさえ「型」というのが存在するのだが、だいたい日本ではこの型にはめることからはじめるというのが、私の印象である。
しかしもうそろそろ多少柔軟性をもって、考える時代になってきているのではないだろうか。そして少なくとも「型」と言う言葉をなくし、基本と言う言葉をなるべくつかわないようにしたほうがいいのではないかと思っている。
たぶんスポーツのシステムを今さらかえることはできないだろう。
しかし新しいスポーツを取り組むのだからと言って、型にはめず。その今までやってきたスポーツの特性を生かした、臨機応変な指導法と言うのを理解し、学ぶことも大事なことだ。
そういう意味で外国語を学び、他国の情報をつかむことは、これからの時代には必要なことである。

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Mement  Israel

2010-07-20 | Weblog
先日うちの子供が子供どうしのいざこざから、指を戸ではさんでけがをした。
幸い相手の保護者の方の常識的な対応で、事なきを得たが、子供が何かした時や何かがあった時、親の対応と言うのは子供にとって非常に重要である。
子供というのは自由にさせていれば、必ず何か問題を起こすものである。
けんかをしたり、時にはあるいざこざから、一方的に暴力をふるったりと、それは子供であるがゆえに自然のなりゆきであるだろう。
しかし大事なことは、そういう時に親がどういう対応をとるかと言うことである。
実際私も子供が何か間違いをするとかならず、なぜそういうことをしてはいけないかということを説明するようにしているが、もし冷静に考えて自分の子供のしていることが、まちがいだとわかったら、当たり前だが、なぜそれがいけないことかということを頭で理解させるようにしているのが、私のやり方だ。
よく相手の気持ちに立って物事を考えろというが、子供と言うのは時には恣意的であるのでそういうことを言っても消化できなこことがある。だから同時に私はなるべく小さいうちから、これはしてはいけないというルールを説明して頭に叩き込むようにしている。
道徳と言うのは感情だけの問題ではない、論語で自分がしてほしくないことは、人にもするなという教訓があるが、相手の立場に立てというのは、この影響があるのだろうか、社会のルールを語る上では抽象的であいまいである。
孔子というのは非常に尊敬されるべく偉人ではあるが、しかし彼は幼くして父をなくし、そしてさらに母親もなくしているので、論語は時々情というものを大事に考えている。
たとえば葉城の首長である葉公に「うちの国で親が羊を盗んだのをみた子供が、自分から進んで証言することはほうが徹底しているのではないか」という質問に「うちの国にも正直者がいるが、子は親をかばい、親は子をかばうのが自然のなりゆきだ」と言っているが、これは親や人をいつくしむことを教えた彼の仁の教えであるが、しかし孔子の言う情と言うのはあくまで親子の絆ということが前提であり、論語と言うのはある意味封建的であり、現代社会においてはマッチしない部分も多くあると言えよう。
人間が生きて行く上では必ず、ルールと言うものが存在する。
その代表的なものが法であるが、私はこの法と言うものを意識し、したがって生きることが大事なことではないかと思っている。
イスラエルでは12歳ぐらいの時から、トーラーという彼ら独自の法をおぼえさせ人前で読ませてこの法に従って生きることを、宣言させるのだが、彼ら彼女らにとって、その社会的共同体の一員であると言うのは、まさにその法を守るか守らないかなのである。
少し過激な意見であるが、私は小学校の5、6年ぐらいから法律の時間というのをつくればいいのではないかと思っている。法律の専門家を呼んで週に一度ぐらい、教育を受ける義務や、生きて行く上でのルールを教えることは、現代社会においては非常に意味のあることではないだろうか。
よくある涙を誘うような話もいいが、しかし時には法を意識し、世の中で何が正しいかと言うことを意識することも大事であり、もしそのことをイスラエルのように徹底させれば、モンスターペアレンッのような親に、逆に疑問を感じるまともな子供もふえるであろう。
最近問題行動を起こす子供が増えているらしいが、そのしつけを親にまかせていても無駄、しょせんカエルの子はカエルである。
夜中にレンタルヴィデオ店に来て、子供を騒がせる親を見て不快に感じるのは私だけではないだろう。親も親でたいていはちんぴらの様な格好をして、お笑いか、程度の低いヴィデオ探しに夢中になっている。
こういう親にしつけをしろと言っても無駄、だったらその子供たちに社会のルールを法と言う権威を通して教えることも大事ではないだろうか。
今やもうしつけという言葉は一部の人間のものだけである。
そういうしつけと言う言葉にたよっていてもらちが明かないかもしれない。






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学問のすすめ。

2010-07-16 | Weblog
今日子供の懇談があって学校に行って来た。
そこで先生がうちの子供について言っていたのだが、最近自分の意見を手を上げて言えるようになったそうで、不当だと思ったこと、そしてわからないことや疑問に思ったことなども手を上げてもう一度説明してくれと言うそうである。
実は私は彼にこう言いきかせている。
世の中で一番大事なことは、正しいことを正しいと言えることだ。
そのため何が間違っていて、何が正しいかと言うことを、一生懸命勉強して判断できるようになって自分の意見を言えることが大事、彼が英語やケネディなどの伝記などに興味を持つのは、その影響があると思うが、私は基本的に本当に正しく、強い考え方を持つためには学問は不可欠であると思っている。
前回挙げたチェゲバラも、たとえ最前線で戦っていても本を読み続けたそうであるが、それは彼が戦いの中にあっても本当の力となりえるものは、何かと言うことを知っていたからであろう。
彼のあの今日まで影響を与え続けている思想は、まさに彼の学びや知性その行動が作り上げたものではなかろうか。
よく人は自分の意見を持つというが、しかし本当にはたしてそういう自分の意見がたやすくもてるのだろうか?
たいていが恣意的にものごとを考えているか、勢いにまかせて言っているだけで、そこにははっきりとした根拠がなく、聞いてて聞き苦しい。
私はクラブの子供にもそうであるが、自分が疑問を感じたり、不思議だと思ったり、聞きたいと思うことは、聞かなくては成長しないと言っているが、それはボクシングの指導においても何においても、上から考えを垂直におとされるのではなく、自分で考える能力をつけるためで、これからの時代の人間には必要であると思っているからだ。
しかし世の中は、自分で考え、本当に何が正しいかと言うことを見極めることは困難である。しかしこの複雑でグローバリゼーション化された現代だからこそ、われわれは何が正しいかということを、しっかりと学び判断できる人間にならなくてはならないだろう。
スポーツクラブは人が集まる集団であるから、人間の成長には知性は不可欠である。
情や勢いでは決して、その集団をよくすることはできない、がらのわるい運動クラブがたむろして騒いでいるのを時々見るが、単に仲間意識で集まっているだけでは、暴走族と変わりないだろう。
その集団を指導していく人が教養をもつということは、その集団を成長させていくことと深くかかわっている。
私自身もまだまだ十分ではないが、しかしそれでも興味を持って学ぶことを大切にしているが、そういう人間が語ったり、教えたりする時に、刺激を与え、何かを学ばせることができると思っているからである。
私はここにいる青少年を決してスポーツ馬鹿にはしたくないと思っている。
スポーツ馬鹿にしたくないからこそ、自分自身も一生懸命学んでいる。







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EL CHE VIVE

2010-07-14 | Weblog
LAに行った時のこと、あるカベにスペイン語らしき言葉で「EL CHE VIVE」と書かれてあった。
私はこの言葉がなぜか気になったのでメモして、スペイン語のわかる人間にどういう意味かと聞いたところ、それはスペイン語だったかポルトガル語かはわすれたが、日本語で「チェは生きている」
そうチェとはあのキューバ革命で有名なチェゲバラ本名エルネスト ラファエル ゲバラ デ ラ セルナのことである。
最近では彼の伝記と言うか生きざまが映画化され、日本でも上映されたが、私は彼の革命が正しかったか、間違っていたか、あるいは彼の革命が成功だったか、失敗だったかという議論はさけたいが、しかし単純に言って映画を見てもわかるように、彼の信念に基づいた行動は今日も多くの人々の心をひきつけ、影響していると言えるであろう。
私はアメリカにいたので、このチェやカストロに関してはあまりいい印象はなく、どちらかと言えばカストロ=独裁者という見方をしていたが、しかし彼らのことを学ぶうちに、この考え方は勘違いであったということがわかったのである。
実際彼らはゲリラ部隊を率いて、キューバ独立そして、チェはそのはてに南米の解放にむけて戦ったわけであるが、彼らは常に最前線に立って、ともにしいたげられた人民とともに戦ったそうである。
チェは幼いころからぜんそく持ちで最初は軍医として参加したが、しかし戦っていく中で彼はともに戦うことを決意したのだが、まさに彼は大国という国に搾取され苦しんでいる人たちの解放のために命をかけて戦ったのである。
カストロは「人民の苦しんでいるところ、それが指導者のいるところだ」と言って、最前線で戦うことをいとわなかったそうであるが、彼らの信念は苦しめられている人たちとともに戦い、解放するということで、そののちにカストロはその同志たちとともに戦い革命を実現させたのだが、これがキューバ革命である。
余談だがカストロの息子は政治家ではないらしい。
学校の教員をしているそうだが、私はこのことを知って彼の独裁者という見方が変わったことは確かであった。
アイキュロスは言う真理の言葉が単純であると言った。
個人的な意見だがチェの言葉は単純で簡素だ、そして時には子供時代を彷彿させるような言葉を語るが、しかしその言葉は力強く、それはしいたげられている群衆の言葉である。
よく人は信念と言う。
しかし信念とは一体何だろうか?
私自身も信念について説明はできるが、しかしはたしてこれを知って信念を持っているかと言えば実にあやしいものである。
おそらく考えるに本当の信念とは自分自身のうちにあるのではないと思う。
人間は自分のために何かをしょうとすると必ずつまづくし、本当の意味で答えなんか見いだせない。
ボクシングでチャンピオンになることは信念がなければできないことだろうか?信念とは関係なく才能があればできることだろう。また金を儲けることは信念がなければできないのか?おそらく信念と言うのはチェやカストロを通してわかるように、自分自身の実現ではなく、自分が自分自身をささげて何かをしようとするところから、本当の信念は生まれるのだと思う。
自分自身のためにかかげる信念は、しょせん最終的には自分の保身につながるものである。
しかし彼のように自分自身を人のためにささげようとする時、自分を越えた力が与えられ、そういう生涯をかけてつらぬける不動の信念が持てるのだろう。







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化粧ののりがいちだんといいですねーっ

2010-07-09 | Weblog
昨日留学でお世話をするフランス人の女性からメールがあった。
彼女はまだ15歳、彼女は生粋のパリっ子で、スパイダーマンのヒロイン役のKiersten dunstをどことなく彷彿させる面影である。
こちらに来る目的はおそらく彼女は飛び級なので、そのあいたというか余裕のある1年を、日本の高校に留学して、日本語と日本の文化を学ぶということであるが、一応受け入れてくれる高校も決まっていて、今年の2学期からその高校に通うことになる。
しかし毎回外国人のメールなどを見ると日本語の難しさというのがよくわかるが、彼女が来たらジムの連中とも交流を持って、生きた日本語と文化を学んでもらおうと思っている。
彼女ははかなりきちんとした日本語で書いてくるので、そう問題ないのだが、私の友達は日本語を話せる奴が何人かいるのだが、しかしそれでも日本語は難しいので、とんでもない表現をする奴もいて、笑ってしまうほどである。
余談ではあるが、昔台湾人のピーターが沖縄出身の女性と付き合っていた時に、女性のかっこいいほめ言葉は「今日も一段と化粧ののりがいいですねーっ」で、特に「ねーっ」とのばすところがかっこいいんだとだと教えたことがある。
彼は日本語が少しわかるのだが、どういうことだと言ってきたので、とにかくパーフェクトだと言うことだと適当にごまかしたのだが、彼はバカ正直なので会うたびに彼女に「今日も化粧ののりが一段といいですね」と言っていたらしく、あまり毎回毎回そういうことを言うので、その彼女にあんな下品な日本語を教えたのは、あなたでしょとおこられたことがある。
ハワイでラジオを聞いていた時だ、ハワイは日本語のラジオ局がいくつかあるのだが、そのラジオの番組ででクイズみたいなことをやっていた。
実は私はこちらのラジオに2回ぐらい出演したことがあるのだが、ラジオ局に行ってまず最初に驚いたのは、待合室でケーキやジュースなどの甘いものが、わんさか置かれてあって、それを自由にとって食べていいことである。
私はその都度、あっこんなに甘いものがあるんだったら、持ち帰りできるようなものを持ってくればよかったと思ったのだが、当時若い私にとって魅力のあるスイートがそこにはおかれてあったのだ。
話はクイズに戻るが、そのクイズの形式はまず問題を言って、そこにいる何人かの回答者が答えるというものであったが、やはりそこは日系人微妙であるが、日本語の誤解や表現の間違いがあって、それがおもしろくてよくその番組を聞いていた。
その中でもよくおぼえているのは聖徳太子事件である。
クイズの問題は確か17条の憲法を制定した、仏教徒の王様であったか、皇子だったかはわすれたが、そういう問題があって、この答えはもちろん誰でも知っている聖徳太子のことである。
しかしその答えは日系の人には、古すぎで難しいのかなかなか答えがかえってこない。そこで出題者がヒントは何々太子ですとヒントを出したのだが、そのヒントにようやく回答者が答えたのだ。
しかしそこはさすがアメリカ育ち、その質問に何と答えたかと言うと自信ありげに「ダルマ太子です」と答えたのである。
でこの答え普通というか、正しい正解を求めたらブーッである。
しかし出題者はその答えを聞くやいなや「はい正解です」と言ったのだが、この回答者も問題を把握していないというか日本語がよく理解できていない、たぶん漢字が十分に読めなかったと思っている。
この番組はそれだけではなく、普通こんなこと言ったらピーが入るやろというようなことも言っていて今思えばかなりアバウトな番組で面白かった。


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ジョージと言う男

2010-07-07 | Weblog
当時のHIのボクシング事情は、ひとつの体育館のようなところにボクシングのチームが集まってきて、それぞれ練習するというような感じであった。
体育館にはサンドバッグなどの設備も十分に整っていて、リングも公式と練習用のがそれぞれおいてあって、そこで開放された時間、学生や社会人たちがあつまって練習すると言うようなしくみで、そこにはいつも多くの学生や社会人たちが集まっていた。
いろいろな人が集まってくるから、当然スパーリングなどのパートナーはたくさんいて、日本のように同じ相手とばかりということはないので、効率のよいスパーリングが求められたのだが、さらに効率がいいと思ったことは、そこにはかっての名選手やボクシングが好きな人がいて、いろいろな話を聞けて、いろいろな角度からボクシングを見れたことである。
その中でもジョージという日系人の出会いと言うか、彼から教えを受けることができたことはたいへん光栄なことであった。
たぶん彼は教えることにかけては天才であろう。
ただ変人といわれていたので、ほかの人間が寄り付かなかったが、しかし私のような才能のかけらもない人間を、当時100戦以上試合をしている人間がざらにいる中で、しかも異国の地で優勝させたのであるから、その実力はたいしたものである。
しかしだからと言って彼と私との当時の二人三脚ははじめからうまく行ったかと言えばそうではない。
なんせ変人と言われている男で気難しく、私もたいした才能もないわけだから、彼の言っていることが練習でうまくできず、度々彼とは衝突したものであった。
しかしある時、彼は大量のヴィデオと一冊の本を持って来た。そしてそのヴィデオを私に渡して、これをかえって見ろとのことであった。
実際私は彼の教える技術がうまく練習でできず、それでもできるという彼の指導に、彼と二人三脚は無理だと思っていたのであるが、しかし彼がこうしてヴィデオを持ってきたのには理由があった。
その時練習を何度もさせてその技術を習得させていたが、それができない私の運動能力に限界を感じて、こいつはたぶん頭で理解させたほうが技術を習得させやすいのではないかと思って、ヴィデオを見て研究しろと言ったそうである。
実際ボクシングの手引きのヴィデオなどはよく理解できた。
むこうのボクシングは、必ずものの原理を伝えようとするので、理解しやすく、同時に自分には何が足りなかったのかと言うことが理解できる。
さらに他のいい選手などのヴィデオをみていても、いい選手には、いいパンチをうつ時には必ず特徴があり、その特徴をまねるとかなりその技術が上達したことは確かであった。
今思えば自分の技術がかなり進歩したのは、間違いなく彼が自分に自分のあった指導法を見つけ、自分にあった指導をしてくれたからである。
しかしかつては名選手で今は名トレーナーのジョージであるが、この時何の仕事をしていたかと言うとよくわからない、彼の行動から察するにどうやら、ある女性に面倒をみてもらっているようであった。
私はよく彼が行くバーに飲みに連れて行ってもらい、彼がしょっちゅうへべれけで車を運転するのだが、その車の中で、こういうことをよく言っていた。
「ボクシングをやって何かをつかんでも、うしなうものも大きいよ。
僕なんてやめて最初の5年間は何もなかったよ。本当に平凡に生きることは難しい、しかしこれができる人間は偉大だ。お前はまだ学生だし、利口だからよくわかるよな」
今でも彼の言ったこの言葉を思いだす。

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模倣

2010-07-05 | Weblog
以前紹介した男でエドという日系人がいる。
彼はUHの学生でいわゆるボクシングフリーク(ボクシングおたく)である。
彼はよくジムに来ていた。がしかし来ていたと言っても5,6ラウンド練習するぐらいで、あとは人のを観察したり、隅のほうで自分のボクシング論について語っているようなそんな奴だったので、私も最初は本気で相手にはしていなかったのだが、しかし彼が日系人で日本語が流暢と言うことで、彼と一緒にジッピーズに言って以来、よく話すようになった。
しかし彼が日本語が流暢なのは、お母さんが日本人だからということだけではない。
実は彼は小学生の時、静岡かどこかは忘れたが、そこで何年か暮らしていたらしく、当時小学校にも通っていたという。
そこで私は彼によく聞かれたことがある。
それは彼が日本にいたころにいたアニメのことで、どうやら彼はそのアニメが最終回の2,3日前に、アメリカに帰ったので最終回を見れなかったそうで、そのことがたいへん気になっているらしく、会うたびにあの最終回はどうなったか友達に聞いてくれと、ひつこくせがまれたものである。
しかしこのエドという男、非常に頭がよく確か彼は優秀な大学に編入したと聞いたが、さすがボクシングにおいてももののとらえ方が違う。
彼曰くボクシングはOpticallyにとらえることも大事だと言う。
例えば死角をついて角度や相手の動作を見ることは大事なことであり、ここをつけば必ずパンチがあたるという。
よく私が相手の体がある方向に開いた時に左フックをあわせてあてていくのだが、、それがうまく機能するのも、その方向に体がひらくと一瞬右目の視界がなくなるので、左フックがあたるのだというが、こういう観察力は競技者である以上重要なことであり、こういったことはすべてきき目が関係してくるのだという。
そしてさらに彼はボクシングはイメージ力が大事で、そのイメージ力を高めるために当時あまり導入していなかったビデオカメラを見て、観察することも重要だと言っていたが、ボクシングの上達法はコピーすることであるそうで、そのためすぐれた選手のビデオなどを何度も見てイメージ力を養い、コピーすることが大事だと言っていたが、このことは心理学的にもそう言えるだろう。
アドラーか誰かは忘れたが、生まれて来た子供はまず鏡に映った自分を見て、自分であることを認識し、そしてそこから模倣をおぼえ、この模倣によって人間社会の生き方やルールを学び、人間であることに成長していくと言うようなことを言っているが、模倣と言うのは本能的にもすぐれた手段であって、これを無視するわけにはいかないだろう。
すなわち心理学的に言うならば、この模倣あるいはコピーすることによって人間は自己が高められていくことは確かなことであり、それはスポーツにおいてもそう言えるのではないだろうか。
よくオリジナリティというが、しかしこの人間の成長の過程においても、模倣は重要なことである。おそらくひょっとしたら、欧米人の言う基礎練習と言うところにあたるのが、この模倣だと思っている。
日本人はよく基礎練習と言うが、むこうにはあまりそういう考え方はない。代わりに彼らはよく人の練習を観察しているし、ビデオなんかもよく見ているのが、まさにそのことは彼らの基礎的な要素となり、彼らのオリジナリティーを生み出す上でも重要な練習である。




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