脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

曖昧でなにがわるい

2017-12-27 | Weblog

백지영 화장을 고치고

日本語はめずらしい言葉だ。必ず母音でおわるので発音自体はかわることがないので、フランス語や韓国語に見られるリエゾンなどの法則や規則がない、発音に関してはある意味合理的と言える言葉である。これに対して韓国語はリエゾンだけではなく、鼻音、そして流音などの変化があって非常に複雑である。でもこの規則変化であるが、ネイティブはそれを説明できるかと言うとできない。生まれてその法則で話しているので特に意識する必要もなく、その法則をきちんとやるのは中学か高校でその時は国語のテストに出るのでまじめにやるそうだが、それがおわるとうすらおぼえでおぼえている程度だ。この発音の変化は会話では重要なので、韓国語の講師を選ぶ時このことがしっかりと説明できるかということは、ある意味いい講師を選ぶ基準になると思う。

今韓国に対して風あたりが強く、すごく嫌われていることがわかる。だから韓国語なんて言うと嫌悪感をもたれることもあるので、こういうことを書くのも少しためらうが、私はあまのじゃくなので向こうでは日本人を強調し、ここではその逆を強調して生きているが、何をかくそう彼ら彼女らにうらみをもっているし韓国人が大嫌いだ。でもしかし私の人生を語る上では彼女らの存在は大きいのは事実だ。私が彼ら彼女らの歌の詩に感動するのは、その感情特に悲しみや未練と言った恩や恨の気持ちをその歌詞や歌う気持ちに込めているからで、そういう気持ちが理解できるのはやはり半島の血が受け継がれているからだと思う。朝鮮の女性は喜怒哀楽が激しい、よく泣くしよく笑う、そして彼ら彼女らの歴史の中でつらい思いをしてきた人が多いのも事実だ。学生の時ある韓国人のおばさんに同情された。私は何とも思ってないが、そのおばさんが私の手をとって私の目を見た時にすごく悲しい目をしていて、この人すごく苦労してきたんだなあと言うことが伝わってきて、なんだかすごく悲しい気持ちになった。彼女らが喜怒哀楽が激しいのはそういったつらいことや悲しいことを受け流すためかも知れない。日本語で生活をし、英字新聞を見て、韓国語の歌を聞いてその詩に感動する私はすごくあいまいな人間だ。日本人であることを否定も肯定もしないし、韓国人であることもまた否定も肯定もしない、そういう存在である。うちのクラブは基本的に曖昧でもいい、意志が弱い、へたれだ、運動ができないそういう人でも、試合に出る気なんかなくても、ボクシングに興味がなくてもちゃんとここには居場所がある。へたれ大歓迎と言うのは宣伝文句ではない。それは私のこうした気持ちがあるからだ。

 

 

 

 


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シャンシャンの発音

2017-12-24 | Weblog

日本人記者の「シャンシャン」の発音の仕方が「杉山(Shanshan)」の中国語発音に似ていたため、華報道官が聞き間違え日本外務省の杉山晋輔外務事務次官のことについて質問されていると勘違いしてしまったと言うニュースがあった。シャンシャンは日本語で発音するとパンダも杉山さんも同じであるが、しかしこれは微妙に違う。まず日本人は「ん」と発音する時唇を閉じる。しかし韓国語の場合は(中国語も同じだと思うのだが)日本語の「ん」にあたる言葉は唇を閉じずに下を前の歯の後ろにつけるように発音するのだが、この場合「ung」と「 n」の2種類の「ん」があって、シャンシャンの「ん」はungで杉山さんの「ん」は「n」だ。韓国語も中国語も唇を閉じて「ん」と言うのはむしろ「む」に近い音なのだが、日本人のように唇を閉じて「ん」と発音すると「ung」が発音できないのですべて日本語で言うところの「ん」に聞こえてしまうのでshaung shaungと言ってもそれがshan shanにしか聞こえないのだろう。おそらく日本人が言うとほとんどが杉山さんになってしまうのだろうと思う。

今年もクリスマスの寄付はおもにロヒンギャ族の緊急支援のために役立ててもらった。ロヒンギャ族の問題についてはここでふれることはしないが、しかし弱い立場の女性や子供が迫害されて虐げられるということに関しては無関心ではいられないのでそうしている。クラブにおいても子供や女性をいたれるような雰囲気がなければ大人としてのコミュニティではないと思っている。洗練されてない未熟な人間の闘争本能は女性や子供にとってはある意味、害である。自分がやりたいことだけを人を押しのけてまでもやるような、自分のことしか考えていないような人間がまさにそうであるが、こういう人間が何人かいたら間違いなくそのコミュニティの雰囲気はわるくなり、質がさがる。闘争本能と言うのはマイナスとプラスがある。昼間に来るトレーナーは顔はいかついが、常にまわりに気をつかい遠慮してくれている。人のとなりに行って教えてくれたり、話しかけてくれたり、女性や子供が遠慮していたら「遠慮したらあかんぞ、こっちにおいで」と配慮してくれるのだが、彼が一生懸命トレーニングしているのを見たら、自分もやろうと勇気づけられると彼にかかわった会員の人たちが言っているが、まわりにいい影響を与えてくれるいい意味での闘争本能だと思う。はっきり言って上級者がトレーニングに集中していて、まわりが遠慮したり、マイナスの意味で「自分みたいな下手なのが」とトレーニングをすることに多少のためらいをもたせたり、遠慮をさせるような闘争本能は未熟でマイナスである。中高生のクラブならまだしも、そういう年齢の人たちが集まっているわけでもないし、哲学があるクラブであるのだから、ここでは試合前だからと言って、トレーナーなどの特別な立場や勢いのあるものが優先的にトレーニングできるということことはしないさせない。いかなることがあっても女性や子供に配慮して、トレーニングできるような雰囲気をつくりたいと思っているが、今のところはみなさんの協力もあって、それが実現しているが、これからもそういう雰囲気を続けて保っていけるようにしたいと思っている。





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Have Yourself a Merry Little Christmas.

2017-12-22 | Weblog

Have Yourself a Merry Little Christmas (cover) Megan Nicole

 

前にクリスマスが好きではないと言った理由はクリスマスが大虐殺があった日だからだ。聖書の記述によるとこの日ユダヤの新しい王が生まれると言う予言を聞いて、それをねたんだヘロデ王がそこで生まれた嬰児たちを大虐殺した日である。しかしこの日は西洋では人に何かを与える日として定着している。クリスマスにはCMなどでも多くの商品が宣伝され我々の購買欲をそそるが、本来はプレゼントももらうということよりも与えるということが趣旨で、それは人間の罪のために救い主として到来したというイエスの誕生と深く関わっている。うちのクラブもクリスマスには毎年子供をおぼえて何かしている。何かといってもそれは宗教的な意味もないし、口できれいごとを言うだけではなく、ただ何か役に立てればとMTオリーブと言う名前で子供に関連した団体に寄付をしている。クリスマスは子供にプレゼントを与える日だ、そしてプレゼントを与えるのは子供の笑顔が見たいからだ。子供が幸せだということなくしてはこの世界に平和などあり得ない。クリスマスは嬰児の大虐殺があったわけだが、今現在も多くの子供たちが虐待されたり、不幸な環境におかれている。クリスマスの大虐殺と言うのはまさに今起こっている悲惨な出来事の象徴であり、イエスの誕生と言うのはまさにひとりびとりの良心や思いやりを喚起させるための出来事である。メリークリスマスとクリスマスをお祝いするのもいいが、しかしこの日ひとりでも多くの人が少しでもそのことをおぼえるだけでも大きな力になるだろう。

 


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그래, 굴레를 씌운 건 고약한 세상이지만, 그 걸 벗는 건 김윤식. 미 몫이야

2017-12-19 | Weblog

よくある思春期の子供の相談。自分は透明の存在だとか言う。たぶん彼は人の輪にうまく入って行くことができない、友達との関係がうまくいかずに悩んでいるのだろう。私は彼にこうアドバイスした。「人間は絶えず自分が何者かわからないし、自分が自分であると言う自信なんてない。君が今自分は人とうまくやっていけないということで悩んでいるようであるが、人間は不安だから固まる、固まって仲良くすることでお互いが安心しあう。そういう意味では人間はすべて自分が何者かわからない透明な存在なんだよ。多くの人間は透明であるからかたまって安心する。けれどもそれができない人間がいる。たぶん君のような人間はそうだと思うのだが、人間は固まって生きるか相手にその存在を認めさせるかだ。たぶん私のような人間はそう生きてきたかも知れない。けれどもそういう生き方よりももっと大事なのは自分が今生きている証をつくることである。何かを一生懸命やっている間は自分は透明ではない。くやしさをバネにとかマイナスエネルギーをつかって自分を向上させるのではなく、今生きている自分を大切に何かを一生懸命まじめにやればそれ自体が生きている証となる。人間の存在証明なんて履歴書のようなものではない。進行形で何かをし続けるから自分は自分でありうるわけで、そういう生き方ができる人間は自分の生き方に自信が持てる。透明だなんて言っていないで、今自分に何ができるかと言うことを考えて、そしてそれがわからなかったら今ある身近なことから一生懸命取り組んでみろ。そうすれば君はもはや透明ではなくなる。」

韓国語の映画にこういうセリフがある。그래, 굴레를 씌운 건 고약한 세상이지만, 그 걸 벗는 건 김윤식. 미 몫이야(偏見を作ったのは世間だが、克服するかは、キム・ユンシク、君次第だ。)思わずジーンときた。これは身分制度のある朝鮮において、身分の違いにあきらめようとする女性に男性が言った言葉である。自分は透明な存在だと言って感傷に浸るのもいいが、人間はうごかなきゃ何もかえることはできないし、そして自らをかえていくこともできない。自分たちは命が与えられて生きている、その自分が与えられた命の中で生きることがゆるされている。それが権利としてあるということは素晴らしいことである。世界や世の中は動きづづけている。そういう動き続ける世界の中で化石にならないようにとにかく何かを始めること、それをはじめることで自分は透明ではなくなる。

 


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私が日本のスポーツの監督を評価しないわけ

2017-12-14 | Weblog

これは1年ぐらい前の私のブログこのブログを見たら日本のスポーツの監督がなぜ好きではないかと言うことがわかると思う。

元巨人の桑田が体罰はダメだということをしきりに言っている。そしてそのことをスポーツ界の指導者たちにうったえかけている。前にスポーツ番組でその桑田と何人かのスポーツの監督が意見を交わし合っていた。そこには有名な女の監督が二人いたのだが、体罰に関して二人とも体罰は時には必要だということを言っていた。でも話を聞いていて笑えるのはこの人たちは物事を一般化できていないといないと言うことだ。意見を言う時も私はとか私たちはみたいな一人称的な発言が多く、この人たちは物事を客観視できていない本当に教養がないと思った。スポーツと言うのはこの人たちみたいにそれしかしてこなかったという人たちだけのものではない、スポーツを競技していても社会とのかかわりがあるのだから、体罰などの問題を語る時は物事を一般化する必要がある。でもこの人たちは相手を成長させるために殴ったとか殴られた。でもそれは自分のためだみたいな発言をしていたが、本当にダメだと思った。この人たちはスポーツ以外に何をやってきたのだろうか?監督だったら共通語の英語が話せるのか?ほかに何かきちんと勉強したことがあるのだろうか?こういう物事を一般化できないような人間を恰も我々の代表のように発言させることは大きな問題だと思う。体罰と言うのは人権の問題だ、そいつらは本気かどうか知らないが、しかし一般的にはたかだかスポーツごときでできないと言って頭や顔を殴られたり、罰を与えるというのは根本的に間違っている。それは人権侵害だ。ある作家が「性と国家」の中で、自分は性悪説だから暴力を徹底的に制御するシステムをつくらないといけないと言っていたが、戦争をしかけるのも武力で都合よく相手をおさえるため、人間はもともと性悪だから暴力を都合よく利用し相手を自分の意のままにしようとする。体罰は愛のムチだと言う大義とベトナム戦争はベトナムの人たちを解放するためだ、イラク戦争はイラクの人たちをフセインの独裁から自由にするためだという大義と考え方の構造は同じだ、リテラシーがないとこういう構造を見ようとしない、だから発言が一人称的であるのだ。学校や社会では暴力はゆるされない、そういう一般的な考え方を無視して愛のある体罰は必要だなんて言うのは言語道断、私は勉強してないアスリートが大嫌いなのはこういう身勝手な考え方しかできないからだ。

桑田は体罰に関して論文を書いたらしいが、桑田の問題点はその体罰を野球と言うスポーツだけの枠でとらえようとしたこと、だからこういう人たちのつけいる隙があったのだと思う。彼の意見は素晴らしいが、しかしそういう問題を語るためには倫理学や社会学の観点から考察する必要があったかも知れない。


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偶然だと思っていることは必然である

2017-12-12 | Weblog

私が好きな学者にキムナンドと言う学者がいる。ソウル大の哲学の教授で何回かNHKの白熱教室で取り上げられた大学教授である。彼はラジオで人生相談を持っている。
これはその人生相談で彼に対してよせられたハガキであるが、その手紙の内容は詳しくは忘れたが、その便りをよせたリスナーの家はまずしく病気の母親がいて、本当は進学をしたかったのだが、しかしまずしさと母親の面倒をみなくてはいけないので、その夢を断念せざるを得ず小さな工場に就職したのだが、こういう仕事と親の面倒を見るだけの人生に一体どこに幸せがあるのかという半ば彼に対する挑戦状のようなハガキである。

それをうけとった教授は最初どう返答していいのかわからなかった。そして言った一言が「今おかれている境遇を受け入れろ。自分の人生を愛せ」と言う言葉であった。
これを言った時彼は決してこのことが本当に正しいとか、それを彼に頭ごなしに認めろなんていう権利もない。そしてこういう無神経なことを言って、彼のことを傷つけてしまうかもしれないと思ったらしい。そしてそのことによって彼にうらまれても仕方がないだろう。がしかしこれは自分が言える精一杯のことでそれが最も真実に近いのかもしれないと言う気持であった。

それから何日かしてそのリスナーから返事が来た。
確かに最初は彼はその言葉を教授から聞いた時はなんもわからないくせに何を言っているんだ、俺の苦労もわからないくせにと、その無責任とも思える言葉にひどく傷つき教授をうらんだそうである。
しかしある時どういうきっかけけでかは忘れたが、そこまで言うのだったら、自分の今の境遇を受け入れそして前向きに生きていこうという気持ちがおこりそして努力したそうだ。
しかし前向きに考えては行ったものの自分の生活など一向にかわるはずはない、毎日がやすい賃金で働き、そして帰ると親の世話を見なくてはいけない。しかしある時そういう生活を続けていく中でひとつ発見したことがあった。
それは苦しくても自分の人生を受け入れて前向きに生きようとする彼を見てまわりの態度がかわったことである。そしてそこから少しずつまわりの彼を見る態度がかわり、たいへんだねえ、それでも親の面倒を見る君は本当に立派だよと言うように声をかけられ、少しずつでも変化があらわれ、自分の置かれている境遇を受け入れることができ生き方が楽になったそうである。

人間は不公平であるのは当たり前だ。人間はみんな平等だなんていう言葉があるが、人間は生まれた時から能力差というものがあり、その努力の量も限られてくる。それに裕福な家に生まれるか生まれないかと言うのも、運命次第である。
しかし大事なことは自分の人生を受け入れることだ、自分の受け入れ方がかわればものの見方がかわる、自分の生き方を肯定できるかできないかは自分次第でニーチェも「人間が生まれてきたことの偶然性を知る、しっかり語る、しかしそのことでがっかりしない人間なんてつまらないとも思わない、偶然の世界と人生をありのままに受け取る、それが強い人間である」と言っているが、それができれば人間は生きがいや幸せを感じることができると思う。

さらに付け加えて言うならばそれは私たちが偶然だと思っていることは偶然性ではなく、進んでそれを受け入れなくてはならない理由がある。
昔学生の時食事目当てで行っていたハワイの教会でこういう話を聞いた、それは「神は陶器をつくる職人で我々はその作品である」と言う話である。一見何のことかと思ったが、もし神が陶器を作る職人であったならばその陶器が不完全だとすてられてしまう。しかしそれでも自分たちがそこに存在するということは神の作品であり、不完全ではないということだ、だから自分が今ここに生まれてきて、体験しているということはすべて意味のあることであるというたとえである。
私はかつていろいろな境遇の子供を見てきたが、自分の運命を受け入れるというのは最終的には自分次第、そしてその自分の今の境遇を受け入れるか受け入れないかということで今後の人生が大きくかわってくると信じているが、自分もそうであったように、自分はここに偶然存在しているのではなく、どうであっても必然的な存在であるということを信じて生きる時、多少なりとも自分をかえる発見があり前向きに生きることができると信じている。

私はめぞん一刻のテーマ曲である「悲しみよこんにちは」と言う曲が好きである。
特にさびの部分の「平気、涙のかわいた後には夢の扉があるの悩んでちゃいけない、今度悲しみが来ても友達が来るように笑うは、きっと約束よ」が好きである。いい歌詞だから聞いてみることをおすすめする。



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未来の選択肢を広げるクラブ

2017-12-10 | Weblog

日本人はきれいな韓国人の女性を見たら整形してるんじゃないかと疑いの目を持つようである。うちのせがれも芸能人はほとんどがそうじゃないのかと言っていたが、確かに韓国は整形大国である。でもそれには理由があって彼ら彼女らのわるい文化がそうさせている。前にも言ったと思うけど韓国には悪口をつくる言葉遊びの文化がある。あまり言いたくはないのだが韓国人は悪口を言うのに非常にたけている。あだななどつけさせてもようこんな絶妙なえげつないしかも的を射たようなあだ名をつけよると思うこともしばしばで、特に顔なんかに特徴があれば容赦なくあだなをつける。おまけに競争社会であるから、そういう現状が人の欠点をあげつらって悪口を言ったりあだ名をつけるのではないかと思っているが、整形はまさにそういう悪い文化から出たものだ。

話はかわるが、昨日国語の林先生が「夢をふくらますのは情報だ。職業体験させることは今まで自分たちが経験してこなかった情報を与えられることで自分たちの視野を広げて未来の選択肢を広げていくことができる」というようなことを言っていた。私がよくブログなどで書いていることもそうである。いろいろな人たちが集まるコミュニティにおいていろいろな人たちと子供や若い人が接することで刺激をうけて自分たちの未来の選択肢を広げていく、そういう役割を持ったコミュニティを目指しているのがうちのクラブだ。

私は指導者の知的レベルで群れの質が決まると思っているが、それは知的レベルが高ければいろいろな人と適応する能力に長けているからであり、知的なレベルでのアドバンテージは人に安心感を与えるからだと思っている。一方そこを問題にしない人間の群れは健全とは言えない非常に小さく固まった集団で、本当に狭い世界で生きていると思う。はっきり言って試験前になっても子供が堂々とクラブに来るようではだめだ。うちではほぼすべてと言っていいぐらいの子が試験前になれば、試験対策として英語のレッスンに来るぐらいであるが、学校の試験などおかまいなしに、トレーニングに来たり、髪をそめた子供が来ると言うのはいささか問題があると思う。世の中スポーツだけをやってたらいいなんていうことはない。もし自分たちの群れが社会人から子供までを対象にしているならば、何らかのかたちでその子供や若い人に刺激を与えて、視野を広げてあげるというのもコミュニティのひとつの役割であると言ってもいいだろう。指導者の考え方がしっかりしていて集まる人たちがしっかりしていたら、おのずとその群れは健全に機能するだろう。学生の時よく食事をありつきに行った韓国人の教会にはそれこそ知的な人たちが結構いた。使う言葉なんかも非常にレベルが高くて、話していて、あまりにも無知な自分がはずかしくてこんなんじゃあだめだ、もっと勉強して自分を磨かなければいけないと刺激をうけたものだ。人間特に若い時代はそういう刺激を与えられなくてはだめだ、本当の意味では成長しないと思っている。生きるたとえがすべてスポーツ、自分の今やっているスポーツの世界が世の中のすべてだなんて、そういう考えしかできないような指導者はだめだ。むしろそうではないということを教えてやるのが大人の役割だと思う。

でもしかしそういう人間たちは、なぜ自分らは考え方が狭いかと言うことがわからない。それは自分たちだけが通用する小さい世界で生きているからだと思う。指導者は語学を学べとか本を読んで勉強性と言うのはその群れが小さく固まるような集団にならないためだ。やんちゃですとかアウトローくさい奴、ちょっと何か足りないような人間ばかりが集まって、その群れを形成するのは決して理想的で健全とは言えないだろう。人間と言うのは往々にして自分と同じレベル以上の相手を同等とみなし、安心感を得るものだ。よく目標を大きくもてとかいう指導者がいるが、しかし人間それぞれ生き方や理想が違うのだからその目標は違うし、可能性はそれだけではない。指導者は目標を大きく持てとか言う前に、もっといろいろなことを学んで自分の世界を広げることが必要だと思う。


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Hoyoung Kim

2017-12-09 | Weblog

 

ハワイの東洋人が集まる某カラオケ店で売れない(私の主観だが)演歌歌手のおっさんをおこらせたことがある。学生時代私はほんと時々そこにアジア人の友人たちと行くのだが、そのおっさんとは反りが合わなかった。私はおっさんのことを売れない歌手と言い、おっさんは私のことをクソガキと言いお互いののしりあっていた。ある時何を言ったかははっきりとはおぼえてはいないが、私がおっさんの一言にカチンと来てケ○○ッ○と言ってしまったことがきっかけでちょっとしたこぜりあいになった。たぶん日ごろのうっぷんがたまっていたのだろう、そのおやじは私のところにつかつかとよって来てその時彼が私を何かものたぶん本みたいなものででなぐろうとしてきたのだ。しかしボクシングを競技していたのでよけるのなんてたやすいこと、私はそのおやじが本か何かでたたいてきたのをうまくよけた。はははははミスりやがったとばかりに人差し指でこいこいと言うしぐさを、さらにおやじが余計にヒートアップしてさっきよりも力をいれてなぐろうとする、あててみやがれこの売れない演歌歌手がとばかりにとさらによける。おやじの怒りのボルテージがマックスになりかけたところで、みっともないからやめろということになったのだが、しかしその後年長者を敬えとアメリカ系韓国人の女の子から思いっきりおこられた。今考えたら本当に私は礼儀知らずでケグジェンイであった。お前ようそんな話が次から次へと出てくるなあと思うが、しかし私がおぼえていなくてもまわりがおぼえている。うちの妻とハワイのジムに、10年何年ぶりにたずねて言った時にもあれだけ人がごった返しのジムでしかも10年たつと言うのに、そこのトレーナーたちが私のことをよーくおぼえていたのをうちの妻が不思議がっていたが、それだけインパクトが強いと言うことである。

そのヨジャチングの話であるが、そういえば昔、彼女とはたくさんのことを議論した。日韓の関係を話し合った時はこれで関係がおわるんじゃねえかと思うぐらいの激しい議論であった。そして時には傷つくこともあったし傷つけることもあったが、しかしそれでもそれは若さゆえに受け入れることができたし、何よりもそういう経験が若い時には必要であり、そういう経験を通してできた友達とはいつまでたってもかわらぬ関係でいれるのだろう。社会学者のジンメルは「若者の言うことは間違っているが主張することはただしい」と言っているが、若い時はたくさんのことをあれこれと議論することは大事なことだ。議論することだけが正しい生き方ではないが、しかしそういうモラトリアムには思い切り自分の存在を表現していくことも大事なことで、そういうことを主張し受け入れあっていくのは若いからこそできることであり、それはある意味若さゆえの特権であってもいいと思う。ラインやフェイスブックの返事が来るとか来ないとかそんなことはたいしたことではないだろう。私の意見ではそんなものをすぐかえすとかかえさないとかで悩んでいるようでは本当の友達とは言えない。本当の友達とは何年会わなかってもまた昨日会ったように話すことができる存在、そういう存在を私はチングと呼んでいる。

私はそのチングの影響を受けている。クリスマスには虐げられている子供や女性をおぼえてクラブの名前で募金しているのは、そのチングからたくさんのことを学んだからだ。まだまだ世の中には多くの子供や女性たちが幸せとは言えない状況の中にある。自分一人では何もすることはできないが、しかしせめてこのクリスマスにはMTオリーブフィットネスボクシングクラブを通してそう言う人たちのことをおぼえたいと思う。

今日あげた「なごり雪」は最初が韓国語そして日本語で歌われているが、その国は私にとって最も嫌いな国で一番関係が深い国でもある。



 

 


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好きな日本の歌

2017-12-04 | Weblog

「我々のまわりには他者が存在し、我々は他者と何らかの関わり合いをもって存在している。個人としての人間は弱い存在であり、限界があるので、孤立した状態では自分自身の目的を達成することができない。もしも自分一人で生き、自分一人だけの力で問題に対処しようとすれば、死に絶えてしまうだろう。」アルフレッド アドラー

チルソの夏と言う日本映画がある。これは何十年も前の日本と韓国の話。当時はお互いの差別がはげしくいがみ合っていた。それでも下関では日本と韓国が陸上の交流試合を毎年行っていたようで、そこであった日本人女性と韓国人男性の思春期によくある切ない恋物語である。その映画のシーンで好きになった男の子にもっとアプローチするために女子高生が韓国語の勉強をする。がしかしそれを知った親が韓国語なんかおぼえるなとその女子高生たちに勉強を無理やりやめさせる。笑い話だが、私はこの映画の中である演歌歌手が韓国人の男子学生にひかれていく娘に「外人とか関係ないが、でも朝鮮人だけは絶対ゆるさん」と言うセリフを聞いて、本人がわるいわけでもない、ただのセリフとはわかっているが、しかしどうしても彼に好感はもてないのだが、当時の韓国朝鮮人蔑視そして日本人にたいする偏見はえげつなかったと思う。チョン、チョッパリ、イルチェ(日本製)これが私が言われた言葉であるが、こういう環境では自然と自分はひとりだ、だから強くならなくてはいけないと思うのは自然なことである。でも強くなろうとしても思い知らされることことは自分は弱い本当に弱いということである。人間はいくら泣いても叫んでも自分の力ではどうすることもできないことがある。そんなみじめでなさけない涙を流せば人間はいかに無力であるかと言うことがわかるはずだ。でも弱さを認めてそれを受け入れれば見方がかわる。人間は相手によって支えられなくてはいけないし、自分も彼、彼女らの弱さを受け入れて、支えていくという相互関係によって人間は存在しているのだ。人間は一人では生きていくことができない、その相互関係の中で我々は生かされているのだ。そしてその生かされている自分がその相互関係の中で積極的にかかわって生きることで本当の自分の生き方が見えてくる。私は思う人間はひとりでは生きてはいけないし、存在しない。我々は生きているのではなく生かされているのだ。人間は相互関係の中でこそ自分を知り、そして目的を知らされる存在だ、ここに我々が生きる意味と目的があるのではないかと思う。

今日あげた歌は日本語の歌で特に歌詞が好きだ。この歌はいろいろとつらいこともあったが一歩一歩歩んで行ってたどり着いた自分の道を歌っているが、しかし苦難を通してそのたどりついた道はゴールではなく始まりだ。ここから本当の生き方が見えてくるだろう。

 

 


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