脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

偏見

2013-10-30 | Weblog
日曜日久しぶりに銭湯に行った、そこのサウナでの話だが、そこには地元で仲間とおぼしきおやじが5、6人集まってテレビを見ながらでかい声で話をしていた、すると突然あるおやじがこういった「こいつは朝鮮人だ、だいたい朝鮮人は名前でわかる、ある女優は父親がテレビに出た時に一世なので日本語が上手に話せなくて、ばれてしまってテレビに出なくなった」そのことをさも得意げに言っていたが、聞いてて頭に来たので思わずハングンマルで話しかけてやろうと思った。
しかしそういうことをしたら全体が凍りついて、来にくくなるので言わなかったが、しかし私はこういう地元だからと固まる、井の中の蛙にたいして問題を感じている。

自分たちの小さい世界だけで物事を理解して判断するというのは、はっきり言って偏見を持つことだ、こいつの話を聞くと朝鮮民族はおとっていて、それをかくすために有名になっても親をテレビに出さない、だからひっそりとその素性を隠して生活しているらしいが、こういうことを公共の場で言うこと自体、そいつがどれだけ井の中の蛙かということがわかるのだが、こういった偏見を持つ人間は結構いる。

私の感想ではスポーツの世界で、それしかやってこなかった奴も物事を決めつけて言う奴が多い、偏見と言えばそれまでだが、しかし話し合いをしても、最初からこうに決まっているという態度で相手の意見を聞くよりも自分のいいたいことを言う、おそらくこいつらの世界はそれを聞いて受け入れるという世界ではない、言いたいことを言って起こるか怒られるかの世界で、縦社会の人間は常に相手が自分より上かどうかを意識し、相手が自分よりも弱かったり立場が下だったら、とにかく相手を正してやろうとしか考えない非常につまらない奴らである。
こういう世界であるからクラブと言うのも、みんなが同じ目的を持って集まるものだと勘違いしている、毎日毎日同じメンバーがそろって同じことをやっているので、結束力はあるのだが、しかしその結束力はみんなと同じ目標を持って、同じことをするからで、そこからはずれたら逆に仲間外れにされてしまう。そういう同じ価値観で集まる小さい世界をつくり偏見を生み出している、そういう意味ではそれしかできない、クラブの世界しか知らない人間はサウナのおやじ達とおなじである。
なぜみんなが毎日練習に行かなくてはならないのか不思議である、目的も健康維持とかダイエットでもいいと思うのだが、なぜみんなが同じ目的を持って、同じことをしなければいけないのかわからない、たぶんやらされているからできるのだろうと思う。
考えてみたらいいと思うが、ボクシングしかできないからそれが好きだと錯覚するのと、いろいろなことをやってきてボクシングがおもしろい楽しいというのは全く違う、それしかできない奴と言うのはやめた後は、非常に不本意な生き方をしているし、話していてもつまらない、しかし勉強もスポーツもきちんとやってきた人間は仕事もきちんとできるし、何よりも考え方のバランスがしっかりしている、それはいろいろなことを体験し、学ぶことで選択の枠を広げることができるからだと思うが、しかし一方不本意な生き方をする奴は考え方にバランスがもてない、選択の枠をせばめている。

実は私は以前ボクシングで、10戦以上している人間はあまりかしこくないという偏見を持っていて日頃からそういうことを冗談交じりに言っていた。
しかしある時クラブに大学の時に競技してましてと言う人が来て、その人が非常に知的な仕事をしている。
私が大学でどれぐらいされてたのですか?と聞くと「ああ4年間やって、11戦試合にでました」げっ俺のラインをこえてるじゃねえか、その時思わず自分が10戦以上している人間に対して偏見を持っていたことを話し、そしてこう言った「これから20戦にひきあげます」
まあこれは私がもっていた偏見であるが、しかしボクシングだけではなく、いろいろなことをやってきた人間は考え方のバランスがしっかりしていて、有意義な人生をおくっていると思う。









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ノムキッポヨ

2013-10-27 | Weblog
今日トレーナーからうれしい吉報がはいる。
うちの競技者が勝って敢闘賞をとったらしい。彼は非常に気が弱くて、人見知りをするので、最初はすぐにこなくなると心配していたが、その心配もよそに何年もこのクラブに通い、ついに試合に勝って敢闘賞までいただいた。
ここはおっさんたちが多いので30才を過ぎた彼の勝利にみなさん大喜びだ、おまけに敢闘賞までいただくなんて、この前も中学生がマスをやってくれと(しかも中一、当然中学生はあてるが彼はあてないマスだが)しつこく言われて「やらんといっとるやろがー」ときつく言っても「やってやー」と完全に中学生になめられていた、試合前なので中学生には試合が終わってからにしろ、それまで邪魔をするなとくぎをさしておいたが、これで大丈夫なのかと思うぐらい、へたれで気が弱い彼の勝利は、自称へたれが集まるオリーヴの連中にとってうれしい勝利であったと思う。

しかし私は彼は絶対に勝つと確信していた、それは彼がだいぶ前にグローブを購入するという話であるが、彼はいつも消費税あわせて10000円とか微妙な買い物をしていたが、今回は何とウイニングを。それが自分に合えば買うというのだが、その時思わず「お前どうしたんじゃ」と言ってしまったが、笑い話だが、私はこの彼の買い物の仕方に、迷いのなさとボクシングが楽しくなってきたと感じたから、一皮むけた、勝つと思ったのである。

今回はトレーナーの功績は大きい、彼の素晴らしいところは人を自分にあわせさせるのではなく、自分から人にあわせるということだ、少々しんどかってもその選手にあわせて出てきて指導してくれる、そういう大人に合わせた指導法ができることで、彼らは気兼ねなく練習できたのだと思う。
またこれはある人が彼に熱心にアドヴァイスをしてくれたのだが、彼は今回試合に出る人間とはまったく正反対のタイプの人間で、こういう正反対の人間のアドヴァイスはこういうタイプには何をしたらやりにくいか、こういう時どうしたらいいかということを別の立場から教えてくれるので、非常にアドヴァンテージになると思っている、たぶんそのアドヴァイスによって、ある種の戦い方の幅ができてきたのだと思うが、まったく違うタイプの人間のアドヴァイスは実戦を考える上では非常に重要な意見だ。

たぶん教えていたり我々みたいに客観的に見ていたら、勝つか負けるかと言うことはだいたい冷静な判断ができるものだ、ポーカーフェイスにふるまってはいるが、こんなこといっちゃあ何だが、状況的なことやいろいろなことを考えてだいたいはわかるものである。
往々にして気持ち的にみだれのある場合はいい結果をのこせない、しかしそれは気持ちが強いとか気持ちをしっかり持つとか、そういうことではなく、気持ちが安定することだ、精神的にぶれていない状態の人間はだいたいいい結果を出すが、しかしそういう状態に持って行けるのは、日ごろのトレーナーとの相性や、練習が楽しく無理せずにできるということだが、しかしたいていの人間はナーバスになると欠点ばかりに気をつかい、心にぶれや迷いが生じてしまう。
迷わないと言うのは、バカみたいに自信をもてとか、心を強く持てと非科学的なことを押し付けるのではない、迷わないというのは、無理をせずにマイペースでやるということだ、そのマイペースがリラックスした状態をつくりだす、まさにこれがぶれない精神だと思っている。

自信と言うのもリラックスできるかどうかということだ、そのリラックスできる状態を作り出してやるのが我々の仕事だ、それをミーティングを開いて、無知で無学な奴が悔いのないようにとか自信を持てとか励ましているつもりだろうが、しかしそんな状態でそんなことを言われても、本当にリラックスできるはずはない、自信を持てと言ってる奴自体が自信なんて持っていないし、自信なんてわからない、じゃあ自信って何だと聞いてやったらわかると思うのだが、答えられない、競技における自信と言うのはリラックスできる状態と関係している、そういう状態を常に作り出す訓練をすることが大事なことだ。
はっきり言って自信と言うのは相手を支配することではない、自信と言うのは自分自身を支配することによって生まれるものだ、人間の存在能力を高めるα波と言うのは、リラックスした状態によって生まれるらしいが、まさにそのことが意味するように、本当の自信と言うのは心と体から少し離れた状態から自分を見つめることで、そういう状態をヨガや好きな音楽などを聞いてリラックスすることでつくりだすのだ。


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I know who are you

2013-10-25 | Weblog
最近SKYPEと言う機能ができて、外国や大阪や他の地域に住んでいる人たちと連絡が取りやすくなった、もっぱら私はこのSKYPEなどで仕事の話をすることが多いのだが、出張費がうき時間が効率よくつかえるので、世の中は非常に便利になったと思っている。
私がホントのバカと思うのは自分が今生きている世界がすべてだと思い、そこで威張れることが偉くなったと勘違いする奴だ。
ボクシングはすべてのことにまさって素晴らしいと、すべてのことをスポーツや自分の小さい世界のことでかたづけてしまう人間がまさにそうだが、そういうスポーツバカと言うのは少なくはない。
私がよく県外の人間や外国人と話す時間をつくるのは、ここのクラブと言う世界だけに留まっていたら、そういうバカになってしまうからだ、特にスポーツと言うのはグローバルであることが求められているのだから、クラブやジムなどと言う小さい世界に留まっているだけでは周りにいい影響は与えられないだろうと思う。
最近韓国人の後輩とSkypeでよく話す、お互い忙しいので休みの前とかであるが、昨日は今度の冬休みに機会があればまた大阪で会おうということに、その日はちょうど彼の奥さんの後輩の女性がくるらしいので一緒に食事でもということになった。
彼曰くその後輩の女性はかなりの美人らしい、家が金持ちなので何年か前に大学を卒業した後に日本で1年間そしてオーストラリアで1年間遊んでいたらしく、英語は話せないが、しかし日本語はネイティヴレヴェルらしいのだが、その彼女が休みをとってか、もともと悠々自適なベクスなのかはわからないが、彼らが休みの時期に日本に遊びにくるらしいので、いい機会だからいっしょに食事でもどうですかということお誘いである。
彼が強調して美人だというので、いぶかしげに整形じゃないのか?と聞くと、いやそれはわかりませんがと困ったような返事をする、実は私がいぶかしく思うのはそれなりの理由がある。
だいぶ前にある人に頼まれて女性を空港に迎えに行ったことがある、その時わたされた写真と言うか画像が女優じゃないのかというぐらいきれいな人で、その写真をもらった時にこんなきれいな人だったら迎えに行かなくちゃあ危険だと、空港に迎えに行ったのだが、しかし約束の時間になってもその人はあらわれない。
そしてそれから30分たってもその場所にいないので、たぶんイミグレーションで何かトラブルがあったのかと心配したが、その時斜め横ぐらいの女性が非常に気になった。
間違っていると思ったけど声をかけてみる「ウンスシ??」すると「イエー、アンニョンハセヨ」彼女はまあまあの美人だが、しかしこれはちょっと違うだろレヴェルの違いだ、たぶん写真を修整したか、光の加減をアドヴァンテージにしてよりきれいに見せかけたのだろう、見合い写真でもあるまいし、こういう時はもっと実物に近い写真をおくれであるが、しかし彼女らの文化は見栄が優先する文化なのだと思う。
儒教と言うのは見栄の世界だ、日本の仏教が「真善美」を求めるのに対して、儒教と言うのはきわめて世俗的で、あくまで現生で善を求めるイデオロギーで、真や美を無視した善は体裁だけの関係をつくりやすい、おそらくそう言ったことが、日本人が理解できない、大きなギャップを生み出していると思うのだが、ここが彼ら彼女らを扱いにくい原因であると思っている。
ただひとつ思うことは、言葉と言うのは人の考え方をかえる大きな力があって、日本語を話す人間は日本人と考え方がちかくなることも確かなことで、その国の言葉を話すとその国の人の考え方がわかるというのは事実だと思う。
余談だが私はよく、彼ら彼女らが日本人との性格の違いを話した時に、日本人の真似をするとああそれその雰囲気その態度と言うが、たぶん私は客観的に自分たちの行動が見えているのだ。

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WTF(what the fuck )なんてこった  

2013-10-23 | Weblog
最近よく話す韓国人の友達の娘が私のブログを見ているらしいのだが、近頃言うことが私に似てきたらしい、彼女はもう日本で暮らしているのでかなり流暢に日本語を話す、私との会話も日本語のほうが楽だと言って日本語で会話しているのだが、しかしそのせいか言っていることや口調までが私に似てきたそうである。おやじは私にもしむこうに帰った時にこういう考え方だとたいへんなことになると笑いながら言っていたが、どうやら彼女は保守的で封建的な世界が大嫌いであるようだ。
おやじは保守的なので彼女に女性らしさを求めているが、しかし彼女はどちらかと言うとそういうタイプではない、私は彼女に相手が女だからというような態度を見せたらかみつけと言っている、おやじには将来は絶対留学させろ、もしできたら多少の援助はしてやると言っているが、彼女は整形はしていない朝鮮顔の美人、言いたいことははっきりいうタイプ、たぶんこれから成功するタイプで将来は有望だと思っている。

ケリーマクゴニガルはその著書「自分を変える教室」の中で、人間の悪しき習慣は伝染するものだと言っていた、おそらく人間の根本的な性質と言うのは正しいものに向かっていくよりも、むしろ悪しき方向に流れていきやすいということだろうか?このことは確信的なものではないとしても、人間の性質が性善説ではないということを考えるならば納得がいく。
特に若いうちはつきあう人間によってその人の生き方がつくられていくと言っても過言ではないが、当然のことだが悪い連中と付き合うと悪いことをおぼえる機会が多いので、まさにそういう悪しきことは伝染すると言ってもいいと思う。
私はけんかなどはしたりしない、どちらかと言えば気が大きいほうではないので、そういう仲間に入ることはなかったが、しかし環境がそうなので周りにはとんでもない連中がごろごろしていて、けんかで何人やっつけたとか組からスカウトされたとか、中にはテレビに出る奴までいたのだが、そういう奴を見るたびにこいつらはバカだ、自分はこんなくずになってはいけないと思ったものである。
そいつらとはくされ縁のような関係もあって、そいつらが自分にかかわることに辟易していたこともあって、ある時「君たちが俺に近づいたら内申書がわるくなるから進学できない」と言ったこともあったが、私はこういう環境におかれてわかったことは人間と言うのは環境が大事だということである。
私は自称くずをよく知る人間であるが、人間と言うのはどうすればくずになるかということをよく見てきたので、よくわかる、ただ私自身もこいつらと同じ穴のむじなだと思っている、がしかし大きな違いはそのエネルギーをどこにつかってきたかということだが、悪い環境におかれたらそれに気づかないのである。

しかしそれとは逆にいい影響をあたえたかったら、そういう環境を作り出すことが必要だ
学生の時アメリカの韓国人の教会にクリスマスに当時のGFが、クワイヤーで出るから見に来いと言われ見に行ったことがある。
そこはおもに韓国人の人たちのコミュニティであった、つかわれているのは韓国語と英語であるが、私のGFの友達は私と同じで日本人と韓国人の血をひいていて、トライリンガルだ、彼女は小さい時からお母さんに連れられてここにきているらしい、しかしお父さんが日本人なので家ではおもに日本語を使っているということを言っていた。
ハワイの韓国系は結構多くの人間が三か国語を話す、どこで覚えるのかはわからないが、おそらく日本語と文法が似ているので習得しやすいから覚えるのだ思うが、この日本語ができるのをアドヴァンテージにして日本人相手に仕事をしている人もいた。
しかし私が驚いたのはそこにはかなり知的な人が多く、社会的にも地位が高く、学歴も高いということだ、そういう人たちがそこには集まっているのだ。
なぜそういう人たちが集まって来るかと言うのは、まさに環境がいいからで、そこで使われている言葉が洗練されているからだ、特にそこのミニスターの言葉が知的で洗練された言葉をつかっているので、おのずとそういう人たちが集まってくる、たぶんそういう人たちに影響されて子供は将来のことを意識し、真面目に勉強するようになると思うのだが、そういうコミュニティーが言葉によってつくられているのだと思う。
コミュニティは言葉によってつくられていくというのは私の考え方である。
そこの指導者のレヴェルがひくければ、まわりに集まってくるのはそれなりの連中である、しかし一方指導者の言葉が磨かれていたら、まわりに集まってくる人たちの幅がひろがり健全なコミュニティを形成してくことも可能だとみている。
だから言葉を覚えることに関しては余念がない、辞書を携帯し分からない言葉はこまめに辞書をひく、この前会社でプレゼンをすることになった会員の人に人前で話すコツを聞かれたが、コツと言うわけではないが、勉強法を教えた、それは辞書をこまめにひくということだが。意外と我々が日頃使っている言葉と言うのは使い方が曖昧であったり、正確にその言葉の意味を知らずに使っていることがある。
そういう不確かである言葉やわからない言葉をを辞書でしらべて正確な意味や使い方を学ぶこと、特に辞書を買う時注意したいのはそれには凡例があるかないか、広辞苑だったらたいてい凡例があるので、それを買うといいが、私も英語を勉強する時はわからない言葉があるとLongmanあるいはOxfordで調べて、その凡例を見て使い方を勉強したのだが、言葉を正確に理解し、使い方を勉強するというのは実際に自分が話すうえでのアドヴァンテージになるものである。
言葉をつかわない仕事はあまりないと思う、特にスポーツクラブは人と人とのかかわりがあるのだから、トレーナーは言葉をよく理解し、正確にその言葉を使う必要がある、どこかの愚連隊は脅迫文を書かせたら右に出るものはいないが、しかし議事録などは社会人レヴェルではないとある人は言っていたが、脅迫文がうまくかけてもきちんとした報告が書けなければまったく意味がない、子供の社会見学の感想文ではないのだから、写真をはればいいというものでもない、本当に馬鹿だと思っている。
子供と言うのは影響を受けやすいのだから、間違った日本語を教えたり話したりするとそれをそのまま覚えてしまう、私はスポーツクラブでは返事やあいさつをさせる前にまず監督やトレーナーが正確な日本語を使うことが大事なことだと思うのだが、一体ある程度のレヴェルで正確な日本語を話せるトレーナーがいるだろうか?
はっきり言って今まで見てきた奴はかなりひどい、もうこういうレヴェルでは英語どころではない、本を読んでなるべく言葉の語彙をふやし、正確な日本語を話す努力をすべきだ、そうすればアスリートの質もよくなり、体罰やいじめはかなり少なくなると思っている。





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チェミッケ ノルダガセヨ Have fun!

2013-10-11 | Weblog
オリーブの日記に日本のスポーツは修行だということを書いたが、日本ほどまわりに気をつかってスポーツをやっている国はない、印象がわるくなるからと監督に気をつかい審判に気をつかい、スポーツの世界は人間関係が入り組んでいる、そういう中で本当にやっていて楽しいのかとさえ思ってしまう。

私がまだ学生のころ試合で台湾人の友人をセコンドにつけたことがある、なぜ彼がセコンドかというとたいしたことではない、親友だったから監督に頼んでつけてもらっただけである。
しかしこいつがたいしてボクシングもわからないくせにごちゃごちゃ言ってきやがった、うっとうしいなあと聞き流していたのだが、しかし2ラウンド目のブレイクタイム、あまりにうっとうしいので思わず「SHUT YOUR FUCKKING MOUTH!」とでかい声で言ってしまった、すると会場がくすくすと笑いはじめた、そしてそれが大爆笑に、後にも先にもボクシングの会場を笑いのうずにまきこんだのはわれわれぐらいだと思っているが、しかしこんなことを日本でやったら大問題、おもいきりおこられるだろう。
これは私がワイパフと言うところで試合をした時の話、その時前に勝った相手のチームの人間と対戦することになったのだが、相手は私が外国人だし、私は前にそのチームの人間と対戦して勝っている、そんな彼らの敵対心に私はかなりエキサイトしていた。
そして私はその試合の中で、ラウンドがおわった時に思い通りにボクシングができなかったせいか、こともあろうかコーナーポットをけとばしてしまったのだ、その時レフリーをつとめていた人が私を見て首をふる、私はまずいことをしたと思い、首を縦に振ってすみませんの意思表示をした。
たぶんこういう行為も日本だったら大問題だ、しかしこの話には続きがある、コーナーをけりとばした男であるが、しかしその男が異国に来て思い切りボクシングをやっている姿に敬意を示してくれたのだろうか、試合がおわってしばらくしてからその時審判を務めていた中国系の人が私のところに来てくれて握手を求めてきてくれたのだ、彼は私がコーナーをけったにも関わらず東洋から来た外国人をねぎらってくれたのである。ボクシングは平等だ、ここでは我々のようなマイノリティも思い切り楽しんで生き生きとボクシングを競技している、ここにはしょうむない人間関係や上下関係は存在しない、またくさったヒエラルキーのようなものも存在しない、ただボクシングが面白い、好きだからという人間が集まってボクシングを競技しているだけで、その勝負からは尊敬や感動と言う本当に大切なものが生まれる、私はボクシングほど単純で自由なスポーツはないと思っている、単純で自由だから誰でも入ってこれるスポーツだ、そこがボクシングの魅力である。

日本は正直まだまだ競技させてもらっているという感覚がぬけない、まわりに気をつかいながら、遠慮した態度をみせないと、どうでもいいことに難癖をつけて大きい声で恫喝したり、おいそことか言って威嚇する、選手はお膝元のような奴以外はここではのびのびと自由にできない、どこかの大きな組かその傘下に入らなければ非常に肩身の狭い思いをする、本当に小さな世界である。
私はうちの選手が試合に行く時、審判の印象をよくしろとかと言ったたぐいのことを言ったことがない、逆にしょうむないことで気をつかうな楽しんで来いと言うのだが、我々にとって判定などどうでもいいこと、ただ本当に楽しく充実したボクシングができれば幸せである。
3年前の試合は全員まけてしまった。5人出て4人まけて、それでも最後の試合は結構力の差があって絶対勝てると余裕をかましていたが、しかしその油断があだとなる、スイッチするんだったら、スイッチした時の右は気をつけろ見えないからと言った矢先、その見えない右が見事にヒットKOでまけてしまった、しんがりがこうあっさりとまけてしまって、みんな落ち込んでいると思ったが、しかしその帰りの車はみんなはしゃいで修学旅行のようだ、その中には40代のおっさんもまざっていたが、本当に楽しそうであった。
この前オリーヴの会員に俺のえげつない発言でボクシングの試合ができなくなったらどうすると聞くと「大丈夫、ボクシングはどこでもできますよ」って、自分たちがボクシングが好きで、それを楽しむ気持ちがあればボクシングなんてどこでもできる、自分が異国で経験したボクシングはまさにそれ、オリーヴの会員たちはそのことを実践してくれているのである。

よく自分たちを強くみせようといかめしい顔をして、自分たちは強いオーラをかたまって出している奴らがいるが、あんなものはアメリカのボクシングから比べたらたいしたことがない、特に日本のアマチュアは指導者でもいかめしくして、威厳を保とうとしているが、しかし張り子の虎とはまさにこのことこわくもなんともない。
私が見た奴でいかつかったのは特高野郎Aチームみたいな野郎だ、こいつは息をするだけでも脅迫じゃないのかと言うぐらいいかつく、こわい、ライトヘビー級ぐらいでとにかくボクシングが乱暴であたればKO、韓国人のキムと言う奴が彼と対戦したらしいがなぐられてKO、目の上にボールぐらいのたんこぶができたらしいが、キムがこいつを見た時あまりにいかついので「Holy Shit!」と言ったとか言わないとか、この時ばかりは自分がちいさくてよかったと思った。




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朝鮮の女は笑わない??

2013-10-09 | Weblog
日曜日、友人とその娘ソヒョンとスカイプで話をした。
ソヒョンは私と話すことが楽しいらしく、中一でも結構難しい話についてくる。
最近私が思うことは彼彼女らの教育レヴェルの高さである、そんなことを言うとお前は半分血が入っているからそういうことを言うんだ、彼ら彼女らの印象をよくしようとしてるだろと思うかもしれないが、事実勉強の仕方などは日本人が学ぶことも多い、特にTOEICなどの問題集は日本のものよりも研究されていて、私が今度一緒に仕事を考えている女性なんかも韓国語を教えるのが非常にうまい、ただ効率を求めるのでついていくのには勉強慣れしてる人間じゃないとついていくのに難しいというところはあるが、しかし効率を考えて勉強するならば、いろいろと学ぶ点が多いことに気づく。
彼女と話す時はほとんど日本語で話す、もう何年も日本に住んでいるせいか韓国語よりも日本語のほうが得意だと言っていたが、確かに彼女は日本人のようだ、朝鮮では女が人前で笑うのはよくないとされているので日本人のように愛想笑いをしない、向こうの女優やアイドルなどが無表情で怖い顔をして写真にうつっているのはそのせい、しかし彼女は時々愛想笑いをする、まるで日本人のようである。余談であるが私は見る人が見たら何者かわからないそうだ、確かにこいつアジア人には違いないと思うのだが、しかしそれが一体どこの国の人間か、言葉も話すし、一人で行動する、だいぶ前は日本の中国料理店でどこの国から来た?と聞かれた私のほうが外国人である。

その話の中で彼女が私に個性って何か?と言うことを聞いてきた。
答えにつまったが私は個性は人間がもっている権利と目的だと言った。
一体何のことかと思う人間もいるが、個性と言う言葉を考えた時に考えもしないで好きな格好をしたり、好きなことをして目立つことが個性だと思っている奴がいるが、しかしそういう考え方はあさはかだ、実際そういうことが個性だと思っているスポーツ指導者も少なくはない、しかし個性と言うのはそういうあさはかなものではないだろう。個性なんて言う言葉はいい年をした奴でも都合よくつかっているが、しかしバランス感覚のない人間が個性なんて言うのは単なるエゴだろ、人に不快な思いをさせて個性だと開き直るやつもいるが、しかし個性と言う前にバランスを大事にしなければならない、人間と言うのは共同体の中で生きているのだから。

個性と言うのは2つのことが言えると思う。
一つは権利そしてもう一つは人間の目的である。
まず個性が権利だということは権利と言うのは人間が生まれてきたということに関係している、人間うまれながらにして人との違いがある、国や人種はもちろんのこと生まれた環境や立場が違う、そういう中でもともとその人間がもって生まれた特徴や性格に違いはある、その持って生まれた人との違いが個性であって、これらの個性は人からなんら侵害されることがないという権利を持っている。
さらに目的と言うのはサルトルが言うには物や動物は生まれながらにして目的があって、その目的はあらかじめ生まれる前あるいは作られる前から決まっている、しかし人間だけが何になるかということを決めることができる自由があるわけで、自分は何者になっていくかと言う自由、その何者かであるかということを問うことができることが人間の個性で、この自分は何者かということが他者と自分を区別する、この個性を人間は問題にして生きなければならないのだ。








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よく見て考えろ  

2013-10-07 | Weblog
もうすぐ英検オリーヴでも何人かの人が受けるそうであるが、英検と言うのは単語力が勝負、おそらく2級ぐらいなら単語をしっかり覚えていたら、多少文法があいまいでもとれるのではないかと思っている。
最近Toeicや英検を受ける人が増えてきたが、それにともなって英語を話す人も増えてきた、聞いたらここでもToeic700点とか英検順1級とかもっている人がいるが、日本人は英語が話せないというのはもう何年も前の話で、それでもボクシングのアスリートは片言さえ話せない奴が多く、ボクシング界と巷ではかなりの温度差があると思っている。

私が最近心配しているのはボクシングが、アムネスティなどでも問題になっている国が盛んになりつつあることだ。
中国などを中心として、アフリカ諸国、モロッコなどアムネスティのホームページを見たらわかるが、人権侵害や迫害、ホロコーストがあるような国が目立ち、スポーツは平等だと言うが、しかし人権がしっかりと守られていない国が台頭し、あのロンドンオリンピックの疑惑の判定や今までの疑惑を考えると、アマチュアボクシング自体に何か利益がからんだ何かがあるのではないかと言う疑いがある。

現に以前はボクシングの安全性が問われていたが、しかし今はその真逆、ヘッドギアの着用を義務付けず、ボクシング用語もTKOなどと名前をかえて、なるべくエキサイティングに、そのせいか、ルールもこれからプロボクシングに近づいてくると思うのだが、RSCをTKOにかえたのは非常に大きい。
KOと言うのは相手を倒すことだ、TKOと言うのもその延長線上にあるもので事実上のKOだ。
RSCがなくなれば理論上ポイントと言うのは意味がなくなる、RSCと言うのは、競技者との間に技術差があったり、強いパンチを受けた時に、これ以上パンチを受けたら危険だからということで、レフリーが判断して試合を中止することである。
しかしそれに対してKOと言うのは相手のダメージが問題である、RSCの場合はRSCOと言うコンピューター方式で15ポイント差がつけばRSCになるのだが、相手のダメージにかかわらず試合をとめる、たぶんここが試合続行不可能とダメージを重視するTKOとの違いである。
まあRSCとは何かと言うことに関しては英語で調べても、さほど明確な回答を得られなかったが、しかしRSCO方式を採用しているということを考えれば、パンチをダメージとしてとらえるのかポイントとしてとらえるのはかなり大きな違いがある。
たぶんボクシングと言うのはなぐりあいが醍醐味であるから、ヘッドギアの着用を義務付けず、激しい殴り合いをすれば多少の人気回復にはつながるだろうが、しかし安全性が確保されない、先進国の競技のとらえ方とは逆行しているのではないだろうか。

英語を話すということは日本国内のことだけではなく、海外の事情も辞ることができるので、おのずと海外のことや他の国のことに興味がわいてくる。
実際英語でいろいろな資料やニュースなどを見るといろんなことが見えてくる、特にボクシングは日本だけだと情報が限られてくるので、読めるのと読めないのとでは大きな差がある。

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Equallity

2013-10-03 | Weblog
スポーツは平等だ。競技することにあたっては何ら差別もなく、権限もない、よくスポーツを競技するにあたって頭髪であるとか髪のいろがどうだとか言うが、しかしそれに対して誰がそういうことを言う権利があるのだろうか?
確かにジム単位で素行のわるいような人間や、髪の色あるいは刺青などお断りと言うことができるし、そのことをもって排除しても問題がないと思う、実際にここでは素行のわるそうな人間などの入会はお断りしているが、しかしスポーツは平等である、その平等であるスポーツのもとではいかなる人間であっても自由に競技することができると思うし、そういう権利を我々は持っている。人として生まれてきたからには誰でもリングに上がって競技することができる、それがスポーツにおける平等性であり、スポーツだからこそ実現できることである。

私自身紆余曲折を経てではあるが、一通りのことはやってきて、比較的今は恵まれているほうである。
しかしこれでも悩みつつ生きてきたほうで、特に人種の問題ではいろいろといやな思いをしたものである。
今ネットなどで反日ならぬ反韓のコメントが目立つようになってきた、あまりにもひどいコメントに対して、もっと対話しろよ先入観が先走りしてるじゃないかと思うことも多々ある。
また芸能人を非難するときに、あいつの母親は朝鮮人だとかいうようなことを平気でネットで流す人間がいるらしいが、私はこういう話を聞くたびになぜそれが関係あるのかと思い、日本にもまだまだ人種差別する人間がいるのだといやな気持になるのだが、それは日本人に対する非難中傷を見たり聞いたりしても同じことが言える、人種間の問題と言うのは非常にデリケートである。

我々のような人間はどこに行ってもマイノリティーだ。
人に言ってもわかってもらえないし、どの国に行ってどの言葉を話そうが、かべがある、どちらかと言うとひっそりと自分の存在を隠して生きていかなくてはならない、そういう存在である。
しかし学生の時アメリカで競技した時、アメリカのボクシングはマイノリティーが多くて、そういう人種が堂々とボクシングを競技していた。
特にHIは混血でも他民族の血が入り交ざっていて、自分のルーツがどこかわからない、英語だけではなくいろいろな言葉が飛び交う中で、そういうあいまいなマイノリティーな人種が堂々としかも楽しく生き生きとしてボクシングを競技している、そういう姿を見て救われたことは確かなことであり、それはボクシングと言うスポーツが懐がふかく、どんな人間でもリングに立てば平等だという考え方があるからだと思う、よく何々は紳士のスポーツだというがボクシングは関係ない、まさにリングに立つ限りはボクシングと言う競技は平等で、身分や人種のかべなど存在しないOne of The greatest sportsである。
韓国人の女性が私のような一見何の問題もないような人間がやることに関して、なぜやる必要があるのか、あぶないからやる必要がないとよく言っていたが、たぶん私はそのボクシングの懐の深さに魅力を感じ、競技していたと思う。




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