脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

グレーの帽子とチェックのTシャツ

2014-01-30 | Weblog

友人の上司と食事に行った時の話、友人が私の話を上司にしたところ、そんなおもしろい人間だったらぜひ会いたいということで、一緒に飲みに行くことになった、土曜日の夜、その上司の方のよく行く結構しゃれた居酒屋に行って話をしたのだが、その上司とはかなり意気投合した。
私は飲めないので食事だけではあったが、その歓談もたけなわにはいり、上司も上機嫌で「君みたいな人間がうちの会社にいたらいいのに」とお褒めの言葉を、しかし実はその時非常に気になることがあった。
それはその上司の服装だ、グレーの帽子とチェックのTシャツ、たぶん一般的にこういう人をおしゃれだというのだろう、しかしその格好は昨日テレビで見たチンパンジーの格好とまったく同じなのだ、そして思わずこう言ってしまった。
「ところでその○○さんの格好、昨日テレビで見たチンパンジーと同じですよ」
その時はひきつりながら「わははははっ」とうまく受け流していたのが、しかし後日私の友人に「あいつはなんてえ失礼なやつだ」と言っていたらしい。

まあ普段はおとなしく自己主張するようには見えないので、そんな失礼なことを言いそうにはないのだが、しかし私のことをよく知る人間は、ああ彼なら言いかねないと思うだろう。
もうブログを見ている人ならわかるが、私は結構言いたいことを言う自己主張が強いタイプだ、ある人はこんなこと書いて、ここの住所と電話番号がのっているのにこわくないのか、おまけに写真までのっているじゃないかと言うが、そんなことを気にしていては書けない、いやうっかり書いてしまうのだ。
このクラブはどちらかというとアウトロー臭い人間を敬遠し、入会させないようにしているのだが、実は本当のことを言うと、いろいろなタイプの人間がここに来て、ボクシングを楽しむことで生きることが楽しくなり、生活が向上するようになってくれればいいと願っているのは事実で、そういう受け皿のひろい、ボクシングフィットネスクラブであることを願っていることも事実である。
しかしそのことをするためには、今の群れでは、そういう人間を巻き込んで変えていく力がない、確かにここにはしっかりした社会人が多いが、しかしまだまだこのクラブの理念というものが浸透していないし、キャリアが浅い、うさんくさい人間やアウトローくさい人間を入れたらまわりに迷惑がかかってしまい、今度は逆に社会人の真面目な人が来にくくなる、群れに力がないと、ひとりうさんくさい奴を入れて、そこに居心地を感じたらその仲間がひとり、ふたりと入ってくる、たとえそういう奴らがあいさつをして、敬語らしき言葉を使っても、しかしはっきり言って内面がかわらなくては意味がない、ジムの中でちょっとした犯罪がおこると言うのは、その指導者に問題がある、おそらくボクシングのことしか考えられない、その集団をどういう群れにするかという、組織のことを考えていく力と能力がないのだろうと思っている。

前にも言ったがその群れの中心に、どういう人間が集まるかということは大事なことだ、私は若くてそこそこできる経験者が来ても、はっきりと「君をボクシングでは評価はしない、むしろここは社会で活躍している人が多いから、そういう人たちから学べ」と言っているが、指導者が、言葉を大事にし、しっかりした言葉を持って発信していたら、おのずとしっかりした人たちがまわりに集まってくると信じている、そういう群れを養い、その群れに集う子供や若い人が、そういう人たちから影響をうけて、将来に向けてしっかりとした目標と向上心を持ってくれたらと願っているのだが、私はこういう健全であろうとする群れが、さらに社会人に癒しの力を与えるとも信じている。

ここにはボクシングの賞状のようなものは決して飾らない、そんなものは意味がない、そんなものに固執していては先細りだからだ。
マイナースポーツのくだらない肩書きをちらつかせて、自分を大きく見せるよりも、もっと自分の足りなさに気づき自分を磨かなくてはダメだ。
こういう小さい世界でしか生きていない人間は、いかに自分がバカかと気づいていない愚かな奴もいるが、非常にみじめだ、しかし本当にその群れを健全に養いたいのならば、指導者自らがしっかりとした言葉を持たなくてはならないだろう。

その指導者が真面目に子供に勉強しろと言えるかどうか問うて見たらいい、言えないようではその人間が何もやってこなかったということ、子供にそういう大事なことが言えないような奴が子供にあたえる影響などたかだか知れている、へたをしたら悪影響を及ぼすこともある、子供のボクシングなんかまさにそうだが、小学校や中学校にボクシング部をつくりますなんて言って、それが通るかよく考えてみたらいい、こういうことを平気でするからアウトローくさいスポーツとかバカスポーツだと揶揄されるのだ、これこそまさにその無知さが暴走したと言ってもいい、これからは親もよく考えて、こういう奴を相手にしないという厳しい態度もこれからは必要だ。

一回や二回まけたぐらいでやめたとなるようなボクシングを教えたくはない。
ボクシングをすること自体が楽しいことで、そのボクシングのやり方にも個人差があり、そのひとりびとりのスタイルというものを尊重し、長いあいだ趣味として楽しく、そのことで仕事の効率が上がるようなボクシングのあり方を目指したい。


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Πλατων  

2014-01-29 | Weblog
だいぶ昔にならったことだが、プラトンの思想に哲人政治という考え方がある。
プラトンによれば、もともと人間というのは真実を見る力がない、実は我々が見ている真実というのは天界からうつる影で、我々はその天界から映る影を見てそれが正しいものだと理解している、そしてその見方やとらえ方は人間によって違うというのがプラトンの考え方である。
例えば三角形と言うのは3本の直線で囲まれている形と定義されている、この3本の直線で囲まれている形そのものも言葉で定義すればそうであるが、しかし我々はこの真実の三角形をとらえていない、我々が見ている三角形というのは天界が映し出す三角形の影であって、そのとらえかたには個人差があって、プラトンによればこの三角形を一番正確に近くとらえているのが、知を愛する哲学者で、その真理を一番よく知る哲学者たちが政治にかかわり、国をおさめていくことが一番理想的であり、正しい政治のあり方だとしたのがプラトンの哲人政治だったと思う。
まあこの考え方は孔子の目指す考え方でもあって、どちらもBCの時代の人間なので表現の仕方はいささか時代錯誤であるが、しかし彼らの考え方は、組織のつくりかたとしては正しいとらえ方だ。

だいぶ前にボクサーの引退式をテレビで中継していた。
夏の暑い日であったがそこにはたくさんのボクサーたちが集まっていた。
しかしその様子を見ていて不快な気分になった、なぜならそれはそこにいた奴らが式典というのに私服で参上して、式辞を聞いている間もがさがさして落ち着きがなかったからで、ボクサーとしてはどうかわからないが、態度を見ていて、社会人として明らかにかけがあると思ったからである。
この式典にでていたのは、何とかチャンピオンとか何とか何位たちであるが、はっきりいって懸念しているのは、こういう人間でもそれができるからと言って一目置かれたり、特別な存在でいれることで、そういうことはプロの世界ではどうか知らないが、しかしこういう社会人が集まるクラブでは認めてはいけないことだ。

ここでは決してそれだけしかできないというような人間が尊敬されたり、人よりもアドバンテージをとることはない、ここではむしろ大事なのは人間としてどうかということで、人間は誰でもかけがあるが、しかし明らかに社会人としてかけがあるような人間はいくらそれができてもエライなどとは思われない、むしろそういった人間よりもフランス語やドイツ語が話せる、TOEIC990点とか英検1級とか特別な資格を持った人間のほうが一目置かれるクラブであり、それはここでトレーニングするほとんどの人が、社会で真面目に生きて責任を持って仕事をしているからだと思う。
まあTOEIC990点の人間が偉そうにしたり、これみよがしに英語を話したりすることはないが、しかしこういう知的な部分を大事にすることは、その群れを正しく健全に運営するには不可欠であり、大事なことであると思っている。
哲人政治ではないが、この時代にしっかりとした倫理基準を持ちバランスよく生きていくには、しっかりと考えてものさしを持つことが大事なことで、そのことはその群れがどういう群れかということと深く関わっていると思う。
ここではそれしかできないサルのような奴が10人来るよりも、コモンセンスを持った人、さらにひとりの知的な人が来てくれる方がクラブのバランスがよくなると思っている。
ここにアホなルールがないのは、そういうルールをつくったり、厳しくしなければ秩序が保てないというような場ではないからだと思っているが、サルのようなと言うのはそういうルールや厳しさがなければきちんとできない奴のことである。そういう奴をなるべく集めないことが健全にクラブを保っていくことだと思っている。

しかし自分には何も取り柄がないという人も大歓迎だ、わたしが根本的に言いたいことは社会とここを乖離した世界にしたくないということ、たけしの漫談で昔は金持ちだけど勉強ができない、勉強ができるけど家がまずしいなどとお互いにアドバンテージ、ディスアドバンテージを持っていて、けんかをしたらお前バカのくせに、何を言っているんだお前は貧乏のくせにとフラットなけんかができたが、しかし今は貧しくて勉強できないなどと、かなりあぶない言葉で社会風刺をしていたが、それしかできないような人間が特別扱いされたり、ちやほやされたり、場合によっては社会人の会員よりも、ボクシングクラブのほうがでかい顔をしているようなクラブではいけない。
一応あいさつして敬語らしき言葉をつかっても、俺は今度試合にでるんだよ、俺何とかチャンピオンだよ何とか何位だよという雰囲気をかもしだしている、そういう奴らがいごこちを求めて刑務所仲間をたよって集まってくるような場には、しないさせないという考え方で運営している。
おおげさのように聞こえるが、しかしちょっとしたことでバランスはくずれる、そういうことがおこらないように、特に社会人に安心してトレーニングしてもらうためには、言葉を大事にしてクラブを運営している。

















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Think outside the box!

2014-01-26 | Weblog
この前特待生の説明会を聞きに行った。
その学校は学校の学力を上げるために進学塾をまわって、特待生を募っていて、是非説明を聞いてほしいということで説明を聞きに行った。
私のパートナーの話では、その特待生クラスのおもな目的は、これからの国際社会は英語が話せて表現力が豊かな人間を育てること、まず日本人の表現力を鍛えるためには、語彙力を増やす、必要な本を読んで物事をはかるものさしを持つと、私とまったく同じようなことを言っていたのだが、どうやらその教育プログラムをつくっているのは、米国で何年も生活してきた一応教育者という肩書きをもつ人らしく、いくつかの私立の学校が、その教育プログラムを受け入れているそうである。

ただうさんくささもある、はっきり言ってこういうことは全校が力を入れて取り組んでいるわけではないので、今のこの指導者一人の考え方が通用するかどうかというのはわからない。
少し昔にスクールカウンセラーというのを学校においたが、これがまったく機能しなかったことは記憶にも新しいことである、現にその数は一時に比べてかなりへったが、同じように最初は斬新な考え方だからいいと言って、それを採用するのは同じようなことになりかねないだろう。

それにこのプログラムを受ける子は進学塾に通う比較的勉強ができる子供たちである。
第一その責任者に英語が話せるのかと聞いたら「話せません」という、説明を受けている親の中には留学経験もある人もいるし、バイリンガルやトライリンガルの親もいる、そういう親は日本の教育システムに関して多少の違和感を持っていると思うのだが、しかし英語が話せない人間が、ただその教育者の話を聞いただけで、理念が素晴らしいからと付和雷同にそれを採用するのは換骨奪胎的で多少の不安もある。
さらに話していて、基本的な教育理念を持っていないと感じたので、多分この方は教育学を専門に学んでこなかった人だと思っていたら、企業から引き抜いてきた人で、戦略としてそのポストにつけたのだと思うが、おそらくその教育者という人の考え方があまりにも斬新な意見で、これはすばらしいと飛びついたのだと思うが、しかしその斬新な考え方も、教育者としての尺度がなければ教育として機能しない、結果的にできる子をかき集めて学校のレベルを上げるというやり方がそれを物語っていると思う。

私がそれははじめて何年なのか?そういう英語の実績はアジアだけで通用するTOEICでははかることはできないとかいろいろ言うので、ほとんど私の方を見ないで説明していたのだが、しかしこの学校で取り組んでいるプログラムというのは、あながちそれが勇み足とも言えない。

言葉を鍛えるというのはコミニケーションをはかるためには一番重要なことだ、そのコミニケーション能力はどこの社会に言っても問われることだが、これからのコミニケーション能力は日本語だけではなく、英語を話すこと、また文化の多様性を認めることが求められるが、まず物事の基本は表現力を養うこと、そのために本を読んで語彙力を増やす、この語彙力がなければ表現力は養えない。
私は子供の表現力を養うためにはまずはじめに語彙力ありきと思っているが、その語彙を増やすためには読書が必須条件であるが、この読書のさせ方にも問題がある。
日本の小説は言葉やその言葉の使い方をおぼえるのにはいいが、しかし論理的な思考を養えるかと言えばかならずしもそうではない、私はもっと哲学的な本を読ませれば、論理的思考が養えると思っているのだが、これからの日本人に必要なのは言葉を想像していく力だ、これができないといくら語彙をおぼえて表現しても力強いメッセージとして伝わらないだろう。
大事なことは自分で考えて自分で表現するいわゆる論理的に物事を考える力である。
しかしそういう力は単なる読書感想文では養われない、それはもっと自分と実存する事柄に関わってこそ養われるもので、その言葉を想像していく力を養うために、哲学を学ぶことは大事なことだと思っている。

おそらく日本人が論理的ではないというのはこの哲学的な思考ができないからだ。
日本人は根本的には物事の原理を合理的に理解しようとはしない、ゆだねるということはあってもなぜそうなるのか、なぜそれがおこるのかということに対しては論理的に考えようとはしないが、たぶんそれは仏教的な考え方が大きく影響していると思う。
仏教で言う悟りというのがあるように、悩みや苦しみというのはそれを理解して解決するよりも、むしろそれを受け入れるという考え方がある。

確か仏典にこういう話があった。ある女性が子供をなくしてブッタのところにいく、そしてこの子を生き返らせて欲しいと切に願うのである。それにたいしてブッダはこういう「あなたが各家をまわって、ひとりでも死人を生き返らせた家があったら、私がそれを可能にしよう」と、女は必死で各家々をまわる、しかしそんな奇跡などおこるわけがない、彼女は何十件、何百件まわったあとで、ようやく人間にはかならず死というものはおとずれるということを理解するのである。
この考え方は仏教哲学的な思想をあらわしていて、仏教では坐禅なんかにもあるように、苦しみや不条理というのは感覚の問題であり、それをひたすら無の境地に入ってそれを受け入れていく、諸行無常という言葉があるように人間の生というのははかないもので、それを知り受け入れることが世の中の原理を知ることだ、しかし西洋人はそれを言葉で考えて合理化しようとする、物事の原理をλoγos(言葉)によって説明するのが、西洋人であって、西洋では神という概念も完全に言葉によって合理化しているのだから、このへんが日本人とまったく違うところである。

今道徳教育がアジアで見直されているが、しかしそういったことよりも世の中の原理を知ろうとする大事なのは哲学的思考で考える、知の力でその知の力を養うためには哲学が必要である。
日本は平和で昔から対立とはさほど無関係だったので、和や協調性、そしてものごとを受け入れることで平和というものを保つことができたが、しかし世界はいにしえの時代から対立がたくさんあったし、相容れないことも数え切れないぐらいある、戦争や宗教的な弾圧というのはまさにそうだが、そういうものと対峙していくために、物事の原理を理解することが大事であり、そのことが激動の中で流されない自分をつくっていくのだと思っている。










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それは中学生のいいわけです

2014-01-23 | Weblog
この前新聞記事に子供のタイのキックボクシングが、子供の脳に悪影響をあたえるということが書かれてあった。タイでは多くの子供が生活のためにキックボクサーとしてリングに上がるそうだが、これが今問題になっていて、子供の頃からファイトしている多くの子供が何らかのかたちで生活に支障があるらいい。
ある専門家が言うには、ボクシングは攻撃が顔に集中するのでもっとあぶないとのこと、うちのクラブにも何人か子供が在籍しているが、最初にかならず親には子供の頭蓋骨はやわらかいので十六歳になるまでは、絶対にスパーリングのような頭をたたくような練習はさせないということを説明する。
たとえ親がそれをさせてくれと言っても医学的に悪影響を与える可能性が強いので、子供の将来を考えて絶対にさせないこれがここの方針である。

ある親はアドバンテージをとるために、小さい頃からやらせていたら有利だと、子供にマイナースポーツであるボクシングをさせるが、しかしそういうことを考えているのは一人二人ではない、大会があればかならずそういう子供たちがいて競争がある、私が聞いた話ではある大会でけが人が出て、病院に行った子供もいたらしいが、たとえ子どもどうしとは言え未発達の頭蓋骨を思い切りなぐりあうのだから危険以外の何ものでもない、ほかのスポーツをさせるのとはわけが違う、そのことをよく理解する必要がある。

何年か前にボクシング廃止論という論文が出た、日本語に訳されたかどうかはわからないが、この論文ではパンチの衝撃がいかに脳に影響をあたえるか、そしてここが一番の問題点であるが、ボクシングだけが頭を攻撃してダメージをあたえるスポーツだから、ほかのスポーツとは違う、危険だだから廃止しなくてはならないということが書かれている。
たぶんその論文は結構難しいので、日本語で書いてあっても読めないような人間もいるだろうが、こういうボクシングのように脳に危険だといわれているスポーツは、親に説明する上でも、シビアでかつ学問的にとらえている論文や意見を参考にして考えなくてはならないことだ、しかしそういう都合のわるいことには蓋をして、自分たち独自で大丈夫だという解釈をして、その危険性についてはあまり問題にはしない、しかしこういう問題は医学的あるいは学問的にその問題をとらえて向き合わなくてはただの詭弁だ、危険なのがあたったら、すぐにとめるとか軽く当てることを指導していると言うが、しかしそれらは中学生のいいわけとさほどかわらない。

私自身脳にダメージがあると思っている。
鼻が中でまがっているので、どれだけ強い衝撃でたたかれてきたかということがわかるが、実は少し前から話していて言葉が出てこない時がある、いろいろな言語が混ざってしまって表現に苦労する、少し前まではこんなことがなかったのだが、たぶんパンチをうけたことと何か関連していると思っているのだが、3年ぐらい前、韓国人の2世の人のところにお見舞いに行ったことがある。
その方はある事件以来、私のことをガッツがあるから、お前は日本人じゃない韓国人だと言ってくれて、そう言われる度に「いや私はガッツがあるから日本人です」と行っていたのだが、もうだいぶお年で、病院に入院された時は少々ボケてられていた。
私の訪問がうれしかったのか、一生懸命いろいろと話してくるのだが、しかし言葉は日本語と韓国語のちゃんぽんで、時々方言のような言葉を、ぼそぼそっと話すので聞き取れなくて、何を言いたいのかよくわからなくて返答にこまったが、そのことを考えれば非常に不安である。
パンチによる脳のダメージはボクシングを引退して5年後10年後に出るというが、そういうことを考えて子供に競技させているのだろうか?

前にも言ったが学問的に物事を解釈できない人間は、この時代にリーダとしてふさわしくない。
なぜなら見聞がせまいので、ジムとかクラブと言う世界で小さく固まって、自分たちの世界のルールでしか生きられないからだ。
こういう子供の問題は俺たちはこうだという考え方は通用しない、学問的に物事をとらえることができないと、自分たちはこうだとオウンルールを持ってきて、それが正しいことだとごまかしたり、説明したりするが、しかし無知な人間が集まって勢いともっともらしいことを言っても、その説明や書いてあることは、俺たちのやり方に基づいたオウンルール、中学生のいいわけである。
ボクシングの説明なんて長くやってたら、サルでも説明できる。ボクシングはバカではできないということを言う奴がいるが、しかし実際そうではない、時々指導している奴の中にはこいつは本当にバカだと思うような人間もいるが、人として指導者としての能力を問われるのは、このように医学的な問題や学問的な問題が出てきた時にどう答えるかだ。
軽くあてているとか、あぶなくなったらとめるとか程度について話すような説明は中学生のいいわけと同じようなもの。言っていてはずかしくないのだろうか。
まずその危ないということに関しては何も言わないし、説明できない、実際にこういうことをやらして、まず最初に考えなくてはならないことは、なぜ危険なのかということを考えることだ、安全だ大丈夫だということを一生懸命伝えても、肝心のなぜ危険なのかということがわからなければ安全性を十分に確保できるはずはない、しかしトレーナーや指導者がアホだとそういう理解の仕方で物事をとらえようとはしない。
自分たちはこうだというオウンルールで物事をとらえ、それを押し切る、それが自分たちの狭い世界だから通用するだろうが、しかし巷はそうではない、人権にうるさい欧米ではどう考えていいるか、ボクシング廃止論や最近出てきた子供にボクシングをさせてはいけないという論文に対してほとんど反対意見の論文が出ないのは、学問的にみてそれが間違ってはいないから、反論できないからである。
偉そうに言うのもなんだが、論文を読んだり、少々難しい本を読まない、自分たちのオウンルールを持ってくるやつとは話がかみ合わない、はっきりいって客観的に物事を解釈できないので話しても無駄、しかしこういうまともに話せない奴が結構いる。
俺たち勉強キライデース、英語がまったくわかりませーん、本なんて読みませーんと言うような奴は指導者として失格だ、まわりの人間もその小さい世界でトレーナーや指導者をとらえるのではなく、この人間は社会という集団ではどうか、そしてグローバル社会ではどうかということを真剣に考えてその人間を見たほうがいい。


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サッカーの監督に外国人が多い理由

2014-01-22 | Weblog
ある雑誌でサッカーの監督に外国人が多い理由を、日本の指導者のレベルがひくい、ビジョンはあっても理論と経験がない、だから選手はついていかないからだということを言っていた。
サッカーというのは個が集まった組織プレイである、特にスター選手の場合は個性が強いのでそういう選手たちをまとめるにはよっぽどのビジョンと、それにあった理論と経験がなくてはならない、中村俊輔も日本人に対する理解よりも、グローバルスタンダードな考えや意見をもつ外国人の方がいいと言っているが、スポーツの中でもグローバル化が著しく進んでいるサッカーは、今のところ日本人の監督ではつとまらないのだろうと思う。

ではなぜ日本の監督ではだめなのか、それは指導者のレベルということが大きく言われるが、さらに個人的な意見を言うと、日本人は「個」を育てるのがへただからだ。
日本人の指導者は大体みんな同じようなことを言うが、こういう同じことしか言えないような人間から個性のある人間なんてそう育つことはない。日本は監督やトレーナー自体たいした個性がない。私からみればみんな同じように見える。
なぜボクシングを競技したのかと聞かれてよく言うことだが、団体競技が苦手だからと言う。しかしここまでサッカーや野球を団体競技だと意識していること自体、日本人的で集団的なものの考え方だ、おそらく外国人はそこまで、これは団体スポーツかどうかなんていうことを意識なんてしていない、それを意識しすぎるのが日本人であって、そう思っていること自体集団的で日本人的だ、外国人はもっと自分の個性を生かして自由にやっている。
はっきり言って日本人はまだまだ監督主体でやらされている感がある、しかし自由にやりたければ自分が思っていることを主張すればいいだけのこと、それができないのが日本人で、それができないのはそういう能力を養う訓練ができていないからだ。

まあ自分の競技していたスポーツを、ここまでこけおろすのは私ぐらいだが、日本のボクシング競技者は個性のないやつが多く、どちらかといえば何かコンプレックスがあったり、問題を抱えた奴が多いと言うイメージをもっている。
まあそのイメージからの脱却が私の使命だと思っているが、私は根本的にはサッカーのようにおおぜいでやるスポーツの方が「個」は育つと思っている。
それはサッカー界にも見られるように競技するためには、そこで自分を主張していかなくてはならないからであり、サッカー選手が言葉をおぼえてコミニケーションをはかるのは、まさに自分というものを主張して、そこで認められなければならないからである。
一方ボクシングは外国語が話せるなんて奴をあまり聞いたことがない、これだけ語学と言われている時代に、まともな英語でインタビュウに答えている人間を見たことはないのだが、中には日本語さえもあやうい奴もいる、こういう奴を見て、少々偏差値の高い人間がそういう人間を尊敬したり、自分もそうなりたいなどと思わないだろう。

知力や学力よりも従順さや素直さを求めるようなやり方では、決して個は育たない、最近は素直なバカというのも目立つがこいつらも問題だ、仲間意識で集まった同じレベルの人間ばかりが集まって、その群れに順応はできて親玉に従えても、世界で通用するコミュニケーション能力など養うことなどとうていできない。
「個」を育てようと思ったらまずそのコミュニティについて考えることだ、コミュニテイを機能させたかったら言葉の伝達をもっと豊かにすること、ボキャブラリーが少ない、英語が話せないではコミュニティ自体が生きてこない、もっと指導者が言葉の勉強をして言葉を豊かにすることが大事だ、言葉を豊かにしてコミュニティの質を上げれば、その個人の表現力が養われおのずと個というものが形成されていく。そのため指導者は言葉を鍛えることである。

こういうスポーツの世界にはパギボレ(ごきぶり)のような奴らがいて、非常に汚い、時には人権を無視したようなことを平気でするが、それは犯罪だ、おそらくそういうことが当たり前だと考えられるのは昔の古い体質でものごとを考えているのだろう、そういう奴らには知性のかけらもない、非常に下品である。

スポーツの世界、特にあまり学力が高くないと感じさせられるスポーツは、非常に封建的で人権を無視したようなことがしばしばある。外道というのは非常に下品な顔をしているが、こういうやつらは自分たちのことしか考えていない、せいぜい考えられてその小さな組織のことである。こういうやつらはまず人権について学ぶ必要がある、社会契約論においての個人の権利とは何かということから考えて、学習会をひらいたらどうか、メシを食いながら人の権利を徹底的に剥奪するような会議をしている暇などない。






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5ボンゲート エソ キダゲッソヨ

2014-01-17 | Weblog
「無責任なテレビ局そして新聞社」
昨日日本テレビのテレビ番組で不適切そして偏見や差別をまねく危険性がある表現についてかなりたたかれていた。
内容は見たらわかるのであえてかかないが、しかしあまりにも無神経である。
テレビ局も実際に視聴率を取ることばかり考えて、とにかくうければいいと考える、そしてその受けるためには何をすればいいのかということを考えたら、刺激を与えて煽るしかない、そこでこういう問題のある表現をつかって番組設定を考えたのではないかと思っているが、日本のドラマというのはでっち上げが多く、そのでっち上げに視聴者は踊らされているのだろう。とにかく何をしても視聴率をかせげばいい、そのため国民の刺激を煽ってうけをねらっているのだろう。

例えばよくある学園ものなんかは、無責任な教育委員会と自分のことしか考えない教師たち、そしてそこの生徒たちは犠牲者で、そこにチンピラ教師が生徒のために立ち向かうという非常に陳腐な番組の構造であるが、しかしこういうテレビを見ていたら教育=悪だという概念を持たざるを得ない、ほとんどでっちあげだ、こいつらは今の教師がどういう立場に置かれているかということを知っているのだろうか、確かにくずみたいな奴もいるが、しかし大半がそうではない、きれいごとではないが、彼ら彼女らは子供たちあるいは親と深く関わらなくてはならない現状がある、それに昔のように権力などないので現場で働く教師はバカ親や秩序を守れないくそがきの対応に追われアップアップしている。
そういう関わりの中でのトラブルというのは必然的に起こるものであるが、しかしこいつらに言わせれば、教育や教師は間違っている、だから教育を抜本的に変えていく必要があるのである。
しかしこういう教師像を作ること自体でっち上げで、プライバシーの侵害である、おそらく子供が学校や教師を信用できないとしたら、多少なりともこういう番組が子供に悪影響を及ぼしているのだが、教育というのは地味なものだ、それをこういうおもしろけりゃあいいというような番組を持ってきて、刺激だけを子供に与えるのは危険だ、教育というのは、非常にじみで根気のいることである、教育学の本など読んでもそれが非常にたいくつなものなので、いかにそれが地道なものであるかということがわかるが、教育とは今それが役に立つというものではない、これから将来いつかそれが役に立つものだということがわかるものだが、そのため教師たちは生徒たちに嫌われながらも努力しているのである。
視聴率か何かわからないが、そのためにそういう地道な活動を無駄にするな、芽をつむなということ、しかしそれでもこういうことができるのがテレビや新聞である。

不適切な発言いや暴言の問題も、テレビや新聞というのはうければいいと思っているが、しかし実際に大事なことはその人間が聞いてどう思うかである。その人の痛みを感じる気持ちが根本的にかけている、かけているからそういう暴言がはけるのだと思う。
前にも地元の新聞社が連れ子を殺した男をその実の母親である女が、男の出所を待つなどという記事を書いていたが、しかしこれをもしその子が生きていて聞いたら、どういう気持ちがするのか考えてみたらいい、血のつながっていない母親の男に殺され、しかもその男がでてくるのを待つというのだから、こういうことを公の新聞をつかって書くのは非常に無神経である。さらに前に地元の新聞社が猫の里子とか、犬の里子という表現はやめてほしいという実際の里子の訴えをけんもほろろに突き返した話をしたが、こういう人の痛みがわからないような人間が表現や言論の自由と言って、人を傷つけてまで書くのはまさに権力の乱用と言っても過言ではない。

「5ボンゲート エソ キダリゲッソヨ」

子供の受験がおわったら見せてやりたい映画がある。それは私にしてはめずらしい日本映画であるが「チルソの夏」である。
日本の映画のタイトルは「チルソク」だが、しかし実際の発音は、キヨクのクの音がつまるので、チルソとあえて書くが、チルソと言うのは日本語で言う七夕のことである。
舞台は70年代後半の下関、毎年7月7日の七夕の日に行われる日韓共催の陸上大会、ここで二人の高校生が出会い、文通をすることになる、しかし時代は日本人と韓国人がいがみ合い差別がひどかった時代なので、二人の文通はまわりの人間の反対に阻まれ、翌年の再会ははたしたものの、大学を卒業したら会おうと言っていた約束ははたせず、年月が過ぎていく、そしてそ20年後二人は同じ場所で同じ日に再会するというストーリーである。
この映画は当時の日本人と韓国人の関係をよく表している。
今では旅行などにも気軽に行くことができ、韓流などといって、文化交流も盛んになってきたが、しかし当時はお互いがかなりいがみ合っていて、差別があった。
映画のシーンでその韓国人の男性と文通している娘にむかって親が言うひとことがある。
「お前朝鮮人とつきあっとるのか」「外人でもなんでもいいが」「俺は朝鮮人は絶対ゆるさんからなあ」
まあひどい言葉だ、映画といえど苦笑いしてしまった。今の子はこう言う言葉が、当時当たり前のように言われていたことを理解できないだろう。
私が何を言いたいかというと、差別や偏見というのは、かならず存在するものだ、その存在するものを最初からなかったように仲良くしましょうというのはきれいごとで、自分たちがうけいれてはいけない、人間の傲慢やみにくさを知ってはじめて相手に近づいていけるのではないかということである。
私は子供にこの映画を通して日本人が韓国人に対してどういう偏見を持っていたか、そして韓国人は日本人に対してどういう敵意を持っていたかを知ってほしい。
そして彼は政治家になりたいと言っているので、近い将来韓国に連れて行って思いっきり反日、これが反日じゃというのを命懸けで体験させてやろうと思っている。




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「因縁」がある。(韓国語で)

2014-01-14 | Weblog
友達の出身校「ソウル金玉小学校」あらためて日本語で読むとびっくりする響きである。韓国語で発音すると全く違うが、しかし漢字で書くとたいていの日本人はぎょっとする。
金玉小学校はソウルの玉水駅近くに存在する、おまけに小学校だけではなく中学校、さらに驚くことに、ソウル金玉女子高校というのがあるらしいが、金玉の実際の発音はキムオク、確か北朝鮮の有名な秘書がそういう名前だったと思うが、この名前は文字通りいい意味で使われる言葉で、韓国語のそれはプ○○、日本語のそういう意味ではない。このソウル金玉小学校は列記とした公立の小学校である。
しかしそれにしても、もし小学校同士の交流があって、彼ら彼女らが日本に来た時何といって紹介するのだろうか?日本語にするのか、そのまま韓国語で通すのか、かなり気になる。
この前うちの子供がイスンシンのことを日本語読みでリ何とかと言っていたが、日本人は韓国人や中国人の名前を呼ぶ時、そのまま漢字読みする傾向がある、ならばそのまま日本語読みで行けよと思うのだが、しかしそれはかなり難しい問題だ、特にNHKはそういうことには厳しいので、期待通りの読み方にはならないだろう。
韓国と日本は共に漢字の影響が大きい、韓国の漢字はどちらかというと日本から入ってきた漢字が多いので、同じ意味のものが多く、私はもし韓国人が漢字が読めるようになれば、日本人と筆談ができると思っているが、しかし中にはまったく違う意味や微妙に違う意味の漢字があって、その微妙に違う漢字が時には勘違いのもとになる。
うちの会員の方の話、その方は大学の研究発表で、よく韓国の学会に行くそうだが、そこで韓国のある学者から木彫りの像をいただいたらしい。
たぶんそれぐらいのクラスの人だから、そこそこ大きいものをいただいたのだろうと推測できるが、最初それを見た時ぎょっとしたらしい、その木彫りの像には大きく「因縁」とほってあったそうだ。
日本人が因縁と聞くとぎょっとする、しかも木彫りの像だ、何かわるいことしたかなんて思うかもしれない、しかしこの因縁というのはどちらかというと末永くおつきあいしましょうという意味、木彫りの人形もよく気に入った相手にプレゼントするもので、私もめちゃくちゃ大きい鴨の像を(しかもつがいで)いただいたことがあるが、これにはかなり迷惑であった。

昨日は成人の日であった。
最近では日を別にして祝っている都道府県があるが、毎年その成人式の日にサルのような輩が目だとうと暴れて警察につかまるニュースを聞く。
バカだからほかでは存在感を示すことができないので、この時ばかりは目だとうと、金髪に羽織り袴や萬田銀次郎ばりの派手なスーツ、着ているものは立派なのだろうが、しかし着る奴が着る奴だけに安っぽく、しかも下品だ、そういう中身のない奴が下品なカッコで騒ぎ出す姿はまるで野生のサル、きちんと群れの秩序を守っているそのサルたちに失礼であるが、しかしそのサルどもを捕獲するために警察が配備されるが、大人になろうと言う式に警察がかけつけて警備しなくてはならないなんていうのは異常とも言える。
そもそも成人式というのは、祝日を祭日と呼ぶことからもわかるように、冠婚葬祭の冠にあたる国の行事、昔ならば元服のことで、元服は氏神の杜前で行われた儀式でれっきとした神道儀式である。
まあこんなことを今の信教の自由の時代においていうのも何だが、成人式というの神道の儀式で、外国で言えば戴冠式のようなもの、その国家が公に司る行事にあそこまで醜態をさらすというのは、はっきり言って犯罪だ、昔だったらどえらいめにあわされていることは間違いない。
まあ日本は信教の自由が認められているのでそれによって保護されているが、しかし宗教国家であれば国家の儀式で醜態をさらすことは死刑に値する。国が国だったらこいつら石打の刑、そういうバカなことを二十歳にもなった人間が堂々と毎年するのだから、日本は平和でやりたいことをやりたい放題の国だと言える。はっきり言ってこいつらにかけているのは、責任を負うということだ、サルに近い人間に限って二十歳から酒が飲めるとか、賭け事ができるとか権利ばかり主張するが、しかし大人になるということは、同時に社会に対して大きな責任をおわなくてはならないのだ。

そもそも二十歳で成人式ということ自体おかしいことだ、なぜ二十歳にもなって今更自分たちは大人だということを改めなければならないのか。
イスラエルの男性は13歳でトーラーという書物を徹底的に読まされ、暗記して、神と群衆にそのトーラーの掟に従って、社会の一員として責任を持って生きていくことを誓わされるが、それがイスラエルの成人式である。
これは私の提案であるが、これから成人式を元服に戻して15歳にひきさげて、そこでイスラエルのように公の場で誓約させたらどうであろうか。そうすればもっと社会というものを意識するのではないか、日本では誓約という概念は希薄であるが、欧米では宣言や誓いというのは大統領就任式などの就任式、身近なところでは結婚式は誓約であるが、そのことが意味することは神と人との前で責任をおわされるということである。
こんなことを言うと天皇制にに近づくとか、信教の自由がある、外国人排除だ言う人間もいるが、しかしはっきりと元服のような儀式にのっとって式を行い、その準備期間として日本国の誕生から説明し、自分はそこにつながる人間でこの日本国を建設していく責任がある、それが教育、納税、勤労だぐらい教えてもいいんじゃないかと思っている。
別に天皇制を復活させろというわけではないが、しかし成人式という大人の儀式で毎年ここまで醜態を晒すのは日本ぐらい、ここで何か大きな改革が必要で、それは道徳教育の必須化なんていうことではなまぬるい、この儀式化を計ることが最善だと思っている。
その上で信教の自由を考えて天皇制に反対する人間は成人式には参列しなくていいし、外国人特に中国人や韓国人はそのやり方に従って成人式を行えばいい。まあ私自身もしそうなると、いくら何でも成人式に出るということは決してないと思うが。







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卒論のテーマには責任を

2014-01-09 | Weblog
もうそろそろ卒論を提出する期間である。
そのころになると大学生と話をする。
ところで卒論は何書いているんだ?
○○○の○○についてです。
へーっ変わったテーマだな、結構めんどくさいだろ。
ええっ、でも今のところたいしたものが書けなくてこまっているんですよ。
参考文献を聞いたらそれがあまりたいした本を上げてはいない、そのテーマだったら日本語の文献などほとんどない、君が行き詰まっているのは参考文献の量がとぼしいから、英語でもなんでももっと探して読む必要があると指摘すると、英語は苦手ですからと答える。
最近の若い人と言っては何だが、少し前から個性と言われているのか、人と違うことをやったり、目立つことが個性だと勘違いしている、卒論にしてもそうだが、スタンダードなものよりもむしろユニークなテーマを選んでいるのだが、しかしその個性を生かすためには、いろいろな知識を得て、いろいろな比較をして、本当にそれがいいのかわるいのかということを見極める必要がある。比較して作り上げていくからこそ、個性的な作品が生まれるのであって、そういう個性が自己主張だと思っている。

自分本位と個性とは違う、好きなことを言って人と違うことをやることをするのが個性だと思っている奴がいるが、しかし独りよがりの個性はただの滑稽、個性とは磨かれなくては個性にならない。最近は個性個性と言われてきているので、目立つことや滑稽なことをするのが個性だと勘違いしているが、しかしそういう奴らが個性だと言い出すとサルでも人格や個性を持つことになる。しりを見せて地べたにすわって求愛するのが個性なのか、コンビニの前ですわってビールか酒かわからないが、それをみんなでまわして飲んでいる姿を見るとチンパンジーのバナナの回し合いにしか見えないが、漢字もまともに読めない奴が勝手に読み方をかえて、子供にありえない漫画のような名前を付けることが個性なのか考えてみたらいい、ついでに言うとボクシングしかできないというのは芸だ、芸はサルでもできるし、サルのほうがもっと見事にできる。
人間は考える葦だ、ラテン語で人間のことをホモサピエンスと言うが、これは知性を持つものと言う意味、すなわち人間だけが他の動物に比べて知性をもつ、そのことが人間がほかの動物に比べてユニークなのだということだが、個性とはこの知性を十分に生かすものだ。

話は英語の論文になるが、英語の論文を書くにあたって意外と重要なのは接続詞だ、接続詞というのは言葉をつなげていく言葉であるが、英語にはtherefore moreover furthermore alternativelyなど、その他にもたくさんの接続詞があるが、これらの接続詞には、それぞれ強調してつなげる、反対のことをのべる、さらにつけくわえるというように、つかう接続詞によって違うのだが、英語でこれだけいろいろな種類の接続詞があるというのは、やはり論文はいろいろなことを比較して客観的に考察しつつ、ひとつの結論に至っていくということであり、論文などでは引用文も多く使うので、必然的にそういう表現が生まれたのだろうと思う。
物事というのは、比較しなければそれがいいかわるいかということはわからない、比較できる能力もないのにこれが俺のやり方ですからと自分のやり方に固執するのは、ひとりよがりのなにものでもない。
本当に主張するための個性を持ちたかったら、言葉を覚えてたくさんのことを知って、経験することだ、私がこいつらはダメなトレーナーだと思うのは人の話が聞けない奴、人の話を聞かないのではなく、聞けない、聞く能力がない奴のこと、言葉をかえれば論文や文章を書く能力のない人間で、咀嚼力がとぼしい人間だ、考えてみたらわかるがそういう能力がない人間が人の話を聞いてアドヴァイスできるのか?おそらく自分のことをいうのが精一杯で、人のことを聞いてそれを咀嚼して考える余裕などない、真面目なことを聞けばきくほど滑稽なことを言うだけだ、そういうやつに限ってアホなルールをつくったり、あいさつなどの子供じみた礼儀にこだわる。
こういう奴が集まると価値観がかわる、正直な話運動系のアホな不祥事はこういう奴らが生み出す、小さな小さなムラ社会の常識もどきの社会から生み出されるのだと思っているが、こういう縦社会から個性的な人間がうまれてくるのだろうか。







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オットセイは英語じゃない

2014-01-08 | Weblog
オリーヴではやりなおしの英語ということで、英語の基礎を教えている。去年の暮れあたりから希望者が増えてきたのだが、多いのが海外旅行に行って英語が話せなかったので、今度行った時は話せるようになりたいということで、英語を勉強したいらしい、実際に海外に行ってそのことを肌で感じたのだろう、このグローバル社会では英語が話せないとかなりのディスアドヴァンテージだ。
前にある大学生がオットセイを英語だと思ったのか、外国人に「オットセイ」と言うと外国人はえっそれ何というので、発音が違うのかと「オットーセイ」とか「ウオットセイ」と何度も発音を変えて伝えようとしていたが、通じるはずはない、オットセイは「sea lion」あるいは「sea otto」でオットセイは和製英語のようなもの、そいつはなんで通じないのですかと不思議がっていたが、和製英語を英語だと思っている弊害がここにある。

英語を話すことは、2つのアドヴァンテージがある。
まず難しいことを簡単に伝えれる能力が身に付いたこと、英語というのは日本語のようにだらだらと長い文章で会話しないので、完結に言いたいことだけをまとめて話す能力が身につく、たぶんバイリンガルの人間は長々と無駄なことを話すことはない、なぜなら英語そのものが簡潔であることを求めるからだ、おそらく無駄な話や同じことを長々話す奴は語学音痴、日本語しか話せないと思っているが、実際もし日本語でもスピーチする時にそれを英語に直してみたらいい、おそらく表現しきれない言葉や、無駄な言葉が多いことに気づく、アイキュロスは「真理の言葉は単純」だと言ったが、結婚式などの賛辞に美辞麗句は必要ない、単純な言葉であるから心に響いてくる、結婚式などで10分と言っても、それ以上話す奴、自分では雄弁だと思っているが、それはまったくの無駄話、聞く人によっては非常に不愉快である。こういうやつに足らないのは場の空気を読めないというのと、自分の言葉を完結にまとめることができないことだ、相手が10分ぐらいといったら10分でまとめるのがエチケットのようなもの、それを長々と話すのは準備不足と指摘されても仕方がないだろう。

そして客観的に物事を見れるようになったということ、特に英語で論文などを書くとその能力が養われる、英語の論文はintroduction 、mainbody、conclusionとおもに3部で構成されるのだが、注意すべきことは、同じ言葉を使わない、I Youなどの人称名詞を使わないというのが基本的な論文の書き方で、特にIや Youを使わないのは論文というのは、客観的に物事を見なければいけないということで、受動態や関係代名詞や関係副詞というのは、まさに論文を書くためにうまれてきたものだ。
この人称の使い方である程度人間のレヴェルというものが理解できる、自分のことを自分の名前、ひどいのになるとなにちゃんなんて呼ぶ人間がいるが、俺がとか俺らがというようなことを強調したり多くつかう人間は客観的に物事を見れてはいない、特にそれしかできない体育会の奴らはこういう言葉を連発するが、こういう言葉を強調してつかう奴ほど中身はない、客観的に物事が見れていないと小さく固まるいびつな集団がうまれる、こういう奴らの知っている世界は俺か俺らそして自分たちが共通する仲間たちである。
ラテン語やギリシャ語と言うのはもともとamo(私は愛する) amas(あなたは愛する) amot(彼は愛する)のように動詞に人称が含まれていて、あえてそれを人称で語ることは強調することで、エゴというのはギリシャ語の一人称私ということだ。
俺とか俺たちという人称は非常に強い言葉で、運動系のアホな親玉がそれをつかうと、勉強しないような人間はその言葉にひっぱられて言ってしまう。
正直私は指導する人間は最低でも論文を書く知識を身に付け客観的にものごとを見る必要があると思うが、俺とか俺らチームがなんていう人称を強調することは、何も考えていない奴らに対しては、洗脳の第一歩だと思っている。
さらに英語を理解するためには、ラテン語と聖書を読めということをアドバイスしたが、ラテン語は英語の語源を理解するため、聖書は欧米の人間の考え方を知るためだが、聖書というのはまさにその論文の3部構成からなりたっていて、特にepistle(書簡)を読むと論文を書くコツが理解できると思っている。





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Annum Novum Faustum Tibi Precor! あけましておめでとうございます。

2014-01-05 | Weblog
Annum Novum Faustum Tibi percor!ラテン語で直訳すると幸せな新年をあなたということだが、今年一年も恵まれた年であることを願う。
この前うちの子供が特待生の推薦が受けれるということで、その説明をするために塾にその広報の人が来ていたらしい、特待生というのは学費免除でその中学の新しくできた進学クラスに入学するということだが、しかし特待生と言ってもうちの子が特別優秀だからということではなく、まあまあ実績のある進学塾から、そこそこという子供を特待生で入学させて実績を上げていくという試みで、うちのパートナーの話を聞くと、そこの広報部長が直接塾に来て説明していたらしいが、かなり真剣に取り組んでいるそうである。
話を聞いてておもしろいと思ったのは、そこの広報部長が日本人は表現力がとぼしい、だからこれからグローバル社会ではその表現力を身に付ける学習をしなくてはいけないということを力説していたそうであるが、私と同じようなことを言っていたことだ。
表現力をどう養うかということに関しては違いはあるものの、私のブログを見たんじゃないのかというぐらいよく似たことを言っていたらしいが、たぶんそういうところにアンテナをはっていれば自然と同じような結論にいたるのだろう。

英語というのはこの時代には絶対必要である。なぜ必要かというと、この英語がわからなくては今の時代は情報がつかめない、そして多面的な物の考え方ができないから、考え方が小さくなっていくからである。
少し前にテレビを見ていたら、あるアスリートが自分が影響を受けた人物は誰だと聞かれた時に、真面目に戦隊もののヒーローだと答えていた、うけをねらったのかはどうかはわからないが、しかしこれでは子供のインタビューだ、私はなんかそのおちゃらけた雰囲気と部室で軽々しく語るような会話に、頭にきたのでテレビのスイッチを消したが、まあこれが個性だと言ってしまえばそれまでだが、しかしもう少しまともなことえが返せないのだろうか、こういうたぐいの人間の会話は部室の会話レベルだ、公共の電波を使って部室で交わされるようなおちゃらけた会話をさせるのは非常に不愉快だ、オリンピックでどこに行こうが自分たちのことしか関心がない、所謂自分たちの部室というわくをこえることができない。
たぶんそのことはこういった程度のひくい会話にでているのだが、言葉ができない、それしかできないというのは場合によっては罪である、いろいろな国に言っていろいろな民族と出逢えば、日本人ということがどれだけ恵まれているかということがわかるし、いろいろなことが見えてくるものだ、しかし日本のアスリートが話すことと言えば部室の会話、それを聞いて喜ぶ奴も喜ぶ奴だが、拉致問題や竹島の問題などいろいろな問題がある、アスリートにはなるべく答えさせない、答えられないからそうしているのかどうかはわからないが、諸外国に比べて日本のアスリートたちは無知すぎて話にならない、世界に出て行くならば言葉を覚えていろいろなことに関心をもつ必要がある、このあとマララユフスザイが尊敬する人物に殉職したパキスタンの女性大統領をあげていたが、このアスリートとは非常に対照的で、本当に学力不足だということを実感させられた。

さらにこれからの英語の指導者は英語の文法や会話だけではなく、ラテン語や聖書の勉強をする必要がある、なぜそうする必要があるのかというのは、英語そのものをコミュニケーションの単なる手段ではなく、その英語がもつ意味や語られる背景を知ることで、文化や考え方というものを理解することができるからだ、そういうことを知ることで、英語を話すということが単なるツール(道具)ではなく、多面的な物の捉え方ができるメジャー(ものさし)になる、おそらくこれからのグローバル社会ではそういう背景をふまえて英語教育をしていく必要があると思うのだが、そのためにはその言葉の語源となっている、ラテン語や考え方の背景となっている聖書を理解することが大事なことで、私はこれを英語を覚えるのではなくて吸収すると言っているが、これからの英語教育に必要なのはこの英語を吸収していくことだと思っている。
英語というのは魔法の言葉だ、この英語を理解するだけでたくさんの人と話すことができるし、たくさんの人の考え方や文化を吸収できるのだ、英語がわからないと、まだ見えていないことがたくさんある、オリーブではやりなおしの英語ということで何人かの人に英語を教えているが、その時私は英語を教えながら、その考え方や語源や他の言葉との違いなどを説明しているが、そのことを知ることで新しい世界が開かれ、考え方や世界を広げて行って欲しいからである。
ディズニー映画のアラジンの主題歌a whole new worldの歌詞にこういう言葉が出てくる。
Ican show the world.shining shimmring splendid.tell me princess now when did you last let your heart decide?(君に世界を見せてあげよう、光輝く広がる世界を、さあ教えてプリンセス君が最後に自分で決断したのはいつ?)この歌はアラジンが夜にこっそり宮殿にしのびこんでプリンセスを魔法のじゅうたんにのせて、世界を飛びまわった時に歌った歌詞だ。教えてプリンセス君は自分自身で決断したことがあるかい?宮殿というきらびやかではあるけども限られた狭い世界に生きてきたプリンセス、しかし魔法のじゅうたんにのることで、もっともっとさらに大きい世界を見ることができた、英語というのはまさにその魔法のじゅうたんならぬ、それを動かす魔法の言葉、The magic wordである。この魔法の言葉を覚えれば世界のいろいろなことを知ることができるし、見ることができる、小さい世界にとどまりたくなければ言葉を覚えることである、それしかできないバカアスリートの自慢話や安っぽい人生論なんか聞いても意味がない、言葉を覚えて自分の世界を広げていくこと、そのことが今求められている。









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