脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

宗教学のすすめ

2010-04-30 | Weblog
この前宗教が見えれば付き合い方がわかるということうを言ったが、このことに対して何人かの人が関心を示していた。
Mtオリーヴランゲージスクールを拡張するために、最近インターネットや人づてにジョブオープニングをやっているのだが、これに何人かのアジア人から応募があった。
中でも最近ある国はかなり英会話にも進出しているそうで、ジョブインタヴューする限りではインテリ層の英語はそうなまりはなく、難しい言葉も十分理解しているし、文法もしっかりしているので日本人に英語を教えるには十分いい先生になりそうである。
オリーヴランゲージスクールでは、おもにアジア人で多少日本語ができる人を採用しているのだが、そのジョブインタヴューの時に、私はさりげなくその人の持っている宗教を聞くようにつとめている。
はっきり言って政治や、宗教の話をするのはいただけないが、しかしこれは重要、外国人を雇うのだから、特にイスラム教などの日本人になじみのない宗教には注意して採用しなければ後にややこしいことになりかねないのだ。
しかしはっきり言って宗教が理由で採用しないといことはまずない、宗教ではなくカルトであれば別だが、しかし人間はその持っている宗教が自分の持っている考え方やバックボーンにあらわれるのは事実であり、そういうことがかなり参考になる場合がある。
ある国の女性とジョブインタヴューをしていた時である。
その国はたいていキャソリックが多いので、私は話を進めながら「Are you Catholic」聞いたのだが、答えはNOであった。
あれっと思い、じゃあ何だと聞いたらBorn againだというのである。
Born againはジョージブッシュが若いころ放蕩三昧をつくして、立ち直るきっかけとなった宗派であるが、この宗派が最近学生の間に広がってきていると」いうのである。
これは私の見解であるがこの国の人たちは経済的な理由もそうだが、依存性が強い民族だと思っている。
教皇を中心としたキャソリックなんていう宗教は、そういう依存性でつながっている部分があるので、あまり裕福ではない国にひろがりやすい傾向がある。
しかしボーンアゲインというのは個人の回心を重んじる傾向があるので、主体性は自分にある。そのジョブインタヴューした人も20代の前半であるが、自分の意見をはっきり主張し、考え方もウェスタニゼーション化されて、かなりしっかりしているという感はある。
こういう宗教が最近のインテリ層にひろまりつつあるというのであるから、ひょっとしたらひょっとして何かムーヴメントが起こるか、内側から何かが変わっていくのではないかという期待があるというか予感がしている。
私は日本人がこの宗教を理解しないと言うことに対して、ある種の懸念がある。
この宗教感と言うものをもたない日本人が、対人関係や海外で失敗することをよく聞く。
宗教を知ると言うことは重要である。
この宗教というものを知っていたら、相手のバックボーンが見えてくるし、相手の考えや行動なんて読めることが多い、しかし日本は政教分離の立場があるので、宗教を授業などで教えることは困難で、キリスト教や、ユダヤ教そしてイスラム教についてまったくといっていいほど勉強しないが、しかしこういう宗教というものを学ぶことは、英語を覚えるのと同様国際交流をすすめる上では非常に重要だと思っている。
日本人は宗教を持たないという点で、相手から見れば考え方がよくわからなかったり、行動が見えなかったりする場合があるらしい、しかしこういうアドヴァンテージを生かすために、逆に相手をよく知るということはかなり重要なことではないかと思っているが、この宗教学を学ぶことは大いに役に立つ。

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Get even

2010-04-28 | Weblog
今年の7月私の知り合いがカリフォルニアからこちらに来られる。
目的は子供を7月の間に地元の小学校に体験入学させることと、子供に日本の文化にふれさせ日本語をマスターさせることである。
たぶん8月からはカナダ人のご主人もこちらに合流するので、オリーヴの小中学生なんかと合流で夕涼み会やバーベキューなんかも企画している。
仕事の関係上私のところに外国人がよく来るのだが、外国人と話をするのはたいへんおもしろく刺激がある。
ある人に言わせれば、私自身が外国人らしいが、国が違えば事情は違うもので、時々えっと思うような質問をしてくる人もいる。
これはあるキャソリックが大多数を占める国の人に聞かれた質問だが、それは人間の死について話していた時であるが、内容は「あなたは今、Confessすることはあるか」ということであった。
いきなり「なんじゃそりゃ、なんでそんなこと言わなあかんねん」と思ったのだが、Confessionとは、キャソリックで言うわるいことをした時に告白する懺悔のことで、彼彼女らは1年に2回ほど義務付けられているそうで、特に死の間際にするConfessは重要らしい。
しかしいきなりそんなことを言われても言えるはずがない。
日本人のもつ罪悪感では、人に言えないことだからわるいことであって、それを他人にぺらぺらしゃべるのは少しためらいがある。
「じゃあ君はあるのか」というと、その人はぺらぺらと自分のやったことを告白したのだが、しかし日本人の感覚から言えば、自分がやったわるいことを、堂々と人の前で告白するのは憚るべきことで、それは反省しているしていないにかかわらず、日本語で言うと盗人猛々しいである。
宗教学的な話になるが、キャソリックのこの告解制度は、もちろんいい面もあるが、問題点があると思っている。
それは何かと言うと、ここでいう彼彼女らのように、自分のやったことがただ告白するだけで安易にゆるされてしまうからである。
日本人の言う罪は、恥じるべき行為である。
恥じるべき行為であるから、そんな恥を外部にさらすなどということはと言うのが、日本人の考え方だ。
しかしそれに対してただそこで告白すればゆるされるというわけだから、罪にたいする自責の念が感じられないと思われても仕方がないと思われるだろう。
この国は犯罪率が高いと言われているが、たぶんそれは貧しいからということだけではなく、おそらくわるいことをしても、罪を告白しただけで安易にゆるされてしまう、この告解制度に深くかかわっているような気がするのだが、そう思うのには根拠がある。
以前この国の刑務所をテレヴィで取材していたのだが、日本と比べて、犯罪者がなぜか明るく、みょうな気分である。犯罪者があれほど明るくていいのだろうかと思ったのだが、インタビューを聞いても、これが犯罪者かというぐらい屈託のない様子でこたえていたのだが、やはりこれらは安易に罪がゆるされてしまうと言う、告解の制度が弊害になっているということを彷彿させる出来事であった。
確かに犯罪をおかす人たちはキャソリックの人たちばかりではないが、しかし宗教や神話といったものが、人間の犯罪や蛮行の抑制になっていることは事実であり、それらが深くわれわれの深層心理に関わっている限り、宗教制度というものは犯罪抑制には重要なものであると思っている。
そう考えればこのキャソリックのConfessionという制度も、見なおされなければならない部分もあるのだろう。
ただこれだけゆるされるという体験をするのだから、彼ら彼女らは他人に対しても寛容である。おそらく日本の犯罪者がひっそりしているのは、日本だったら、犯罪者にむけられる周囲の目がこちらとは違ってかなり厳しいからだと思うが、たぶんそこが罪意識の違いなのだろう。
しかし寛容と言っても私にはGet even(おあいこ)としか思えないのだが。

実は私は宗教学が専門なのだが、これをやっていてよかったのは、この知識が国際交流にかなり役に立つからである。
だいたい彼らの宗教のバックボーンが見えると付き合いやすい。
彼あるいは彼女はプロテスタントかキャソリックか、あるいは仏教徒か、これが見えればたいていどう付き合っていっていいのかがわかると思う。
またその国の宗教事情によって、その人の持っている宗教でその人のステータスや裕福度がわかる。

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「ある」ことと「ない」こと

2010-04-26 | Weblog
サルトルの代表作に「存在と無」というのがある。
どういうことかというと、簡単に言えば「ある」と「ない」である。
道具はただあるだけだが、人間はあると同時にないということも考えることができる。
そしてそのないもののために何かをし、何かを目指すのが人間であると言うのである。
以前ボクサーの畑山の例を出して、彼がチャンピオンになった後でも、足りなさを補おうと大検を受けて、大学にかよったという話をしたが、まさにこのことも彼が「ある」ことと「ない」ことを同時に謙虚に受け止めることができたからである。
manny paacquiaoというフィリピンのボクサーがいる。
彼は4階級制覇という偉業を成し遂げたボクサーで、母国のフィリピンでも、国民からかなりたたえられているらしいのだが、正直彼のことは最近と言うか、つい1週間前までは知らなかった。
実際私は彼のインタヴューを見たのだが、彼のインタヴューを見る限りでは、物事を謙虚にに受け止めている素晴らしいボクサーであることが感じられた。
試合後自分のことを普通の選手だと言ったり、コットの調印式では、彼のことを偉大な選手だとたたえ、彼のチームは素晴らしい人たちだとさえ言っているのだが、こういう言葉ひとつひとつに彼の人柄というか、生き方があらわれているのだが、少ないボキャブラリーで、受けることだけ考えて墓穴を掘る、どこかのちんぴらボクサーとは大違いである。
彼の英語は教育を受けることができなかったので、さほど流暢ではなく、移民独特の英語で単純でたどたどしかったが、しかし言葉ひとつひとつには重みがあり、まさにそれは物事を謙虚に受け止めようとするチャンピオンにふさわしい態度に見えた。
以前何かを極めれば足りなさが見えてくるということを言ったが、これはある程度物事を極めた人間には重要な事柄かもしれない。
ボクシングをしている人には、一度このパッキャオのインタヴューを見ることをお勧めするが、まさにこのパッキャオの謙虚な姿勢も、いい意味での自分の足りなさということに彼が気づいて、それを真摯に受け止めている姿だと思う。
格闘技の世界は強さを強調する世界なので、足りなさというと何か抵抗があるのだが、しかしその足りなさを受け止めると言うこともひとつの強さであり、私は彼パッキャオのインタヴューを聞いた時に、彼は何かが違う、神々しさを感じたことは事実である。









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ジンメルの言葉 2

2010-04-23 | Weblog
「排除されていないものは、包括されている」
これは最近友人にすすめられた、社会学の諸形式の研究の中で書かれたジンメルの言葉である。この言葉は差別の構造を表した言葉であるが、差別には差別する側と差別される側があるのだが、しかしそれを傍観しているものも、差別している側と同じであるというジンメルの立場を表した言葉である。
文学博士に森田洋司さんという人がいる。
この人がいじめの研究の中で、いじめの被害について言及しているが、いじめの被害の大きさは、いじめっこの数ではなく、傍観者の数に相関すると言っている。
すなわち差別を傍観したり、無関心である人の存在は、そのいじめている人間に無言の指示を与え歯止めをきかなくさせているというのだ。
私は宗教学が専門なのでユダヤ教の掟について言及したいが、ユダヤ教の教えにこういう教えがある。
「You shall not give false testimony against your neighbors」
これはモーセの十戒の掟で日本語訳では「隣人について偽証してはならない」となっていると思う。
しかしこの言葉は、何々するなというただ否定するだけの消極的な言葉ではない。
おそらくその当時現代社会のように、科学的な鑑識やそういったたぐいのものがなかったので、裁判においては人の証言と言うのが重要な証拠であり、その裁判で裁かれる人間を生かすも殺すも、まさにその人間の証言次第であったのであるが、もちろんそこで偽証するなというのはあたりまえなわけだが、しかしこの言葉はもう一つ積極的な意味をもっている。それは知っていることはすべて証言しなさいと言う、相関的な意味なのである。
こういうことを言えば、ジンメルの研究者に違うと指摘されるかも知れないが、私はジンメルの差別と言う問題をひも解き、解明しようとする時、このユダヤ教というのが非常に密接にかかわっていると思う。
実際彼はキジナウムというユダヤ人の共同体の学校に入学し、そこで教育を受けているし、彼自身もユダヤ人である。
おそらくこのかれのこの言葉の背景には少なからずとも、そのユダヤ教の影響があるというのが私の見解であるが、差別を何も感じないで何も行動を起こさないのは、差別するのと同じだという「排除されないものは包括される」というのは、まさに偽証するなと同じことではなかろうかと思う。
この言葉は、今のいじめをとりまく環境にいる私たちにとって重い言葉である。
私がいじめについて考えるようになったのは、ここにそういう子供たちが来たり、親が相談にくることがあってそうなったわけだが、その中でいじめを問いなおした時に思ったことは、私もそうであったが、まわりが本当にこのいじめにたいして、解決しようとしているのだろうか、ただ単純にいじめられなければいいということだけで、終わっていないかと言うことである。
私がよく聞くのが「いじめられるほうにも問題がある」と言う言葉である。
これは時々いじめられている本人の親も言うことがあるが、結構いろいろ話を聞いたりしたら、こういう考えは以外にあって、自分の子供がいじめられるまでは、いじめには無関心で、いじめられるのには、自分に問題があると思っていた親も少なくはないのではないかと思っている。
たぶんその言葉を真摯に受け止めれば、その子がいじめられるのは、そういう部分もあるからであろうが、しかし私がおかしいと思うことは、それとは逆にいじめている人間も、いじめられている子供と同じように、否定されているように感じられないと言うことである。
ひょっとしたらいじめることは腕白だからいいことだ、少なくとも強者の側であるのだからいいのではないかと思っているんじゃないだろうかと思うぐらいだが、いじめられている人間な弱いからとか、人付き合いがへただ、暗いからとやれ言われるのだが、しかしいじめる側に対してはそういう矛先を向けることがなく、こういうことに対して何か問題を感じているのは自分だけだろうか。
おそらくこういう姿勢は、根本的にいじめをわるいことだと思っていない、認識の問題ではないかと思っている。
少し難しくなるので割愛するが、ジンメルのこの言葉は今のいじめをとりまく、私たちに提言している。
いじめというのはいじめられる側といじめる側の問題だけではない、それを取り巻く全体の問題でもある。すなわち共同体でそれを解決していかなくてはならない問題でもある。
少し前から欧米社会ではこのいじめに対して、まわりの人間がそれをどう考え、対処していくかということが問題になっているが、問題になっているのはいじめをなくそうではなく、いじめをゆるすなである。
たぶん日本はまだいじめが、そのいじめられている子といじめている子、そして教師や親という中でしか問題にしていないが、しかしこれは学校全体の問題であって、もう少しまわりの人間にも、このジンメルの言葉のように責任をおわすことも必要であると思う。






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ジンメルの言葉

2010-04-22 | Weblog
小さい時から言われ続けて来たことがある。
それは「お前は絶対に余計なことを言うなよ。」である。
余計なことを言うなよの前に絶対にという言葉がつくのだが、今思えば笑ってしまう。
おそらく私を知っている人間やクラブのメンバーもこれを読んで笑っていると思うのだが、この言葉を何度言われただろうか。
私自身思ったことは口に出す性格なので、とにかく自分がおかしいと思ったり、不思議だと思うことに対して意見を述べてしまうのだが、これが思わぬ藪蛇をつつくようで、まわりから見たら、こいつはなにを言いだすのだろうかと、実にひやひやするそうである。
昔よく趙くんという韓国人に、日本語を学んでいる友人がいるので、君にあわせたいできれば日本語を教えてやってほしいというようなことを言われて、よくあったのだが、その友達と会う時に趙君が私に言う一言がある。
それが「余計なことを言わないでくださいよ」である。
彼曰くにこにことして、ソフトな口調なのだが、しかし言うことは言う、しかも大阪弁で言うとえぐいらしい。
たぶん韓国人と日本人が話をすると、間違いなく歴史の問題について聞かれることを意識して彼が気を使っていったのだと思うのだが、しかしそう言われたら逆に言いたくなるのが、私である。
「一体何が余計なことなのか」と言い返し、結局趙くんと私はそこでけんかになって、ひどい時はその友人と会えないと言う結果になることもあったのだが、今考えればいい思い出である。
で趙君と私はこれで友情がこわれたかというと、実はそうではない、けんかをするほど仲がいいというが、彼と私は口げんかというか、議論し合うことで友情を深めていったのである。
今見ていて思うのだが、けんかのできない人間が多い。
けんかといっても口げんかのことで、若いうちはこの口げんかをすることで、人間のキャパを広げていくのではないだろうか。
私自身腕っ節はたいしたことはないが、しかしこの口げんかに関しては百戦錬磨で、いろいろな人間と過去に対決し、まかしたこともあれば、さんざんうちのめされたこともある。
私の大好きな言葉でこういう言葉がある。これはゲオルクジンメルという社会学者の言葉であるが、彼はこう言っている「一般に青年が主張する内容は正しくない、しかし青年がそれをすること、そのこと自体は正しい」と。
ある人が言っていた。最近の子供は親や教師には迷惑を平気でかけるが、しかし友達には異常にに気をつかうと。
私自身もこの言葉がよくわかる。
以前何人か女子中高生が私になついてきたので、いろいろと相手をしたことがあるのだが、彼女らは私がしたことに対しては、ありがとうの一言も言わないのだが、しかし友達には異常に気をつかって、何かあるたびにその気遣いをみせていたのだが、こういう子供たちに何回か接して来てわかったことは、こういう傾向は本人そのものの責任もあるのだが、しかし根本的な何かが違う。
こういった傾向は、口げんかできない子供が増えて来たことと、関係しているのではないかと、危惧しているのだが、仲良くなりたいと言う気持ちがあるのだが、しかし本当にそれが受け入れられるのだろうかというところで、相手に気を使いいい人を演じ、相手から好かれようとする。しかしその一方で迷惑をかけていい人には迷惑をかけると言う、付き合い方の二極化を生み出しているのではないだろうか。
親や教師と言う自分が迷惑をかけれるような相手に自己主張しても意味がない、もっともっと友達同士で議論し合い、時には口げんかをすればいいと思う。
本当の友達ならば少々考え方が違っても、そこで意見が食い違ってたとえけんかになろうとも、簡単に友情は壊れることはない。
こういった経験がその人間のキャパをひろげていくのであろう。なぜもっともっと意見をぶつけあって、自分を主張して自分をわかってもらおうとしないのであろうか。
壊れそうな友情関係をメールや相手に気をつかってつなぐよりも、なぜ本当に自分をわかってくれる友達をさがそうとしないのだろうか。
議論や口げんかはそういう友達をつくる最善の手段である。自分のその気持ちや考え思いと言うのは同じ世代で友達だからこそ受け止めることができる。
私も趙くんや知恩とはかなりあつくなって議論をしたが、しかし彼彼女は今でも私の大切な友達である。
この友達たちとは今は会うことはないが、しかしもしあったとしても、昨日あった時のような新鮮な気持ちで彼、彼女とは接することができるであろう。
ひょっとしたら会ったらまた議論するかもしれない、でもしかし私たちは信用できる本当の友達である。
いくら近くにいても気をつかい、メールがこなくなると不安にある友達なんか意味がない。
世の中は広い、もっともっといろいろな人間に出会い、親交を深めていってほしい。







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からだでっかち

2010-04-21 | Weblog
オリーヴでは1年ぐらい前から言葉改革と言うのを行ってきた。
言葉改革とは、指導の時になるべく言葉を選んでやさしい言葉を使うということと相手に応じて語彙とか表現のレヴェルを上げるということである。
最近お騒がせの多いボクシングであるが、しかしこの言葉改革をすることによってボクシングクラブの雰囲気が変わり、かなりクラブの質があがってきたことを実感している。
質が上がれば、まわりもかなり練習がしやすくなる。
なぜなら自分でしっかり物事を考えることができる人は決して群れたりしないし、コモンセンスと言うものをしっかりとわきまえているからである。
昔GFにプレスビテリアンのチャーチに連れて行かれたことがある。
そこは伝統的なチャーチで、その時100人以上の人がいたのだが、行って驚いたことは来ている人達の多くが高い教育をうけ、立派な職についていたことである。
話をしてみてわかるのであるが、ここで語られている語彙というかボキャブラリーは多く、質が高い、おまけに言葉もなめらかで、決して乱暴な言葉や害のある言葉はつかわない。
それはあるルールがあってそうしているというわけではなく、自然と彼ら彼女らの口からそういう言葉がでてくるのだが、たぶん彼ら彼女らの教育レヴェルが高いのは、指導者の言葉が洗練され、こういう環境で育ってきたからだろう。
余談であるがニーチェは、こういうチャーチの群れを畜群といってさげずんだが、ニーチェ自信もこの畜群にいたことは間違いなく、彼自身もその影響を受けていたのだ。
この時子供を成長させるためには、言葉が大事であるということを実感したのだが、彼ら彼女らは子供のころからここに慣れ親しんでいるのであるが、そういう中で刺激をうけたのであろう。多くの語彙と豊かな表現力、やさしい言葉が彼ら彼女らのこやしとなった結果だが、彼ら彼女らのこういう結果は共同体の影響が多分にあると言わざるを得ない。
子供と言うのは成長している。だから子供のうちにどういう共同体とかかわっていくかということは、子供の成長を大きく左右するであろう。
時々スポーツなどの指導者は「礼儀」などという言葉を口にするが、しかし一体どれだけの人間がこの「礼儀」について語れるのであろうか。
私自身もこの「礼儀」についてはよくわからないので、そういう言葉を使うことはないが、この言葉は「あいつは礼儀がなっていない」などと慣用句的によく使われるのだが、しかし一体どれだけの人間が正しい敬語をつかい、この言葉の意味を知っているだろうか疑問である。
おそらく私のような人間は、こういうことを言うので、へ理屈をいうなと恫喝され、それでも言い返すので、最後には殴られるのであろうが、私自身思ったことは言う性格なので、先輩から「お前はほんまに生意気なやつやなあ」となぐられた経験は多分にあるのだが、この言葉は都合よくつかわれている。
しかし私の意見では意味もなく「礼儀」などと使っている人たちの「礼儀」というのは、でかい声であいさつをするのと、先輩の顔色を見てぺこぺこすることではないか。
そういうことなら暴走族ややくざのほうがしっかりしているではないか、私にしてみたら体育会も統制の仕方はやくざとかわらない、だから事件などをおこしたら、ほらやっぱりとなるわけである。
監督や先輩の顔色をうかがい、あいさつが小さかったらおこられたり、生意気だったらしめられるというような、威嚇や恫喝で統制していく集団がまともだとは思わない。
「人を呼ぶときにも「おい」とか「そこ」などと、偉そうに言うのは、人格を軽視しているのと同じ、言語道断である。
何事にもあつまる集団には、レヴェルと言うものが存在するが、子供はかかわった集団から影響を受ける。だからあのチャーチのように、語彙力が高い集団から影響を受けるのと、何も考えていない語彙力の低い集団から受けるのとでは大きな差があるのである。
そしてその集団の質をあげていくのも、その指導していく人の姿勢と学びにあるのではないだろうか。
私自身もこういうことを公言しているが、語彙力が高いかと言えば、まだまだ覚えなくてはならないことがあるので、常に電子辞書は持ち歩いている。
そしてわからない単語や言葉がでてくると必ず、それを調べるのだが、それを一日に最低でも5回以上していることは確かである。
ボクシングだけ教えるんだったらそれはそれなりにいいのだろうが、しかし子供の成長とか人間をそだてるというのなら、もう少し知的なかかわりを求めなければ本当の意味での成長はないだろう。
野田秀樹の小説に「からだでっかち」というのがある。
これは「あたまでっかち」に相反してつけられたテーマであるが、私はこれを読んではいないがそのテーマから何が書かれているかは想像がつくが、日本はこのからだでっかちが多いような気がする。
最近子供を成長させたいとクラブに連れてくるお母さんが多くなったが、私の考えでは、からだばっかりきたえても、肝心な知性が磨かれなくては、ただの運動馬鹿に終わってしまうだけである。
そういう意味でその集団の質を問うことは非常に意味のあることだ、なぜなら子供はその指導者や集団を通して影響を受けやすいからである。
勉強もしないで、礼儀ということだけを強調する指導者に、知的なかかわりを求めても無駄である。
体を丈夫にしたければ別だろうが、ここに来るお母さんたちのように、子供を成長させたいと思うならば、その集団をよく観察することである。



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個性的であること

2010-04-19 | Weblog
「そのままの君でいい」
これを英語に訳せるだろうか。
少し前から個性を大事にしろということで「たった一つの花」とか、一見こういう西洋的で個性を大切にするかのような言葉が使われだしたが、しかしこの「そのままの君でいいとか」「何々は何々のままでいい」という言葉は、英語にはない特別な言葉だと思っている。
確かにBilly joelの歌にあるようにJust the way you areとか最近ニューヨーカーなんかがつかうKeep it trueというような、それらしい言葉があるのだが、しかしそれでは意味は伝わらないであろう。
だいぶ前の話であるが、このことをある外国人に聞いたことがある。
彼はかなり日本語が流暢で、日本の文化に慣れ親しみ、もうすっかり日本人になじんでいるのでこういった言葉をよく理解しているのだが、彼に「そのままの君でいい」と言うような言葉を英語で訳すとどうなんだと聞いたら、それをあえて言えば「God loves you」で、彼曰く、そのままの君でいいと言えるのは、逆説的であるが自分を受けとめてくれる、西洋だったら神とか、あるいは両親の存在があるから、そう言えるわけであって、日本人の言うように単に自分らしさと言うのを主張して、奇抜な格好をしたり、人に迷惑をかける個性とは違うらしく、日本人は特に若い人は、この個性という言葉を勘違いして受け取っているらしい。
彼曰くもし自分が誰かに受け入れられて、愛されているのなら自分を大切にするだろうという。
そのままの君でいいというのは、自分らしく生きることであるが、しかしその自分らしく生きると言うことも、自分が誰かに受け入れられているからこそできるのであって、個性とは、まずその自分を受け入れてくれる相手を認めることから始まり、自分がやりたいように生きる半ば本能的な生き方とは違うのだというのだ。
自分を大事にしない個性なんてありえない。
われわれは誰かに認められ、受け入れられているからこそ、自分を大事にでき、他人のことも考え、認めることができるのだろうと思っている。
おそらく奇抜な格好をしたり、わけのわからないことをするのは、自分を受け入れてくれる存在がいない、わからないからそういう行動にでるのだと思っているが、心理学的にもそういう存在は自己を形成していく上では大事ではないだろうか。
最近若い人の考え方が単純になってきたと言われているが、私はこういう言葉がパフォーマンス化してきたことと関係しているように思っている。
だいぶ前にあるパフォーマンスに行った時のことである。
そこではそのパフォーマンスと通して、平和と愛を語ろうとしていているのだが(おそらくそれがこのパフォーマンスの目的であったのだろう)しかし私は何か違和感を感じた。
そこでは「愛、愛」などとさかんに言っているのだが、しかしその言葉そのものが、パフォーマンス化しているので、中身がなくしらけてしまい、聞いてて非常に疲れてしまうのだ。
たぶんそれを主催した人が、愛や平和についてもっと真剣に勉強して取り組んでいたら、多少はそのメッセージも伝わり、それなりのものだったんだろう、しかしそうことは見られず、言葉に力はなく、ただ勉強すればいいという話でもないが、しかしこういう大事なメッセージ性のある言葉は、語る側がしっかりしていなければ、言葉に力はなく、単なるパフォーマンスになってしまうのである。
しかし最近そういう「そのままの君でいいとか」「たったひとつの花」みたいに、ただ相手の気持ちを高め、涙腺をゆるめることだけで満足するパフォーマンスが目立ってきたように思うのだが、それにいとも簡単に若い人は、のってしまい、あやつられてしまう傾向にあるのではないだろうか。
アイキュロスという人物は「真理の言葉は単純なり」と言ったが、この言葉は今や死語である。
おそらくこういった傾向は、考えることができない、ただ主張するだけの個性がもたらした結果であると思う。
街の中にはその個性を主張した人間はたくさんいる。
俺を認めろ、私を認めろと言う主張にもならない叫びがあちこちで聞こえるのだが、しかしそれでも考えているかと言えば考えていない。
将来どうするのかと聞くと、何億円貯めて遊んでクラスとか、芸能人になるとか、ひどい奴になると宝くじをあてて人生を楽しく暮らすなんていうふとときなことをいうのだが、しかしこれは言いたい放題、ただ主張するだけの間違った個性が、跋扈してきた結果ではないだろうか。
本当に個性のある人間はだまっていてもわかる。
少なくともただ主張するだけではなく、考ていて、きちんと勉強し語彙力も高めているはずである。
考えない個性というのはありえない、もし主張するだけならばそれはサルや動物でもできる。
奇抜さで目立とうとするならば、くじゃくや、きじなどのほうが、もっと個性的とも言えるのではないか、また腕力だけが強いというのも、ゴリラやカバと同じである。
人間はラテン語でホモサピエンスという、これは知性を持つものの意味で、知性と言うのは、人間が与えられた特有のもので、これこそ本当の意味での人間の個性である。
だから考えるということは、その人間の個性を強調することでもあり、人間が人間らしく個性的に生きるためにはやはり、自分の存在価値を認められることと、この知性を磨くことが大事なことではないだろうか。







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ケネディの言葉

2010-04-16 | Weblog
JFKは私が最も影響を受けた大統領である。
彼はアメリカ大統領の中でも、貧困と差別、そして暴力に立ち向かっていった大統領であるが、今日は彼が演説でいくつかの名言を残しているので、いくつか紹介したい。
「我々の問題は人間によってつくられたものだ、ゆえに人間によって解決できる。」
「人は死に国家は滅亡するかもしれないが、思想は生き続ける」
「学問を伴わない自由は危険であり、自由を伴わない学問は空虚である」
「国が何をしてくれるのかを問うのではなく、自分が国のために何ができるのかを問うてほしい」
これらはすべて彼の演説の中で語られた言葉であるが、彼の演説はまさしく世界の貧困や差別、そして暴力と戦ったあかしであり、こういう自分の信念を貫こうとする力強い演説の中から名言は生まれるのである。
特に英語で言う「Ask not what your country can do for you , ask what you can do for your country」は私の中での名言中の名言であるが、私が国ということを意識したのも彼の演説が多少なりとも影響している。
私が無料で英語教室や手話教室を提供しているのは、将来この日本にとって役に立つ人物があらわれてくれることを期待しているからである。
最近子供にボクシングを教えていて、わかることはボクシングで体力的な自信ががついたら今度は学問的なものをも受け入れることができるキャパができるということである。
実際少し勉強が遅れている子に家庭教師をつけたことや、子供が英語をはじめたいと言ったことに少し親もおどろいていたが、しかし何か小さなことでも自信がつけば、子供は大事なことを受け入れることができ、大きく成長するのではないだろうか。
子供の成長は著しい、運動をさせ体力面で自信をつけさせることで、さらに大事な学問的な力をバランス良く引き出せるのではないかと思っている。





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Unavoidablity

2010-04-15 | Weblog
何年か前にある教育委員の関係者の方と話をする機会があり、青少年の取り組みの会があるので、そこで話をしたことがある。
そのせいかここには比較的問題を抱えた子供が在籍し、相談の電話も時々あるのだが、特ににいじめに関しては、昔とくらべてかなり複雑で、子供ひとりの力ではなんともできない問題であり、大人の助けが必要であることを実感している。
だいぶ前にある子供からいじめの話を聞いた。
彼女は前にもブログで挙げたことのある中学生だが、今年の夏にホームステイを計画しているぐらいだから、そういういじめに会うことはないのだろうが、最近のいじめというのはえげつないらしい、なんでもクラス全体でひとりをターゲットにしてやるのだそうだが、ターゲットにされた人間はまわりから徹底的に無視され、もし誰かがその子に話をしようものなら今度はその話をした子供がいじめられるそうである。
しかしおどろいたのは、そのいじめに全体が加わるメンタリティーと言うか、メカニズムである。ひとりの人間を全員でいじめることに抵抗はないのだろうか、そして全員参加ということから、こういういじめというものが完全にゲーム化しているのである。
これは友人が言っていたのだが、いじめに対する問題は社会学の領域で考えることが非常に大事なことらしい。
社会学なんて言うのは、最近はあまり大学の学部にも聞かれない学部で、どちらかと言えばマイナーな学部であるのだが、こういう一見複雑で単純な行動をひも解くのは、彼ら彼女らの行動を構造的にとらえ、問題を指摘していくことも非常に大事なことであるというようなことを言っていた。
私が笑いながら「サルか」と言うと「相変わらず毒は健在やのうっ」なんて冗談を言っていたが、こういう見えない闇の部分は、直接そのことと対峙するよりも、むしろ客観的に見ることによって見えてくる部分もある。そこで社会学が必要だと言うのである。
そして率直な意見としてはいじめはおこりうる問題である。
しかし起こった時にまわりがそれをどうとらえるかで、今の誰に責任があるかと言う、スケープゴート的な責任のなすりつけあいでは、問題を解決することはできないだろう。
いじめというのは台風や自然災害のようなものである。
教室なんていうところは四六時中監視できるはずはないのだから、いろいろな問題が起こってくるのは否めないことであり、いじめだっておこりうる、しかし今はこのいじめが昔よりもひどく深刻化し、教師ひとりの力ではどうすることもできない、いじめは災害のようなものであるから非難しなくてはならないというのが私の見解であるが、いじめに気が付いたら、その内容をある程度さぐり、解決の見込みがなかったらクラスや学校をかえるであるとか、フリースクールにゆだねてみるというのもいいだろう。
フリースクールなんかも、いじめがここまで深刻化しているのだから、政府や大人が本気でやる気になればできるはずだ、いろいろな任意団体や宗教団体がそういうことを担っているが、そういう芽はたくさんある。
フリースクールを学校として認めるか認めないかは、後の問題でとりあえず逃げ場というのをつくってあげることが必要であると考えている。
いじめが起こればまず教師に問題がむけられるが、それは間違っている。
少し前ある学校にいじめの調査をして、その調査にいじめがあるかというような質問事項があってそこにゼロという数字があることに、問題があると指摘していたコメンテーターがいたが、私にしてみたらそういうことを書けと言うこと自体ばかげている。
どういう答えを期待しているのであろうか。またあったらあったでどういう解決をしていくつもりなのだろうか。
この数字を見て本気で「いじめをゼロにしましょう」なんて愚かなことを言うつもりなのだろうか。
もしそうだとしたら、そのコメンテーターの程度が疑われる。
いじめなんていうのはおこるものである。
英語で「Unavoidability」と言う言葉がある。
これは「Unavoidable(避けられない)」と言う言葉から来ている心理学の言葉で、かなり難しいBig wordである。
この言葉は「スティグマの社会学」というかなり難しい本に出てくる言葉で、これはいじめを誘発するというような感じで使われていたのだが、人間にはこういう「Unavoidability」を持つものがいて、いじめというのは必然的におこりうるというのが、彼の見解ではなかったであろうか。
勘違いされるかも知れないが、いじめをゼロにするというのは、人間の言うものが社会的集団をなす生き物である限り難しい話である。
同じ社会的集団をなすサルだっていじめはあるらしいのだから。
しかし大事なのは逃げ場をつくってやることで、もし教師もその子供に問題を感じたら、クラスや学校をかえることをすすめたり、そこに委ねることが大事なことではなかろうか。
少し前からモラハラやドメスティックバイオレンスなどの問題を取り上げている、心理学者のイルゴイエンヌも、そういうドメスティックバイオレンスがあった時には原因を知り、非難することを勧めているが、いじめも然りそこから非難することで、問題の深刻化を防ぐことができるであって、そういう柔軟性が必要ではないかと思っている。








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足りなさ

2010-04-13 | Weblog
5月から本格的に英会話クラスが始まる。
そのレッスンを4月に受け付けているのだが、みなさん関心度が高く、実験的に4月からはじめている人もいる。
この英会話教室は、外国人英会話スタッフと私の友人に頼んでSkypeを通して30分の英会話のレッスンを受けてもらうのであるが、方法はレヴェルに応じてテキストをつかったり、フリーカンヴァセーションを持ってもらうのだが、これがさらに好評であれば、英会話講師をひとりこちらに呼んで、一日1、2時間ジムに常駐してもらい、その時はいつでも話せるようにしてもらうつもりである。
この英会話クラスを提供したのは目的がある。
それは将来英語を話し、英語で情報を収集し、英語で意見をはっきり言えるボクシング競技者を育成することであるが、オリーヴには結構小学生から大学生がいるのだが、彼ら彼女らをターゲットにしたいと思っている。
話は変わるが、最近子供や若い人が、自信をつけたいからという理由でボクシングをはじめるのだが、しかしはたしてボクシングを競技しただけで自身がつくのだろうか?
畑山と言う元ボクシングの世界チャンピオンがいる。
私は彼のことを現地点では非常に評価しているのであるが、彼こそ不良と言われる人のローモデルにふさわしい人間だと思っている。
話を聞けば彼はかなりの不良で高校を退学になったそうであるが、チャンピオンになってから大検かなにかで、高校卒業の資格をとって大学に行ったそうである。
私は彼が偉いなと思ったのは、チャンピオンになったにもかかわらず、あえてこういう自分に足りないものを補おうとした点である。
そこがチャンピオンと言う権威に、しがみついて生きている人間との違いである。
2、3年前だろうか、なんというボクサーかは忘れたが、そのボクサーの引退式に畑山が出席して祝辞を述べていた。
季節は真夏でかなり暑く、そこには何人かのボクサーが来ていたのだが、私はこの彼の祝辞を述べる姿を見て、彼は本当に洗練されているなあと感じたのだ。
この引退式にはよくわからないが、その世界では有名らしきボクサーが来ていたのだが、畑山以外のボクサーの態度と言うか、式に臨む態度が悪い、見ていたらまるでサルである。
暑いのはわかるのだが、人の式辞を聞いている時でも、だらだらと落ち着きがなく、服装も私服で、その式できちんと正装をして、胸のボタンをしめて式辞を述べる畑山とは対照的であった。
たとえ不良がボクシングをやっても、不良がボクサーになるだけで、畑山のように自分の足りなさを受け入れなくては意味がない。
人間は自分の足りなさに気づき、それを受け入れて精進するから、生まれ変わることができ、洗練される。
こういう式典で、がさがさとその場に不釣り合いな格好をしてあらわれた輩の姿をみれば、彼らの中学や高校時代がどういうものであったかということがわかるのだが、好きなことなら誰でもできる。
スポーツだけを強調すると、こういうメンタリティが擁護されて本当の自分の足りなさが自覚できないのだ。
しかしひとつのことを、本当に一生懸命やれば自分の足りなさが見えてくる。
そしてその足りなさが見えた時に、人間はどういう行動をとるかというのが問題であって、彼はその足りなさを克服するために、大検をとって大学に進学したのではないだろうか。
しかしたとえチャンピオンであっても、その足りなさを自覚せず、権威と威嚇だけで生きると思わぬ落とし穴がある。犯罪をおかすようなボクサーは、まさに権威に固執し、その自分の足りなさを自覚し、克服しなかったからである。
本当に自信のある人間は、そういういやで苦手なことだからこそ、乗り越えて克服しようと努力する。いやなこととは自分の足りなさで、その足りなさを受け入れ、乗り越えようとした時に人間に本当の自信が与えられるのではないだろうか。
ちなみにここの基本的指導方針は、無理をせず、本当の自分を受け入れるということである。ととえへたれであっても根性がなかっても、まずそれを自分の個性として受け入れることから始め、われわれもそれを彼彼女の個性として受け止めるのがここのやり方である。

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