脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

また柔道家(か)っ

2013-03-27 | Weblog
柔道連が助成金を不正に受け取っていたことが発覚した。なんでも不正受給していたお金のうちから連盟に10万円上納金として渡していたとかここまできたらあきれかえって何も言えない。しかしもうこういうことは驚くべきことじゃなく、よく似たようなことはあることで、おそらくボクシングの独占販売なんて言うのも団体が小さいので相手にされていないが、明らかにこれは不正であるが、たぶんこう言ったことは他の団体でもあるのではないかと思っている。
おそらく贔屓目に見てそれらは試合などを運営していくために仕方がなくやったというのが理由ではないかと思っているが、しかしアマチュアの性質と青少年の教育的配慮から見て、そういうことはすべきではない。

今回柔道界がよごれきっているということで、組織を中途半端であるが改革し、そして暴力根絶宣言などと言うスローガンをかかげた。
しかしこういう発想は下品極まりない、第一スポーツの世界に暴力団でもあるまいし、暴力追放なんていかがなものであろうか?
はっきり言ってスポーツ界は縦社会で先輩の言うことが絶対の縦社会なので、こういう問題が起こった時にきちんとした対処ができない。
そういう奴らが集まって考えに考え抜いた結果こういう宣言が出て来たのだからおそろしいものである。
なんでも思ったことや感じたことを伝えればいいと言うものではない。
そういう世の中のルールでは当たり前のことをあえて宣言などする必要があるのだろうか?
はっきり言って暴力をふるったり、非常識なことをする人間と言うのはスポーツマンとしての問題ではない。人間としてレヴェルがひくいからそういうバカなことをするのだが、もはやこういうことを宣言すること自体小学生以下あるいは暴力団レヴェルだということができると思う。
私は前から「こういう奴らにはきちんとした教育をうけさせろ。特別扱いするな。」と言うようなことを言ってきたが、まさにこういうスポーツと言う特殊な狭い世界での特別待遇がこう言った世間一般では考えられないようなバカな過ちをおかすのだと思っているからだ。
暴力根絶宣言なんてするよりもスポーツバカゼロ宣言と言うスローガンを掲げてみたらどうか?
ロンドンオリンピックでロンドンはどこと言うことを聞かれてフランスを指さすバカを出さない、オリンピックに出場する人間はせめて最低の常識レベルのことは理解させる必要があるのではないかと思うが、こういった狭い世界だけで生きてきたアスリートの常識のなさが暴力やレイプなどの凶悪犯罪に結びつくのだと思っている。
正直言って日本は一般的な学力は高いが、しかしアスリートの学力は世界でも最低レヴェル、ボクシング界でも公用語が理解できる人間がどれだけいるか数えてみればいいと思うのだが、この世界はろくに日本語も話せない奴がいることも事実で、そういう奴が子供や青少年の指導をしているからおそろしいものである。
言葉をおぼえたり、何かを学ぶと言うのは生きていくうえでは大事なことである。なぜならこのことによって人間は本当の意味で自尊心を持つことができると思うからである。
逆にこれを軽んじている奴は本当の意味で自尊心など持つことができない。
だから人を傷つけたり、暴言をはいたりするのだと思っている。

さらに暴力根絶宣言なんて言っても、こういうポーズは具体的にどういう改革を自分たちはしていくんだという方針と案がなければ意味のないことで、いくら記者会見で潔く自分たちの非を認めこういうスローガンを掲げてもこういう説明内容では不十分すぎると言うか人をなめている。
そらくこういうことは過去の指導にさかのぼって、制度やあるいは教育的なことを見直して抜本的に改革していくことが求められるのだが、
スポーツバカと言うのは、おそろしいものでそのことを認め、悪かったこれからは心を入れ替えて、そういうことがないように責任を持って指導していくと潔く公の場で頭をさげればそれでメンツが保たれ十分釈明したと思っているが、しかしこいつらの記者会見は自分たちのメンツを守るためと他のことに飛び火しないように慎重になっているだけのことで、本当に徹底的にその問題に取り組んで解決していこうと言うような姿勢には見えないが、こういったことがスポーツマンシップと言うやつなのだろうか。 

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いかがわしい証券

2013-03-24 | Weblog
サブプライムローン以来不景気になってしまったアメリカであるが、しかしそのころから始まったビジネスで、未だ流行っているビジネスがあるそうだ。
それはDeath bounds(死亡債)と言う証券である。
一般的に脂肪債と言うのはどういう証券かと言うと、まず金融機関がまだ生きている人たちから生命保険を買い取る。
そして買い取った生命保険を今度は千人ぐらいを単位にした証券化商品にして、投資ファンドとして投資家に販売する。死と言うのは景気に左右されることなく確実に来るので安定していると言う理由から、今でもその商品は投資家の間では人気があるそうである。
人の生命保険を転売するなんて日本人から見たらとんでもない話で、こういうビジネスは闇ビジネスのたぐいに入りそうなものなのだが、しかし向こうでは少しうさんくささはあるものの立派な投資ファンドとして販売されているからおそろしいものである。

アメリカと言うのは基本的にはプラグマティズムの国である。
プラグマティズムとは何かと言うと、簡単に言えば使えるか使えないかでそれがいいかわるいかということを決める哲学で、はっきり言ってこういう合理的と言うかシビアな考え方がついて行けないところで、この投資ファンドもそういう合理主義的な考え方がもたらした産物であろうと思う。
これは私の意見であるが、アメリカ人と言うのは往々にしてこういう合理主義的と言うかプラグマティズム的なところがある。
それは人間の付き合い方にも出ている。特に日本人と接するときなどは、こいつは自分にとって益になるかならないかということを考えていて、その人間が例えば学歴が高かったり、社会的に成功をおさめていれば積極的にかかわってくるが、しかしそうではないとこっちから一生懸命話しかけて行っても、パーティぐらいで知り合ったぐらいなら、そう仲良くなるということはないと思っている。
たぶんむこうでパーティなんてよく開かれるのはそう言った相手を探すためであり、そういう場では足元をすくわれておおがかりな詐欺がおこることも事実である。

人間関係はどこでもそうであるが、その国によって人間関係を気づいていく上での難しさがある。
アメリカにはアメリカの難しさがあるし、日本には日本の難しさがある。だからその国の文化を知ることとと同時にその国の思想史を知ることは大事なことで、特に政治と言うのはバックボーンには思想史や哲学があるのでそれがわからないと理解できない、たとえばなぜ共和党の人たちが医療保険制度に反対しているかと言うと、それはリベラリズムであるからである。

私は宗教学や哲学を勉強してきたが、その学問は人間を理解する上ではかなり役に立つものである。
特にアメリカやヨーロッパのようなキリスト教国はその独立に宗教がかかわり、自分たちの理想や考え方を主張し、宣言して一致団結して来たので、往々にしてその考え方はその人間たちの考え方や文化の中に流れていて、こういうことを少しでも知るだけで彼ら彼女らが何を考えているのかということがわかると思う。
日本人は西洋人との考え方の中に時々大きな隔たりを感じるときがあるそうだが、おそらくその隔たりとは彼らの哲学や宗教を理解していないから、そしてそこから飛び越えて文化と言うものに入っていくからだと思う。
ある大学の客員教授が日本人が西洋の文化を理解できないのは、我々の宗教を理解できないからだ、だから英文科や語学学科の人間は聖書を学ぶ必要があると言ったが、まさにそれは政治や文化を知るために哲学や思想を学ぶことと同じで、それは西洋の哲学自体がスコラ学のような宗教的事柄を深くとらえているからである。

そこで今日はその彼ら彼女らの考え方を理解するために入門書をすすめたい。
まずは古代ギリシャから近世までを理解するために「POPな哲学」これは鷲田さんという大学の教授が書いた本で近世から古代までの哲学の考え方をわかりやすくかいつまんで説明している。
そしてもう一冊は別冊宝島から出ている「正義と哲学のはなし」これは「正義」や人間の権利」などをプラクティカルな問題をロールズやサンデルなどの近代哲学者を中心に説明している。
いずれもこれを読んだだけでは深く理解し、議論できるレヴェルにはならないが、しかしあの難解な哲学を紐解き理解するうえでは役に立つ虎の巻のようなものである。









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スポーツの目的

2013-03-21 | Weblog
私の読んでいる英字新聞によるとJOEが1798人のアスリートを対象に体罰についてのアンケートを行った結果、それによると暴力を受けたのが全体の11.5%、そして暴力を目撃したと言うのが11.8%と言う報告が出た。
はっきり言って私はこの結果に満足はしていない。なぜなら体罰は愛情だと勘違いしているような奴が多くの割合を占めている中で、暴言やちょっとした暴力はみのがされているだろうと考えるからである。
運動クラブのモラルはマヒしている。時々暴言をはいたり、こんな言葉をつかっていいのかと言う言葉を使う奴がいるが、日本の運動クラブは私からしてみれば異常、おそらくこういう暴力的なことを押さえつけると今度は陰湿ないじめがでてくるのではないかと考えている。

またまた体罰で問題があった。今度は中学で民間の指導者がおかした行為であるが、はっきり言ってスポーツを命をかけてやることが尊いことだと勘違いしているバカが未だごろごろいるので、たぶんこう言った暴力的なことはなくならないであろう。たぶん顧問の体罰はなくなっても今度はバカアスリートが問題を起こすと思っている。
スポーツがすべてだなんて思っている奴の特徴は、特にだめな奴をあげるとコンプレックスがあるので、それをやっていることが素晴らしいことだとまわりをみとめさせ、そしてたいしたこともやっていないのに、今の自分があるのはこのスポーツのおかげだと言って、いかに自分はすごいことをやって来たかということを誇張する。
しかしスポーツはあくまで楽しむために競技するものである。
だからそれは個人とそのスポーツがどうか関わっていくかが問題であって、決してスポーツは日本人が考えるような修練の場ではないし、苦しいことを共有し、それを乗り越えて行くことで、ひとつにまとまってと言うような歪んだ仲間意識を養う場でもなく、そういう経験をした人間が素晴らしいと言うことでもないと思う。

けれどもそういうことがすべてのことにまさって素晴らしいと言うような奴は、そういうせまい価値観しか持てず、さらに自分の価値観をこわしたくないのでそういう意味もないことにこだわっている。
私はコンプレックスを持った人間が指導者になって力を与えられると暴力的になって、暴言を吐いたり、実際暴力をふるうのだと思うが、こういうコンプレックスを持った奴が指導者になるとまともな指導者になるとは疑わしいことだ、前にも気が小さいので暴力的ではなかったが、試合は殺し合いだなんていうようなことを言っていたバカがいたが、こういう発言もコンプレックスの裏返しである。
はっきり言ってこの手のタイプは傷つきやすく、自分を大きくみせようとしすぎる傾向がある。
だから暴力や激しい言葉で自分を誇張し自分のメンツを保とうとする。暴力や勢いのある言葉で自分を誇張するのは単純な世界であり、こういったやり方はもはややくざの世界と同じ、そういうやり方が日本のスポーツ界では今の今まで当たり前のこととして受け入れられてきた。
そう考えると今までの日本のアスリートがいかにレヴェルがひくいということがわかるのだが、そういう中から指導者が出ていて、実際そういう奴が常識的な価値観で指導できるはずはない。
本当に自信があれば、そういう暴力的な言葉など出てくるはずはない。自信がないから人をなぐったり、勢いのある言葉で人をいかくするのではないかと思うが、あの高校のバスケット部の暴力事件があからさまになって、芋づる式にそういう犯罪行為が天文学的な数字で出て来たが、そういった稚拙で自分たちの価値観でしか生きれないような奴を指導者としてあがめるから、こういうバカげた事件がおこるのだと思う。

これは私の主観的な意見であるが、私がそれしかできないバカアスリートが嫌いなのは、自分の自慢話しかしない、すべてのことを自分の狭いボクシングや野球と言うようなフィールドの中でしかとらえることができないからだ。
こういうところにこいつらのバカさ加減が見てとれる。
このご時世に英語がまったく理解できない。常識的な学力がない。「こう言った」を「こおいった」と書くバカがいたがこおいうバカは今まで何をやってきたのだろうか。実際こういう人間が中高生の指導をしているからおそろしい。
勉強がすべてだとは言わないが、こういう人として当たり前の常識をおぼえずに、人の指導などできるのだろうか?はっきり言って社会に出たら言葉を知らなければ恥をかいてしまう。だからいくら運動ができたとしても言葉を知らなかったり、ある程度教養と言うものを身に着けていなければ、社会でいろいろなタイプと出会って話をしていくうえで、それがコンプレックスになるだろう。
日本はクラブの集団を見たらクラブと言うよりも監督中心の組のようなものを形成しているが、ここにこいつらの限界を感じる。いわゆるそういう監督と言う親分を中心に力関係で動く封建的な世界が出来上がってしまっているから、そういうやくざのようなしきたりがはまってしまうのだろうと思っている。

はっきり言ってこれからはスポーツで心を鍛えるなんて言うようなことは言わない必要がある。
なぜならスポーツで心を鍛えることは意味のない修行をするようなものだからだ。
スポーツと言うのはただ純粋に楽しむためのもの、そういう楽しみと言うものがあるからストレス発散ができ、その楽しいことが生きていくうえでの励みになるのではないだろうか。

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「like」日本語でいうと「ポイ」

2013-03-17 | Weblog
ニューヨークのある大学が最もイラつく言葉は何と言うアンケートをとったそうだ。
結果は
5位「to tell you the truth」
4位「actually」
3位「you know what i mean」
2位「like」
1位「whatever」

4位の「actually」は私自身もよく使う言葉である。
質問されて答える時に実際のところみたいな感じで使うのだが、言葉の流れ上使いやすいのだと思う。
3位の「you know what i mean」は日本人が英語で話す話題について行けない時によく使われる言葉だ、この言葉を使われると「大丈夫話について行っている」と言う意味だが、たぶんネイティヴどうしでつかうと「お前にはわからないだろうな」と言うような感じで使われると思うが、この言葉を使う時は注意して使う必要があるだろう。
そして2位の「like」は「何々のような」例えば「i was like angry(むかつくみたいな)」と言うような、よく若い子が「何々っポイ」と使っているのが、それに近い言葉だと思っているが、最初これってこういう感じでしょと言ったような時に「ああっポイポイポイ」と言われた時何を言っているんだと思ったが、どうやらそれは英語で言うところの「like」でこういうあいまいな言葉は日本人だけがつかうのかと思っていたが、そういう言葉を若い人たちがつかうのは日米共通であるようだ。
まあどこの国にでもいらつく言葉と言うのは存在するのだが、たぶんそのイラつく言葉と言うのは若者などがあまり深く考えずに使うはやり言葉のようなものである。
言葉と言うのはある意味自分たちのルーツのアイデンティティである。
だからその言葉が本来の趣旨をはずれてかえられてしまったり、多少違和感のある言葉であった時に不快感を持つのは、人間として当たり前のことだと思う。
これは大阪人の話であるが、大阪人は自分たちの言葉に誇りを持っている。だから他の土地の人間が自分たちの言葉をへたに真似をして話したら、その言葉に対してかなりいらつくという性質を持っているが、これはたいていの大阪人がそうされるとむかつくことだと理解している。
これは私の友人が関西弁を話さない奴が関西弁を話すとむかつくと言った時に話した話だ。
そいつは東京の大学に通っていたのだが、そこで埼玉出身の奴がやたら自分に合わせて大阪弁で話してくるらしい。
たぶん大阪出身の人間ならこの話を聞いて、実際に埼玉出身の人間が大阪弁を無理に話しているところを想像したらむかつく奴だと思うが、実際に彼もそいつがことあるごとに「そうでんなーそうしまっか」と言うような感じのぎこちない関西弁に少々キレ気味であった。
そしてある時そいつのへたな関西弁にキレる時がきた。
そいつが「そうしまっかなー」みたいなイントネーションだけは関西弁らしき言葉だが言葉としては正しくない言葉に「おんどれ、ええ加減にせいよ。自分の(お前)ええ加減な関西弁いらつくんじゃボケエッ。うちらがそんな言葉つかっとる思とんか、あんたが話すめちゃめちゃな大阪弁ホンマにむかつくからやめい」ととうとうキレてしまったのだ。
今だから言うがキレたのは大阪の女、この後埼玉出身の奴は二度とへたな関西弁を使わなかったそうである。

あと余談だが韓国人はよく18と言う言葉を使うが、これは日本人はあまり使わない方がいい。
18と言うのはそのわるい言葉と発音が同じなので18と書く。
しいて言えば英語のshitやfacking ぐらいだと思う。ネイティヴもよく使うが罵り言葉なのではっきり言ってつかっていい言葉ではない。
実際は18よりも21の方がきついのだが、この言葉を日本人が使うと私の友人も言っているのだが、この言葉を自分に向けて言っていなくても、日本人がこういう罵り言葉をなれなれしく使うということは非常に不愉快であると言うようなことを言っていたが、やはりそういったことは彼ら彼女らが自分たちの国の言葉に誇りを持っているから、あえてこういう言葉を韓国人ぶって使われることに抵抗があるのだと思う。

言葉と言うのはデリケートな問題である。言葉と言うのは自分たちのテリトリーでつかっているうちはいいが、しかしいろいろな地方の人間やそれがさらに外国の人間になると使う言葉を理解して選んで使わなければ、恥をかくどころか、ひんしゅくを買ってしまう。
やはり国語力を身に着けるということは大事なことだと思わされるが、外国語においてもしっかりした文法を身に着けるということは、外国人と話す上でも非常に安心感を与えるのではないかと思っている。

これはアホ格闘技部の話であるが、私の知り合いの高校の国語の教員のクラスの子で格闘技クラブに属しているそうだ。
このクラブでは顧問の方針で返事は「オス」と言っているらしく、それを担任の自分と話す時もその言葉を使うそうである。
そいつが何か言うたびに「オス」その子自身は素直でいい子なのだが、その担任は何か気になると言うようなことを言っていた。
私はそいつに「顧問に格闘技をやっているんだか何だか知らないが、正しい日本語を話させろ」と言ったのだが、こう言う学習のレヴェルがひくくて小さく固まる集団は国語と言うものを無視して自分たちの言葉をつくってしまうのだからおそろしい。



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仲良くしましょう

2013-03-13 | Weblog
私が未だによく理解できなことがある。
それは日本人女性の愛想笑いと小さく固まるコミュニティーである。
特に小さくかたまるコミュニティーはよくわからない。
これはある人が言っていたことだが、その人は以前スポーツジムに行っていたらしく、そこでの雰囲気がなじめずにここに来た。
その雰囲気と言うのは、そのクラブには女性どうしのグループがあって、いい年をしてお互いを何々ちゃんと呼び合っているらしく、とにかく中がいいそうである。同じユニホームを着て、同じ目的をもって、仲良く集まっている。どれのどこがわるいのだと言うとそれまでだが、しかし私はあの仲良しと言うことを強調するようなグループにはかなりの違和感を覚えるし、なぜそこまで関係を密にしたがるのかわからない。おそらくその人もそういう雰囲気についていけなかったのだと思う。
正直私はこの日本人の和を尊び、同じということで関係を密にしたがるメンタリティーがよく理解できない。
よく親が子供のことを学校ではみんなとうまくやっているだろうかとか、友達はできただろうかということを心配するのは彼ら彼女らが人づきあいが仲良くすることだと勘違いしているからである。
日本人は初対面でよく仲良くしましょうと言う。私は時々この言葉にとまどいを覚えるが、それは彼ら彼女らがこの言葉を美徳であると考えているからだ。
しかし仲良くするとは一体どういうことなのか?スポーツクラブでもみんなが仲良くやっている様子などを一生懸命紹介し、それが雰囲気がいいと勘違いしている奴がいるが、しかしそれは見当違いのことで、そういう自分たちが仲間だと自覚して、関係が密になっていることを素晴らしいことだと強調するような軍団は稚拙であり、はっきり言ってこの手のメンタリティーは暴走族と同じで、そういう形式だけの言葉が多くの疎外感やいじめというものを生み出していると思っている。
学校でも仲良くしましょうと言うが、普通学校と言う場所は勉強するところだ、友達はできても、つくるものではない。
それを無理に仲良くしましょうなどと言うきれいごとを言っているから、本当の自分と言うものを出せない、おおげさだが認められないと感じるのだ。
本来人間と言うのは誰でも合わない奴がいる。はっきり言ってそういう奴と仲良くすることなんかできないのは当たり前のことである。だからもしそこで子供のコミュニケーションを養うつもりであるならば、仲良くしろときれいごとばかり言わずにそういうことも教える必要はあるのではないだろうか?
しかしそういう奴を受け入れることができなかっても尊重することはできる。この尊重するということが日本人のメンタリティーには少し欠けているような気がしているが、はっきり言って私は仲良くするということよりも、この人を尊重するということが人間のコミュニティーを形成していく上で一番大事なことだと考えている。
前にも言ったが日本では人づきあいにおいてまず同じということに共感を持つ。よく自分はどこ出身だとか、学校はどこと言うようなことを初対面で言うが、たぶんこう言ったことはお互いの共通を見つけるための手段だと思う。
しかし外国ではたくさんの民族がいるので相手の違いを認めることから人づきあいがはじまる。自分たちのルーツによってお互い文化や習慣が違うのでまずそういう違いと言うものを認めなければ、人づきあいができないのだがおそらくこういう部分が単一民族の日本人にはかけている。昔高校生の時、当時差別があった時、親しくなりかけた友人に「自分はアジア系のバイレイシャルだから、考え方なども普通の日本人とは違う」と言ったことがある。
そう言ったら彼は何と答えたかと言うと「顔が同じだから大丈夫」だったが、はっきり言ってこの答えにはがっかりした。所詮日本人の認めると言うのはこの程度のもので、たぶんこの当時は外の世界にさほど目が向いていなかったからだと思う。
人を尊重すると言うのは、認めることとは違い、それは体験的なもので学習するから身につく能力である。
以前語学に疎い集団は閉鎖的で封建的そしてちいさく固まりがちだということを言ったが、アマチュアボクシングなんてまさにそうである。
語学に疎く、そういう多くの文化を受け入れることができる土壌がないから女性だけ試験とか素っ裸で計量、独占販売などということが堂々とできるのだと思うが、そういうことがまかり通るのはまさにその世界が封建社会だからである。
グローバルコミュニケーションにおいて、人を尊重すると言うのはまさにインテリジェンスを養なわなければだめだ。語学やその他のことを勉強して、そういうセンスを養わなければ高校生の顔が同じだからいいでおわってしまう。


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コモンセンス

2013-03-11 | Weblog
この前のブログで本を薦めるのはセンスがいると言った。
ハウツー本なんていうのは基礎的な知識がなければ意味がないし、こういう本はまず若い人に勧めるのはどうかと思う。ボクサーとしての伝記もそうだがあんなものは本とは言えない、どんな本かと立ち読みでみたら武勇伝みたいなことは書かれてあったが、そういう読者層を考えてか書いてあることは思い切り単純、たぶん刺激を与えるために書いた本と思われるが、はっきり言ってこういうものを見るよりもロッキーを見たほうがまだいい。
最近若い人たちにどういう本を読んだらいいのかと聞かれるが、わたしはそういう時1冊では不十分なので、最低でも3冊ぐらいは紹介している。

前に道徳教育について書いたが、日本の道徳教育を今の社会で教えることは非常に難しく、もし日本人の言う道徳と言うものを我々の規範の基準におくならばそれは相当センスが要求されることだと思っている。
今やグローバル社会では日本の言う道徳教育は時代錯誤である。私が考えるに今このグローバルな時代いろいろな国や習慣、民族や文化があるのだからそういうものを包括してどういう判断をしてどういう行動をとるのかと言うコモンセンスが必要であり、そういうセンスを身に着けるためにはたくさんの本を読んで、語学を学び考え方を広げて行くことが大事なことである。

慣用的な言葉に日本人の常識は世界の非常識と言う言葉があるが、日本は四方海に囲まれた島国なので、他の国の文化を受け入れてこなかった文化があり、日本人は自分たちの常識が当たり前だと考えている。

昔久しぶりにHI遊びに行った時に、友人を誘ってホテルの近くの食事に行った。
普段ローカルの人間はこういう観光地で食事をすることはないのだが、しかし今回は私の誘いでビーチ沿いのヴァイキングの店に、だいたいこういう観光地の店はたとえバイキングであっても不当にチップを要求して来るのだが、ローカルの奴が一緒ならそういう面倒くさいことにならないだろうということでそこにしたのだが、しかし日本人が多く、ある程度日本語が通用すると客は横柄になるのか、その時ある客がトラブルをおこしてしまったのだ。
どういうトラブルかと言うとその客の中にいたけばい女の集団がそのバイキングでこともあろうか、日本から持って来たインスタントみそ汁を作り出したのだ。
その時店内はみそ汁のにおいがプーンっとただよう。
日本ではおなじみのスープであるが、しかしこういう場ではそのにおいはきつく感じられ、客の中にはアメリカ本土から来た人間もいたので、その人間は露骨にいやな顔をした。
誰が言ったのかはわからないが、その時マネージャーのような人間が出てきて、彼女らに注意していた。
たぶん日本人が多く、日本語も通用するのでここが外国であるということが理解できなかったのだろう。この手の人間は注意されたら誰にも迷惑はかけていないとか、みんなやっていると開き直るが、まさにこういう失態は自分たちはどこにいるかということを考えず、周りを理解しないでとったゆえにおこったことである。
アマチュアボクシングの親玉たちもそうだ、日本ではアスリートに偉そうな態度をとっているが、世界の舞台に出るとかりてきた猫の子のように何も言えないので、なめられっぱなしだがこういうことを島国根性と言い、それはまわりの国と対比して自分たちの国を考えることができないからである。

少し話はずれるが、ある韓国人のおやじに呼び出されたことがある。
そのおやじはベトナムを経験していて、コインランドリーを経営していた。
日ごろから私のことを日本人の血が入っていて、態度がわるいのでむかついているらしく、それは私のことを呼ぶ時ぶっきらぼうに「ホ」と呼んでいたことから明らかであった。
そのおやじが私をコインランドリーの部屋に呼び出して、おもむろにあるものをどさっと置いた。
最初なんじゃと思ったが、見るとそれは日本のあるもので、それが何かと書くと悪用されたらこまるので書かないが、おやじの話によれば、そのコインランドリーは語学学校の日本人が多く利用していて、その学生たちがこのあるものを25セントの代用品としてつかって洗濯をするのだと言う。
その時おやじに「お前は日本人だからおとしまえをつけろ」みたいな理不尽なことを言われて、たぶんあの時カメラと張り紙をして事はおさまったと思うのだが、しかしその時こういう日本のあるものを使えばそれが日本人がやったということが明らかになり、日本人のイメージがわるくなる、こいつらわからなかったらいいのか、みんなやっているからやっているのかと少しさみしい気持ちになったが、こういう行動も自分たちが自分たちは外国にいると言うことを意識していないからできるのであって、、もし意識していたらこういうバカなことはやらないと思う。

コモンセンスを磨くと言うのはまさにTPOを意識しなくてはいけない。
いくらそれが日本ではゆるされることであっても、グローバル社会ではゆるされないことが多々ある。
みんなやっているからばれないだろうとか、みんなやっているからそうだなんていう考えは通用しない、外国では自分が行動していることが日本人としての行動なのだから、慎んで行動することが求められる。
そういうセンスを磨くためにも語学と言うのは必要なことであり、本を読んで頭の中身を耕し、広く知識を身に着けることは大事なことだ。
チェゲバラが国連で演説した記録があるが、その世界に向けられた演説は非常に力強いものであり、その時のチェの言葉は明らかに多くの人を魅了し説得したと思う。
彼はゲリラ戦に従事していた時でも本を話さず、絶えず読書をしていたと聞いているが、読書することで自分の考え方を絶えず広げて行くことができたから、ゲリラ社会と言う世界にとどまることなく、世界の場で人を納得させる演説ができたのかもしれない。
たぶん自分たちが持つコモンセンスと言うのも、自分たちがその文化に固執するのではなく、いろいろな方法によって絶えず考え方を広げて行くことが必要であり、コモンセンスを持つということは考え方を広げるということであるということができると思う。

しかしそういう中でもその常識が他の国から見てそうではなかっても、それが文化的かどうかということは別である。
そしてそういうことを指摘されたら意見を述べる必要がある。
例えばそばを食べるときに日本人はずるずると音を立てる。これは日本人独特の食べ方で他の国の人間からしてみたら食事中に音を立てるということはimpoliteなことでしてはいけないことである。
しかしこれは日本人の文化であるからそばを食べるときはこれをしてもimpoliteではないということができる。理由はそばを食べる時に音をたてるのは香りを楽しむことであり、これは日本人が持つ知恵の文化であるからだ。



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ルールを守らない奴に道徳を教える資格はない

2013-03-06 | Weblog
体罰問題でクラブのことがあげられ問題になったが、さらに教職員の不祥事も前から目立ってきたと言うか浮き彫りになってきたと思う。
自慢ではないが私のパートナーは私よりも頭がいい、高校も偏差値が70ぐらいのトップクラスの高校に行っているし、現在は某有名国立大学を出て教職員になっているが、結構優秀なので私立の学校から引き抜きの声がかかるようだ。
そういうわけだから彼女はかなり頭の回転がはやく、わりと意見を言うだから子育てなどで時々口論になることがある。
ある自分たちを知っている人間が、時々二人が口論することがあるというようなことを言ったら「すごい修羅場ですね」と言うので「口論じゃなく裁判やそこは法廷じゃ」と言ったら大笑いしていたが、今だから笑えることだが、子供が生まれたばかりの時に口論になった時に、口論にまけてくやしかったのか外に出て行って電柱に思い切りまわしげりをいれて足を骨折しそうになったことがある。
私はパートナーだけではなく教職員と話が合うのだろうか、事実私の周りにはそういう関係の仕事をしている人間がいて、そういう人たちとは他の職業をしている人に比べて話題も合うのだろうか、最初から腹をわって話せることが多い。
そこでよく聞くのが教職員の不倫、インターネットでも教職員のセクハラ不倫といったらかなり多くの項目がでてくるらしいが、教育と言う現場にいながら子供の親や教職員同士が不倫していると言う話をよく聞く。

だいぶ前に大阪の私立の学校で教職員をやっている奴と会った。
その時話題はボクシングのことになったので、遠征中に女を連れ込んだり、キャバクラに行くバカの話しをした。
彼は実際公立の学校でも教鞭をとっていたのだが、その時その話を聞いて、そう驚きはしなかった。ただそいつらがバカで公的なことでいかがわしいところに行ったり、女を連れ込むと言うのはえぐいと笑っていたがいたが、どうやらこういうバカはふしだらな中でも特殊なぶるいにはいるらしい。
しかしこういう女や男がらみのどろどろした関係はよくあることで、皮肉なものだがそいつに言わせてみると一般の私たちのように英会話スクールのような塾をやっている人間の方が健全で、少なくともルールは守るそうが、そいつに言わせてみると「お前の方がまだ教育者らしい」と言っていたが結構みだれているというようなことを言っていた。
最近阿部総理が道徳教育の教科課化と言っているが、しかし道徳教育を教科課化する前にまず教職員の教職員のセクハラや不倫を問題にして、そういうことを減らしていくためにはどうするかということを考え、ガイドラインをつくって意識改革するとか考える必要は十分にある。
不倫と言うやってはいけない人としてのルールを無視した行いだ。そういう奴らに特別な性教育は語れても、道徳や倫理など教える資格はない。説明する必要もないがこういうことをすると家族が犠牲になる。
教育委員会もこういうことを問題にして取り上げてしまったら、余計な仕事が増えるだけだから関心をもたないので、巷では噂になっているぐらいであるが、しかしこれから道徳教育を教科課化して子供の倫理や道徳を正しいものへと導くには、まずはこういう問題を取り上げ、意識調査をして、そういう教職員の意識改革をすることが必要ではないだろうか。

私は教育改革的な案としてひとつ提案したいことがあるのだが、それは教職員や親との公的な飲み会は持たないようにするという案である。
なぜそういうことを書くかと言うと、話しを聞いていると、この飲み会が不倫やセクハラのきっかけになることが多いからだ。
心理学用語でパーソナルスペースというのを知っているだろうか?
パーソナルスペースとは相手と自分との距離のことで、当たり前だがこのパーソナルスペースが近ければ近いほどお互いの関係は親密である。
飲み会と言うのは相手との距離が近くなるので疑似恋愛に陥りやすく、おまけに酒も入っているのでなおさらだ、よく一次会が終わったらカラオケに行くのが定番であるが、このカラオケが要注意だ、酒も入っていてお互いの距離が近いので、自分の気になる人や話の合う人が隣に座れば疑似恋愛におちいりやすい。
実際私のパートナーも二次会のカラオケの席で、となりに座っていたおやじに勘違いされて困ったことがあるというようなことを言っていたが、よく女性が飲み会で帰り際に男性からいきなりキスされたというような話は、統計をとったら分かると思うのだが、カラオケの後に疑似恋愛におちいったり、あるいは隣に座っていた人間が勘違いして起こす行動であり、こういったことはやはりそういうパーソナルスペースが近くなって話し込んで行くうちに疑似恋愛に陥ったり、勘違いするのではないかと思っている。
人間と言うのは弱い生き物だ。だから何々するなということを言うだけでは、それを自分の意志で守ることはできない。
そういう弱い人間だからこそ、そういう機会を与えないことが大事なことではないだろうか。



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ボクシングでダイエット

2013-03-04 | Weblog
最近女性の入会者が増えてきた。
問い合わせだけならば女性の方が倍以上の問い合わせがある。
目的はもちろんダイエットであるが、ダイエットと言うのはかなり女性にとって深刻な問題である。
前にダイエットのことでチョウダヨンという韓国の女性のインストラクターの本を読んだことがある。
2年ぐらい前に流行したモムチャンダイエットというエクササイズは聞いたことがあるが、彼女はその発案者である。
私はこのダイエットのやり方が日本人と言うか東洋人には一番よくあったやり方だと思っているが、しかし日本ではダイエットをしなくてはならないと言う人はどちらかと言えばマイペースで韓国のように一度やればがっつりというタイプでもなく、おまけに研究熱心でそのダイエット法なども新しいものをどんどんとりいれていくのでついて行くことができずに、理論だけは参考程度にと言うことで、日本では韓国のように過熱することはなかったが、しかし理論的にも経験的にも東洋人には一番合っているのではないかと思っている。
その発案者であるが、その著書である告白をしていた。
それはダイエットをはじめたのはみじめな思いをしたからで、夫からもそのことでからかわれ、うつ病になりかけるほど悩んでいたそうである。私はそれを見た時に、女のダイエットと言うのは男が考えるよりも深刻なものなんだなあと思わされたものである。

今オリーヴの女性会員のほとんどはダイエット目的で来てくれているが、しかしダイエットとボクシングは別物である。
だからここでははっきりとダイエットには、ダイエットの別のやり方でエクササイズをしている。
今某テレヴィ局が視聴率の低下で何とか格闘技部門でボクシングを売り出そうとして、やたらボクシングはダイエットにいいということを言っているが、しかし本当にそれが言えるのだろうか、現に欧米などでは痩せるためボクシングをするというようなことは理論上言われていないし、ボクシングでダイエットと言うようなことをうたい文句にしているボクシングクラブはほとんどないと思う。
それでもなおボクシングで痩せるというのは企業戦略的なものがあり、ここでは書けないが韓のするどい人ならわかると思うが、ボクシングと言うスポーツはいろいろと疑惑のある汚いスポーツなのでテレヴィや企業とつながってそういうデマゴーグを流しているんじゃないかと思っている。

話しはダイエットとボクシングの関係の話にもどるが、ダイエットに最適だと言うのもはたして本当かどうかわからない。
まずボクシングと言うのは非常にハードなスポーツであることを考えてみたらいい。
ボクシングの12ラウンドがフルマラソンを走るのと同じ体力を使うというようなことを言われているが、そういう練習をすれば痩せるのは当たり前、テレヴィでよくあのボクサーのようなしなやかな体でと言っているが、彼らの練習量を見たことがあるのだろうか?あれだけ運動すれば痩せるのは誰でも痩せる、痩せると言うならば他のダイエットと比較して対象者を分けて結果を伝えなくては、データーとしては不十分、よくジムでそういうことも十分に研究してもいないのにボクシングで痩せるなどと公言してる奴がいるが、しかし私の経験上ここに来る人のほとんどの人間がスポーツ経験がなく、部分痩せも希望しているので、そういう人たちにボクシングのようなはげしい運動をさせることが最終的な目的とするならば少し無理があるのではないかと思っている。

私はダイエットは効率だと考えている。
なぜならボクサーになるのならば、苦しい練習にも耐えることが必要であるから、効率を第一に考えて練習しているわけではないが、ダイエットを目的としている人たちは仕事を持って忙しい時間の中から来ているので、そういう苦しい練習を通してと言うストイックなものを求めてはいないだろうと思うので、なるべく一番効率がよく最短で意味のあるエクササイズを求めていると思うのだが、その求めに答えなくてはいけないと思っている。







何を根拠にボクシングはやせると言い切ることが


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