脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ソウレソ マンナッソヨ 

2015-05-28 | Weblog

先日久しぶりにNYにいる友人からメールが、懐かしくなってメールをしてくれたのこと、彼とは学生時代からの付き合いであるが友達とはいいものだ、たとえはなれていても会ってもまた昨日会ったように話せる。彼とは社会問題などいろいろなことについて議論をしたが本当にいい思い出だ。最近はラインを既読してないとかそんなつまらないことを気にしながら付き合うようだが、そんなことにいちいち気をつかい合う中なんて本当に友達と言えるのだろうか?自分たちはかれこれ10年以上だ、10年間以上も何の音さたもない、しかし突然来たメールでお互いがその時の機能に戻ることができる。そういう関係を気づくことができたのはお互いが主張し合い議論することで交流を深めることができたからだと思っている。最近の若い人たちは親や教師などの迷惑をかけていいと思っている人間には迷惑をかけるが、しかし友達には気をつかっているから不思議だ。友達だからこそ自己主張し合ってぶつかり合う、そしてそのことで心も考え方も成長し大人になっていくのだ。ある社会学者はこう言っている「若者の主張することは間違っている。けれども主張することは正しいことだ」ラインが既読されていないとか返事を出さなくてはいけないとかそんな小さいことどうでもいいことだ、若いうちはお互いの意見をぶつけあって時には傷つくこともあるが、しかしそういうことも若さゆえに乗り越えていける。我々もこういう関係を気づくことができたのはお互いがそういう時代を過ごすことができたからで、こういう友達はいつになっても頼りになるものであり、一生の宝である。

韓国人の女性から手紙が突然来た。今ソウルのおばさんのところに半年ほど滞在することになったのだがいとど遊びにこないかと言う内容の手紙で会った。それで懐かしくなって会うことにしたのだが、飛行機で最初は「やあ久しぶり」にするか「lomg time no see」にするか「オレガンマンニエヨ ポゴシッポッソ」するか迷ったが空港で私を見つけるなり「やあ元気にしてた」と流ちょうな日本語、拍子抜けしてしまった。その後ソンギョンガンテハッキョのあるテハンノに行ってプッチンゲを食べたが彼女とは昨日会ったように話せたことをおぼえている。私の定義ではそばにいていつもなぐさめ合ったり、話したりすることだけが友達ではない。本当の友達とこうして何年離れていてもまたった時に昨日会ったように話すことができる、そういう存在を友達あるいはチングと言うのではないか。

 

 


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No Kids boxing

2015-05-24 | Weblog

MOBでは1中学3年生までの未成年にたいして顔や頭をたたくトレーニングは断じて禁止しているがそれには理由がある。ひとつは言わずとも医学上の問題であるが子供の頭蓋骨は未発達段階で衝撃をうけると大人よりもかなりダメージをうけやすく後遺症の可能性があるからだ。そしてもう一つ、これは私の意見であるが、子供の頭をたたくというのは尋常ではない、あの小さい頭を見てあの頭にサンドバッグでなぐるような衝撃を与えるのだから、その尋常ではないということをさせるというのは一般的な常識からずれているように思えるのだが、そのずれた感覚を持ってクラブを運営していくことはその共同体の質の問題にかかわると思うからだ。わたし自身子供に試合目的でボクシングさせる親とはかかわることにかなり抵抗がある。なぜならそういう親の中にはずれた感覚を持った人もいるだろうし、そういう人たちと関わることでクラブの健全性がうしなわれていくおそれもあるからである。指導にしてもボクシングができるとか試合で勝ったということをほめるよりも知的なことをほめるようにしている。例えば若い子には君はこういう考え方もできるのかすごい気づかされたよと、本心からそういう感心できる彼彼女のアドバンテージを見つけてほめるようにしている。さらにクラブの偏差値を上げることで自分はこれじゃあいかんと気づくものもいるだろう。私にしてみたらボクシングの技術的なことをほめるのはサルに芸を仕込むのと何らかわりない、パスカルは人間は考える葦であると言っているのだから知的な部分をもっとひきだすようなほめ方をすることで子供そのものの生き方や進路がかわることも大いにあり得る。クラブと言うのはいろいろな立場の人たちが来ているのだからただボクシングだけをさせてそのままの君でいいなんて安っぽい個性をうりにして自分を納得させるよりも、これじゃあいかんと気づかせることのほうが大事なことだと思っている。

 


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マンホールを気合を入れて発音するな

2015-05-24 | Weblog

英語の倒置を教えていたのだが、倒置って何か?学校では強調したい言葉を前に出すというような意味で唐手が説明されていたが、しかし本当にそうであろうか?例えば日本語でも「お前のコーヒー俺が飲んだよ」と言う場合「飲んだよお前のコーヒー(俺が)」と言うこともできる。でも実際こういう時我々はコーヒーを飲んだということを強調したから言っているわけでもなく、ただ何の気なしに言葉が出てきているだけにすぎない。無意志にのうちに強調していると言われればそうかもしれないが、しかしあくまで意識的に強調したいからその言葉をつかっているとはいいがたい。Here come the busなんていうのも本当にここにと言う言葉を強調したいのかわからないが、英語の倒置もたぶん同じだ、ただ倒置にはM S V とかO S V Oのようなそれぞれ文として成立するようなルールがあっておそらくネイティヴも日本人のようにA card I sent youのように一応文として成立するようにルールに従って言葉を発しているようなある種の言葉遊び的なものであると理解している。ただし一応文法的には倒置は強調となっているので、私が言っているのは日常レベルのことなので試験ではそういう理解はすすめられないが。

だいぶ前大阪である友人の紹介で外国人と飲みに行った。友人は英語が堪能である。ただ発音にやたら気合を入れるので言葉が空回りする。話は豪雨の話になって豪雨になれば地下水の水があふれてマンホールのふたが吹っ飛ぶと言うのが彼の意見で、その意見を伝えた時にマンホールのホールをやたら気合を入れて発音していた。ホールをなぜか英語調にホーッみたいな感じで言っていたが、その彼がマンホールと言うのがどうしても私はMAN WHORE(ヤリチン)に聞こえてしまう。彼がマンホーッっというたびに笑いそうになったが、なんでも英語調に発音すりゃあいいってもんじゃない、前に大学生がオットセイを伝えるときにオットセイが伝わらないので必死で「オットセエイ、オットッセイ、オットーセイ」などと発音をかえていたが伝わらない、結局伝わらなかったのであきらめていたが、そりゃそうだオットセイ自体が英語じゃないんだから。私もあまり発音が得意でないのでジャパコレイングリッシュで通しているが、何も英語を話す時に気合を入れて話す必要はない、日常レヴェルであればそんなに気合を入れて伝えようとあわさなくても十分に伝わる。日本人が郷に入っては郷に従え精神が強いので伝わらなかったら自分の発音に問題があると言ういう気持ちになるが、しかし今や英語はEnglish Englisiesである。だから聞き取れないほうにも問題があるぐらいの気持ちも必要かもしれない。


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共同体を考える

2015-05-23 | Weblog

MOBでは共同体と言うものを考える時、最近参考にしているのがアドラー心理学である。ここからは多少私の見解が入るが、フロイトをはじめ今までの心理学は人間の行動と言うものを問題にした場合その人の幼児期がその今の行動に大きな影響を与えていると考える。だからその過去を振り返ってそこから人格を再形成していくような感じでカウンセリング的なことがおこなわれると思う。ただしこういった場合は過去の原因に拘泥しすぎて未来の姿が見えない。フロイト的な心理学は幼児期などの過去の体験の問題は説くが、しかしその原因を知って自分自身を取り戻せてもそこから先の何者かになれない限界があると思うが、おそらくアドラー自身もフロイトの考え方に未来への展望の限界を感じたのだと思う。その人の行動を問題にする時過去にさかのぼって原因をさぐらなければ前が見えてこないがしかし彼とフロイトたちとの大きな違いは選択できる未来である。確かに過去を振り返るのも大事だしかしその過去にとらわれるのではなく、人間には未来があってその未来を築くためにこれから自分が何をどう選択していくかと言うことが重要だということを言うのだが、その自分が選択していく未来によって自分は何者にもなりうるというのである。そしてその人間の未来の選択においては共同体の役割が大きい。すなわちどういう人間たちが形成している群れにつながってどういう影響を受けるかと言うことが重要である。

私がよくスポーツ指導者は勉強しなくてはならないというのは物音を多面的に見なければ見えてこないことが多いからだ。スポーツしかしたことがない、勉強しない、本を読まない新聞も見ない、外の世界を知らないと言うような人間の価値観で共同体をまとめることは非常に危険、特にこういう格闘技のクラブはしっかりと学問的な基準を持たなければその群れが暴走族や愚連隊の集団となり下がるだろう。さらに日本語にも類は友を呼ぶという言葉があるようにその群れはどういう人たちが中心になって形成しているかと言うことはその責任者の質によるものだ。このことに関してはビトゲンシュタインが著書「言語ゲーム」において人間関係を使われる言葉の質と関連させているし、有名なKマクゴニガルは人間はモラルのひくいほうに流れるということを実験結果で示していたが、端的に言えば責任者は学問を重んじる、しっかりとした考え方を持って問題をおこしそうな程度のひくい人間を集めない、学のある人や社会的にしっかりした人たちも納得して来れるようなクラブづくりをしていく。21世紀は学校や職場でかかえきれない問題がたくさんある。そういういろいろな人たちを受け入れ学校や社会に協力していく必要はある。なぐりあいをさせておとなしくなったのは本能を満たすことができたからだ、人生の裏技をかしこい生き方と教え、その小さい世界で生きて順応することが社会のすべてだと勘違いさせるのはよくないことだ、しかし物事を多面的に見れないと考え方が偏ってしまう、うちではそうならないためにも日々研鑽、そうすれば群れの質はよくなって、ここに来ている人ひとりびとりがさらにつながる子供や若い人にいい影響を与えてくれると信じている。MOBは30代以上の人たちが多いが、共同体と言うことを考えた時にそこがアドバンテージである。

 

 

 

 

 


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ああバイリンガル

2015-05-20 | Weblog

あるバイリンガルの人が英語はtoolであってskillではないと言っていた。英語を話せれば仕事ができる、就職のためにと考えて英語の勉強を一生懸命やっているが、その人いわく日本人は英語を単なるtoolだとは思っていない。肝心なのは自分がどういうskillを勉強してきたかと言うことが大事なことで英語はそのことを伝えるtoolでしかない、なのに日本人はそのtoolをskillとしてしまっていると言う。実際そのことをよくわかっていないのはバイリンガルで、バイリンガルは親から英語が話せるからあなたは仕事に困らない、日本に言ったら仕事がたくさんあると言われて育ってきたので、彼ら彼女らの中には英語が話せることが自分たちのskillなんだと勘違いするそうである。実は私はこのバイリンガルに関して多少のアジア的コンプレックスがある。ここで言うバイリンガルと言うのはあくまで英語の話、アジアの言葉が話せてもたいしたアドヴァンテージにはならない。韓国語などは日本人の前では話してはいけないという時代があったが、トライリンガルにしても日本語、英語、韓国語やベトナム語を話すトライリンガルよりも日本語、英語、フランス語を話す人間のほうがグレードが高いような気がするのだが、これは単なる私の偏見であろうか。話はバイリンガルの話の戻るが実はこのバイリンガルの人は自らの経験からこう言っている。確かに自分はバイリンガルだからいい会社に就職してこうしてはたらいているが、しかしそれが本当に自分のやりたいことかと言えばそうではない。自分には本当にskillと言われているものがないので、ただ会議の時に通訳したり、資料を訳したり、外国人との間に立って交渉すると言ったことがほとんどの仕事、たぶんそう言われて育ってきた多くのバイリンガルは本当に自分のやりたいことができてきないのではないかと言うのが彼女の意見である。前に朝鮮族の女性が大手の企業を急に退職した。「なぜやめたのいい会社だったのに」と言うと「私にはやりがいがない」と言うようなことを言っていたような気がするのだが、おそらく今考えたらそういうことだったのだろうと思う。その後すぐに新しい会社に就職していたらしいが、たぶんまた同じことを繰り返すのではないかと思う。英語はtoolだ。本当に大事なことは自分には何ができるかというskillを磨くことである。英語なんて言うのは単純な言語だから大学在学中にマスターしようとしたらマスターできる。受験でおぼえた文法力や単語力があれば十分だ。確かに英語を重視することは必要なことである。今の世の中英語が理解できないと通用しないというのも正しい意見だ。、しかしあくまで英語はskillではないtoolである。本当に将来自分のしたいことがしたかったらskillをしっかりと磨くことは重要なことだ。


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大阪 チョアヘヨ 

2015-05-17 | Weblog

今回の大阪の都構想はむなしくも実現しなかった。このことについては深く言及しないが、今回はディスアドヴァンテージが目立ったかも知れない。私自身大阪に住んでいたのでわかるのだが、大阪人は何かとケチをつけたがる。あるビジネスパーソンが言っていたが彼はあちこち転勤で各地を渡り歩いたが大阪ほどクレームが多い土地はまずないと言っていた。ある銀行員も大阪は転勤で行きたくないところのひとつだと言っていたが、大阪と言う土地は何か人がはじめようとすると必ずケチをつけるような風習があるのではないかと思っているが、それは私自身も肌で感じていることである。今日うちの子供が「俺は今回橋元さんの都構想には賛成」と言うので「お前選挙権ないやろが」と言うと「俺は大阪人の血が入っているから、大阪が気になる」大阪人の血??韓国人の血はどうなっているんだ?と思うのだが、彼は大阪で生まれたこと(生まれて1年ぐらいで高知に帰って来たのだが)に誇りを持っているようである。結構長くいた私でさえそんなに愛着はないのだが、しかしうちの子は大阪が好きで、たぶんこの土地には何か魅力があるのだと思っている。大阪は韓国語が語源じゃないのかと言う言葉が多い、ムッチャとかノッポ、チョンガー、アホと言うのは韓国語で九つのことを意味するのだが十に一つ足りない、だからアホである。さらに地名も百済と言う地名がある(今はないがしかし地名としてのこっている)。韓国人にもなじみがある土地である。

最近入会してきた人で哲学や宗教に興味があると言ってきた人がいるので、今日一つ日本人と欧米人の罪のとらえ方をレクチャーする。まず西洋の罪と言う言葉は二つある。ひとつはcrimeこれは犯罪と訳せばいいと思うが、現実に犯した罪のことである。しかし西洋哲学では罪と言う言葉がもう一つあってsinと言うのだが、実はこのsinと言う概念が彼ら彼女らの罪の概念をあらわしていると言ってもいい。sinの語源はαμαλτιαと言う言葉だがこれはもともとは的外れと言う意味である。的外れと言うのは神の方向を見ていないと言うことで人間の罪と言うのは神からはなれることでこのことが西洋哲学において彼ら彼女らが持つ罪の概念で、人間の道徳心や善悪はすべて神と向き合うことによってもたらされる。だから彼ら彼女らは自分たちの宗教が定めた安息日には教会やモスクあるいはゲットーに行くのだが物事の善悪をはかる時すべてこの神が基準になっている。陪審員制度が日本で導入されたが、私はこの制度は日本人には合わないと思っている。事実それはアメリカとは異なるものだからで、それは日本人が善悪をはかる基準をしっかりと持っていない。ともすれば感情に支配されることもあるからである。英語でshallと言う言葉は「shall we dance」と言う映画があったように日本人には誘いかけの言葉としてなじみが深いと思う。しかしこの言葉は何々しましょうというような軽いニュアンスではなくもっとストリクトな言葉である。この言葉が多く使われているのが聖書と法律の書と言うことからもわかるのだが、神がこう定めたからこうだという絶対的な言葉である。モーゼの十戒はshall notが使われているが(原書の解釈によってshouldやought toが使われることもあるが)それは神が定めたことを絶対にするなと言う厳しいルールである。おそらくshall weが誘いの言葉になったのは昔すべてともいえる人たちが教会に言っていた頃、さあ教会に行く時間を神が定めているのだから教会に行きましょうと言うような誘いかけが時を経てそういう婉曲的なかたちになったのだと思うが、基本的にshallと言う言葉は神がこう決めたという絶対的な言葉である。事実キリスト教の強い国では相手が何か間違ったことをして理屈が通らないことでも、そんなことをしたら神が見ているよと言うと自分の非を認めることもるらしいが、人間のあらゆる行動を支配しているのがThe Godである。だから彼ら彼女らの文化を知るためにはまず宗教をよく知る必要がある。最近アメリカではatheistが増えてきているが、しかしまだまだ宗教が色濃くのこっているし、コンサバティヴな考え方が大半を占めているのだからもっと宗教のことを勉強する必要はあるだろう。

 


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Minorityの意見

2015-05-16 | Weblog

韓国語にクムナムと言う言葉がある。日本語に直訳すると夢の木これは特に子供に対して使われる言葉である。よく人は夢を持てというが、しかし夢って何なんだ?よく小さいころに何になりたいかと言う作文を書かされるが、そのたいていの子供が持つ夢と言うのはあこがれのようなものでそれを文章であらわしているにすぎないだろう。ただあこがれだけで見る夢は空想である 本当に自分がなりたいと思うことはもっとどろどろした部分もある。そういうことを経験してそれを乗り越えていくからこそ夢であるが、英語ではdreamというよりもambitionと言ったほうがいいだろう。ambitionはしばしば大志と訳されているがまさに大志を持つことが本当の夢かもしれない。ある程度偉業を達した人は野心がある。そしてこの野心こそが彼彼女らを突き動かしてきた原動力ではないだろうか?夢とか言ってただきれいごとで空想のようにそれを見つめるだけでは前には進まない。そのためにはもっともっといやなことを経験してみにくい部分を受け入れていく覚悟も必要ではないかと思う。そういう現実を受け入れ夢を達成した人間が本物のヒーローだと理解しているが、夢と言うのはただ自分のやりたいことだけをやって自分の私利私欲を満足させることではなく、人間と言うのは人とのかかわりの中にあるのだから自分の夢が達成されることでまわりも幸せになっていくことが不可欠であると思っている。働いていたらいろいろな現実が見えてくる。そういう現実を見て自分のことだけではなく、もっと他者のことを顧みるということだ。そしてそのためにはそういう現実を受け入れて時には悩むことも必要である。コナンで「一人で見る夢は空想であるが、みんなで見る夢は現実だ」と言うセリフがあるがまさに夢と言うのはただ単に自分のためにあるものではなく、その世界の中で生きている自分がまわりを救うことで自分も満たされていくという相互関係において存在するのだ。

私はアスリートが集まって部室の話をするような番組が嫌いである。何を話しているかだいたい想像がつくが、ああいう場でもっと自分が見てきた世界の現状などをうったえてもいいのだが、しかし自分たちは目立つことしか考えていないのでまったくそういうことは関心がなく部室で話すようなおちゃらけた話を延々と話すのことに私は不快感を覚えている。世界に出ていったらいろいろな現実が見えてくるはずだ。発展途上国などはどういう現状をかかえて出場しているか、民族問題など、彼ら彼女らの中には日本の市民権を持っているのに自分たちの国のこともよくわかっていないような人間がいるが、身近な問題では北朝鮮による拉致問題などがそうであるが、アスリートにもできることが十分にあるだろう。それとも政治の問題にはかかわるなと言っているのかわからないが、日本人のアスリートは哲学がないのかそういう問題には疎い。金城一紀と言う作家が書いた。「Go」と言う小説がある。主人公の男子高校生は日本に生まれて、日本で育った日本語を話す普通の高校生、しかし彼の国籍は大韓民国である。その大韓民国が国籍の彼が日本人の女子高生を好きになってしまう。その葛藤を描いた小説で、市民の流動化が進む中市民と何かということを問う小説である。まあ個人的な意見であるが別にここで生まれて日本語が自由に話せるのだから日本人と結婚しても問題ないじゃないかとさえ思ってしまうのだが、しかし日本においてその国籍が持つ意味は大きい。事実当時私のまわりにも親から日本人と結婚するなと言われていて葛藤していた人間も少なくはない、私がよく上げる映画チルソの夏と言う映画を見れば、国籍に違いがいかに大きな隔たりがあったかと言うことがわかるのだが、そういう時代であったのだ。日本のアスリートは夢を持てと空想のようなことを語るが、しかしただそれだけ一生懸命やってできたものが夢をかなえたものだなんていう発想は成金の発想と同じだ、海外に税金で行かせてもらっているのだから、もっと見聞を広げていろいろなことに問題意識を持つことができないのだろうか?私はしばしばアスリートがするインタビューにいらっとさせられることが多いが、特に公共の電波をつかって部室のような話をする番組の何が面白いのか理解できない。


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ソンギョンガン 

2015-05-13 | Weblog

私は応援する国がスポーツによって違う。野球はコレア、サッカーはジャパンボクシングにいたっては日本の選手よりも発展途上国の選手を応援してしまう。この前CNNで韓国のSon yeon jaeがhuman to heroと言うコーナーでインタビューにこたえていた。内容はさほど難しいことではないが、しかし彼女は流ちょうな英語で堂々とインタビューにこたえていた。彼女は私が好きなアスリートのひとりであるが彼女は語学が堪能で英語のほかにもいくつか言語が話せるマルチリンガルである。同じ国民的スターでもスケーターのほうはすきにはなれないが、しかし彼女は知的で身のこなしや話し方にも品があるのでかなり好感が持てる。うちのせがれに結婚するんだったら彼女のような人がいいというのだが、どうやら彼は韓流文化には興味がない、それどころかかなりの疑いを持っている。実は私にはちょっとした目的がある。それは将来落ち着いたら韓国にソンギョンガンと言う大学があるがそこに哲学の勉強をしにいくことである。韓国と言う国は基本的に大学院は英語で論文を出す。韓国語自体がそういう修士論文を書くには十分ではない言語であるからだ。だから必然的に修士論文は英語になるのだが、英語で論文を書くので外国人には都合がいい。大学院とまでいかなくても指導者が専門的な知識をしっかりと勉強することは大事なことだ。これは私の意見であるが考え方の薄っぺらい人間は物事を客観的に見たり、咀嚼してそれを考えることができない。発想や勢いでものを言ったり教訓的なことなんかも漫画のようなセリフや先輩などのうけうりである。おそらくそういうオブザベーション的な考え方ができないのは学問的な訓練ができていないからである。学問的な基準に立つというのは非常に大事なことだ。しかし学問的な基準に立つと言ってもちょっと本やインターネットで調べたようなことを受け売りのように言うのではなく、きちんとした作業に基づいて結論を出すというような基準でなければいけないと思う。例えば成長期の子供にボクシングをさせることは危険であるということはきちんとその論文が英語で書かれている。さらに欧米では禁止している国もあって、もしさせるのであればその危険性を十分に説明してからコントラクトにサインさせるのが常識となっている。説明すると長くなるので書かないが、MOBでは医学的に子供がコンタクト目的でボクシングするのは危険だとみなし、成長期の減量と顔へのコンタクトは禁止している。MOBが顔へのコンタクトを禁止しているのは学問的基準に立ってのことだ、はっきりいってスポーツする人間に勉強させろというのはしっかりとした基準に立って何が正しいかという見解をしっかりと持ってほしいからだ。

 

 

 

 


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Wind beneath my wings

2015-05-11 | Weblog

wind beneath my wingsと言うかなり昔に流行った歌がある。多くの人がカバーしているので聞いたらああこの歌かとわかると思うのだが聞いていていい詩だなあと思った歌の一つである。この歌は結局自分が有名になれたのはそれを支えてくれる誰かがいたからだということを歌った歌である。wind beneath my wingsと言うのは私の翼の下にある風、ニュアンスを伝えると私の翼を支える風とでも訳せばいいのか、この歌はいわゆる縁の下の力持ちをたたえた歌であり、おかげさまでと言う言葉をしばしばつかう日本人にとって馴染みやすいと言ってもいいだろう。前のブログでも書いたが私自身も多くの人の存在によって支えられここまで歩んできた。私は思ったことを言うタイプである。学生の時も結構思ったことを大胆不敵にも言ってしまうので、ひんしゅくを買ったり時にはどえらい目に合いそうになった。どういうどえらい間にあいそうになったかというのは、ある人間のお前よく生きてこられたなあと言う一言で想像がつくが、しかしこういうかけが多い人間がまわりによって支えられて生きてきた、そしてその人との交わりの中で自分は成長してきたと思っている。私は体育会の組織がいいと思わないのはカッコつきの世界であるからだ。まずあいさつしろと言われてその世界のルールをたたきこまれる。前にパリングをパーリングと言っていた人間がいて、そいつのまわりの人間はみんなパーリングと言っていた。さらに応援の時に言っているラスト30とかファイトとかラッシュ、ラスト30なんてあと30秒で誰かが死ぬのか、ファイトはけんか、ラッシュは突撃、少し考えたらおかしいと思うようなことがあたり前のように使われるが、これだけではなくちょっと考えてもおかしいと思われるようなことが当たり前のように行われている。こういうことをひとつひとつとって見ても何も考えていない、ただ従順であれば礼儀正しいと思われる世界だ。私は基本的に指導者はコミュニティから考えていく必要があると思う。プロスポーツでもないのだからいい競技者を入れてただその群れを強くしていくというのはアマチュアスポーツにおけるプライオリティではない。その前に自分たちはどういう群れを目指し成長していくのかと言うことを考えることがアマチュアのスポーツジムのプラオリティだと思っている。そういう意味で必要なことは分離と受容である。分離と言うのはその群れをめちゃめちゃにする雰囲気を遠ざけること、そしてそういったものを遠ざけるためには何をすべきか、ここでは学問的に物事をしっかりととらえる。そして言葉の質をよくするということである。そしてそういう中でいろいろな立場を受容していく、しかしその受容は単に人をおだてるような受容ではなく、目的をはっきりさせる受容であること、それがしっかりとできれば群れの質はよくなると思っている。私は指導者と言うのは基本的には縁の下の力持ちだと思っている。自分が目立ったり自分の考え方を偉いとかすごいと思わせるのではなく、むしろ相手によく考えさせ時にはヒントを与えるぐらいがベストだ。そういう意味で学問的な考察と言うのは非常に大事なことだ。

 


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shame on them

2015-05-09 | Weblog

コンビニでたむろしたり、ファミレスで騒ぐような奴らは日中韓共通らしい。ただ韓国に限って言えばコンビニでたむろしている奴らの例を取って言えば、彼ら彼女らは店の前でというよりも裏側でこそこそとかたまっているらしい。おそらく裏側でというのは自分たちがよくないことをしているうしろめたさがあるのだろう、これは日本の堂々とたむろしている奴等と少し勝手が違うように思える。個性と言う言葉が独り歩きしてきたせいか目立つことが個性だと勘違いする人間が増えてきた、コンビニやファミレスででかい声でありもしない、人が聞いたらはずかしいとさえ思える与太話が堂々とできるのだからこいつらの考える個性と言うのは素晴らしいものである。個性と言うのは人に自分のくだらない考え方や不快とも言えるような行動を押しつけることではない。そういう個性は他者との比較や自分の世界観を広げることで見につくものだ、そういうことが理解できたら自分たちが語る与太話がいかにはずかしいことかわかる。横ででかい声で騒いでいる奴を見たらお前らそんなボキャブラリーで生きていてはずかしくないのかぐらいのことは思ってしまうが、少ないボキャブラリーで騒ぐことが恥かしいとさえ思わない、とにかく目立ったり勢いがあれば自分たちの空間をつくることができると考える。ゆえに彼ら彼女らは同じようなタイプでかたまるのだろう。日本ではだいぶ前からプライベートと言う言葉がつかわれ、今までの全体主義から個人主義に移行してきているかのように思えるが、しかし私の見解では世界はそうではない。むしろ共同体社会と言うものをしっかりと考えているその共同体を考えた上での個人主義である。私がよく上げるサンデルがあれだけ話題になるかと言うのは共同体をどうとらえるか、すなわち彼ら彼女らが共同体で生きているということを意識しているからだ。おそらく日本で彼の講義が白熱しないのは共同体と言うもののとらえ方が希薄であるからだと思っているが、私の見解では個性や人権はまず共同体と言うものを第一に考えなければ恣意的なものになる。なぜなら個性や人権と言うのは個人がどうということではなく、他者との存在を比較し共同体を通して見るからこそ見えてくるものである。

 

 


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