脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The declaration of communitarian

2020-01-29 | Weblog
うちのクラブは健康維持やダイエットが目的の人たちが占める文科系ボクシングクラブである。文科系と言いうのは毎週英語のレッスンを持っているように、ボクシングだけではなく学術的なことにも関心を持っているので、運動音痴やスポーツ経験がない人も気軽に来れる、所謂一般のイメージで言うところのボクサーが集まるところではない。
確かにうちは競技には力を入れていないので人によっては少し物足りないと感じるだろし、あいさつしろとか礼儀とかも言わないのでかなりゆるく感じる人もいるであろう。しかしそうだからと言っていい加減ではない。むしろ倫理的な次元はかなり高く、それゆえに知的な人も多い方だ。ただならぬ雰囲気で汗をまきちらしてサンドバッグをたたき、疲れたらばたっと寝転がる。ひどいのになると道端でも平気で寝込むのもいるが、裸でトレーニングしたり、でかい声で叫んだり、そういった行為は他者の迷惑になるし、作法にかけるのだが、うちではそういうトレーニングをするような人はまずいない。中高生や学生ならまだしもここは大人が集まるクラブだ、みなさん所作に気をつけて作法を守ってトレーニングしてくれている。ゆえにみんなが安心してトレーニングできるのだと思っている。

うちは基本的にはコミュニタリアンの立場をとっているがコミュニタリアンは共同体に価値を置く考え方、単純に言えば共通善と言うのを第一に考えて共通のルールやシステムを求めるコミュニティだ。しかしそのためには自分の利益しか求めない人間はダメ、以前ロールズの無知のベールと言う考え方はかいつまんで言うと自分の利益ではなく、まずお互いが相手の利益を考えて公平や平等性について語ることだと言ったが、群れがコミュニタリアンであると言うことは自分勝手や自分ファーストではだめ、自分だけが利益を得ることで他者が傷ついたり損をしたりするのは公平であるとは言えない。私は日本人は他の国に比べて道徳心が極めて高いと思っているが、うちのクラブにはもともと持っている日本人の倫理や道徳の基準の高さを持った人が多い。それらは教育レベルや生活環境や社会的立場によるものだが、事実こういう人たちが集まると自ずと共通善と言うものができて、他者への配慮ができるようになり、その群れは正しく機能する。それは有機的であるとも言えるであろう。
事実ここではベテランの人や競技に出場した人が初めて来た人や女性にサンドバッグやリングを使う順番を譲る光景を目にする。試合が近づいていても一通りまわりの人に順番を譲って自分たちは一番最後にそのメインのトレーニングをしていることはよくあることで、たぶんそういうことができるのは自分の権利だけを主張したり、自分ファーストと言うことがいかにバカげたことで全体の雰囲気をこわすもので、他者への配慮が全体の雰囲気をよくするもので全体の利益となると理解しているからだと思う。試合に出るとかそういう一部の人間たちがリングを優先的に使いジムの中でアドバンテージをとるというのは、コミュニタリアンの群れでは考えられないことである。ここではたかだかボクシングができるぐらいで特別扱いすると言うことはまずない。所作に気を付けて作法を守って、そして他者のことを考えてくれるのは、ルールではないがここには共通善が存在し、それを理解してくれているからだろう。その群れの質はそこにどういう人たちが集まってくるかだと言うことをよく言っているが、私は彼、彼女らを本当に心からリスペクトできる。ジムの秩序が保たれているのは会員の人たちひとりびとりのおかげである。


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有機的なクラブであるために

2020-01-27 | Weblog
共同体感覚と言う言葉を知っているだろうか。これは共同体の一員として意識し、その共同体のために働く精神、ひいて言えば自己の利益の追求だけではなく、他者に貢献することで幸せだと感じる感覚である。しかしこのことを感じるにはその共同体に安心感がなければだめだ。ひとりびとりのことをよく知って、リスペクトし、ここに来たら自分は大事にされていると言う安心感をもつことで他者へのいたわりや余裕が出てくる。
よく運動系のクラブはあいさつは基本だと言う(誰がきめたのか?)。しかしうちのクラブは子供が来てもあいさつを強要しない。状況をよく見てどう接するかと言うことを考えるのが第一である。うちではその子があいさつしないにかかわらず、まわりの大人があいさつしてくれる。来たらにっこり笑ってこんにちはと、そうしたらあいさつしなかった子供も次第にあいさつできるようになる。さらにその子がある程度成長したら、今度は同じようにそういう子供に対しても大人と同じように接することができる。今の時代はすごく複雑でコミ障的な子供も少なくはない、そういう子供にあいさつは基本だから大きな声でしろと言っても逆効果である。できない子はこちらからしてやったらいいことだ。そうすることで、徐々に心を開いて反応できるようになる。実際そのようにしたら最初はあいさつできなかった子があいさつできるようになって、やがてその子が今まで自分がしてもらったことを他人にするようになる。そういう成長の仕方のほうがただ単に親玉からおどされてあいさつしろと言うよりも正しいことだと思っている。私は時々子供に「人の顔色を見るな、堂々と生きろ」と言うが、体育会のようにそういう軍団に入ってあいさつせんかと上下関係を強要されたら人の顔色を見るようになる。大事なのはそれをすることがいいことか悪いことなのかということを自分で考えることだ。そういうことを大人やできる人から学ぶことができる共同体、ヤクザ組織のようにおいこらあいさつせんかいと強要するよりもまずこちらから手本を示してあげるのが大人の共同体であり、それが健全でポジティブな共同体の強さだと私は思っている。

私はその共同体のマイノリティは誰かと言うことを考えて、そのマイノリティが一番得になることを考えることが平等だと考えている。共同体において、まずその一番弱い部分を顧みることが全体の益であり、そのことによって安心感が得られると思っているが、人間は自分が大事にされていると感じ、その共同体につながっていると感じるならば、他者へ貢献しようとする気持ちがでてくるのだが、そうしてさらに全体がよくなっていく。できないことを責めたり、ダメだと思わない。その弱さを受け入れて助け合って励まし合って成長していくことが大事なことで、お互いがそれを認めて理解し共に支え合って行くならば、その弱さは弱さでなくなる。それはやがてエネルギーへと変えられる。さらに共同体は支え合うだけではなく、お互いを励まし合ってあるべき姿へとかえられていく。支えられるだけではなく、手本になったり、刺激になったり、自分が成長できるそういう有機的な共同体を目指しているのがうちのクラブ、そしてそのためのプライオリティはその共同体にどういう人たちが集まっているかと言うことである。

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青春の懺悔録 Let's talk about my confession

2020-01-25 | Weblog
試合の後ピーターとジウンとそして時々その友達たちとお持ち帰りのハンバーガーを食べながら夕暮れの海岸線を、窓を全開にして風にあたりながら80’sの音楽を聴きながら帰る。その車の中で食べるハンバーガーは格別の味であった。

私がスポーツを競技したのは海外であるが、やはりこちらに帰ってきて思うことは、日本と外国ではかなりの温度差があると言うことだ。私から見たら日本人の競技者はお互いがすごく仲がいい、試合後にあいさつに行くのなんてまさにそうだが、試合後談笑なんかしている姿を見ると拍子抜けしてしまう。アジア大会のある競技で中国人に暴言をはかれた時に競技者があれは通訳の間違いで、彼はいいやつだみたいなことを言っていたが、ここまで言ったらスポーツも平和ボケのレベル、私が理解できないのはクラブなどで自分が練習に行かなくては迷惑がかかるという発想である。そこまで連帯意識を求めてどうするんだと思ってしまうが、日本人はいい意味でも悪い意味でも和を尊びすぎる傾向がある。向こうは多民族国家だ、日本人のようにほとんどが同じようなことを考え、行動するとは限らない、それゆえに対立が起きやすい。そういう感覚を日本人は持っていない、そういう視点で見たら何か少し違う。日本人は安易に仲良くしましょうと言いすぎる。

ノーランと言うバンタムからフェザー級あたりのウエイトのボクサーがいた。結構有名なボクサーで、ある時ジョージが彼のトレーナーと仲がいいので彼も含めて4人で食事に行くことになった。昼食をレストランでとったのだが、私とジョージそしてその対面にはノーランとそのトレーナーがすわった。ジョージとそのトレーナーは仲がいいので当然冗談を交えて話をしていたが、しかし私とノーランは口をきくどころか目さえもあわさない、そういう状態が10分、15分と続いて、たまりかねたジョージがはなしをふる。しかし私はその話にも「ああうん」ぐらいで、たぶんその時はお互い敵対心を持っていて、試合も2か月ぐらい前だったのでお互いもし自分のクラスにエントリーして来たら絶対ぶちのめしてやろうぐらいは思っていたと思う。結局スパーを今度やろうということで話しはおさまったが、当時の私は今では考えられないが、大した実力もないのに闘争本能だけは人以上に持っていたと思う。
今考えたら本当にアホだったと思う。それゆえにすごく痛い思いをしてきたことも事実だ。でも宗教や哲学を学び、そして何よりもボクシングを通してリスペクトすることを知ったし、最後は負けてしまったが、そのことを通して自分の小ささを知ることで、人間は無駄に争って生きるよりも助け合って生きるものだと言うことを知ることができたと思う。

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スポーツは修行ではない

2020-01-21 | Weblog
「スポーツは修行ではない」
うちのトレーナーたちは中堅クラスやこれから始めようとする人たちにはいろいろと丁寧にボクシングの技術論を教えてくれるが、ベテランクラスになるとあまり何もいわない。しかし彼らが困った時とか聞いてきた時にしっかりとアドバイスしている頼もしい存在である。私の感想では日本人は競技者を干渉しすぎる。家父長制的で監督がお父さん、競技者をひよっこあつかいし、できる競技者にはうまく譲歩して自分の立場を保っているが、そういう姿は私から言わせてもらえば非常に気持ちがわるい。ひどい奴になると親でも言えないようなことを立場を利用して言う奴もいるが、ここが私が思う日本人の監督の一番考えられないことである。こういう人間が愛のある体罰なんて未だに思っているのだろうが、しかし競技なんて暴力などふるわなくてもほおっておいてもうまくなる、なぜもっと競技者を信じることができないのかと思うのだが、大事なのは楽しくトレーニングできること、そしてそのためにはできるとかできないとかにかかわらずすべての競技者を受け入れて尊重することだ。こういうことを言うと今こういうことをしたら問題になるなんて言うのもいるが、しかし未だにしっかりとそういう村社会は存在する。問題は強くしてくれるためにはとそれを助長する親、少し前に体操で暴力事件があった時に親が納得しているからいいということを暴力を正当化する理由としてあげていたがこういう人間が未だに存在する。しかし一般的に暴力はだめ、そんな自分勝手なことを言っていたら某共産国の指導を正当化することにもなるだろう。私から見たら日本人の多くはスポーツを修行だと思ってる。がしかしスポーツは遊び楽しむこと、大会で優勝するとかしないとかいうのはその先にある話で、最初はスポーツを楽しむことから教える必要があるだろう。

「腹をわって話そうとか」
程度のひくい集団になればなるほど、話し合いや会議で腹をわって言いたいことを言いあおうなんて奇妙なことを言いだす。しかしそんな奇妙なことを言うのは自分に知識や正しいことを判断できるものさしがないからだ。PTAとかの会合で俺は教育のことはわからんがと言ってべらべらとたわいもない昔話を話すおやじ。そもそもわからんかったら話すな、わからんかったら質問しろと思うのだが、腹をわってとかお互いが言いたいことを言うことが公平だと錯覚している日本人はこういう意見を出されると何も言えないのだろうが、しかし私が司会者だったら間違いなく、議論の妨げになるから黙れと言うだろう。建設的な意見は決して言いたいことを言うと言うような恣意的な発想からは生まれにくい。事実そういう発想は単なる徒党をつくるだけ、建設的で公平な意見と言うのはお互いが距離を持ってお互いの知識を共有することによって生まれてくるもので、いわゆるそのことは教育を重んじ、自分のものさしをひろげて公平な考え方を養うことだと思っている。私はコミュニティを正しく公平に導くためにはそのコミュニティが教育的であることだと信じている。そして教育的であるためには指導者が正しいものさしを持つことである。
 

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俺は小説家になる

2020-01-20 | Weblog
ジウンの教会のフライデーナイトと言う学生の集まりによく言っていたのだが、ある時、韓国人の宣教師が来て話をした。そのおやじはイエスが重い病気の寝たきりで立てなかった男を「この男がここに存在しているのは神の栄光が現れるためだ」と言って男をたたせて奇跡をおこしたという聖書の話から病気が治ったとか、歩けない人が歩けるようになったとかめちゃくちゃうさんくさい話をしていた。そしてその後コーヒータイムと言うのがあって、そのおやじは信じない私にさらに信じろとせまってきた。でもあまりに高圧的で宗教や哲学は自分のほうが知っていると思ったので思わず言ってしまった。「あなたの言う奇跡は自分勝手だ。神があらわす奇跡ってそんなんじゃない。人間が弱いと思っていることが実は本当のアドバンテージであって、そこにおいてこそ一番大きな力がはたらくのだ。イエスが当時盲人や病気の一番弱いとされる人間たちに奇跡をあらわしたのはその弱さを通して神の力をあらわすため、それが奇跡だ。決してご利益なんかではない。人間は傷つき、悩み不安を抱えて生きている。けれどもその悩みや不安があるからこそ人にやさしくなれるし、自分が大きく成長できる。障害を持っていてもその人を通して語られる貴重なメッセージがある。」

「劣っていることは不利ではなくむしろ資産である」はアドラーの有名な言葉だが、彼が診療所を開いたころの話だ。その近くには遊園地があってそこで働く大道芸人や軽業師などが診療に来ていたそうである。そして彼が彼ら彼女らの話を聞いてわかったことは彼ら彼女らのそのほとんどが小さい頃から体が弱く、それを克服するためにそのトレーニングに励んで、今の仕事を選んだそうである。人間はだめだと思っているところに関心を持ってそれを克服しようとすれば、逆にそれが自分を成長させる大きな目的になる。私の身近に人と話すのが苦手ひとづきあいがうまくできないと言うコミュ障に近い子供がいる。その子の夢は小説家だそうだが、小説家になりたいと言うのは自分が人とかかわったり、話したりするのが苦手でみじめな思いをしてきたから、もっと自分を表現したいということからであろう。しかし彼がたとえ悔しくてみじめな思いをしたとしても、それは自分に与えられた試練であり、それに関心をもって克服しようとする時、その劣等感が大きな目的、夢へとかわるのだ。確かに以前彼はそのことで悩んでいたが、しかし俺は小説家になると言う夢を持ったことで大きく成長したことは確かなことだ。劣っていたり劣等感があるからこそそこから克服しようとするエネルギーが生れる。人間が劣っている部分はある意味神が与えたギフトかも知れない、その劣った部分に関心を持って、それが大きな目的にかえられるならば、その時その劣った部分であるギフトを通して、メッセージが語られる、それがある意味奇跡なのだろう。

キレて宣教師のおやじを詐欺師呼ばわりした私はてっきりジウンにおこられると思っていた。しかしその帰りに彼女がひとこと「今日のあなたの話、私はよかったよ」とにっこり笑って言ってくれたことを思い出す。ひょっとして私は彼女の言うように見える人なのかも知れない。そのジウンに神様を信じるかと聞かれて「絶対者の存在は信じるかも。でも特定の宗教にこだわりはないし、特にあのおっさんの言葉は信じない」と言ったが、私自身この世界には何か大きなものがあることは認めている。

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그 거리 ジョージに捧ぐ

2020-01-18 | Weblog
今日はジョージに捧ぐと言うことで4月に書いた記事をのせたい。

今日ハワイアントーナメントのファイナルの組み合わせがファイスブックの記事に。そういえばここに出てたんだよなとノスタルジアにふける。小さな島なので大したことではないが、しかしこんな才能がないケグジェンイな人間を二人三脚で導いてくれたジョージとアレンには感謝している。

ジョージの正式名はジョージタナベ、日系人だ。ジョージとの出会いはカラカウアジム、ヒスパニックの人間とスパーをした時全然相手にならなくて、悔しくて悔しくてなぜかリングを見ていたら声をかけてきてくれたのがジョージであった。ジョージは謎多き人物だ。まわりの聞く話によると彼はボクサー時代は才能があってオリンピック候補にもあがるほどのボクサーであったらしい。でも素行が悪いのか何か事件をおこしたのかはわからないがはずされたと言っていた。その後はギャンブラーとなってハチャメチャな生き方をしてきたジョージ、私と同じぐらいの年の娘がいると言っていたが、しかしその娘とは合わせてもらえないそうである。私はなぜかジョージとはウマが合った。彼が私を気に入ったのは私がやんちゃ坊主だからと言っていたが、ジョージ曰く「ボクシングはホクのような人間はだめだ。お前のように少々やんちゃ坊主でないと強くなれない」そうである。韓国ではやんちゃ坊主をケグジェンイと言うが、これは実際にジウンによく言われた言葉である。しかしやんちゃと言っても威嚇するためにド派手なファッションに身をつつんだり、髪を染めたり、けんかをしたりしていきがるようなやんちゃさではなく(DQNのやんちゃは犯罪)、私の場合は自己主張がすぎるということだ。言わなくていいことを言ったり主張する。まわりのことを少しは見ろよと思うのだが、ベトナムの帰還兵をおこらせたり、元チャンピオンをブチ切れさせたり、挙句のはてにはクラブの連中の前で、まけたらお前らの視界から消えてやると優勝宣言をする。本当に今考えたら病気だったと認める。でもこんな人間だったから彼とはウマが合ったのだと思うのだが、そのおかげて私はジョージのボクシングを理解できて才能はまったくなかったが、それでも十分すぎるぐらいの実力は発揮できたと、今考えたらそう思える。私のボクシング人生はすごく楽しかった。失敗もしたし、くやしい思いもした、そして最後にはまけてしまったが、しかしジョージと歩んだその競技人生は自分にとってドラマのようであったし、充実していたと思う。

当時のハワイのトレーナーは競技者のことをボーイと呼んでいた。ボーイと言うのは私の息子と言うことだ。でもボーイと言っても日本の監督のように競技者をひょっこあつかいするのではなく、リスペクトをこめて対等にあつかってくれるそういう関係である。競技は思い切りしかったり、しらじらしくほめれば上達するが、人間の心や人格というのはリスペクトされなくては育たないし、競技そのものが本当の意味で充実したものにならないだろう。その競技をやってよかったと思うのはそこにお互いをリスペクトする気持ちがあるからだ。おそらく私が人として成長できたのはこのリスペクトがあったからだ、だから私は彼が私にそうしてきたようにここに来ている人たちを子供から大人まで心からリスペクトしたいと思っているが、それが私の方針ジョージから教えられたことだ。

笑い話でいいことだと思ってはいないが、私もジョージもまっすぐには走れない、人とは違った方向に走るハチャメチャな人間、いわゆる病気である。私たちはまっすぐ走れないやつらのコンビだったと思う。そのジョージは今はいない。おそらく私の存在と言うのはおそろしく強烈だったので、その時までわすれることはなかったと思うが、それは私も同じである。


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異国でボクシング

2020-01-17 | Weblog
今日は思い出に残る対戦相手を紹介したい。まずヒスパニックの人間。ヒスパニック系の人間はバランスがよくてフックが強い、人によってはスイッチしてうってきたり、スマッシュ気味にうってくるのだが、私が最初にヒスパニック系の人間と対戦した時1ラウンドのものの20秒ぐらいでダウンをくらった。多分フックかスマッシュだと思うのだが、そのパンチが見えなかった。立ち上がる時、思わず18と言ってしまったがおおげさに言えばフックかスマッシュが電光石火のごとくスパッと入ってくる。ただフックはいきなりうつということはない、スイッチしてきたときにうってきたり、ワンツーのコンビネーションからうってくるのがほとんどなので、それを警戒したら回避することができたが、こいつに勝つにはリズムをあたえてはだめだ、先手必勝と言うか、うつ前になんとかしなくてはと思い、彼が体をふって後方に傾いた時にうっていったらリズムをくずし、なんとか勝利したが、ヒスパニック系の人間はリズムをくずすとよわくなるのが私の印象である。

スパーであたった白人、ジャブがすごく強い、なんじゃこれはと言うような痛さ。そしてそういうジャブをうつやつに限って手が長い、私のチームメイトで友人のバーガーも手が長くて同じようなタイプであったが、その何十倍も強くて速かった。ジャブをある程度うってコンビネーションをたたみかけるようにうってくるのだが、ジャブをあれだけうまくうたれたらさすがにもらってしまう。彼はうつ時ボール(母指球)を踏むようにして軸足をつくってくるので最小限の踏み込みにとどまるからつづけてストレートがうちやすい、そして最小限の踏み込みであれだけ強いジャブをうてるのはスナップが強いからだとジョージは言っていた。キックボクシングだったらそのジャブをうたせないようにローキックで軸足をいためつけたらいいのだろうが、もちろんそんなことはできるはずはない。ジョージはまっすぐしかうてないお前には一番やりにくいタイプだと言っていた。彼とはひとつ階級が違うのであたることはなかったが、対戦して攻略したかった人間のひとりだ。

私は決して才能があったわけではないので、試合では結構苦戦した。試合がおわると毎回体にあざができて、それを何回も繰り返してきたのだから、その代償は大きく、なぐられなかったらハーバードにでも行けたかもしれない。


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 그 여잔 웁니다

2020-01-16 | Weblog
ホテルの一番上のフロアにあるクラブ、今はあるかどうかわからないが、確か入場料は5ドルぐらい、当時ここは眺めがすごくきれいなので、時々ひとりでそこに行って飲めないビアーをたのんでちびちびと飲みながら夜景を見ていた。ある時私がちびちびとビアーを飲みながら夜景を見ていると後ろから声をかけられる。振り向くとそこには一人の日本人女性が立っていた。「一緒に踊りませんか?」「いやここにいたいから(本当はローカルのようにかっこよく踊れません)」「ハワイの方ですよね」「いいえ」「えっじゃあどこの国ですか?」「一応日本人です(この前ローカルのやつにフィリピン人にまちがえられましたが)」そこから安心したのかどっと話しかけてきた。聞く話によると彼女は東京の人で社会人。下の名前はYumiさんと言う。のちに聞いて分かったことだが、ここには失恋旅行でひとりで来たようであった。そして翌日の日曜日に食事に誘われアラモアナに行くことになったが、そこで彼女の闇があらわに。最初は私に気をつかって一生懸命明るく振舞おうとしていたのが、しかしたぶんすごく失恋のショックが大きかったのだろうか、私は無理をしている彼女がかわいそうになって、そのわかれた理由やその付き合った男のことを聞いた。彼女は日本人いありがちな献身的な女性で、その献身的であるがゆえに男性に利用されて結局すてられたようであった。話を聞いて、確かにその男もわるいと言えばわるい。でも結果的に彼女は自分の人生を他人にのせようとしている。他人にのせようとしているから相手に利用されるのだろうと思うし、相手に何か献身的にやることだって、その人をつなぎ留めておくためのことで、結局自分の生き方に自分で責任がとれないから相手に依存しているだけだ。そしてなんとなく依存されてるなあと思い始め、気分転換に近くのワードウエアハウスに行って、さあもう遅いから帰ろうという時に、私のことを気に入ってくれたのだろうか彼女が私が学生でお金がないからと言って、社会人になってからでいいからと、トラベラーズチエック10万円ぐらいと現金300ドルぐらいを貸してあげるつかってくれと言ってきた。でもこんなお金をあまり知らない人から借りるのもおかしいし自分をつなぎとめるためだと思ったので、その時私は思わず「君そんなことしてきてだまされてきたんやろ」と言ってしまった。たぶんとどめに「自分を安売りするな」と言ったかも知れない。そしたらその時警備員が来るんじゃないかと言うぐらいの勢いでワーッと泣き出すので、私は自分の保身のために警備員が来るから泣きやめと思わず言ったら、号泣してたのをとめてすすり泣くように泣いていたが、あの時はマグショットをとられるんじゃないかとあせった。でもその時思ったのは彼女は自分の生き方に責任をとっていない、人に自分の人生をあずけようとしているだけだと言うことだ。誰でも自分のために生きているのだから、人に自分の人生なんかあずけても本当の意味では幸せにはならない。大事なのはその人生は自分が与えられたもので、自分しか責任をとることができないということだ。そして泣きやもうとしている彼女に君は美人だし、まだまだ若いし可能性がある。自分の道を切り開いていけるのに、そんなしょうむない奴なんかにあわせて君の人生をだいなしにするなよ。自信を持って人に依存なんかするな、人に左右されるな、もう二度と会うことはないやろうががんばってくれと言うようなことを言って握手してハグしてわかれた。

西洋の有名なことわざに「結婚とはお互いを向き合うことではなく二人が同じ方向を見ることだ」と言うのがある。同じ方向と言うのはここでは神のことだが、大事なことはまっすぐとひとつの方向に向かって歩んでいくということで、それは自分の足でということである。えらそうに言わせてもらうが納得した人生を歩みたかったら、その人生は自分だけが与えられたものであり、それは自分しか責任をとることができないということを知ることだ。それはたとえ夫婦関係であってもただお互いを見つめあうだけでは不平不満しかでてこないし、その関係はもろくくずれやすいであろう。けれどもその人生は自分が与えられたもので、自分がその生き方に責任をもって自分の足で歩んでいくことでお互いの価値がわかり、尊敬したり尊重したりできる関係になるのではないかと思っている。

私は知能は高いほうだが、アスペの傾向が強い、所謂社会不適合型である。たぶんもっと偉い地位を求めていたら、ある程度そうなっていただろうという自信はある。でも自分はそういう組織の中では生きていけないし、自分らしさを発揮できない、だから自分は自由な生き方を選んだのだ。ここに来たのも自分の意志であるし、私は人にぶら下がったり、人の人生に自分をのせたりしない、私なりに自分の生き方に責任をとって歩んできたことは確かである。だから今ようやく自分の生き方がかたちになってきたように思える。どこにも属さない、いやなものはいや、うっとうしいやつはうっとうしい、すごくわがままで自由奔放すぎる生き方であるが、でも今これが自分の生き方だと言えるような気がする。



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Its bugging me! 지겨워 うざい

2020-01-15 | Weblog
「言っていることが結果的にでたらめかうそ」
悪い人でもないのだろうが、言っていることが結果的にでたらめかうそになる人間、言うことも正論を言っているようだが、しかしまわりが納得していない。こういう人間はたいした知識もなく、あいてを丸め込むような言い方をしてくるのだが、誠実な人は寡黙である。たいした教養もないのにわかったようにべらべらとまくしたてる人間は信じて結果的にはいいことはないので、相手にしない方が懸命だ。

「知っていると言うことでマウントをとる人間」
知っていると言うことが賢いことだと思い、それでマウントをとろうとする人間、本当にうざい。こういう人間のソースは往々にして漫画かテレビ、その程度の内容でも知っていると言うことをちけひらかして、俺は賢いんだと勘違い。でもそういう知っていると言うことをちけひらかすだけでは話につながりがないし、おもしろくもない、本当に賢い人は思考できるから話がおもしろく、興味がもてるのであって、ただ知っていると言うことを言うだけなら子供でもできる。大事なのは思考する能力、知識をたくさん蓄えて、思考して話をするからこそためになる面白いはなしができる。ただ知っていると言うことをいうのとはまったく違う。思考すると言うことは大事なことだ、それが正しいかどうか、適切か不適切かと言うのは思考するからこそわかることであって、それはコミュニティの質を問う上でも大事なことだ。

「みんながみんなそうじゃないと言う人間」
人間は社会的動物である。ゆえに基準と言うものを持って生きている。ド派手な格好で改造車にのって武勇伝でマウントをとろうとする人間にろくな人間はいないと言ったらみんながみんなそうじゃないのではなくて、大事なのは正しさの基準を持っているかどうかということ、そのコミュニティによって違いはあるのだろうが、うちのクラブに来たらわかると思うのだが、そういう類の人間はほぼいない。それはうちのクラブにはある程度正しさの基準と言うものが存在するからだ。どういう人が集まっているかと言うこと=そのクラブの質である。私はうさんくさい集団はグレーゾーンが多いと理解しているが、それはきちんとした哲学や思想がないからだ。しっかりとした哲学をもてばきちんとした人たちが集まってくる。そして結果的に秩序が保たれてまわりの人間も安心してトレーニングできる。張り子の虎のような威厳やアホなルールでそのコミュニティを運営するのは愚かで、そういう群れにはそれなりの人間しか集まってこない、大人が集まってくるコミュニティを形成するにはしっかりとした考え方を持って、これはおかしいだめだという正しさの基準を持つことが必要だと思っている。



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与えることができたら、その群れは生きる

2020-01-10 | Weblog
大学時代に感銘をうけたヴィクトールフランクルの言葉にこういう言葉がある。彼はアウシュビッツを経験したユダヤ人であるがそのアウシュビッツを振りかえってこう言っている「We who lived in concentration camps can remember the men who walked through the huts comforting others, giving away their last piece of bread. They may have been few in number, but they offer sufficient proof that everything can be taken from a man but one thing: the last of human freedoms - to choose one's attitude in any given set of circumstances - to choose one's own way.」直訳すると「強制収容所で生活した我々は、他の人々を元気付けたり、パンの最後の一切れをあげたりして小屋をめぐり歩いていた人々を思い出すことができる。そういう人々はごくわずかだったかも知れないが、彼らは十分な証明となる、人間からすべてを奪い尽くそうとしても尽くしえない一つのものがあるということの。それは、与えられたどのような環境のなかでも自分の態度を選ぶ、自分自身の生き様を選ぶという人間の最後の自由だ。」
すごく高尚な言葉である。おそらくそういう態度を毅然としてとることが我々のようなビジネスでつながっているわけでもない、ボランティアの要素の強いコミュニティにおいて責任者が求められる態度だと思っている。ビクトール、フランクルはユダヤ人であり、もちろん彼は大いにユダヤ教の影響を受けている。彼ら彼女らが使っている言葉はヘブライ語であるが、そのヘブライ語で愛するに値する言葉は二つある。ヘセドとアハバーという言葉で、いずれも日本語では単純に愛と訳されるが、しかしその意味が違う。まずヘセドであるがこれは契約という概念によって成り立つ愛である。まさに結婚はそうであるが、これは相手が自分のことを愛してくれるから自分も愛することができる、そういう相互関係、ギヴアンドテイクの愛だ。しかしアハバーという言葉は一方的な愛、相手がどうであろうがひたすらその相手のことを思い愛する宗教的に言えば究極の愛である。おそらくフランクルの自分の態度を選ぶ人間最後の自由というのは、アハバー的な愛に立ち返ること、人に何かを与えることだ。そういう絶望的な中でそういう態度をとることで自分自身が解放され自由になれると感じ取ったのだろう。きれいごとのように聞こえるが、確かに人を愛すること与えることは大きな力になる。子供や家族のためにたいていの人は自分の命さえも投げ出すことができる、そしてその犠牲を誰も無駄であるとか思わないだろう、なぜなら子供や家族を愛するからだ。
まあジムはアウシュビッツのようなところでは決してないが、この与えることができるかどうかということでかなり雰囲気やジムにおける安心感も違ってくると思う。自分のことしか考えていない自分ファーストという考えしかできないような人間が集まってくるとクラブの人間関係も決してよくならないし、みんなが安心して楽しくトレーニングできる場にはならないだろう。トレーナーでも金をもらわないと教えないとか、特別感をだせるから、あるいは立場を利用して自慢したり、偉そうにできるから、教えてて優越感にひたれるからというようなけちな考え方ではクラブの雰囲気はすごくわるくなる。私の見解ではそういう奴のたいていは世の中ではたいしたことがない、だからジムにそういうものを求めてくるのだと思っている。トレーナーのような人をひっぱっていったり導いていくような立場は自分ファーストではダメ、ある程度自己犠牲が求められる。そうでないとまわりはついてこない。うちのクラブはそういう人に与えることができる余裕のある人間が教えてくれているので雰囲気がいいと僭越ながら言わせていただくが、現にそういうことをやってくれているので、まわりもそうなってくる。誰からも言われたわけでもないのにまわりの人たちもビギナーの人たちに教えてくれたり、ミットを持ってくれたりとトレーニングだけではなく、そういう人に何かをするということでも喜びを感じてくれていることは本当に光栄なことであり、そういうことがさらにクラブの雰囲気をよくし、誰でも気軽にトレーニングできる場になりうるのだと思っている。

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