脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

選手を「IT」と呼ぶ奴。

2012-04-30 | Weblog
前回のブログで先進国ではボクシングが、医学上の問題あるいは人権の問題などを受けて衰退しているというようなことを書いたが、英語などが読める人は英語で調べてみたらいいと思うが、確かに欧米などのボクシングに対するバッシングと言うのは強く、特に医師会などが危険視していることにより、競技人口が衰退していると思うのだが、以前英国で、医師会がヘッドギアはむしろ視野を狭め脳への衝撃を増幅させるというような考え方から、ヘッドギアの着用の禁止をもとめたらしいが、ここまで医師会がボクシングを危険だと見なし、いろいろなかたちで制限しようとしているのだから、今後英国で廃止になる可能性はないとは言えない。

私がバカだと思っている考え方は、将来のオリンピック選手に向けて、子供のうちから鍛えて予備軍をつくるという考え方である。
おそらくこういう考え方は、多少なりともコモンセンスを持っていれば、的をはずれた考え方かと言うことがわかることであるが、医学的な見地からボクシングと言うスポーツを見ると、それがいかに危険かと言うことが分かる。
私自身レポートを書く必要があるので、英語の文献だがいろいろと資料を読んでいるが、読めば読むほど脳に打撃をくわえることは危険で、特に子供にボクシングをさせると言うことは、将来的になんらかの影響があってもおかしくないと言うことが分かるが、常識的に考えてスポーツと言えどなぐりあいを競技目的で小中学校にクラブとして設立させることは問題があると思うが、もう少し子供の発達や脳、そしてさらに言うならば心理学的なことも含めて実際になぐりあうと行為が、今の段階で必要なことかどうか理想論や主観ではなく、学問的なものさしをもって考えなくてはいけないと思うが、それは当たり前のことではないだろうか。

ボクシングは子供にさせるには不適切なスポーツである。ちょっと鍛えるとか自信をつけさせるという程度の考え方で、競技させるスポーツではない。
しかしそれがすべてだと言うような考え方の人間は、自分の生きてきた世界が正しいと思っているので、常識とか世論がどうだと言ってもわからない。ひどい奴になるとそういうことに逆行することがかっこいい、自分の信念を貫くことだと思っているが、しかし冷静に考えて、特に脳や体をふくめた子供の発達や心の問題は、ある程度学問的な考察が必要だ、子供の脳や骨その他の体の機能は大人とどう違うのか、そしてなぜ子供にコンタクトスポーツとしてボクシングさせることは危険なのか、これらのことは子供を預かる以上は、最低でも知っておかなくてはいけない事柄であり、それらについてはよく勉強しておかなくてはいけないことであろう。

私の正直な感想として思うことだが、ボクシングは保守的で倫理的観念がひくい。
これはある学生から聞いたことであるが、ボクシングには規則があって髪の毛が耳にかかったり、眉毛にかかったら試合に出れないという規則がある。
ある試合で髪の毛が少し伸びていた選手がいたらしい。まあ規則なので出場できないのは仕方がないと思うが、しかし彼が言うにはその監督か委員かはわからないが、その髪の毛が伸びていた人間を一喝してその場で切らせたそうだが、この行為を当たり前だと感じるほど私は無神経ではない。
こういう世界にどっぷりつかった人間は「人前でおこられ髪の毛を切らされることをルールを守っていないから当たり前だ、むしろ出場させてもらえたことに感謝しろ」と言うが、しかし何か違う、少なくとも私は受け入れることはできない。
まあ聞いた話なので、はっきりとは言えないが、しかしそういうことがあってもおかしくないと言う雰囲気はある。
たわいもないことを平気で人前でおこる。よその選手を偉そうに呼び捨てにするのは当たり前、おいとかそことか物扱いであるが、ひどい奴になるとリングサイドからたいしたことでもないのに権威を見せつけるために注意するのだが、最近学校でも人権問題にうるさいのでこういうことは言わないと思うが、こういう奴らにサルのような秩序はわかっても、倫理や人権と言うものがわかるのかは疑問である。
英語ではおいそこの「そこ」にあたる言葉はない。
たぶんそこと訳しても通じないと思うが、しかしもし人に対して「it」などと言う言葉を使ったら大問題である。
昔話題になった多重人格をあつかった心理学の本で「it」と言うのがあったが、この題名は、親から人格を無視されていた多重人格者が親が自分のことを「it」と読んでいたということから来ているが、こういう言葉が平気で使われるということは倫理観がひくいと疑われても仕方がないことであるが、日本の会場ではアスリートのことを「it」と呼ぶ監督もいると外国人に言えば間違いなく驚かれる、間違いなく人種差別主義者に等しいような目でみられるであろう。

個人的な意見かもしれないが、時々この世界は倫理観がひくい奴が目立つ。
あと教育的配慮にかけると思わされることがしばしばあるのだが、このブログはかなり多くの人が見ているので、ここで書くと問題になるのでふせておくが「えっほんとかよ」と驚きを通り越してあきれるようなこともよく聞いたが、それらのことはたとえ証拠がなかっても火のないところには煙はたたずで、こういう人間に倫理観や教育的配慮を求めることは不可能に近いことだが、こういう奴らが本当に子供の発達のことを考えているかどうか疑わしい。
私のこれだけは信用できるというところは、性的に勘違いされるようなことはしないということである。
1年に1、2回社会人の試合に出場するが、その時私は仕事の関係もあって宿泊は大阪にするが、夜キャバクラなどに友達と行ったこともないし、飲みにも行くことはない。なぜなら試合はみんなある程度節制しているし、仕事でここに来ているという認識があるからであるが、こういうことを勘違いされないと言うのが私のひとつの倫理観でもあるが、柔道事件にもあるようにこういうことで一線を越えるバカがいるからおそろしい。

子供にボクシングを競技としてさせるということに、どういう倫理観や教育的配慮があるのかはわからないが、以前私がそういう問題を指摘したときに匿名の電話があって、そんなことは責任者に聞いてくれと言ったら、責任者はそんなむずかしいことはわからないだから聞いているというようなことを言っていたが、そんな大事なことはわからないじゃなくて調べろ、勉強しろであるが、こういう無学な奴がよくわからずになぐりあいをさせているからおそろしい。
子供をあずかるということはこういうケガや成長などの面も注意して指導しなければならない。
特にボクシングはなぐりあいをさせるわけであるから、将来的にもどういうかたちで頭に影響して来るかわからない。
しかし興味がないのか、分かっているのだろうか、正直何も考えていないと言うのが現状ではないかと思う。
最近ボクシングはこわいというイメージを払しょくさせるために、スナックでもあるまいし、私たちはわきあいあいとたのしくやってまーすというような雰囲気を見せるような奴もいるが、しかしバカなことを言って同じ程度の人間をあつめるよりも、以前言った学力と倫理的な基準をあげていくことが大事だと思うが、スポーツ界でいろいろと不祥事が起こる中で、しっかりとこのことを学び、実践していくことが信用につながるのではないだろうか。
またこのことについては今度書きたいが、そういう「ethics」の問題なんかはボクシングと言う危険なスポーツをしているからこそ、考える機会が多いと思うのだが、子供のボクシングもしかり、そういう倫理基準と言うものを踏まえて議論していく必要があると思うのだが、そういう必要なことを考えていくことでかなり洗練されていくと思うが、これらはボクシングと言うスポーツを競技するからこそ問題意識が持てるのである。

体育会の言う礼儀なんて言うのはやくざや暴走族でももてる。
それよりも大事なことは自分たちが倫理的な基準を持つと言うことで、そのことを知るために学ぶと言うことである。
やくざは親分子分の関係をよりタイトなものにするために礼儀を重んじるそこだけの礼儀であるが、しかし倫理学を学ぶということは個人とそしてその個人を取り巻く人間のかかわりの中で見て行かなくてはならない問題でもある。
もうそろそろやくざのようなシステムから脱却しなくてはならない。
チワーッスなどという程度のひくい言葉をつかわない正しい日本語をつかう。そして自分たちのスタンダードではなく世の中そして人権の問題も含めてグローバルスタンダードで倫理と言うものを考えていく必要がある。
















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自分たちのルールをおしつけてみたら

2012-04-26 | Weblog
前回日記で書いたアマチュアボクシングの現状だが、日記でも書いたようにアメリカやヨーロッパなどの先進国は人権や医学的な問題から、今後ボクシングが衰退していくことは予想されるであろう。
しかし気になるのが中国である。
今まで決して盛んとは言えなかったボクシングが、北京オリンピックを期に盛んになり、メダルもいくつか獲得している。
中国人で卓球やバトミントンをやっていたというような話はよく聞くが、俺はボクシングをやっていたなんていう話は聞いたことがない。少し前まではボクシングを禁止していたと聞いたが、ここまで急に盛んになってきたのは不自然なようにさえ感じるが、おそらくその裏にはボクシングはアメリカやキューバが衰退して、メダルがとりやすくなったので、北京オリンピックでなるべく多くのメダルを獲得して、自分たちのメンツを保つためにボクシングを奨励したと思っている。

スポーツと言うのは全般的にそういう一面を持っているが、しかしボクシングに関して言えばダークサイドをあわせもったスポーツだとも言えるだろう。
大きい事件では最近AIBAの会長が裏金をもらっていたことが問題になったという話があったが、私自身もこのスポーツに関わってきて、スポーツとしてのボクシングは素晴らしいが、しかしそれが団体などになると、かなりの不公平さを感じさせられることもあるのだが、このスポーツは何とも言えない灰色の部分が多いことも確かである。

1988年にソウルオリンピックが開催された時に、韓国の選手のコーチが判定を不服として、審判に猛講義最後には乱闘になり、試合が中断となった事件があった。
AIBAは暴力をふるった5人のコーチに未期限の出場資格の停止の処分を下したそうであるが、この事件は一般的にオリンピックと言う歴史的な大舞台でおこした韓国選手たちの暴挙として挙げられている。
しかし私が言うのも何であるが、この事件を一方的に韓国側の暴挙として取り上げるのも不公平だ。
確かにああいう競技の場で乱闘事件を起こすというのは言語道断であるが、しかし判定を不服とするにはそれなりの理由があってもおかしくない、そうでなければあれだけの暴挙に出るはずもないと思っている。
記者会見ではあの7億円を不正融資として受け取った疑惑のチョードリーが、なまりのつよい英語で会見していたが、なぜこういう事態が起こったのかと言うことに関しては一切ふれず、ただそういう不祥事があったということで、こういう処罰を与えたということを伝えただけである。
なぜこういうことを言うかと言うとボクシングの判定を巡ってはいろいろと疑惑があり、それはアマチュアボクシングとはいえその判定の仕方は決してクリアなものではないと思っているからだ。
最近では採点方式と言うのが採用されて、よりクリアになったことは確かであるが、しかし判定は人間がするので完璧なものとは言えない。意図的なものがはたらけば、当然一方を有利にすることができると思うのだが、ソウルの事件は、そういう不信と言うか、疑心暗鬼が引き起こしたものであると言っても言い過ぎではないと思う。

アマチュアボクシングは、倒すことよりもポイント重視なので、KOとかRSCよりもほとんどが判定の試合になってくると思うのだが、さらに判定の基準と言うのが問題になってくる、いやなってきてもおかしくはない、おそらくこの事件はもう古いが判定に関してはかなり疑惑と言うか、すっきりしないものがあると思う。
正直な話私はアマチュアボクシングは公平だとは思ってはいない。
どこどこの派閥が判定で有利だとか、プロのジムを目の敵にしているので、自分たちの息がかかっていないプロジムの選手にはかなり厳しく反則をとるとか、私自身もこれはおらが村だからできる不正やろということを知っているが、このことはいつ誰がどこで、誰にどのようなことを言ったかということをはっきり言えるが、そういう話をよく聞くからだ。
だからオリンピックや国際大会なんかも、公平にジャッジがくだされることはないというような見方を持っていた方が賢明であると思うのだ。
これは中国には失礼だが、北京オリンピック以来中国はボクシングに力を入れ、台頭してきているらしいが、正直言って不自然である。中国はよく人権問題でたたかれているが、そういう国家に平等で公平なスポーツマンシップが望めるのだろうか、確かに経済などの発展は目覚ましいが、中国はまだまだ人権が本当の意味で守られていない、そういう国が自分たちの国益を考えずにスポーツマンシップにのっとってなどということができるかどうか疑わしいが、当然この国が幅を利かせてくるとアジア大会などの大会にも影響して来るであろう。

スポーツと言うのはある意味政治、外交である。特にオリンピックなどは国と国の威信をかけた戦いである。
そういう戦いに国益を考えない人間はいない、だから国家や政治がからんでくるのだと思うが、よく言うがこういう現実を考えて英語が話せないのでは、アドヴァンテージなどとれるはずがない、英語をおぼえて発言しイニシアティブをとり自分たちの立場を有利にしていくこともこれからは必要だ。バレーボールや柔道なんかはまさに英語が話せないので、日本人が理事になれず、ルールをどんどん変えられて不利になっていったということを聞くが、これからのスポーツ界も英語を話して、国際社会で発言できる人材をつくる必要があるのではないか。
こっちも 英語を話して、彼ら彼女らのように難癖をつけて強引に話を進めて行って、皮肉ではあるがあの日本独特の厳しいルールを採用したら、あんなルールに対応できる外国人はいない、ついでにあの試合前と試合後の礼を義務付けてやったら完璧だ、まちがいなく金メダルが取れるであろう。これがルールだとあのがんじがらめのルールを適用させてやればいい。
しかしそういうことを日本の選手におしつけることができても、国際社会では何もできないのは情けない話だ。
アメリカは国際的な試合だと少々強引でダーティーなやり方をしてくるが、しかし国内の競技はいたって公平、日本のようにくだらない派閥があってそいつらが偉そうに牛耳っているということはない。むしろ競技では外国人の私が公平な扱いを受け、楽しく競技できたことは感謝している。
しかし日本は逆、国内では仲間を集めて結託して、権威を振りかざして、不公平とも思えるような扱いをうけることもあるが、しかし外国ではおとなしくむしろ徹底したスポーツマンシップにのっとるが、こんなものは偉いとは思わない、むしろ日本でやっている同じことをしてやればいくらか国益にもなる。リングサイドから礼儀がなっていない外国人を日本人のように叱責すればいい、お前ら靴の揃え方がわるいとか、あいさつしろとかジュニアオリンピックで言ってやったらどうだろうか。できればの話だが、そのためには英語を勉強して、発言する訓練をすることが不可欠だ。


 









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高知のボクシングジムMTオリーブボクシングクラブの日記 4月24日

2012-04-25 | Weblog
今日も夜の部はかなり多くの人でにぎわいました。
入会や問い合わせも多くあり、5月はかなり新しい人が増えそうです。
来月は女性の入会者が増えそうなので、ダイエットに力を入れたいと思っています。
ダイエットと言うのは女性にとって深刻な悩み、そのため資料を集めたりして、なるべく女性の要望に応えたいと思っています。
間だいぶ前にブログでもあげましたテレビでも有名な人が、スポーツトレーニングやダイエットのことでは協力してくださるとのことですので、聞いてみたいと思っています。

最近読んだ記事ですが、AIBAがプロフェッショナルボクシングの国際大会を2010年から企画そして実施しているそうです。
ルールは団体戦と個人戦に分かれていて、団体戦は5ラウンド採点はアマチュア方式に近く、ヘッドガードの着用はしないそうです。これってベースボールのぱくりのように思えて仕方がないのですが、AIBAがこういうことを企画するのだからアマチュアボクシングの人気はここまで低迷しているのかと不安になります。
この記事が読みたければAIBAのホームページを見たら書いてあります。
英語ですがさほど難しい分ではないので、辞書を使えば読めると思います。
少し消極的な意見ですが、このAIBAに男性と女性のランキングがあるのですが、このランキングにはアメリカをはじめとする先進国の名前はさほど多く見られません。おそらく先進国では、ボクシング廃止論などの影響をうけて、かなりマイナーになってきたのだと思いますがみなさんはどうとらえるでしょうか。
おそらくAIBAがこのような企画をしたのもアマチュアボクシングは衰退しているからで、もはやその人気を取り戻せるのはプロフェッショナルのような華やかさをもって競技することだと思ったのでしょうか。
おそらくアマチュアは医師などの団体がにらみを利かせているので、アマチュアは安全第一ですから、人気優先ということで華やかなボクシングをさせることはできないでしょう。
私の推測では今後10年ボクシングは先進国が、世論上の問題もあって、今までのように幅をきかせるということはなくなり、衰退の一途をたどると思います。そしてこの機会に日本も力をそそいだらメダルを取ることも夢ではありませんが、しかし子供のうちから予備軍にして鍛え上げるということは、医学上あるいは人権上の問題もあり、先進国の立場としてすべきことではないでしょう。
先進国と発展途上国のボクシングの受け取り方は違いますが、少なくともこの今の日本の社会で、子供に殴り合いをさせて予備軍にするという考えは時代を逆行した考えだと思います。
今後AIBAがこのことに危機感を感じて、競技を開催することに意味がなくなって来たら、巻き返しをはかるために、オリンピックとともにまずは6回戦までとか言ってプロの参加を認め、アマチュアを事実上消し去ってしまうのではと言う大胆な推測をしています。まあこれはかなり大胆な推理ですが、しかしアメリカやヨーロッパなどの先進国は衰退の一途をたどるので、日本にもチャンスは生まれることは確かだと思います。
今はプロとアマチュアは違うなんて言っているけど、しかし英語でアマチュアボクシングの現状を見たら、いかに中途半端な位置にいるかということがわかります。
こんなことを言うと、関係者に何を言っているんだという人間もいるでしょうが「can you read english」と聞きたいですが、今の時代は英語が必須条件で、それが読めなければわからない理解できないことが多く、少なくとも英語を理解して情報を集めて分析することができないと、国際社会にはついてはいけないと思います。






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ボクシングと営業

2012-04-24 | Weblog
以前あげた「考えよ」という本だがサッカーのファンは結構読んでいるらしい。
サッカーに興味のある人はもちろんのこと、スポーツする人にはお勧めの本である。
この本の中で著者は現代のサッカーについて、最近のサッカーはスポンサーなどの問題もあって、勝利至上主義になりつつあるというようなことを言っていた。
実際フィールドでは11対11の選手が戦っているのではなく、スポンサーを通じて闘っている商業サッカーになりつつある。
そういう商業サッカーが支配するともはや古代コロッセウムのように勝利だけが求められ、騎士道のような美しさや、サッカーの中身が問われない、それが現代サッカーのおかれた状況であるというようなことを言っていたが、この言葉はまさに我々がこの先むかっていかなくてはいけない方向性を示唆しているのだと思う。

おそらく21世紀はスポーツの在り方や、かかわり方と言うのも変わってくるのだろう。
スポーツももはや語学なども含めて学力が要求される時代であるということを書いたが、そうなると当然その考え方やあり方、ポリシーも問われるわけで、この著者が言ったことばと言うのは立ち返るべき原点となりうるであろう。

これはあるスポーツ学の先生が言っていたことであるが、アメリカではスポーツを競技する時、そのスポーツを日本のように刹那的にとらえるのではなく、長い人生の中で今自分はどの位置にいるのか、そしてそのスポーツを通して将来自分はどうなりたいか、あるいはどうあるべきかと言うことを問うと言っていたが、たぶんこういう考え方はまだまだ今の日本は浸透していないように思える。

私は時々若い人にボクシングは遊びだというが、それはボクシングを軽く見ろということではない。
実際それに付けくわえて「たかだかボクシング、されどボクシング」だということを言うが、それはそのスポーツが競技の仕方とかかかわりかたによって、それがかけがえのないスポーツになりうるからだが、遊びと言うのは夢中になれることである。
その夢中になれることで、日常のいろいろなことから解放されて豊かになっていく、スポーツには本来そういう目的があると私は信じている。
スポーツと言うのは所詮遊びである。プロスポーツはどうかわからないが、アマチュアスポーツはそれが本来やるべきことではなく、ほかにもっとやるべきことがある。それは社会人であったり、学生であったりと、立場は違うがそれぞれのおかれた状況の中で精一杯力を尽くして努力し、楽しむことができるからこそそれが生きてくるのではないだろうか。

これは私の友人の話だが、彼は学生時代にボクシングをしていたらしい。
競技したと言っても彼は才能がなく試合もしても連敗続きで、勝った試合などひとつかふたつぐらいである。
しかし彼はボクシングが好きで、その話を営業の相手にするそうだ、話す内容はそういう負けの話ばかりであるが「ほら自分こんなにリーチがないんですよ。これじゃあぼこぼこにされるのは目に見えてるじゃないですか」と言うような感じではなすのだが、その彼の負けっぷりの良さと、楽しそうに語る姿にひかれて格闘技好きのお客さんは、楽しそうに話を聞いてくれるそうであるが、中には「俺もがんばらなあかん」と言う人もいるそうだが、この時ボクシングと言うスポーツはその競技をこえて人を喜ばせ励ましている。皮肉であるが自分はボクシングを競技してよかったと思うそうだ。
しかしおそらくこれがいくらチャンピオンになったと言っても、本当に彼が勝つことだけに価値を見出していただけならば、それは単なる自慢話で、チャンピオンだから何なんだという話になるが、結構何も考えずにそれだけをやった人間はたとえそれがたいしたことがなくても、何とかチャンピオンとか何とか何位とかにこだわり、これみよがしに自慢するが非常にみじめで、逆にそういうことを自慢するような素振りを見せるならば、かえってそいつの価値を落とすようなものである。
しかし彼のように勝つことだけではなく、スポーツを競技することに普遍の価値を見出したならば、スポーツはその枠をこえて我々に意味をもたらすものであり、自分の人生に価値を与えてくれるものとなりうると信じている。
彼が負けても負けても競技し続けたのは、単に勝つということに価値を見出したのではない。
おそらく彼はその将来のことを考えて、そのことを見据えたうえで精一杯ボクシングを競技して思い出を作ったのだと思うが、その思い出が彼をひきたてる人生のスパイスになっているのだと思う。
スポーツの原点は遊びだ。スポーツが素晴らしいと言えるのは、それを競技すれば何もかも忘れて没頭できるからであり、そういう休息を得ることができるからである。ボクシングでも仕事でもそうだがインターバルをどう使うかで、次のラウンドが決まってくるが、このインターバルを生かすも生かさないも本人次第で、それはこのスポーツに自分がどうかかわるかと言うことから見えてくるのではないかと思っている。


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ハングルで「ウ」は2つあるんだよ。

2012-04-22 | Weblog
私によくダイエットなどの情報をくれる韓国人の後輩がいる。
昨日韓国人のその後輩から連絡があったのだが、話によると彼女は仕事のつながりで、今度ある日本の大学の教授と会うらしいようなことを言ってきた。
専攻はなんやねんと聞くと、朝鮮史らしことを言っていたので「えっまさかあの重村さんか、もしそうなら俺にもあわせろ」と言ったのだが、しかしよくよく聞いてみると、残念ながらその方は違う朝鮮史の先生であった。
重村さんは私が好きな北朝鮮研究家のひとりである。
彼の推理は大胆であるが、しかし彼はその集めた情報を非常に細かく分析し、吟味している。
時々英語で書かれた文献で、SF小説じゃねえのかというような内容のものもあるが、しかし彼の推理は自分が丁寧に集めた情報と分析力からでてくる結論なので、それがたとえ大胆であっても、強ち間違いと言うことはできない、私はむしろありえない話ではないという見方で受け取っている。
私が彼の著書を好んで読むのは内容が面白いからと言うのだけではなく、自分の集めた情報を細かく分析しフィルターを通して語られるからで、おそらく彼は特派員時代に向こうで生活したこともあり、そのうえ韓国語や、英語も流暢に話すので、その情報をフルに生かせる能力を持った一人であると思う。
これは彼が言っていたことだが、今の北朝鮮の指導者とされる「金正恩」前の報道では「金正雲」と書かれてあったのだが、このことから彼は実は実の息子ではないらしい。
まあ他にもたくさんの証拠をあげていたのだが、特に名前の違いの指摘はするどい。
普通「恩」と「雲」の違いなら、日本人は「ああ漢字の間違いか」ぐらいにしか思わないのだが、しかし日常でハングル表記をする韓国系の人間から見たら、まったく別の名前が出てきたような感じを受ける訂正である。
ハングルには「ウ」と表す言葉が2つある。
ひとつは横棒のウこれは口をフラットにして「ウ」と発音するウで、この「ウ」が使われるウンは「雲、運、韻」である。そしてもう一つの「ウ」はこの横棒にくわえて縦の棒が入る。発音は日本語と同じ「ウ」このウが使われるウンは「銀、恩、隠」で、正恩のウンはハングル表記すると「恩」、「雲」とはまったく違うので、これは日本人が「工藤新一」と「工藤信一」に変えて書くと言うレヴェルの問題ではないということが理解できると思うが、こういう間違いに気づくのは彼が韓国語に堪能だからで、宗教学などの学問によっては、ある事柄を解釈する時に原書を読むが、時々こういう語学的な解釈を彼はするのだが、言葉と言うのは信憑性を大いに含んでいるので、説得力がある。

前回のブログでも、これからのスポーツは語学と物事を分析し判断するための学力が必要であるということを言ったが、それはこの情報社会において、正しくかつ有利にその情報を活用するためには、不可欠な要素であるからだ。
特に英語が不可欠であるというのは、情報の多くは英語であるからで、英語を読めるか読めないかでひろえる情報は1000倍以上差があるし、英語が話せるとコミニケーションの幅が広がるので、幅広く交流できる。
私も実際ちょっとしたきっかけで通訳もどきのようなことをして、結構有名人にあうことができたが、たったそれだけで、そういうことがあるのだから、この情報社会において言葉を知るというのは非常に大事なことであると思う。

しかし情報社会であるからと言って、古典的なものを無視してはだめだ。
特に何千年前から読まれ続けている古典は、今の時代にも通用するからで、古典中の古典などと言われている聖書が、永遠のベストセラーと言われ、今の時代に非常にマッチするのは、やはり古典と言うのは単なる時代の流れではなく、人間の本質について深く語られているからではないかと思っている。
私が以前あげた孫子の兵法、マキャベリのIl principe(君主論)クラウゼビッツの戦争論などは、戦略や戦術の基本的な書物であり、おそらくスポーツなどの勝負事にからんだ事柄の精神的背景には、これらの考え方が影響していることが多いので(情報などはまさにそうだが)、こういうことをしっかり学んでおくと心理戦を有利に戦え、戦略や戦術をたてるときにそれは大いに役立つであろうし、それは考える時のひとつのものさしになる。

情報がひろえない閉ざされた世界は、どんどん否定されていく。
前回言った稚拙なミーティングなどもまさにそうだが、たぶんこのブログを読んだり、人から指摘されたらそういうバカなミーティングは行えないと思っているが、語学力や学力が乏しければポリシーもへったくれもない、ボクシングはそこまで、知力を要求されることはないので、たいして問題にならないが、しかし語学に疎い、学力が乏しいと客観的に物事が見れず、分析力に欠けるので、そういう滑稽とも言えることをやってしまうのである。
極端な例かも知れないが、語学力や学力をあげて外の世界を見ないとこういう滑稽なことが当たり前のことになってしまう。
おそらくこういうよくわからない、なぜこんなことをするんだろうという滑稽なことは、高校生レヴェルのクラブではあることかも知れないが、それは間違いなく責任者が、外の世界を見ることはできない、端的に言って語学に疎いということが言える。


 

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イニシアティヴをとれ

2012-04-20 | Weblog
前に子供にはサッカーをさせるのがいいというようなことをブログで書いたが、しかし私はサッカーをあまりみないしファンではない、ただサッカー選手の言葉やそういう関連の本を読んで、知性を育てるには最も適したスポーツだということに至ったのである。
少し前にイビチャ.オシムが書いた「考えよ」という本は非常に面白かった、彼は日本語ができないし、それほど長い期間いたわけでもないので、これは少し勘違いがあるというようなところもあったが、しかしその短い期間で日本語が話せないというハンデもあるのに、これだけ日本人のことを分析して課題を挙げていることに、彼の分析力と洞察力の深さを感じたが、こういうタイプの監督はまず今のボクシング界にはいないと思う。

話は変わるが最近私は試合に出場する人たちに対してあるが、ある取り組みをしている。
それはリーダーを決めて、マスボクシングをしきらせたり、ミットを相手に合わせて交代でもたせているのだが、これが功を奏している。
実際にマスなどをやると相手のアドヴァンテージやディスアドヴァンテージが見えてくるので、お互いそういうことをアドヴァイスしながらミットなどを持ってやると、それが事実いいかたちで結果としてあらわれるが、今日もいいおっさんたちが、夜の9時過ぎにマスをしながらあれかこれかと議論していたが、その姿は非常に楽しそうであった。
私はこの人たちに関しては個人的に聞きに来ること以外は、アドヴァイスすることはないが、しかし彼らはマスやミットなどで試行錯誤いろいろなことを繰り返し、熱心に研究しているが、そうすることで実際にリングにあがって試合をするのは自分だということを強く実感することができるし、ミーティングの効果も出て、さらに楽しみながら練習するので練習の効率もあがると信じている。

しかしこの時重要なのはリーダー的存在に誰を選ぶかと言うことである。
私がこの場合のリーダーに選ぶ条件は2つ、それは研究熱心でイニシアティヴのとれる人間であるが、そういう人間に仕切らせたら、そのコミュニティーはうまく機能するからだ。
日本だと学校のクラブで選ばれるのは、監督のイエスマンや調整型である。
しかしこういう社会人の集団で、自分たちの知らない新しいことにチャレンジしていくのだから、クリエイティヴで研究熱心、かつ発言のできる人間を選ばなくてはならないが、そういうシステムをつくっておけばそのコミュニティーは自然に楽しみながら育つと思っている。

私はリーダーの条件としてこのイニシアティヴがとれるということが,非常に大事な条件だと思うが、しかし日本のクラブのようなシステムにおいて、このイニシアティヴがとれる人間がいないというか育ちにくい。まず問題として挙げるのは学力不足、これだけひとつのことを何も考えさせないで競技させるのはおそらく先進国ではここぐらいだと思っているが、これだと戦略や戦術を練る力が養われないどころか、少々難しい戦略や戦術を語られてもそれについていくことができない。
ミーティングなどでもたいていはハイハイと従うぐらいで、いいとこ多少の反抗はするけれども、しかし自分の意見が言えない、おそらくほとんどのクラブが監督主体で、あとはその意向に従うだけと言うようなシステムが多いのではないかと思っている。
しかしここで監督主体でということが必ずしもわるいことではない、問題なのははっきりと発言できる人間がいないというか育たないということで、そういうシステムに問題があるのではないかと思っているが、スポーツにおいて戦略や戦術は大事であり、当たり前だが物事を考える手段として学力を伸ばさなくては、戦略や戦術を磨くことはできないからで、これができなくてはスポーツにおいてはイニシアティヴがとれないからだ。
現にヨーロッパなどではそういう学部や学校が存在するらしいし、日本のサッカーなどでも本田や中田なんかはそのイニシアティヴをとれる選手だと思うが、彼らは非常に研究してるし、語学に堪能である。
こういうことからもスポーツは頭をつかわなくてはいけない、勉強しなくてはだめだということが言えるのではないだろうか。

だいぶ前にマスボクシングをした後、ミーティングと称して円陣を組ませて、今からひとりづつ何々選手ののいいところとわるいところを言いましょうなんて、小学生の終わりの会のようなことをやっていた奴がいたが、ミーティングか何だかわからないが、こんなことをヨーロッパのサッカーのミーティングでやったら間違いなく失笑を買う、それどころかいい大人がこんなことをすれば、バカだと言われても仕方がない、所詮学力不足の世界だから通用することで、これからはサッカーのように、戦略や戦術を練り、スポーツを近代化させたかったらもうちょっと勉強させた方がいい、学力を伸ばして高い理解力を求めることも大事ではないかと思っているが、そういう高い理解力を持った人間がひとりでもいてイニシアティヴをとれば多少はそのあり方も変わってくるのだと思う。

しかし学力というとそれだけで拒否反応をおこすような人間もいると思う。
ミーティングと称して、何々さんのいいとこわるいとこなんていうようなことをやっているような奴らは特にそうだと思うが、しかし物事を考えていく上では、経験だけでは限界がある。
物事を刷新して進歩していくためには、自分の考えていることを比較して分析し、さらに新しい考えを生み出していくのだから、独りよがりの研究ではなく、学問的な判断が必要で、そのためにもある程度の学力が必要になってくるのだと思う。
そしてさらに言えば、サッカーの監督は語学に堪能な人が多い、オシムなどの著書を読んだら相手チームを徹底的に分析することが、戦略においては必須条件であるということをうかがい知ることができるが、語学というのは諜報において必須条件だ。これによって相手のチームにさぐりをいれて幾分か情報を得ることができると思うのだが、今の時代最低でも英語が読めるということは、指導者の基本であるが、人をひよっこあつかいして、偉そうに基本基本と言うのであるならば、このことを理解しておいたほうがいいだろう。
ボクシングなんてここではマイナースポーツだ。
自分たちの狭い世界では偉そうにできるが、しかしいざ黒船が来た時に言葉は理解できない、情報も取れないのでは通用しないと思っている。
しかしその対策として子供のうちから鍛えて予備軍をつくるというやり方は、今の時代は人権蹂躙に等しいことだが、もしボクシングを子供に禁じている先進国で、自分たちは子供のうちから鍛えているなんて言ったら失笑を買うが、こういう感覚も英語が読めなければ理解できない。
英語ができないと通用しないというのは、単なる私の意見ではない。おそらく今のスポーツ界における一般論であると思う。
さらに言うならば、この英語が話せないと国際社会ではイニシアティヴをとれない。
ボクシングも将来に向けて、英語や語学の習得に力を入れる必要があるのではないかと思っているが、これからのスポーツ選手や指導者には高い学力が要求されるだろう。










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創造性の時代

2012-04-18 | Weblog
「本当に強い心と言うのは何かに向かって言って強くなって得る優越感やプライドから生まれてくるものではない。それは水のように生きる力で物事を柔軟にうけとめ変えていく力である。
水は雨や雪のようにあらゆるかたちに変えて存在するが、しかしそれは水であることに変わりない。そういう心を持つことが今の時代を強く生きていくことができる。」
これは私が最も信頼したヌナの言葉である。
彼女は日本人であるのに、韓国語がペラペラで、頭の回転が速く私が唯一この人絶対頭がいいなあと思ったうちの一人である。
韓国語がペラペラなのは学生の時に朝鮮文化史をとっていたからだと思うが、おそらく彼女が本気で朝鮮史を勉強したら、重村さんに匹敵するぐらいの学者になれると思っている。
現にこの人と話をしたときは、私が一方的に彼女の意見に耳を傾けると言ったような感じだったが、それだけ頭の回転が速くて、洞察力がするどい人であった。
今であればこういう考え方はひろく受け入れられるが、しかしこの言葉が語られたのはバブル前の日本の最盛期である。その最盛期に誰もが勢いづいている時代に、このような言葉が出てくるのは、どのような時代でも変わらないしっかりした自分の考え方を持っていると言える。

よく小中学生がここに来る理由として自信をつけたいということを言う。
確かにこういうスポーツを通して達成感や充実感を得ることは可能だが、しかしそういう達成感と言うのは花火のようで、すぐに消滅してしまうであろう。
よく強くなったら自信がつくという奴がいるがはたしてそうだろうか。
チャンピオンの誇りとかボクサーの誇りと言う奴がいるが、正直言って今の時代はそういうことはつうようしない。いかにこの複雑でケオスの時代に自分たちはどうやって生きていくかということが必要だと思うが、力をつけて優越感を持つことが自信だと思っている奴が多いが、しかしそういうものに固執してしまってはしんどいだけだ。
今中高年の自殺が増えているが、私は自殺をした人を弱いとは思わない。
むしろ責任感があって強く生きようとしたからこそ、死を選ぶしかなかったのではないかと思っている。
我々の時代は男は強く生きろと言われてきた時代である。
特に韓国系の人間はそのように親から教えられ、きたえられて来たが、そういうメンツに関しては日本人の比ではないが、こういう時代を生きてきた人間たちの世代に自殺者が多いことは皮肉なことで、同世代の自分としては本当に悲しいことであるが、混沌として先の見えない時代の中で、自分なりに強く生きようとしたからこそ、疲れ果ててしまったのだろうと思っている。

今自信をつけると言ってつっぱるよりも、大事なことは、自分はどう物事を受け止めていくかであり、この混沌とした時代の中で物事を受け入れて対応していく力が必要ではないかと思っているが、その力を養う一つのヒントとして水のような心ではないかと思っている。
水のような心は自信とか信念というような言葉からは生まれない。
今はどうかわからないが、少なくとも戦後我々が受けた教育では養われないと思っているが、今必要なのは創造性と柔軟性が必要であり、この創造性や柔軟性を養う教育がこの時代には大事だと思っている。
創造性や柔軟性を養うということは、まず個性を認めることが大事なことである。
個性と言っても奇妙な格好をしたり、滑稽なことをいうのを認めろということではない、まあこういうことを言って個性を限定的にとらえるのも日本人的であるが、しかし個性と言うのは自分が思っているから個性ではなくて、人が認めてこそ個性になるわけで、そのいいと思った個性を見つけて、受け止めることが、その子の個性を伸ばすということにつながってくるのだと思う。
以前ここの会員がある高校生と話をしていた。
その時自分は気が小さくて人前では何も言えない、弱いからだめだみたいなことを言っていたのだが、それにたいして彼はこう答えていた。
「そんなこと気にするな。個性だ、それは逆に考えたら君がやさしいからだ」
単純な言葉で、彼がどういう意味で言ったのかはわからないが、この時大事なことに気付かされたと思う。
その子はここに来るのが自信をつけたいということで来ていた。
しかしそういう個性を持っている子供に、それが弱さだから克服しろと言うよりも、むしろ彼の言うようにそれをこっちが認めていいほうに解釈してやるのが、正しいことではないかと思えたのだが、たぶんそういうことを積み重ねて体験させていくことが、本当の自信につながり、この混沌とした時代を生きていく力になるのではないかと思っているが、いわゆるボクシングなどで達成した業績を認めることよりも、その性格的なことがらを認めて受け止めるということが、何があってもそうあり続けることができるという存在価値への可能性につながっていくのであって、そのことが心理学的にも有効な指導の仕方ではないかと信じている。 










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Wer nicht kampft hat verloren

2012-04-12 | Weblog
「War kanmpt kann verlieren. Wer nicht kampft hat verloren」
この言葉は「kanmt」の「a」実際はウムラウトが入るが、発音すると「ヴェア ケンプフト カン フェアリーレン。ヴェア ニヒト ケンプフト ハット フェアローレン」日本語では「戦うものは負けるかもしれない、戦わないものはすでに負けている」という言葉で、この言葉は2002年に行われたドイツ連邦議会選挙でPDSという政党が大敗北した時に、その壇上に掲げられてあった言葉である。
「負けるなとか」「かかっていけ」「戦え」というのはなんとなく、DQNボクサーの好きそうな言葉であるが、しかしこの戦いは思想の戦いであって、彼ら彼女らが言うような、単なる力の戦いではないことは明白なことである。
こういう思想上の戦いと言うのは特にそうであるが、ある種の自信と言うものがなければ、戦うことはできないし、また敗北してもそこから立ち上がってくることは難しいことである。

デカルトの言葉で「cogito ergo sum」日本語では「われ思うゆえにわれあり」と言う有名な言葉がある。
これは彼が物事の真理は何かということを導き出すために、あらゆることを疑っていく中で生まれた言葉だが、例えば今目に見えている花の存在、これはもともと目には見えているけれども本当は存在しないのではないかなどなど、あらゆることを否定していくわけであるが、しかし最終的に否定できないことがある。
それは何かと言うと自分自身を疑っている自分であって、それが自我であるとデカルトは言う。
これを読んでいる人は結構インテリの人もいるので、デカルトをここで持ち出すと、いやそうでもないという反論があるが、しかし人間の存在には確かに今ここに考えている自分がいなければ、存在しているということを証明できないわけで、スピノザは「Ego sum cogitans(我考えるゆえに我あり)」とさらにこう解釈しているが、おそらくそれが人間が考える能力や言葉を持つということの意味であると思う。

スポーツも、最近はスポーツ科学はもちろんのこと、医学や、倫理学なども必要になってきていると思うのだが、こういう時代にある程度人間の考える力を磨かなくては通用しないだろう。
今スポーツを安全にそしてよりよく競技するためには、倫理や医学に関しても専門家のアドヴァイスが必要な事柄が多くなってきている。
先日挙げた子供のボクシングも専門家の意見が必要であるし、それはアカンタビリティーの問題でもあり、そういうことはある程度哲学や倫理学とを踏まえて考えなくては答えが見えないであろう。
まわりの意見や評価と言うものを無視して、それが通用する人間だけを集めて競技するやり方もあるだろうが、しかい近代スポーツ化をはかるのであれば、もう少し情報をしっかりと集めて、それを吟味することも必要なことではないかと思っているが、それが今の情報社会におけるスポーツ選手あるいは指導者の在り方だと思っている。

この世界には本当にバカじゃないかと思うのがいるが、ボクシングはスポーツなのに「殺し合いだ」とか「つぶしあいだ」とかいうような知能を疑うようなことを言うバカがいる。
さっきも上げたがボクシングは列記としたスポーツだ、辞書を調べてもわかるように「殺し合いだ」などとはどこにも書いてはいないことは小学生でもわかることだ。もしそんなことを親に言ったらどうなるのかぐらいわかると思うが、こういうことは教育上言う必要のないことである。
勢いでこう言うことを言うのは、自分のしてきたことに自信がないからだ。
とにかく自分のしてきたことはすごいことだということを強調するために、精神論だか何かわからないがそういうもったいぶった考え方をインテリジェンスを無視して、無理にスポーツに結び付ける奴がいるからバカスポーツだと揶揄される、ブレーインが育たないのだ。 
だいたいこういうことを言う奴はコンプレックスのかたまりだ、笑えるのは殺し合いだのつぶしあいだのという言葉は、自分よりも学歴の高い人間やインテリっぽい人間と話した時に、自分には何もないからまともに会話できないことのコンプレックスの裏返しで、意地や勢いだけで話そうとするからこういう滑稽な言葉が出てくるのだが、殺し合いだというのならそれはそれで自分の思っていることを通せばいいことだが、しかしそういうことを言う奴に限って誰かに言われたり、指摘されたりしたらもう何もいえなくなってしまうからみじめだが、こういうまちがった滑稽な精神論を語るバカが未だ存在する。
今大事なのはこういう滑稽なことを言って煽ることではない、前回のブログで言ったように、科学が進み、学問のレヴェルもあがって、スポーツの事柄も定義づけされるようになった時代、特に子供の成長や、子供の心理や安全面などを考えたら「アカンタビリティー」と「レスポンスビリティー」すなわちすべてのことにおいて、責任ある回答を持てることことが責任者に求められている。
そういうことに対してきちんと対応し説明する能力と責任が必要で、そういうことができる能力を持つことが自信につながると思う。
ボクサー時代はめちゃくちゃかっこいいことを言っていた人間が、引退したらお笑いにいじられてというようなことがよくあるが、そういう姿を見て自信など微塵にも感じない、私などはいやな気持になるのだが、もう少しその専門性や平たく言えば少々難しいことを聞かれても、それにこたえることができる知識と言うのが必要であり、そのことを知るためにも考え学習し、しっかりとした知識を蓄えることは大事なことでである。

よく欧米の政府関係の人や有名人が新聞や雑誌などで、あの人は親日であるとか、反日であるということが書かれているが、実は反日と書かれている人の中には、親日派という人も少なくはなく、彼ら彼女らが嫌いなのは日本人ではなくて、官僚や日本の政治家で、日本人は非常に評価しているという。
キッシンジャーなどもその内の一人だそうだが、彼の大学時代のルームメイトは日本人だったそうで、その時日本の文化に目覚めたということをある対談で読んだ。
私もボクシングに対する思いもそうだ。ボクシングはおもしろいし、正しく競技すれば素晴らしいスポーツである。正直私がうっとうしいのは封建的な制度と偉そうにしている親玉、そしてあまり賢くないからその親玉の周りを衛星のように囲んでいる腰巾着どもである。




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クムナム

2012-04-10 | Weblog
ボクシングクラブを設立して多くの子供たちが来た。
特にここに集まるのはスポーツが得意な子や活発な子ではなく、どちらかというとおとなしい部類のタイプに属する子たちで、中には少し問題を抱えた子供も少なくはなかった。
心理学と言う学問が進んだ今、特に問題を抱えた子供の成長をよりよく見守るために、ADHDとかアスペルガーなどのタイプにわけているのだが、実際このことは教育の現場行於いては少なくとも子供たちの苦しみや扱い方がわかり、そういった子供たちが単なる問題児として扱われることはないと思う。

今から書くことは勘違いがあってはいけないので、手短にそして自分が何を言いたいのかということにしぼって書きたいと思うが、昔はもちろんこういう定義づけはされてはいないし、こういう言葉がなかった。
だからこういう子供たちは問題児として扱われてきたと思う。
アインシュタインをはじめとする何人かの偉人たちは、こういう障害を持っていたと推測されているが、しかし少し荒い表現だが、私が思うに、もし彼ら彼女らが今の時代に生まれて来て、自分たちはそういう障害があるということを定義されていたとしたならば、彼ら彼女らのような人物が生まれていたかどうかは疑問である。
歴史的な出来事に関して「たら」「れば」はいささかナンセンスな言葉だが、しかしひとつ確かなこととして言えることは、彼ら彼女たちがその困難を乗り越えて偉業を達成したことは確かなことで、逆説的に言えば、この困難があったからこそ彼ら彼女らが存在したと言えるのだ。

韓国語で子供のことを「クムナム」と言う。「クムナム」と言うのは「夢の木」と言う意味で、私の好きな韓国語だ。
なぜ好きかと言うと、自分がその夢をもてない人間であったからである。
自分は今こうして不自由さを感じないで、生活しているのだが、しかし自分でいうのもなんだが、もっと欲を出せば、さらにいいステータスにいることができるはずだと思うのだが、しかし自分には限界があることがわかっている。だからこれ以上のステータスはのぞめないのだ。
何が限界かと言うのは、自分には夢が持てなかったことだ。
子供ならば誰でも持ち語ることができる夢、これがなかったから自分の行動をもう一歩突き動かすことができなかったと思っている。

それは学校で作文を書いた時のことである。
日本でも韓国でも小学生は自分の夢について書く時間があるのだが、その時自分の夢について書こうとしてもどうしても書けなかったことがあって、支離滅裂なことを書いたことがある。たぶんまわりから偏見の目で見られていたというせいもあったのだと思うが、そういう気持ちにとうていなれないのだ、たかだか小学生のくせに傍観的に自分の人生を見て、こんな不公平な世の中、夢もへったくれもないと、笑い話であるが、そう思っていたのだと思う。

夢を持つというのは自分を突き動かす力になる。
自分はこうなりたいとかああなりたいという理想や憧れ願望と言うのが、人間の行動を支え
この夢があるからこそ、どんな困難にも向かっていけるのではないかと思う。
よく困難を乗り越えた偉業を成し遂げた人が、夢をあきらめなかったから、最後までがんばりぬいたからという言葉を口にしているが、この夢と言う言葉を心に刻みつけることは非常に大事なことであり、我々が尊敬すべき偉人の多くはこの自分の夢を確かに描いていたからこそ困難に立ち向かいそれを乗り越えて行ったのだと思う。

当たり前のことであるが夢を持つということは、子供にとって非常に大事なことであり、その夢を持つことができるからこそ、困難にあってもくじけずに前を向いて歩いて行けるのだと思う。
夢と言うとどことなくつかみどころのない抽象的な言葉に聞こえるが、しかしこの夢をいかにしっかりと描くことができるかと言うことが大事なことであり、それは子供であるからこそできるのだと思う。

これは私の持論であるが夢といっても、それは自分の私利私欲を満たすためのものだけではだめだ、たとえばサッカー選手に、なればそのことを通して、どう人の役に立っていくのかと言うことが大事であり、そういうビジョンを人間は描かなくてはならないのではないかと思うが、そういう夢を持つことが生かされた生き方で、これからの将来を力強く生きていくことである。

先日BBCだったかニュースを見ていたら、日本のある人権団体がタイの子供ボクシングに対して、子供にファイトさせることは脳のダメージや体のダメージさらにトラウマさえもおうので即刻中止させるべきだということをうったえていたが、これは人権蹂躙だとさえ言っていた。
日本人は特に50代から上は人権教育と言うのがそれほど受け入れられていたわけではなかったので、たかだか子供にボクシングをさせるぐらいという人間もいると思うが、しかしこれは人権教育に疎い人間の言う言葉で、こういうことを言っていては、21世紀にはついてはいけない。
当たり前だが、大人は一歩間違えれば人生をこわしてしまうような目的を与えるものではないと思っているが、無学で医学の知識も乏しい人間がチャンピオンになれとか言って煽って危険な競技をさせることは、やくざが札束をみせて組に来たら偉くなれるぞ、人よりもいい思いができるぞと言っているのと変わりない。
本当にこのことを通して将来的にも子供たちが豊かにされていくことを考えなくてはいけないと思うが、そう考えたら頭や脳に衝撃を与えるスポーツを未成年にさせることは正しい事なのかと言うことを深く考える必要があると思う。
最近そういうたぐいの論文を読むが、読めば読むほどボクシングと言うものはおそろしいものであることがわかる。
アマチュアだから大丈夫だなんて言っている奴はかなり無責任で、会員の話によると、最近アマチュアボクシングをしている漫才師の女性の脳に異常が見られボクシングを続けられないとかいう話になっているそうだが、こういう知名度が高く自己管理がしっかりされている人間でも、衝撃をうけるとこういう異常が見られることがわかるのだが、こういうことを考えると子供にそういう競技をさせるということは正しい事かどうかと言うことぐらいは常識で理解できると思う。
ここには医療関係者が多く、意見を聞くがたいていその道の人は子供にボクシングをさせることは危険だと言っているが、いやみな言い方だがそれは英語で論文や記事を見ることができたらわかることで、日本はまだボクシングはマイナーなのでそこまで訳してまで、取り上げないがしかしかなりそのことは問題であると思う。

最後にHIであったキムホヨンは元気にしてるだろうか、彼の夢はサッカー選手だと言っていた。
あれから10数年たって、ワールドカップが開催されるたびに、韓国チームとアメリカチームにキムホヨンという人物を探すが今のところ見当たらない。













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アドヴァンテージ

2012-04-08 | Weblog
このブログではしょっちゅう語学を学ぶことは今の時代には大事なことで、それは不可欠なことだということを主張しているが、それは語学を勉強することはコミニケーション能力を広げると同時に、もうひとつ大きなアドヴァンテージがあるからだ。
たぶん語学を勉強した人は理解できると思うが、ある程度言葉に慣れて相手の言葉が理解できたら、相手の会話についていくために、ある程度何を言っているのかと言うことをguessするのだが、ある程度言葉になれてくるといちいち相手の言ったことを聞き返していたら、話がすすまない、そこで相手が一体何を言っているのかguess(推測)するのだが、その時相手の表情やしぐさだけではなく、いろいろなことをたぐりよせて何を言っているのかと言うことを推測して会話についていくわけだが、こういう相手の心を読む力と言うか、そういう力が養われる。
鈍感な奴はいつまでたってもどんかんだが、しかし往々にして言えることだが、語学ができる特に女性は相手のことを見抜く力が普通の人と比べてするどいように思える。
それを口にするのかしないのかというのは、その人の倫理観やバランス感覚があると思うが、日本女性は往々にしてこの倫理観とバランスがしっかりしているので、えげつないことにはならないが、しかし私は日本人で言葉が流暢な女性がルール無用のディスカッションになって何かを言えば、非常に恐ろしいことになるのではないかと思っているが、以前雑誌か何かのアンケートで嫌いな女性のタイプに「英語を話す女」というのがなぜか堂々の2位につけていたが、それはおそらく多くの男性が、本能的にそういう女性と言うのを恐れている結果だと思う。

さらにこの語学的な能力を養わないと、問題解決力がこの多様性の時代において、乏しいと言えるであろう。
よく「筋を通す」と言う言葉をつかう奴がいる。
この言葉は往々にして運動系の奴が使うというか好むやり方であるが、しかし筋を通すというのはどういうことか?まあこれはケースバイケースで時にはそういうことも必要であるが、しかし往々にしてこの言葉が使われる時は、何か自分たちの立場を正当化する時にのみつかわれることで、相手のあるいところを指摘し、そして自分たちのことは正当化して相手がまちがっていると決めつけることだ。
しかしこの21世紀にこういう話し合いや議論だとかなり程度が低い、こういうことは小中学生の終わりの会ぐらいにしていてくれよと思うのだが、そういう考え方しかできない一方的な人間が結構多いように思えるが、これでは問題解決の仕方が小学生なみだ。

問題解決と言うのは二つのことを同時に考えて考えていかなくては、本当の解決にはつながらない、
外国人は物事を解決する時、弁証法的であるのだが、この考え方が日本人にはかけている。
最近言われてきたディベーティングというのももともとは弁証法的であって、単に相手を言葉でねじ伏せることではない。弁証法の目的はそのセオリーがもつ矛盾をうけとめて、分析しさらにそのセオリーが一段と高められることで、それは相手をやっつけることではなく、あくまで目的は問題を解決させることである(ディベーティングの本来の目的もそれである)。
以前学校にいじめの問題でアドヴァイスに言ってきたということを述べたが、この時もそのいじめというのが悪質で、たくみに人の心を抹殺するいじめというものもあるということを指摘しつつ、それでも本能的に「vulinerabilty」という、いじめを誘発するような条件を持っている人間も確かなことで、いじめというのはだめだということを感情的に伝えるだけでは解決にならない、必要なことならばそれを克服して立ち直ることで成長させることが本人にとっていいかたちで解決されていくと言ったが、そうすることで、その子がそのことを通して成長すると信じているからだ。
そのことを考えることが最も大事なことだと言ったが、こういうものの考え方が弁証法的な考え方で、それは決して日本語の言葉だけでは生まれてこない発想だと思っている。

英語の論文、特にドイツ人が書いたり、ドイツ語から訳された論文を読むと、こういう考え方ができなければその書かれていることがよく理解できないことがしばしばあるが、それは彼ら彼女らの議論の目的に至るまでの方法が、弁証法的であるということが多いからである。
あれこれ言っているが一体何を言っているのだろうか?否定しているのか肯定しているのか、しかしそれは二つのことを通して見るから見えてくる目的があって、この考え方は21世紀には大事なことで、その考え方を学ぶためには語学を勉強する必要があるのだ。
私は自分の言いたいことをはっきりと言う性格だ。
それはどこに行っても態度を変えることなく絶対に屈しない性格で、時にはまわりから勘違いされてこの人と話したらめちゃめちゃにけなされて、話がごちゃごちゃになるのではないかと勘違いされることもある。
しかし気づいたことや、思ったことを分析したうえではっきり言うので、問題の解決が見えてくるという人も少なくはないのだが、それは自分がただ筋を通して自分の考え方を言うぞというような低レヴェルな姿勢ではなく、毀誉褒貶ではあるが、きついことを言ったり、つっこんだりするのは問題を解決させようと思っているからだ。

よくボクシングの危険性について挙げているのも、実はそうである。
衝撃を脳に与えると将来的にわるい影響が出てくる可能性が高いということは、医学的にも決定的なこととして挙げられている。
だから子供にボクシングをさせるのは言語道断だということを強く非難しているが、こういうことをうけてもし大丈夫だということだけを必死で説明して抵抗するだけでは、筋を通すという一方的な考え方の限界で、とどのつまりケガと言うのはどのスポーツにもつきものだ、そんな細かいことをいちいち言うお前たちが間違っているという何とも言えない、一方的な答えで終わってしまうのである。

よく言っている危険性についても十分に責任者は知る必要があると思うのだが、こういうことも英語で検索して調べることができれば、医師会や大学の見解など、かなりしっかりした内容の記事を見ることができる。何が危険なのか、そしてそれはなぜかと言うことをしっかりと学習することは、21世紀の近代スポーツにおいて管理者に与えられた義務であり、このことについてははっきり答えを持っておくことが大事なことで、私がよく言っているように危ないのが分かっているのに、聞かれて中学生の不良のような答えで抵抗するのではなく、それを十分に認めて、説明するということから始めたほうが、少なくともこの問題は、スポーツさせる側だけの問題ではなく、競技者への自己管理と自己責任と言うものを促すことができる結果となるであろう。

以前匿名でボクシングは危険かと言うことを聞いてきた親がいたということを書いた。
その時責任者に聞いてくれと言ったら。
責任者はそんな難しいことははっきりわからないということを言ったが、これだけ(英語だが)危険性がうったえられている時代に、そんなことはよくわからないでは無責任だ。
この前うちの会員のお母さんが翻訳の仕事をしていることがわかったが、こういう人がこの記事を読んで質問して来たら何と答えるのだろうか。小学生でも多少のあいさつぐらいは知っている時代に「俺は英語がまったくわからない」と答えるのだろうか?
おそらく語学ができないとその答えはあいまいで、最終的には結託して、数で強引に納得させるのではないかと思っているが、これだけ巷で英語、英語と騒がれている時代、スポーツクラブもこのことを無視できない時代になってきている。





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