5、6年前の話だが、大学の准教の人にウンマ共同体についての資料がほしいのだが何かいい資料はないかと聞かれたことがある。教育学においてコミュニティの研究をしているらしく、その参考としてイスラムのウンマ共同体を参考にしたいようであった。確かにイスラム教的コミュニティと言う発想はある意味考え方としてはセンスがいいと思う。実際ウンマ共同体は古代の共同体としては神の正義の元、助け合いの精神で支えあっていたことは確かである。しかし私はウンマ共同体は参考になるがあくまで古代に適応した法であり、思想であると考える。もともとイスラム教においては女性の地位がひくい。ひくいというよりも人権を持たない、数を数える時も女性と子供は数に入れられなかったそうで、弱い子供や女性はほとんど物として見られたようである。レビーストローズが提唱した交換のシステムと言うのがある。これは結婚と言う行為が村や家を守るための同盟行為で、そこに出される女性は物と同じ役割をはたすということだが、当時は生活よりも生存に重きが置かれてた時代で争いごとの多かった時代である。そういう時代背景においてはこのイスラム社会の法や思想も意味をなすのだろうが、今やそういう時代ではない。Universal declearation of human rightsが国連で採択されて基本的には人権が認められる時代である。私の意見では力や暴力が支配する世界は男性中心の世界になる。まさに古代の時代は戦いが多く、その戦いで夫をうしなった女性や子供を助けるために一夫多妻制が認められたのだろうが、しかしそれはあくまで戦いがあって、犠牲者が存在するからである。群れを暴力が支配すると力による支配構造が生まれる。そしてかならずそこには優劣が存在し、力のあるものがその群れを支配する。格闘技は暴力をあつかうスポーツであるから、そういう支配構造が生まれやすいのだが、あほな監督がおいそことか、あれとかこれとか、女性を女の子扱いするのはまさにそういうアホな構造社会の象徴的な事柄である。そして競技者とかいわれるような人間たちがジムの中心になって何事も優先され、そういう人間たちがジムは平等で、自分たちはわきあいあいと楽しくやっているとほえても、そこに来ている弱い存在、例えば格闘技でいうところのマイノリティである女性や中年が生き生きとトレーニングしていなければ、その群れは力による構造が存在し、すべての人たちが平等にトレーニングできているとは言えないであろう。うちのクラブは格闘技でいうところのマイノリティーを尊重し、大事にすることが平等を生み出すと信じている。親玉や先輩にあいさつしたり、服従の姿勢を示すよりもまず格闘技で弱い立場の人たちのことを考えて尊重する。そういう尊敬の気持ちをもって行動することが群れ雰囲気をよくするもので、実際そうなっていくことでジムのいい雰囲気は保たれていると思う。
最後に聖書に私が好きなシーンがある。それは買春の罪でとらえられた女性が民衆の前にさらされ、石をなげられなぶり殺しにされようとする女性をイエスが救うというシーンである。当時は買春は不貞の罪で当時死罪にあたる罪で、不貞をおかしたものは民衆の前にさらけだされて石をなげられて殺されるというむごい刑罰に処せられていた。その女性も今まさに民衆の前に引き出されその刑が執行されようとしていた。その時イエスはこういったのだ。「君たちの中で罪のないものが石をなげろ」そういわれた民衆はまず老人から石を捨てて去って行って、しまいには誰もいなくなったそうであるが、この物語はある不条理を示唆している。それは女性ばかりが裁かれるが、関わった相手の男たちはどうなるのだ、その男たちには罪はないのかと言う問いである。当時この時代も女性や子供が物のようにあつかわれている時代であった。イエスと言う人物はその女性や弱いものの立場に立ったと言われているが、まさにこの言葉は物事の根本的な問題があるのにスケープゴートのように裁かれていく女性たちの不条理を問題にしたもので、おそらく彼はその民衆に向かって「本当にわるいのはお前たちだ」と指摘したのだろう。