脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Bonjour!

2010-08-30 | Weblog
今週の土曜日2時30分より、小学生を対象としたオリーヴの国際交流がはじまる。
今回は留学生が来るので、おもに彼女にその役割を担ってもらおうと思っているのだが、意外にもうちの小学生たちは乗り気で、一応はじめましてから自己紹介までは練習させているのだが、子供たちはパリからの来高者に胸をはずませているようである。
実は留学生を受け入れることに関して、何人かの候補があったのだが、今回あえてフランスからの留学生を受け入れたかと言うと、私自身フランス人とうまがあうからで、かなり長い付き合いの人間がいて、フランスに関してはかなりいいイメージがあるからである。
しかし実際フランスにはまだ一度も言ったことがない。
よくフランス人の友人からパリはいいところだと聞くのだが、時間がないのでその機会がなく、実際にはまだ言ってはいないのだが、一度ぐらいはフランスに友人を訪ねて、有名なエッフェル塔に上ろうと思っている。
このエッフェル塔であるが、しかしこの男エッフェル塔には苦い思い出があると言う、聞けばその男、高校生の時に怖いおにいさんからかつあげされたそうで、5000円ぐらいとられたそうであるが、この5000円というのは当時高校生の彼にとって、たいへんいたい額で、その時以来そこにはあまり言っていないそうだ。
その時へたれやのうというようなことを言ったらむきになって「フランスのかつあげは、日本のかつあげどころではないと」抵抗できない理由を言っていたが、日本とフランスのかつあげはどこが違うのだろうか?
私がフランス人と接して思うことは、彼ら彼女らは非常に自由と平等そして人権を重んじる傾向が強い民族であるということだ。
その精神はフランス革命以来受け継いでいるのか、思想家のSベーヌや心理学者のイルゴイエンヌなどの人間に対するするどい考察からもわかるように、非常に人間の持つ感情や気持ちに敏感なところがあり、人道的であるということだ。
昔デカプリオ主演のビーチという映画があった。
この映画はみたい人も多いかと思うが、この映画はある東南アジアの島に不法滞在をする日本で言うところのフリーターの若者たちのいきさつを描いた映画であるが、この映画はある若者が東南アジアのある秘密の島を見つけ、そこにたどりついたことから始まる。
その島では、それぞれいろいろな国から集まった自給自足で生活しているのだが、その若者だけが集まったヴィレッジはいかにも自由で楽しそうであった。
しかしその楽しそうなヴィレッジに悲劇が起こる。何と一人の男がサメに噛まれて重傷をおってしまったのだ。
しかし重傷をおっても医者に見せることはできない、なんせここは秘密の島だそういうことをしてこの島の存在がばれてしまってはもともこもなくなるからである。
みんな最初はその噛まれた人物のことを気遣っていたが、次第にその男が苦しみもだえる様子を見て、その男の存在が疎ましくなる。
彼ら彼女らは楽園を求めて来たのである。
だからそういう人の苦しみに共感するようなことはしたくないし、そういう声を聞くのもごめんだせっかくの雰囲気がぶちこわしになる。
そう思った彼ら彼女らは、ついにその男をヴィレッジからテントごと追い出してしまうのである。
しかしこの行為に真っ向からそれは非人道的だと反対した男がいる。
それはフランス人の男で、彼はそういう彼らの行為にお前らはけだものだと怒り、そのかまれた男のテントに行き、その男を看病したのだ。
この映画を見た時、私はこの映画はフランス人の特徴と言うか性格をよくとらえているなと思ったのだが、確かに彼ら彼女らはこういう人権に関しては敏感である。
よく彼ら彼女らはプライドが高いとか気取っていると言われるが、確かにそういうことがあるにしても、こういう人権や自由、平等という点では、まだまだ我々は彼ら彼女らから見らなうべき点が多いと思う。

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韓国語を習う前に

2010-08-27 | Weblog
来年の4月から韓国語のクラスを持とうと思っている。
大阪でもつか高知で持つかは迷っているが、現在講師を探し、準備している。
余裕があればジムでも無料で会員に教えたいのだが、韓国語は非常に日本語に似ているので習得しやすいそうである。
しかし前にも言ったように難しい発音があり、音の抑揚が激しいので、日本語を話す我々からすれば、多少気をつけて話さなくては、音を聞き取ってもらえない、特にパッチムという二つの文字を一つにしている文字は、いっしょに発音しなくてはいけないそうで、例えばキムチは日本語では3文字でそれぞれ「き」「む」「ち」と発音するが、しかしむこうではキムチの「きむ」はパッチムがあるので、「きむ」という文字をいっしょに発音するのがハングルの読み方である。
ある時テレビで草なぎ君が韓国でノリ巻きのことを「きん」「ぱっ」というような発音をしていたが、これは俗に知られている「キンパプ」のことであるが、彼はパッチムを正しく発音していたから「きんぱっ」となるのである。
このキムチに関して面白いと言うか、興味深いエピソードがある。
少し前まで日本で活躍していたユンソナだが、彼女はだいぶ日本語もうまくなって、日本に慣れて来たのか、キムチを韓国読みでなく、日本人には日本語読みで「きむち」と3文字で発音していたそうだ。
日本人ならトーキョーをトキオみたいな感じで発音しても問題ないのだろうが、しかしそこはお隣の国、彼女はチムチをきちんと発音しないと大ブーイングを浴びたそうである。
そんなキムチ一つでここまで目くじらを立てるかと思うのだが、しかしそんなことを言ったらどえらいことになる。
韓国の人は自分の言葉に絶対的な自信を持っているからだ。
なんせハングルという言葉は偉大な文字ということで、これは昔世宗大王が、それまで文字を読めなかった女性や子供にも、文字が読めるようにと、学者を集めて発明した言葉で、この文字が偉大だというのは、ハングルはすべての音を表記できる、ローマ字よりもすぐれた文字であるからそうだ。
しかし実際それは違う、なぜなら出せない音があるからで、私などはなぜホヨンかというと、彼ら彼女らが岡崎のザという音が出せなくて「じゃ」になるからで、そのほかにも初めに来る濁点やフェなどの音は出せないからである。
しかしことハングルになるとゆずらない、そういう音があると言ってもいいやできると言い張るのだが、そう言い張ることができるのは彼ら彼女らが、自分のことばを誇りにしているからで、以前テンポラリーに日本語学校で講師をした時に学生が、米国生まれのキムユンジン(LOSTなどに主演)は、韓国語がへただからダメだみたいなことを言っていたが、そういう言葉が出てくると言うのは、やはり母国語に自信と誇りを持っているからだろう。
さらにおもしろいのは、自分の国の言葉がいつ誰によって発明されたなんていうことを知っている人間が世界各国いるかということである。
たぶんハングル文字は比較的新しいので、それが可能な面もあるのだが、ここまでこの文字の由来が浸透し、そこまですぐれていると思う民族は、世界広しと言えど、まあいないであろう。
私がこのクラスを持つ時、このハングルを習う前の注意と言うか、聞いてほしいこととしてあげることは、まず韓国語を習う前に、この言葉にたいしてある種の尊敬の念を込めると言うことで、このハングル文字の意味と由来と言うのを、最初話そうかと思っている。
言葉と言うのは非常に大事である。そして韓国の人たちはこの言葉に誇りを持っている。
だからハングルを習う人が、その言葉の文化を尊重すると言う意味で、その言葉の歴史を知り、彼ら彼女らがどれだけそれを誇りにしているかということを知る必要があるし、そのことを知るということはある意味言葉に対する不可侵的な行為であり、そこからしてもって友好関係が生まれるのではないかと思っている。



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哲学しよう

2010-08-25 | Weblog
「ハートで感じる英文法」というのがある。
私は仕事柄こういう本をよく購入するのだが、この本は、おもに我々がよくつかうがその使い方に、しっくりこない曖昧な言葉にスポットをあてわかりやすく説明している。
私はよく英会話の会員にこの本をすすめるのであるが、それは特に仕事で忙しい社会人にとって、言葉はわるいがてっとりばやく、かつわかりやすく説明しているからで、会話においてはその理解が非常に役にたつからである。
前回のブログでMサンデルの本がかなり売れていると言ったが、しかしそれとは対照的にこういうわかりやすく物事を説明している、いわゆる安直的な本もかなり多く出版され売れている。
この前小学生の伝記の本を見に行ったのだが、置かれていたのはほとんどが漫画でわかりやすく、そしてかつ読みやすくしているもので、正直これには驚いてしまった。
本自体はハードカバーで立派なのだが、そのハードカバーの本には、ぎっしりと漫画が描かれている。こういう読みごたえのない本で何が吸収できるのかと思ってしまうのだが、しかしこういった漫画が実に多くあるのだ。
たぶんこのことについては活字離れが原因ではないかと思っているのだが、個人的な意見であるが最近の若い人は本を読まないと思う。
小説なら読んでいる人も多いのだが、、しかしこの時期に読んでおけばいいという哲学書についてはあまり読まれてはいないと思うのだが、この哲学書を若いうちに読むと言うことは、非常に有益なことであると思っている。
たぶん本の読まない原因の一つは、彼ら彼女らがディベーティングというものをあまり経験することがない、おそらく人と議論することがあまりないからだと思うが、人と議論すればそれが刺激になって、何かさらに知識を吸収してやろうと言う意欲がわいてくるものである。
私などもディベートした時に、めちゃくちゃにやられて、あげくのはてにあなたの考え方は稚拙だと言われて、悔しくて本を読んだものであるが、そう言う意味で哲学書は人間の考えや思想を構築していく上では非常に重要なものであり、若いうちはこういう本を読むことは、自分のキャパを広げたり、頭を耕す上では非常に大事なことである。
現に今話題のMサンデルはPolitical science(政治哲学?)であるが、彼の講義は弁証法と言うものがなんぞやというものがわかっていないと消化できないし、古典の知識がなければ何を言っているのかわからない。
さらに言うとアメリカとはなんぞやということを理解するためには、古典と哲学を理解することが、必要条件だと思っているのだが、それは彼の講義を聞いても理解できることである。
ここで議論している人たちは所謂エリートたちであるが、むこうではこういう人たちが明日のアメリカを背負っていると思うのだが、そう考えると哲学はいかに大事かということがわかるであろう。
うちのような社会人の多い集団は、目的も立場の違うのだから、ただ目的だけを掲げてそれに向かっていけと一生懸命さを強調するだけでは組織は成り立たず、そこでは多様性が求められ、特にそういう集団をまとめるためには「何が正しいことか」あるいは「何が公共的であるのか」ということを問う必要があると思うのだが、そういう意味において、ある事柄を客観性をもってとらえる意味で、哲学的思考で物事を考えることは、特に我々のような社会人の多い組織にとって必要だと思う。
もう一人の人間が中心に集まって、上から下に伝達していくような、家父長制のような集団は古い。上がバカだとみんなこけるが、そういう例はいくつかある。
もう21世紀で多様性が求められる時代なのだから、ただ上から言われることにたいしてハイというだけではだめだし、むやみに指導者のことをあの人はすごいなどと、信奉するかのように陶酔するのは、ものごとを深く考えていない証拠である。
もう素直だとか愚直であることが、正しことではない、こういう人間は先輩から好かれるが、しかし個性がなく、創造性に欠けると思っている。
ここでは学生に本を読むことを勧めているが、彼ら彼女らには物事を客観的に考察できる人間に育てたいからであり、そういうせいか最近、本を借りて読む学生や社会人も増えて来ている。






 








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Lets discuss whats the right things to do

2010-08-23 | Weblog
先日ついにMサンデルの「これから正義の話をしよう」を購入した。
大阪のホテルで数分彼の講義を聞いて「これは理解するためには、古典の知識が必要だ」と思った通り、解釈するためには、かなりの古典の知識が求められる難解な書物である。
しかし驚いたのは、こういう難解な本がベストセラーになっていることである。
私の買った本は6月29日の地点で31刷となっているのだが、この本が出たのは1か月前の5月の下旬で、その1か月の間に31刷も発行されているのだから、かなりのベストセラーである。
しかもこの本B6サイズでは少々お高く2300円もする。
普通一般の書籍であれば、いいとこ高くて1500円ぐらいだが、しかしそれよりも、1000円ほどお高い、おまけに難解な本がここまで売れているのである。
この本知り合いの大学生も買ったそうであるが、彼がこういう質問をしてきた。
それは「この本の後ろの、参考文献のところに載っている「Ibid」って何ですか」である。最初冗談で「人の名前や」と言ったら本気にしていたので、いや違うと教えたのだが、このIbidと言うのは「Ibidem」という「同じ場所」という意味の、ラテン語の言葉からきた言葉で、同書という意味である。だからその前には本の名前が書かれてあって、そしてそれを受けてIbidとなっている。
しかしこういう本を、これだけもの多くの人間が購入しているから不思議である。
しかもよくあるうさんくさいビジネス書のようなものではなく、文体もしっかりしていて、かなり難解な本である。
そういう本が今日本でもベストセラーになっているのである。
たぶんこの本が売れている原因は、多様化されたカオスの時代において、何が正しいかということと、我々は何を指針に生きて行くのかと言うことと関係しているように思える。
たぶん今世の中が、啓蒙の時代にさしかかっているのだと思うのだが、たいていこういう混沌とした時代には、そういう学問が台頭してきて民衆を啓蒙するのだが、日本も然り、今その啓蒙の時代で、この混沌とした何が正しいかわからない時代において、正義や真理、そして正しさはなにかと言うことに渇望し、それが指し示されることが求めてられているのではないだろうか。
以前最近道徳がめちゃくちゃになってきているから、学校で子供の頃から法律を学ばせることを提案したが、たぶん今多様性と言われている時代の中で、昔ながらの道徳や礼儀と言うものがくずれはじめ、機能しなくなってきているので、われわれは改めて、違う観点から正しさと言うものを問いなおさなければならないのではないだろうか。
この本を読んでわかることは、いかに人間の考え方は主観的で、しかしそれをここでは弁証法と言うかたちで再構築しているが、人間の考えは恣意的であるがゆえに、再構築がなされなくてはならない、そこで弁証法的解釈が求められるのだと思う。
そしてたぶん正義というか、何が正しいことであるかということを問うことはたいへん難しいことであり、たぶん正しさと言うのはいろいろと葛藤しながら選択していくものであり、根本的にこれを語るには、偉そうに上から目線で言うのではなく、自身が葛藤していく中で与えられるものだと思っている。


























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イルゴセヨ

2010-08-20 | Weblog
オリーヴは語学に堪能な人たちがいる。
最近私が語学が大事だと言っているせいか、私韓国語を習っていますとかフランス語をならっていますよと言う人がいて、結構その話で盛り上がることもある。
なぜ語学が大事かと言うことは以前にも話したが、例えば英語を読めるだけでも、情報量は圧倒的に違うからであり、このことを知っているか否かでは、物事を考えて行く上で差がでるからである。
このことについてはオリーヴのブレーインのスタッフが、取引先の大学の先生と話をした時にも、その人がスポーツは語学を学ぶことも大事だと言うようなことを言っていたらしいが、こう言われて「それがどうした」というような態度では、これからの時代についていくことはできないだろう。
話はかわるが、この前ハワイにはアジア人がたくさんいるという話をしたが、確かに私のようなHapaなどをあわせたら半分以上いるのではないかというぐらい、アジア人の数が多い。
そしてその中でも韓国系の人は、目立つのでわかりやすいのだが、彼ら彼女らを見分けることはたやすい、それは声がでかく、ひそひそ話ができないからである。
しかしこの声がでかいというのは、性格上の問題と言ったことよりも、むしろ彼らの言語にある。それは彼ら彼女らの音を出す音域があまりにも広がりがあるためである。
例えば母音だけでも21ある。そしてさらにおもしろいのは音を普通の平音だけではなく、濃音と激音に分けていて、実はこの激音と濃音というのは激しい音を出す音で、この激音と濃音がひそひそ話ができないひとつの理由だと解釈している。
これはある子供の韓国の国民学校での話である。
その男の子は日韓ハーフの男の子であるが、ある時テンポラリーではあるが韓国に転向したらしい。
しかし彼は今までずっと学校では日本語をつかって来たので、韓国語は苦手である。
彼にはだせない音があり、特に特定の母音(例えばウーという横に唇をなばしてだす音)や濃音、激音などは苦手で、ほとんど曖昧に発音していたそうである。
しかしある時、その学校で本を読まされた。
彼は発音自体苦手なので、本を読むと言うことを少しためらっていたのだが、しかしそれでも読めと言われたら読むしかない、仕方なしに読んだのだが、読んでいると何やらまわりからくすくすと笑い声がするのだが、どうやらその笑いは自分を笑っているようである。
後で実際、その笑っていた女の子たちに言われたそうだが、それはあなたの読み方はなんかおもしろいということで、彼は濃音や激音をはっきりと発音させないがゆえに、その発音が激音や濃音を区別して話す人間からみたら、平易でなんとなくおもしろいらしいのだ。
その時はショックで、絶対こんな言葉話すもんかと思ったそうだが、その後しばらくして彼は日本に帰ったそうである。
語学と言うのはこのように時には恥をかくことがある。
しかし人をつなげるのは言葉であり、私は日本語でもなんでもそうであるが、この言葉を学ぶことは、この時代において他者とつながりをもつことでもあるし、そのコミュニティーのレヴェルを上げて行くものであると信じている。
これは私の見解であるが、言葉はこの多様性の時代において、特に共通語を学ぶと言うことはすべての基本であると思っている。
はじめて言葉を学ぶといろいろと弊害が起こってくるが、しかしそれを乗り越えて行くところに言葉を学ぶおもしろさがある。


















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私の読書感想文

2010-08-18 | Weblog
「冒険者たち」という本がある。
これは私が子供のころはじめて読破した本であるが、夏休みの読書感想文を書けと言われて時に本屋に行って選んだ本である。
この物語はガンバと言うネズミたちの集団が、ある日助けを求めて島を渡ってきたネズミから、自分たちの仲間たちを助けてやってほしいと言われる。
そして彼らはそのネズミたちを助けるために、実際にその島に行って、そこでその島のネズミたちを苦しめるノロイとそのイタチの集団と戦う物語である。
正直その本が当時の私にとって、かなりぶあつかったので購入するのをためらったが、しかしその当時「冒険」という言葉に、いささかあこがれを抱いていた私は、その本を手にとって購入したのであるが、実際読んでみると時間をわすれてしまうほど夢中に読んでしまったことをおぼえている。
物語は主人公のガンバと言う都会のネズミが、今まで自分の住み慣れた土地をはなれて港に出て行ったことからはじまる。
ガンバたちは港に出て行って、船乗りネズミたちの祭りに参加し、その宴を楽しんでいたが、しかしその祭りが一人の訪問者によって事態は急変する。
その訪問者はある島から来たネズミなのだが、彼は深い傷を負っていて、そのネズミの話によるとノロイといういたちの集団があらわれて、今まで平和だった村が、彼らによって破壊されているので助けてほしいという。
しかしネズミたちはうんとは言わない。
なんせノロイと言えば恐怖の伝説のような存在で、船乗りネズミであればだれだってその恐ろしさは知っているからである。
しかしそこで立ち上がったのがガンバとその一行であるのだが、自分の住みかしか知らず、そこが自分のすべての世界であると勘違いしていた、彼がそこを出て海に向かいそしてさらにその島のネズミたちを助けると言うことは、当時の私にとって十分刺激的であった。
そしてその弱いネズミたちが力を合わせてイタチと戦い、島のネズミを救うというエンディングに単純であるが、子供ながらに感動したことをおぼえている。
この物語のタイトルは「冒険者たち」であるが、冒険とは人間を成長させるための十分なこやしであり、私は人間を成長させるためには不可欠な事柄であると思っている。
昔からかわいい子には旅をさせろと言うが、人間同じところにとどまっていれば成長はない。だから若いうちはどこかに出て行って、何かを学ぶ時間を持つと言うことは貴重なことである。
しかし冒険と言っても何もあぶないことをするのではない。
よくスラム街のようなあぶないところに行って「どこどこに行って来た」なんて武勇伝を語るバカがいるが、そんなもの自慢にならないし、絶対やってはいけない。
だいたいそういうことをするのに限って、ろくすっぽ英語も話せないのが多いのだが、もし本当にそういう言葉もわからない人間が、危険な目に会ったらどうするつもりなのか、危険なことは目に見えている。
これは笑い話であるが、ある男が武勇伝をつくるために、スラム街に行ったらしい。
スラム街と言っても、メインストリートから一本離れただけなのだが、実は外国ではこのメインストリートを外れると危険な場所が多く、しかし彼は「もしあぶなくなったら、もとのストリートに走って戻ればいいや」というような軽い気持でそこに行ったそうだ。
しかしここは外国、日本とはまったく状況が違う、しばらくすると見慣れない観光客風の男にナイフを持った大柄の黒人がナイフを片手に脅して来たそうである。
男はあせった、ただでさえもばかでかい人間なのに、おまけにナイフまで持っている。
そしてその怖がっている男にその黒人は「金をだせ」だか何かはわからないが、脅し文句を言ってきたのだ。
しかしこの男英語がまったく話せない。なんせ高校の英語は赤点だったらしく、黒人が何を言ったかわからないということは、さらに男をあせらせた。
そしてそれでも何とか聞かなくてはいけないと思った男は、そこで思わず「Pardon」と言ってしまったのだ。
この言葉にその大柄の黒人は腹をかかえて笑ったらしい。
こんな状況でこいつは何を思っているんだろうとでも思ったのだろうか。今時「Pardon」なんて言う奴も珍しい。
結局この男の馬鹿さ加減に大柄の男は金をとるどころか、笑い転げて何もできなかったそうだが、この話は一部では有名な話である。
これはあまりに彼のとった行動がバカげていたので、助かったと言う例であるが、しかしこういうバカな武勇伝は冒険とは言わない。
そんなことをすることで、何かを学べるかと言ったら何も学べないわけで、それは単なる刺激にすぎないからだ。
刺激を求めてあぶないところに入っていくのは冒険ではない。
私自身もボクシングクラブに入ってしまったがゆえに、危険なところに試合に行ったこともあるが、しかしこれは必然的なことで、不思議なことにそれが必然であれば、危険は回避される。
この冒険者たちのはじまりは、自分たち以外のところにも世界はあるんだと言うことを確かめに行ったことからはじまるわけであるが、私は冒険とはその自分をかえてくれる何かが起こるんだと言う期待と探究心によっておこるものだと信じている。
さらに英語で冒険はAdventureであるが、それはラテン語のクリスマスのAdventと関連していて、その語源は「待つ」とか「期待する」と言うことである。
私は思うが冒険とは単に刺激を求めることではない。いささか抽象的であるが、何かを期待することが冒険のはじまりだと思っている。
現にこの物語もその冒険はガンバの期待からはじまり、そしてそこから数々の試練があって、そして最終的にイタチを倒して希望を得たのであるが、彼らをここまで突き動かしたのはガンバの新しものに対して、自分を変えてくれる何かが起こるという期待、さらに言うなら希望である。だから彼はその住み慣れた場所をでていったのではないだろうか。
前にも話した中3の女性であるが、夏にホームスティにアメリカに旅立った。
私は行く前に、むこうに行ったら期待していいよ。期待したことが実際現実になるからと言ったのだが、何かを期待することが、人間を成長させる冒険の突破口で、何かを期待し待ち望むことが未だにどこへ行っていいかわからない、手探りですすもうとしている、特に若い人たちの可能性を開いてくれる、何かであると信じているからである。
しかしこの期待と言うのは、ある種のときめきのようなもので、それは若いうちにしか持つことができない特権である。
そのため感じる心を大切にして、若いうちはこの特権を大いに生かして成長してほしい。



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いわゆる客観的な

2010-08-16 | Weblog
「スポーツはやらされるものではなく。自分で時間をつくってするものであり、精神的にも肉体的にも、なんら人から拘束されるものではない」    エドの言葉

先週ハーバード白熱教室の話をとりあげたが、うちのジムでも結構な人数の人がそれを見ていたと言う。
おそらくあのスタイルが典型的なディベートの仕方だと思うが、すごいと思ったのは、ああいう倫理的な問題を語ると必ず、自分の体験というか価値観をもろにだして語る人間がいるのだが、しかし学生たちの意見は理路整然としていて、客観的に議論がすすめられていたことである。
率直な感想としては、私が見たのはミルとベンサムの幸福論の考察というか、その特定されたシチュエーションにおいて、どうとらえそこから物事の倫理を考えて行くというようなことであったと思うのだが、しかしそういう客観的な考察ができるのは、彼ら彼女らがしっかりと古典を学び、原点から何がただしいかわるいかということをとらえなおすことができるからであろう。
以前ブログでというか学生に「君主論」「兵法」「ガリア戦記」「クラウゼビッツの戦争論」そして「聖書」などの古典を読むことは、大事だということを勧めたが、これらの古典がすべての哲学や思想とかかわっていることが多く、特に聖書を読まなければ、西洋のものの考え方についていけないからである。
そしてこれは個人的な意見であるが、古典を読めば、その時はものにならなかっても、新しい勉強をしていくうちに、その忘れ去られようとしているものが、物事を考える上での骨子となるからである。
ボクシングでもなんでもそうであるが、競技者もある意味、客観的に物事をとらえる力が、必要であり、客観的に物事をとらえることで見えてくるものが違うと思う。
当たり前だが、そのため我々はいろいろな特に古典などの書物を読んで、人間やその集団、そして組織について学ぶ必要があるだろう。
本よ読むといろいろな考え方にぶちあたるので、おのずと違う考え方を認めるというか、知るようになるであろう。
そしてそれを受け入れるかどうかはわからないが、しかし知ると言うだけでも大事なことで、まったくそういうものを読まない人とは、そのキャパが圧倒的に違うし、考え方に広がりがもてるだろう。
以前仲間を集める人間は教養能力が乏しいと言ったが、おそらくこれは学ばないので考え方に広がりがもてない限界であると思っている。
持論だけで自分の考え方に広がりがないから、同じような所謂仲間を集めるのであるが、率直な意見としては、組織や集団をまとめる人は、そうならないように書物をたくさん読んで客観的な意見を持つことが大事であると思っている。
さらに競技する理由もそうである。
日本ではスポーツをやっている人間が、まわりから特別視されることがあるが、これは少しおかしい。
まあ都会ではもうそういうことはなくなってきているが、われわれの時代やちょっとした田舎であれば、学校の成績があきれるほどわるかっても、スポーツをやっているからということで、それがあたかも個性というようにとらえられ、逆にスポーツマンはさわやかだとか、礼儀正しいと言われることもあるだろう。
とにかくそう言った考えでは、何にせよ、一生懸命、それにうちこんでいると思わせるような人間が尊重される。
そのため、バランスも考えずにとにかく他のことを無視してまでも、一生懸命させることに専念し、そういう一生懸命、寝る間もおしんで練習し、勝たせる指導者が、よき指導者と理解される傾向がある。しかしこういうことはとんでもない勘違いであって、学生やスポーツすると言う観点から見れば根本的に何かが違う。
一生懸命やることだけが、スポーツの意義であるならば、もしそういう思い込みだけで、競技者をそだててしまうのは、単なる先細りの人生を生み出してしまうだけである。
2週間ぐらい前、あるスポーツライターがスポーツ選手は、その競技にのめりこめばのめりこんだ人間ほど表現力が乏しいというようなことを言っていたが、こういうことはやはり客観的に物事を考えることができず、競技者をある独特の考え方、いわゆる持論で追いやってきた結果であると懸念している。
しかし客観的に物事をとらえるということは、非常に難しいことである。
それをするためには、一言で言うと訓練がなされなくてはならないのだが、この訓練がなされていないと考え方がかたより、それはあたかもまとまっているかのように見えるが、自立や自己主張ができない、結局その中でしか、個を育てることができないので、自己主張ができない、ステレオタイプの人間を生み出すのだが、よく女性に自分の夢を語る奴がいる。
言っていることは漫画みたいな理想で、しかし女性としては、ほれこんでいるので、それが素晴らしく、すごいかっこいいと思うのだが、まあこれはその二人の世界であるならば問題はないのだろうが、しかし客観的に見て、そういうことをまわりに言えるかどうかが問題で、少したとえはわるいが、恋人同士のような監督とアスリート、コーチとアスリートと言うような、あうんの呼吸のようなものが、できてしまっている集団の中で、そういうレヴェルで、物事を考えて行く集団になってはいないか、よく考える必要がある。
われわれにはスポーツとは一生懸命努力することが大事で、そのため苦しい減量や練習などをすることが尊いことだと信じ、そしてそれを行うもの、指導するものが尊いと信じているが、しかしスポーツというのは、もともと楽しむものであり、みんなのものである。
ストイックな考え方や、一人指導者の考え方だけによってつくられる小さな王国のようなものではないし、そう言う人間が何も偉いと言うことでもない。
考え方や目的がそれぞれ違った人間が、そこに集い競技するから楽しいわけであって、そういう多様性を認めなくては、スポーツ自体がおもしろくなくなってしまうだろう。
何事においても客観性と言うものは大事である、そしてここのようにいろいろな人間が集まっている場では、特そのいろいろな考え方を尊重するためにも、俺はこうだと言う漫画のような持論ではなく、客観的なものの見方がそれ以上に必要であると思っている。
そしてその客観的なものの見方を養うために、書物は不可欠であり、特に古典を読むことはは重要である。


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カサノバと呼ばれた男

2010-08-13 | Weblog
私の知り合いにイタリア系アメリカ人がいる。
彼はかなりのプレイボーイである。
私自身こういう女性にややこしい人間は、あまり好きではないのだが、しかしとにかく知的で魅力ある男で、英語はもちろんのこと、イタリア語フランス語、そして日本語が話せて、日本語に関しては、結構難しい話、しかもキャンベルの話ができるぐらい流暢である。
でこの男いろいろな女性と付き合いをしているのだが、どの方も非常にハイレヴェルな人たちである。この前は建築士、そして今度は、客室乗務員と彼がお付き合いをする女性はどこで知り合ったのかはわからないが、ハイステータス、ハイレヴェルな人たちで、その女性との交際の仕方ひとつにしても、そんじょそこいらの男とは違うつわものである。
私は実際女性にだらしないというか、いいかげんな人間は大嫌いなのだが、しかしこの男は何かが違う。
私が思うにこいつは女性に対して、礼儀と言うか作法を心得ている。現にこの男はよく私に女性の話をするのだが、話すたびにこいつは本当に、女性を尊敬しているなあと言うのがわかるのだが、さらに女性と言うのは、ほめればほめるほどきれいになるという名言をのこしたのだが、そういう意味では、彼はそのハイステータスな女性にあわせるように、常に自分を磨き、心から女性を尊敬しているのだが、そこが女性にだらしない男との決定的な違いだと思っている。
私はこの男のことをまわりがカサノバと言っているので、そう呼んでいるが、もちろんこれは彼の本名ではなく、ニックネームであるが、そのニックネームはまわりにいる女性の誰かがつけたそうである。
私は最初それを聞いた時思わず大笑いしたのだが、だれがつけたかわからないがナイスなネーミングである。
ある時私はこの男と恋愛と言うか、愛と言うことについて大激論をしたことがある。
私はどうもその彼のテンポラリーな恋愛の仕方がよくわからないので、愛と言うのはそういうテンポラリーなものではないと言ったのだが、私が言ったのは人を好きななると言うことと愛すると言うことは根本的に違うということである。
日本語で好きと愛という言葉は重みが全然違うのだが、たぶん西洋人がI love youと簡単に言えるのに日本人が愛してると簡単に言えないのは、その好きだというレヴェルと愛すると言うことの重みと責任が違うことを知っているからである。
英語でももともとLoveと言うのはCharity(慈愛)という言葉が使われていたそうだが、それが聖書の普及にともなって、そういう堅い言葉から平易に語られた言葉に切りかわったそうであるが、そう考えると西洋人の言うLoveというのは責任や重みのない愛であり、厳密に言えば宗教的な意味をもたなければ、低レヴェルでおわってしまう。そこがいとも簡単にこの言葉を口にできる理由ではないかと思っている。
フェイウオンの歌に「約束」という歌がある。
非常にこの歌は私も大好きでよく聞いているのだが、この歌詞に「たとえあなたの顔がすっかりかわって、白髪になってもあなただとすぐわかる」という歌詞があるが、東洋人はその人のことを好きになるとずっとその人といっしょにいたいという気持ちをもつのだが、この歌詞はその表れである。
よく東洋人の女性があなたを愛していますと遠回しに告白する時に「あなたが白髪になっても忘れない」というようなことを言うが、愛するというのは、我々東洋人とってはテンポラリーなものではなく、それはお互いが生涯をかけて貫きと通すものだと信じているからである。
そしてしかしもし自分が人を愛して家族ができて、生涯をかけてその人を大切にしようと思っても、それを本当十分にできたかどうかわからない、あいまいだがそれが東洋の言う愛である。
この話を聞いて彼は「あなたのは哲学ですよ。本能の部分がかけています。実はこの部分が意外と大切ではないのですか」と言っていたが、しかし彼は久しぶりに素晴らしい話が聞けましたと最後に言っていた。
私は彼のようなテンポラリーな恋もいいと思うが、しかし根本的には人を愛すると言うことは責任が伴う行為である。
おそらく人を一生涯かけて大切にしていくということの責任と価値、そして喜びを、こういうテンポラリーにしか生きる人間に求めてもむだであろう。
しかしこれができるかできないかで、人間の最後を決定づける何かが違うと思っている。
最近キャバクラの女性が二人の子供を育児放棄で殺したという事件があったが、やはりこれは親としての責任とか言う問題もそうだが、テンポラリーにしか人を愛することができない人間の限界である。









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公共性の話をしよう。

2010-08-12 | Weblog
9日から11日は休みで大阪にいた。
今回こそはラッキーにいきたかったのだが、しかし仕事の急用が入ってしまい、いけなかったのだが、もうかれこれ1年はいっていないと思う。
以前うちの会員がこういうことを言っていた、実際うちのクラブは、そのオーナーにうちのレヴェルのあった大会をすすめてもらって、それに出場しているのだが、彼曰く現役をとっくにしりぞいた自分たちが、大会にでれるのはそのオーナーのおかげだ。おそらくそういう大会に出場していなければ、自分たちは試合には出場していなかったと思うのだが、そういう試合を勧めてくれたオーナーにはたいへん感謝しているらしい。
おそらくこういうことに配慮できるということは、ジムの会員の育成の仕方にも偏りがなく、おっさんであっても健康維持であってもダイエットであっても、こういう配慮が行き届いた指導をしているということがわかるのであるが、彼のジムの運営は一言で言えば平等である。
しかしこの平等と言う言葉は非常に難しい言葉である。
なぜなら平等と言う言葉は、非常にコモンセンスの問われる言葉であり、この平等と言うことを知るためには、公共性と言うものを深く考えなくては、平等と言う言葉が独り歩きし、恣意的になってしまうからである。
今回大阪に滞在中にホテルでハーバード白熱教室という番組を見ていた。
ちょうどその時は1回から6回ぐらいのを連続でやっていたのだが、この哲学講義ははっきり言って難しい。
特にディスカッションでは、正義や幸福などを語る時に、ミルやベンサムなどの古典を参考にするのだが、古典をよく知らなければこの話には十分についてはいけないからである。
正直彼のレクチャーはすべて数字や言葉で表そうとする、大陸の合理主義的なところがあるので日本的な発想をどこかですてなくては、理解しにくいと思うのだが、しかし自分たちは何が正しいのかということを問う意味では、非常に勉強になるレクチャーである。
しかしその番組がやっている頃は、すでに12時をまわっていたので、疲れていた私は見ながら眠ってしまったのであるが、講義は途中までだがおもしろかったし、たぶん彼の最近出た本は、好評なので日本語と英語版の2つ購入するつもりだ。
話は平等と言う言葉にもどるが、この平等と言う言葉もある種の正義というものは含んでいる(その講義では本当の正義は、ベンサムの言う絶対多数の最大幸福なのか、はたしてまたそれは違うところにあるのかということをディスカッションしていたが)。
なぜなら求められる正義と言うのは、不変のものであり、一方においてそれが有益であっても、もう一方においてそれが有益ではなく、むしろ害になることがあってはならないからである。
難しくなってはいけないので話を戻すが、平等と言うのはおそらく、ふってわいてくるものではないし、仲良くやっていればそういうものが保たれるというものでもないだろう。
特にこういうジムやクラブのような共同体では、いろいろな人間が集まってくるのだから、そういう中で平等性を問うということは、たいへんむずかしいことで、それは経営者が深く考え学ぶところから、形成していくものであり、またその集団は公共性を持って秩序が保たれなければならない。
私が日ごろからこのクラブは中高生の集まりではないと言うところは、実にこの点である。
ここは大人や社会人んが集まっているのだから、指導者や経営者が平等性や公共性について十分学ぶことは不可欠であり、その公共性を持って、その集団に何がいいことなのか、あるいは有益であるのかと言うことを考える必要がある。
そのため指導者には哲学が求められるのである。
今やもう指導者は哲学を持たなくては、グローバルゼーション化され、多様性の時代では平等や公共性を語ることは難しいことである。
もうほとんどの人間が大学や専門学校に言っているのだから、漫画や道徳レヴェルの話では通用しない。
時々どこで見たのかわからないが、漫画のセリフや名言集みたいなことをいいことだと思って言う奴もいるが、しかしそういう言葉が通用するのは、同じ世界で生きる、同じレヴェルの人間で、社会人などの一般の会員もいる多様化された時代では、しっかりとした哲学を持たなければ、集まる人間もそれなりで、そういう人間が集まれば集まるほど、仲良し軍団化するのは目に見えている。
勢いやのり、そして自分たちはこんなに仲がいいんだと言う、特定な雰囲気をかもしだす集団には公共性なんてありえない。単に仲間を意識させて集めるだけの集団であるならば、そこには精神的な進歩はないであろう。
人間をよりよく導いていくためには、よりよい言葉は不可欠である。
決して情や仲間意識でつながる集団には公共性や精神的な進歩はないと思っている。
そういう意味で、難しい本を読むと言うことは言葉を蓄えることであり、指導者や運営する責任者はそういう言葉を蓄えなくてはならないだろう。













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2010-08-10 | Weblog
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