ブログでよく本を読めということを言っている。
本と言うのは考える力を養うからで、社会では必要であるからだ。前にも言ったが最近テレヴィで白熱教室と言う番組が放映されていて、その講義は何万と言う数の人がうけられ、本もベストセラーとなっているが、今時代はケオスで先がわからない、このケオスで先が見えない時代だからこそ、その見えない不安や悩みと言うのを哲学と言うものに救いを求めているのだと思う。
若い人には難しい本を読めと言っている。特に先人が書いた難解な哲学書や思想などの本を読めと言っているが、難しい本と言うのはまず読んで何を書いているのかわからない。
私も実際最初読んだ時はちんぷんかんぷん、英語で「Greek to me」と言うのはまさにこのこと、私の本は時々角がへっこんでいたり、多少まがっているのがあるが、それらは難しすぎて理解できないのでおこってたたきつけたあとで、最初俺の頭では無理と思ったものだ。
しかし読んでいくうちにその著者に同調したり反発したりしていくうちにいつの間にか客観的な自分と言うものが出てくる、その時ようやくこの本は何を書いているのかということが多少なりとも理解できるのである。
難解な本と言うのは先人が悩み悩んで書き綴った本である、こういう本に真剣に取り組み格闘することによって本当の考える力が養われるのだと思う。
世の中を生きていくと理不尽なことがたくさんある。人間はそういう経験を重ねることで成長するのだが、その試練に乗り越えていく時に力になるのが、本の力で、考えることで人間は成長する。
またその力は社会で困難にあった時にそれを乗り越えて行く力となる。
私はこういう力を若いうちに養っておくことは非常に大事なことだと思っている。
私自身もバイレイシャルということで悩んだ時期がある。今では何か国語かしゃべるのでかっこいい、二つの文化を持っているので国際的だいうことを言われているが、しかし当時は差別や偏見と言うものがあって、今のようにかっこいいとかアドヴァンテージと言うようなうけとられかたをすることがなく(その言葉にはうんざりしているが)偏見と言うものがあって、実際に私は両方から差別をうけたことがある。
今ではバイレイシャルはテレヴィでももてはやされて活躍する時代になっているが、しかし少し前はバイレイシャルはここではおとっているという見方をされていたように思える。
私が救われたのはヘーゲルの弁証法、弁証法と言うのはテーゼとアンチテーゼを同時に考えて真実を導き出すと言う考え方だが、この考え方が今の自分を養ってくれたと信じている。
簡単に言うと大雨が降ったらその大雨は時には災害になるが、しかしその災害が去った後にはその大雨が川をうるおし、大地に恵みを与えると言ったような一見自分たちには不利益に見えても、実はそうではなくて自分を成長に導くためのものなんだと言ったようなポジティブな考え方で、私は事実このことを知ったことで生き方の見方がかわり、前向きに人生を考えることができたと思っている。
前にいじめの問題で相談されて学校に行ったことがある。
ある子供が言葉によっていじめられていて、それをやめさせるようにということと、そしてどうしたらいいのかということを提案しに行った。しかし本当に大事なことはその子がそのいじめをうけてどう立ち直っていくかだ。
私はその時教師からできる限りのこと、なぜいじめられたのか原因はあったのか?たとえば給食が食べるのが遅いとか、運動神経がにぶいと言うようなことでいいから教えてくれと言ったのだが、それはもしそういうことであるならば改善できることはした方がいいからだ。
我々はレポーターではない。だからここで犯人をつかまえて責任追求をする必要はない。
大事なのはその子がそれをうけとめてどう変わっていくかで、ここで何もしなかったらいじめられただけになってしまう。いじめられたけどそのいじめによってその子がどう変わっていくのが問題で、私はそのいじめによってそのいじめられた子が成長できることを願っているからだ。
だから思ったことを信用してつつみ隠さずに伝えてほしいということを言ったのだが、私は学校からかなり信用を得たようで、いじめ解決の方法は私の提案によってなされた。
いじめだけではない、人間は生きていく上で必ず試練と言うものにぶちあたる。そしてその試練にぶち当たった時に考える力が必要で、哲学的思考を持つということは非常に大事なことであり、そういう思考を持つためには若いうちから頭を耕さなくてはならない。
子供に競技目的でボクシングをさせるのは言語道断、そんなことを大真面目にやっている人間をみたらいい、そいつらは英語が話せるのか?まともな本を読んだことがあるのか?おそらく勉強きらいでーすというようなタイプだと思うのだが、そいつらにとっては下半身が一番デリケートな部分かもしれないが、しかし頭というのは一番デリケートで大事な部分で子供はこれから耕していかなくてはいけない、しかしそういう奴らにまかせたら頭が耕されるどころかむちゃくちゃになる。
そういうことを言う奴らが2か国語も3か国語も話し、英語で論文を読んで、少々専門的な問題に答えることができればいいが、しかし英語の論文どころか日本語もあやゆい、記事のタイトルすらも読めないのではないか?
はっきり言ってタイトルも読めないようでは文部科学省的には指導者失格、今や英語の教室に通っている子供もたくさんいるのだから、特に子供に指導するならばこれぐらいの英語は読んでほしいものだ。
私がなぜこういうことを書くかと言うのはあえて「ボクシングを子供にさせるな」と書いてある論文や記事が英語には多いからで、読めない奴が勢いでそういう間違ったことをさせているから、英語が理解できないと間違った方向に行くとはこのことだ。
本と言うのは考える力を養うからで、社会では必要であるからだ。前にも言ったが最近テレヴィで白熱教室と言う番組が放映されていて、その講義は何万と言う数の人がうけられ、本もベストセラーとなっているが、今時代はケオスで先がわからない、このケオスで先が見えない時代だからこそ、その見えない不安や悩みと言うのを哲学と言うものに救いを求めているのだと思う。
若い人には難しい本を読めと言っている。特に先人が書いた難解な哲学書や思想などの本を読めと言っているが、難しい本と言うのはまず読んで何を書いているのかわからない。
私も実際最初読んだ時はちんぷんかんぷん、英語で「Greek to me」と言うのはまさにこのこと、私の本は時々角がへっこんでいたり、多少まがっているのがあるが、それらは難しすぎて理解できないのでおこってたたきつけたあとで、最初俺の頭では無理と思ったものだ。
しかし読んでいくうちにその著者に同調したり反発したりしていくうちにいつの間にか客観的な自分と言うものが出てくる、その時ようやくこの本は何を書いているのかということが多少なりとも理解できるのである。
難解な本と言うのは先人が悩み悩んで書き綴った本である、こういう本に真剣に取り組み格闘することによって本当の考える力が養われるのだと思う。
世の中を生きていくと理不尽なことがたくさんある。人間はそういう経験を重ねることで成長するのだが、その試練に乗り越えていく時に力になるのが、本の力で、考えることで人間は成長する。
またその力は社会で困難にあった時にそれを乗り越えて行く力となる。
私はこういう力を若いうちに養っておくことは非常に大事なことだと思っている。
私自身もバイレイシャルということで悩んだ時期がある。今では何か国語かしゃべるのでかっこいい、二つの文化を持っているので国際的だいうことを言われているが、しかし当時は差別や偏見と言うものがあって、今のようにかっこいいとかアドヴァンテージと言うようなうけとられかたをすることがなく(その言葉にはうんざりしているが)偏見と言うものがあって、実際に私は両方から差別をうけたことがある。
今ではバイレイシャルはテレヴィでももてはやされて活躍する時代になっているが、しかし少し前はバイレイシャルはここではおとっているという見方をされていたように思える。
私が救われたのはヘーゲルの弁証法、弁証法と言うのはテーゼとアンチテーゼを同時に考えて真実を導き出すと言う考え方だが、この考え方が今の自分を養ってくれたと信じている。
簡単に言うと大雨が降ったらその大雨は時には災害になるが、しかしその災害が去った後にはその大雨が川をうるおし、大地に恵みを与えると言ったような一見自分たちには不利益に見えても、実はそうではなくて自分を成長に導くためのものなんだと言ったようなポジティブな考え方で、私は事実このことを知ったことで生き方の見方がかわり、前向きに人生を考えることができたと思っている。
前にいじめの問題で相談されて学校に行ったことがある。
ある子供が言葉によっていじめられていて、それをやめさせるようにということと、そしてどうしたらいいのかということを提案しに行った。しかし本当に大事なことはその子がそのいじめをうけてどう立ち直っていくかだ。
私はその時教師からできる限りのこと、なぜいじめられたのか原因はあったのか?たとえば給食が食べるのが遅いとか、運動神経がにぶいと言うようなことでいいから教えてくれと言ったのだが、それはもしそういうことであるならば改善できることはした方がいいからだ。
我々はレポーターではない。だからここで犯人をつかまえて責任追求をする必要はない。
大事なのはその子がそれをうけとめてどう変わっていくかで、ここで何もしなかったらいじめられただけになってしまう。いじめられたけどそのいじめによってその子がどう変わっていくのが問題で、私はそのいじめによってそのいじめられた子が成長できることを願っているからだ。
だから思ったことを信用してつつみ隠さずに伝えてほしいということを言ったのだが、私は学校からかなり信用を得たようで、いじめ解決の方法は私の提案によってなされた。
いじめだけではない、人間は生きていく上で必ず試練と言うものにぶちあたる。そしてその試練にぶち当たった時に考える力が必要で、哲学的思考を持つということは非常に大事なことであり、そういう思考を持つためには若いうちから頭を耕さなくてはならない。
子供に競技目的でボクシングをさせるのは言語道断、そんなことを大真面目にやっている人間をみたらいい、そいつらは英語が話せるのか?まともな本を読んだことがあるのか?おそらく勉強きらいでーすというようなタイプだと思うのだが、そいつらにとっては下半身が一番デリケートな部分かもしれないが、しかし頭というのは一番デリケートで大事な部分で子供はこれから耕していかなくてはいけない、しかしそういう奴らにまかせたら頭が耕されるどころかむちゃくちゃになる。
そういうことを言う奴らが2か国語も3か国語も話し、英語で論文を読んで、少々専門的な問題に答えることができればいいが、しかし英語の論文どころか日本語もあやゆい、記事のタイトルすらも読めないのではないか?
はっきり言ってタイトルも読めないようでは文部科学省的には指導者失格、今や英語の教室に通っている子供もたくさんいるのだから、特に子供に指導するならばこれぐらいの英語は読んでほしいものだ。
私がなぜこういうことを書くかと言うのはあえて「ボクシングを子供にさせるな」と書いてある論文や記事が英語には多いからで、読めない奴が勢いでそういう間違ったことをさせているから、英語が理解できないと間違った方向に行くとはこのことだ。