脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

哲学的思考で考えろ

2013-05-29 | Weblog
ブログでよく本を読めということを言っている。
本と言うのは考える力を養うからで、社会では必要であるからだ。前にも言ったが最近テレヴィで白熱教室と言う番組が放映されていて、その講義は何万と言う数の人がうけられ、本もベストセラーとなっているが、今時代はケオスで先がわからない、このケオスで先が見えない時代だからこそ、その見えない不安や悩みと言うのを哲学と言うものに救いを求めているのだと思う。

若い人には難しい本を読めと言っている。特に先人が書いた難解な哲学書や思想などの本を読めと言っているが、難しい本と言うのはまず読んで何を書いているのかわからない。
私も実際最初読んだ時はちんぷんかんぷん、英語で「Greek to me」と言うのはまさにこのこと、私の本は時々角がへっこんでいたり、多少まがっているのがあるが、それらは難しすぎて理解できないのでおこってたたきつけたあとで、最初俺の頭では無理と思ったものだ。
しかし読んでいくうちにその著者に同調したり反発したりしていくうちにいつの間にか客観的な自分と言うものが出てくる、その時ようやくこの本は何を書いているのかということが多少なりとも理解できるのである。
難解な本と言うのは先人が悩み悩んで書き綴った本である、こういう本に真剣に取り組み格闘することによって本当の考える力が養われるのだと思う。
世の中を生きていくと理不尽なことがたくさんある。人間はそういう経験を重ねることで成長するのだが、その試練に乗り越えていく時に力になるのが、本の力で、考えることで人間は成長する。
またその力は社会で困難にあった時にそれを乗り越えて行く力となる。
私はこういう力を若いうちに養っておくことは非常に大事なことだと思っている。

私自身もバイレイシャルということで悩んだ時期がある。今では何か国語かしゃべるのでかっこいい、二つの文化を持っているので国際的だいうことを言われているが、しかし当時は差別や偏見と言うものがあって、今のようにかっこいいとかアドヴァンテージと言うようなうけとられかたをすることがなく(その言葉にはうんざりしているが)偏見と言うものがあって、実際に私は両方から差別をうけたことがある。
今ではバイレイシャルはテレヴィでももてはやされて活躍する時代になっているが、しかし少し前はバイレイシャルはここではおとっているという見方をされていたように思える。

私が救われたのはヘーゲルの弁証法、弁証法と言うのはテーゼとアンチテーゼを同時に考えて真実を導き出すと言う考え方だが、この考え方が今の自分を養ってくれたと信じている。
簡単に言うと大雨が降ったらその大雨は時には災害になるが、しかしその災害が去った後にはその大雨が川をうるおし、大地に恵みを与えると言ったような一見自分たちには不利益に見えても、実はそうではなくて自分を成長に導くためのものなんだと言ったようなポジティブな考え方で、私は事実このことを知ったことで生き方の見方がかわり、前向きに人生を考えることができたと思っている。

前にいじめの問題で相談されて学校に行ったことがある。
ある子供が言葉によっていじめられていて、それをやめさせるようにということと、そしてどうしたらいいのかということを提案しに行った。しかし本当に大事なことはその子がそのいじめをうけてどう立ち直っていくかだ。
私はその時教師からできる限りのこと、なぜいじめられたのか原因はあったのか?たとえば給食が食べるのが遅いとか、運動神経がにぶいと言うようなことでいいから教えてくれと言ったのだが、それはもしそういうことであるならば改善できることはした方がいいからだ。
我々はレポーターではない。だからここで犯人をつかまえて責任追求をする必要はない。
大事なのはその子がそれをうけとめてどう変わっていくかで、ここで何もしなかったらいじめられただけになってしまう。いじめられたけどそのいじめによってその子がどう変わっていくのが問題で、私はそのいじめによってそのいじめられた子が成長できることを願っているからだ。
だから思ったことを信用してつつみ隠さずに伝えてほしいということを言ったのだが、私は学校からかなり信用を得たようで、いじめ解決の方法は私の提案によってなされた。

いじめだけではない、人間は生きていく上で必ず試練と言うものにぶちあたる。そしてその試練にぶち当たった時に考える力が必要で、哲学的思考を持つということは非常に大事なことであり、そういう思考を持つためには若いうちから頭を耕さなくてはならない。

子供に競技目的でボクシングをさせるのは言語道断、そんなことを大真面目にやっている人間をみたらいい、そいつらは英語が話せるのか?まともな本を読んだことがあるのか?おそらく勉強きらいでーすというようなタイプだと思うのだが、そいつらにとっては下半身が一番デリケートな部分かもしれないが、しかし頭というのは一番デリケートで大事な部分で子供はこれから耕していかなくてはいけない、しかしそういう奴らにまかせたら頭が耕されるどころかむちゃくちゃになる。
そういうことを言う奴らが2か国語も3か国語も話し、英語で論文を読んで、少々専門的な問題に答えることができればいいが、しかし英語の論文どころか日本語もあやゆい、記事のタイトルすらも読めないのではないか?
はっきり言ってタイトルも読めないようでは文部科学省的には指導者失格、今や英語の教室に通っている子供もたくさんいるのだから、特に子供に指導するならばこれぐらいの英語は読んでほしいものだ。
私がなぜこういうことを書くかと言うのはあえて「ボクシングを子供にさせるな」と書いてある論文や記事が英語には多いからで、読めない奴が勢いでそういう間違ったことをさせているから、英語が理解できないと間違った方向に行くとはこのことだ。





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米国のルールブックは300ページもある

2013-05-28 | Weblog
北朝鮮では外来語をつかってはいけない。
この前友達からおもしろいことを聞いたのだが、ボクシングの用語も戦時中の日本のように朝鮮語があてはめられているらしく、KO勝ちは「完全内倒し」アッパーカットは「あげうち」それはどのスポーツも外来語を朝鮮語に置き換えられているらしく、ヴァレーボールのフェイントを「こっそり球」としているのには正直笑ってしまった。

話しはアメリカのアマチュアボクシングの話であるが、USAアマチュアボクシングのルールブックは300ページぐらいからなる。
おもしろいのは連盟でスポーツ保険などを管理しているところであるが、むこうでは徹底して自己管理と自己責任を促す。
私のいたところでも試合の前にはきっちりと連盟が主催してドクターチェックをするのだが、そのドクターチェックは当時10ドル払って行う有料ではあったが、その有料のドクターチェックを行った後にいろいろと書かれたコントラクトにサインをしたのだが、おそらくここまでが連盟のレスポンスビリティで、それ以上は自己責任の範囲だということだと理解している。
ボクシングの試合と言うのは危険と言うものはつきものである。
実際に事故が起こっているのは事実であるし、ボクシングが他のスポーツに比べて危険なのは脳にかかわる問題であるからだ。
これは私の見解であるが、よくボクシングを競技した人間でボクシングはやめられない、一度やめてもまたやりたくなるということを言う人間がいる。中にはロマンたっぷりにそういうことを言う奴がいるが、しかしこれは危険なことだと思っている。
むかしフラットと言う映画があった。これはアメリカの医学生たちが臨死を体験するゲームを興じるという映画であるが、ある医学生のグループが臨死を協力して体験し、それにはまっていくと言う映画である。
ある学者によると人間の最大の快楽は臨死であるそうだ。
死と言うのはドーパミンを最大に放出するのだから、臨死体験によってその快感を得ることができる。快楽殺人と言うのは目の前で死んでいく人間に同調することで、ホメオスタシスとの同調によってドーパミンを放出し、臨死と同じ快楽を得ることができるそうであるが、ちなみにセックスのドーパミンの量が100とするとヘロインが300覚せい剤1000LSDが2000から3000であるらしい。
ボクシングがやめられないというのは私はこのドーパミンの量と関係していると思っている。臨死とまではいかないがなぐられて気持ちいいともいえるような快感を得ることがあるのはドーパミンが脳内に放出されているからであろう。
大人ならまだしもこういうことを子供に奨励させることはどうかと思うが、子供の脳と言うのは大人よりもやわらかい、そういうやわらかい頭蓋骨をたたくと脳にかなりの衝撃がいくのは当たり前のことで、こういうことを医者が賛成するかどうか考えてみたらいいが、脳と言うのは非常にデリケートな問題で、そういうことを競技者に説明するアカンタビリティーはあるのではないかと思う。

しかし日本はそれにもかかわらず危険だということをきちんと説明せずに安全だということばかり強調するように思える。
自己責任を強く問えないのは、そういうアカンタビリティーを怠っているからで、実際脳に衝撃を耐えるスポーツであるのに、医学的な説明や医学的な知識などを持ってはいない、だからかなりあいまいでいい加減になるのだろうと思う。
前から言っているが連盟はこういうことに関して意識が低いというかレヴェルがひくすぎる。子供にボクシングをさせるなんていうようなことは医学的にはかなりおかしいことで英語が読めたらわかるがアメリカ、カナダ、イギリスなどでは医師会レヴェルの問題であって、子供のボクシングに関してはかなり厳しくなっていることは現実である。

それを奨励しているような奴らをみたらわかるだろうが、バイリンガルどころか日本語もまともに話せないと言うような人間が、子供との関係をつくって勢いだけでやらせているのではないだろうか?
こういうことをやらせるのは自分たちはボクシングの発展を目指してやっているつもりだろうが、しかしやっていることは稚拙で非人道的、ある大会では子供が入院した言う話しを聞くが、なぜこういうことが問題にならないのか不思議で、最初の北朝鮮の話ではないがいくら自分たちが正しいと思っていても医学的に見て、あるいは国際的に見て正しいかどうかと言うのは別で、ここまでくればかなり滑稽なレベル、それは北朝鮮の外来語と同じである。

はっきり言ってボクシング関係の問題は英語が読めなければ理解できないことが多い。
米国のルールブックが300ページにもわたるのに対して日本のものはいかがなものか?たぶんパンフレット程度であると思うが、こういうことも国際レヴェルについていけていない証拠、基本と言う前に自分たちの基本である英語を学習する必要がある。





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右ではなく左です

2013-05-23 | Weblog
英字新聞にこういう記事が載っていた。
The british advertise agency perpared a before and after type advertisment to sell washing powder in the Arab world.
The before picture with the dirty clothes was on the left, the after picture showing the clean clothes after using the washing powder, was on the right.
簡単な英語で書いてあるので理解できると思うが、これはイギリスの広告代理店がアラブ諸国に宣伝のチラシをつくった時の失敗談である。
一見この記事を読んでも、何がどう失敗したのか理解できないが、アラブ諸国と言うのはたいてい文字を右から左に書く、すなわちこのことが意味しているのは我々と物を見る感覚が逆、もしカタログに洗剤がよく落ちるということを表したかったら、右に洗った後の服をのせるのではなく、左にのせる必要があったというわけである。

韓国人は食べ物をまぜて食べるのがすきな民族だ。
最近は彼ら彼女らも外の世界に出ているので、どこでもということではないが、しかし彼ら彼女らはなんでもかき混ぜて食べる習慣があることは確かである。だから食事に言った時にカレーはもちろんのことちらしずしも混ぜるまぜそうな料理が出てきたら「ま・ぜ・る・な」と言うのだが、やはりこれも文化の違いである。
かわいい子には旅をさせろと言う言葉があるが、違う言葉や文化に出会うということは人間を成長させるためには不可欠なことである。
人間は自分の知らない世界に出て行って、そこから何かを吸収して成長すると思うのだが、それは今の21世紀には特に言えることだ。

前にも言ったが橋本氏の発言が問題であるのは、宗教観や他国の文化をよく理解していなかったことだ。
橋本氏はきらいではないが、ある番組のコメントで慰安婦問題の発言は慰安婦はあってはならない、痛ましい出来事であるということを前提にした発言であると言っていたが、しかしそういっておきながら米兵に風俗に行けなんて言っているのだから、説得力がない、彼の釈明を聞いていたら詭弁じみたような発言に聞こえるのは私だけであろうか?言葉はわるいが政治家としての彼の世界観はあまり広くない、正直言って政治家レヴェルでは世界の情勢についてあまりアンテナをはっていない、にわかに政治の舞台に出たのでその下地ができていない、勉強不足であると思う。

話しはスポーツの話になるが、私は海外などで遠征に言った時に一番頼りにならないのは日本人だと思っている。
英語が話せないし、議論できない、おまけに他の文化に触れると言うことがあまりない、特にアマチュアボクシングはオウンルールも甚だしいと言ってもいいだろうが、そろそろ英語をおぼえる必要があるのではないだろうか。
親玉どもはなぜ国内ではあれだけいばっているのに、海外に行くと猫の子のようにおとなしくなるのだろうか不思議だ。
時々海外で日本人のマナーのよさを評価されることがあるが、しかし言葉を言い換えれば国外ではほえることができないだけ、それは国内での偉そうな態度を見ていたらよくわかることだが、言葉を理解できないことや、国内では威張っているが海外では手のひらを返したように弱気になる態度を恥ずかしいと思わないのだろうか、それでも最近は言葉をおぼえて外の世界に出ていく人たちも増えてきているが、ボクシングのようなマイナースポーツはそういうことをあまり聞かない、はっきり言って語学ができないスポーツと言うのは封建的で、海外でも頼りにならないのが現実、オラが村で威張ることばかり考えないで、その世界から一歩出て外の世界に関心をもつことは必要なことだと思う。

英字新聞ではないが英語が読めたり、話せたらいろろいろな文化の違いや、たくさんの情報を得ることができる。
そういう情報を見ると日本は考え方がかなりおくれていることがわかる。子供になぐりあいをさせるなんて言語道断、英語圏やヨーロッパでの見解を見たらわかると思うのだが、Boxing head traumaで検索したみたらいかに子供が脳にダメージをうけることが危険かわかるのだが、、しかしhead traumaなんていう言葉も出てこない、そういう検索の仕方もわからない、英語と言う文字が読めない人間に、脳のような多少医学的な理解が必要な事柄が理解できるのだろうか?
前にある子供の親に電話で、ジムでボクシングをさせているが、子供にボクシングをやらせて大丈夫かと聞かれた時、責任者に聞けと言ったら責任者にはそういうむずかしいことはわからないと言っていたが、そういうレヴェルの人間が子供の成長過程をふまえて、管理していく能力があるのか疑わしいものである。

この時代は英語音痴はおかしい方向に物事をすすめてしまう。子供に殴り合いをさせるなんて言うのはまさにそう。
親玉レヴェルで最初にかいた文章を辞書をつかっても読めなければ、この21世紀は見限られても仕方がないだろう。




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1年は18分 

2013-05-21 | Weblog
毎週金曜日にソウル白熱教室という哲学の講義をNHKでやっているのだが、それが非常におもしろくてためになる。
内容は講義と言ったよりもMaieutics(産婆術)的な対話と言ってもいいと思うのだが、この講義はサンデルや他の教授に比べたら倫理的であり、また瞑想的でもあるので東洋人にはなじみやすいので、理解しやすい講義であると言ってもいいと思う。
話しはその講義で彼が毎年やっていることがあるのだが、それはとまっている時計を18分動かすということである。
なぜ18分動かすのかというのは不思議なことだが、これには大きな意味がある。と言うのは18分と言うのは80歳まで生きるとして人生を24時間に例えたら18分が1年にあたるそうで、もう50歳にもなる教授の人生時計はまだお昼をまわったころ、まだ寝るまでには時間があるので十分に何かができる、自分にはまだ時間があると感じるそうである。

最近新しく入会してきた人たちから語学を教えてほしいと言うリクエストがあって、教えている。
受験やToeicを受けるための人もいるが、しかし大半が中高生時代にやってこなかったので、今になってそれをやらなくてはいけないことに気づいてたのだが、そういった人たちはたいてい学校を卒業してもう何年もたった人たちで、30をまわっている。
たぶん30を過ぎるといろいろなことに気付き始める。特にこういう英語や学問的なことは振り返ったらもう少し勉強していたらよかったとたいていの人は思うことで、人間いよってはそれがコンプレックスになっている人もいるのだが、意地になってボクシングに固執している人間なんかはまさにそのコンプレックスのあらわれで、そういうコンプレックスを隠すためにただ何かに意地になっているだけでは30代という午後の時間を楽しむことはできない、もしその親玉がそれしか知らない、それしかできないというようなところはそういう意地が出やすいと思うが、はっきりいってそういう奴らが偉そうに言ってもみっともないだけ、アマチュアスポーツである限りはたかだかボクシングである。マイナースポーツの全国大会もいいが、しかしたまには勉強しろとか午後の人生をたのしむために当たり前の刺激を与えることも必要ではないだろうか。
30歳と言うのは語学を勉強するには少しディスアドヴァンテージがあると思う。しかしそれを遅いかそうではないかというのは気持ちの持ち方であって、私は30代や40代あるいは50代で語学や英語をはじめる人たちには、この人生時計の話をしてまだまだ寝るまでには時間が十分あるので大丈夫ですと言っているが、一日を本当に楽しめるのはこの午後からの時間である。
ここにきているおっさんたちは楽しそうにボクシングをやっている。基本的には学問的な事柄を重視しているので、しょうむないことで意地になったり、自慢したりするような輩はいない、だからおっさんや女性たちが安心して普通の感覚でボクシングと言うスポーツを競技できるのだと思っている。
正直言ってスポーツの世界は刹那的である。事実肉体的に言って10代20代が一番競技者として脂がのった時期であるので、この時期の人間が中心になるのは仕方がないが、しかしスポーツと言うものが楽しむためのものであるならば、人生の1年が12分としたならば、午前の時間ばかりを大事にせずに、もっと12時以降の時間を大事にしなくてはならないのではないだろうか。

オリーヴは厳密に言ってボクシングだけをする場所ではない。
少し矛盾した言い方であるが、ここはボクシングと言うスポーツを通して自分の生き方をよりよくしていく場である。
息抜きでここに来る人もいれば、ダイエットでやせることで生きることが前向きになればそれは立派な目的だし、ここに来て語学やいろいろなことにふれて国際的なことに興味を持ったりして、視野が広がったと言ってくれたらここに来たという意味がある。
スポーツは修行の場ではない。息抜きであり楽しみだ、意地になったり人と比較することでスポーツをするのではなく、ゆっくりと楽しんで自分にあったやり方で競技してくれたらいいと思っているし、年齢は関係ないと思っている。

これは私の意見であるが、これからのスポーツは学力と言うのも非常に重要になってくる。
競技者や指導者の学力がひくければマイナースポーツはマイナースポーツでおわるどころか競技離れがすすむ一方だ、世間は見ているもし少しでも競技者を増やしたければ競技者の学力をあげることだと思っている。
意地でスポーツをやることほど馬鹿げたことはない、コーチなどで悔しさをばねにしろとか、逆境を乗り越えた(たいていおおげさに言っているだけだが)というような武勇伝を語る奴がいるが、スポーツをやっていてそういうことしか伝えることができないのは人間として乏しい、はっきり言ってそういうことしか言えない奴は大事なことをやってきて来なかったからだ。









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ボクシングとフェミニズム

2013-05-17 | Weblog
橋本市長が慰安婦問題についての発言で謝罪したことがニュースになっていた。
慰安婦問題については私なりの見解があるが、しかし立場上ここで主張することをはばかりたい。
しかしそれにしても今回のような発言を聞くと国際社会における日本人の足りないセンスと言うものが見えてくる。
もともとそういうセンスがあればこういう失言はしなかっただろうと思うが、何が足りないのかと言うのはひとつは宗教的センス、そしてもうひとつはフェミニズムを理解できていないということである。
まずアメリカと言うのはキリスト教国だ、だから間違っても血気盛んな若い人間野エネルギーをコントロールするために風俗に行けなんて言うことを党首が言うなんて言うことはありえない。十戒の戒律にも「何時姦淫してはならない」と書いてあるぐらいだ。こういう発言をすると間違いなくひんしゅくを買う。
だいたい接待で風俗に連れて行けばいいなんて考えるのは日本人ぐらいだと思う。私の友人にはアメリカ人もいるが、日本に来たときに誰一人として風俗に連れて行けなんて言った奴はいない、むしろ彼らは京都や奈良と言う歴史ある街に連れて行けと言ったことは事実である。
日本人は未だに女性を軽く見ている傾向がある。ここでは女性に酒をつがせる会社があるらしいが、セクハラも甚だしい。

フェミニズムと言う言葉は最近日本でも台頭してきたが、しかしはっきり言って名前は聞いたことはあるがよく知らない人が多いのではないかと思っている。
フェミニズムと言うのは一言で表すことは難しくしいて言えば性差別に対して女性の権利を主張する思想で、このフェミニズムを理解するためにはそもそも性差別とは何かということから理解しなくてはならないが、このことは未だに封建的な社会である日本ではなかなか理解しがたいことであるのだ。
話しはボクシングの話になるが、アマチュアボクシング連盟もこのフェミニズムを理解していないというかテリブルである。
特に女性だけ試合に出るのに試験が必要だと言うシステム、これは誰がなんと言おうと女性差別ではないのか?なぜ女性だけが試合に出るのに試験が必要なのかわからない。これほど女性をバカにしているものはない。
こういうことを言うと母体観点の立場からとわけのわからないことを言うバカがいるが、なぜ試験を受けさせることが母体を守ることにつながるのか、母体を守るのだったら初めからさせなければいいのだ、こういうことを真面目に言うから程度を疑われるのだろう、さらにおそろしいのがこういう封建的なシステムにどっぷりつかった女性が何の疑いもなく、親玉にかわいがられているからと言って、その試験を当たり前のことだと思っているところだ。特に女性の親玉に対する信奉者に多いが、こういう人間の存在が一番たちがわるく、スポーツ界における性差別に拍手をかけると言ってもいい、素っ裸の計量、さらに独占販売をさせると言うような不正とも思われるようなことが当たり前のこととしてまかり通っているのだからかなりおかしい世界であるが、軍隊のようなシステムは持ててもブレーインは持てない、21世紀にもなるこの時代にこういう封建的で語学に疎い軍団があることにかなり驚いているが、これからのスポーツは英語もそうだが女性の人権と言うものを守るためにフェミニズムについても理解しておく必要はあるのではないかと思う。
日本は男女平等指数度が先進国の中でも非常にひくいということが、まずこのフェミニズムに台頭させないところがあると思うが、しかしもう少し男女平等指数が上がるならば、いかにボクシングのようなマイナースポーツが程度が低く、封建的であるということが理解できるだろう。

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類は友を呼ぶ

2013-05-15 | Weblog
オリーヴには毎日と言っていいほど新しい人の顔が見られる。
健康維持程度ならここぐらいが一番いいと思っているので来てくれると思うのだが、うれしいことである。
ここは競技する目的でボクシングをする人間は一握りである。競技すると言っても全国大会で優勝してやろうとか、そういうことではなく、ただ健康維持の延長線上で試合に出てみようかというような感じで、そのメンバーはおもにおっさんなので、それでも出場できる試合に今のところはでている。
ボクシングと言うのはここではイメージがわるい。最近ここに来る人たちで、そういったことに警戒しているのか、中にはその不安や聞いたことなどを訪ねてくる人がいるが、しかしここは入会してもらう前に暴力的な人や見るからにうさんくさい人間などは入会させない、一般の社会人が来やすいように人選しているので暴力的なことやおいていた物やお金がとられるということはまずないと思う。

よく言ってるがそこで教える人間の質がわるければ(質と言ってもボクシングではなく、常識のレヴェルや教養のレヴェルだが)同じような人間が集まってくるのは自然なことである。
前にも言ったがもうこれからはダイエットの人や健康維持の人たちを対象にするのであれば、もう少し常識面や教養のレヴェルを上げる必要がある。常識と言うのは抽象的であるが、しかし親玉がそれしかできない、広く物事を見ることができない、少ないボキャブラリーでしか話せないような人間だと、同じようなレヴェルの人間が周りに集まるので、群れの質がわるくなり、クラブ内で暴力的なことや窃盗などの犯罪がおこるであろうと思う。
はっきりいって学校で人の話をきかない、いわゆる勉強をしないで好きなことだけをやってきたというような奴は何か欠けがある。犯罪をおこすバカアスリートはまさにその典型的な例であるが、そういう奴らが大人になったからと言って好きなことを言いだすと何かがおかしくなってくるが、親玉がバカだとジムやクラブではこういう奴らが中心になることが多い。
この前ソウル白熱教室の話をしたが、最近はサンデルだけではなく、コロラド白熱教室というような哲学的なレクチャーが各国で話題になり、サンデルの白熱教室は日本だけでも何万にという人が受講していて、本などもたくさんでているが、今世の中と言うのはケオスでそういう混沌とした世の中で生きるためには考える力、すなわち哲学が必要だと感じているからである。
今この時代に必要なのは考える力である。
しかし考えると言ってもスポーツで考えろと言う、半ばひらめき的なものではなく、「consider」する力で、それは書物や語学によって養われる力であるが、アスリートはこういうことに乏しいと思っている。
大阪に行ったら必ず本屋を巡るのだが、大阪には大きな本屋がいくつもあり、帰る時には5冊以上本は買ってしまう。前にある本屋に行ったらアスリートたちの本のコーナーがあった。
どういう本を書いているのかとぱらぱらっとめくって見たが、その内容ははっきり言ってたいした内容ではない。何を言ったらかっこいいと思われるかとか、目立つかということだけで、哲学的な思考ができてはいない、すなわち考えるための基礎学力がないのだ。
まあ中にはすごい洞察力を持った人もいるのが、そういった洞察力は単なる直感やひらめきではなく、統計学的であったりスポーツ科学的であるのだが、そういう洞察力を持っている人はやはり教養の高い人、基礎学力が養われている人たちである。
たぶんスポーツの伝記みたいな本は、そういう哲学的なことが求められていないので、刺激を与えればいいと考えられていて、何を言ったらかっこいいかとか目立つかということを書けばいいのだろうが、しかしただ刺激を受けるだけで使わなくては思考と言うのは育たない。

考える力を養うためには基礎的な学力が必要になってくる。
スポーツに没頭することもいいことであるが、しかしそういうことを理解できないような奴が、自分の武勇伝を語ったり、そういうところだけで差をつけようとすると、それしかできない、そういうことで満足感を持ったり、差をつけようとする人間が集まってくるのだ。
スポーツと言う趣旨を考えると、そういう群れが暴力的であったり、犯罪をおかしたりするということはかなり問題があると思う。
たぶん勉強とスポーツのバランスを考えられる人間が群れを形成しても、そういうった犯罪はおこらないだろうし、おこりにくいであろう。しかし類は友を呼ぶと言うことわざがあるように、親玉がバカだとそういう人間が集まってくるのは事実である。
たぶんこういったことは管理能力の問題ではない。はっきり言うが指導する人間の教養的なものの見かたレヴェルである。
これからは何とかチャンピオンとか何とか何位の時代ではない。TOEIC700点とかの時代だと言った考え方の背景にはこういう考えがあって。私はスポーツをやってきた人間として、スポーツでおこる犯罪などに怒りと迷惑を感じている。


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サルトルではないが

2013-05-13 | Weblog
うちのまわりには中学を受験する子がたくさんいるが、ここ何年か中学受験はかなり難しくなってきているそうである。
名門ともなれば高い倍率で、そのために中学受験専門の塾も増えてきているそうで、塾の授業料も決して安くはなく、夏期講習になると1か月10万円以上の授業料がかかるので、レヴェルの高い中学に入れるにはかなりお金がかかるようである。
ただかなり問題だなあと思っているのは、教える方も合格させなくてはいけないと言う焦りから来るのかどうかわからないが、塾によっては子供をののしったりするような塾もあるそうで、実際うちの子供の友達の子供は前の塾の講師ががあまりにも暴言をはくので、いやになったそうで、今はそこをやめてうちの子供と同じ塾に行っているそうだ。

金曜日NHKでソウル白熱教室と言う番組がやっていた。残念ながら途中からしか見れなかったのだが、この番組はソウル大学教授のキムナンド教授(教授様と言った方がいいのか)がソウル大学の学生に向けて就職問題などを通して人生の価値観を伝えたレクチャーであるが、聞いてて非常にためになったと思う。
韓国は学歴社会で自分がどの大学に入るかによって将来がきまると言ってもいい社会で、最近ではその就職もかなり難しくなってきているので、大学を出ても自分の希望する就職を希望するならば、より多くのスペックをもたねくてはならずに、TOEICや留学経験、そしてボランティア活動など経験が問われるようである(クラブ経験はあまり意味がないようだが)。
そのレクチャーの中でキム教授も言っていたが、韓国社会は短距離レースのようである。
どういう道に進めるかはどの大学に行くか次第でだいたいの進路が決まってしまうので、子供の頃からそれに向けて猛烈に勉強させらるのだが、友達の話によるとたいていの子供は英語など最低でも3つ以上はしているそうで、子供の教育費にかける負担はかなりのものだそうである。
余談であるがむこうはかなり格差が激しいらしい。これは友人が言っていたのだが、ある大手の企業の社長室はかなりひろいらしく、そいつが真顔で言っていたが、小さい保育園ぐらいならば運動会ができるらしい。
なぜここまで社長室を大きくするのかは理解できないが、しかし向こうでは上になればなるほど、その恩恵にあずかることができるのだが、事実そういった日本では考えられないぐらいの格差というものがあって、それは自分たちがどの大学にはいるかによって決まってしまう、だから韓国では小学生から猛勉強をするそうだ。

そういう閉塞した社会であるから、母国から飛び出して外国に行く人が増えているそうであるが、むこうでも自分探しとか言ってワーキングヴィザをとってオーストラリアなどに行く人間も少なくはないそうである。
しかしよくわからないのは自分探しという言葉である。最近の若い人は自分探しと言ってあてもなく外国に行くのだが、もともと自分と言うものは探すものではない、なるものではないのだろうか。
自分探しというものが外国に行って刺激をうけてこうなりたいとかこうありたいという刺激をうけたらそれはそれでいいのだろうが、しかしいつまでたっても受け身だと同じことを繰り返すだけ、いい年をして外国にぶらぶら行って放浪すると言うのはまさにそうである。
刺激をうけてそれが自分のためになる刺激になるためには、まず自分のアンテナを磨きキャパを広げなくてはならない。
刺激をうけてもそのキャパがせまければ成長はない。
率直に言えばそのアンテナを磨きキャパを広げるためにはいろいろなことを勉強することが大事なことで、人間は学ぶことでいろいろな刺激を受け、自分のキャパを広げて行くことができるのだと信じているが、外国に行って何かを学ぶと言うのもそのひとつであると思っている。
サルトルいわく人間は何かになれる存在であり、その存在の違いが物や他の動物と人間との違いである。
自分探しなんて言うのは所詮流されてしまうことのはじまりに過ぎない、自分が流されるのをおそれて学歴社会で決まったレールにのるもそれは一つの価値観であろうが、しかしサルトルではないが人間は存在価値があり、あるものになる可能性を持っているのだから、多くのことを学んでたくさんの刺激を受けて、特に若い人たちは成長を重ねて、その存在意義と言うものを深めて行ってほしいと思っている。

今日購入したキムナンドの「つらいから青春だ」と言う本がとどいた。
原書はつらいではなく、いたいからと言う言葉が使われているが、この言葉のように若い時代は心が傷ついたりして痛い思いをするからこそ成長する。それが若さの特権である。
最近サンデルなどの哲学者の講義をまとめて本にしたものがはやっているが、サンデルは少し古典的なことや哲学的な複雑な考えがわかっていないと読めないが、しかしこの本は日本人のもつ道徳的な基準や観点から見て理解できるので、読みやすいと思う。
人間はサルトルではないがあるものへとなることができる存在だ、そしてそのあるものへとなるためには悩み時には傷つき、そして考え方を深めていく必要がある。
アウフヘーベン的な考え方であると。人間が悩んだり傷ついたりするのは、自分を成長させるためである。
雨が降って大地がめちゃくちゃになっても、その大地から木の目がでて成長すると言った自然の恩恵があるように、悩んだり傷ついたりするということもある意味自分を成長させる恩恵にあずかっている。そうして自分たちは成長しあるものになっていくのではないだろうか。







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ジムの中の蛙たち

2013-05-09 | Weblog
最近韓国に留学していた人がオリーヴに入会してきた。
10何年か前までは韓国に留学してきたなんていうとえっ何をしに行ったのと驚かれたものだが、しかし最近では韓国語も日本ではポピュラーになり語学留学をする人たちも増えてきているらしい。
韓国でよく聞く言葉は18(発音が韓国語のスラングと同じ)だと言っていたが、確かにその言葉はよく使われる言葉でどこにいても聞くと言っていたが、笑ってしまった。
オリーヴには向学心の強い人が多い。うれしいのはここに来てTOEICを勉強して受ける人が何名か出て来たことと、さらに大学挑戦しようと言う気持ちが出て来た人が出て来たことで、何かを学ぶということはいくつになってからでも遅いということはなく、はっきりいって何歳からでもそういう気持ちを持って学ぶことは素晴らしいことだと思うし、偉大なチャレンジであると思っているが、そういう気持ちを持った人たちに自分はできるだけ協力していくつもりである。

人間30年も40年も生きてくれば自分の弱さと言うものが見えてくる。おそらくジムに来て肉体を鍛えている人たちは学生時代に運動ができなかったから、ここにきて鍛えると言った人たちだと思うのだが、その自分の弱さや欠けを認めて新たなことを挑戦していくということは勇気のいることであると思うし、それは非常に尊いことだと思っている。

私が絶対にこういう集団にしたくないというのは、それしかできないからと言ってそこに集まってそれしかできないような奴らが中心になっているようなボクシングクラブである。
他では相手にされないし、大した能力もない、しかしボクシング以外何のとりえもない、だからとりあえずジムにでもいたら自分のプライドを保ちつつ一応存在感を持つことができるという、何とも言えないせこい考え方であるが、そういう何とも言えないなさけない人間が軍団の中心に集まって、たかだかボクシングができるということだけででかい顔ができるようなそういうバカなクラブにしたくはないと思っている。
人間と言うのは何年も生きていくと、たいていの人間は自分には何かが欠けているかということが見えてくる。
特に学問的なことはそれが自分のコンプレックスになるのだが、しかしそういったことを、無視して負け惜しみと意地だけで生きていくような生き方と言うのはかしこい生き方ではない、そういう人間がジムに集まって尊重しあうこともそいつらの救いかもしれないが、しかしはっきり言ってそういう欠けや弱さを認めて何かを学ぶということのほうがかしこい生き方であり、尊い生き方だと思っている。
30歳をこえてTOEICや大学に挑戦することはたいへんな労力がいることである。がしかしそういう自分の弱さや欠けと言うものを認めてそれを補うために必要なことをすることいことは、人間が成長するためには必要なことで、私は人間の成長はここからが本当にはじまると信じている。
世界戦の話題で盛り上がって、玄人のような意見を交わして満足することも時には必要かもしれないが、しかしそれしかできないような人間が集まってそういう話を得意げにする姿を見るとそいつらの人間の限界を感じてしまうのは私だけだろうか。








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ナヌン ハルスイッタ

2013-05-07 | Weblog
武田製薬が今年から新入社員採用の条件にTOEIC730点以上という規定を設けたらしい。
大手ではどんどんと英語が普及してきている中、こういった規定はもう当たり前のもとであると思うのだが、スポーツ界、特にボクシングは英語に対してもっと興味を示して、話すことができる人間を育成する必要があると思う。
しかし現実的に見てそういったことには興味をあまり示していないように見えるのだが、おそらくスポーツ自体がそういう姿勢であれば、競技者自体もそういうことに目を向けることができない人間に育っていくだろう。英語というのは今や必須条件なのだから、人間教育ということを言うならばもう少し、語学の必要性を強調してスポーツを引退して社会に出ても通用するような人間を育成していくことも必要だろうと思う。
TOEICが新入社員の採用条件や昇進の条件となっているのは、日本と韓国それと中国ぐらいだで欧米ではTOEFLかIELTSがそれに代わって個人の英語力をはかる基準になっていると思うのだが、なぜTOEICがここまで重要視されるのかと言うのにはわけがある。
それはまず言われているのが500点以上で日常会話ができるぐらいになるということ、TOEICはビジネス英語が中心なので、500点以上だと日常的にビジネスができると判断してのこと、さらにもうひとつの理由はTOEICの文法がビジネスの場において白黒をはっきりさせる上で必要なことを問うているからだと思うのだが、たとえばビールを3ダース注文したいとした時に「three dozen」と言うのか「 three dozens」と言うのか、正解はthree dozenでいいのだが、もしthree dozensと言ってしまえば「多くの」となってしまい受け取る側としては3本多くのと解釈してしまうこともあり得ることで、TOEICの文法はこういうあいまいさをなくすために問うているような感じがするのだが、私はこういう小さい文法を徹底させることで、ビジネスの場におけるあいまいさと言うものを日本人が多少なりとも克服できるのではないかと思っている。
前からしつこく言っているが、アマチュアスポーツが教育的であるというのであれば、外の世界に目を向けさせることもアマチュアスポーツに課された課題である。
同じような人間でかたまって、外の世界に目を向けなくては自分たちの置かれている状況がわからない。
英語をおぼえてそとの世界に出て行って見聞を広めることができれば、かなりスポーツ界と言うものが洗練されるのではないかと思っているが、私はスポーツと言う国境を越えたものであるからこそそういうものを見開く必要があり、そのことが大きなアドヴァンテージとなると思うのだが、しかし現実は厳しい、未だに言葉ができないくせに熱く拳で語り合うというバカがいるぐらいだから稚拙すぎて話にならないが、こういう時代であるからスポーツ界もせめてTOEIC400点という条件をつけたらいいと思うのだが、たぶんそれしかやったことがないような人間はこの400点すらとれないと思うが、スポーツしかさせないという方針はこれからの時代はかなり問題がある。
学生として入学してきたからにはその学生である勉強に専念させる必要がある。
さらにスポーツをやっているのだったら、英語が話せるぐらいでないと、これからはスポーツ選手と言えばバイリングアルと言うぐらい語学を重要視したら、質が上がり、くだらない犯罪は起こらないのではないかと思っている。

話しは韓国語の話であるが、私が最近常日頃からいい聞かせている言葉がある。
それはナヌン ハルスイッタ(私はできる)と言う言葉でこの言葉は私だけではなく、他の人に接するときも「彼あるいは彼女はできる」と言う気持ちで接するようにしている。
ただ運動バカは自分はできるなんて言うと、すぐに全国大会とか世界と言うと突拍子もないことを言いだすのだが、こういうことを言う奴は自分に中身がないからせめて言葉で自分を大きく見せようとしているだけで、我々はどんな小さなことでも努力は必要であり、それを遂行するためには、自分ができると思わなくてはできない、だからこそそういう気持ちを持って接することでそれが可能になってくるのではないだろうか。
全国大会とかそういうことを言っている奴は健康維持やダイエットを軽く見ている奴が多いが、しかし健康維持やダイエットと言うのは仕事や生活のためにやっていることである。だから社会人が一生懸命働いて、自分の健康のため、そして家族や仕事のためにやっている健康維持やダイエットと言うのはちょっとしたことではない、その人が生きるためにやっている努力で、おおげさであるが、社会人の人たちにはそういう気持ちで接して、その気持ちを鼓舞し、そして何よりも尊重をしなければいけないと思っている。
 



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Who is the Good samarian?

2013-05-02 | Weblog
うちの子供は今年受験をむかえている。6年から特別の進学塾に行くのだが、最近の受験は10年前と比べて問題がかなり特殊でむずかしくなっているそうで、そういった問題は専門の進学塾に頼る部分が多く、巷では6年からだとおそいらしいそうだ。
しかし本人いわく6年になったからこそ追い込んで、将来の夢にむけて頑張るそうである。
私の子供はかなり意見を言うほうである。この前もお母さんに将来の夢を聞かれた時にこんなことを言っていた。
「人間と言うのは所詮死ぬのだから生きている限りは人のためになることをしたい。ママの限界は教師と言う無難な職についたこと。
いい大学を出ているんだからもっと自分の可能性にかけるべきだ、その点パパは紆余曲折であるが一応自分の能力を十分に使って仕事をしているからまあいい。でも僕はもっと自分をみがいて将来会社を設立して人の才能を生かすことができる仕事がしたい」と営業会議のような口調で言っていたそうであるが、毒をはきながらもっともなことを言うところはまさしく親ゆずり、私は彼に自分の意見を世界各国どこでも言えるようになれ、そのため日本の大学を出たらアメリカの大学に留学しろと言ったのだが、私は彼に将来英語だけではなくフランス語や中国語などの言葉をおぼえて最低でもトライリングアルになって広く世の中を見て、本当に配慮しなければいけない人たちの役に立つような大きな仕事をしてほしいと願っている。

話しはかわるが時々お母さんたちから自分の子供を何かさせたいのだが、どういうことをさせるのがいいか、またどういうところに入れるのがいいのかということを聞かれることがある。
これを聞くとどんな集団でもいいじゃないかおおげさなと思うかもしれないが、しかし子供によってはそういう集団を選んでやらないと失敗するおそれもあるのだが、特に格闘技系の集団は、こんなところに入れたらあかんと思うようなところがあるのも事実である。
はっきり言って、勉強もしない、狭い世界で生きている、自分たちは特別だと勘違いしているような集団には入れないほうがいいだろう。
大事なのはその指導する人がコモンセンスを持っているか。ここでいうコモンセンスと言うのは一般的な常識やものの考え方やセンス、また語彙力のないような奴もだめ、無教養で本など読まないのだから考え方に偏りがある。そういったことをよく見て指導者を選ぶ必要があるだろうが、親玉がアホで同じようなレヴェルだとコミュニティ自体も低レヴェルで、そういう低レヴェルな集団は、暴力的なことや窃盗など起こると言うような話は聞くが、類は友を呼ぶと言う言葉通り、親玉がうさんくさければうさんくさい奴がまわりに集まるので、わるい影響を与えられないように親玉をよく観察すべきであると思っている。

私の見解では勉強もせずに身体的な能力だけがアドヴァンテージだと考えているような集団は、本当にいたわらなくてはいけない人間に対する配慮にかける傾向がある。
おいそこなどと人をものあつかいしたり、部員を子分のようにあつかったり、自分たちの通用するヒエラルキーの中だけで将軍のようにふるまっている姿にこいつら何様だと不快に思うのだが、ある運動部員と接した時は、我々のようなものでもスポーツの指導者と思っているのか、失礼しますとかハイハイの連発で、こういうことに慣れていないので、その仰々しい態度には戸惑いをおぼえたが、ここまでくれば監督の子分、なぜここまで親玉に気を遣わなくてはいけないか不思議である。
さらにこの手の親玉は差別用語に関しての認識が希薄で、体育会と言う先輩になれば言いたいことを無批判で言わせてもらえる世界で生きて来たのか、親玉の言葉遣いなども非常に汚く、偉そうで、柔道の暴力事件で監督が選手に非常識な暴言をはいたという事件があったが、まさにそれは縦社会の親玉になれば言いたいことが言えると言う、そういう関係があったからだ。
しかしそういうことは何もその世界だけに言えることではない、人権に疎い体育会だからこそ起こる問題で、勉強もろくすっぽしないそういう強さだけを強調するような特殊な考え方の人間は、かりそめの強さが真実だと思っているのか、本当にいたわらなくてはいけない人間たちに対する配慮がかけている。はっきり言ってスポーツバカの世界はバリアフリーフリー(バリアフリーのない)の世界だと思っている。

人間は弱い。なのになぜその弱さをいつわって、かりそめの強さをもとめようとするのか不思議である。
聖書の中にこういう話がある。
それは一人の男が旅行に行く途中で強盗にあい、みぐるみをはがされて半殺しの状態で横たわっていたことからはじまる。
まず最初に通りかかったのが、祭司、しかしその祭司は男の存在には気付いたが、時間がないのでその男を見捨てて行ってしまった。
しばらくしてそこに通りがかったのは学者、その学者も男のことを見たが気にもとめずさっさと通り過ぎて行った。
しかし最後に現われたのが混血である民族である。当時忌み嫌われていた人種、彼だけはほかの男たちと違っていた。
彼はその男をみるやいなや、男のところにかけよって行って介抱してあげ、お金まで与えてあげたという話で、誰がそのたおれて傷ついた人間の隣人となったかということである。
これは「Good samarian」と言って外国では有名な話で、たぶん英語のイディオムにもなっているはずだ。
この時混血である男はその倒れていた男に近づいて行った理由について同情したからと書かれてあるが、しかしこれは原書では内臓をあらわす激しい言葉日本語にも断腸の思いと言うような言葉があるが、まさにそのような言葉で「心がゆれうごかされたから」と書かれているのだが、こういう傷ついた人に目を向けることは単なる理念や道徳ではない、まさにそれは人間の持つ感情的なもので、実際に見て感じなければ人の隣人なんかにはなれないということを言っているのである。
英語を勉強したり、いろいろなことを学ぶと言うことは、自分の狭いからを破って違う世界を見ると言う体験のはじまりである。
私自身も米国に行ってそとから見て日本の体育会はあほだと思ったし、今桜ノ宮や柔道事件で問題になったことは私がもうすでに何年も前から言っていることだが、このことに関してさらに言うならば問題は礼儀とかしつけではなく人権で、そういうことが語られることなく、指導がどうのこうのいうことに考え方の進歩が見られないのだが、そういうことは実際に外の世界から見たらよくわかることで、日本のスポーツ界はこの人権に関してはかなり遅れていると言うかここまで行けば人権侵害だと思っているが、そういった人権侵害も彼ら彼女らの持つ家父長制のヒエラルキーがもたらした弊害である。
さらにそれだけではない、米国での韓国人の養子問題を身近に考えさせられたし、女性差別的なことや民族差別的なことに問題意識を持ったことは確かなことであり、そのほかにも言葉を通して、いろいろな人間と接して民族、ジェンダー、子供の人権などの問題に傷つき、考えさせられたことは確かなことであるが、正直それは自分がバイレイシャルという立場だからこそ深く傷つき考えさせられた部分はあるが、そういったことも外の世界に出なければわからなかったことで、こういった体験が今の自分の価値観や考え方に大きく影響していると思う。

狭い世界で生きてかりそめ強さだけをもとめることは、時にはそういう現実を無視して生きることである。
同じような人間しか接さない、勉強はしないで狭い世界に閉じこもっていては価値観が狭まるだけ、本当に大切なことは見えてこない。中にはスポーツをして世界を目指せと言っているのに語学力ゼロ、新聞さえ読まないバカもいるが、こういう奴が親玉だとまともな選手はそだたない。おそらく素直だけな奴と言うのはこういう親玉の指導を受けているのだろう。

人間は弱い、私は自信も弱い人間だ。しかしそういう弱さが見えた時に人間はいたわらなくてはいけないということが見えてくるのだが、私はそういう弱さと言うのを認めて受け入れるということ、そしてさらにそれを受け入れられるという体験が、新しい可能性を開き、厳しい現実を生きる力が与えられる体験となるのだと信じている。



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