イスラム国の残虐性が問題視されている。個人的にはムスリムと言う宗教は他のものを相容れないのでそれが正当化されるとイスラム国のような反社会的な集団が生まれると思う。ちなみにキリスト教や仏教は融合性を持つので社会に融合してひとつの思想になることが多いが、フランチェスコからはじまってテイラーやサンデルなどのコミュニタリアンに分類する人たちや西田幾多郎の純粋哲学などはその宗教的背景があり、それらの考え方を融合したかたちである。しかしムスリムは他のものに融合しない。確かにウンマ共同体などの共同体はコミュニタリアン的であると言ってもいいが、しかし基本的には思いっきり神中心の思想であるので、神がこういえばこうだという考え方から自分たちの考え方で他のものを分離し、そして悪とみなせば攻撃的になるのである意味厄介な思想であると思っている。さらに彼ら彼女らの生活習慣も他のものと違いがある。信教の自由だといってしまえばそれまでだが、しかしこういう宗教が生活習慣にまでおよびある意味分離された社会と言うのはともすれば悪い意味での団結や集団性を生み出しやすい傾向もあると思っている。
話はトレーナーの話になるが、トレーナーと競技者と言うのは非常に重要な関係である。トレーナーと言うのはただ教えてくれたり自分の世話をする人ではない、私自信は競技者を育てると言う考え方はしないが、しかしトレーナーもそうだが競技者もお互いを尊重し、そして競技者が負けた時やふがいない試合をした時などはトレーナーに申し訳ないぐらいの気持ちを持たないと本当に強くなれないと思っている。これはある競技者の話であるが彼は試合に出て負けた時非常に申し訳なさそうにあやまる、教えてもらったんだからベストをつくして勝たなくてはならないと言う気持ちがそう言わせているのだろう、私はこの言葉を聞いて彼はここではうまくなると思ったことは確かだ。これは弱い者の理論かも知れないが人間なんて根本的にはエゴにはなれない、はっきりいって自分のために力を出すと言うよりも他者のために何かをしたいとか、誰かの気持ちにこたえたいと言う気持ちを持つことでがんばろうという気持ちが持てるのではないかと思っているのだが、そういう人を敬い尊重する気持ちがお互いの中にあれば信頼関係が生まれうまく二人三脚で歩んでいけるのではないだろうか。ボクシングは個人スポーツだなんて言う考え方はコミュニタリズムのMOBにはない。試合に出場する人はトレーナーを尊重しそしてトレーナーは競技者を尊重すると言う気持ちがなければここの性格から考えてうまくならないし人間的にも成長しない、当たり前のことであるがお互いが尊重しあうと言う気持ちを大事に競技者を育てていきたいと言う考えかたはここにはある。そしてその個の活躍やがんばりが他の人の励みや喜びにもなるような影響を及ぼすようなコミュニティづくりをすること、周りからいい影響をうけてひとりびとりが成長できる場であることを願っている。