脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

MOBはコミュニタリアン的である

2015-01-27 | Weblog

イスラム国の残虐性が問題視されている。個人的にはムスリムと言う宗教は他のものを相容れないのでそれが正当化されるとイスラム国のような反社会的な集団が生まれると思う。ちなみにキリスト教や仏教は融合性を持つので社会に融合してひとつの思想になることが多いが、フランチェスコからはじまってテイラーやサンデルなどのコミュニタリアンに分類する人たちや西田幾多郎の純粋哲学などはその宗教的背景があり、それらの考え方を融合したかたちである。しかしムスリムは他のものに融合しない。確かにウンマ共同体などの共同体はコミュニタリアン的であると言ってもいいが、しかし基本的には思いっきり神中心の思想であるので、神がこういえばこうだという考え方から自分たちの考え方で他のものを分離し、そして悪とみなせば攻撃的になるのである意味厄介な思想であると思っている。さらに彼ら彼女らの生活習慣も他のものと違いがある。信教の自由だといってしまえばそれまでだが、しかしこういう宗教が生活習慣にまでおよびある意味分離された社会と言うのはともすれば悪い意味での団結や集団性を生み出しやすい傾向もあると思っている。

話はトレーナーの話になるが、トレーナーと競技者と言うのは非常に重要な関係である。トレーナーと言うのはただ教えてくれたり自分の世話をする人ではない、私自信は競技者を育てると言う考え方はしないが、しかしトレーナーもそうだが競技者もお互いを尊重し、そして競技者が負けた時やふがいない試合をした時などはトレーナーに申し訳ないぐらいの気持ちを持たないと本当に強くなれないと思っている。これはある競技者の話であるが彼は試合に出て負けた時非常に申し訳なさそうにあやまる、教えてもらったんだからベストをつくして勝たなくてはならないと言う気持ちがそう言わせているのだろう、私はこの言葉を聞いて彼はここではうまくなると思ったことは確かだ。これは弱い者の理論かも知れないが人間なんて根本的にはエゴにはなれない、はっきりいって自分のために力を出すと言うよりも他者のために何かをしたいとか、誰かの気持ちにこたえたいと言う気持ちを持つことでがんばろうという気持ちが持てるのではないかと思っているのだが、そういう人を敬い尊重する気持ちがお互いの中にあれば信頼関係が生まれうまく二人三脚で歩んでいけるのではないだろうか。ボクシングは個人スポーツだなんて言う考え方はコミュニタリズムのMOBにはない。試合に出場する人はトレーナーを尊重しそしてトレーナーは競技者を尊重すると言う気持ちがなければここの性格から考えてうまくならないし人間的にも成長しない、当たり前のことであるがお互いが尊重しあうと言う気持ちを大事に競技者を育てていきたいと言う考えかたはここにはある。そしてその個の活躍やがんばりが他の人の励みや喜びにもなるような影響を及ぼすようなコミュニティづくりをすること、周りからいい影響をうけてひとりびとりが成長できる場であることを願っている。


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シャルリーエブト事件 ミシェルウエルベックの小説に見るフランスの問題

2015-01-19 | Weblog

先日フランスのテロ事件に関してあるコメンテーターが新聞社の風刺はやりすぎだ、ムスリムはヨーロッパで多いとされているフランスでも7パーセントぐらいだから、社会的にはマイノリティーだ、だからその社会的マイノリティーを宗教的タブーをこえて風刺するのは排斥にもつながるみたいなことを言っていた。しかしこの7パーセントを多いととるか少ないととるかは見解の違いだ。実は私はこの7パーセントは多いと感じている。それはこの7パーセントがみんな同じ方向に向かっているからであり、前回あげたミシェルウエルベックの小説はこの危険性について問題定義していると言っても過言ではない。

日本人は宗教のこわさを知らない。ヨーロッパと言う国は昔から宗教をバックに領土を広げていた歴史がある。制圧した国や領土を同じ神に改宗させていくのだが、ヨーロッパと言うのはまさにこの方法で領土を広げて来た。宗教戦争と言うのはまさにそうだが、フランスもしかりユグノー戦争と言う大きな宗教戦争を繰り広げた歴史がある。ユグノーと言うのはキャソリックから見たプロテスタントのことであるがキャソリックはこのユグノー戦争でプロテスタントを虐殺、それはサンバルテェミの虐殺として知られている事件であるがこのユグノー戦争によってフランスはキャソリックによって支配され、このことからフランスはキャソリックが大多数の国となっている。ヨーロッパは宗教戦争によって分割されたと言っても過言ではない。領主がかわれば宗教がかわる、日本にはそういう歴史がないので理解しがたいが、しかしこの宗教によって国家が転覆するおそれがある。だからここまでムスリムに対して厳しい姿勢をとるのだと思う。私はシャルリーエブト事件はフランス政府がゆずることができない大きな事件だと考えている。

私自身は宗教と言うよりも宗教的であると言うことに対してはいささか懐疑的である。それは歴史にも見られるように宗教と言うのは人々の心をつかみやすいからで、当時不満を抱えた弱い人間が何も考えずに付和雷同し権力者に追従していったように、宗教と言うのは人の心をコントロールしやすくそれが暴走する恐れがあるからだ。話は少し飛躍するが弱い人間や知識のない人間があつまればその群れは宗教的になる。勉強もさせないでただそれだけをさせている運動クラブはまさにそうであるが、私が群れには知性が必要だと言っているのは集団と言うのは常に客観的な考え方が必要だからで、そういう客観的に物事を見ることができるインテリが群れには必要であり、そういう人間がいるからこそ群れが公平に保たれるのだと思っている。はっきり言って競技に命をかけてみんなが同じ方向に向かって得る満足感は短絡的で公平であるとは言えないだろう。家族的だとか言って特定で盛り上がって家族のようなヒエラルキーのある集団はある意味閉鎖的である。特にここ社会人の集まるクラブと言うのは人によって目的も違うし求めている満足感も違うのでそういう固まり方はさけるべきであるが、弱い人間や知識のとぼしい人間が集まるとどうしてもそういう方向に向かってしまう、そういう集団を見過ごすと憂き目を見ることになる。歴史的に宗教は弾圧されてきたが、おそらくそれは当時の為政者がその危険性を感じていたのであろうと思う。結論的に程度のひくい人間が管理し、集まるボクシングクラブはろくなことはないということだ、少なくとも社会的にはいい方向には向かわない、私が問題にしているのは個人としての宗教ではなく、集団がどこにむかっていくかという問いである。程度のひくい監督はたいした知識もないのに人に偉そうに倫理的なことを語るがこういう主観だけのうすっぺらい言葉はかえって子供には害である。バカが宗教的であると言うことはある意味一番おそろしい、そういう人間に付和雷同にしたがわないためにもある程度の知識や教養、客観的な考え方は大事である。

 

 


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ミシェルウエルベックって

2015-01-18 | Weblog

フランスの新聞社が襲撃されたその理由はイスラム国に対して風刺画を書いたことによるものである。私も最初は言論の自由であるにしても宗教的タブーと言うのをこえてまでも風刺する新聞社にやりすぎと感じたが、しかしこれには背景があってそう考えたら強ちそうとも言えない。私はフランス語を話せないし住んだこともないので見解が甘いかも知れないが、少し前韓国で話題になったフランスの小説がある。それは「soumission(日本語では服従)」と言うミシェルウエルベックの小説である。それは2022年の大統領選挙に極右民族主義政党と新生ムスリムがのこった結果極右をおそれた国民がイスラム政党を選択して、その結果国がイスラムに支配されると言う小説である。もともとミシェルウエルベックの小説は過激すぎるのとあまり日本人にはうけそうにないので日本語訳にはなりにくいが、しかし彼の小説はヨーロッパ特にムスリムが多いとされるフランス政府の問題を浮き彫りにした小説であると思う。これ以上このことについて言及することはさけたいが、確かにフランス政府はムスリムを警戒しているだろう。私が思い出したのは何気ないフランスの公立学校の校則だ、そこにはその宗教を特定する格好で登校することは禁止と書いていたが、これはイスラム教のベールのことを言っているのではないか。さらに十何年前にLasttempuationと言うキリストの性描写をしたと言う映画が話題になった。ヨーロッパの国はバチカンの圧力もあってこぞって上映禁止にした、さらに自由と平等をうたうフランスも然り上映禁止にしたのだが、しかしそこには言論の自由はないのか?風刺と空想を事実のように語るのはわけが違うが、しかしこういう問題から見ても宗教的スタンスのこわさというものが伝わってくる。たぶんこのシャルリーエブト事件はゆずるべき問題ではなさそうだ、もともとフランスと言う国はクラウンの痛烈な批判を王が受け入れて来た国であるから我々が考える風刺や言論の自由とか違う価値観での文化がある。このことを認めるか認めないかおそらくムスリムの人たちはフランス人としてではなく、独自の文化を持って生きているのだから、それゆえに問題がおこるのは確かだ。


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Give me a break

2015-01-14 | Weblog
最近ヘイトスピーチと言うものが問題になってきている。
今までの理不尽に対してうらみをはらすかのごとくそのヘイトスピーチがむけられる。確かにそのヘイトスピーチが出て来た背景はわかるが、しかし出て行けとかころせとかここまでくれば言論の自由とかいう問題ではなくやりすぎと思われる感もある。
まあこれはビジネスの話であるが以前友人と韓国語の教室を計画していたことがある。
しかしこれは韓国への風当たりが強く思わぬ形で頓挫を余儀なくされたのだが、おそらくむこうが日本をたたきすぎるとビジネス面でもアゲインストウインドとなるであろう。たぶんそのことは政治ではなく民衆レベルではわかっていることなので、反日は自分の首を絞めるようなものだ。
最近愚連隊のような軍団が暴力で警察に連行されたらしいが、日本人は主張がへたなので無理をして主張すればこういうみっともない面ばかりがクローズアップされるだけ、私の見解では最近にわかに愛国心をうったえる集団が出てきたが、こういうテンポラリーな愛国者はいきおいで何かを言っているだけだ、ヘイトスピーチが出て来た背景はよくわかるが、しかしこれを続けるとマイナス面ばかりが目立つのではないだろうか。

最近反韓と言うものが目立って来た。私は大阪に行けば本屋に行くのだがその本屋に半日トップ100なるリストと言うか雑誌がならんでいた。こういうことは当然興味があるので購入してみるとまあ50位ぐらいまではいいのだが、しかし50位以下は親日の人間を無理に反日にしたてあげたりとエッと思うような内容が多い、例えばドクト(竹島)のことを答えられなかったから半日だとか、ここまでくればマスメディアによるチョン(チョンは昔の韓国人を蔑視した言葉)狩りだ、私自身も擁護すると言うか公平な立場なのでそういう奴らに襲撃されるんじゃないのかとさえ思っているのだが、最近そういう動きが目立ってきている。

自分の意見をしっかり持つことは大事なことでまたそれをはっきりと主張することも必要である。
しかし集団と言うのはルサンチマンをはらす場であってはいけない。暴力に訴えるような奴らは見るからにDQNそのもので本当に考えていっているのか目立つための主張なのかわからないが、学校で人の話をきちんと聞けないDQNがはたして本当にそこまでデリケートな民族問題を考えているかどうか疑問である。
日本人であることは外国人よりも多くの権利を持つことは確かである。
前にここでは日の丸を使ってほしくないと言ったが、しかしそれでも私は使ってほしくないと言うことはできても、彼ら彼女らには使う権利がある。
なぜならここは日本で彼ら彼女らは日本人なのだからその権利を無視することはできないからだ。
日本人であると言うことは多くの権利を持つことは当たり前だ。そしてまたそのことを侵害されることはあってはならないことだし、ゆるされるべきことではない、しかしそれでもその権利を持った人間が暴走することは危険なことで、それは民族差別にもつながることだと思う。
民族の問題はあまり言及しすぎると思わぬ波乱を巻き起こす可能性もあるが、しかし私が思っていることそれは最近うちの子が韓国人を嫌い始めていることでそのことに関してひょっとしたら劣等感を持ってしまうのではないかと言うおそれである。
日本人の中には韓国人あるいは在日韓国朝鮮人の親を持つ人間も少なくはない。私は愛国心とか自分は日本人だと言うことを誇りにしているとかいうのは多様性と言うものを考えた時にこそ見えるもので、その多様性を認めない愛国心は危険だと思っている。










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HAPPY NEW YEAR 2015

2015-01-03 | Weblog

2015年がはじまった。
今年の方針はもちろん社会人中心で働く人たちが安心してこれるボクシングクラブでありつづけること、そのためには言葉をしっかり選んで、自分にとってこれはどうかという言いたいことを言うたわごとではなく、このことはクラブにとってどうかあるいはコミュニティーがどうかと言うことを問える哲学を持ちたいと思う。

基本的に人間は弱いというのがMOBの考え方である。その弱さを認めることがある意味アドヴァンテージとなる。ジムと言うのはある意味思い込みの世界でよく言われるのがすべてポジティブに考える俺は強い俺はできるんだと、しかしこんなものは所詮張子の虎である。
前に自信を持つと言うのは進行形だと言ったが、私は自身と言うのは自分の弱さを認めることからはじまると思う。自分の弱さを認めることで自分の本当のアドヴァンテージが見えてくる、自身と言うのはその弱さを認めて新しい自分を発見しようとすることによって得れるものだ、そういう意味で自身と言うのは弱さを認めつつ新しい自分にトライしていく進行形である。

先日ISISがある集団によって大打撃をうけた、その集団と言うのはYPGと言ってクルド人の女性の戦士からなる軍隊である。この女性だけの戦闘集団がISISに大打撃を与えたらしいが、理由の一つとしてはイスラムの彼らの宗派によれば女性の殺されたら天国にいけないらしく、戦闘では弱腰になるそうだ。
おそらくそういったことが彼女らのアドヴァンテージになっているのだが、それにしてもこういう戦地で女性だけの集団が熟練した戦闘訓練を行っているISISに大打撃を与えるからたいしたものだ、これを聞いたら男は何をしてるんだとさえ思ってしまう。
彼女らの活躍は英語のニュースなどでよくとりあげられているが、前にインタヴューで自分たちは女性でイスラムの世界では女性は蔑視されている。相手は自分たちを殺すことなんて何とも思っていないので自分たちは覚悟を決めて戦うことができる、そういう意味では我々にはおそれるものがないと言うようなことを言っていたが、これこそまさに弱さを受け入れた新しい生き方ではないかと思う。
弱いと言うことはジムでは禁句かもしれないが、しかし大事なのはその弱い自分に何ができるかと言うことで、その弱さを認めたところに新しい自分が見えてくるのだ。

がしかしクラブそのものが弱者が集まる集団ではいけないと思っている。弱者と弱さをみとめるのは別であるが、弱者と言うのは限定で偉そうなことが言える奴のこと、コンプレックスを持った人間がジムに来て偉そうなことを言ってそのルサンチマンをはらすような場にしてはいけないということで、実は武勇伝を言ったり勇ましいことしか言えないような奴が弱者であり、そういう人間が集まるような場にしてはいけない。
世の中ではたいしたことがないのにジムに来たらアドヴァンテージがとれる、そしてそこで自分の自慢話や武勇伝を話して俺はお前らよりもすごいんだとうそぶくような人間が集まるようなジムはある特定の人間たちにはアットホームであっても、そいつらの仲間ではない人間からしたら疎外以外のなにものでもない、よく言うボクシングしかできないような奴は視野が狭いのでそういう仲間をつくって自分の存在感を示そうとするから警戒しなければならない。
MOBは社会人の集まりである。ここには社会で活躍している人たちも少なくはないが、そういう人たちが入って、楽しくトレーニングするためにはその責任者のリテラシーも非常に重要なことだと思っている。
世界戦の話になれば大した知識もないのに、相手が何も知らないと思ってさも自分はすべてをわかっているように話すバカ、ボクシングの話をすればコミニケーションが成り立つようなボクシングクラブは程度がひくい、そういうところに社会で活躍する人たちが興味を持つかは疑問、中身がなければ所詮張り子の虎である。
MOBはその張り子の虎にならないようにまずしっかりとした哲学を持つこと。哲学と言っても自分の言いたいことを言うようなものではなく、ここでは自分がどうかと言うことよりもむしろこのコミュニティーにとってどうかというコミュタリズム的な考え方で運営したいと思っている。








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