脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私はそれを礼儀と言う

2018-05-31 | Weblog

こう見えて学生の頃はすごくケグジェンイであったと思う。ピーターがもう少し治安のわるいLAとかだったらうたれているというのもわかる。もう何度か書いているが、その私がフェアプレイに徹しようと考えさせられたきっかけになった試合がある。もちろん監督はリングをおりたらジェントルマンであれみたいなことを言っていたが、しかし私はここでは日本人かどうかもよくわからない外国人、その外国人が異国で競技するには、おおげさに聞こえるが時にはまわりが敵に見えることもある。だから多少虚勢をはっていたと思うのだが、しかしある試合をきっかけにフェアプレイであるとかリングをおりたらジェントルマンであれというようなことを考えた。

そのきっかけとなった試合が、コーナーに戻るときいらいらしていてコーナーマットをけったという試合である。まあはっきり今だから言えることだが、はやってはいけない行為である。たぶん日本だったら思いっきり注意されて10年ぐらいはこういう人間がいたとこんなことはやってはいけない例としてあげられるであろう。しかしその試合ではレフリーがだめだと首をよこにふるだけで、その時は減点もなかった。そしてここからが私がかわったきっかけになったのだが、終わって控室のようなところでくつろいでいるとそのレフリーが近づいてきた。「げっ、あのレフリーじゃないか」と一瞬ぎょっとしたが、彼はその私にこう話しかけてきた。「Bow BowだよBow」私は何のことかと思ったが続けてこういう「君の国にはBow(おじぎ)というのがあるだろ。君は東洋人で東洋人は礼儀正しいことをよく知っている。だから次は素晴らしい試合を期待しているよ」とかそういう感じであったと思うが、私はこの彼の言葉を聞いて自分の態度をこの日からあらためた。

おそらく公共の場で求められるのは一方的な体育会のあいさつとか礼儀ではなく。思いやりやエチケットそしてそういうものが作法としてあらわれるのだと思う。私自身もその時はそういう気持ちがかけていた。だからそれがそういうかたちであらわれたのだと思う。うちではただならぬオーラを出してへとへとになるまで追い込んで、バタンと倒れこむようなトレーニングをしてもらってはこまるし、させないようにしているが、それはこの場が女性や社会人もトレーニングしている場であるからだ。まわりのことはおかまいなしに汗をまきちらしてすごい勢いでトレーニングする。ひどい奴になると裸でトレーニングするなんていうのもあるが、こういうことはエチケットの問題で、そういうトレーニングは中高生までにしてほしい、ここは社会人のコミュニティだし、そこに女性がいたらそういう行為はひかえるもの、それがこの公共の場での思いやりでクラブの雰囲気をよくするものだと思っている。

私は体育会のあいさつとか礼儀よりも、こういうエチケットが守れるかどうかということのほうがクラブの質を上げるためには大事なことだと思うし、そのコミュニティが社会的だと言える。やんちゃですとかアウトローは、あいさつや礼儀とか言って日本語がめちゃくちゃでも敬語もどきの言葉をつかえるが、しかしことエチケットとなると別、でかい声でさけんだり、暑い暑いと裸になったり、汗をまきちらしてへたれこむ、武勇伝ややんちゃ自慢をするのもそうだが、そういうやつはいくらあいさつができても女性が集まる健全な場では害である。はっきりいってここは大人が集まるクラブであって、運動クラブの延長ではない。ここではある程度成熟したコミュニティのとらえ方が求められる。

試合の時彼は注意して私の態度をあらためさせるのではなくて、むしろ立派な民族はそうしないんだよと、内面からそれは違うこれからはこうしようとわからせようとしたのだと思う。作法というのはその人間の内面のあらわれでなければならない。その作法は体育会のようにこうしろと言われてするものでもないし、自己満足的なことでもない。それは相手に対する敬意やいたわりからでてくるもので、私はそれを礼儀という。

 


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スポーツはする権利がある

2018-05-31 | Weblog

最近またちょこちょこ運動クラブの体罰の記事がでている。アメフトの問題も今や同情的にみているが、しかし二十歳といえば大人だ。そんな人間がいくら監督の命令とはいえ傷害事件を起こしたのだから、その責任はある。今更どうこう言っても後の祭りであるが、ほかに選択肢はいくつもあったやろ、そうせざるを得なかった監督がやれといったからやった言うのはあまりにも未熟である。君らが言うスポーツマンシップって何なんだ、わるいことをだめだと言えない人間が強い気持ちをもてとか、精神を鍛えるというのはちゃんちゃらおかしいとさえ言いたくなってくるのだが、こういう競技者はめずらしいタイプではない。前にも言ったがこういう問題はシステムを根本的にかえないとまた同じことを繰り返すだけ。さらに言うならばもっと競技者に基本的な学力を要求しろということだ。日本の競技者は勉強しない。私が競技者中心にしないのは、ただ好きなことしかやってこないという未熟な人間とは話が合わないし、根本的にそういう集団は言葉で統括できるとは考えられないからだ。監督もそういう人間たちを束ねていくのだから、そういう中で威厳を保っためには、多少言葉も乱暴になるだろうし、時には暴力的なことも必要になってくるだろう。サルに芸を仕込むのだったらそれでいいのだろうが、言葉のツールが違うのだから十分なコミュニケーションがとれるはずはない。運動クラブの暴力の問題も監督に一方的に責任を押しつけてももっと根本にある問題を解決しなくては同じことを繰り返すだけ、競技者にもっと勉強させろ。勉強させてもう少し高い次元でスポーツやコミュニケーションをとらえたらその群れの在り方、いわゆる質が良くなると思う。うちのクラブは競技のレベルよりもむしろそちらのほうを重要視しているが、Brainがしっかりしていたらその群れが平和で健全に保たれるというのが私の考え方である。その点アメリカはスポーツバカに対して厳しい。大学にはクラブを統括する委員会があって、勉強しないとクラブ全体が出場停止になったり、へたをすると奨学金を打ち切られる。だからフットボール部であってもベースボール部であっても勉強しないといけない、欧米は建前上スポーツバカというのは存在しない。日本も徹底してそういうシステムをつくるべきである。

さらにあほかと思うのは、競技レベルを上げたかったらどこかの一門に入れなくてはいけないことだ。落語家でもあるまいし、日本のスポーツは個人の競争ではなく、一門と一門の対決で監督のメンツがかかっている。アメフトの問題もそういう狭い社会で起きたことであるし、日本はそういう一門に入って監督の犬にならないとレベルを上げることはできない理解できない世界である。私は会見を開いていた学生の言葉を聞いて思った。私だったらあれだけ理不尽なことを言われたら、絶対さからっていただろうし、あれだけ理不尽ならば、場合によっては18 F〇ck you!と言って部を退部しているであろう。なぜそこまでしてその軍団に帰属するのかそのメンタリティが理解できない。

詳しく書くと誰かわかるので書かないが、学生の時チャンピオンをおこらせたことがある。ある時私がかなり大きい階級の人間とスパーをしていたら、彼が私にお前バカになりたいのかと偉そうに言ってくる。なんじゃこいつはと思ったので思わず「お前よりましじゃ」的発言をしてしまった。すると何!と険悪になったところジョージが介入、しかしさらに彼はそのチャンピオンをおこらせたようで、まわりが異変に気づいて事なきを得たが、もう少しでどえらい目にあうところであった。むこうでは監督が偉そうにするということはないし、過去の栄光をほじくりだして威張るやつもいない。個人がスポーツをする権利があるので、その権利がおびやかされることなく、いかなる目的であっても自由に競技できた。

 


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スポーツでは英語は不可欠だ

2018-05-29 | Weblog

かなり前の話だが、海外生活が長く、趣味ではあるがボクシングを外国でやっていた人と、ある会員がマスボクシングをしたのだが、そのマスはたいへん興味深い結果であった。その会員は、もうキャリアも積んで大会などでも優勝しているベテランである。がそれにたいして外国ではやってきているもののその彼はさほどキャリアはなく、1年ぐらいのキャリアで普通だったらその彼が胸を借りるような感じでマスはおこなわれるはずである。
しかし他国でボクシングをしていた人は、日本人から見てえっと思わされるようなボクシングをしてくるので、意外にも、その彼の今までにない動きにとまどい、あまりいいかたちでマスをおえることができなかったのであるが、これには正直あらためて驚かされた。
たぶん次やればそのキャリアを積んだ人間が余裕で彼をいなすであろうが、しかしこれが勝負であったらどうだろうか、勝負は一回きりである。よくオリンピックなどで日本人はプレッシャーに弱いと言われているが、しかしそれは精神力がよわいというだけだろうか?おそらく私が思うに、いろいろな相手に対応できないと言う、ディスアドヴァンテージを、その経験不足と型にはめるスタイルから持っているのではないかと思うのだが、こう言ったことは英語が話せない、外の世界に向かっていけないと言うことに深く関係しているのではないだろうか?

もうだいぶ昔の話であるがHIのUHのチーム(寄せ集めのチーム)と、日本の大学日本一の選手たちが試合をすることになり、当然その話しは友人から私の耳に入った。HIと言えば人口は100万ぐらいで、大阪と同じぐらいの人口である。それに対して日本一になった大学であるから、勝負は目に見えている。
たぶん当たり前に考えたら大学側が圧勝、ハワイ大学側のチームなんてと思うかもしれないが、しかし結果は10対2ぐらいの大差で負けてしまったのだが、普通に考えたらこんな負け方はしないだろう。その後関係者から、あれはLAのチームをよんだとかいうことを聞いたが、しかしたぶんそんなことはない、あのメンバーのほとんどが当時私の知っているメンバーである。
これは日本人のボクシングが型にはまり、異文化に対して適応能力がひくいということを物語っている。おそらく自国で行い、今度手合わせをすれば。こんな負け方はしないだろうし、ひょっとしたら次は10対2ということも十分にありうる、しかし勝負は一回きりで、この勝負に勝たなければ意味がないのだ。
たぶん多くの人たちは外国の選手が、どんなボクシングをするかということを知らない。
うちに来た新しい会員がいい例で、さらにそれだけではない、もっと変則的なアスリートもいるのだが、その変則もわざとそうしているのではなく、身体的な特徴から自然にそういうスタイルになるから、かなりやっかいであるが、こういうはじめて経験するボクシングには自分たちが型にはまりすぎているので、対応できない、だから格下の相手にまけてしまうのだ。

私が思うに日本人ほど練習を真面目にする民族はない。
HIの人間にクラブでやっているような、あんな練習を強いればみんなにげだしてしまう。しかし日本人はどんなきつい練習であっても、みんながそれを行おうと努力するのだが、私から見れば信じられないことであり、これが日本人の強さではないかと思っている。
私がそのチームにいた時、試合前コーチが体力をつけるために、朝山道を走ろうと言うことを提案した。日曜以外1か月ずっと山と言うか丘をはしるのであるが、しかしなんと朝起きて初日に練習に来たのは3人で、たぶんこういうことは日本だったら考えられない、逆に考えれば日本人はそれだけ勤勉で我慢強いのだ。
しかしこと外国に目を向けると未だ鎖国状態である。海外留学組などいないし、英語を話せる人間もあまり聞いたことがない。おまけに語学に疎い集団ほど、家父長的で、あにきやおやじという役割のある封建的で、意外とそういう軍団は多く存在するのではないかと思う。
昔元が日本に襲来してきた時に、日本人は「やあやあ我こそは」と名のってから戦うやり方で戦い、その間に攻撃されて面喰ったというが、まさに伝統とか言って、自分たちのオウンスタイルをつらぬき、型にはめるのは、それと同じことで、英語などをおぼえて海外に目を向けなくては、まさにそれはスポーツ界の鎖国である。

今スポーツには英語が絶対必要だ。話せなくてもそれを知ろうとする努力がなければいけない。
もっと言葉を学び情報を取り入れなくては、ほかの国と差がつくのが目に見えている。
何も知らない経験したことがない相手を目の前にして、自分を信じろとか自分のボクシングをしろというだけではおそまつだ。言葉をおぼえて相手の文化を深く知り、情報をつかむことが最優先であると考えている。

うちは競技レベルにこだわっていないし、ボクシングを競技する目的が違うので目立たないが、しかしうちのクラブのコミュニティの在り方は日本人の考えている在り方ではない。そのことに関してはこのブログを見たら理解できるであろうと思うし、さらにもっともっとコミュニティの質をよくして一般の社会人や女性が入ってきやすくしたいと思っている。



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Es ist gut!

2018-05-28 | Weblog

 

ボクシングをやってきてこれだけは言えることがある。それは自分は大したことがないということだ。人はよく謙遜して言うがでも私の場合は本当のことだ。自分なりに大きいものにむかっていったつもりであるが、その手前でこてんぱんにやられてしまった。最後の試合は今でもはっきりとおぼえている。私の相手は往年の栄光であるが、ゴールデングラブでベスト8まで行ったつわもので、その時は30過ぎのおやじ、私はこんなおやじに負けてたまるか、むしろ負けたら恥だと思っていたので全力で倒しに行ったと思う。しかしいくらパンチのスピードは速くても直線的な動きしかできないので、先読みされてうまくまわられあっさりと攻略されて負けてしまった。確か当時のむこうの判定は先にレッドコーナーとかブルーコーナーと言ってから審判が競技者の手をあげたと思う。その試合はわりと注目されていたので判定の時会場がザワザワしていてはっきりと聞こえなかったが、聞くまでもなかった試合で、その時私はクンナッソ(終わった)と会場の天井を見上げていた。少したとえは違うが、人間はどうしようもなくなった時、天を見上げるというが、本当に人間は限界を感じた時天を見上げるから笑えるが、これが私のボクシングにおける限界であった。

でもこてんぱんにやられたからこそ見えてくるものもある。偉そうに言わせてもらうが、誰も自分のことを知らない国で一生懸命思い切りやって限界を知る。その限界を知ることで見えてくるものも大きい。私はクンナッソ(終わった)と天を見上げたが、しかしそれはこれでよかったということで、やり遂げたという気持ちである。最初ここにきてパンチがあたらなかったので、悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたら。ジョージが声をかけてきてくれたことではじまった彼と二人三脚で歩んだボクシング、そこそこ強豪のアメリカ人と対戦して勝った時は、単純だが、東洋人も彼ら彼女らと対等にやれると思ったし、メダルも取れた。そういった経験が私の中で自信になっていったことは確かである。けれども自分の実力なんて相対化されればされるほど小さくなっていく。そして一生懸命やればやるほど、自分の限界や現実を受けとめなくてはならない時があるのだ。人間は前に進むためには、時には大切なものを捨てなくてはいけない時もある。でもしかしその捨てたものが正しければ年とともに思い出となり、その人の年輪となる。それは決して今しがみつくものではないが、それが年をとって思い出となって自分の軌跡を振り返った時に、自分の生きてきたことはよかったんだと振り返ることができる。それが年を取ってからの人間の幅や自信になると思う。

今日あげた曲は先週と同じであるが、윤하の꼬마 I Cryだ。꼬마(コマ)とは小さいとか子供という意味であるが、私も本当に向こうでは小さい存在であったと思う。そしていくら頑張っても認められることはなかったそういう平凡なちっぽけな存在である。けれども一生懸命挑戦することで自分の軌跡をのこすことができた。そしてそのことを今振り返って後悔はない、それは私を語る上での本当の年輪になっていると思う。


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I bursted into tears

2018-05-26 | Weblog

たぶん今ぐらいの季節、今だから言えるが学生の時、私は一度ハワイで慟哭したことがある。それは自分ではどうすることもできない不条理に対して流した悔しいとも悲しいともいえる涙であったが、でもその泣く姿を見られるのがいやでその時ジウンにくるりと背をむけて帰って行ったことをおぼえている。彼女は私が男は涙をそう簡単に見せるものではないと言うプライドがあるので、そのことについては何もふれることはなかったが、それからしばらくして、あるスポーツ店で働く韓国人女性の話になったのだが、彼女はいわゆるわけがあってここに来ている女性であった。当時韓国人の子供が養子に出されたり、女性がDVにあって離婚したりしたら、本国で生きることができないので、外国で水商売をすることが当たり前のようにあった時代、実際ここにはそういう養子に出された子供やDVからのがれてきた女性たちがいたが彼女もその一人である。たぶん前にに泣いたところを見られたことがはずかしかったのもあって、私が「俺はそういう人たちに比べたらまだ幸せなほうだ。もうたいしたことでは泣けない」と言ったら。彼女はこういった。「人間が悲しいと感じる時泣くことは大事なことだ、よく怒りを力に変えるとかいうけれども、人のために涙を流すことは人のために何かをしたいと言う気持ちが生まれてくる。そういう力が世の中をかえることもある。私は人のために泣けない人は信用しない。だから傷ついた時は泣いてもいいと思う」たぶん彼女はこういうことで私もあなたと同じ考えを持っていると、私の悲しんだ気持ちを肯定してくれたのだと思っているが、その時私は笑ったり泣いたりすることは人間の特別に与えられた感情なんだと思った。そしてそれらの感情はもちろん相手はあってのことであるが、人間の傷ついた感情は泣いて表現できるから伝わるし、その伝わった感情にまた同情して泣く、人間はこの特別な感情を大事にして生きていかなくては人生が無味乾燥なものになってしまう。そして人間は自ら傷つくからこそ相手の気持ちがわかり、人間特有の助け合いの気持ちが生まれるのだ。それが泣くものとともに泣き笑うものとともに笑うというキリスト教徒である彼女が言うLoveである。私は笑ったり泣いたりするのはまさに人間の気持ちや感情を豊かにし、その人間の幅をつくるものだと思っている。人間は助け合うことが大事だ。でもその助け合う前に自らも傷つき涙を流すことも大事なことである。韓国語で涙はヌンムル(目の水)というが、しかし涙は単なる水ではない、感情や心がこもっているからこそ出てくるものである。


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育てるのではなく才能を発掘する

2018-05-23 | Weblog

今回のアメフト事件で改めて日本の体育会はだめだと言うことを思わされた。はっきり言って外部から来たら、日本の体育会のシステムはものすごく問題を感じる。私はだいぶ前からおかしいと言ってきたが、本当におかしい。日本では競技レベルを上げたければそのさらにもっとおかしい一門に入っていかなくてはだめなのだが、私はそこまで妥協してやる気もないし、競技のレベルはどうか知らないが程度の低い一門に入って、そこでおしめをかえてもらったわけでもないのに親玉に親でも言えないことを言われてひょっこあつかいされる。そういう人権侵害も甚だしい軍団によろしくお願いしますとは絶対に言えない。今機械的組織から有機的組織へと移行しつつある中、横暴な指導者が問題視されてきているが、しかしこれらは日本のスポーツ界のシステムとメンタリティから出てくる問題であって、いくらその中で出てくるパワハラや体罰を問題にしても、システムや考え方をかえなくては逆に弱体化するおそれがあるとブログでも書いたと思う。アメリカは競争させて才能を発掘するだが、日本は競争させるよりも競技者を育てるとかいうところに重きを置く、競技者を育てると言う段階で上下関係がはっきりとあらわれるのだが、競技者を育てると言うのはその競技者に技術をたたきこむのだから暴力や暴言などが出てくるのも当たり前で、目的が目的なだけにそういった環境では暴力や暴言は正当化される。ひどいのになると寄宿生活をさせてその競技に没頭させるような一門もあるが、言葉はわるいが勉強もしないでそれだけしかしない人間に言うことを聞かせて育てていかなくてはいけないのだから、名門とか言われる監督が暴力をふるったりするのも不思議なことではない。さらに彼ら彼女らも人を育てて一人前の競技者にしなければ評価が下がると言うプレッシャーがある。そういう中で暴力や人権侵害というものが生まれてくるのだろう。

向こうでは小さな試合だがしょっちゅう持たれていて、競技者が試合ができる機会が多かった。おもしろかったのは米軍の基地でフェスティバルが開催された時、米軍主催で野外のリングで競技をしたことである。夜、確か花火がうちあがる中、米軍の選手と試合をするのだが、そこはフェスティバルともあってすごく盛り上がったことをおぼえている。気に入られたものだけが参加できる強化合宿よりも、もっとその競技を楽しんでできるような競技者主体のシステムをつくってそこで大いに競争させるべきだと私は考えているが、スポーツは楽しむものだ、だからこそ競技者の目線に立って、すべての人がそれを楽しむことができるシステムをつくるべきだと思う。

今更あの監督は暴力をふるうとかパワハラがあるなんて言っても意味がない。そんなものは氷山の一角、喉元過ぎれば熱さはわすれるで、今までそういうことを何度も繰り返してきているのは、やはりそれはシステムやメンタリティに問題があるからだ。それしかやったことがない人間が組織をつくるのだから、そこはおのずと問題がでてくる。これからは客観的に物事を考えて適切な判断ができる人間が必要だと思う。そしてそこで求められるのはある程度の知的レベル、スタッフが何人集まってもひとりも英語が話せないようではだめ、これからは指導者の知的レベルや学歴なども求められるようになると思う。

 


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Ere libenter homines id, quod volunt, credunt

2018-05-22 | Weblog

集団をまとめていく上で言葉は大事だ。指導者の言葉がしっかりしていないとその全体がずれてくると言うのが私の考え。その責任者のまわりに集まる人間を見たらその集団の質がわかる。言葉というのは人間のコミュニケーションの手段であるから、当然そこでどういう言葉が語られているかということによって集まってくる人間の質もかわってくるのだが、そのことはビトゲンシュタインの「Language-game(言語ゲーム)」という基本概念の中にも記されていたと思う。

私は哲学や宗教学をしっかり勉強したので言語ゲームのルールをふまえた上で言わせてもらうが、言葉がとぼしい指導者のところには、同じようなレベルかそれ以下の非常におそまつな人間が集まってくる。体育会のルールのようなものは守れるし、仲間意識が強いので一応そこでは協力し合っているかのように見えるが、しかし教育や考え方そのものがでたらめなので、はっきりいってまともな人間が見たら違和感を感じるだろう。スポーツみたいなそれだけをやっていればいいのだろうが、しかしそういう奴らを将来を考えている子供とつきあわせていいかどうか、そいつらからどういう影響を受けるかということを考えたらわかると思うのだが、いわゆるそこがやんちゃですとかアウトローたちの居場所になってしまったらだめだと思う。うちのクラブはそういうたぐいの人間が入って来ても、いくらこの競技ができても決して特別扱いしないし、むしろそういう人間がここに来ると居心地のわるさを感じるだろうと思う。私自身は自分のコミュニティを健全に、そして平等で女性や子供や社会人が安心してトレーニングできる場にしたいと思っている。そのためには言葉をしっかりと勉強して、さらに哲学をもってそのコミュニティを治めることが大事だ。それがそのコミュニティを健全に正しく導いていくことだと信じている。

ラテン語をとった時にカエサルの言葉を学んだことがあったが、彼のひとつひとつの言葉は重く人間の本質をついていることに驚かされた。それらはラテン語で読めばよりわかるのだが、例えばカエサルの言葉として記されたガリア戦記にfere libenter homines id, quod volunt, credunt(ほとんどの場合、人間たちは自分が望んでいることを喜んで信じる)」とあるが、彼は人間について深く洞察し、ある種の哲学を持っていたことも確かであり、そのことによって群れを治めていたのだと思う。これは私の考え方だが、人間はルールや仲間意識のような情でうごかすのではない、言葉によって動かすのだと思う。言葉によって動かすと言うのはべらべらと心地よい言葉を並べ連ねるのではなく、その指導者が言葉をしっかりとたくわえているか、そして哲学を持っているかということである。

その人間が何を考えているかということは文章を書かせるとわかる。文章を書かせて何十年生きてきてもその程度かというような文章ではこれからのコミュニティを管理する上では不十分、特にうちのクラブのような社会人中心のクラブはこういうことが求められる。

 


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ニーチェはあわない

2018-05-21 | Weblog

私はかつて施設などから頼まれて何人かの子供のカウンセリングをしたことがある。一人の人間と向き合ってかかわることは非常に根気がいることで、すべてがうまくいくとは限らない。中には有名なカウンセラーが驚くぐらいかわった子供もいるが、しかし正直うまくいかなかったことのほうが多いような気がするのだが、かかわった子供が突然いなくなったり、問題をおこして違うところに行ったりした時には自分の無力さと言うものを実感させられるものだ。

基本的に私のスタンスは、自分は完璧ではない、欠けているところが多い人間だということを認める、すなわち人間は弱いんだと言うところからスタートする。私自身もまずそのことを認めて生きているが、実際虚勢をはって生きるよりもこの方が楽だ、自分の弱さと言うものを認めることで、虚栄心や見栄などすてることができ、余計なものに自分がふりまわされずに堂々と生きていくことができるからであると思う。
家庭環境が悪く親からも見放されてきたような環境で生きていた人間は、常にプレッシャーを感じて生きている。ある子供の施設の職員に突っかかっていく姿を見たことがあるが、その恫喝する姿はやくざそのもの、たぶんそうしないとなめられると思って安心できないのだろう。しかしある時そいつが泣いている姿を見て、こいつも孤独でがんばっているんだなあと同情したのだが、そのプレッシャーから解放してやるのが、私の役目だと思っていた。特に幼児期に親に見捨てられた人間というものは、弱くて守ってほしいと言う時に、親がいなければ、誰からも愛されない、自分のことを誰も助けてくれないんだと言う気持ちになるのは当たり前のことである。そういう生き方をしてきた人間にのこされるのは、もはや虚勢を張って生きていくことしかなく、そしてその行きつく先がやくざの世界である。昔少年刑務所を出て来た人間に何とかこの自分の弱さと言うものを教えようとしたが、しかし逆にボクシングをやってきた人間が、人間なんて弱い、さらに自分は弱いんだとなんて言うのだから、最初はかなり驚いていて、それは受け入れがたい事であった。たぶん最初かかわった時は、こいつ本当に大丈夫かと思っていたと思うし、私自身も自分のことはただこいつが感じるように思えばいいと自分のことは一切言わなかったが、しかしこの弱さを受け入れて、人間を信じることができることが、虚勢をはって生きることよりも楽で、幸せであると思っている。だから弱さを教えようとしたのである。

人間は弱い。相手によって支えられなくてはいけないし、自分も彼、彼女らの弱さを受け入れて、支えていくという相互関係によって存在している。人間は一人では生きていくことができない、その相互関係の中で我々は生かされている。事実私も強くなりたいと一生懸命頑張ったけど、よわかったので、たいした実績をのこすことはできなかった。でも後で気づいたことはそういう自分でもまわりは一生懸命支えてくれたことだ。ふりかえるとそこにはくやしさや喜びをともに共感して支えてここまで導いてくれた人たちがいた。そしてその実感は今までの自分を変えることができた。今までは自分が何者かであろうとして頑張ってきたが、しかしそれらは空虚感でいっぱいであった。人間はひとりでは生きてはいけないし、存在しない。我々は生きているのではなく生かされているのだ。人間は相互関係の中でこそ自分を知り、そして目的を知らされる存在だ、ここに我々が生きる意味と目的があるのではないかと思う。ボクシングは個人競技だ。よくリングに立ったら誰も助けてくれるものはいないと言うが確かにそうだ。でも本当にひとりでやっているのではないと気づかされるのは自分が引退した時である。自分に限界を感じてまわりを見まわした時に自分を支えてくれた人間たちがいることに気づく。私にとってジョージやアレンの存在は本当に大きかったことだ。自分の競技人生の実績はそうたいしたことはないが、しかしその競技人生は楽しかったし、幸せであったと思う。そう感じることができるのはこんな自分が支えられてきたと言うことに気づくからだ。自分の弱さを認めると言うことは負けではない。弱さを認めるからこそ見えてくるものもある。人間はそこを出発点にして人間を考えることで豊かにされていくのだと思う。

 


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競技を英語ではCompetitionと言う

2018-05-19 | Weblog

この前のブログでうちのクラブは有機的組織であると言うことを行ったと思う。有機的組織と言うのは組織の雰囲気が緩やかであり、しがらみも少なく自由な雰囲気の組織をさす。また明文化された規則は少なく、あっても拘束力は弱い。そのため構成員は自らが何をするべきか考えなければならない。組織内の階層は不明確であり、権限も分権化されている。不安定であったり変化の激しい環境に置かれている場合には、構成員が柔軟な発想で臨機応変に問題対処する事に有利である」と記述されているが、縦ではなく横のつながりを重視するのも組織であることの特徴である。と言うことを説明したと思うのだが、これとは反対に機械的組織と言うのがある。機械的組織と言うのは文字通り上からのルールが自分の行動を決めるのであって、そこには厳格なルールや決まりごとがあるのが特徴である。スポーツでいえばロシアとか中国のような社会主義国はまさに機械的組織なので、上から言われたことをただがむしゃらにやっていたらそれでいい。時には人権なども顧みられることもなく、ただそれだけをすることを求められるのだが、私は日本もどちらかと言うとスポーツはこの社会主義的なにおいがすると思っている。

私は実際にアメリカでスポーツを競技して感じたことは、アメリカは競争社会であると言うことだ。ハワイのような小さな州でもトーナメントごとに新しい強豪がふって出てくる。ゴールデングラブで優勝した奴が次からみんな俺の首を狙ってくると言っていたが、まさにアメリカは競争社会で、そういう国で競技できたことは非常に楽しかったし面白かったと思う。日本はどちらかというと競技者を成長させることに重きをおくが、アメリカは競争させて勝ち残っていったものだけが選ばれるというシステムだ。日本でよくあるのが生活の管理をするためか半ば強制的に競技者に寄宿生活をさせてその競技に没頭させると言うやり方、本人たちは人を育てているつもりだろうが、私はこういうやり方に人権無視だと問題を感じる。日本はスポーツにおいては機械的組織であると言わざるを得ないのだが、日本はアメリカのように競争させない、こういう組織が存在するから監督が半ば暴力や人権を無視したやり方でないと競技者は育たない。監督やコーチの人権無視はまさにこの社会主義的なようなシステムが人権無視を生み出すのもので、こういう状況で監督のパワハラだけをを問題にしてもシステムをしっかりさせないと、逆にその競技自体が弱体化するおそれがあると思っている。

日本は今スポーツの過渡期である。組織自体は今までの縦社会である機械的組織から個人の自由度の高い有機的組織へと移行しつつある中、競争の原理へとシステムをかえていかなくては弱体化していく。今優秀だと言われているスポーツ指導者がパワハラなどでつるしあげられているのは、まさにそういう指導者でないと競技者を育てることはできない現実を物語っている。スポーツ指導者のメンタルとシステムに問題があるのだ。

セルジオ越後と言う日系ブラジル人が書いた本で「補欠廃止論」と言うのがある。大まかにいえば個人が所属できるチームの数を増やして、競技者がレベルに応じて競技できる機会をつくれと言うのがこの本の趣旨であるが、まさにこれは競争の原理である。日本人は人を育てると言うが、しかしスポーツでいうところの育てると言う意味は教育とは大きくかけ離れている。企業でもそうだが、今世の中が組織に有機的であることを強く求めている時代に今までの日本のようなやり方では通用しない。これからはアメリカやスポーツ先進国に見習って競争させるシステムをつくる。そのためには指導者の古い考え方を頭から一掃して、再構築する必要があるだろう。


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もうひとつのボクシング

2018-05-18 | Weblog

私は学生のころケグジェンイであったようだ。ピーターにもう少し治安が悪いところだったら撃たれていると言われたぐらいで、その私が言うのもなんだが日本のスポーツの世界は子供じみていて成熟できていない。成熟できていないからお山の大将のような存在が、その世界で君臨してガキ大将のようにふるまうのだと思う。アメフトの事件も監督の指示があったとかなかったとか、でもそんなことは誰が言おうがやってはいけないことである。もしやれと言っていたならばやれと言うほうも言うほうだが、しかしそういう非道徳なことをやるほうもやるほうだ。私ならば何があってもそんな犯罪のような命令には従わないだろうし、そんなことを言われたらなぜだと質問をするし、場合によってはF〇ck youと帰っているだろう。私はそんな監督を絶対に尊敬しない、たぶんそういう性格であるから日本と言う国のスポーツでは順応できないのだと思っている。

私のチームの監督はヨーロッパ系の人間で超インテリである。言葉などもラテン語を引用したりなどと知的教養のある言葉を用いていたが、彼が日頃から言うのはリングを降りたらジェントルマンであれと言うことである。彼はスポーツをする人間は相手を尊敬しなければだめだ。尊敬できない奴は競技する資格がないとさえ言っていたが、たたかった相手を尊敬するといいことは当たり前だがスポーツの根本で、そのことがあるからスポーツを競技することは素晴らしいと言える。私自身もいろいろな民族の中で競技していたので、あいつだけは絶対にぶちのめしてやると言うような人間もたくさんいたし、事実向こうもそう思っていただろう。でも不思議とそういう相手であっても試合後には自ずとその競技者を尊敬できる。それはお互いがボクシングと言う競技の中において正々堂々と力を出し切ってたたかったからこそわかる尊敬であり、そういう尊敬は正々堂々と競技するからできることであると思っている。

私自身一流の競技者でもなかったし、そうたいした実績もない。でも向こうでやったひとつひとつの試合はすごく楽しかったし、私にとってそれらはすごくいい思い出であった。本当に私の競技人生は充実していたと思う。それは私が小さなヒエラルキーにしばられて誰かにやらされているのではなく、私自身がひとりの競技者として相手と向き合って正々堂々と精一杯競技できたからこそそう言えることだ。そしてそのことができるのは監督やコーチが縁の下の力持ちになって私を支えてくれたからである。キャンバスの上は平等だ、何とか軍団の何々とか、どこの国の人間だとかそういうことは一切関係なく、そういうしがらみを一切すてて正々堂々とそこでたたかうからお互いの尊敬が生まれてくる。我々が向き合っているのは競技者で、監督から認められたり賞賛されたりすることがプライオリティではない。相手から尊敬されるようなファイトをすることがプライオリティであり、それが競技する意味であると信じている。そのためにはしがらみを一切すててほぼ100%で相手に向き合うことだと思う。


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