脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Amat Victoria Curam

2007-11-30 | Weblog
来週日曜日はタイガー杯である。我がクラブからは5名の選手が出場し、そのうち3人はデビュー戦である。競技者におくることばとして「Amat Victoria Curam 勝利は苦労する者を好む」とあるが、我がクラブのメンバーはこのためいろいろな努力を重ねてきたことは事実である。
特に社会人は忙しい仕事を終えて練習にきている。中には時間半もかけて練習に来ているものもいるが、そこまでしてみんな勝利にむけてがんばっている。
このことばが事実であるならば私はみんなの勝利を信じている。
なぜならあれだけ努力をしたのであるから、決して勝利は見放さない、そう信じている。

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ボクシングと拳闘

2007-11-29 | Weblog
アマチュアボクシングにおいて日本の選手は世界では通用しない、それは拳闘とボクシングの違いである。
まず、USAやキューバの選手と比べてスピードとリズムが違う。私は本場で試合を何度も見ているが、ミドル級でも日本のフライ級ぐらいのスピードで動く者もいるし、リズムが早いし違うのでパンチがどこからでてくるかわからない。
しかし日本の選手のパンチはリズムをが単調でパターン化してしまっているので読まれるケースが多い。
ある学者は日本人は農耕民族なので狩猟民族が4拍子で生活しているのにたいし3拍子で生活しているといったが、このリズムを何とかしなければ勝てないように思う。
特に私は練習において前後の動きが気になる。
ボクシングの動きは前後だけではない、シャドウを見ていてもたいていの人間は前後にしか動かさず、よくあるのが鏡にむかってまっすぐな動きをくりかえす、農耕民族ゆえに昔の農作業を思わせるような動きであるが、これではリズム感をやしなうどころか動きすらも単調になる。
今から考えると私はUSAのボクシングクラブに行って練習したが、日本のように鏡ばりの中で練習したと言う記憶がない、日本のようにかがみにむかって規則性のある動きをするよりも、むしろ感をやしなう練習が主体であり、たいていのジムは一畳か二畳ぶんぐらいの鏡がフォームのチエックのためにあるだけである。
しかし日本のジムは、このかがみばりの練習場で前後の動きを繰り返しすことが多く、スパーリングやマスボクシングも単調になる。プロのように長時間が勝負の世界では農耕民族特有のねばり強さ、パンチ力が生かせるが、しかしアマチュアは3ラウンド9分(または8分)の世界、そこではスピードとリズムがものをいう世界であり、日本人選手が短距離で勝てないのと同じように、いくらがんばっても差を縮めることはできないのだ。
ボクシングというのは前後に動くだけではない、実は横(あらゆるほうこう)に動きパンチをだすことも大事であり、そのことを実践しなければ、ボクシングではなくしょせん拳闘におわってしまう。

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今日のマスボクシング

2007-11-28 | Weblog
今日のマスボクシングは非常によかった。
きつめのマスボクシングではあったが、高校生がいたい思いをしてくじけそうになりながらも「がんばれ、行け、行け」と言う声援に励まされて2ラウンドをやりぬいた実に成長の見られるマスボクシングであった。
私はジムを設立して感じたことは人間の成長である。
特に未成年と言われる中学生や高校生の精神的な成長はめざましいものがあることを実感している。
今日マスボクシングをやり終えた高校生の顔は自信ありげな表情であった。
また一歩後退することもあるだろうが、この一歩には限りなく大きい、ボクシングは一生できるものではないが、しかし若いときにこそこういう大きな一歩を体験し豊かな人間になって欲しいと願っている。


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認められる女性

2007-11-27 | Weblog
最近ボクシングのかっこよさがユニセックス化している。
どういう事かというとボクシングを一般の女性ができるようになったということである。
ことばは悪いが一昔前ボクシングをやる女性は、どちらかというと男性のようになろうとした人たちであった。
だからどちらかと言えば振る舞いも男性的で、その世界になじもうと努力する人たちであった。
しかし今やボクシングをやる女性達が変わってきたように思える。
どういう表現をしていいかわからないが、普通に化粧をし、普通におしゃれをする、ボクシングをやっているというほかには、何ら変わりない女性達がボクシングをやっているのだ。
ひと昔前はボクシングといえばあしたのジョーに見られるような、血と汗と根性の世界、それがボクシングで、女性の存在と言えば影で主人公を見守るようなそんな姿しかなかった。そしてそういう世界が男の世界であり、そういう世界がかっこいいんだと酔いしれていた。
がしかし、そのかっこよさも変わりつつある。時々女性がボクシングをかっこいいという表現をつかうが、あきらかに女性にも男性とは違うそれがあるのである。
昔はボクシングだけではなく、社会的にも女性がなかなか認められない時代であったが、今やそれは変わりつつあり、女性が認められるようになってきた。
ボクシングの世界も然り、その自分たちの実力を試し、そのかっこよさを表現できる場としてあるのかもしれない。
女性にとってのかっこよさとは、男の私には定義しにくいものがある。ジムの女性に聞いたら、思想的なものよりもむしろ芸術的なものであるという。
こういう時代になってきた今、女子ボクシングはポピュラーになる可能性は大きい。
個人的な意見だが女性のほうが男性にくらべてポピュラーなるような気がする。

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中年勝利者

2007-11-26 | Weblog
「最大の名誉は決して倒れることではない、倒れるたびに起きあがることである」
この言葉は日本人にはあまりなじみはないが、英語圏では孔子あるいは早川雪舟がのこした言葉として残っている。
この前ウルトラマンのブログの中でウルトラマンが語る愛、勇気、希望は痛みがともなうが、それでも支え合って生きることが希望につながり、その愛とか、勇気、希望をウルトラマンは怪獣と戦うことで、我々に教えているといったが、まさに今生きている中年の姿はそれに近いものがあるように思える。
毎朝通勤電車にゆられ、上からは押さえられ、下からはつきあげられた人間関係の中で傷つきぼろぼろになって戦っている。
最近「そのままのきみでいいとか」「あなたは唯一の存在なんだよ」という耳障りのいい言葉ばかり目だつように思える。
しかし私が40年以上生きてきて思うことは人生には必ず痛みがともない、その痛みを伴わなくては、本当の愛や勇気や希望は見えてこないということである。
本当に必要なことは、その痛みに立ち向かい打ち勝っていく勇気であり、その痛みに打ち勝つことができるからこそ本当の愛や希望というのが、見えてくるのではないだろうか。
今日本の中年は戦っている。そして戦っているのは何も働いている人たちだけではない、不景気でリストラにあった人、失業者もそうである。
けれども彼ら彼女らはあきらめず傷ついてもぼろぼろになっても戦っている。
そういう姿を尊重し、彼ら彼女らのそういう生きる姿から学ばなくはならないことが多いのではないだろうか。「そのままの君でいい」とか耳障りのいい言葉も結構である。しかし日本の中年達の姿は現実の姿であり、そして戦いながら、人生を楽しんでいる人が本当の勝利者なんだろうと思う。

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おやじファイトクラブ

2007-11-22 | Weblog
うちのボクシングクラブでは週2、3回ほ9時すぎにマスボクシングがはじまる。私たちはこれを深夜のマスボクシング、おやじファイトクラブと呼んでいるのだが、そこではギャラリーも合わせて30才以上のおやじたちがあつまり、おっさん達がマスボクシングに興じている。
このマスが実に激しい、最初はルール通りのマスだったのだが、白熱してきたのかあたる回数も次第に多くなり、今ではマスなのにフルフェイスのヘッドギアをつける次第で、若い人たちをひかせている。
この前もはじめてこのマスに加わった人があまりの激しさに「マスってあてないんじゃ」と言ったところ「気のせいじゃ」の一言でかたづけてしまう。それがおやじファイトクラブのすごいところである。
しかしこのマスが非常に楽しそうなのだ。見ている私もはいりたくなるぐらいに楽しそうにやっているではないか。
私がはいれば後出しじゃんけんみたいで、実際には入らないが、楽しみながら、それでも向上心をもって、自分たちの課題をきちんとこなすようにがんばっている様子は、見ていて励まされることが多い。
年をとれば体力もなくなり、定年も近づきさきぼそりになっていく。
しかし親父ファイトクラブはさきぼそりを感じさせない、そんじょそこらの若い奴には負けない集団である。

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King of heros 2

2007-11-20 | Weblog
ウルトラマンは高尚である。カレー大好きという○○レンジャーの様な俗っぽさもなければ、悪がでてきた時に「俺たちがやってやる出動だ」という気負いのようなものもない。
ただ人間がどうしょうもなくなった時に、突然現れ、人間を助ける神がかり的なヒーローなのだ。だから私はウルトラマンに威厳さえ感じることがある。顔の作りしぐさなど、特に傷ついても人間を無限に愛そうとする彼らの行為は、他のヒーローにくらべて遥かに深いように思える。人はたかだかウルトラマンと言うかも知れない、しかし彼らが伝えようとしていることは、大事なことであり、今の時代だからこそ必要に思える。

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King of Heros

2007-11-19 | Weblog
私があげるKing of herosはウルトラマンたちである。はじめに言っておくが私はウルトラマンおたくではない。
最近子どもの影響でウルトラマンシリーズを見るのだが、
これが実によくできている。
こどもむけなので単純なストーリもあるが全体を通して見てみると、首尾一貫してテーマが語られていることがわかる。
このウルトラマンシリーズの特徴(特にメビウス)は愛と希望と勇気を語ることである。
しかし愛、希望、勇気といっても、はやりの俳優がでてくるようなトレンディドラマのべたべたしたような愛や、戦隊ものが持つような、ただ強いだけの勇気ではない、人間が愛や希望を持つこと、そして未来を切り開いていくためには、痛みが必要なんだということも同時に教えている。
時には人間に裏切られ、絶望することもあるが、しかしそれでも人間を愛し、悪の力に傷つき、ぼろぼろになってまでも戦い、人間を守ろうとするウルトラマンの姿はまさにそうである。
ウルトラマンの戦う目的は、徹底的して人間の命を守り、悪から地球を守り未来を切り開くためである。
メビウスにいたっては戦いたくはないが、それでも人間のためにやらねばならないという葛藤と自己犠牲的な愛さえも感じるが、ここまでしても人間をを守ろうとする姿、愛が、ウルトラマン物語には語られているのである。
彼らが語る大切な教えは愛である。そして愛することは、時には痛みをともなうが、しかし人を愛しつづけ、支えあって生きることが、希望につながる、そのことがいかに大切かということを教えてくれているのである。
たいていの男は子ども時代ヒーローを持つ、もしあなたの子どもがメビウスになりたいと願ったら是非ウルトラマン哲学を語ってあげてほしい。

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ボクシング映画 2

2007-11-16 | Weblog
Far and awayというトムクルーズ主演の映画がある。
これは開拓時代のアメリカに土地をもとめて移住するアイルランド移民の物語である。
この物語の中で主人公が土地を手に入れるため、賭ボクシングに出場するシーンがある。もともと腕っ節の強い主人公が、酒場でボクサー相手にけんかし、それがボスに認められて毎夜毎夜ボクシングの試合に興じ、結局賭ボクシングに出場するまではよかったのだが、彼は大事な試合で負けて、用なしとなった彼は酒場から追い出されてしまう。
物語の結論はそれでも彼はくじけず、最後はランドレースという土地がもらえるレースに出場し、ついに夢にまで見た土地を手に入れるという話しだが。
この映画はボクシング映画とは少し違うが、20何年前新しいボクシング新天地をもとめてUSAへ渡った自分とオーバーラップするものがある。
日常の生活にいやけがさして、船に乗り込み上陸するが、アメリカのあまりにも大きさに期待をはずませて喜ぶが、何をやっていいかわからず躊躇する主人公の姿は、むこうへ行った時、そのレベルの違いと大きさに圧倒され自分はただのちっぽけな東洋人だと実感した自分の姿ににている。
はじめてやったスパーリングも一発もパンチがあたらず「こんなことってあるのか」と途方にくれ、アメリカはボクシングにおいても大国だと実感した自分。
そしてその時私に日系人のジョージでジョージは私に「強くなりたいか」と声をかけてくれた。そこから天才トレーナーと名もない東洋人ボクサーの二人三脚がはじまり私の小さなサクセスストーリーははじまったのだ。
私は今でも彼がいったこの言葉を思い出す。「一流の奴とそうでない奴の違いがわかるか、夢を持つことだ、夢と言ってもいいかげんなものではなく、自分で具体的に考えそしてそのために何をするかなんだ、簡単なようだがこれが難しい」と。
この考えは今の自分の考え方の中心にある。
私はUSAのボクシングを通して多くのものを学んだ、今世界はグローバル化しているだから今更アメリカなんてという意見をあるし、私もそう思う。
しかしボクシングにおいては未だ大国であり、特にボクシング後進国の日本は学ばなくてはならないことがたくさんある。

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ボクシング映画 1

2007-11-15 | Weblog
Million doller baybeというアカデミー賞を受賞した映画がある。しかしこれはRockyのようなサクセスストーリーではない。物語は一人の低所得層の女性ヒラリースワンク演じるマギーという30歳代の女性が、そこからぬけだすためボクシングに出会いはじめる。しかし30歳という年齢からかなかなか結果を出すことができず、同じジムのフランク(クリントイーストウッド)にトレーナーを頼むが女には教えんとけんもほろろにことわられる。それでも必死でしがみつき、何とか教えてもらおうとするマギーにフランクも心撃たれ、トレーナーをひきうけ、やがて世界挑戦に挑むのだが、さっきも言ったようにこの話はサクセスストーリではなく話の本筋はここからはじまる。その世界戦に挑戦することになったマギーだが、その世界戦で相手の反則により首を強打してしまい、病院にはこばれる。そしてそこから闘病生活がはじまるのだが、ある日下半身不随でボクシングができないことを確信したマギーは自殺を試みるのである。私はこのシーンですごいなあと思ったのは自殺を試みたしらせを聞いてトレーナーが駆けつけたとき、彼女がさるぐつわのようなものをかまされていて、その理由が何度も舌をかみきろうとするからだというではないか、一度死のうとした人間が何度も何度も舌をかみきろうとするするだろうか、一般的にこの行為は自暴自棄のように見える、しかし私はここにある意味人間の尊厳を守ろうとする一人の姿があるように思える。よく宗教の指導者はいのちの尊さについて高いところから語る(お前らここまで真剣に生きたことがあるのかと問いたいが)しかしここにはそれらとは違う命の尊厳、生きることの問いが問いかけられているような気がする。確かに自分の命を絶つことはゆるされることではないし、してはならないことだ、しかし彼女にとってボクシングは命であり、それが自分のすべてであった、そのことを失ってしまえば終わりで、彼女にとって生きることよりもプライドを失うことの方が大きいことである。確かにこの映画を見て思ったことは、もう一つの生命倫理があるということである。生命倫理ということばは軽々しくつかうものではないと思う。しかし、この映画を見た時、自分はボクサーであったことを実感した。

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