脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

次回の掲載

2013-12-28 | Weblog
次回のブログは1月6日(月)に掲載します。
思った以上にたくさんの人たちに見ていただき感謝です。
セヘ ポク マニ パ ドウセヨ 新年たくさんの福を受けてください。
チョンマル カムサハムニダ セヘ タシ マンナヨ

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セヘ ポク マニ パ ドウセヨ

2013-12-26 | Weblog
もう今年もあとわずかもうすぐ2014年がはじまる。
韓国語であけましておめでとうはセヘ ポク マニ パ ドウセヨ直訳すると新年たくさんの福を受けてください、これは新年だけではなく、日本語で言うところのよいお年をと言う時にも使われる言葉である。
MTオリーブボクシングクラブは、今年も多くの福を受けたと思う、まずあげられることはおっさんたちが試合に出れたこと、そしてその中でもひとりが敢闘賞をいただけたことは、ここで練習する人たちの励みになったと思う。

昨日はクリスマスであった、クリスマスはイエスの生まれた日だが、学生の時「イエスは笑ったか」と言うことを発表したことがある。
なぜこういうことが問題になるかというと、中世の修道院では笑いというのは低俗ととらえられていて、人間が笑うことはあまりいいことだとされなかった。
なぜ笑うことは低俗かと言うと、その理由が聖書にイエスが笑ったという記述がないからで、当時笑いというものはあまり肯定的にはとらえられてはいなかったからだ。
ショーンコネリー主演の「バラの名前」という映画がある。
これは修道院で禁書を読んだ修道士が殺されていくわけだが、私はその禁書というのが、イエスが笑ったという記述がある写本で、それを見つけてしまっては修道院の規律だけではなく、彼らの持つドグマさえもくずれかねないので、それを見た人間を殺害したと推測している。
この映画は原作そのものが難しいので、そういう推測ができるのは宗教学や哲学を勉強した人でないとわからないと思うが、当時神であるイエスが笑ったか笑わないかということは、非常に大きな問題であったのだ。
で私はどういう結論を出したかというと、笑ったである。確かに原典を見ても笑ったと言う記述はないが、しかし彼の行動からは笑いの雰囲気というものが十分に伝わってくる。
特に彼の演説はユーモアに満ちていて、おそらく当時は彼の話を聞いて笑ったものもたくさんいたであろう、こういうユーモアは仏頂面では語ることはできない、自らも笑うからこそこういうアイロニーは生きてくるのであって、私はその観点から彼は笑ったと結論づけたのである。

笑いは人間を救う、イエスの時代、当時の為政者に押さえつけられ、迫害さえもあった群衆が唯一立ち向かうことができたのは、この笑いを通して語られたアイロニーで、イエスの演説というのはまさにその為政者に対するハチのひとさしで、多くの民衆はこの演説によって救われただろう。「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいんだ」ということを名前は忘れたがある哲学者が言っていたが、我々ももっとその笑いの本質をとらえて、群れを養う必要がある。
しかし笑いといってもDQN軍団のように程度のひくい笑いではなく、知的好奇心を刺激する笑いである。
よく大阪の人間は「笑わしたら勝ちだ」みたいなことを言うが、しかしこれは一理ある、しかしそれはめちゃくちゃなことを言って笑わすということではなく、物事の本質をみきわめたアイロニーのようなもので、聞く相手に一本取られたと思わせる笑いのことである。
下ネタでもなんでも知性をくすぐる笑いは、人間にとっていい刺激となる、笑いに知性など必要あるのかと思うかもしれないが、しかし知性をともなった笑いは、最大の力になると信じている。

これは我々の間で有名な話、前にも書いたが施設で育った女性には親からつけられた名前がなかったらしい、彼女はそのことにかなりのコンプレックスを持っていて、非常に寂しい思いをしたそうである。
彼女が働いて大学に行った時、ある男性と知り合った、彼はおとなしいが誠実で真面目、彼女は生活の安定を求めていたので、彼のことが気に入り、二人は恋におちた。
そしてある時彼女は、たぶんこの人なら自分の気持ちを理解してくれると思ったのだろうか、思い切って自分のことをうちあけた。
自分が施設で育ってみよりがないこと、そして自分のコンプレックスである親からつけられた名前がわからないということ、不安にかられながらも自分の思いをぶちまけたのだ。
しかし彼はその話を聞いてこう言った「大丈夫、神様にも名前はないんだよ」
十戒の掟に神の名をみだりにとなえるなという掟がある。聖書では神に名前をつけることはタブーとされていたので、GODと呼ばれる神は厳密には名前が無いのだが、彼が神に名前がないと言ったのはまさにそのこと、彼は彼女のその深刻な問題を受け止めジョークで返したのだ、そしてその答えに彼女は笑った、そして笑って自分のいやな過去と決別したのである。
その後二人はゴールインしたとかしないとか、笑いというのは力である、人間にとって笑いというのは不可欠なもので、福を受けるというのは、どれだけ我々は笑いのある生活ができるかということだ。
セヘ ポク マニ パドウセヨこの言葉は、今年もたくさん笑える年でありますように、来年もいっぱい笑いのある年であることを願う。

私は結構いろいろな民族と接してきたが、おもしろいことに気がついた、それは笑いであるが、どの民族に聞いても笑いはHa Ha Haでたぶん世界共通だ。




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Man errs so long as he strives

2013-12-23 | Weblog
昨日12月22日は私にとって思い出深い日だ。
もうかなり昔のことであるが、ハワイアントーナメントの決勝戦で負けた日で、その試合が私にとっての最後の試合になったからである。
その当時のHIはボクシングのやや強豪州で、わりとボクシングは盛んであった。試合なんかも1ヶ月に1回ぐらいは開かれていて、年にはゴールデングラブを含む、3回のトーナメントが開催されていたが、私はその州だけの小さな話であるが、そこその実績を上げていたので、まあまあの自信があって、この大会では絶対に優勝してやるという野心があった。

話は映画の話になるが、今日ゴッドファーザー3と言う映画を見ていた、この映画は有名な映画なのでストーリーは説明しないが、登場人物でビンセントと言う、ボスの甥がいる、彼は優秀で度胸があるのだが、しかし行動的というか、思いついたことをすぐに行動するので、よくボスであるおじにおこられる。
その時決まってボスであるマイケルが「YOU UNDERSTAND!」ときつく言うのだが、このセリフには聞き覚えがある。
「YOU UNDERSTAND!」当時私があまりにも勝手なことをするので、よくジョージに言われた言葉である。それはそのおじであるマイケルが、組織を無視して勝手な行動をとった時に戒めるように言うのだが、まさにその言い方が同じ、笑ってしまった。
今考えれば当時は、結構コーチや監督にさからって勝手なことをしていたと思う、練習のやり方や試合のこと、私のせいであるチームににらまれたこともあった。
しかしこういう人間をうまくコントロールしてくれて、大した才能もない人間を小さな島のマイナースポーツという枠であるが、ここまで実力を引き出してくれたのは、まさにコーチと監督のおかげ、日本だったら私のような性格は相手にされないし、知性や学力よりも素直さだけを求める日本のスポーツ界は私には合わない、しかし向こうのスポーツ界は人権や個性を大事にする世界だったからうまくいったのだと思う。
だからそう言うことがわかっていたので、せめてこの試合だけは優勝して感謝の気持ちを表したいという気持ちがあった。勝ってその感謝を表したかったのだ。
しかし結果はあっさりと判定負け、1ラウンドでボコボコにして、勝ったら飛びついていってハグするというシュミレーションもできていたが、しかし現実はそうあまくはない、3ラウンドがおわって、勝者をコールした時に、相手のレッドコーナーと言う声を聞いた時は、本当にみじめであった。
きれいごとではないが、負けを認めるということは非常に勇気のいることである、この後、その負けた相手のところにわざわざ行って、ありがとうと握手を求めるのにはかなりの勇気がいったが、負けた自分を認めるのであるから、おそらく手が震えていた、おそらくこれが人生最大の勇気だったと思う。
しかし今考えればそれでよかったと思う、その時負けを認めてリセットできたからこそ、今の自分がある、偉そうに言うが、人間は勝ち続けることよりも負けを認める方が大きく成長する、ゲーテは「Man errs so long as he strives(人間は失敗をする限りは栄える)」と言ったが、この失敗があるからこそ見えてくるものも大きいのだ。
オリーブには40代のおっさんが試合に出ている、3回出て3回とも判定で負けたが、しかしそれでも試合に出続けて今度は勝とうと言う気持ちがある、同世代の人にこの話をすると、自分もできたらそうしたいと言うのだが、この挑戦は多くの人に力を与えていると思う。
勝つことばかりでは人間は成長しない、負け惜しみではないが負けたことがない生き方なんてくだらない、人間は負けるから、失敗するから、成長するのだ。
しかし人間が本当に失敗や負けを認めることは難しいことだ、なぜなら本当の敗北とか失敗というのはみじめなものだからだ、しかしそれでも一歩進んで握手を求めるように、勇気を出して自分を受け入れる時、新しいものが見えはじめる。

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シンプルイズベスト しかしその前に咀嚼せよ

2013-12-20 | Weblog
だいぶ前に英語は物事をわかりやすく簡単に伝えると言った、英語というのは日本語のようにまわりくどい表現をするのではなく、物事をストレートに伝えることが重要だ、最近の哲学や心理学の講義や大統領の演説などは、非常に簡素な英語をつかい簡素にまとめられているが、複雑な事柄をシンプルにまとめる、これが英語で論文を書いたりスピーチする時の基本だと思っている。
しかし英語は言いたいことをまとめてシンプルに話すといっても、簡単なことを簡単に表現することと複雑なことを簡単に説明することでは違うが、複雑なことを簡単に説明するのは咀嚼力が必要である。
私の好きな学者のケリーマクゴニガルは、非常に簡素な言葉を使って、講義の内容を伝えているが、しかしその内容は非常に深いバックグラウンドを持っていて、そのいろいろあるバックグラウンドからピックアップして咀嚼して伝える、だからこそ単純な言葉で講義しても、それが力づよいメッセージとして伝わるのだと思う。

欧米では学校は勉強するところだという考えが強いので、学校に行くことは勉強しに行くことが前提としてある、欧米の大学は日本の大学に比べて勉強の量が違うが、授業もただ出席しているだけで、質問したり、意見を言わなくては出席しているとはみなされない、この時に学生たちは難解な本を読まされて、思い切り勉強させられるのだが、そういう学生時代に必要な勉強をして頭が磨かれていく、そういうことが日本学生にはかけているのではないだろうか。
しかしそれに対して日本人にとって学校に行くということは、単位を取りに行くようなもの、中にはクラブをしに行くという馬鹿もいるが、これじゃあ学校に行くのも教習所に行くことと変わらない、へたすりゃ教習所のほうが真剣にかよっていると言っても過言ではない。
前にあるおやじが若い人にひさしぶりにあって「○○くん今なにしているの?」「学生です」と言ったらすかさず「クラブ何してるの?」と聞いていたが、学校は勉強するところ、普通ならば「学部は何?」しかし意外にもこういうまぬけな質問をする奴は少なくはない。しかし学校は当たり前だが勉強しに行くところだ。

日本人に足らないのは表現力だ、この表現力というのはいろいろと悩んだり、葛藤をおぼえたり、考えなくては養われないもので、この表現力を養うためには子供の頃から本をよく読むことが大事だと思う。
この前子供の修学旅行の作文集を見せてもらったのだが、私はこの作文集にを見て少し驚いた、うちの子供の小学校は比較的教育熱心な親が多く、半分ぐらいが中学受験を目指すという、まあまあ学力の高い子供がいる学校だと思うのだが、しかしその学校の6年生の作文というか修学旅行の感想文が、ただあったことを淡々と書いているだけ、この作文を見て表現力がとぼしいと思ったのだが、おそらく受験中心のテストに受かるための勉強では、人間の感性を磨いて表現力を養うというようなことは乏しいということであろう。
最近書店などで漫画で読む何々というシリーズがかならず置いている、哲学書や経済書などを漫画で解説している本で、この本を読むとなんとなく哲学がわかったような気になるのだが、しかしそういう本を読んでも本当に身につくものだろうか、前にテレビで小説を活字で読んでも漫画で読んでも脳の働きはかわらないので同じことだという結論が出たが、しかし実際に活字を読んでその中に入り込んで行って、深く感動したり、感銘をうけたりするのは活字を読んで時間をかけてじっくり読んでいくからで、そういう感動や感銘がやがて血となり肉となり、自己の表現力につながるのだと思う。
鉄は熱いうちにうてと言うが、子供の頃や若い時にやらなくてはいけないことがある、それを通り越して知識ばかり身に付けようとするから表現力が養われずに、力強いメッセージが語れない、哲学や経済書を漫画にしているというのはまさに受験制度が生み出した産物だ、若いうちは難解な本を葛藤しながら、時間をかけて読んで頭をたがやかす、私などは5ページぐらい読むのに5時間ぐらいかかった本もあるが、それぐらい難しい本を気合を入れて読むことが若いうちには必要なことで、こういう作業を通してかなり鍛えられたということが言える。
英語はシンプルに伝えるというが、しかしそのシンプルな英語を力強いメッセージに変えるか変えないかは、その人間の咀嚼力と表現力でそれは活字によって養われるものだと信じているが、若い時に哲学書などのむずかしい本を読んで葛藤するのは、その咀嚼力と表現力をみがくには大事なことで、この作業に費やす時間が日本人は欧米に比べて少ないのかもしれない。






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Es ist gut これでよし

2013-12-18 | Weblog
youtubeで映画が見れるらしい、字幕なしだと結構な数の映画が見れるのだが、さっそく昨日見てみるとかなり多くの映画が、さっそくKarate kidを見た。Krate kidは最近リメイクされて上映されたそうだが、昨日見たのは1980年代に上映されたKrate kid 3だ。
この映画を見るとアメリカ人が日本の武道と言うものをどうとらえているかということがわかる、主人公は高校生の少年、そして彼に空手を教えるのが日系人の老人である。
それはこの映画の1シーンであるが、空手を教える老人が盆栽の店を出そうとしているので、その友人である主人公ががけにある盆栽の苗を必死の思いでとってくるのだが、その盆栽をこともあろうか敵対するグループにとられて枝を徹底的におられてしまう。
しかしその盆栽が何日かたってその老人によって復活させられる、あれだけぼろぼろにされたのに見事に復活した盆栽を見て驚く少年に、老人はこういう「inside you have strong root, no need nothing except what inside you to grow. Understand!(大事なことはあなたの心に強い根を持つことだ、あなたの心を成長させろ、それ以外に必要なことはない)」
実際にこの映画では最初肉体的な強さを求めて戦うが、その肉体的な力が限界になり、窮地にたたされる、しかしその窮地に立たされた時に老人が少年にアドバイスすることで、その気持ちが内なる世界に向かい、そこから力を得た少年が起死回生のごとく立ち上がり、勝利していくのだが、おそらくこの映画の作者は日本の武道と言うのを肉体的な強さよりも精神的な強さとしてとらえているのだろう、Krate kid 2では日本人の生活をかなり時代錯誤にとらえていたが、しかしこの映画を注意深くみると、作者が日本の武道をリスペクトしていることがわかる。
この映画を見ると日本人はバランスのいい民族だということを実感させられる、そしてそのことを教えているのが武道であるが、肉体的な強さではなく、心を育てろと言うのはまさに心と体のバランスを保てと言っている。
しかし現実はそうではない、クラブを見たらわかるが、男だけとか、レベルの高い人間だけ、勉強させない、勉強できる環境ではない、特にそういう世界で固められた人間は固まりやすく、仲間意識が強い、こういう環境でバランスなど持つことができるだろうか。
日本武道と言うものは心を育てるもので、それは肉体的な強さをもつからこそ求められるものである、しかし拳のかわりにチ○コをふりまわし、下半身のファウルをおかすバカ、柔道家と言って寝技で女性を襲うくず、もはやこういう奴らには何とか道と言う価値はない、もしあてはめるとしたら外道か犯罪道であるが、こういう話は氷山の一角でたたいたらもっと誇りが出るだろう。

よく柔道家であるとかボクサーであるとかいう奴がいるが、しかしこういう世界は見栄とたてまえの世界で、こういうことを強調する人間は自分は特別な存在だ、特別な目で見られたいという思いが強いのではないか、我々はそういう特別な存在である前に欠けや弱さを持った一人の人間である、実際レイプや暴力事件などは柔道家とかボクサーとか言う問題ではない、人間としての基本的なことができていないからで、なのに柔道家としてとかそういうことが言えたものだ、こういうことがおこるというのはまさにバランスを考えて教育してこなかったからだと思う。

MOBには多くの人が入会してくるが、私は基本的にここは強さを求めるよりもまず弱さを認める場所だと思っている。
ここにはいろいろな人間が在籍している、一般の人から社会的に地位の高い人や高学歴の人なども結構在籍しているが、しかし人間は誰でも欠けがあり、弱さがある、そのことを知り、お互いが認めることでバランスがとれてくる、人間とはこういうものなんだ、これでいいんだという気持ちが強い根になっていくと信じているし、その根を強くしていくことを誰もが求めているのだと思う。
空手のマスターである、ミヤギは少年に空手を教える時まず我慢させることから教える、映画のセリフでもpatienceが重要だと言っていたが、このpatienceを教えることで肉体的な強さではなく、内なる力の存在を教えようとしたのだと思うが、内なる力は自己を内省することからはじまる、自分の欠けや弱さを知って知って自分と向き合う時に新しい自分に出会うと信じている。











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韓国人に辛辣ですねと言われた

2013-12-16 | Weblog
「Et tu Buute」
これは韓国人の後輩に言った一言だ、彼には非常に親しい後輩がいて、いつも彼はその後輩のことをほめる、あいつはすごく才能があって、英語も堪能で仕事がまかせられる男なんですよと、聞く話によると彼はよくその後輩を食事に誘って、家によく招くそうである。話を聞いていてあまりに彼がその後輩のことをよく言うので、こう言った。お前ところで「Et tu Brute」って言葉知ってるか?
これは英語のことわざとなっているが、ラテン語で「ブルータスお前もか」カエサルが寵愛していたブルータスに裏切られ、さされて彼に言った一言である。
人間は与えられすぎると感じなくなる、愛情なんて言うのは、特にそうで、あまり相手に与えすぎてみかえりを求めないと、その与えてもらっていることに感謝しないで、逆に今度はやってくれないと、なぜやってくれないんだと不満になり、それが裏切りの原因ともなる。
私はその後輩に与えすぎるな、与えすぎると裏切られる、そんなことよりもパートナーなんだからギブアンドテイクの関係をしっかり結べ、お互いが持ちつ持たれるという関係では、お互いが成長する、一方が与えて一方がそれを受けるだけでは成長しない、例えば君は彼がピンチの時に、彼を助けてやったらそれを満足するだろうが、恩と言うのは3日で忘れてしまうものだ、与えられるだけでは人間は成長しない、助けられたりおごってもらってばかりで、自分が役に立たないと思えば人間は離れていく、特にできる人間はそうだ、君が上司であればむしろ彼に6割以上のことをさせて、彼が役に立つということをアピールしてやればいい関係がつくれるんじゃないか、あの歴史的にも偉大で人心掌握にすぐれていたカエサルであっても人に裏切られることもある、この言葉はまさに人心掌握の難しさを語ったもので、それだけ人間と言うのは複雑である。

「ピョルロ」
これは韓国語で「別に」とか「いまいち」と言う意味。
この言葉は「いまいち」と言う意味でつかわれる時はピョルロ チョア ハジアナヨ(あまりよくありません)のように副詞で使われる言葉だが、しかし日本語でもう一歩と言う時の「いまいち」のようにもつかわれる。
その後輩が夏にあった時に、ゆかたを買ったらしく、家族で着ている写真をどうですかにあいますかと見せてきた。
「お前の奥さんと娘はいいが、しかしお前はうーんピョルロだ、着物は高いけどゆかたならリーズナブルで失敗してもそう損害にはならん」と言ったら本気でおちこむ、その後食事をおごりなだめるのに苦労したが、本気でかっこいいと思っていたのだろうか?

「They are no more intelligent than monkeys」
これはスポーツしかできないバカにおくった言葉だ、no moreだとサルよりもバカで、no lessだとその反対の意味になる、比較でよく間違える文法である。
あいさつしろとか、くつをそろえろなんて言うようなことはサルでもできることだ、いい大人がもっと高度なことを言えないのかとさえ思ってしまうが、こういう稚拙なことを黄金律のように言う奴が居るから、本当に大事なことに目を向けることができない、スポーツクラブは小学生並みの道徳しか持てないと言われるのだ。
今やスポーツも人権や差別などいろいろなことを考えて、そしていろんなことを基準にしなくてはいけない。なのにあいさつしろとか、くつをそろえろとか、アホかと思う、こいつらは今世界でどういうことがおこっているのかということに多少なりとも関心があるのだろうか?
いい年をしてボクシングマガジンみたいな雑誌しか読まないようでは恥ずかしい、新聞や本を読まないような奴がワンピースなんか見るな、こういう基準でしか物事を見れない奴は時として子供の害になる、英字新聞には毎日のように未だ戦争があり、民族紛争がおこってそれに苦しめられている人たちの記事を見る、さらにジェンダーや性格の問題などスポーツクラブが取り上げて考えなくてはならないことはたくさんある。ロンドンオリンピックでロンドンをはどこにあるかと聞かれて、中東あたりを指したバカアスリートがいたが、非常に恥ずかしいことだ、こうならないためにももっと深く世の中のことを知る、世界と言うことを一番意識するのはスポーツなのだから、せめて指導者がもっと勉強して、子供にいい刺激を与えることが必要だ。











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実は日本人は聖書的

2013-12-11 | Weblog
言葉と言うのはその共同体を形成していくには重要なカギであり、この言葉に従って人間形成がなされ、共同体が形成されていくと言っても過言ではない。
昔HIの韓国人のGFに教会のクリスマスパーティに誘われた時に、そこにいた人の多くが立派な職業についていて、学歴が高く、子供たちも成績がいい子が多い、彼ら彼女らがそうなるのは、そこのミニスターが洗練された言葉をつかっていて、そのまわりの人間も同じようにハイレベルな言葉を使っている、そういう中でまわりの人間、特に子供たちが影響されて、やがて彼ら彼女らもそうなっていくからだと言うことを書いた。
オリーヴが言葉を選ぶ言うのも共同体の質をあげて、社会人が入ってきやすい共同体にするためである、言葉と共同体の関連性と言うのは社会学においても重要視されているが、そこの指導者が言葉を学ぶということは共同体の質とも深くかかわっていると思う。

しかし一方親玉がバカだと共同体の質がわるくなる、クラブなどでの暴力や置き引きなどのちよっとした犯罪が起こるのは、その共同体の親玉の言葉の質がわるいから、そういう輩を引き寄せるのだと思っているが、実際そうではないだろうか。

私は宗教学と哲学の勉強をかなり専門的にやってきたので、そこからの考察であるが、宗教を学ぶというのはたとえ我々のように無神論者であってもためになることだ、宗教と言うのは哲学よりも前に存在し、中世ではスコラ哲学と言って、神の存在を求めることが哲学の意味となり、そこから有名な哲学者が出て、今日も影響を与えているが、それだけ重要な学問である。
宗教学は、哲学だけではなく、心理学、社会学、行動学などの学問も含んでいるが、宗教学は学問の王道であると思っている。

私は英語の塾とスポーツクラブと言うふたつの仕事をしているが、どちらも人間を扱う仕事であるが、今人と会話しコミニケーションをはかる上では、この自分が勉強してきたことがかなり生きている。

笑い話だが私がこれは絶対に成功すると自信のあることがある。
それは占い師と新興宗教の幹部、いずれもうさんくさいが、しかし宗教的な書物や哲学書を勉強して、ディスカッションしてきたので相手の考え方や行動と言うものがわかり、先読みすることができるし、おおまかに言って人間はこういう時こういう行動をとりやすいのだということを心理的に理解できるので、場合によっては人の心をコントロールできるからである(しかし絶対にそういうことはしない)。
例えば宗教やこういう共同体の人数を増やすことは簡単なことだ、ここでいうと利用されたらいけないので書かないが、ある新興宗教は意図的にそうしたかどうかはわからないが、この方法と教理を結びつけることによって、信徒数をかなり増やした。
今では一大勢力ともなっているが、その一大勢力にまでのぼりつめたのは、人間のある心理的な事柄を教理にむすびつけたからだと思っている。

少し話はずれるが聖書と言うのも、人間を知ると言う意味では非常にすぐれた書物である。
特に原書で読むとその奥深さがわかるのだが、私はこの聖書を知ることで大体の世界の人の考え方がわかると思っている。
私の考察では西洋人と東洋人の聖書の読み方が違う、どう違うかとというとおおまかにいってまず西洋人はドウアリズム(二元論)で物事を考え、その感覚でとらえた神が、正義の神である。よく彼ら彼女らは神の正義と言う言葉を口にする、イラク戦争でもそうであったが、教会が神にむかって勝利を祈る、アメリカに勝利をと、そういう祈りは多くの教会で祈られていたが、日本人はそういう光景を見ると、戦争のために祈るなんてと思うかもしれない、しかしこの祈りは、彼ら彼女らが神は正義だととらえているからで、その正義の神が自分たちとともにいるから正義なんだ、だから自分たちは正しいんだという結論にいたるからである。

しかし一方日本人はその考え方をもたない、どちらかと言うと事柄を神がただしいかどうかと言う基準ではなく、心情的あるいは内面的なとらえ方でみるからだ。
だから彼ら彼女らはしばしば神を愛としてとらえることが多く(もちろん欧米でもそういうが)、日本人の言う神は、愛の神で自分を愛してくれているということが彼ら彼女らの根本的な考え方で、それが彼ら彼女らが信仰をもつことの意味である。
(日本人が西洋人のように二元論的な考え方にいたらないということは、裁判制度の限界点であり、またこのことは死刑制度や尊厳死に対する大きな見解の相違であると思う。)

私は聖書の見方としては、欧米人よりも日本人のほうがただしいとらえ方ができると思っている。確かにある書物はギリシャ哲学の光と闇という二元論的な影響がみられるが、しかしそれでも人間の心と言うものを通して理解しなければ見えてこないものも多く、それは原書を読めば理解できることでもある。
聖書の中に義と言う言葉がある。これはしばしば出てくる言葉で重要な言葉だ。
この言葉は原書ではδικαιοσυνηs英語ではjusticeとかrightnessと訳されているが、英語の意味はいずれも正義である。
日本語でも義と言うのはもちろん正しさであるが、しかしこの言葉のまず第一に上がっている意味は「道理、条理、物事の理にかなったこと、人間の行うべき筋道」すなわちこれはイエスの代償行為を意味するのであって、おそらくイエスの十字架の代償行為が神の行うべき道理であり、人間はそのことによって救われたと考える、その概念が原書の義を知る意味でも的を射た考え方であろう。
だいぶ前にユダヤ人の部族が日本にのがれてきて、そこで大きな影響を与えた、イエスも然り、彼の墓は東北にあるというようなことを特集で組んでテレビでやっていた。
まあはっきり言って、そのことを結びつける資料がないので何とも言い難いが、しかし彼ら彼女らの経典である、聖書を見ると日本人との関係を強ち違うとは否定できないものがある。

スポーツの世界は封建的なので時々えげつないこと、甘い汁をすって、よわいものいじめをするようくず、下品な親玉がいる、こいつは自分では王様だと思っているが、しかし正体はベゼバブルだ、ベゼバブルと言うのは聖書に出てくるハエの王、うじむしの親玉でもある、こういう奴のまわりに集まるイエスマンはハエかうじむしかはわからないが、なさけない、そろそろ年末粗大ごみと一緒に駆除する必要はあるのではないだろうか。

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バイレイシャルから見たスポーツ

2013-12-07 | Weblog
私はバイレイシャル(二つの民族を起源にもつ人間)である。
言語もいくつか話せるし、日本以外の文化も知っている。
だからスポーツなどで応援する時は、必ずしも日本を応援するわけではない、複雑だがそのスポーツによって応援する国が違う、野球は韓国で、サッカーも向こうであったが、しかし最近は日本を応援している、そして今スケートの世界選手権が開催されていて、私は個人的な理由で浅田を応援していることをブログで書いたが、韓国ではヒールである彼女は私の置かれている立場とオーバーラップするのか、日本人選手で唯一がんばれと思う選手であるが、本当に心からオリンピックで金妍児をうちのめしてほしいと願っている。

しかしことボクシングはと言うと興味がない、チャンピオンとかいう人間の名前も顔を知らない、たぶんあってもわからない、さらに言えば私は辰吉以外の日本人は応援しない、正直な話し、経済的に発展途上のボクサーが試合に出てくると、日本人選手をたたきのめしてベルトをとってやれというぐらいの気持ちになるのだが、私は日本のボクサーが好きではない、日本語もまともに話せないチンピラみたいな奴、引退後のことを考えて、お笑いにいじられて喜んでいる奴などを見ると、本当にこいつらプライドがあるのかと疑ってしまうが、テレビに出てくる日本のボクサーはほとんどそういう人間であるからだ。
前に「俺が世界を変える」と豪語していたボクサーがいた。すごい自信たっぷりに、勢いで言うのはわかるが、しかし世界を変えるためにはまず言葉をおぼえなくてはならない、さらにこのボクサーはよくお笑いにいじられていたが、パッキャオと言うフィリピンのボクサーが母国に何をやっているということを知っているのだろうか?はっきり言って自分をうってお笑いにいじられている人間とはスケールがちがう、まあこんなことを言うのはおこがましいが、世界を変えるというのであれば、まず世界と言うものがどういうものかということを知らなくてはならない、そのためにまず言葉をもたなくてはならない。
スポーツ選手であるからこそできることがある、有名なモハメッドアリは反戦のため、そして黒人差別のために戦ったし、パッキャオも母国の貧困と戦っている、今やスポーツ選手と言うのは影響力があるのだから、公に世界と言う言葉を使う時、世の中の情勢と言うものをしっかり踏まえて発言しなくてはならない。それはボクサーだけではないが、バカなスポーツ選手のインタビューを聞いていたら、井の中の蛙大海を知らずだ、オリンピックなどで世界に出て行こうとするならば、もっと世の中の動きをよく見て、知る必要があると思う。

話は少し飛ぶが、それでも私は彼は尊敬できるというボクサーがいる。
初めに名前を出したが、辰吉である、私は必ずしも彼の考え方に賛成するわけではないが、しかし彼は潔いし、しっかりとプライドを持っている、最近のインタビューでも、ろれつこそはまわってはいないが、言っていることはまともだ、ぶれない彼の生き方は本物だと思う。
ただこういう偉大なボクサーが引退後、どう生きるかと言うことで躓くことがあれば、それはボクシング界が恥ずべきことである、恥ずべきこと言うのはファイトさせるだけファイトさせて、あとは責任をとらないと言うことだ、私はスポーツと言うのは一生できるものではないのだから、スポーツ選手にはそれなりの教育と言うかプログラムが必要であると考えている。
実際先進国でスポーツを考える時、スポーツは人生の中のある期間のものであると考える、アメリカではTPPと言う、スポーツ選手が引退しても社会で生きていけるように導いていくプログラムがあるのだが、もし彼がファイトするのも、それしかのこされていないというのなら非常に痛ましいことで、そういう引退後の生活と言うことも考えてプロを育成していく必要があるのではないか、競技のレベルを上げるとか言って、子供のころからばんばん頭をなぐるのもいいが、しかし競技者の将来と言うものをよく考えて、人権と言う基準に立ってスポーツを考える、はっきり言って日本のスポーツ界はこの人権に対する考え方が希薄であると思う。










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日本人に見えるが

2013-12-03 | Weblog
10年ぶりにHIに行った時の話、学生時代の友人のピーターと再会、いっしょに食事でもしようやということで、ホテルの近くの店に、途中ワイキキビーチを歩いていると、道端に人がならんでいる、何かあるのかと最前列を見たらあの有名人が、私は彼にならんでたらいいことがあるよと言うと、びびりだが好奇心の強い彼は列の一番後ろへ、しかし列が前に進むとそこにはえげつない光景が、そうあの人と言うのは猪木のことで、前を見ると大男がひとりずつ思いっきりびんたをしているではないか、途中おそろしくなって、途中でぬけるっていうのもありかと聞いてきたので「you get a fine(罰金もんじゃい」というと仕方なくならんでびんたをうける、なぐられた時さすがにいたいのか、たたかれた時、くちびるを硬直させてとがらせていたが、彼曰くあのびんたはお前のパンチの比ではないと言っていた。
実は猪木のびんたは、外国人らしき人もならんでいたのだが、問題になるからかどうかはわからないが、弟子か何かが断っていた、しかしピーターは台湾人なので日本人と顔がまったく同じ、結局その大男から思い切りびんたをもらってしまった。

話は英字新聞の話だが昨日の英字新聞の記事だ
「fear of sectarian warfare swells in Iraq」「Syria fueled violence kills 10 in Lebanon 」「Ukraine rally turns violent Tailand braces for more violence」まだまだこういった記事があるのだが、未だ世界は戦争や民族紛争が絶えず、それは毎日のようにおこっている、こういう記事を見ていると世の中の動きに敏感になるのだが、たぶん英字新聞は日本人よりも外国人を対象としているからだろう、新聞を読むにしても英語で読むのと読まないのとでは大きな差が出てくると思う。
前のブログで「英語がわかりませーん、興味ないです、時事問題って何、新聞読みませーん」と言うレヴェルの人間はクラブチームなどの共同体を率いるレベルでの常識など理解できない、そこに集まるのは単なる仲間だというようなことを書いたと思う。
日本の常識というのは今や世界の常識ではない、ましてやクラブのルールなどは小さい小さい世界で、世の中から見たら滑稽で非常識なことが多い、あいさつひとつにしてもTPOをわきまえていないし、ある学校では来客者を見たらとまってお辞儀をするそうだが、しかしここでは暴力やレイプやカツアゲなどひんぱんにある、そういう奴が人の見えるところであいさつをしても、単なるパフォーマンスにしか見えない、あほかこいつはとさえ思ってしまう。
アホなスポーツ校ではこういうことが日常茶飯事におこっているらしいが、たぶん今スポーツで問題なのは指導者の不祥事や体罰だけではない、暴力やレイプなどを繰り返すくずどもも然り、そしてこういうくずどもが運動できるというだけで特別扱いしてきた学校、そこまで広げて問題を解決しなくては根本的な解決とはならないだろう。

なぜ学校は徹底してこういう奴らに勉強をさせないのだろうか、うちでは中高生が来たら勉強をしっかりしないとやめてもらうことにしているが、アメリカではこれが徹底している、学業をおこたれば奨学金を打ち切られたり、試合出場停止となるのだが、それに比べて日本はどうか?こいつ本当に大丈夫かというようなレヴェルの奴が目立つ、さらに強盗をしたり、麻薬を密輸したりと常識では考えない事件がおこっているが、こういうことがおこるのもクラブと言う小さな世界でのことでしか物事を見ていないからで、世界の常識で日本のクラブ的な考え方が通用するかどうか考えてみたらいいと思う。
はっきり言ってこいつらにはもっと学業をつませたほうがいい、さっきの英字新聞の話ではないが、学業を積まないと見えてこないこともたくさんある、ステレオタイプな言い方だが、そういうわからないことを理解するために学業を積んで大人になっていくのだ。
今や常識と言うのはクラブで要求される、あいさつしろとか、一応敬語らしき言葉をつかえという小さい世界だけで通用することではない、民族の問題であったり、ジェンダーの問題、宗教の問題などそういうことを通して考えなくては、見えてこないこともあることは確かなことであり、特に日本人はそういうことに関しては希薄であるのだから、それを隠したり公表しないで生きている人間がいるのだと思う。
スポーツはそういう壁を破らなくてはいけない、しかし壁を破ると言っても試合がおわったら敵味方関係なくというようなお花畑思想ではなく、もっと学習して考える問題でもある。

炎のランナーと言う映画がある、ストーリーは長くなるので書かないが、敬虔なユダヤ教徒だったあるランナーがオリンピックの決勝戦が安息日だったので、その出場を辞退して他の人間にゆずるという話だ、この映画はアカデミー賞をとった映画だが、なぜこの映画が人々の心をうったのか?そしてなぜそんな大事な決勝戦を辞退し人にゆずったのか?そこには日本人が理解できない欧米人の価値観があり、その価値観は宗教と言う事柄を理解しなくては見えてこない。
これからのスポーツはそういういろいろなことを学んでセンスを磨いていかなくてはならない。

最後に余談だが向こうで気づいたことがある、それは西洋人が鼻を打たれるのをいやがること、最初大きいからかと思っていたが、しかしどうやらそうではない、なぜなら東洋人にも鼻の大きい人間はいる、なのに異常ともいえるぐらいいやがるのだ、もともと狩猟民族だった彼ら彼女らは嗅覚をたよりにえものを追っていたらしく、その潜在的とも言えることがあるからだ。


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