脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

オットケハジョ

2012-05-31 | Weblog
私がよく使っていた英語がある。
子供がまだ2歳ぐらいの時、保育園での話である。その日は少し早めにおむかえに行ったのだが、その時まだおやつを食べていたようで、みんなでリンゴを食べていた。
おいしそうに慣れないホークを使ってみんな食べていたのだが、しかしその時間違ってうちの子がリンゴをぽとりとおとしてしまった。
一瞬静まりかえったその時息子が一言「shit!」タイミングとしてはばっちしだが、しかしこの言葉は使ってはいけない言葉である。
その時まわりの先生も何を言ったかはよくわかっていなかったが、まさか2、3歳の子供がリンゴをおとして「shit」なんていうと思うはずがない。正直冷や汗ものであったが、うちの子は私の言葉を聞いていていつの間にかおぼえたのだが「オットケハジョ」である。

私の子供の保育園は郊外であったが、市内の保育園や幼稚園などとは人と人との距離感が違うように思える。
市内はわりと都会なのでひとりびとりの距離感があるのだが、しかし田舎は親同士が、お互いをよく知り、親によっては子供のころからつながっているのでひとりびとりの距離が近く、子供同士も同じようにそだてられているので、お互いがそれほど距離を感じることがないのだが、正直都会ぐらしに慣れている私にはへきえきさせるものがあった。
ただ子供同士の付き合いはどうかと言えば、大人同士の距離が近いので、子供同士すぐに仲良くなれる。子供の付き合いを通して親も仲良くなると言うようなケースが見られるが、田舎生活と都会生活は一長一短である。

最近友達ができない子供が増えていると言うようなことを聞いたのだが、これが意外と多いらしい。
インターネットなどでも検索したら親がもっている悩みとしてかなりヒットするようだが、おそらくこれは都市型の生活が進み大人通しの距離が遠くなり、人間関係が疎遠になってきたことと関係しているように思える。

話はオリーヴの話になるが、ここには非常に才能のある人が在籍している。私自身もこういうスポーツにと驚いているのだが、わりと教育水準も高くて、中にはバイリングアルやトライリングアルの人もいるのだが、こういう人たちと話をすると非常におもしろくてかなりためになる。
ただおもしろいのは留学経験があったり、都会に出ていたからと言って考え方が個人主義的かというと必ずしもそうではない、付き合いなんかをみていたらべたべたとするわけではないが、それなりの距離感を保ちながら、ざっくばらんにつきあえるのだが、それは大人だけではなく子供にたいしてもそうだが、非常に人間関係というものを大切にとらえていて、子供やまわりにいい影響を与えてくれていると思っているが、ここに来る社会人の人たちはオンとオフの切り替えがはっきりしている、それゆえに大人のいい付き合いができるのだと思う。

最近の話であるが修学旅行に行かないという子供がいたのだが、彼は学校の教員が行けと言っても「行かない」と言っていたそうだ。
しかしある時この話を聞いたクラブの大人の人たちに「お前修学旅行にいかんということはどういうことか。小学校の最後の思い出だから将来後悔するぞ、行け。」と言われて行ったのだが、彼はまわりの人を本当に正しい大人だと信じている。おそらく正しさに中で語られる正しさだからこそ伝わったのだと思っている。

私から見れば、日本にあるクラブのほとんどが「村」か「組」である。
日本のクラブはそれをやるとすべてが犠牲になってしまうのだが、システムも監督中心の縦社会でかなり保守的だ。
ボクシングにいたっては審判の印象や反則をはじめから考えて練習しているのだが、シンクロでもあるまいし、まずこんな特殊なことを考えるスポーツはないだろう。
ルールもあれだけがんじがらめでは応用がきかないし、きかせられない。ただでさえバカなスポーツだと言われているのに、さらにその競技に応用をきかなくさせているのだが、時々「もっと考えろ」と言う奴がいるが、しかし私に言わせてみればこういうがんじがらめにルールや雰囲気の中で考えろと言うのは、囚人にあしかせをして、脱獄しろと言っているのに等しい。
こういう「村」や「組」のようなところにどっぷりつかると、自分の考えをもって自己主張できるような人間にはそだたないということは、よく言っていることだ。
日ごろから勢いのある言葉は聞いているので、我々のようなよわい相手には偉そうには言えるのだが、しかし本当に言わなくてはいけない相手には何も言えない。たとえ批判を持っていてもただハイとしか言えないのだが、それは縦社会の考え方がしみついているからである。
リングでの戦いはどうかわからないが、しかしこういう「村」や「組」が中心の世界で生きても、将来生きていく上での大事なものが育たない。
偉そうに自分のやってきたことをいかにすごいかと言うことは言うけれども、しかしふたを開ければ社会で生きていくための言葉や知識という武器を持たない、いわゆるスポーツバカと言われる存在だが、意外とそういう人間は結構目につくのではないか。
私は何を言いたいかと言うともっと先のことを考えろということである。
そういう保守的なヒエラルキーの中に入れて、服従させて、それが生活の中心になってしまうようなシステムでは、まともに社会人で生きていくアビリティなど身につくはずはないと思っているが、私はこういう入部したらそれ中心になるようなクラブのシステムや、監督中心のヒエラルキーを解体させなくてはいけないと思っている。
スポーツのコミュニティーは村や組ではない。ひとりびとりが強いられることなく、自発的に権利を主張して形成される場であり、むしろそういう場であるからこそ、子供にとって考え方や自己主張が育つのではないかと思う。

実は私の子供は個性が強いのでなかなかまわりに合わせることができず。少し心配していた。
そこでオリーヴのコミュニティーに入れたのだが、これが功を奏して徐々にではあるが人間関係を築きはじめている。
しかしコミュニティーに入れると言ってもボクシングなどはしない、本人もボクシングはあぶないからできんときっぱり言っているし、私自身もこういう村社会には入れたくないので反対である。
で彼はクラブに来たら何をしているかと言うとお手伝い、人がたたいているサンドバックを持ってあげたり、足を使う練習と言って女性をリングの上でおいかける。パンチのうちかたなどわからないのでただグローヴをつけておいかけるだけだが、これが意外とビギナーには練習になるらしい。
しんどいけど本人も結構おもしろがってやっているが、彼が徐々にではあるが人間関係と言うものを築きはじめることができているのは、みなさんのおかげである。最近では楽しいのか塾が終わるとすぐに来て手伝ってくれるのだが、ここのようにある程度教育水準が高くて、社会の中でがんばって生きている人たちのコミュニティーは健全であり、非常に得るものが多い。








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まずは300点から

2012-05-30 | Weblog
昨日新聞で韓国の英語村について記事が書かれてあった。
英語村とは、ユニバーサルスタジオぐらいの敷地に、ホテルやショッピングセンターそして研修所などを設け、そこで英語しか話してはいけないと言う環境をつくって英語を学ぶ、今かなり話題になっているレジャー施設のようなところであるが、日本でもこういう施設が最近にわかに増えてきているらしい。
むこうではかなり英語がさかんである。
ソウルに行った人はわかると思うが、向こうでは就職するのにはtoeic700点以上とか、そういう能力が条件になっているので、大学生などは就職するために英語をむこうの言葉で「気をつかって」おぼえなくてはならない。電車などにのったら英語の文法書などを読んでいる姿をよく見かけるが、就職はもちろんのこと、ベンチャー企業をおこしたり、フリーランスをするのも英語が不可欠で、その英語熱は社会人や大学生、高校生だけではなく、最近では小学生にまでおよび英語村には多くの小学生が英語を勉強しに訪れるらしい。

私の日本にいる韓国人の友人がいるのだが、彼には小学6年生の子供がいる。以前学校のことで相談にのったことがある。
日本の学校に通わせるか、インターナショナルスクールに通わせるか、しかしインターナショナルだと英語がまだ十分ではないと悩んでいたので、私立にしろ公立にしろ日本の学校は大丈夫だ。日本人どうしなら多少のいざこざもあるが、しかし外国人になるとかなり気をつかってくれる日本とはそういう国だ、だから安心して行かせたらいいとアドヴァイスした。
実際この女の子は日本の学校に通っているそうだが、今では日本語はペラペラ、そして最近では英語もかなりうまくなってトライリングアルになったようで、この子も確かそこ英語村に行って勉強したと言うようなことを言っていたが、こういう3か国語を話せる子供は今や韓国では特別な存在ではない。
時々スカイプで彼女と話すその時は、もちろん日本語で会話するのだが、私がAKBのメンバーをひとりも言えないのに少女時代のソヒョン、ユナ、ユリなどと全員言えるのはこの子の影響が大きいが、ちなみに彼女はソヒョンに似ている典型的な朝鮮の女性の顔である。

基本的な個性とは別にして、今や個性と英語や他の語学を話すことときりはなして考えることはできない。
私が見る限りでは、ボクシングの世界は語学に疎く、非常に封建的であるであるが、こういうコミュニティーで個性など育たないだろう。
練習などの雰囲気も武道的で、誰が練習中に声だしなどいうバカなことをするのかわからないが、これではボクシングと言うよりも拳闘と言った方がいいと思うのだが、もはやこういう概念を打ち破るには、英語を話すことと英語的な感覚を持つことが不可欠だと思っているが、組織の持ち方も村そのもの、ひどいところは組である。
村長がいて、子分やその仲のいい人間が集まって村社会をつくる。私自身こういう村社会であるからこそできる不公平と言うのを実際目の当たりにしたり、聞いたことがあるが、こういうことはお互いが仲間で、つるんでいるからこそおこりうることだと思っている。
そしてこういう村社会の中で生きて育てられた人間は、学校を卒業しても先輩や監督には一生頭が上がらない、そういうしがらみの中で生きているような気がしてならない、さらにそういう関係に好んで入ること自体がおそろしいことだが、わるく言えばそういう人間関係の中でしか生きていくことはできない、非常になさけない話であるが、おそらくそこで指導者の暴言や不謹慎な行為が問題にならないのはこういう村社会を形成しているからだ。

おもしろいことにこの世界では腕だけではなく、下半身もつかうバカもいると聞く。
しかも下半身を使う時もしばしばファウルがあるのだが、しかし常識では信用をうしなうことであっても、こういうファウルは村社会ではとらないらしいが、競技であれだけ厳しくファウルをとるのに監督などの私生活や管理に対してはあまい、村社会そのものである。
日本の狭い特別な世界ではどうかわからないが、世の中の人間が英語を話し、専門性を身に着ける時代に、勉強もしないでただひとつのことだけしかできない芸のない人間は指導するにはふさわしくない。
そういう人間ばかり集まると保守的になってくるので群れ自体が閉塞してくる。それが今の現状であり村社会をつくる原因であるが、柔道事件など氷山の一角で、酒を飲むなとは言わないが飲み方なども節度をわきまえ、女性などの接し方なども気をつけたほうがいいと思うのだが、その他監督の暴力や暴言、ボクシングにいたっては医学や成長期を無視して、子供になぐりあいをさせたり、無理な減量をさせるような行為が容認されるのは、こういう社会が狭い村社会であるからだと思っている。

英語を勉強しろとしつこく言うのは、英語を話していろいろなことを知れば、そういうことがバカげていると思えるからだ。理屈だけでもひろいものの見方ができるからだ。
もう今スポーツの世界は日本語だけで物事を考えていくと言う時代ではない。外からの情報を得ることができないとその群れ自体が閉塞してくる。雰囲気が武道のようで、組織が封建的なのはまさに日本語だけでしか物事を考えられないからである。

これは私の提案だがこれからのアマチュアの指導者には、語学のテストを義務付けたらどうかと思う。
テストの義務化と言ってもそんなおおげさなものではない。ただtoeicで300点取ればいい、toeicの最高得点が990点だからこれぐらいとれなくてはかなりなさけない話であるが、しかし実際にはほとんどがクリアできないだろう。
これからのスポーツの風通りをよくしたかったらこういうドラスティックな改革も必要であり、こういう改革をすることで仲間通しの結託をふせぎ、封建的であるがゆえにおこる監督の暴言や先輩のいじめなどが少なくなるのではないかと思っている。

練習中の声だしがいかに馬鹿げているかと言うことを理解したかったら、ベネディクトの「菊と刀」を見ればいい、ベネディクト自体日本人を好意的に見ているが、しかし我々の考え方が合理的ではないことがわかる。








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青はあかんやろ

2012-05-28 | Weblog
哲学用語でシュミラークルという言葉がある。
これはボードリヤールと言うフランスの哲学者の言葉であるが、これは現在の消費社会は商品や作品がオリジナルではなく、コピーのコピーから来ているという無味乾燥的であるとして用いている言葉である。
最近アマチュアボクシングで中国が北京オリンピックあたりから、にわかに台頭してきたことについて、最近では欧米などの先進国では、人権問題や医学的な問題などから、競技人口がへり衰退していることにあやかって出てきた戦略であると思うが、おそらくこれからも力を入れていくのではないかと思っている。
中国の十八番はコピーである。おそらく欧米が競争させて育てていくのに対して、よその国のシステムや練習法などコピーして、小さい時から雑技団のように徹底してトレーニングさせるのが彼ら彼女らのやり方だと思うが、たぶんこのやり方はアジア的ではあるが、しかし医学的なことや人権などを考えたら欧米諸国の先進国ではかなり問題のあるやり方で、この点を考えて欧米ではボクシングを競技することが慎重になり、衰退している原因である。

話はグレムリンと言う映画の話になるが、グレムリンと言う映画を見たことがあるだろうか?
グレムリンと言うのは中国の妖精的な生き物のことであるが、この生き物を飼うにあたって3つの注意事項があってその注意事項を守らなければ、たちまち彼らは魔物化し人間を襲うようになるのだが、このグレムリン実は我々東洋人をモティーフしたものらしい。
実際この生き物は目がつりあがって、口がとんがって集団でかたまってわけのわからない言葉をはなすのであるが、個人主義であまりかたまって行動することのない西洋人から見て、われわれが固まって行動し、わけのわからない言葉を発するのは非常に不気味であり、この彼ら彼女らが感じる不気味さと不安をイメージしたのがグレムリンである。

2002年日刊で共同開催のワールドカップがあった。
この共同開催にあたって日本のユニホームがおひろめされたのだが、私は日本のユニホームを最初見た時、これはあかんはと思ってしまった。
ここからはたぶん日本人的なものの考え方ではない、外国人の意見だと思って聞いてほしいが、私の意見では青はさわやかすぎる。なぜ青なのか、そんな印象のいいような色をつかってどうするんだと思ったのだが、あの時自分の陣地でやるのだから、なぜもっと相手を威圧するような色にしないのか、相手はアウエーで自分の陣地でするのだから隣の国の人たちのように、赤い相手を威圧するようなユニホームを着て、赤い集団で旗をふって応援してやれば十分相手を威圧できたのではないかと思う。
それに対して、それが功を奏したのかはわからないが、韓国はベスト4という快挙を成し遂げた。
赤いユニホームを着て、応援団も赤い服を着て、一致団結して応援し、太極旗をふる姿に多くの人は圧倒されたが、あれを見ておどしがちだと言っていた人もいるが、そういう意見はたぶんひとりふたりではなく、あの姿を見たら地元開催をいいことに好きなことをやりやがってという気持ちさえにもなるかもしれない。
実際ヨーロッパでは韓国のあの試合はひどいと言っていた人間も多くいると聞いたが、結構その意見を日本人も肯定的に受け取っていたが、しかし私はあれもひとつのアジア人の応援の仕方だと思っている。
グレムリンにもあるように、我々はひとりびとりはおとなしいが、しかし固まって行動すれば大胆になって行動する。協調性が強く、目的に対して一致団結して取り組んで行くのがアジア人のスタイルであって決してあれは脅しがちではない、むしろ民族性とホームと言うアドバンテージを十分に生かした勝利である。
しかし私は実力的には日本のほうが韓国よりも上だと思っている。だからあの時応援の仕方が違えば優勝とはいかなくても、あの場面でひょっとしたら、韓国ではなく自分たちがトルコとたたかっていたかもしれない。
地元開催なんて言うのはそう簡単にめぐってくるものではない、韓国の偉業を考えたら日本はもっと実力を発揮できたのではないか?日本はこの地元開催と言うアドバンテージを、十分に生かせなかったのではないかと思っている。

確かに日本は外国から見たら印象はいいし、観光客も評判はいい。しかしどうしたら印象をよくするかということだけではなく、相手がどうしたらいやがるかということを考えることも大事なことであり、そのためには自分たちの民族を知り、そして相手を知ることが大事なことだと思うが、日本人は外国人に対して友好的すぎる。






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それ間違ってます。

2012-05-24 | Weblog
前に英会話の生徒が自分にはコンプレックスがあるというようなことを英語でいう時に「i have a complex」と言ったら通じなかったそうだ。
しかしコンプレックスは和製英語だ。トラウマというのはそのまま英語でも通じるが、コンプレックスはもともと複雑なということで、名詞では、複合体を意味するので「complex」という言葉は、日本語が意味するような言葉ではなく、もし日本語でいうところのコンプレックスがあると言いたければ「inferior complex」と言うような感じで使えば理解できると思う。
先日高校生が言っていたことである。これはテレヴィで言っていたらしいが、よく練習中にファイトと言うかけごえがある。今ではこういう言葉は死語に近い言葉であるが、この言葉はスポーツで励ます言葉としては適切ではない。なぜならファイトと言うのは戦えと言う言葉で、言葉自体が殺伐としているのでスポーツの練習中に言うのは不適切。こういう言葉を紛争などのある国や地域で言ったら大問題であるが、もしボクシングでもグローバル的でありたいならば、こういう常識をよく考えることも必要かもしれない。
最近和製英語という少しニュアンスが違う英語が巷で問題になっているが、ボクシングの和製英語はえげつない。こういうことからしても語学に疎いと言われても仕方がないが、ファイトをはじめ、ラスト30、パリングのことをパーリングと言ったり、フックのつづりをfu○kと書くわ、せめて横文字のスポーツだから英語的な感覚を持てばいいのだが、しかし語学に関しては他のスポーツに比べて圧倒的によわいと思うが、このウィークポイントはかなり致命的なことかもしれない。

結論的に言って言葉を大事にしないコミュニティーはだめだ。
子供などがいるようなところは特にそうだが、ブログで何度も言っているが、言葉と言うのは情報を集める手段であるし、また人間の品格やかたちというものをつくるものだと思っている。
そのクラブで語られる言葉の語彙が少なく、不適切な表現が多いとその群れはそれなりの品格しか育たないと思っているし、よく礼儀と言う奴がいるが、私に言わせてみれば礼儀イコール正しい日本語を使うことで、日本語と言うのはそれなりに品格と言うものが備わっているので、正しい日本語を話すとそれに伴って礼儀正しくなるのだと思っている。

以前「こういった」を「こおいった」と書く、夜中の4時ごろにメールをおくってくる人種差別するバカのことをあげた。
最初コオイッタだから韓国語の進行形かと思ったが、しかしこれは明らかに本人が無知なだけ。
たぶんこの人物は本や新聞は読まない。あるいは漫画しか読まないか、漫画の言葉にしか強い印象をうけないと思う。
なぜなら「こおいう」という表現は、漫画などに多少見られる物事を例えば「う」よりも「お」のほうが強く発音できるので、それをそのまま聞こえるようなかたちで表記することで、人物の素朴さあるいは、何かを強調したり大きく見せるロジックであるが、こいつの言葉はおそらくワンピースみたいな漫画から直接伝わった言葉だと思うからで、もしそうだとしたら、かなり精神年齢がひくいであろうと思われる。
こういう精神年齢がひくいタイプに言えることだが、こういうタイプは意外と繊細で感動しやすく、子供のような純粋さを持っている。
しかし精神年齢がひくく、大人としての責任能力がかけているので、子供のような心を持った大人と言うよりは、子供のようなバカと言ったほうがいいのだが、倫理的な基準も人におこられるかおこられないかという、幼稚なもので、大人が考えるような倫理観がかけている。
時には人の名前や住所や電話番号を挑発的な態度で書き込むと言うような犯罪をおかすのも、それらはそういう大人としての倫理観が欠けているからで、本人にすればこういう悪質なことも、子供がむじゃきにする置石と同じような感覚でやっているのだろうと思うが、漫画しか読まなかったり、自分の好きなことしかしなかったら、こういうバカになると言う子供たちの見本にはなるだろう。

これは私の持論であるが人間のコミュニティーにおいてそれらを結び付けたり、正しく運営していくために必要なものは、体育会の言うような規律や礼儀ではない、正しく言葉をつかうことである。
正しく言葉を使うと言うことは非常に難しいことであるが、もしその群れの質をよくしたかったならば、やくざのような礼儀やあいさつを徹底させるよりも、むしろ言葉を理解し、正しく、適切な言葉を使う方が賢明であろう。手前みそだがここのコミュニティーが仲間意識ではない、いい集まりだとそれなりの人に評価されるのは、自分自身が言葉にかなり気をつけて、正しくかつ適切な日本語を話そうと努力しているからである。









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やっぱ犬はいらん

2012-05-23 | Weblog
私が歴史上の人物でどうしても好感を持てない人物がいる。
それは豊臣秀吉なのだが、この人物だけはどうしても好きにはなれない、生理的に受け入れることができない歴書上の人物で、漢陽(ハニャン)を火の海にしたと言うDNA的な嫌悪感かどうかはわからないが、あまり評価はしていない。
むかしソウルの友人に「信長が生きていたら秀吉どころではない。ひょっとしたら占領していて当時の明に対抗できたんじゃないか」と言うようなことを言ってきれられたことがあるが、朝鮮出兵は信長か秀吉かと言うところで大きく違うと思っている。
私は戦国武将にあまり興味はないし、誰も尊敬はしていないが、しかし信長には、カリスマ性と先見の明、そして幅広く世界を見る目があったと思う。現に外国との交流で新しいものに目をつけ、外国との貿易を積極的に行っていたし、その貿易からたくさん武器を輸入し、当時鉄砲の所有率が世界一であったらしい。
さらに装甲船を戦術に生かしたのは彼が世界ではじめてだそうだが、たぶんこの勢いでいったらひょっとしたらであるが、彼のそのカリスマ性や戦略などから当時の明と互角に戦い、制圧できる可能性は十分にあったと思っている。

よく未来のことや目的などを語る時に、先見の明と言う言葉をつかう。
先見の明というのは、時代の先を読み取る力であるが、日本語で先見の明と言うと第六感的な感じがして、ある種の特別な力を感じてしまうが、しかし先見の明は英語では「vision」と言うが、英語でいう方が具体的で、かつそれが何を意味しているのかと言うことがわかると思う。
まずこの「vision」と言う言葉であるが、これは実際に目に見えていると言うことである。
よく日本でも見た目のことをヴィジュアル的にというが「vision」と言う言葉は現在見えているもの、描いているものそれが「vision」である。
おそらく先見の明がある人間と言うのは、こうなるであろうという具体的な予測がつくのだろう。
たぶんそういう予測と言うのは、今まで自分が得てきた情報や学問などの知識、そして経験的なものだと思っているのだが、信長のような歴史的にも秀でた人物は、この3つの賜物が備わっていたのではないだろうか。
信長は外国人が話す話に熱心に聞き入っていたと言うが、彼は情報を集めそれを正しく判断する能力が十分に備わっていたのだと思っているが、それがまさに先見の明、時代の先を読み取る力である。
前回桃太郎のメタファーで今の時代に必要な3つのものは犬をあらわす忠誠心、サルをあらわす知恵、そしてキジをあらわす先見の明、世の中を広く見る力だと言ったが、この中でも私は今の情報時代に一番必要なのは、桃太郎のたとえで言うならばキジ「先見の明」「世の中を広く見る力」ではないかと思っている。

今は情報の時代である。インターネットなどを開けばたくさん情報を得ることができるのだが、さらにそれが英語ができれば情報は1000倍にも2000倍にも広がる。しかし何が正しいかわるいかという情報をうけとりそれを正しく判断していくためにはものさしである学問が必要である。
私の場合は哲学や宗教学という学問が専門だが、それらはある程度専門的にやってきたので、そのことをものさしにして、海外などのコメントなどを見たらひょっとしたらこういうことではないかという、また違った真意が見えてくるのだが、それは欧米の人のバックグラウンドには宗教や哲学が大きく影響して来るからである。
以前挙げた北朝鮮の石油事情から見えてくる国政なども経済学的な視点がなければ見えてこないし、この専門性と語学と言うのは、ある事柄を判断するには不可欠であるが、多くの情報がインターネットやその他のことを通して流れてくる時代には、そういう能力が求められることは、おおげさにいうと万人周知の事実である。

日本語の言う「先見の明」は、どことなく勘や本能的なイメージがあるが、しかし英語で言う「vision」と言うのは今見えている現実的な事柄で「vision」というのは、情報そしてそれを判断する能力があってこそはじめてその事柄が見えてくることであって、そういう力は情報と学問をしっかりさせていれば得ることができる。逆に言えばそういう能力を養えば予測可能なことであり、今の時代は情報と専門性を養うことは非常に大事なことだと思う。


















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犬はいらんやろ

2012-05-18 | Weblog
英字新聞に面白い記事がのっていた。
桃太郎の話であるが、実はこの桃太郎にはメタファーがあると言うのだ。
もう桃太郎の話は誰もが知っていると思うのであえて書かないが、桃太郎が3匹の家来とともに鬼が島に鬼を退治にしに行くと言う勧善懲悪的なおとぎばなしである。
しかしこの物語はメタファーが含まれているそうだ、
桃は健康を象徴していて、鬼は社会の様々な障害を表し、健康である若者であるならば、その生涯を乗り越えなくてはならない。
そこでそれを乗り越えていくためには3つのことが必要で、その必要なものが3匹の動物にたとえられているのだが、まず犬は忠誠心、そしてサルは知恵のこりのキジは勇気と広い視野をそれぞれ象徴しているのだが、健康な若者であれば忠誠心と知恵と勇気と広いビジョンを持っていればどんな障害をも乗り越えて行けると言うメタファーがこの物語にはかくされているそうである。
こんな解釈もあるのかと感心していたのだが、しかし忠誠心とは今の日本ではほとんど死語になっていた言葉である。
たぶん忠誠心なんて言う言葉を求めるのは、やくざの世界か運動系のクラブぐらいだと思うが、しかしここで言う忠誠心は少し違う、英語ではroyaltyと言う言葉で、これはもともと王様などに仕えるときに使う言葉で、王は神から権威を授かった一国のあるじであるから、すなわち忠誠心とは国家に対するものとうけとってもいいと思う。
そう考えると今時忠誠心など持った人間などいるのだろうか?終身雇用がうすれてしまった世の中、独立という言葉はよく聞くが、会社に対する忠誠心でさえほとんど若い人たちの口からは聞こえないが、おそらく日本人はこの忠誠心と言う言葉を、戦争にまけていらい捨ててしまっているように思えるのだが、今時国家に忠誠心を尽くすなどという考え方は馬鹿げているようにさえ思える。

薄ら覚えで恐縮だが、私がHIにいた時ビデオかテレビか忘れたが、ある討論会を見ていた。
そこでは田原総一郎が作家を招いて討論をしていたのだが、その討論の中で田原が作家にあなたがたにとって国防とは?とたずねたシーンがある。
その時たいていは自分の自由や権利、命の保証というようなことを答えていたが、しかしある作家がこういうことを言っていたのが衝撃的であった。それは「守るべき権利と言うものは、自分の命をこえて存在することもある。自分たちの愛すべき子孫を守るためには、命をかけなくてはいけないこともあるんだ」と言うようなかなり右寄りの意見であったが、当時の私にはかなり衝撃的であった。
正直私はそこまで国家と言うか、日本人としての義務は持っていないというか持てないし、今の人間にそこまで国家に対する責任を背負わすことは無理があると思う。
がしかしこの意見は非常に大切でかつ、自分たちに必要なものは何かと言うことを伝えている。
この作家の人の考えでは国家イコール命をかけて守るべきものであるというのであるが、国家と言うものは非常に重い価値のあるものであって、今の日本人にはそれがよく理解できていないのかも知れない。

私のもう一つのルーツは祖先と言うものを非常に大事にする。
最近ではキリスト教徒が増えて、そういう儀式が簡略化してきたことは確かであるが、しかしそれでも先祖を大事にするという考え方は、自分のルーツに帰るチェサなどの行事が色濃く残っているということからもわかるが、先祖と言うものを大事にするというのが彼ら彼女らの考え方であり、それが自分たちの生き方のベースになっている。
私は昔この先祖崇拝について考えたことがある。
それは子供のころおやじに「なぜ墓参りみたいな面倒くさいことをかかさずやるのだ。」と尋ねた時に「お前のためだ」言われた言葉がきっかけで考えたことだが、それはなんで墓参りすることが俺のためなのと言う疑問からはじまった。
その夜ずーっと考えて分かったことだが、それは自分と先祖とのつながりが偶然でないことである。
自分という人間は何千年前からつながっているが、もしそこで誰かに子供ができなかったり、死んでしまえば自分は存在しない、そう考えると自分がここにいるのは偶然ではなく必然的に存在しているのだから、先祖に感謝するのは自分が今ここに存在しているというあかしで、自分が生まれてきたことは偶然ではなく必然なんだ、その時自分は生きていることに感謝できた。そう思うと逆にその先祖に感謝しなくてはいけないと思ったことは確かである。
まあ少し的を得ていない答えかもしれないが、今個人の権利と言うものが尊重される中、全体を通してみないと本当に大切なものが見えないこともある。
自分の存在がまさにそうで、自分の命が存在するためにすてられた命があるということを、この作家は言いたかったのではないかと思うが、それは自分たちが国家と言うものにつながり、その国家を守るために犠牲になった命を深く考えるときに見えてくるものではないかと思っているが、自分の存在と言うのは個人だけではなく、家族、先祖、そして国家と言うものを考えた時にこそ、その存在の確かさが見えてくるのかも知れない。

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人種差別する奴

2012-05-17 | Weblog
それは夜中に入っていたメールからはじまった。
たぶん運動部の批判と、子供のボクシングなどをやらせてはいけないと言うことに対するあてつけであろうと言うような感じだが、それは最初夜中の3時以降2日間連続で送ってきた。
まあたわいもない1行ぐらいのメールで、気にもしなければ大したメールではないのだが、しかし問題なのはその1か月後に来たメールで、それは1行ぐらいのメールではあったが、明らかに人種差別的なことが書かれていたのだ。
何が書かれてあったかと言うことを書けば、使ってはいけない言葉なので書けないが、しかし何のひねりもないただの罵り言葉で、それは明らかに人種差別であったが、こういう人種差別的な発言は絶対にしてはならないことである。
たぶん1行ぐらいのメールだがそのメールから察するに、スポーツをやっている人間と思われるが、スポーツをやっている人間が人種差別的な発言をするというのは非常に遺憾なことである。
また同じ人物と思うが、私の住所と電話番号そして携帯番号を女子ボクシングの掲示板に挑発的な発言で掲載している奴がいると会員から聞いた。
人の住所や電話番号おまけに携帯電話の番号まで、挑発的な態度でのせていたらしいが、ある人がこのことを警察に通報してくれたところ、今のところ対応はその掲示板に削除依頼を出すしかないと言っていたそうであるが、しかし削除依頼をしたらしたで、ダメージがあると思われてさらにやってくるので注意しろと言われたらしいが、人の住所や電話番語を悪意をもって載せることは誰がどう考えても犯罪である。

ただこの犯人は同一人物だと思うが、かなりわかりやすいというかはっきりいってバカだと思う。
まず2日連続で同じ時間帯にメールを送ってきたことは、日ごろ自分が何時ごろ活動しているかばればれである。
夜中の3時過ぎに2日連続で送ってくると言う地点で、朝起きて9時から初めてという仕事ではなく、昼活動をしていることがわかるが当然一般の社会人ならばまずその時間帯におきてはいない。夜勤なども考えられるが、しかし2日続けてということは勤務上ないと思う。おまけにその人種差別的発言も同じような時間帯で、掲示板もボクシング、まさにこいつの生活と住んでいる世界の狭さがうかがえるが、おそらくそういう時間帯はゲームをしているか、こういう単純な掲示板を見て喜んでいるのだろう。挑発の仕方も子供のような表現で、まさに教養のなさがうかがえる。
ただおそろしいのは掲示板がボクシングだけに、そういう人間を挑発するのは、ともすれば暴力を振るわれる可能性もないとは言えない。
もちろん犯人はそのことを狙って情報をのせたのだと思うが、私のところには子供もいるし、場所が目立った場所なので、そういう情報を載せられると、おもしろ半分でとんでもないことをする奴もいるので注意しているが、1年ぐらい前から夜中に時々着信があるが、このことと関係しているのだろうか、そう考えるとこわくて近所も歩くことはできない。
たぶん常識のある人なら分かると思うが、仮に自分の住所や電話番号しかも携帯電話の番号を掲示板に書かれたら、ほっておけぐらいではすまされない。
なぜなら今までにもあるように、こういうことが大きな犯罪につながる可能性があるからだが、こういうことを掲載するのは、どう考えても人間としてまともではないと言うことが言える。

しかしまあこの犯人かなり頭がわるい。
こういう反社会的な行動をとること自体すでにおかしいのだが、まず「えっ」と思ったのは言葉の間違い。「こういう」を「こおいう」と小学生レヴェルの間違いをしていたのだが、学力に関しては相当ひくいと思われる。
最初こんな基本的な日本語の間違いをするのだから、外国人かと思ったが、しかし外国人だと人種差別などしない。
こういう基本的な日本語が書けないのは、日ごろ新聞などの活字を読んでいない証拠、こういう間違いは社会人であるならばすべきではない。人種差別をするのであれば、まず母国語をしっかり学んで、せめて小学生でもわかるような間違いはしないでほしい。
確かに私はピュアな日本人ではない。国籍を選択した日本人である。
しかし自分は日本と日本人が好きで、日本国籍を選択した人間であるが、こおいう(こいつらの言葉で)人間が日本にいてはいけないのだろうか?どこにいけばいいというのか。
それでも私はこの犯人よりも日本語が、書ける読める話せると思う。それだけでも自分は立派に日本人していると思うが、それでも人種差別をするのだろうか?
ただ以前「18」と書かれてあったメールが来たが、これはこいつ、あるいはこいつらではない。
なぜなら「18」がなぜののしり言葉かと言うのは、韓国語のちょっとしたひねりで、韓国語のののしり言葉が18と同じ発音シ○パルだからと言うことがわからないと書けないので、こいつらにこういう教養があるとはとうてい思えないからだ。
はっきり言って人の名前と住所そして携帯番号を挑発するようなやりかたで、掲示板にのせたり、人種差別的な発言はしてはいけないことは誰でもわかることだ。
人の個人情報を悪意で掲示板にのせたり、差別発言を匿名でしてくるのは下劣きわまりないことであるが、正直差別発言に関しては憤りを感じている。

犯人は(掲示板に個人情報を挑発するかたちで掲載したのでこうよばせてもらうが)事実を積み上げていくと見えてくる可能性は。
夜中の3時以降にメールを2日連続で送ってきたので、昼から活動をしている。
ホームページに携帯番号を記載してはいないことから、私の携帯番号を知っている。
単純な言葉を間違えるので、教育レヴェルがひくい。たぶん活字を読まない。日ごろからバカな言葉の間違いをしていると思われる。
掲示板が女子ボクシングなので、可能性としてはボクシング経験者か、現在している。
あと携帯の機種をあげてもいいが、そこまでして勘違いがあって困るのでのせないが、まだまだいくつかある1行の文章とその時間帯などから分析できることはたくさんある。





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孫子の兵法を学べ

2012-05-15 | Weblog
これはビジネスでは有名な話だが、中国と仕事の取引で中国に行くと必ず何日間はまたされるらしい。
時間が急いているのでこちらから連絡を入れても適当にあしらわれ、そしてこちらがしびれを切らした時にさっそくと商談を持ちかけてくるらしいが、これは相手を待たせて商談の時に戦意を喪失させて自分たちの有利なように進めていくと言う常とう手段であるそうだ。
また日本と合同作業を持ちかける時に、なるべく日本企業にお金を出させるためにあることをするのだが、それは日本企業が工場などに視察に来る時に徹底的にトイレをそうじすることで、視察の時にこれを見た日本人はたいてい優良企業とみなし取引をするらしい。
韓国人の間でも日本人にはこうすれば大丈夫だというような戦略があるが、他国の人間はわれわれが思っている以上に日本人のことを研究しているし、それが商売や勝負ごとになればなおさらのことである。

昔韓国人と革製品を売っていたことがある。
そのビジネスで中国人と取引しなくてはいけないことが時々あって、交渉していたのだが、その時私たちが使う常とう手段がある。
ジャッキーチェンの映画でラッシュアワーというのを知っているだろうか?
ある外交官の娘が誘拐されるのだが、その誘拐された時、地元の警察があてにならないので、それを解決するためにジャッキーを香港から呼ばれその事件を解決していく物語だが、そのジャッキーが香港からアメリカに来て、アメリカ人の刑事にあった時、彼はまったく英語が話せないふりをするシーンがある。
それから話せないふりを、しばらくしてジャッキーがいきなり英語を話すのだが、そこで刑事は「お前英語が分かるのか」とどぎもをぬかれるのだが、ジャッキーは「俺は話せないとは言っていない」とここからジャッキーのペースでことが運ばれていく。
このシーンを見たときに私は同じアジア人だということを実感したのだが、実は私たちの常とう手段も彼と同じで、言葉が理解できないふりをして相手の本音を聞き出すことだ。
アジア人の習性としてそういう取引の場でも自分のパートナーと話す時は母国語をつかう(特にひそひそ話は)傾向があるのだが、何かへんなことを言った時に、いきなり英語を話し出すとたいていはぎょっとする。
日本人ならこういうことをすれば失礼だろうと思うが、しかしたかだか革製品のやりとりぐらいでそういうことを言っていては逆にだまされてしまう。言葉はわるいが相手はこちらから見てだますようなことでも相手は戦略と思っているのだから、こちらもそれに対抗しなくてはだめだと思うが、まさに彼らとのビジネスは生き馬の目をぬくような場である。

ついでにボクシングの話になるが、白人の弱点は鼻、まず鼻がでかいと言う人体的な特長と、民族的に彼ら彼女らは嗅覚がうばわれることをいやがるという心理学的な理由がある。
私の考察によると彼らはもともと狩猟民族なので、獲物を嗅覚をつかって得ていた習性があって、嗅覚を奪われると言うことは彼ら彼女らの生存にかかわることだ。だからその大事なにおいをかぎ分ける鼻がつぶされると獲物が取れない、生きていくことができないと言う本能から、鼻をなぐられることを非常にいやがるのだと思う。
私のクラスは白人とあまりあたらないが、しかしそれでも白人と当たった時は、俺は鼻をねらっているぞと言う気持ちを思い切り込めて、相手の鼻めがけて徹底的に攻撃をしかけていくのだが、やってみればわかるが非常にいやがるものである。
こういうことは意外と小さいことに見えるが、しかし戦略としては非常に大事なことで、それはよく相手のことを観察していなければできないことである。
孫子の兵法にも「己を知り、相手を知れば百戦危うべからず」という有名な言葉があるが、実は己を知ると言うこと以上に孫子は相手を知ると言うことを重要視している。
孫子がスパイなどの工作活動も当時用いていたことからもわかるように、相手を知ると言うことは重要なことでスパイはその情報を知るための手段であるが、日本人は孫子のこの言葉を自分を知るということにこだわりすぎる傾向が強うように思えるが、しかしそうではなく相手を知ると言うこともそれ以上に必要だと言うことを考えなければ、この孫子の兵法を正しく理解できないと思っている。

ここにヨーロッパの企業が逆に中国をぎゃふんと言わせた商談がある。
それは案の定彼らが時間引き伸ばし作戦に出た時に、それにあえて応じて逆にヨーロッパ人が商談を夜にもって、夜遅くまで交渉を引き延ばしたのだが、それには作戦があった。
中国人は冷たいものを食べないと言う習慣がある。
夜遅くまで商談がのびれば、当然おなかもすいてくるのだが、そのおなかがすいた時に、彼らはここぞとばかりに出した夜食がサンドウイッチ、彼らは「さあおなかがすいたので食べてくれ」と進めたのだが、しかし当然彼らは手をつけない、食べれないのだ。
もうこの後の展開は予想通りの展開で、戦意喪失した中国人は言われるままに商談を持っていかれたと言う話であるが、やはりこういうことも中国人の習慣を利用した作戦で、それは相手をよく研究していなければできないことだ。

前回思い切り辛辣な意見を述べたが、未だアマチュアは鎖国状態で小さな自分たちだけの世界で構成されているが、これは英語を話すことが必要だと言う意識がなければ解決しないことであると思っている。
私から見れば日本人は同じ仲間であつまる。そして親玉をつくってそいつに服従することが礼儀だと思っているが、しかしそれはちょんまげをしたサルに等しく、こういう集団性を逆に利用して圧力をかけてやればいいのだが、しかし言葉や民族と言うものをよく理解していないのでそういうことができず、小さくかたまっているのが現状である。
日本人はこの民族に対する認識が不足していると思う。
国際大会などで活躍しようと思ったら、まず自分たちは他国の中の一つの民族であって、他にたくさんの民族は存在するんだと言うことを理解しなくてはならないと思う。

私は今後中国の動きが気になる。
世論などでボクシングが衰退してきている欧米にかわって中国などが台頭してきたのだが、この国が幅を利かせてくると言うことは日本にとって多少不利なように思えるのだ。









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GO HOME!

2012-05-14 | Weblog
以前日本のアマチュアは国内だと偉そうにするが、外国では何もできないと言うような辛辣な意見を書いた。
会場では偉いと思っているのか、平気でおいとかお前とか偉そうに言ったり、人前ででかい声でたわいもないことを注意をするのは、人としてどうかと思うのだが、こういうことは、相手が学生だからどうということではなく、無神経で社会と言う場でこういうことをすればひんしゅくを買うことだが、こういう礼儀知らずな奴が目につくことは確かだ。
さらに同じような仲間で軍団をつくり結託する傾向があるのだが、しかしこういう派閥をつくったり、権威を示せるのは日本国内だけで、これが外国になるとがらっとかわって猫の子のようにおとなしくなる。
前にも言ったが派閥をつくって幅をきかせたり、リングサイドから人を注意して威圧感を与えるような、日本でもやっている同じようなことを外国でもやればいいのだが、しかし英語が話せない、先輩後輩の上から下への伝達のヒエラルキーで生きてきたので、議論がまともにできないで、普通だったら国益を考えたら少々強引なことでもやっていくのであるが、たぶん外国では日本人は一番頼りないのではないかと思う。
日本人は外国人にほんとによわい。自分の手下どもにはあれだけ偉そうに言えるのに、外国人の前では何も言えないから情けない。
英語が話せないと言うのがまずその理由のひとつであるが、主義主張ができないということも非常にそのこととかかわっていると思うが、おそらくこういうことでの主義主張と言うのは自分たちの国益とかかわっているように思える。

これは隣の国の話で、友人から聞いた地元で有名な話がある。
その話によると韓国に仕事できたアメリカ人がマクドナルドに来たらしい(普通行ったと言うが、彼は来たといっていたが、ここからしてもう戦闘態勢気味である)。
当時日本と違って韓国で英語の講師をするのは少々きついものがあった。
日本だったら欧米人だと言うと、みんなちやほやしてくるのだが、ここは基地のこともあるので、むしろアメリカ人は少し遠慮しなくてはいけないらしく、日本と韓国では天と地の差があると言うようなことを向こうで知り合いになったアメリカ人の講師が言っていたが、彼は韓国語がペラペラで、そこでコーヒーを頼んだらしい。
ここからはそのやりとりである。
アメリカ人
「コーヒーください」
店員の女性
「はいわかりました」
しばらくしてコーヒーではなく、コカコーラがでてきた。

「.......いや僕が頼んだのはコーヒーです」
女性
「いや聞いていない。あなたはコカコーラを頼みましたよ」
そこから言った言っていないのやりとりがあって、それでもいやコーラを頼んだと言い張る店員に頭に来たのか男はこう言った。
「いや自分はコカコーラは好きではない。もう何十年ものんでいないんだ。しかもコーヒーとコーラは全然違うではないか?(韓国語でコーヒーはコピッ、コーラはコルラ)俺は間違いなくコーヒーと言ったんだ。なのに君は間違えてコーラを出したんだ」
すると女性店員はつかつかと厨房に行って、再び男の前に現われ、そして怒りの表情でコーヒーをボンと強くたたきつけて男の前に出したらしい。
日本だったらこれだけでもえげつないことだが、しかし話はこれだけではすまない。
その一部始終を見ていた店員や周りの客が、一斉にそのアメリカ人に対して「GO HOME」「GO HOME」と叫び続けアメリカ人を店から追い出したらしい。
今はソウルも国際都市になったのでどうかはわからないが、しかし彼ら彼女らは対外国人になると敵意をむき出しにする時もある。
まあこのアメリカ人が敵意を向けられたのは、コーヒー一杯ぐらいのせこい値段で、いちいち言うなというようなケンチャナヨ精神と、彼が外国人であったことと関係しているのだと思うが、しかしやりかたは間違っているが、ここまで外国人に主張できるのは、わるいが同じアジア人か見て頼もしい、この話だけを一方的に聞けば、なんていう奴らだと思うかもしれないが、しかし韓国にも日本と同じように米軍基地の問題があって、おそらく彼ら彼女らの行動はそのうらみというか怒りから出たと言うことも考えられるが、私はむしろアジア人は欧米人にこういう集団的な力を見せることも、脅威をあたえるひとつの方法で、それがいいかわるいかはの議論は別だが、コミッションなどでイニシアティヴをとれない我々アジア人が、アドヴァンテージがとれるひとつのやりかただと思っている。












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語源をたどると

2012-05-12 | Weblog
子供のカードゲームでデュエルマスターズというのがある。
少し前までうちの子供がはまっていたゲームだが、このゲームには横文字が多いのでよく子供に(クラブに来ている子供も含めて)その意味はなんなんだと聞かれるのだが、横文字でも結構ひねった名前があるのでおもしろい。
デュエルというのは決闘と言う意味で、決闘というのは一対一の果たし合いのことである。
デュエルのdoはもともとラテン語のduoからきた言葉で2を表す言葉で、フランス語でも2をdeuxと言うがこのdeuxもラテン語が語源である。
決闘というのは複数でやるものではなく、一対一の勝負である。
おそらく日本語でも辞書を見たらそういうニュアンスで説明されていると思うのだが、言葉を定義する上で言語や語源を知るということは、非常に重要なことだと思う。
デュエルと言うのもそれが一対一であると言うことが定義できるのは、まさにこのラテン語の語源によるものだ、まあ日本式の決闘と西洋式の決闘は違うと言われたらそれまでであるが、しかしこの語源をたどることでその言葉の意味そのものがはっきりとした型で説明されることが多く、私はその言葉の真意を知りたい時は必ずラテン語かギリシャ語を調べるのだが、それらは英語やヨーロッパ圏の言葉のほとんどの言語となっているからである。
これはだいぶ前に高校生が聞いてきたことだ、彼はたぶんなんとなく気になっていたのだと思うが、なぜボクシングというのかと聞いてきた。
これにはおそらくボックス、箱がひっかかっていたのだと思うが、それに対しておきまりのように箱の中でやるからボクシングだと説明していた人がいる。
しかしボクシングは動名詞で名詞は動名詞にはならない。
ボクシングと言う言葉がある以上動詞があるのだが、その動詞がbox、こぶしでたたくと言う意味で、すなわちこぶしでたたくからボクシングである。
よくアマチュアの試合でもboxと言っているがこれはたたけと言っているわけで、厳密に言えばこぶしでたたくこと、ボクシングはこぶし以外でたたいてはいけないと言うのは、まさにこの言葉を忠実に受け取れば理解できることである。

言葉と言うのはおもしろい。特に語源をたどれば言葉の共通点や真意が見えてくるのだが、それは漢字にも言えることである。
例えば八方美人という言葉、これは日中韓で共通した四字熟語である。、こういう漢字にちなんだ言葉はたいてい中国から伝わってくるのだが、おもしろいことに八方美人は中韓は人づきあいがいい人といういい意味でとらえられているのに対して、日本では誰にでもいい顔をする人とわるい意味でとらえられているが、大陸から島に渡れば意味が真逆になるからおもしろい。

韓国語のアンヨンハセヨという言葉がある。これは韓国のあいさつ言葉として有名だが、この言葉も漢字で書くと意味深い言葉である。
アンニョンは漢字で書くと安寧と書くのだが、アンヨンハセヨそのまま訳すと「安寧してください。元気でいてください。」ということで、日本のあいさつは「こんにち」はとまず天気のことから入るが、しかし韓国語ではまずあいさつで相手のことを気遣うことからはじまるが、おそらくこういうはっきりしたあいさつというのは韓国語独特の表現であると思う。
韓国人は漢字を使わない。特に我々の世代の人間は漢字の教育を受けていないので、漢字が書けない人が多いが、しかしこの安寧に限らずカムサ、感謝などを漢字で書くと、この言葉の意味がより鮮明になり、自分たちがつかっているあいさつ言葉と言うのは、非常におもいやりがあって、格式の高いものだと言うことが理解できると思う。
韓国語の素晴らしいところは、あいさつに人を思いやる気持ちが、彼ら彼女らの言うジョン(情)が込められていることだ。
昼にあったらよく、パブモゴッソヨ(ごはんたべましたか)と言うあいさつをされるが、これはあなたのことを気遣っていますよという表現だと理解しているが、こういうあいさつことばにも気持ちやジョンが込められているのだ。
誤解しないでほしいのは私自身は日本人である。
そして他の文化と比較しても日本人と日本の文化は素晴らしいと思っているが、しかしの日本語に関しては最近韓国語に比べて日本語は言葉がみだれて来ているように思う。
あいさつ言葉でも少し前オッハーというのがあったが、そういう言葉が蔓延していることは事実で、現におばあさんに対して、バアバなどと言う言葉が使われていること自体、そういう文化を見てきた人間には非常に驚きであるが、韓国人のおじいさんにじいじなんて言ったらとんでもないことになるだろう。

ディスカヴァリー出版から出ている本で「国語力のある子供に育てる」という本がある。
この本の中で国語力をあげるためには正しい日本語を話すと言うことが挙げられていたが、正しい日本語と言うのは使うとわかるが、正しい日本語を使うと言うのは、言葉だけではなく、その言葉にあった文法を考えなくてはならないので、日本語で考えたり話したりするということにおいてもかなり鍛えられると思っているが、今日本人は教育に現場においても、家庭においても正しい日本語を学び理解することが要求されている。

よく礼儀やしつけと言う奴がいるが、私の考え方では礼儀やしつけと言うのは、まず正しい日本語を話すことからはじめなくてはいけない。
だから人にあいさつとか礼儀と言うのであれば、まず自分が正しい日本語を話さなくてはならないし、努力しなくてはならないのだが、しかし人にはあいさつしろとか敬語をつかえと言っている奴が、実はよくわかっていないと言うことがある。
日本語と言うのは難しい。そして我々が正しく理解してつかっているかと言えば、かなりあいまいである。
このブログを読んでいてあいさつの時に「チワーッス」や「チース」を気をつけて「こんにちは」に直したぐらいでは正しく言葉を使っているとは言えない。
きちんとその状況やその人の言葉に応じて適切な言葉や表現で返しているか、と言うことが問われる。
だいぶ前に人の名前を聞く時に「何さんですか」というバカな聞き方をしていた奴がいたが、小中学生や高校生を本当に正しい群れに導きたければ、まず日本語を正しく話す努力をする必要があると思っている。

少し抽象的ではあるが、言葉と言うのがいいかげんであったり、学んでいなければ将来に大きく響いてくる。
たぶん小中学生ぐらいではよくわからないが、それは大人になったらわかることで、前回のブログで挙げた勢いで話す奴なんかはそういうことをきちんとやってこなかったのだろう、日本語力がひくいと人に何かを伝えるときにそれが露呈して来るのだと思うが、言葉をきちんと学ばないと世界が限定されるいい例だと思う。

英語を話す人間が日本語がおろそかかと言えばそうではない。
意外と海外の大学を出た人間は、一般の人間が考える以上に日本語を正しくつかうが、それは正しくつかうことを心掛けているからだ。
これは笑い話だが、だいぶ前にマネージャーがここの親睦会を持った時に、出席を問う掲示板をつくってもらったのだが、その時焼肉がひらがなになっていた。
その時私は「お前焼肉っていう漢字あいまいやろ」と言ったら「何言ってんの、書けるに決まってるでしょ」とおこられたのだが、彼女は海外生活は長かったけど、私から見て日本語を正しく話すし、常識もきちんとわきまえていると思うが、海外に長くいても日本語を正しくつかえるのは、彼女が自分は日本人であると言うはっきりしたアイデンティティがあるからだと思っている。
外国語を学んだ人間は日本語も一生懸命勉強するものである。
ただ子供のうちに英語を学ばせるのは、アイデンティティの確立の問題もあるので、私はいいとは思わないが、しかし外国にいるから日本語のよさがわかるし、それを正しく話さなくてはいけないと思うのだろう。
最後にこれは私の持論であるが、日本人であると言うアイデンティティをしっかり持っている人間は、魅力があって、バランス感覚に優れていた。
意外とこういう人は海外に出た人に多いと思うが、たぶん外に出て行って日本と言う国を客観的にまた違うところから見て、いいところとわるいところを受け入れていって形成されてきたのだと思うが、外の世界に出て外国語を学ぶことは、自分を形成するうえでも大きなアドヴァンテージになると信じている。

ちなみに私がよく読む本は日本語の文法的な本である。
ちょっとした敬語の使い方や、表現などが書かれている本だが、ひまがあればなるべく見ておぼえるようにしている。
















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