脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ルビコン川をわたる前に

2019-01-31 | Weblog

うちの子が小6の時、弱気なことを言ってきた、なんでも塾の成績の上がり方がゆるやかになってきたそうで、6年の途中から受験の準備をするのは少しおそかったらしく、少しやる気をなくしていた。私は普段はあまりこういういい方はしないが、頑張ってほしいのでこういった。「とにかく自分で決めたことなんだから、最後までがんばれ、戦い抜け、うかろうと思ったら休み返上でかなりしんどいことをしなくてはいけないが、しかしだめだとかあきらめないで、覚悟を決めてやるんだ。僕は思うんだが人間は覚悟を決めて何かをしないと新しい道が見えてこない。カエサルだってルビコン川を渡って敵に勝利できたのも、彼が覚悟を決めてルビコン川を渡ったからだ、君は知っていると思うけど、カエサルはあのルビコン川を渡った時は疲労困憊していた、さらに彼は帰りたい奴は帰れと戦いたくない人間は返したわけだが、それでもあのルビコン川を渡って勝利できたのはまさしく彼が覚悟を決めていたからだ。何でもそうだが、もうだめだとかできないと思ったらある程度覚悟を決めることだ、人間覚悟を決めて何かをすると10倍20倍の力を発揮することもある。君の気持ち次第でその奇跡をおこすこともできるんだ、だからこれからしんどくても、めちゃくちゃがんばってやるという覚悟を決めろ 奇跡は起こるもんじゃなくて起こすものだ、カエサルは言う「賽は投げられた」君はこの意味が分かるか、もう後戻りはできないということだ」

まあたいして根性のない私が言った言葉を、どこまでうけとめているかはわからないがどうやら彼は私がスペクタクルに歴史に例えて話す教訓はきらいではないようだ。前にアメリカ人に日本人の自慢を話した時に、日本人と言うのは潜在能力が他の民族に比べて高いということを言ったことがあるが、たぶんそれはこの覚悟と言う言葉にでている。英語ではこの覚悟にあたる言葉はない。英語で覚悟を決めて何かをするという時、それにあたる言葉はなく、たぶんその表現の仕方は人によって異なるのではないかと思っている。私は子供に覚悟を決めて何かをすると、10倍20倍の力を発揮することもあると言ったが、これこそ日本人の持つ潜在能力のもとだと思っている。覚悟を決めるという言葉はいささか日本人的な言葉であり、たぶんそれは捲土重来をはかった巻き返しの言葉であろうと思う。

このカエサルの言葉だが、我々がここ一番の試合の前のおまじないのようなもので、胸に手をおいて「Alea jacta est」とリングに上がって上がっていくと、やるぞとテンションがあがったものである。しかし私のチームメイトはまちがって「cogito ergo sum(われ思うゆえにわれあり)」と言ったらしい。

私は韓国人の詩が好きだ。音楽も詩が好きで聞くときもあるが、それはなかなか洗練されていてそれを聞く人の心をうつ。今日あげた歌は有名なOne side Loveの気持ちをつづった歌。詩や歌もそうだ、生きていることは永遠じゃないから言葉に感情を込めることができる。今を生きているというその一瞬があるからこそ、人間は輝くのだ。人の言葉や音楽やドラマ(演劇)のセリフが人を感動させたり、心を動かしたりするのはその人がその永遠ではない時間の中で覚悟を決めて精一杯生きようとするからだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間らしい覚悟

2019-01-29 | Weblog

この前うちの子供が冗談ぽく、医学や化学が進歩する中、クローン技術などをもって人間は永遠に生きることが可能になるんじゃないかと言ってきた。すかさず「君は永遠に生きたいのか?」と聞いたら「えっ」と、私は「俺は永遠に生きるなんて言う退屈な生き方はしたくない。人間にとって時間というものは、永遠ではなく限られたものであるとわかるから思い切り生きることができる。ただ永遠に生きるなんてつまらないことだ。自分にとって今この時が自分に与えられた時間だ、この時間を自分だけに与えられた貴重な時間として生きるからこそ生きることの意味がある。だからこの世は永遠ではないということを受け入れることは人間らしい覚悟だ。」と言った。

ハイデガーは世界をザインとザインデスと言う言葉にわけた。ザインというのは存在そのものでザインデスは存在者と言う意味、存在者であるということは、人間だけがここに存在していると言うことを認識しているから時間の感覚が持てる特別な存在であると言うことだ。ウサギや犬は時間の感覚を持たないのはただそこに存在しているからだ、しかし人間が時間の無駄と感じるのはただ存在しているのではなく、その存在そのものを認識できる存在者だからだ。そう考えると人間だけが時間の感覚を持ち、それをどう生かすは人間次第であるということが言える。彼はその著書「sein und zeit((存在と時間)」の中で時間は我々の外側を無関係に流れているのではなく、人間にはあるべき未来を目指す未来と自分がひきうけなくてはならない過去が存在すると言っている。ザインデスである人間だけが時間の感覚をもつことができるのは、それは時間はただ流れるものではなく自分にとって与えられたものだからだということを知っているからだ。時間と言うのは平等に与えられる。それを巻き戻すことはできないし、かといって早回しする必要もないだろうが、しかし我々はその与えられた時間時間を大切に有効に使うことができる権利と特権があたえられているのだ。引き受けなくてはならない過去の時間を巻き戻して未来の時間を浪費するよりもこれから始まろうとする時間を大切に有効的に使うことで、人間はよりよく生きることができる。生かされると言うことはこれから自分に起こるであろうと言う未来を積極的に受け入れていくことだ。確かにハイデガーによれば人間は死に向かう存在であるが、しかしその与えられた時間を有効的に自分のために使うことができるのが人間で、そこに人間を人間たらしめるものがあるのだと思う。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホームページにもあるようにうちのクラブはコミュニタリアリズムだ

2019-01-27 | Weblog

この前外国生活が長い会員と話をしていたのだが、それは欧米のタブーについていわゆるPCワードについてである。話は自爆テロの話、私が「人間を爆弾につかうやつは人としてありえない、それだったら犬に爆弾をかまして突進させる、あっこれ欧米で言ったら動物愛護の観点からアウトだ」といったわけだが、これは日本ではどうかわからないが動物愛護の多い欧米では問題発言だ。その彼「ももっもんだいっすよ」と笑いながら(言うと同罪に?)言っていたが、間違いなくこれはPCの観点から言えばNGワード、人によってはそんなことぐらいでと思うかも知れないが、しかしそれは動物愛護の観点から見たら非常に残酷なことであり、そういうことを軽々しくジョークにして言うのは人によっては不快なことで、ある意味コモンセンスにかけることである。

私はよく礼儀とか道徳を意味する言葉としてコモンセンスという言葉をつかっているが、コモンセンスにおいて問題なのは、道徳のように何々してはいけないというよりも、相手を傷つけたり、不快にさせたり、特に人権を侵害しないために自分がどういう行動をするかということである。そういうことは時には民族や国家を越えて考えなくてはならないし、多様性を考えて何が正しいかどういうことをしてはいけないかということを考えなくてならない。いわゆるコミュニタリアリズムで言うところの話し合いによって(うちでは多様性を考えて対応していくこと)共通善を探し出していくということである。そして私がコミュニティにおいて大事にしているのはそのコミュニティがまとまっているとか、そういうことではなく、そのコミュニティが平和であるかどうかということである。平和であるということは暴力や体罰、暴言、差別が存在しないということで、そういう環境においてスポーツをするからこそスポーツをする意味があると思っている。私がそれしかやったことがないような体育会が大嫌いなのは、スポーツを修行と思っていて、スポーツすることを苦行みたいにとらえている節があるからだ。ひどいやつになると愛のムチとか言って体罰や暴言などを本人のためだとかその群れをまとめるためには必要だといまだ思っている奴も少なくはない。実際記事などでもよく取り上げられるように暴力や暴言そして気に入らないと試合に出さないといういじわるや差別があるそうだが、そういったことは個人の権利や性格尊重せずに、勝たなくてはいけないという勝利至上主義でコミュニティを見ているからだ。あいさつしろとか服従をもとめる礼儀はいったい誰のためのルールなのかはわからないが稚拙であると思う。権威主義で日本の親玉を中心としたヒエラルキーや雰囲気は暴力団の組織とどう違うのだと思っているが、これからは女性の権利、そしてADHDなどの問題を抱えた子供、そして性格も様々だ。そういうことを尊重し、よく考えて共通の正しさを考えていくことでそのコミュニティが正しく平和に機能し始めると思っている。うちでは何々しろというようなルールはない、ヘッドギアは後の人のためにふいてあげてねというようなエチケットは存在するが、大事なことは自分がどう行動するで、ひとりびとりが互いのことを考えて責任をもって行動してくれるから群れの雰囲気がよくなると思っているのだが、それを機能させるのは責任者の考え方で、それは彼、彼女がどういう考え方、哲学を持っていることであると思うし、そういう知的な部分でその群れを管理し動かしていくことでその群れの雰囲気がよくなり、そこに安心して集えるコミュニティになるのだと思う。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

The mind be sound in a sound body.

2019-01-24 | Weblog

友人のピーターがゴールデングラブに参戦、私はアメリカ国民ではないので出場できなかったので、ピーターのセコンドをすることになった。そして最初の予選であたったのがノーランと言う前回の優勝者、彼はギャングか何かのメンバーでストリートファイトが強いのでパワーがかなりあった。でピーターはどちらかというとへたれの部類に入る。自分でもわかっているのか、せめて1回戦はと3か月前からウエイトとジムでトレーニングに励んでいたが、しかし今回は相手がわるすぎた。本当だったら棄権したほうがいいのだろうが、しかし本人もやりたいといっていたし、軽量級なのであぶなくなったらタオルを投入ということで試合をさせることになった。そして彼の番が、よし行くぞ」彼のグラブをパシッとたたく、心なしか彼の顔はすごくひきつうたようであったが、「とにかく行け。実力差があるので打ち合いをしないとまけるぞ」とアドバイス、笑い話だが向こうは彼のことなど眼中にない。むしろ次回トーナメントであたるかもしれない私のほうを見ていたように思う。そしてゴングが鳴ってわずか数秒、ピーターはいきなりコーナーにとばされてしまった。その様子はロッキー4でドラゴがロッキーをパンチで吹っ飛ばすようなシーンがあったが、まさにそれ、普通そこでタオルを投入するが,あまりに見事だったので、唖然として見ていたら、そのままたたみかけられてRSC、試合はあっけなくおわってしまった。終わって彼が私に次のハワイアントーナメントは、あいつがお前と同じ階級で出てくるから、やっつけてやれと負け惜しみにもならないようなことを言っていたが、しかし次のトーナメントは彼と当たることはなかった。なぜなら彼はその後強盗か何かでつかまってしまったのだ。

よく日本人は外国人とはパワーが違うということをいうが、しかしそれだけではない、おそらく多少は身体的な特徴もあるが、私が感じたのは鍛え方の違い、向こうではスポーツ選手はボクサーであっても筋トレをして体をつくっている。格闘技はもともと相手を倒す目的でできたのだからパワーを養うのが自然なことだ。階級を維持するために余計な筋肉をつけないとか、未成年に減量させるなんて言うのはナンセンス、ベストなパフォーマンスで動けるからそこまで体重をもってくるのは納得できるが、しかし減量すれば有利だと勘違いして、ひどい人間になると10キロとかあるそうだが、こういう減量を成長期にさせるなんていうのは虐待に等しい。ボクシングの技術もそうだが、指導者は未成年の体のバランスなども考えて将来的になんらかのダメージがのこらないように、考えて競技させることにも注意を払って管理することも必要だと思う。特に未成年は体づくりもひとつの課題であるから、栄養をきちんと取って必要な筋肉をつけて無理なくエントリーできる階級で出場するのもひとつの選択肢だと思っている。ボクシングは頭をたたくスポーツ、ただでさえ危険だというのに成長期に常識を逸脱した減量などさせるというのはスポーツ学的に言っても非常識極まりない。ボクシングは危険なスポーツかもしれないが、しかし問題はボクシングだけではなく、それを管理する側にもあるのではないかと思う。オリンピックの生みの父である。クーベルタンはthe mind be sound in a sound body.健全な肉体に健全な魂は宿ると古代ギリシャの詩人であるユウェナリスの言葉を引用したが、soundというのは形容詞で正しいとか理にかなったということ、すなわちその正しい体には正しい精神が宿るということだ。正しい体というのは正しく体を鍛えることだ、ギリシャ彫刻を見たら筋骨隆々としているが、ギリシャ世界はヘレニズム文化で、今まで神の視点から人間を見ていたものとは逆に人間の視点から人間をもっととらえて表現しようということで、それがその肉体賛美につながったのだ。正しく体をきたえるというのはいささか抽象的ではあるが、どう正しくきたえるかというのは年齢や目的そして医学や栄養学的な考え方を理解してそれをどうとらえるかというのも指導者のひとつの課題であり、ボクシングは特にそういうことをよく理解して答えを出さなくてはならないと思っている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いて OUCH 아야

2019-01-22 | Weblog
ボクシングはおもしろい。私がおもに経験したのは外国でのボクシングであるが、むこうにはくだらないヒエラルキーもメンツもなくそれなりに楽しかった、がしかし強豪と言われる人間が多く、今日はその私が経験した中でもいたかった試合やスパーを3つ紹介したい。

「いて!(スイッチしてくるメキシカンらしき男)」
メキシカンスタイルなのか、変則型というのだろうかわからないが、スイッチしてくる奴がいた。
生意気にひげなんかはやして、いかにも映画に出てくるわるいメキシコ人のような風貌、ひげなんかはやしていたら、日本のアマチュアでは失格であるが、しかしこいつが意外に強いと言うかパンチ力はかなり強かった。今ではもうスイッチしてくる人間なんてたくさんいるのだが、しかし当時の日本ではあまりそういう選手はいなくて、ここに来てはじめて体験したのだが、かなりとまどった。一般的にスイッチと言うのは、フックやアッパーなどのパンチはストレートと違って、反対のかまえでも強く打てるので、接近戦に持ち込む時に使うそうだが、メキシカンと言うかその選手のスイッチする時に同時にうってくるフックがえげつなかった。タイミングがいいんだろうか、もともともっているばねが違うのだろうか、その出会いがしらにくるフックは強烈でおまけに死角から入ってくるのでよけにくく、そのあとたたみかけるようにフックアッパーと連続でくるのだが、あの連続技はかなり厳しく痛かった。幸い相手が単純で同じ攻撃の繰り返しなので、2ラウンドから巻き返して、判定勝ちであったが、終わったらかなり腫れあがり別人のようになっていた。その次の日はラジオ局に出演したのだが、そのラジオ局でまわりからじろじろみられてかなりはずかしかった。極めつけは帰りにダンキンドーナッツでコーヒーをのんでかえったのだが、店員のアジア系の女性が、明らかに自分の顔を見て警戒していた。気まずいので「野球のボールがあたって」みたいなことを言ったのだが、店員に「野球のボールじゃそこまでならないわよ」と言われ、さらに気まずい思いをして隅っこで犯罪者のようにコーヒーをちびちびすする。

「Ouch!(ゴールデングラブベスト4だか8)」
彼はすごすぎた。はじめてこりゃああかんわと思ってしまった。ブザーが開始と同時に、ピシ、バン、ドスンで一瞬目の前が暗くなった。むこうのスパーは本気でうちあわず、あえてたたみかけないのが普通なのだが、しかし80パーセントぐらいの力でこれだけ歴然とした差を見せつけられたらたまったもんじゃない。特にすごかったのは左のジャブ、彼のジャブははやくて一瞬であるが相手の動きをとめる力がある。時々アメリカの選手で得意技はジャブと書いている選手がいるが、彼らはスナップも東洋人に比べて強く、かなり強いジャブをうてるので、もらいすぎると致命的である。実際彼のジャブを主体にしたコンビネーションは完璧で、スパーリングの時何度もそれを見事にいただいたのだが、そのスパーもいいとこなしのみじめな結果でおわった。ロッキーのあるシーンで、彼がロシアのボクサーから強烈なパンチをもらった時に奴が3人に見えるといい、セコンドの人間が「真ん中をねらえ」というのがあるがあれはリアルである。

아야!(DQNの世界ランカー)」
こいつは別格番外編と言ってもいい。その前にスパーの手合わせをした奴が「いやあ彼はすごい、軽くアッパーをいれられたけどあごが燃えそうだったよっ」なんて言っていたので、それを聞いた私は「何をおおげさな、俺が一発ぐらいいいのをいれてやる」と意気込んで、自分のレベルを考えずスパーを志願したのだが、しかしこれがとんでもない間違いであった。あまりにレヴェルが違いすぎるので、相手は左だけと言うことになったのだが、その左のイーッイーッとショッカーのようにうってくるパンチがえげつなく、近くから石をおとされているような感じで、あたるたびに軽い脳しんとうだ。ラウンドが終わって千鳥足でふらふらとコーナーにかえって来た時に、ジョージが大丈夫かと言っていたが、大丈夫じゃない。見てわかるやろ。しかし自分で志願したのでギブアップできず、結局2ラウンドやるはめに、正直左だけであれだけえげつないパンチをもらったのは初めてで、こういうのをもらうとやはりボクシングは危険であると言うことを考えざるは得ない。
「いて OUCH 아야」とにかく彼らのパンチはいたい、持って生まれた身体能力の違いだろうか、私のスパーの思い出はとにかく痛い思い出であった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケグジェンイ Hoyoung Kim

2019-01-21 | Weblog

私が学生の頃、HIのWaikikiからAlamoanaに行く途中、どちらかと言えば、Alamoanaよりの場所に今で言うクラブとダンスクラブを、フュージョンさせたような場所があった。そこはホテルの最上階にあって、ローカルの学生たちなんかがよく来ていたのだが、何と言ってもそこの眺めは最高であった。ハワイのホテルというのは、大体海沿いに建てられるが、まさにそこは港のすぐ近くにあったのでその最上階から港が一望でき、ハーバーライトでプライヴェートヨットや客船が照らされ、その眺めはプライヴェートのヨットや豪華船などと縁がなかった私にとって、まるで映画のワンシーンのような世界であった。そこでは「Beer Please」と注文すると、ビールがビンごとそのままでてくる。その注文したバドワイザーを飲めもしないのに、ちびちびやりながら最上階からハーバーライトにてらされた港を見るのがたまらなく好きであった。ここには友達が連れて行ってくれたのだが、私が夜景を見ていると彼女に、突然、笑いながら「あなたは不器用だ」と言われたことがある。カチンときたので「ウェ(なぜ)」と聞くと、ただ笑っているだけだった。たぶん彼女が自分が不器用だといった一番の理由は、周りのことを気にせず、物事をはっきり言う性格である。それは的確に物事をとらえているそうだが、ただ周りのことを考えず、おかしいと思えばおかしいという、間違っていることは違うという、そういう性格がまずいらしい。「勇気があるが、あなたは子供だ、日本人的に見れば、おろかである」とさえ言っていた。よく正義づらをするなと言われ、キレて帰ったこともしばしばあったがなつかしい思い出である。

周りの人間は、わりとなんでもそつなくこなすので、自分のことを要領がいいやつと思っているが、しかしとんでもない、それは能力的なことで、生き方においては、要領がわるい男であり、要領がわるくて、彼女はいたい思いをしている自分を心配して言ってくれたのである。
私はあまり信用できない人間がいる。それは「自分は弱い、何もできないから助けてください。」などと言って人を利用する人間だ。夜の世界にこういうタイプがいるが、こういう人間に限って、人の同情を誘い、共感し仲間を集めて、やるべきことはしっかりやっているのであるから、したたかである。自分はどちらかというと、こういう弱さをうりにして、したたかに生きようとする人間はあまり信用できない。実はそういう人間のほうが、弱く、要領がわるいように見えて、実は要領がいい、おまけに周りは利用されていることすらわからない。 

しかし世の中のたいていの人間は、要領よく生きているわけではない、弱いときに弱さをだせない。しんどい時でもしんどさを見せることなく、がんばって生きている。しかもその弱さやしんどさは誰にもわかってくれない、むしろ人間は不器用で、孤独に生きていることのほうが多いのではないかと思っている。

私がボクシングクラブを運営しているのは、そういう人たちを支え励ましたいからだ。私はよく俺は人集めをしているのではなくて、コミュニティをつくってるんじゃというが、しっかりとした雰囲気のいいクラブをつくればそのコミュニティにおいて人はいやされ元気になっていく、そういうコミュニティであるためには小手先だけのサーヴィスではなく、きちんとしたまわりをしっかりといい意味で動かしていけるような哲学と理念を持つことが必要だ。排除すべきものはきちんと排除して、特に世の中でそんをしているような正直な人や格闘技ではマイノリティである女性、そして試合に出れないから相手にされないおっさんたちがここに来たら主役になって本当に心から楽しめるようなクラブにしたい。それが私の願いである。本来ならば競技者中心の実績をあげて目立つことが必要なのだろうが、逆行しようが要領がわるいと言われようが、この考え方を変えることはない。

今日の動画はおそらくBusanからの夜景


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

안녕! 또 만나요. 

2019-01-18 | Weblog

試合の1か月前特別コーチだと言ってある男が指導に来た。大学でもコーチの経験があるらしく、おもにパワーをつけるためのトレーニングを教えてくれるとのことであった。しかしこいつが食わせ者でどうやら東洋人が嫌いなようだ(私の意見)。うちのチームはハワイアンから東洋人が多いのだが、こいつにしごかれるしごかれる。アメリカと言うのはそういうしごきは基本的にないのだが、しかし当時のアメフトは多少はそういうことがあったらしく、口答えしようものなら「えー今なんて言った腕立て伏せだ」みたいな軍隊さながらのやりかたで、私たちは1週間こいつにみっちり鍛えられた。ある時「俺が走れと言ったら走れ」と言って延々と100メーターぐらいのダッシュを連続でさせられた。それがあまりにも続くので脱落していく、たぶん脱落させてお前らはこんなもんだと言いたいのだろう。やりかたがあまりにも意図的であったので「もう一度だ」と言った時に思わず「f○ck you」と言ってしまった。その時まわりからはっはっはと言う笑いが、さらにその笑いは大きくなって100メーターダッシュどころではなくなった。それで調子がくるったのか100メーターダッシュはなくなったが、しかしその後もしごきのようなトレーニングは続き、1週間後こいつが帰る時にはみんなでリンチにしてやろうかと思ったぐらい彼は嫌われて帰って行った。

それから10年ジムに私のワイフと行くとそのコーチが、最初は知らんふりをしていたが、しかし目が合った瞬間しらじらしくもおーっと。「俺のことをおぼえておるか」と言ったら「おぼえている」とまあ「f○ck you」なんて言った東洋人をわすれることはないと思うが、聞く話によると彼は今はここのジムでボクシングを教えてるらしく、その時彼が教えているジョンとか言う競技者を紹介してもらったのだが、彼がジョンに接する態度は以前のような高圧的な態度でもなく非常にいい関係を持っていたので、人間って時が過ぎればかわるものだなあと実感させられた。

人間はかわると思う。時が立てばかわることもあるし、自らをかえて行かなくてはいけない時もある。いずれにせよ人間と言うのはかわることができるし、かえることができる、だからこそ人間がまた再び出会うことに意味があるのだと思う。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

語学、読書そしてクラッシック  語学編

2019-01-14 | Weblog

これはある会社での体育会系の上司の話。そこは最近海外進出してきた企業で、海外留学組なんかを採用して、社員のレヴェルがあがったそうだが、その上司はある女性社員のことが非常に疎ましいと言うか、帰国子女である彼女がはっきり意見をいうことにたいして、いささか不快感を持っていたらしい。ある時彼女と意見が衝突した。彼は自分の考えを力説するのだが、彼女は合理的ではないと反論、そして彼は怒って、俺の言いたいことがわかってないのかと言う意味で、よくある「お前日本語がわかるのか」と怒鳴ったそうである。普通体育会系の人間にどなられたら、自分たちのようなへたれはおじけづいてしまうが、しかし彼女は違った。ひるむどころかその女性は逆に英語でまくしたててきて、その上司はたじたじになったという話であるが、もう21世紀で英語が社内の公用語になろうとしている今、お前日本語わかるのかではなくCan you speak english?もう能力もないのに先輩というだけでいばったりできる時代ではない、これからは家父長制、上意下達の体育会の常識は通用しないと思う。私は今スポーツにおいて英語は不可欠だと思っている。これから東京オリンピックがはじまるのに、親玉が英語ができないとダメだ。言葉がわからないからとぞろぞろと通訳をつけて歩き回ったり、首から翻訳機でもぶらさげて歩くのだろうか?翻訳機なんか使っても時間がかかるし、会話だと話がかみあわない。そして何よりもみっともないと思う。

私は実際にひとりで外国のキャンバスにあがって試合をしたことがあるが、やはりそこで言葉を理解できるのと理解できないのとでは全然違うと思う。自分が何かを主張する時直接自分の言葉で表現するというのは競技することにおいては必要不可欠だと思う。前ボクサーがアドラーを読んでいるみたいなことを言っていたことについて、私はアドラーの論文は日本語に訳されていないのでボクサーが言うのはアドラーではなく、アドラーについて書かれた本だというようなことを言ったと思う。アドラーは最近心理学では有名になってきたが、しかしそれでも訳本がでているのはわずか、医学書は新しい本が出たらすぐに訳本になると言っていたが、たぶん医局が強い力を持っていて、組織がしっかりしているからだろう、しかし結構参考になったり、重要な文献が思った以上に日本語に訳されていないのも事実である。今この時代英語は不可欠だということを理解している人間はスポーツの世界ではそういない。特に小さい社会でそれしか知らないというような人間は全くそのことが理解できないと思う。もしアマチュアスポーツがクーベルタンの提唱したオリンピズムに基づいて、肉体と精神を鍛えるならば、英語を理解してグローバルな視点を持つことは不可欠なことだ。

よくテレビにスポーツ選手が出てきてどんな車を持っているとか時計の値段がいくらしたとか、仲間のいじり話をしたりする番組があるけど、あんな部室で話すようなくだらない話、私は全く面白いとは思わない。なぜああいうことしか言えないのか不思議だ、世界に行って何を見てきたのだろうか?もっともっと世界に視点をひろげたら日本という国はいかに裕福でそれよりも貧しい国がたくさんあって、女性や子供が虐げられたり、弱いものが差別されたり迫害されたりしている。そういう現実をよく理解して、それを受けとめることも大事であり、それがクーベルタンの言うオリンピズムではないのか?言葉をおぼえてこの裕福な日本以外の国のことを体験することは人間の感性を磨くためには不可欠な体験である。あほなアスリートは女性のことと刺激を満たしてくれることにしか興味を持たないように思っているが、私も昔は自分のことしか考えられなかった人間だった。けれどもアメリカという国で実際に韓国という国に向き合った時に、こういう現実もあるのかと心をうたれ、自分がにげてきた現実に目を向けて、それから多少なりともその自分が感じたことに対して何か協力したい、人の役に立ちたい、人の役に立つ仕事をしたいと思った。言葉を理解すると世界が広がる。世界の人達と気持ちをひとつにするというのはスポーツを共に競技することでもあるけれども、そこからもっとさらに相手国の現況をよく理解してその痛みを共有して自分たちには何ができるかということを考えることも必要だ。それがオリンピズムに基づいたスポーツ哲学であると私は理解している。それはスポーツをするということはどういう形であっても世界に目を向けるということであり、英語が不可欠だ。

私は最近韓国人に対してみる目が変わってきている。特に若い子たちだが、私はどちらかというとうらみもあるし、いろいろ聞いているので民度が少しひくいと思っていた。少し前だったか海外の大学に留学していた若い人が韓国人のことをよく言っていて、少し驚いた。彼の印象では私が思っている韓国人の印象はなく、礼儀正しいフランクな人たちであった。たぶん私が言う民度がひくいと思っているのは386世代より上の世代の人たちで、それは例外もあるけれども最近の韓国人は他の国から評判がいいのも確かである。たぶんそれは彼ら彼女らが言葉をおぼえて外の世界に出ていっていろいろなことを体験しているからだと思う。夏にあるテレビ番組で俳優が貧しい国に行って奉仕する番組がある。それも1日や2日ではなく10日ぐらいのロケに出てその現実をうけとめて奉仕するという番組だが、もちろん女性はすっぴん、そういう番組の背景には彼ら彼女らが外に出て行ってその世界の現状を多少なりとも理解しているということかも知れない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴィクトールフランクルの言葉  to choose one's own way.

2019-01-10 | Weblog

大学時代に感銘をうけたヴィクトールフランクルの言葉にこういう言葉がある。彼はアウシュビッツを経験したユダヤ人であるがそのアウシュビッツを振りかえってこう言っている「We who lived in concentration camps can remember the men who walked through the huts comforting others, giving away their last piece of bread. They may have been few in number, but they offer sufficient proof that everything can be taken from a man but one thing: the last of human freedoms - to choose one's attitude in any given set of circumstances - to choose one's own way.」直訳すると「強制収容所で生活した我々は、他の人々を元気付けたり、パンの最後の一切れをあげたりして小屋をめぐり歩いていた人々を思い出すことができる。そういう人々はごくわずかだったかも知れないが、彼らは十分な証明となる、人間からすべてを奪い尽くそうとしても尽くしえない一つのものがあるということの。それは、与えられたどのような環境のなかでも自分の態度を選ぶ、自分自身の生き様を選ぶという人間の最後の自由だ。」

すごく高尚な言葉である。おそらくそういう態度を毅然としてとることが我々のようなビジネスでつながっているわけでもない、ボランティアの要素の強いコミュニティにおいて責任者が求められる態度だと思っている。ビクトール、フランクルはユダヤ人であり、もちろん彼は大いにユダヤ教の影響を受けている。彼ら彼女らが使っている言葉はヘブライ語であるが、そのヘブライ語で愛するに値する言葉は二つある。ヘセドとアハバーという言葉で、いずれも日本語では単純に愛と訳されるが、しかしその意味が違う。まずヘセドであるがこれは契約という概念によって成り立つ愛である。まさに結婚はそうであるが、これは相手が自分のことを愛してくれるから自分も愛することができる、そういう相互関係、ギヴアンドテイクの愛だ。しかしアハバーという言葉は一方的な愛、相手がどうであろうがひたすらその相手のことを思い愛する宗教的に言えば究極の愛である。おそらくフランクルの自分の態度を選ぶ人間最後の自由というのは、アハバー的な愛に立ち返ること、人に何かを与えることだ。そういう絶望的な中でそういう態度をとることで自分自身が解放され自由になれると感じ取ったのだろう。きれいごとのように聞こえるが、確かに人を愛すること与えることは大きな力になる。子供や家族のためにたいていの人は自分の命さえも投げ出すことができるであろう。しかし究極的に言えばこの犠牲を誰も無駄であるとか思わないだろう、なぜなら子供や家族を愛するからだ。

まあジムはアウシュビッツのようなところでは決してないが、この与えることができるかどうかということでかなり雰囲気やジムにおける安心感も違ってくると思う。自分のことしか考えていない自分ファーストという考えしかできないような人間が集まってくるとクラブの人間関係も決してよくならないし、みんなが安心して楽しくトレーニングできる場にはならないだろう。トレーナーでも金をもらわないと教えないとか、特別感をだせるから、あるいは立場を利用して自慢したり、偉そうにできるから、教えてて優越感にひたれるからというようなけちな考え方ではクラブの雰囲気はすごくわるくなる。私の見解ではそういう奴のたいていは世の中ではたいしたことがない、だからジムにそういうものを求めてくるのだと思っている。トレーナーのような人をひっぱっていったり導いていくような立場は自分ファーストではダメ、ある程度自己犠牲が求められる。そうでないとまわりはついてこない。うちのクラブはそういう人に与えることができる余裕のある人間が教えてくれているので雰囲気がいいと僭越ながら言わせていただくが、現にそういうことをやってくれているので、まわりもそうなってくる。誰からも言われたわけでもないのにまわりの人たちもビギナーの人たちに教えてくれたり、ミットを持ってくれたりとトレーニングだけではなく、そういう人に何かをするということでも喜びを感じてくれていることは本当に光栄なことであり、そういうことがさらにクラブの雰囲気をよくし、誰でも気軽にトレーニングできる場になりうるのだと思っている。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まさかお前がクラッシックを聴いてたなんて

2019-01-08 | Weblog

私がクラッシックを聴くようになったのは、友人が私にピアノで演奏してくれたことがきっかけである。いつも食事にありつきに行っていた教会で何気に弾いてくれたショパンがすごく私の心を落ち着かせて、そのことがきっかけで試合の前やトレーニングの後にリラックスするために聴くようになったのだが、試合前はひとりでどこかに行ってひとりで聴いたものだ。ショパンやパッフェルベルなどの有名な曲を聴いて心を落ち着ける。聴いていくと次第に心が安定してきて試合に臨む時にはいくらかでもその緊張が緩和される。私は日ごろからトレーニングの後にはクラッシックを聴いて心を落ち着けるようにしたのだが、そのクラッシックを聴く=心が落ち着くと言うルーティンな作業を繰り返すことで、落ち着いてキャンバスにあがることができたのだと思っている。この作業は私にとってトレーニングのひとつである。たぶん私のような直線的な動きしかできない人間がここでそれなりの成績をおさめることができたのは、心に余裕をもって落ち着いて競技できたからだ。しかしまわりの人間からしたらこんなケグジェンイな人間がまさかこんな落ち着いた曲をしかも試合前になんて想像もつかず。ある時ひとりでクラッシックを聴いていた私にバーガーが近づいてきて「お前にに聞いてんだ」と私のイヤホンをとって聞いた。そしたら彼が「げげっお前クラッシック聞いてんのかよ」とすごく意外そうであった。

クラッシックを聴くと心に余裕ができると言うのが私の考えだ。わかりやすく言えば富裕層がクラッシックを聴くのは余裕があるからだ。毎回ずけずけ言うがスポーツとは言えどこれからは教養やある程度の知的レベルは求められる。そういう意味で読書や語学、そしてクラッシックを聴くことはひとつの嗜みであると言ったのだが、日本の格闘技の集団はそれがとぼしく余裕がない。そもそも彼ら彼女らはスポーツを修行だと思っている節があって、何をするにももったいぶりすぎ、試合でもなんでもものすごく押しつけがましい独特の世界観がある。いちいち自分を追い込まなくてはそこまでできないという発想は非常に稚拙だ、そういう発想は余裕がなくて非常に乏しく人間関係を豊かにするものではない。もう少し遊び心や余裕を持てよとさえ思う。やはりそういうのはその人間の持つ教養や生活の問題であり、それしかできない読書や教養的な思考にかけるような輩がその群れの中心だと限界がある。うちのクラブに来た人はいい意味で他のスポーツ団体とは雰囲気が違うと言うが、やはりそれはある種の余裕があるからだと思っている。

今日あげた動画は松田華音さんのパッフェルベルのカノン、独特のタッチで生み出す旋律はもう少し普通に弾けやとさえ思ってしまうが、しかし何度か聞いていくうちにその独特の世界にはまっていく、そういう魅力がある演奏だ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする