脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私は세종的人間

2020-05-11 | Weblog
最近パチンコや禁止されているところで集団でかたまってBBQをやる人間が問題視されている。よくインタビューで俺は誰にも迷惑はかけていないとか、自分で責任をとるとかいいとか言っているが、集団感染になったら責任などとれるわけがない。こういう人たちを見ていつも思うことは、人に迷惑をかけるということの考え方が我々と違う、私はこういうタイプの人間をDQNと言っているが、普通は特に日本人はなるべく人に迷惑をかけないように気をつかって生きているのだが、DQNはそういう感覚が希薄、行動が自分勝手、軽率である。私がこの手のタイプはコミュニティとして受け入れることができないというのは、感覚がずれているから人とは悪い意味で違った行動をとり、時にはそのずれた行動が全体の大迷惑になるからだ。
今のこの状況でそういう人間がひとりでもいたら大きな被害を私だけではなく、全体が被ることもありうるので、そういう人間は入会させないし、思い切り警戒している。

私自身育った環境があまりよくないので、その手の人間のことをよく理解しているが、問題は感覚が一般の人とかなりずれていること、それは環境から生まれるもので付き合う相手をかえて、まともな人間と付き合って刺激与えられたり、影響を受けなければ養われるものではないと思っている。DQNは距離が近い、仲間意識が強く、つながりが深い、距離が近いから平気で人にものを頼んできたり、お金の貸し借りも平気でする、しかしそうは言ってもそこにいない人の悪口を平気で言ったり、けなしたりする、そこまで言うのだったら付き合わなかったらいいじゃないかと思うのだが、それでも付き合いはやめれない、いわゆる彼ら彼女らはそういうべたべたした密な人間関係で生きているからだ。私はこういう人間を相手にしたら将来はないと思ってまじめに生きてきたわけだが、私の持論かも知れないが、本当にまともに生きたかったら教育をうけること、付き合う人間を選ぶこと、そしてそのコミュニティに入っていけるようにある程度の教養と正しい常識を身に着けることである。
正直まじめに机に座って人の話を聞いて、まじめに生きて来た人と、アウトローとかやんちゃですの常識は違う。そういうたぐいの人間は見栄と意味のない意地、仲間意識、同情、かばい合うことで生きている。こういう感覚で生きているとそれは時には世の中の害になることもあるのだが、格闘技のクラブと言うのはそういう人間を集めやすいので警戒している。大事なことはあいさつができるとか、ボクシングをやる気があるとか、人当たりがいいというようなことではない、その人が持っている感覚である、私の言う感覚と言うのはその人の持っている環境から生まれてくるもので、それはその人間のつきあっている相手を見たらわかることだ。私は何も聖人君主を求めているのではなく、普通の一般の感覚を持った人間がここで安心して楽しくトレーニング出来ることである。格闘技はDQNを集めやすい、そういう輩が集まってクラブが半グレの集団みたいにならないように暴力を徹底排除、われわれのように普通に生きてきた人間とは違う、ともすれば人に迷惑がかかるような人間を排除するのは当然クラブ側の権利であり、私はこのクラブにおっさんや女性がいつ来ても安心できる場所にしたいと考えている。




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