脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ビビりヘタレ大歓迎の理由

2021-01-29 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

私の友人にピータと言うアメリカ系の台湾人がいる。当時私と同じチームの大学生であったが、彼はビビりだ、なぜこんな人間がボクシングを始めたのか不思議であるが、ある時何を思ったのかゴールデングラブの予選に出ると言ってきた。ゴールデングラブは米国でも有名な試合だ、ゴールデングラブは国民の大会で外国人は出場できないが、アマチュアで言えば一番レベルが高い試合で、マイクタイスンなどの有名なボクサーたちも優勝していて、いわば世界チャンピオンになるための登竜門であると言っても過言ではない大会である。
彼は基本的にビビりで、人を傷つけることができないタイプの人間である。そんなやつが試合になぜ出るのかと不思議であったが、ベストフレンドの彼を見捨てるわけにはいかない、せめて1勝ぐらいはと二人で特訓をはじめた。しかし彼はビビりだ、スパーをしている時びびって下を向くので「下を向くな、向いたら2,3発はくるぞ、俺の目を見ろ」と言うと"take it easy"と言うピーター、技術はよくなってきたが肝心の実戦はこの調子である。

そして特訓は終始この調子で、試合をむかえるのだが、試合場で配られた対戦表を見た時思わずOMGと叫んでしまった。その対戦表にはノーランの名前が、彼は前回の優勝者メインランドにも行って好成績をあげている猛者である。よりによってそんなやつが一発目の対戦相手とは私は何と言っていいのかわからず、ただ冗談で" take it easy"と言いたがったが、そんな余裕は彼にはない。たぶん彼のビビりセンサーは120%をこえていたんじゃないかと思う。そしてピーターは勝つ気ゼロオーラをまとって試合に、案の定1ラウンド目からもうラッシュに会いボコボコにされてほぼ秒殺、予想通りであったが私としてはもう少し頑張ってほしかった。試合後俺は試合には向いていない、お前に任すと言って現役引退、その後は健康維持で堂々とボクシングを続けていたが、
彼が私のセコンドをつとめた時にあまりごちゃごちゃいうので試合中に"shut your fucking mouth!"と叫んで、まわりの観衆を爆笑させたことは有名な話である。

うちのクラブはへたれやびびりは大歓迎だ、実際にうちのジムはそういう人たちが多く、ある意味取扱注意である。試合に出るとか出ないとかそういうことがうちのジムのプライオリティではない。ピーターを見て思ったのだが、基本的に彼のように人をなぐったり、傷つけたりすることができない人間がいる、そういう人たちも彼のように恰好つけるためや健康維持ダイエットのためにかっこよくボクシングの真似ができる程度でいい、堂々と誰に気をつかうことなくトレーニングしてほしい、むしろここでは試合に出る人間よりも彼ら彼女らはマジョリティである。

へたれやびびりが集まるアドヴァンテージはある、威圧感がないので女性が入っていきやすい、実際うちのクラブに女性も40%は在籍しているし、見学に来る人もほとんど女性「はじめ電話する時はドキドキでしたよ」と見学に来た人が本心をさらすが、おそらくそういうことが言えるのは思っていたのとは違う、うちのジムがおとなしい人たちの集まりだからだ。
うちのクラブは自称へたれやびびりジムであるが、こんな時だからこそへたれやびびりのアドバンテージは発揮される。びびりだからコロナにかかってはいけないと思い切り慎重に行動するし、さらに人に迷惑をかけてしまったらとか、へたれやビビりはそういうシュミレーション能力が高いから普通以上に気をつけて行動してくれるし、自分の弱さがわかっているので、気づかいがある。へたれやびびりだから弱さがわかる弱さがわかるから協力することの大切さが見えてくるのだ。
迷惑をかけてはいけないと言う感覚が人よりもずれていて、ジムで何の気づかいもなく、本能のままにサンドバッグやミットをたたくようなDQNが多数であると、この時期にジムなどオープンしない。私がジムを再開できたのは、まず県の状況が安定してきたこと、必要な物資があること、そしてこれは一番重要なことだが、会員の人たちが常識ある人たちで、自己管理のできた人たちなので、よしこれだったらいけると思ったからだ。高知は落ち着いてきたようだが、しかしまだまだ気が抜ける状態ではない、これからもへたれ、びびり度をさらにアップさせてこの事態を乗り越えていきたい。こういう時期だからわかるが、へたれ、びびりは最大のアドバンテージだ。



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トレーニングのサウナスーツに関しての一考察

2021-01-28 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

日本人は合理的だ、うがいのことはブログでもあげたが、海外から日本を見たら改めて日本人のすごさを実感できる。しかしことスポーツになると逆、時代遅れで未だになぜこんなことをしているのかと言うことは多々ある。
私が不思議だと思うのはサウナスーツを着てトレーニングすることだ。あれはマジでえっと思う。ダイエットの女性でもあるまいし、なぜそこまでして汗をかかなくてはいけないのか理解できない。真夏でも着てトレーニングをする姿が見られるが、やっている本人は汗を大量ににかくし、追い込んでいるのでやった気になるのだろうが、しかしそうすることでパフォーマンスがさがるのでトレーニングの効率がかえってわるくなる。サウナスーツは減量のためだろうが、しかしパフォーマンスやけがや病気のリスクをおかしてまでやるのかは疑問だ。私のいたところではまずそういうレインコートのようなものを着てトレーニングしているような人間はいなかった。私は一度減量のため(とはいっても2、3キロだが)それらしきパーカーを着てトレーニングしたことがあるが、その時コーチにあぶないから着るなと注意されたが、普通に考えたら暑い時期にサウナスーツのようなものを着てトレーニングすることはあまりおすすめできることではないだろう。

減量に関してもとらえ方に違いがある。日本では減量することもひとつのトレーニングのようなものらしい、あしたのジョーでは減量することがさもかっこいいことのようなとらえ方をして、ボクサーのひとつの宿命みたいにとらえられているが、こんな漫画の話がまかり通っているのはボクシングぐらいだ。
こんなことでしんどい思いをするなんて意味がない。減量のためサウナスーツで汗を流して、水分をおさえる、そこまでして小さい階級でエントリーすることに何が意味があるのか理解できないが、そこまでやるんだったら他のことを頑張った方が懸命である。特にアマチュアは試合数が多く、成長期の段階にあるので、そういう時期に無理な減量を容認したり、させることは無責任、60キロ代で日ごろからトレーニングしている人間に5キロ以上させるのは虐待の領域だ。何のためにリングドクターの存在があるのかわからないが、アマチュアはそういった医学的なことや倫理的なことも含めてそういう人たちからきちんとアドバイスを受けて管理していくことも大事なことだ。特にうちのような健康維持やダイエットの人たちが多く在籍しているジムは、けがをさせない、安全に続けてもらえるためには、医学的なアドバイスをしっかりとうけて運営していく必要があると思っている。
話は減量の話にもどるが、私などはそこまでして小さくして小さい相手と対戦したいのかとネガティブに考えてしまうが、海外では同じ階級で勝ち続けるよりも何階級か制覇するほうが評価が高いのは、大きいものにむかっていくほうが勇敢であるからだろう。私自身もたいした実力はないが2、3階級ぐらい階級が違ってもたたきのめしてやるなんて本気で思っていたが、現にライト級でもエントリーしたことがある。減量して体を小さくすることに意味があるのかわからない、強くなるためにボクシングを競技したのに小さくなってどうするんだ、それならビルドアップして筋肉とパワーをつけて階級を上げていく方が健康的で合理的なトレーニングができると思う。

これは私の経験だが、私は119ポンドから125ポンドまで上げたが、上げたことでかなりパフォーマンスがあがってRSCが多くなった。

ハワイはワリアーズの伝説があるので、結構うちあいが多い、私は東洋人にしてはほりが深いので試合でうちあって顔がはれあがると目がエイリアンのようになる、バーガーに「お前エイリアンみたいだ、鏡を見てみろ」と言われて、見たらまさにエイリアンだ。写真におさめられたが、そのエイリアンが映った写真はハワイのどこかにある。




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But If Forの三段論法

2021-01-27 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

Wise men say only fools rush in
But I can’t help falling in love with you
Shall I stay? Would it be a sin?
If I can’t help falling in love with you 
Like a river flows
Surely to the sea
Darling, so it goes
Some things are meant to be
Take my hand, take my whole life, too
For I can’t help falling in love with you

学生の時ノレバンで歌わされた歌、へたくそでも歌えるので選んだが、今考えたらこんな曲よく選んだなあ、少し恥ずかしい次第だ。でもこの曲は少し古典的だが詩がきれい、こういう文体は訳すのが難しく感性の問題である。詩がきれいなので実際にその詩を見たのだが、あらためてこの曲の歌詞を見た時思った。この詩と言うか文章は女性の心理を巧みについている。表現は少し古いがこのように語られたらキュンとするんじゃないかと思うのだが、まとめかたがきれいだ。特に私があげるポイントはbut (しかし)if (ひょっとして)for(なぜならば)の使い方である。詩はLove songなのだが、しかしいきなりI love youとかI want you的なことは言わない。まず一般論的にある人はこういっているけれども、これっておろかなことだよね、しかし私の気持ちはそうなっちゃうんだよと強いジャブ、でもそうなることは罪なのかと問い、さらにこれは川が海に流れていくように自然なことだ、これってひょっとして I can’t help falling in love with you していることかもと核心をつく、そしてTake my hand, take my whole life, tooと畳みかけるのだが、私の手をとって、私の人生もすべてと、これって日本語じゃあなかなか言えない、人によっては危険な言葉になるが、しかしここまで言われたら誰でもビビッとくる、そしてなぜならばI can’t help falling in love with youと告白するのだ。確かに彼のようにいきなり核心をつくことなく、諭すように自分のペースにもっていってから核心をついて告白されたらI have a crush on youするだろう、むかつくけどプレスリーの歌は女性たちの心理を巧みについている、特に私はbut if forがこの詩のキーとなっていて、このヒット曲には女性を魅了する心理効果があると思っている。私は個人的にあまり好感はもてないが、これって計算してつくったのだろうか。これ以上は責任もあるし、詐欺に利用されたら困るので専門的に言及することは控えるが、but if forは恋愛だけではなく交渉においても使えるのではないかと思っている。


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The Declaration of equality in MOB 

2021-01-25 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

うがい手洗いは日本人が習慣として当たり前にやっているが、私の推測では習慣的にうがいをするのは日本人だけである。確かに英語でもgargleと言う言葉は存在するが、しかし予防として集団で行う事例は報告されていないし、健康な外国人に「うがい」をしているかと聞いても、ほとんどしたことがないという答が返ってくる。さらに人前でガラガラと音を立て、その水をペッと吐き出すのは行儀が悪いと受け取られることもあるようで、うがいは日本人のように学校で教えるような身近なものではなく、西洋でうがいはほぼ医療的な行為にあたると思う。さらにお隣の国韓国はと言うと、厳密に言えば韓国語には「うがい」と言う言葉はない。이블 헹구다( 口をすすぐ)가글 하다 가글(gargle)하다(する)をつけ足したもので、これはほぼ外来語である。うがいは古事記や日本書紀に記されているようだが、日本人は古来から病気の予防をしっかりと習慣的に行ってきたようである。

話は語学の話になるが、スポーツ指導者は語学をなめたらだめ、今の時代はうちのようなスポーツクラブにも最低ひとりでも英語が話せる人間が必要である。情報が不可欠になってきた時代、英語が理解できないととりのこされる。
私から見たら日本の監督は競技者を一人前の人間として扱っていないように見える。競技者を子ども扱いすることでうまく手なづけて、彼ら彼女らなりにまとめようとする、よくいう監督がお父さんで競技者が子供たちである。監督は競技者をあの子扱いし親のようにふるまう、そこで親でも言わないようなことを平気で言ったり、時には権威を振りかざすために親の前でたわいもないことで注意する、未だちょっとしたことでけったり、こついたり暴言をはく人間がいるようだが、おしめをかえてもらったわけでもないような人間になぜここまで上下関係をはっきりさせられて偉そうに言われなくてはならないのか理解できない。日本を離れてみたらこういう構造がいかにくだらないかということがよくわかる、こういう中で競技者が本当に生き生きと競技できるはずはない、私だったら間違いなくF〇ckだ、なぜ共通語がはなせないような時代遅れの人間に偉そうに言われなくてはならないのか。しかしよくいるのがそういう狭い世界の中でも自分たちは自由にやっていると錯覚している人間、しかしもしそこに自由や生きがいを感じていたらそのシステムがすべてだと思い込まされて半ば洗脳されている、大事なことはもっと広い世界に出て行って、他国の監督やコーチが競技者にどう接しているかと言うことを学んで、考えること、そのために共通語は不可欠である。欧米人と日本人の自由のとらえかたは違う、日本人の自由は管理や支配の下での何かをゆるされる自由であるが、欧米人の自由はもともと人間が持っているもの、我々は誰かに支配されることでスポーツを競技するのではなくて、スポーツをする権利は誰にでもある、大事なことは我々はスポーツをする権利があって、その権利をおびやかされたり、何ら否定される必要はない、堂々と自分の権利を主張して競技すればいいのだ。うちのクラブの平等は、ここに来てくれているすべての人がスポーツをする権利があると言うことを基本にしている。健康維持やダイエットの人たちすべてがここでは同じ会員、すべての人があほな人間関係や師弟関係にとらわれずにここではボクシングを楽しむ権利がある。その上での平等であり、大いに楽しんでほしいと思っている。

私が競技した国では日本のように監督やコーチが競技者に教えに行くというようなことはない、さらにこれができないとかいっておこられたり、ののしられたりすることもない、ただ競技者が行きづまったり、聞きたいことがあれば積極的に監督やコーチに聞きに行けた。そして監督やコーチも日本のようにこれでもかというぐらい権威を示していたこともなく、気軽に聞きに行けたと思う。



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sein und zeit((存在と時間)から

2021-01-22 | Weblog
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うちの子供が小学生の時、冗談ぽく、医学や化学が進歩する中、クローン技術などをもって人間は永遠に生きることが可能になるんじゃないかと言ってきた。すかさず「君は永遠に生きたいのか?」と聞いたら「えっ」と言うので、私は「俺は永遠に生きるなんて言う退屈な生き方はしたくない。人間にとって時間が永遠ではなく限られたものであるとわかるから思い切り生きることができるんだ。だからただ永遠に生きるなんてつまらないことだ。自分にとって今この時が自分に与えられた時間だ、この時間を自分だけに与えられた貴重な時間として生きるからこそ生きることの意味がある。だからこの世は永遠ではないということを受け入れることは人間らしい覚悟だ。」と言った。

ハイデガーは世界をザインとザインデスと言う言葉にわけた。ザインというのは存在そのもの、そしてザインデスは存在者と言う意味だ。人間は存在者である。存在者であるということは、人間だけがここに存在していることを認識しているから時間の感覚が持てる特別な存在であると言うことだ。ウサギや犬は時間の感覚を持たないのはただそこに存在しているからだ。
人間が時間の無駄と感じるのはただ存在しているのではなく、その存在そのものを認識できる存在者だからだ。そう考えると人間だけが時間の感覚を持ち、それをどう生かすは人間次第であるということが言える。彼はその著書「sein und zeit((存在と時間)」の中で時間は我々の外側を無関係に流れているのではなく、人間にはあるべき未来を目指す未来と自分がひきうけなくてはならない過去が存在すると言っている。ザインデスである人間だけが時間の感覚をもつことができるのは、それは時間はただ流れるものではなく自分にとって与えられたものだからだということを知っているからだ。時間と言うのは平等に与えられる。それを巻き戻すことはできないし、かといって早回しする必要もないだろうが、しかし我々はその与えられた時間時間を大切に有効に使うことができる権利と特権があたえられているのだ。引き受けなくてはならない過去の時間を巻き戻して未来の時間を浪費するよりもこれから始まろうとする時間を大切に有効的に使うことで、人間はよりよく生きることができる。
確かにハイデガーによれば人間は死に向かう存在であるが、しかしその与えられた時間を有効的に自分のために使うことができるのが人間で、そこに人間を人間たらしめるものがあるのだと思う。
 

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Concordia res parvae crescunt 俺についてこいではない

2021-01-19 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

今日もジムはみなさんがマスク着用でトレーニングしてくれている。自分が感染しないと言うこともそうだが、うちのクラブの人たちは相手のことも考えて、もし自分がもっていて相手にうつしてしまったらと言う視点でマスクを着用してくれているので安心してトレーニングできる。
私はジムを一つの組織として考えている。しかし組織と言っても日本の運動系にありがちな俺についてこいの世界でない、役割を担える人たちひとりびとりがここで生かされて機能するコミュニティ、私はそういうコミュニティを目指している。そしてそのことにおいて大事なことはひとりびとりを認めて、尊敬するということ、そしてこれが一番大事なことなのだが、そこにどういう人たちが集まっているかと言うことだ。
よく私はボクシング自慢や武勇伝をする人間はうちのクラブには来てほしくないと言うことをはっきりと言っているが、そういうことでアドバンテージをとりたがる人間は常に自分が一番でないと気がすまない、人よりも常に優位に立ちたいと言う気持ちがある、勝てないと自信がもてないので、教えていても常に何かで人と比べて勝ちたがる、そういうコンプレックスむき出しの人間が教えたりすると一般の会員の人の害になるからである。
事実そういう話しをするような人間がボクシングをするのは自分たちのゆがんだ欲求を満たすことでもある。コンプレックスがあったり、いじめられていたり、そういう人間が何かをかえれるということを信じてこの特別なスポーツを競技するのではないかと思っているが、自慢話や武勇伝、人とすぐに競って勝ちたがるような人間ははっきり言って未熟、そういう未熟でややこしいしょうむない意地を持った人間が集まると非常にやっかいである。確かにそういう人たちがこのスポーツをして、何かそこから克服できるきっかけをつくることは大事なことで、それはそれでいいことである。しかし世界が狭いとそういう奴らが固まって独特の価値観で独特の世界をつくりあげてしまい、自分のやってきたことだけが正しいと錯覚して、そのようにふるまうことが一般社会との不調和を生み出す、ジムと言う場所はともすればそういう世界をつくりあげてしまう、だからそういう輩を集めないと言う意味で、そこにはどういう人たちが集まっているかと言うことは大事なことである。

何でもスポーツにたとえたり、自己啓発的な話しかできないような人間が親玉だと、そこに集まってくるのはたかだか知れている。大事なことはジムは公共の場である。いろんな人が利用するのだから一般レベルではなくそれ以上の知的レベルが管理者には求められると言うことで、ある程度そのレベルに合わせて話ができないと本当にその人を理解し、尊重できないと言うことである。
ジムにはDrや法律の専門家、さらに大学関係で教えているスペシャリストも在籍しているが、そういう人たちは場合によってはジムを運営していく上では非常に重要な人たちであり、少なくともしっかりと対話できないとジムでどう協力してもらえるかと言うことが見えてこない、肉体労働的なことはロボットができるようになってきた時代、これからは日本人の知的レベルもあがってくる、スポーツと言えど管理する側も健全なコミュニティを形成したければ高い知的レベルが求められるようになると考えているが、事実そうしなければそのコミュニティを生かすことはできないと思っている。面倒見がいいとか、俺についてこい程度では一部の人間しか動かすことはできない、そういう発想しかできないから派閥ができる、大事なのはあの人のためならと言う個人的つながりではなくて、自分はこのコミュニティで何が協力できるかと言う奉仕的な気持ちで、そういう気持ちをおこさせるためのコミュニティでなければならないと思っている。

理想としては親玉がいない、コモンセンスがある、ひとりびとりが生き生きと機能するような組織をつくることが、平等でみなさんが楽しく自由に活動できるコミュニティだと信じている。
うちのクラブに来たらわかるが、まず親玉らしき人間がいない。この人には気をつかなくてはいけないと言う人もいないし、OBみたいなやつらが来ていばりちらして、特別感を出して帰っていくという不快なこともなければ、DQNが集まって武勇伝ややんちゃ自慢をベラベラと話しているようなことはない。
私の理想では、縦の関係ではなく、横のつながり、頼られたら力を誇示して解決すると言うことではない、面倒見がいいとかではなくて、的確なアドバイスを与えて自分でやらせる、そういう関係が人を成長させ自分も成長するのだろうと思う。




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ショパンノクターンOP9-2

2021-01-16 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

私はトレーニングの後には必ずクラシックを聴いていた、特に聴いていたのがショパンのノクターンそしてベートーベンのムーンライトソナタ1stである。クラッシックを聴いたきっかけは友人のジウンが弾いているのを聴いていた時に「あっこの曲なぜか心が落ち着く」と思ったからで、その時彼女が弾いていたのがショパンのノクターンOP9-2、以来心を落ち着けるためにトレーニングがおわると必ず聴いていた。

実際私はこれらの曲を今でいうところのルーティーンにこのことを繰り返し聴いていたのだが、トレーニングの後にクラシックを聴く=心が落ち着くと言う条件ができ、試合の前に聴くとなぜか落ち着くことができ、リラックスして試合に臨めたことは確かなことだ。私の経験上試合前に心が安定していると言うことは試合をする上では非常に大事なことだ。心が安定していたらトレーニングでやっているパンチがうてるし、その通りに動くことができる、そしてインターバルもセコンドの声をしっかりと聞くことができるので次のラウンドはどうすべきかということが見えてくる。私のような才能がない人間はセコンドのアドバイスが重要である、緊張したり、カリカリしていたらセコンドとの波長が合わないし、アドバイスも生きてこない、競技者が落ち着いてセコンドのアドバイス聞いて、最大限に利用できることがそのチームにおける最大の力が出せる状態であると信じている。

おそらくたいていの競技者はこの緊張や不安との戦いだ、正直しょぼい試合で勝ったぐらいの私が言うのもなんだが、私は才能がない、たいした人間ではない、そのレベルの人間だが十分に自分の実力を試合で出せたのはリラックスできて心を安定させることができたからだ。
最初はここに来て箸にも棒にもかからない、闘争本能だけはいっちょ前の3流以下のボクシング競技者であった。けれども意味のあるトレーニングをコツコツと積んで、そして最大のパフォーマンスが発揮できるようにとリラックスするためのトレーニングをすることで、思った以上のパフォーマンスが発揮できた。私はすべての人が試合ではすごく緊張すると思っている。正直言ってそういう人に自信をつけるために練習しろなんて言うのは逆効果だ、練習よりもむしろ休むこと、力をぬくことが大事である。日本人は練習のしすぎでリラックスするのが下手な民族だ、しかし練習ばかりで力をぬくことができないとスランプになったり、今でいうところのイップスになるのだ。クラブでも練習、練習と練習することがスポーツの美徳だと思い込まされてはいないだろうか、みんなが練習しているのに自分だけ休むわけにはいかないと疲れた体をひきずって練習に行く必要はない、日本はクラブによっては下級生に雑用させたり、監督を皇帝のようにあがめて、軍隊のようなきびきびした動作を求めるようなところもあるらしいが、そんな無駄な動力をなぜ使わなくてはならないのか不思議だ。もしそのコミュニティがそのようなことを求めるようであるならば、はっきり言ってその集団はあほすぎる、なぜ未だこういう人権を無視したことがまかりとおるのか不思議でならない。

私の監督はきちんとクルーを決めてその間は思い切りトレーニングして、次は休む、そして体調がすぐれなかったり、しんどそうな人間には休めと言っていたが、私はスポーツにおいては動くことよりも休むことの方が大事だと思っている、そしてこれは特に日本人に言えることだ。
偉そうに言うが監督の仕事は勝負に勝つために練習させることではなく、競技者を管理することだ。練習させるよりも競技者がスポーツがいやになったり、けがをさせたりしないように注意深く管理して、気持ちよく試合に出させてあげるのが大事なことだと私は思っている。リラックスさせることは難しいことだが、スポーツにおいて重要なことだ、パフォーマンスを最大にひきだしたかったら、まずけがをしない、させない、そしてみんながリラックスできる安心した雰囲気をつくることだろう。


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It's bugging me!

2021-01-13 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

「言っていることが結果的にでたらめかうそ」
悪い人でもないのだろうが、言っていることが結果的にでたらめかうそになる人間、言うことも正論を言っているようだが、しかしまわりが納得していない。こういう人間はたいした知識もなく、あいてを丸め込むような言い方をしてくるのだが、誠実な人は寡黙である。たいした教養もないのにわかったようにべらべらとまくしたてる人間は信じて結果的にはいいことはないので、相手にしない方が懸命だ。

「知っていると言うことでマウントをとる人間」
知っていると言うことが賢いことだと思い、それでマウントをとろうとする人間、本当にうざい。こういう人間のソースは往々にして漫画かテレビ、その程度の内容でも知っていると言うことをちけひらかして、俺は賢いんだと勘違い。でもそういう知っていると言うことをちけひらかすだけでは話につながりがないし、おもしろくもない。本当に賢い人は思考できるから話がおもしろく、興味がもてるのであって、ただ知っていると言うことを言うだけなら子供でもできる。大事なのは思考する能力、知識をたくさん蓄えて、思考して話をするからこそためになる面白いはなしができる。ただ知っていると言うことをいうのとはまったく違う。思考すると言うことは大事なことだ、それが正しいかどうか、適切か不適切かと言うのは思考するからこそわかることであって、それは人間の質を問う上でも大事なことだ。

「みんながみんなそうじゃないと言う人間」
人間は社会的動物である。ゆえに基準と言うものを持って生きている。ド派手な格好で改造車にのって武勇伝でマウントをとろうとする人間にろくな人間はいないと言ったらみんながみんなそうじゃないのではなくて、大事なのは正しさの基準を持っているかどうかということだ。そのコミュニティによって違いはあるのだろうが、集団生活をする限り必ずそこには基準があって、ルールがある。うちのクラブに来たらわかるが、そういう類の人間はほぼいない。それはここに集まるみなさんが正しさの基準を持っているからだ。
どういう人が集まっているかと言うこと=そのクラブの質である。私はうさんくさい集団はグレーゾーンが多いと理解しているが、特にボクシングと言うスポーツは暴力をあつかっているのだから、何が暴力でやってはいけないことかということをはっきりさせる必要があると思っているが、そこをしっかりとさせなくては一般の人たちや女性がトレーニングしにくくなる。
うちではマスボクシングで一発あたって敵意むき出しでなぐりかかっていくのは暴力である。いいところをみせようと自分よりも実力がない人間をスパーリングと称していたぶるような行為はいじめ、そして格闘技でよくある生意気な人間をスパーリングでボコボコにするのは暴力、犯罪である。さらに裸でトレーニングするのはわいせつ行為だ、裸でトレーニングしても私は気にしないと言う女性もいるが、しかし我々はむしろ男性が裸でトレーニングすることに威圧感を感じる人の立場に立つ、私はまずこのコミュニティを平和で健全に保つためにはまず暴力的なことを徹底して排除する、そしてそのためにはしっかりとした哲学を持たなくてはならないと思っている。しっかりとした哲学をもてばきちんとした人たちが集まってくる。そして結果的に秩序が保たれてまわりの人間も安心してトレーニングできる。張り子の虎のような威厳やアホなルールでそのコミュニティを運営するのは愚かなこと、そういう群れにはそれなりの人間しか集まってこない、大人が集まってくるコミュニティを形成するにはしっかりとした考え方を持って、これはおかしいだめだというしっかりとした正しさの基準を持つことが必要だと思っている。





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Nullus est instar domus(我が家にまさる所なし)

2021-01-10 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

私のモットーでもあるラテン語の言葉を引用させていただいたわけですが、家と言うのは自分の居場所、そしてこれは世界各国共通であると思います。話は大学の話になりますが秋田に国際教養大学と言う大学があります。この学校には世界各国から留学生が集まって勉強しているわけですが、生徒は最初の一年間は寮生活をすることを義務付けられています。寮生活とは言ってもそこには世界各国から様々な人たちが集まってくるのですからお互いの文化や習慣も違う、そういう中で違いを認めて受け入れあって交流を深めるのがこの寮生活の趣旨ではないかと思います。うちのクラブも集まってくる人たちも外国人も在籍していますし、性別や年齢職業は様々で、ボクシングをはじめた目的もそれぞれ違います。
競技者としてではなく、ダイエット目的の人もいるし、健康維持として趣味ではじめたと言う人もいるでしょう、しかし目的が違っていてもお互いを尊重し合い、誰にも気兼ねすることなくトレーニングできる場としてこの場を提供することを心がけ、そしてそのためにはボクシングが競技者と言う枠をこえて、健康維持やダイエットの人たちのトレーニングであることも十分に理解し、たかだかダイエットとか健康維持ぐらいなどと言う理解は絶対しない、すべての人にはボクシングを楽しむ権利があると言うことを前提にコミュニティづくりをして行きたいと思っています。
私はハワイと言う異国でボクシングを競技したわけですが、ハワイは土地柄バイレイシャルやマルチレイシャルが多い州です。私自身バイレイシャルであることに劣等感を感じていたわけですが、しかしボクシングと言うスポーツはマイノリティーが生き生きと競技しているスポーツで、そこには何のわけへだてもない、自分の居場所があったわけですが、私がクラブを家と言うのはまさに私のこう言った経験からです。

そして私が一番問題にしているのは、そのコミュニティにはどういう人たちが集まってトレーニングしているかということです。指導者の知的レベルや言葉の質がひくければ、それと同じようなレベルか、それ以下の人間が集まってくる、そしてそういう人たちが集まってくだらないヒエラルキーや上下関係でき仲間意識が芽生えても、それは決して健全なコミュニティではないと思います。うちのクラブの会員の人たちは比較的まじめに学校生活を送ってきた人たちが多いです、私が思うのはある程度自由が認められた中で常識的な行動ができる人は学校生活とは無関係ではないと言うことです。ボクシングのようにはげしい運動量を要するスポーツはマスクをしてトレーニングしたいなどとは思わないでしょう、けれどもみなさんマスクを購入してくださって、協力をお願いした週末には全員がマスクを着用してくださったのですが、彼ら彼女らはやってはいけないことはしない、そして必要なことをきちんと理解してやってくれる、私は特別な場合をのぞいては学校で自分の好きなことしかやってこなかった、いわゆるDQNややんちゃですとのまじめに生きてきた人たちとの差がここにあると思っていますし、やはりまじめな人たちが集まる方がジムは健全い保たれ管理しやすいと思います。もちろんそういう人たちがここに来て協力してくれているのですから、私自身もみなさんをリスペクトし、そしてここに来て我が家のように何の気がねなく楽しく、堂々とトレーニングできるようにしなくてはいけません。そのためにはいろいろなことを学び、しっかりと管理することが私の仕事だと思っています。


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民族教育は大事か

2021-01-07 | Weblog
ボクサーのイレズミが話題になっているけど、私が面白いと思うのは外国の文化をあげつらって文化だから認めるべきだと言う意見だ。確かにハワイも海洋民族がイニシエーション的にイレズミを入れたりする文化は存在する。でもそれは他民族の文化であって、我々はまず自分たちの文化ではそのイレズミをどうとらえてきたのかということを考えなくてはならないだろう。
私自身はボクシングのルールに関して少し偏りがあると感じている。例をあげるとアマチュアボクシングのルールではひげをのばしたままで試合をしてはならないというルールがある。しかしユダヤやイスラムではひげをそってはいけないと言う宗教の戒律があってそれをかたくなに守り続けている人たちもいる。ひげをのばしたままで試合ができないというのはまさにそういう民族を排除していることになる。さらに前髪の規定も東洋人は髪の毛が固くて失明の危険があるからだそうで、西洋人はこういうものの見方で東洋人を見ているようだが、スポーツにおいても偏見や差別が存在しているのだと疑わざるを得ない。こういったルールはどこから出てきたのかはわからないが、私が思うに国際社会は言ったもんがちの世界だ、マイノリティとか言うけれどそのマイノリティの意見がどれだけ強いか、とにかく言ったもん勝ち、それはスポーツにおいても言えることだが、どうしてもディベーティングができない東洋人は不利、とりのこされてしまうのだ。日本人は徹底的して受け身だ、日韓問題に関しても散々やられてめちゃくちゃにされて相手が徹底的に間違っていると言うところまでこなければ反撃しない、できない、だから問題がこじれるのだ。
国際社会では歴史認識と文化そして宗教を理解することは大事なことだと思う。そういう歴史的文化を理解しつつ自分たちの立場を主張することは大事なことだ。文化や宗教はデリケートな問題である、お前ら俺たちの文化を否定するのかとか、宗教を冒涜するのかと言う意見は不可侵な問題だけに、その部分については理解されやすい問題だと思っているが、日本人は自分たちの守るべき領域を持っていない、ここが弱いから国際社会で意見が言えないのではないかと思っている。英語もそうだが、民族教育は重要で、信教の自由を認めた上で、神道を理解し、他民族の宗教や文化を知ることは必要なことだと思う。
イレズミの問題も大いに議論すべきことだ、ひくとかひかないとか子供じみたことではなくて、文化的、民族的な背景、そしてスポーツの目的などを考えた上で自分たちの立場をはっきりとさせる必要があると思う。


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