脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

20年ぐらい前の空港で

2007-12-28 | Weblog
20年ぐらい前の話、帰国の時となり空港にGFは見送り来てくれた。
私は劇的な別れを想像していたが、意外にもあっさりしていた。
少し話をして彼女は用事があるのでかえると言って「ばいばい、手紙ちょうだいね」とその場をさってしまった「あっこんなもんか」と思えばそれほどしんどくはなく、自分もそこで別れる決心ができた。
日本には偕老同穴ということばがある。
これは年をとって死んでも同じ墓にはいるという夫婦の絆をあらわしたものだが、韓国にはこれとは逆に年をとって死んでしまったら寂しい思いをするので、年をとればわざと冷たくするということわざがある。
東洋人の愛は奥ゆかしい。
だから切なさも大きい。
私はYANGPAの「SARUNG」を聞くたびに思い出す。
「マウム」心「カスム」胸がという言葉に切なさを感じてしまう。

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ES IST GUT

2007-12-26 | Weblog
「ES IST GUT」すべて良し、カントが死ぬ前に自分の人生を振り返って言った言葉であると言われている。
12月もあとのこすところ、もうすぐ2008年の新しい歩みがはじまろうとしている。
MTオリーブを設立したのはボクシングを通して喜びを感じてもらえるようになるためである。
「ボクシングをやって楽しいです。おもしろい」と言われることは我々にとってうれしいことであり、そう言ってもらえることが次の仕事への活力につながる。
しかしはたして2007年は本当に満足してもらえただろうか。
いろんな反省をふまえながら2008年も人に喜ばれる「癒しの場」としてのボクシングクラブづくりを目指して歩んで行きたいと思っている。

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ボクシング共同体

2007-12-25 | Weblog
ボクシングクラブを開設して、時々思うことがある。
それは助け合いの精神である。
その精神が日本人は私がボクシングを学んだ国よりもしっかりしている。
特に練習生が教えあっていることには驚いた。
向こうだったら自分が苦労して習得した技術を簡単には人には教えない、当たり前だいつライバルになるかわからない人間に、そんなことを教えること自体がおかしいと、しかしそれを日本という国はいとも簡単にやってしまう。
よくクラブ生ができない人を親切に指導しているがているが、こんなことは向こうではありえない。
しかも自分の時間をとめて教えているではないか。
私はある意味日本人ほど助け合いの精神を持った民族はいなし、コミュニティーを大切にする民族はいないだろうと思う。
練習を休めばどうしてるんだろうかと、心配し、試合に出る者がいればみんなでその人を応援する。
この前ボクシングの技術的なことやコーティングの仕方などはアメリカに比べたら
遅れていると言ったが、改めて日本人には日本人なりのよさがあることがわかった。
アメリカは個人主義である、だから彼らには彼らのボクシングの習得法があると思う。
それに比べて日本人はこのコミュニティーというものを通して成長し、学ぶ民族である。
人とのふれあい、人との出会いがその人の成長を大きく変える言わば精神的な影響のきわめて大きい民族である。
最近欧米のスタイルにこだわりすぎるきらいがあるが、しかし日本人には日本人のスタイルがある。
私はこのボクシングコミュニティーをどう形成していくことが、日本人にとって重要なことだと思っている。言い換えれば全体をどうつかって練習していくことが大事なことだと思っている。

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サラン

2007-12-22 | Weblog
私の好きなシンガーにヤンパという韓国人シンガーがいる。
彼女はバークレイ大学在学中という本格派のシンガーで、彼女の音楽はクラッシックと演歌のフュージョンのような感じでとても気に入って聞いている。
最近「sarang kewdeh mwondeh」Love what is thatという曲をリリースした。「sarang 」とは韓国語で「愛」という意味である。
このヤンパの「SARANG」という歌も私が言っているクラッシックと演歌をフュージョンしたような曲で心にしみいるようなメロディなのでKPOPの好きな人におすすめしたい。
ヤンパの歌は女性の切ない愛を歌った曲が多い、聞いてて心にジーンとしみいるのもそのせいだろうか。そしてヤンパに限らず韓国人の女性シンガーの歌は切ない愛を歌った歌が多く「こんなにも私は思っているのにこの思いをどう伝えていいのだろうか」といったそんな感じの歌が多いように思える。
韓国思想に「怨」(wong)というのがある。日本語では怨というと何か怨念みたいな感じがして、あまりいい言葉ではないように思えるが、しかしこの「怨」という言葉を日本人はきちんと理解していないらしい。
もともと「怨」とは日本人が考えるような物騒な言葉ではないそうである。
韓国人のシンガーが表すように自分では伝えたいんだけれどもそれをどう伝えていいかわからない、伝わらないそのもどかしい気持ちが「WONG」であるそうだ。
私たちの日常においてもそういう気持ちはたくさんある。
ある意味韓国人の「怨」という発想は一面的ではあるが人間の愛のかたちを表したものかも知れない。
西洋人の愛はダイレクトである。
スペイン語のI love youは「お前が欲しい」であるがここまで来ればそれはもう肉欲的なもので、決してこのラブソングの意味を理解できないだろうと思う。
しかし我々東洋人の考える「愛」は情や心が支配する愛である。
だからこそ複雑であり、言葉にあらわすこといができない、その気持ちを表す表現としてラブソングがあり、多くの共感を得ている。



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STAY GOLD

2007-12-21 | Weblog
「ボクサーは勝って引退するのは失礼だ」と言った人がいた。
20年ぐらい前のこと私も試合に負けて引退を余儀なくされた。
そうHIトーナメント決勝である。
コーチに言わせてみればボクシングは才能がものをいうスポーツらしい、だから才能のない人間はいくらがんばってもそれ上にはなれないらしく、私の能力もこれが限界であることを悟った。
しかし彼は続けて言う「それでもお前を心から尊敬している。よくやった」と。
この言葉は私にとってたいへんうれしい言葉であった。
夢を持ってここへ来たが現実にぶつかり、自分の才能に気づかされ引退しようとする人間をこころからねぎらい、認めてくれた。
このとき本当に自分はボクシングをやってよかったと思った。大げさかもしれないが生きててよかったとさえ思える言葉であった。
20年ぐらい前の12月22日の出来事である。
MTオリーブのボクシングはただ勝つためのボクシングではない。
自分が喜ぶためのボクシングである。
だからすべての「練習」「試合」「出来事」「体験」は自分の人生のアルバムにきざみつけるためのものであり、自分が精一杯やったというあかしである。
才能なんて関係ない、ただ自分を喜ぶためにそれぞれの目標に向かって、たとえそれが達成できなかっても、その軌跡をコーチのように受けとめるようにしたい。
がんばって練習したことがのちに大きな喜びとなるように。

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がんばれ

2007-12-19 | Weblog
「Day by day in everyway we are getting better and better」 この言葉は前のブログで紹介したが、野球でレギュラーになれないにもかかわらず、がんばるルキミヤの少年が、それでも野球をやるのかと言われ語った言葉である。
少し昔ある評論家が「最近の子どもはがんばりすぎている、だからあまりがんばれということばを不用意に使うのではない」と言ったことを覚えている。
そして巷もそういう子ども達が疲れ果てて犯罪を犯したり、自殺したりするのを見て「がんばれ」と言う言葉を極力使わなくなった。
しかし「がんばれ」という言葉は大事な言葉である。
「がんばれ」と言う言葉にうながされて、犠牲となった子どものたいていは、塾や習い事を半ば強制的にやらされていた子ども達ではないだろうか。
だから巷にむけて「がんばれ」と言わない方がいいというのはおかしい話であり、もし気遣ってことばをかけようとしたならば「余計なことはやらなくていい」ではないだろうか。
人間は成長する生き物である。特に十代の成長は精神的にも肉体的にもめざましいものがあるということをボクシングを通じて実感している。
「がんばれ」というのは、本来決して上から檄をいれて、何かをさそうという言葉ではない「がんばれ」という言葉は、何かを一生懸命しようとする子ども達を励まし、ひきあげてあげる言葉で、その子どもの成長にむけて語られる言葉であると思う。
だから指導者はどんな小さな成長、進歩をも見逃さず、そのこどもたちの進歩にむけて「がんばれ」と励ましの言葉をかけなくてはならないと思っている。

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いじめを構造主義的に見る

2007-12-18 | Weblog
「暴力と聖なるもの」というルネ・ジラールが書いた本がある。流し読みの段階で恐縮であるが、ジラールは人間の社会や文化の起源を「いけにえ」というかたちに見る。
そしてその「いけにえ」が人間の緊張や対立をやわらげるという。
戦争が起こるのは、内部のたまっているフラストレーションを外敵をつくることによって押さえるためであり、ホロコーストや人種差別というのもある種のいけにえであり、その繰り返しによって人間は一時的な平和と保ってきたというのだ。
これは一見いじめを肯定するような意見であり、いじめというのは当然起こることであると言っているように聞こえる。
しかし日本のいじめというのはジラール的に言えば「いけにえ」であるのだ。
彼の人間社会にたいする洞察力はするどい。
何が鋭いかというと、人種差別や戦争をただ倫理的、道徳的にとらえるのではなく構造的に鋭い目で見抜き、それらを「いけにえ」というかたちで問題提起をしているところである。
日本ではいまだいじめという愚かなことをする人間が数多くいる。
しかしこのいじめに対して、道徳性や倫理性をもって感情的に訴えるだけでは何も解決しないのではないだろうか。
まだジラールを熟読していない段階でこういうのは何だが、我々も彼のように人間社会の本質を見抜き、いじめが人間性の根本であると考える必要がある。



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得手、不得手

2007-12-17 | Weblog
年末になり巷は忙しくなってきた。それでも会員の人たちはその忙しさの合間をぬって練習に来てくれるので感謝している。
最近練習を見ていて思うことがある。
それは人間得て不得手があって得意分野をひろげると意外に不得手な部分がそうでもなくなるということである。
これは理屈で言えば当たり前のことだ、しかし教える側からすればどうしてもできないところのいこだわり、それを克服することが第一だと考えてしまう。
誰でも得て不得手がある。
しかし不得手を克服するのではなく、得ても見つけて改善していくことが大事だと思う。
たとえばワンツーがうまく打てないときはフックをうたせる。基本のワンツーがうてないのにフックがと思うが、意外にもフックだけであるならば、うまくうつ人もいるもので、そうすればワンツーの戻りがよくわかり、ある程度改善できるものである。
練習を見ていると時々自分の練習に首をかしげている人がいる。
しかしそこで立ち止まって固執するよりもできることに目をむけて自分の不得手を改善していく方法もある。
そのためトレーナーは注意深く練習生を見ていなければならない。

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出会い

2007-12-13 | Weblog
12月15日私の恩師がハワイから来られる。
ハワイと言っても日系人であるが、毎年1度ぐらいこの高知にはるばる来てくださる。
この先生、名前はあかさないが、実はむこうの日系社会では少し名の知れた人である。ロバート・キヨサキ程ではないが、それでもちっとは名が知れているらしく、私のたいへん尊敬する人物でもあり、せがれの雄人の雄という字はこの先生の名前の一字をとってつけた名前である。
特に私が尊敬する理由は先生のガッツである。
「武士は食わねど高楊枝」ということばがあるが、どんなにつらい時も決して弱音をはかず、つらいときにこそ笑うそういう精神の持ち主であり、そういう姿をいくどなく見てきたが、元来日本人がもっている根性とねばりを私に教えてくれた人物でもある。
今昔にくらべて根性という言葉をつかわなくなった。
むやみに人を傷つける根性論は弊害であるが、しかし今こういう言葉をつかわなくなった分、弱く、傷つくことをすぐに表に出す人間が増えてきているのではないだろうか。
私が40年以上生きてきて思うことは人生は戦いであり、戦わなくては生きてはいけないということであるが、人間とはそういう宿命を背負っている。
けれどもその戦い方を教えてくれる場所はない。
教えてくれないから自分で学ばなくてはならない、それが人生なのだ。
私はこの人生の師である先生から根性と粘り、そしてどんなときもあきらめず、苦しいときにこそ笑う余裕を学んだ。
人生とは戦いである。しかし学校はそんなことを教える場ではない。
大切なのは人との出会いである。
実は自分の人生の中で、この出会いを通して大切なことを学ぶことが多く、たくさんの人の出会いの中で、私のように大きなかけがえのないものを学ぶことができるのである。
一期一会と言う言葉があるが、特に若いうちはこの人との出会いが大切であり、その出会う人によって自分が大きく変えられるチャンスがあるということを知って欲しい。



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クリスマスツリー

2007-12-12 | Weblog
もうすぐクリスマスがやってくる。
海外に友人がいる人間にとってはクリスマスカードを送らなくてはならない時期で、私も今日ちょうどクリスマスカードを書き終えたところである。
クリスマスの過ごし方は欧米と日本ではかなり違う。
そもそもクリスマスはキリスト教徒だけのためのものであり、メリークリスマスはキリスト教徒にのみ使われる言葉でクリスマスも家族と一緒に教会へ行ったりして過ごすのがホントの過ごし方らしい。
みなさんはクリスマスツリーがもつもう一つの意味を知っているだろうか。
ツリーと言えば、デコレーションを飾ってクリスマスを迎える日本で言うところの門松みたいなものであるが、しかし実はもうひとつの役割があるのである。
ハワイでは朝クリスマスの日、子どもが起きるとクリスマスツリーのところへ行く、そして何をするかというと、その前の夜におかれているプレゼントを子どもがとりに行くらしく、向こうではプレゼントは、日本で知られているくつしたではなく、ツリーの下に置かれることもあるそうである。
我が家にもツリーがおかれている。
もちろん子どもにはクリスマスの朝プレゼントが置かれていることは伝えてある。

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