脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

オリーヴ宣言

2009-09-29 | Weblog
英語に「Declaration」という言葉がある。
これは日本語で「宣言」と言う言葉である。
日本人にとってこの言葉は、あまり馴染みのない言葉であるが、けれども政治や宗教に関心の高い欧米人にとっては実に馴染みのある言葉である。
この宣言と言う言葉、英語の辞書にこう記されている。
「a statement strongly expressing an idea or belief(of)」
すなわち宣言とは、その団体や宗教の考えや信念をはっきりと主張している声明文であり、しばしば独立宣言などにみられるように、それは欧米のの政治や宗教を牽引してきた歴史がある。
ボクシングクラブも団体である。だからこのクラブが何を考え、会員の人たちに、何を約束(提供)するかということを宣言することは、非常に大事なことで、そのことをはっきりしなくてはならないと思っている。
おおげさかもしれないがスポーツ団体と言うところは、いろいろな意味で影響を受けやすい場所であり、練習生に社会人が多くなった今日、そのレヴェルが問われる時代である。
レヴェルと言う言い方は失礼かもしれないが、しかし今日多くの社会人がボクシングクラブに来ている。だから中高生のクラブの延長ではなく、社会人のセンスや常識に合わせて、集団のレヴェルをもう少しあげる必要があるのではないだろうか。
そういう意味で自分たちのクラブが、何を考え、どういう取り組みで練習し、何を約束できるかということを宣言することは重要である。
特に何を約束、提供できるかと言うことによって自分たちは、小学生から社会人の立場に立ってものごとを考え、はかることができるからである。
ちなみに自分たちの宣言は充実感と平等である。
ここに来たひとりびとりが、このボクシングと言う競技を通して、充実感をもってもらえることを目指し、ひとりびとりを平等にあつかい、配慮するということである。




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型と日本人

2009-09-27 | Weblog
学生時代のコーチは医学か何かのドクターを持っていた。
彼はボクシングをしたことがないが、自分でボクシングを研究し、彼のセオリーは学生たちから強い信頼を得ていた。
そのコーチであるが、今考えるとすごいなーと思うのは、彼が助手か何かに頼んで自分たちのVCRをとって、後で自分たちにみせていたことである。
そこからいろいろ観察し、学ばされたが、このおかげで自分はずいぶん分析力がついたと思う。
今試合やスパーリングをVCRにとって研究するのは当たり前のことであるが、20年以上も前はプロでもあるまいし、そんなことは誰もしていなかったと思う。
もうこれは10年以上前の話であるが、私が向こうに行った時に、久しぶりにまた彼と会うことになった。
すると開口一番彼は「今度ハワイの選抜と日本の大学のチャンピオンが、親善試合をするのだが、日本人はどういうボクシングをしてくるのだ、私の選手も出るので、よければDisadvantageを教えてくれ」と言ってきた。
そういわれて困った。まず自分は日本人だ、こんなことを言っていいのかわるいのか、しかしそういうことを言われれば、それはとばかりに分析力を働かせて答えてしまうのが私である。
私が答えたのは「型」と「基本」であった。
日本人はボクシングを伝授する際にこの二つの過程をかならず通ってくる。
それは意識しているいないにかかわらず、日本人は「型」とか「基本」がすきな民族であり、そのことばにとらわれすぎている。
空手や柔道はある程度形式がある。
だから「型」というものが存在し、通用するのだが、しかしボクシングは、もともとストリートファイトから生まれたものなので、そういう形式的なものをもたず、型にはまらない自由さがある。わるく言えばいいかげんである。そこからしてボクシングに「型」や「基本」というものを定義して持ち込むのは無理がある。
彼は結構日本語が話せたのであるが、しかしこの言葉を聞いてあまりぴんとこなかったと思う。
おそらくUSAの英語ではこの「型」と言う言葉というか概念はないだろう。この言葉をあえて訳すならば「Basic form」であるが、USAの専門書にはそういう言葉がでてこないと思う。
自分がここに来て感じたことはリズムの違いである。
テンポがいいとか早いとかいうのではなく、彼ら彼女らは、それぞれ独特のリズムを持っているということである。しかしこれに対して日本人は明らかに一定のリズムを持っている。これが致命的な欠点である。
おそらく外国で試合をした人ならば、あれパンチがどこからでてくるのか分からないと戸惑い、このリズムの違いを感じたこともあると思うが、彼ら彼女らには「型」とかホントの意味での「基本」というものは存在しない。
とにかく速くうつ、強くうつことができれば、それが一番いいのである。
彼ら彼女らがそれぞれ違うリズムを持っているのは、実にこの点である。
日本人は、結果よりもまず方法を求めてしまう、それがいわゆる「型」や「基本」と言う存在である。
日本の選手はその「型」や「基本」を徹底してたたきこまれるがゆえに、たとえ強いパンチや早いパンチをうてても、方法は同じなので、そのリズムと言うものがある程度決まってしまうのである。
しかしUSAの選手は方法よりも結果である。どうパンチをうとうが、どうパンチをよけようが結果が良ければそれでいい、練習法もそれぞれ違う、だから全員が同じリズムをもたないのではないかと思う。
よく日本人はアメリカ人とリズムは違うと言うが、私はこの「型」や「基本」と言うものが非常にくせものであると思っている。
そもそも「型」や「基本」というものはあいまいな言葉である。
日本人はよく「基本にかえれ」といったらようわからんが納得するが、そういう「基本」とか「型」とか言うのに限って、それが何か定義しろと言ったら、できないんじゃないかと思っている。
しかしもしそれを定義するとしたら、パンチの打ち方や、ディフェンスを反復練習をくりかえすことによって、完璧なものにすることであろう。
しかしその繰り返しが同じリズムをつくりだすのである。
そして実際親善試合は行われ、ハワイ選抜の圧勝であったそうである。
おそらくこの勝利には彼の入れ知恵があったと思う。
自分のアドヴァイスが参考になったかどうかはわからないが、おそるべしコーチである。



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スポーツの今後

2009-09-25 | Weblog
この前練習生から自分はボクシングで、時々理系ということばをつかうが何か意味があるのかと聞かれた。
理系とか文系と言う言葉は便利な日本語である。一般的に数学や物理がとくいな人を理系といい、国語や、英語などが得意な人を文系であるが、実は私がこの言葉をあえてつかっていうことには意味がある。
少し前若い人からこういう提案と言うか、考えを聞かされた。
それは「強いチームに限って毎日毎日練習しているが、そんなに練習する必要がないんじゃないか、それだったら3日思いっきりやって、1日休むと言うサイクルでやったほうが効率がいいんじゃないのか」と言うことであるが、たいへんいい意見を聞かされたと思っている。
超回復という言葉がある。これは英語ではSuper compensationと言って、日本語ではCompensationを回復としているが、しかし正確には埋め合わせという意味で、この言葉が意味するのは、運動しただけ、それを補うために休まなければならないということである。
一般的に超回復が起こるのは、48時間から72時間程度とされるが、その間に筋肉は強くなるので、だいたい2、3日おきに練習をすれば効率よく鍛えられるというのである。
ここにあるデータがある。それは2週間に1度、週一度、週2度、週3度という練習を被験者にさせて、どの練習法が一番筋肉の強度が高まったかという実験のデーターであるが、このデ-タによると、週2度運動するのが、いちばん筋肉の強度があがることが著しく結果として出ているのであるが、まさにこのデータは2、3日おきの練習が一番効率よく運動できると言うことを示している。
この実験は超回復が、運動選手にとって、重要なものであるかと言うことを示したものであるが、このデータを見たら、練習のやりすぎと言うのは効率が悪く、逆に適度な休息が運動選手には必要であることがわかると思う。
データというのは非常に重要な結果を示している。
そのデータを軽んじて練習することは、現代スポーツにおいては致命的なことであるかもしれない。
われわれはこういったデータを無視して、感覚的なもので練習しているが、しかしこういうデータというものを重視しつつ、練習のスタイルや方法をかえていくことは、現代スポーツ学においては大事なことである。
私が理系型人間というのはこの点である。
理系型の人間は決してデータを軽視はしないであろう。
なぜなら彼ら彼女らにしてみれば、そのデータが実験や研究を繰り返して導き出されたものであるならば、真実であるからである。
近年スポーツ科学という学問が盛んになり、この日本でもかなりそのスポーツ科学的な見解を取り入れるようになってきた。
しかし読んでいてわかるが、この学問を理解するには、かなりの理系的な素地を要する。
日本語のものでも、そうであるが、英語の専門書になるとさらに難しく、解剖学や物理学的な考察が入るとかなり解読するのには難しい。
そしてさらにそれらは多くのデータというものを参考にしなければならず、そういう点でもおおまかに言って、理数系の人間はスポーツにむいていると言えるかもしれない。
これはこの前フックを教えてた時に思ったことであるが、意外とパンチと言うのはきちんとした「法則」と言うのをつくって、それを分解して教えたら人に教えやすいと思ったのだが、やはりこれらは影響はスポーツ科学の影響である。
私の勝手な解釈かもしれないが、今やスポーツは理数系である。理系的にものを考えると言うことは、スポーツを要領よく理解し、伝えることができるということである。われわれが目指すのはいわゆる理系型の効率を求めるボクシングである。
しかし私は典型的な文型である。がゆえにクラブのThink tank(ブレーイン)には理系の人間を入れている。








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守りのすすめ

2009-09-24 | Weblog
自分の愛読書は孫子の「兵法」である。
この書物は経営とか組織そして、指導をする者にはたいへん役に立つ書物であるので、ボクシングや格闘系のスポーツをやる大学生には必読の書である。
ちなみに自分が学生たちにすすめているのは、まずこの孫子の「兵法」、マキャベリ「リゥイゥス論」、クラウゼヴィッツ「戦争論」リデルハート「戦略論」そして最後に、人類の知的遺産といわれている「聖書」である。
この5つの書物は人間観察や、組織をどう形成していくかと言う上では非常にためになる書物なのでお勧めしたい。
さて話は孫子の兵法の話に戻るが、孫子の兵法は大まかに言えば、守りが基本にあるといってもよい。
孫子曰く基本的に戦力や、防御力は確実に、自分で高めていくことができるらしい、これに比べて攻めると言うことは、相手も同じく、戦力や防御力を高めているのだから、もし攻めるならば、相手の戦力や防御力をさらにうわまらないと勝てない、だから自軍の防御力を上げるほうが得策であるというわけである。
確かに湾岸戦争で有名になったシュワルツコフは、攻撃側は防御側の3倍の戦力がいると言うが、孫子の「兵法」に於いて負けないと言うのは、防御を徹底してしっかりさせることなのである。
この見解はいささか議論の余地があると思うが、ボクシングにおいてもその防御を徹底させるということは、負けないボクシングを確立させる条件であると思っている。
われわれはどちらかと言うと、守りより攻めの練習を多くしているような気がする。
実際パンチをうったりするのに、多くの時間をさき練習はするのだが、こと防御になると、せいぜいコンビネーションをうつ時か、マスボクシングの時ぐらいで、きちんとしたフォーメーションで実践的な練習をしてこなかったのである。
これはある練習生と話をした時に、彼が言っていたことであるが、外国のチャンピオンで非常にジャブのつかい方がうまい選手がいて、彼のボクシングはガードをしっかりかためて、左を多くつかって相手を倒すそうである。
自分もそういうボクシングをめざしたいんですと言っていたが、私はこの話を聞いたとき「へーっそんな選手いるの、でも左だけでたおせんのか」と半ば、それは特別な場合で、特別な選手だけだと言う感覚で言ったのだが、しかし今思えば、彼の着目点はすばらしいと思う。
防御と言うのは重要である。しかし防御だけでは勝てない。
だからこそ、リスクの低い左を強化し、防御力をあげていく練習をすれば、孫子の言っている負けない、そして勝ちにいけるボクシングが実現できるのではないかと思っている。
攻めるというのは実に難しい、力のいることである。だから攻めることばかり考えるよりも、守りということからボクシングを見てみるのもおもしろいのではないだろうか。







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Science

2009-09-21 | Weblog
最近スポーツの指導者は学ぶことを強く説いているが、なぜそういうことを言うかと言うと、実際そう感じさせられることが多いからである。
私は趣味が読書なので、よく本屋に行くのであるが、その時10年ぐらい前に比べてスポーツコーナーの本が、多くなっていることに気づく。
野球やサッカーはもちろんのことその他の競技、そして中でも変わってきたなあと思うのは、ダイエットや、スポーツ科学の本がおかれているということで、これは一般の人が、スポーツを競技者として行うことだけではなく、専門的に捉えて行こうと言う傾向が強くなったと思っている。
テキストもスポーツ関係なら英語のものでも、日本語のものの100倍ぐらいはあると思うのだが、カメラやその他の科学技術が進んだ現代、科学的にそのスポーツをとらえることが不可欠になったわけである。
この学問などが科学的に物事をとらえることを、前提としてなりたっているという傾向は英語によくあらわれている。
最近では英語で専攻を、時々○○Scienceという言葉がつくが、これはわれわれの時代にはあまり聞かなかったことである。
少し前ジムの上の部屋を貸していたアメリカ人のお父さんが、大学の先生だったので、大学で何を教えているのかと聞くと「Political Science」という答えがかえってきたのであるが、これは政治科学と言うのであろうか、なぜ政治に科学なのははわれわれの世代には不可解であろうが、しかしこの言葉にも表れているように、今やスポーツも科学的に物事をとらえることが前提となっている。
それがSports scienceスポーツ科学である。
今やスポーツはもちろんのこと、ダイエットなども時代とともに研究が繰り返され、考え方や方法など常に進歩している。
日本が水を飲んだらばてるなどという迷信を言っていた時代に、すでにスポーツドリンクやサプリメントなどを、スポーツ選手の管理と練習の効率のため使用していたアメリカに比べると、遅れている部分もあるが、それでも著しく日本はスポーツ心理学、生理学あるいは心理学と言う学問を通して進歩している。おそらくダイエットはスポーツ生理学といったところであろう。
その進歩にわれわれ指導者は、常にアンテナをはって、ついていかなくてはならない、スポーツの指導者に今求められているのは、物事を科学的に分析し、判断する能力である。
だからこそこういった学問を一生懸命学ばなくてはならないのである。
昔ボクシングのトレーナーでハルというのがいた。彼は医学か何かの博士号をもっていてなかなか優秀な人物であった。
この博士号を持ったハルであるが、実はボクシングをしたことがないのだ。
しかしにもかかわらず、彼のところには何人かの学生が集まって、教えをこうていたのだが、彼の魅力は何と言ってもボクシングを論理的に語るところである。
ボクシングを知らないハルは、本を読んだり、ジムの活動をとおしてボクシングと言うものを学び、マスターした。
そのマスターしたボクシングを学生に伝授していたのである。
自分は彼からそれほど指導を受けたことがないが、実際実力のある学生たちが、指導をうけていたことで、彼の教え方がためになるかならないかは、わかるのではないだろうか。
ボクシングをやったことがないようなものが、それについて教えることは多少無理があると思うかもしれない。
しかしそれはもう20年も前の話のことであり、科学や、技術が進んだ今は、ひとつの物事だけにとらわれず、しっかりとした分析力をもったものが、必要であり、そういう分析力が、指導者に求められる。
スポーツは考える時代である。
しかし指導者がいくら「考えろ」と言っても、まともにそういう学問と向き合っていなければ、説得力がない。
相手に考えさせたければ、がんばってアカデミックな考え方をもたなければ、今の時代には通用しないであろう。







  

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言葉の大切さ

2009-09-19 | Weblog
最近ブログを見てくれている人の数が多くなってきた。
私の考えではブログと言うのは、そこのボクシングクラブがどういうものかということを反映しているので、なるべくきちんとしたまとまりのあるものを書きたいと思っている。
しかそうは言ってもほとんど下書きをせず、そのまま書いているので、誤字やミススペリング、引用の間違い、読みにくい文などがところどころあるのであるが、しかし最近は時間があれば後で読み直して、訂正あるいは校正している。(同盟ジムの責任者のブログは完成度が高いので、感心しているのだが)
ジムのブログというのはまさにその責任者が何を考え、どういうレヴェルの人間かと言うことがわかる。
だからあまり稚拙な文を書いていると、程度を疑われるので注意して書かなくてはならないし、日ごろからいろいろなことを勉強することも大事である。
考え方と言うのは、常にインプルーヴされなくてはならない。だからいろんなことを勉強するのはクラブそのものの活性化や向上にもつながる。
しかし専門的な勉強も忘れてはならない、スタッフにもある程度専門家を置き、最近はフィットネスということばも使っているのであるから、そういうことの専門的な勉強をすることもあたりまえのことである。
これを読んで、何もボクシングクラブぐらいが、そこまでしなくてもと思うかもしれない。しかし子供から社会人を相手にするのならば、自分は何をしましたとか、悲しかったとか、うれしかったということしか見えてこないような稚拙な文では、ジムの考え方と言うのが伝わらないし、まず社会的常識がうたがわれる。
理想や理念を語るというのは、スポ根まんがにあるようなはずかしいようなセリフを連ねるのではない、ときどきそういうかっこいいことを言えば人はついてくると思うのがいるが、しかしそれは中高生の世界であって、大人の世界では通用しない。
言葉というのは命であり、力である、そしてそれを命や力にかえるのは、人間のもつインテリジェンスの問題であり、そういう言葉をわれわれ指導者はもたなくてはならないのだと思う。だからこそ自分たちは学ばなくてはならない。
そしてそこから構築された考えや理想というのは、一種の哲学であり、しっかりした土台の上に築かれるもので、それは人を牽引する力となりうるのだ。
話は長くなったが、昨日子供とのかかわりについて述べたが、その子供との関わりにおいてもそうである。
責任者が語りかけるひとつひとつの言葉というのは子供にとって影響力がある、だから厳しいが、言葉や表現力が乏しければ、関わりもその程度、一歩間違えれば悪い影響を及ぼす場合だってある。
時々お父さんやお母さんから、ここにきてうちの子が成長したというお褒めの言葉をいただくことがある。
それはスポーツをして活気がでてきたということではなく、大人になったという意味で、あえて成長したと言う言葉を使ってくれているのではないかと思っているが、やはりそれは言葉を選び、研鑽し、どのようにこの言葉が子供たちに働きかけるかと言うことを、考えてつかっているからだと思っている。
言葉というのはいのちである。その命である言葉をどうあつかうかということが、われわれに問われているのではないだろうか。そのことを考えたい。



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懐かしい話

2009-09-18 | Weblog
某大学にOさんというボクシングの選手がいた。彼は全日のランカーになどに名を連ねるいわゆる強豪選手であった。
実は自分はこの選手と一度だけ対戦したことがある。
そう20年以上も前の話である。自分はもう渡米が決まっていたのでそれが日本では最後の試合だったが、その最後の試合が彼であった。
彼はかなり変則的なボクシングであった。その彼の変則的なリズムについていけず結局判定負けを喫してしまったのであるが、実はこの話には続きがある。
ここからはOさんの日記の話であるが、Oさんは試合前ある先輩から自分のことをかなりうまい選手だと聞いていたらしい、それじゃあ普通にいったらだめだということで、変則的に攻めてきたのである。
作戦負けである。日ごろからボクシングは頭で勝負だといっている自分にとってはいたい負けである。
このOさんある大学の監督をしているそうだが、この大学が弱小クラブにもかかわらず、かなり強い選手をだしたとか、そりゃうなずける。
彼のことを知ったのは佐藤を通してであるが、また彼とは近いうちにゴールデングラブあたりで、さいかいできるだろう。ただお互いかっこよく言えばいっぴき狼タイプなので、会っても「どうも」ぐらいに終わるかもしれないが、実績から言って指導者として尊敬できる男である。


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がんばれ中年

2009-09-14 | Weblog
オリーヴは週に2、3度ぐらいの割合で8時過ぎごろから、どこからともなく中年たちが集まって来る。
そしてそこでマスボクシングが始まるのであるが、実に楽しそうである。
しかし中年と言っても中には、大学生や20代の人と互角に、というか相手によってはそれ以上のレヴェルの人もいることには驚かされている。
そういう人を見るたびに「最近のおっさんは強いなあ」と思ってしまうのだが、これなら40ぐらいまでは現役でいけるとさえ思ってしまうのである。
マスのあとそれぞれやった相手と会話が始まる。
「○○さんはどれぐらいやっているんですか?」
「だいたい1年ぐらいです」
「えっ1年ですか、1年ぐらいやったら私もうまくなれますかねえ」
「大丈夫ですよ、○○さんの攻撃何発かいいのがあたってましたよ」と結構健気にお互いをほめあっている。
自分も中年であるが、中年と言うのは一番ストレスを抱える世代である。ここ10年ぐらい中高年の自殺と言うことが問題になっているが、この年齢というのは精神的にも弱くなってくる年代である。
私の友人たちは、最近涙もろくなったなどと口ぐちに言っているが、この年代は仕事やその他のことで忙しくなって運動する機会がなくなるが、精神のもろさと運動不足と言うのは何か関係しているのではないかと思っている。
最近読まれるようになったが、フランスの哲学者であるアランは悩みがある人間は、体育教師のところへ言って運動しろと言っている。
即ちアランは精神的な問題は、ある程度運動することで解消されると言っているのである。
しかしこれははっきりとした根拠はない、しかし運動することは体にいいことだけではなく、ストレスなどを解消することができ、精神的にもプラスになることは誰もがこれを体験を通して知っていることである。
自分がこのクラブを開設した目的のひとつは、中年といわれる世代の人たちを仕事の疲れや、その他もろもろのストレスから開放したいからである。
運動するということは非常に大切なことである。
しかしなかなかその機会を見つけることは用意ではない。
しかし時々「じゃあやってみようか」としんどいからだをひきづりながら、見学や、体験に来てくれる人がいるが、自分たちはそういう人の気持ちを無駄にしたくないという気持ちがある。
最初来た時の応対の仕方、説明、なるべく続くようにどういうやり方で何を達成させるかと言うことを必要であれば、こまかく説明している。
とにかく自分は中年をはげましたい、ここに来たら何もかも忘れて楽しくボクシングができるように、そういう計らいを心がけ、そういう環境を常に提供したいと思っている。






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礼儀って

2009-09-13 | Weblog
礼儀という言葉がある。この言葉は非常に難しい言葉である。
礼儀というのは言葉だけの問題ではない、この言葉はすなわち行為を表す言葉なので、この礼儀と言うものを自分が実践できていなければ、語ることはむずかしいそういう言葉である。
よく日本の運動クラブではこの言葉がつかわれる。
しかしはたして本当にこの礼儀と言うものの意味をきちんととらえて、言葉にしているのであろうか不思議である。
たとえば言葉の問題にしてもそうだ、先輩には敬語つかえと言うが、しかし果たしてどれだけの人間が本当に正しい敬語をつかえるか疑問である。
時々あいさつでチワーッスというのがいる。
この前小学生たちがあいさつの話をしていた。
自分の運動部では大きい声であいさつをしなくてはいけなかったが、ここはどうだと言ってきたので、大きい挨拶をすることはないが、相手に敬意を示したらそれでいいと答えた。ついでにチワーッスってあいさつかと聞くと、全員違うと答えていたのであるが、こういうあいさつをするのは、おかしいと小学生でもわかるのであるが、しかし時々こういうあいさつをする人間がいて、それでもでかい声を出せばゆるされてしまうから不思議であるが、人の名前を聞くのに「何さんですか?」と聞いたり、こういうことを以外にも指導している大人が言うのであるから、これでは礼儀がどうのこうの言う前に、日本語をきちんと話せよとさえ思ってしまう。
おそらくこういうあいさつがまかりとおっている集団は、礼儀と言う問題ではなく、日本語を正しくつかえといったほうがいい。
特に子供などを指導する側は、その日本語をきちんと学ばなければならないと思っている。
自分は礼儀というのは格式や品格の問題であり、それは男らしさみたいなものを強調するものでもなく、男性女性に共通する普遍のものであると思っている。すなわち言葉だけの問題にしても、その意味をしっかり捉えて、必要な時に実践するからこそ、本当の意味で生きてくるのであって、でかい声をだして元気にあいさつするとか、単に目上の相手を怒らせないということに気をつけると言うことではない。
体育会系の敬語や礼儀は服従の手段である。確かに目上のものが聞いていたら、はきはきしてたいへん気持ちがいいので、彼は礼儀ただしいやつだと思ってしまうが、しかし本当に大事なのは、いっぽうを持ち上げることではなく、敬語のようなあるかたちを真摯な態度を以って貫くことであり、この点が格式のようなものであり、普遍的なものであるのではないだろうか。
しかし自分はこの礼儀というものがわからないし、敬語をきちんと話すことはできない。だからむやみやたらに礼儀と言う言葉は口にはしない。
しかし自分はジムも自分の仕事場なので、日本語は注意して、気をつけて話すようにしている。
サラリーマンも仕事場で、きちんとした敬語や言葉が要求されるのと同様、職場では言葉に気をつけ注意するのが当たり前である。
もし社会人や子供たちを相手にして仕事をするならば、日本語があまりにも無知であるとみなさんに対して失礼である。


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多様性の時代におけるMTオリーブボクシングクラブの立場

2009-09-09 | Weblog
自分は二束のわらじをはいているが、どちらも人を教える仕事で専門職である。
しかし最近ボクシングの指導者も、かなり要求されることが多い、すなわち今は昔のように強くなりたい人間だけではなく、ダイエットや健康維持のためにきている人たちも多い、オリーヴにいたっては80パーセントがそうであるが、そういう人たちを相手にボクシングのことだけを話すだけでは、もはや通用しない時代になりつつある。
少なくともフィットネスという言葉をかかげているのならば、ある程度そのことに対する知識や説明も大事である(ひょっとしたらフィットネスの意味すらも知らない指導者もいるかもしれないが)。
今やほとんどの人が大学や専門学校へ行く時代である。
そういう人たちを相手に専門の勉強もやったことのない人間が、一生懸命勉強でもしない限り、ボクシングの技術を語り、ボクシングの奥の深さと言うものを語ることはとうてい無理なことかもしれない(おそらくそういうことを経験だけでかたっても、言葉だけの問題ならば、優秀な人間はそれ以上の理論を本を読んだりデーターを見たりしただけで、構築できるであろう)。
ボクシングのおくの深さとは、根性論や持論を語るのではない、このスポーツを通して相手に興味をいだかせ、楽しませると言うことである。
しかし楽しませると行っても、遊びまがいのことをしておもしろがらせるのではない、それはスポーツ科学や心理学、そして時には文学などを通して知ることができるボクシングの不思議であり、指導者はそういう奥深さを伝えるために、日ごろからいろんなことを勉強しなければならないと思っている。
余談ではあるが、先日うちのメディカルトレーナーと、理系のボクシングについて話したのだが、たいへんおもしろい内容であった。
説明すると長くなるので割愛するが、とどのつまりスパーリングでうったパンチの種類と数をデーターにとって、その選手の弱点と必要なパンチを分析すると言う方法である。
これは実際につかえるかどうかは疑問であるが、しかしこういう興味から大きな進歩をなしとげ、十分に実践的な方法を生み出す可能性はある。
そのためには指導者はボクシングにたいして、興味をおぼえさせる会話をしなくてはならないし、そのためスポーツ科学はもちろんのこと、語学や心理学や哲学を勉強しなくてはならないだろう。
今やボクシングも多様性の時代の中で、そのニーズに答えていかなくてはならない、テニスやゴルフが、真剣に競技するもののためだけのスポーツでないように、人それぞれボクシングの競技の仕方、楽しみ方は様々である。
特にオリーヴはフィットネスと言う言葉を掲げているのであるから、特にそうである。
そういった日ごろの研鑽と建設的な会話が、ボクシングに興味をおぼえさせ、建設的な意見を生み出していくのである。
また技術を語るにしても自分の知っていることだけを語るには限界がある。
物事を咀嚼して語る力がなければ、話はおもしろくなく、相手がわからなければそこで終わってしまう。
そこで相手がわからなければ、いろいろと表現やたとえをかえて説明する能力がなければだめだ、その能力を養うために日ごろから、語学や本を読んで研鑽を積まなくてはだめである。
世界チャンピオン級の人間ならまだしも、一介のアマチュアの選手がこの多様性の時代の中で、その多様性に応じて人を集めるのであれば、もっともっといろんなことを勉強しなければこの多様性の時代の中にとり残されるであろう。





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