脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

柿食えば鐘が鳴る鳴り法隆寺 

2009-01-30 | Weblog
ここ何年か前から小学校に英語教育が取り入れられているらしい。
うちの子供も、そういうことを意識してか「これ英語で何ていうか」ということを聞いてくる。
よく小さいころから英語を覚えさせて、バイリンガルにしたいという親の話をよく聞く。
理由はグローバル化が進んでいく中で、共通語を覚えさせることがアドヴァンテージであるということから、小さい頃から英語を教育するが、しかし自分は、小さい頃から日本語をきちんと学ぶせず英語を覚えさせることに関して、いささか懸念がある。
よく日本人は自分の意見をはっきり言わないということから、欧米社会に見習って英語を覚えさせることが、欧米社会とつながりを持ち、その中で自分の意見をはっきり言えるようになるからだと言うが、しかしはたしてそうであろうか?
自分の言いたいことを言うのと、自分の意見を言うことは違う。
時々、English is toolと言う言葉を聞くが、英語と言うのは国際語ではあるが、そのコミュニケーションの単なる道具にすぎない。
もちろんそれが母国語である人たちにとっては、それはそれなりに深い意味があるのだと思うが、しかしわれわれには「English is tool, thats it」である。
以前日本に来て日本語を覚えた外国人が、自分の言いたいことを恥じも外聞もなく述べる討論番組があった。
それはあるテーマにそって自分意見を述べるのであるが、あれは意見と言うよりも自分の言いたいことをただ行っているだけである。ひどいのになると、人を押しのけてまでも自分の言いたいことを行っていたが、ここまでくれば日本語に対する冒瀆である。
日本語と言うのは、奥の深い言葉である。
たとえば有名な正岡子規の「柿食えば、鐘がなるなり法隆寺」という俳句がある。
これは正岡子規が、奈良の茶屋に立ち寄った時に、時を知らせる鐘の音を聞いて、一句うかんだところを俳句にしたのであるが、柿と言う言葉からも、季節感がつたわる風流な一句である。
おそらくこれを英語に訳し伝えたところで、相手にしてみれば「エッどうしてそうなるんだ」という疑問の答えしかかえってこないと思うが、これは自分たちが日本の中で育ち、季節と言うものを肌で感じているからこそ、このように単純とも思える句が心に染み入るのであって、言葉というものは、そういう自分たちの生きている季節感や、生活感、あるいは心の状態というものを表しているのである。
言葉と言うのは単なる道具ではない、自分たちのアイデンティティに深くかかわるものであって、この言葉に深くかかわるからこそ、本当の意味でのアイデンティティが備わってくるのではないかと思っている。
自分の意見をはっきり言うということは、まず自分が何者かということをはっきりさせなくてはならない。
自分がいったい何なのかという、アイデンティティがあるからこそ、自分の立場がしっかりしてくるんであって、その自分が何者かと言うことは自分が生まれた国、そしてそこで語られる言葉と深くかかわってくるのではないだろうか。
余談ではあるが、英語教育を専攻している人がラテン語を勉強するが、たぶんそれは簡素化された英語の意味を言葉のルーツによって深めるためである。


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I insist that

2009-01-27 | Weblog
最近地方に比べて年の教員採用試験の倍率がかなり落ちているらしい。
地方では15倍以上の倍率があるのに対して、都市ではわずか3倍足らずで、このことに頭を悩ませた各都道府県は、なるべく優秀な教師を獲得するために、青田刈りならぬ教員刈りを行っているらしい。
この前このことをうけてある元プロ野球の監督が言っていた。
優秀な教師を求めるということで、その青田刈りに対してではあるが、彼が言うには、もともといい先生とは、偏差値や成績によるものではなく、人間関係をしっかり築き上げることのできる先生であるということだ。
そして先生は大学を出ていきなり教鞭をとるのではなく、コンビニやその他の会社で社会経験をつんでから教師になる。そういうかたちが望ましいというようなことを言っていたのだ。
しかしこういう意見は非常にばかげた意見であると思う。
特に世間を知るためにコンビニで働けという発言は、あきらかに職業差別的な発言であり、抗議の電話が殺到しなかったことが不思議なことであるが、逆に高校や、大学を出た野球しか知らない野球バカに、世間を教えるためにコンビニでバイトさせろということにもなる。
昔からからこういうばかげた意見は多い、特に「先生というのは頭をさげることをしらない、そういう人間に教育を教える資格はない」という意見であるが、商人の学校でもあるまいし、頭をさげることと教育と何が関係あるのか、理解にくるしむ。
今や言いたい放題の社会において、教育や教師がスケープゴート的なりつつある。
おそらくモンスターペアレンツとよばれるバカ親や、学級崩壊というのはこういった教育が子供や家庭の問題を、スケープゴート的に担ってきたということに大きくかかわっていると思うが、今の教育が教師から見てやりにくくなったのは、以上に挙げた例にも見られるように、いいたい放題の発言をうけて、スケープゴート的にその問題を担ってきたからだと思う。
特に田舎は面白い、時々よくわからないおやじが、学校がもつ全体会みたいな場で、俺は教育はよくわからないがと言って発言するのがいる。
わからなかったら発言する権利はない、それでもゆるされてしまうのが、田舎の馴れ合いであるが、前にも書いたがそういうことを言うのに限って、昔の先生はどうのこうのと抽象的なことをいうのだが、そういう人間が堂々と意見をいうことができ、ただ何となくそうであるからという意見や、時には理不尽な意見が通るところが(しかも話し合いは教師が主体ではなく)、今の学校の現状ではないだろうか?
今や言いたい放題の社会である。発言する側のモラルや責任と言うのは、どこにあるのであろうか。
だいぶ前TVの教育について討論させる番組があって それを見ていたのだが出場している人間がすごかった。半分以上が芸能人である。
その中に俗悪番組と呼ばれる番組の司会者や出演者、スキャンダラスな人間が堂々と意見をしていたが、しかし彼ら彼女らは、自分自身の生き方あり方を問われることはなく、ただただ自分の言いたいことを、もっともらしく言っていたのだが、日本人は恥を知る民族だといわれているが、聞いてて恥ずかしくなる。
何もここで自分は教員を擁護する気持ちは全くない、よくない教員もたくさんいる。しかしもうそう言ったことを問題にして、スケープゴートを的役割を誰かに担わすだけでは、言いたい放題の社会を生み出してしまうだけである。
今や教師や親が子供の問題を担い、自分の行動に責任をもたなくてはならないのではないだろうか。
ここで自分行動に責任をもつということは、自分の発言や行動が子供にどう影響するかと言うことを考えることであり、また自分の発言に対して昔の先生がどうのといったことではなく、はっきりとした根拠をもつことである。
言うことは簡単である。がしかしどういう行動をするかということが問題であり、子供はそれをしっかり見ている。
だからしっかりと考えどう行動するかと言うことが大事である。
ちなみに自分は子供には絶対バラエティー番組を見せない、あんないじめを促すような番組は撲滅させるべきであると思っている。




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ボクシングは言葉である。

2009-01-21 | Weblog
自分は練習生に技術を取得させる時、表現があいまいだと思ったら、日本語を英語に置き換えて考え表現している。
日本人が、日本語を英語に置き換えて考えること自体あいまいであるが、しかしボクシングのように、物事を覚えるときカンと本能がきわめて重要なスポーツにおいて物事を適切に、そして明確に表現し伝えることは大事なことであり、以外にもこの日本語を英語にして考え、表現するということは、教える側にとって役に立つ。
場合によっては日本語で表現するよりは適切なこともしばしばある。
この前練習生に技術を習得させるのに「体で覚えろ」というのがいた。
聞いていて何かおかしい。
「体がどうやって覚えんねん、覚えるんは脳やろ」。
たぶんこれを読んでいて、この人何をいってんねんと思う人もいるだろう。一見屁理屈のように聞こえるかもしれない。
しかし何がおかしいかというと、ここにはまずこれを英語に置き換えると少しニュアンスが違う。
英語だと体が覚えるというような表現はしないし、できない。記憶すると言うこと自体体がすることではなく、脳や人間が可能なことであるから、覚えるという動詞に体などの名詞が主語になることがなく、もし体が主語になるとしたら、せいぜいFeel感じるぐらいで、覚えるという動詞に体が主語になることはない。
だから覚えろというのは考えることであり、頭でそれを理解し実践することである。このへんが英語と日本語の違いであるが、実はこの英語と日本語のニュアンスは教える側に大事なことを教えている。
自分は体で覚えろという表現は「とにかく体をうごかせ」「わからなかったら何回も何回も同じことをしろ」というように聞こえてしまうのだが、体で覚えろという表現は昔ながらの、とにかく理屈を言わずにやれ、何回もやればわかるという言葉に、あぐらをかいた表現であるように思える。
昔1000本ノックや、とにかく根性や体力をつけるためだと、うさぎ跳びやランニングをさせられたが、体で覚えろというのははっきり言って、そのメンタリティから完全に抜け出せていないのではないだろうか。
単純に言えば体というのは、脳が命令し伝達するから体が動くのであるから、技術を習得するためには、その行動を脳にインプットすることが必要である。
まず自分は技術を習得させる時は、同じことを何度も説明し、そして必要であればその技術を取得するための方法(たとえばフックをうつ時の法則など)を言葉化して、それを言いながらゆっくりその方法を実践させることをしているが、実際にこの方法でやってみると以外にもはやく、それを習得できることに気づくであろう。
自分がこっちに帰って来て、いろいろ話を聞いたり、練習を見て思うことは、日本人は、まだこの言葉のあいまいさの中で、練習をしているように思えるということである。
日本の選手ははっきり言って監督やコーチの言うことを鵜呑みにしすぎである。
前にも試合会場で、監督が選手にアドヴァイスしてる時、それを選手がハイハイとわかっているのかいないのか、無批判で聞いているのに対して、不思議に思ったということを書いたことがある。
団体スポーツではあるまいし、むこうではこういうことはあり得ない、しかも技術的なアドバイスを団体にしている。
技術というのは個人的なことであるから、団体にそれをアドヴァイスすることはあり得ない。しかしそれを素直にハイハイと聞いている。そういう選手がいい選手なのであろうか。
日本人は何事においても人間関係と言うのを求める民族である。それはある意味いい面もあるのであるが、しかしボクシングのように個人主義の西洋から入ってきた個人競技であると、それがかえって弊害になることが多いかもしれない。
だいぶ前プロスキーヤーの選手が、自分が最初スキーを教えてもらったのは、近所の人で、そのトレーニングのおかげで、スキーがうまくなったというようなことを言っていて、最終的にはその選手の言ったことは、そのコーチがどうであっても選手とコーチ間に信頼があれば、スキーの技術は伸びるというようなことを言っていたが、アメリカではそういうことはありえない、そのことをよく知っているから教えられるのであって、信頼関係とはこれとはまったく別の話である。
言葉の関係もそうである。コーチングにおいて重要なのは言葉の伝達ではない、考えさせることができるイマジネーション能力である。
よくコーチは考えろというが、しかし信頼関係と言うともすれば馴れ合いにも聞こえる関係と、言葉のあいまいさの中で、はたして本当にそれを論理化して考える力が身につくかどうかは問題である。




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To fly we must have resistance

2009-01-20 | Weblog
自分の人生はすべてが順調に行ったわけではない。
今の生活がやや豊かであるので、何の苦労もなくある種の才能と要領のよさで渡って行ったと思う人も多くいるが、自分の人生はその生き方、学業においてもボクシングにおいても決してはじめから順調に行かずむしろ試練のほうが多かったと言い切ることができる。
ボクシングの話に特定するが、ボクシングで本当にくやしい体験をしたことがあるだろうか。
それは競技をする者、誰にでもあることであると思うが、自分はひょっとしたら、この悔しさから多くの人が逃げているのではないかと思っている。
よく「自分は負けず嫌いです」というのがいる。
「なぜ」と理由を聞いてみると「自分は負けるのが嫌いですから、だから試合に出たくはないんです」とあっけらかんというのであるが、こういうことを言うのはおそらく負けたくないといよりも傷つきたくないからであろう。
しかし以外にも最近こういうわけのわからないことを言うのが多い。
もう何度か書いているが、自分が留学先のボクシングクラブで一発もパンチがあたらなかった時はさすがにくやしかった。「俺は何でにこんなとこにおんねん」と、所詮日本人はここでは通用しないと言われているような気がして、とにかく悔しくて、悔しくて、それから毎日彼のことをたたきのめしてやろうと、そんなことばかり考えていた。
しかしこの挫折がなければ、今の自分はなかったと言い切ることができる。
あの時あれだけの挫折があったからこそ、ジョージと出会うことができたし、もっともっと強くなりたいと思えたのだ。
自分は自分のボクシング人生を振り返って思うが、挫折や失敗のないボクシング人生なんて、まるで炭酸のぬけたコカコーラのようなものである。
この挫折や失敗があるからこそ、人間は強くなれるし、成長する。
だから失敗したくないからとか、傷つきたくないからという理由で試合に出ないというのはあまりにも消極的である。
年をとった人間であるならまだしも、若い人であるならば、それは成長できる機会である。
そして本当にボクシングが面白くなるのはむしろここからである。世の中の挫折や失敗はどろどろしている。自分もこの社会にでて何とも言えない失敗や挫折を味わったが、しかしボクシングの失敗や挫折というのははっきりしている。それはスポーツと言う勝ち負けがはっきりしているゆえに多いが、しかしその挫折や失敗に正面から立ち向かっていき、それを乗り越えていった時にこそ、われわれはそこでしか味わうことのできない達成感を得ることができる。それがボクシングやスポーツのよさではないだろうか。
To fly we must resistanceとはアメリカの芸術家が語った言葉である。
日本語に訳せば、飛ぶためには抵抗が必要だということであるが、何事においても試練はある。そして、その試練を乗り越えて行かなくては成長はありえないということである。
自分はこの失敗や挫折があったからこそ大きく成長できたし、ボクシングが楽しくて好きになったのである。
10年ぶりにそこを訪れた時、自分はしばらくあの場所に立っていた。それを見てピーターは「あいつ何をやっているんだろう」と思ったであろうが、ジョージならばわかったであろう。
ここは自分の原点であり、聖地であるのだ。




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ガリア戦記を勧める

2009-01-08 | Weblog
練習はじめの5日からぼちぼち練習生も練習に来ている。
今年も目標はゴールデングローブで団体優勝すること、そのためにはたくさんの選手を鍛えあげて、試合に出場させなくてはならない。
自分は時々ガリア戦記を例に挙げてブログをかくのだが、あの戦記のすごいところは、ガリア戦記はヘルウエティィの移動から始まった選挙と侵略のための戦争であるのに、読んでるうちに、それが単なる自国繁栄のためではなく、正義の戦いであるとさえ思わせられるところである。
おそらく当時カエサルほど人心掌握長け、プロパガンダを利用した人物はいないだろう。
おそらくそれは戦いと言う極限と緊張状態が強いられる場で、戦士たちをその戦場におくり志気をあげるための手段であったのだろう。
あのルビコン川を渡るときに語った彼の短いながらも卓越した演説はあまりにも有名である。
言葉というのはある意味魔法のようなものである。
自分も選手時代にコーチや友人の言葉によって、励まされ慰められた経験があるが、やはりスポーツにおいても、この言葉はその選手の志気を高め、目標を持たせる意味では重要である。
もともとスポーツ選手と言うのはプライドが高く、あつかいにくいものである。ボクサーと言うのは、その中でも最も繊細な人種であると言われているが、そういう人種であるからこそある意味言葉というのが必要であり、その言葉に最も影響されやすいのではないかと思っている。
志気を高めるために、よく昔は気合を入れろとか、気合をだせと言う言葉を言ったが、根性だの努力だのと言う言葉はもう古いし、単純すぎる。
本当に選手の心をつかみ志気を高めたければ、その彼彼女らの心理をよく知り、状況を把握した言葉を選び取り語ることが大事である。
そういう意味ではカエサルのガリア戦記を読むということは、勉強になるであるだろう。是非読んでみることをお勧めしたい。



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