脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

I can't get by with 9 to 5

2019-09-30 | Weblog
「actually I like Rap music」
私が行っていたボクシングジムはリングが二つにサンドバッグが10体以上も置いてある大きな体育館で、そこには学生などたくさんの人間が自由に集まってきていた。チームこそ違うがそこにハワイアンのオギと言う人間が来ていた。彼はフライ級かバンタム級のゴールデングラブのセミファイナリスト、よく顔を合わすので、スパーを頼まれてやっていたが、はやい、リズム感がある、ただパンチがなかったのでこわくはなかったが、しかし私とは実力も実績も違うので、最初は彼をどう攻略するかと言うことばかり考えていたが、そのおかげでかなりきたえられたと思っている。彼はラップが好きでよくその音楽をかけてトレーニングをしていたが、その影響もあってか、実は私はラップが好きである。アウトローがきらいだしイメージからは想像できないが、Eminemは私が好きなラッパーだ。特に映画の主題歌にもなったLose Yourselfはどん底からはい上がってきたエネルギーみたいなものを感じる私の好きな曲である。
しかし私がアウトローくさい人間ややんちゃですというような人間を入会させないと言うのはきちんとした理由があることはブログをよく読んでくれたらわかると思う。うちのクラブは環境をよくするために言葉の質を上げて対応する。言葉の質と言うのは正しい日本語、乱暴な言葉はつかわない、そして人にあわせて知的な言葉をつかうということであるが、このことを実行することでクラブの質はかなりよくなると思う。
Eminemがインタビューで、生まれた子供には言葉遣いを気をつけてしつけているみたいなことを言っていた。悪い環境にいた人間は言葉遣いや言葉がいかに人間に影響するかを知っている。私自身も悪い環境を見て来たからこそ、その環境を健全するためにはどういうことをすべきか、そして格闘技と言うのはアウトローややんちゃですが集まりやすいスポーツであるから、極力そういう奴らを集めないためにはどうすべきかということをよく理解している。責任者が言葉を理解して、正しく、知的な言葉を使うと言うことはまさにそのコミュニティの質につながる問題でもあり、僭越ながら言わせてもらうが、うちのクラブが平和的で、奉仕精神を持った余裕のある人によって運営されているのは、私が言葉の努力をしているからで、責任者の管理能力を知的レベルで考えているからである。これだけいろいろな才能を持った人たちを運動クラブレベルの規則や規律でまとめるなんていうことは皆さんに失礼にあたる。きちんとその人たちの個性や能力を尊重して、十分にそこで生かし、楽しみ、力を発揮してもらうには相手を知り、対話することも大事なことだし、何よりも哲学を持った共同体でなければならないと思っている。
 
「나쁜 어른(わるい大人)」
だいぶ昔の話だが、ちょうしにのった4人組の大学生の男女、騒いではいけないところでべらべらと騒ぐ、まわりが年配の人ばかりでこわくないと思ったのか調子にのってさわぐ、まわりの人も迷惑がっていて、うるさいので注意しようと思ったが、しかしそれだけだったらふてくさられて帰られてもしゃくだと思った私は20分か30分ぐらい彼らの近くに座って聞き耳をたてて彼らの話を聞いていた。そして「ちょっとごめんね、もう少し静かにならない」と言った後しかめっつらをしたので、聞いた話をもとに一番目立つやつの精神分析をしてあげた、結果ママボーイで未熟のレッテルを貼られて落ち込む学生、さすがに言い過ぎたと反省して「ごめんね少しいいすぎたけど」とあやまったが、私も大人げなかったと思う。よい大人はまねしたらだめだよ。
 

eminem lose yourself lyrics


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東洋社会では

2019-09-27 | Weblog
英字新聞にこういう記事が載っていた。
The british advertise agency perpared a before and after type advertisment to sell washing powder in the Arab world.
The before picture with the dirty clothes was on the left, the after picture showing the clean clothes after using the washing powder, was on the right.
簡単な英語で書いてあるので理解できると思うが、これはイギリスの広告代理店がアラブ諸国に宣伝のチラシをつくった時の失敗談である。アラブ諸国と言うのはたいてい文字を右から左に書く、すなわちこのことが意味しているのは我々と物を見る感覚が逆、もしカタログに洗剤がよく落ちるということを表したかったら、右に洗った後の服をのせるのではなく、左にのせる必要があったというわけである。

韓国人は食べ物をまぜて食べるのがすきな民族だ。
最近は彼ら彼女らも外の世界に出ているので、どこでもということではないが、しかし彼ら彼女らはなんでもかき混ぜて食べる習慣があることは確かである。だから食事に言った時にカレーはもちろんのことちらしずしも混ぜるまぜそうな料理が出てきたら「ま・ぜ・る・な」と言うのだが、やはりこれも文化の違いである。
かわいい子には旅をさせろと言う言葉があるが、違う言葉や文化に出会うということは人間を成長させるためには不可欠なことである。
人間は自分の知らない世界に出て行って、そこから何かを吸収して成長すると思うのだが、それは今の21世紀には特に言えることだ。

話しはスポーツの話になるが、私は海外などで遠征に言った時に一番頼りにならないのは日本人だと思っている。英語が話せないし、議論できない、おまけに他の文化に触れると言うことがあまりない、そろそろ英語をおぼえる必要があるのではないだろうか。親玉どもはなぜ国内ではあれだけいばっているのに、海外に行くと猫の子のようにおとなしくなるのだろうか不思議だ。時々海外で日本人のマナーのよさを評価されることがあるが、しかし言葉を言い換えれば国外ではほえることができないだけ、それは国内での偉そうな態度を見ていたらよくわかることだ。
言葉を理解できないことや、国内では威張っているが海外では手のひらを返したように弱気になる態度を恥ずかしいと思わないのだろうか、それでも最近は言葉をおぼえて外の世界に出ていく人たちも増えてきているが、はっきり言って語学ができないスポーツと言うのは封建的で、海外でも頼りにならないのが現実、オラが村で威張ることばかり考えないで、その世界から一歩出て外の世界に関心をもつことは必要なことだと思う。

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フラットな関係って

2019-09-20 | Weblog
少し前までアドラー心理学がブームであった。そして専門家というかそれらしい人間がそれに基づいた実戦心理学を語る。失礼だが最近そういう人たちがうさんくさく見えてきた。心理学と言うのは社会や精神構造をぬきにしては語れない、日本人には日本人の文化や思考がある、しかしそれを無視したように換骨奪胎的にその心理学を取り入れて実践させようとするのはいささか無理があると思う。特に私が疑問と言うか少し無理があると思っているのはアドラーが上下関係をこわして徹底したフラットな人間関係を求めることだ。

西洋と日本とでは少し文化が違う。アドラーはユダヤ人である。ユダヤではバルミツバーと言って13歳になれば大人となって共同体の一員となるのだが、それはそこから彼が大人としての責任をおわされるということである。一方日本は成人式があるように20歳まではまだまだ未熟もっと目上の大人から学ぶことが多く、日本のコミュニティはまさにそういうシステムではないかと思う。基本的にユダヤの共同体は契約によるものだ、だからそこでおわされる責任は大きく、ひとりびとりの自立が求められる、それがユダヤ社会で、アドラーは中学、高校とユダヤの伝統的な学校で学んできたのだから、その影響は大きいであろう。そういう両者の文化の違いを考えたら、日本人はフラットと言う人間関係が理解できない、そういう文化背景や精神構造を無視して理屈をつらねてフラットな関係を築けと言うのはいささか無理があると思う。私が外国のボクシング経験を通して日本人が素晴らしいと思ったのは、教えあうことができるというアドヴァンテージだ。外国だったら自分が苦労しておぼえた技をいとも簡単に他人に教えること言うことはないが、しかし日本人はそのコミュニティの中で教えあって成長していく、そしてそれはお互いの依存によるものかも知れないが、ポジティヴに考えれば助け合い、日本人はそういう感覚と言うかセンスを持った民族であると思う。アドラーは徹底して上下関係をこわそうとしているが、しかしそれには無理がある。なぜならアドラーの言う自己受容、他者への信頼、他者への貢献と言うのは日本人の場合はそういった上下関係から出てくるもので、私はあえてそれを否定することは必要ではないと思っている。
私は上下関係を否定しない。上下関係と言っても体育会のように親玉や先輩が威張ると言う関係ではなく、その上下関係を人間の成長のために考える。例えばあいさつは先輩からしてあげる。うちでは自然とそうなっているが、そうしたらあいさつしない子も自然とできるようになるが、これは他人から与えられることによって自己が受容でき、相手を受け入れ、他者に貢献できるようになる。まあ上下関係と言う言葉は語弊があるが、その上下関係を逆から考える上下関係と言ったらいいかも知れないが、目上を敬い、目上のものが大人としての責任をはたして、その子供や若者の成長の糧となる人間関係は日本人が持つ独特の美徳で、そのことを大事に考えて共同体を考えることも大事なことであると思う。




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You shall not give false testimony against your neighbors

2019-09-20 | Weblog
「排除されていないものは、包括されている」
 これは「社会学の諸形式の研究」の中で書かれたジンメルの言葉である。この言葉は差別の構造を表した言葉であるが、差別には差別する側と差別される側があるのだが、しかしそれを傍観しているものも、差別している側と同じであるというジンメルの立場を表した言葉である。
文学博士に森田洋司さんという人がいる。
この人がいじめの研究の中で、いじめの被害について言及しているが、いじめの被害の大きさは、いじめっこの数ではなく、傍観者の数に相関すると言っている。
 すなわち差別を傍観したり、無関心である人の存在は、そのいじめている人間に無言の指示を与え歯止めをきかなくさせているというのだ。
さらに私は宗教学が専門なのでユダヤ教の掟について言及したいが、ユダヤ教の教えにこういう教えがある。「You shall not give false testimony against your neighbors」これはモーセの十戒の掟で日本語訳では「隣人について偽証してはならない」となっていると思う。しかしこの言葉は、何々するなというただ否定するだけの消極的な言葉ではない。おそらくその当時現代社会のように、科学的な鑑識やそういったたぐいのものがなかったので、裁判においては人の証言と言うのが重要な証拠であり、その裁判で裁かれる人間を生かすも殺すも、まさにその人間の証言次第であったからで、もちろんそういう環境で偽証するなというのはあたりまえなわけだが、しかしこの言葉はもう一つ積極的な意味をもっている。それは知っていることはすべて証言しなさいと言う、積極的にあなたは真実をそこで語りなさい、そうでないと偽証していることと同じことなんですよと言う意味である。
こういうことを言えば、ジンメルの研究者に違うと指摘されるかも知れないが、私はジンメルの差別について考える時、ユダヤ教が彼の考え方に非常に密接にかかわっていると思う。実際彼はユダヤ人の共同体の学校に入学し、そこで教育を受けているし、彼自身もユダヤ人である。おそらくこのかれのこの言葉の背景には少なからずとも、そのユダヤ教の影響があるというのが私の見解であるが、差別を何も感じないで何も行動を起こさないのは、差別するのと同じだという「排除されないものは包括される」というのは、まさに偽証するなと同じことではなかろうかと思う。
現在でも事実いじめというのはあるようだが、この言葉は今のいじめをとりまく環境にいる私たちにとって考えさせられる言葉である。私がいじめについて考えるようになったのは、ここにそういう子供たちが来たり、親が相談にくることがあってそうなったわけだが、その中でいじめを問いなおした時に思ったことは、私もそうであったが、まわりが本当にこのいじめにたいして解決しようとしているのだろうか、ただ単純にいじめられなければいいということだけで、終わっていないかと言うことである。少し難しくなるので割愛するが、ジンメルのこの言葉は今のいじめをとりまく、私たちに提言している。いじめというのはいじめられる側といじめる側の問題だけではない、それを取り巻く全体の問題でもある。すなわち共同体でそれを解決していかなくてはならない問題でもある。少し前から欧米社会ではこのいじめに対して、まわりの人間がそれをどう考え対処していくかということが問題になっているが、問題になっているのはいじめをなくそうではなく、いじめをゆるすなである。たぶん日本はまだいじめが、そのいじめられている子といじめている子、そして教師や親という中でしか問題にしていないが、しかしこれはそれをとりまく全体の問題であって、もう少しまわりの人間にも、このジンメルの言葉のように責任をおわすことも必要であると思う。

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哲学の世界にようこそ

2019-09-16 | Weblog
だいぶ前ある子供から相談をうけた。知的レベルは高いのだがコミュニケーション能力と少々忘れ物をすると言うのが問題で、彼はそのことをすごくネガティブにとらえていて自分はなぜ人と同じようにできないのだろうかと悩んでいたようであった。そしてその事を彼は私に相談してきたのだが、そこで彼にほれっと渡したのが一冊の哲学に関する本だ。彼は渡されるがままその本を読んで哲学に興味を持ったようだが、その後はさらにニーチェと出会い、「私はお前たちに超人を教える。人間は超克さるべき何物かである。お前たちは人間を超克すべく何ごとをなしたか?超人は大地の意義である。」と言う言葉に影響を受けて、何があっても運命に左右されずに強く生きていく生き方こそが価値がある生き方で、たとえ自分にそういうディスアドバンテージがあっても強く、価値のある生き方を目指そうと励まされたそうである。
自分の運命を受け入れて、既存の価値にとらわれずに新しい価値を生み出す人間を超人と言うが、私のさらなる解釈をつけくわえるならば、この現実社会に自分が自分で責任を持つと言うこと。運命を受け入れると言うのは今の自分の現実を見ると言うことだ、そしてその現実にいやなことがあって目を背けていたら決して答えは見つからないし、そこに解決はない。しかしその現実に目を向けて責任をおうからこそ答えを見出すことができるし、解決に導かれる。そういう自分におわされた責任をひとつひとつ解決していくことによって人間は成長し生まれかわることができるのだろうと思う。ニーチェの言葉は単純で抽象的にさえ聞こえるが、しかしその挑戦的で力強さを持って語られる響きは、これからを生きる若い人たち、これから自分の殻を破って大きく成長しようとする人にとっては勇気と力になる貴重な言葉である。私は人生において哲学することは大事だと思う。もし誰かに何か悩みがり、相談して来たら私はすかざす本を手渡すであろう。

 
 

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MOB英語クラブの発足

2019-09-15 | Weblog
MOB英語クラブは発足、大学で経済学を教える外国人講師の協力で毎週土曜日2時から3時まで英会話のレッスンをジムで持つことになった。私が英語教育をジムに取り入れたのは英語が話せるアスリートを育成することと、英語をおぼえることは学問をする上でのアドヴァンテージとなるからである。前にも言ったが語学を勉強すると言うことは物事を深く解釈するため、特に日本人が文系と言われる人たちには必要なことであり、私は語学を勉強すること深く、広く解釈する能力が養われると思っている。

わかりやすい例で言うと外国の医学部は数学や物理と言った理系の基礎を徹底的に学ぶ、そして日本も同じく医学部に入学するためには難解な数学や物理の理系の高い学力が必要とされるのだが、それらをすることでその学問を理解する上でのベーシックな考え方ができる。文系が徹底して語学を学ぶと言うのもそれと同じようなことで、語学を学んでコンテキストをそれぞれ解釈していったら、それぞれの言語によっては解釈の違いがあるので考え方の幅が広がる。英語は共通語で今ではその基本となっている。専門書でも日本語で読むのと英語で読むのでは雲泥の差がある、その言葉の基本である英語を学ぶことは思考をひろげるためにもコミュニケーションを深めるためにも今の時代には不可欠だと思っている。

さてここからが本題であるがスポーツが語学に疎いとそれはまさに村社会だ。監督がお父さんと言う仕組みはまさに日本の古い家父長制、体育会のルールがすべての基本でそれがあたかも黄金律のように考えている。そういう集団はまさに時代錯誤であり、豊かではないだろう。まあ少しこれはおおげさであるが、人権が法として定められたのは1215年に定められたマグナカルタによってである。当時絶対王権であった専制政治に対して貴族がそれを認めさせたのだが、権力がひとつのところに集中すると当然不公平が行われる。スポーツの世界も然りであるが、いくら平等とか言っても自分たちがその世界で力を持ちたいと言う欲や野心が強ければ、そういう人たちが集まる組織ではその群れは正しく機能しない、私はスポーツには不公平やえこひいきがまだまだたくさん存在していると思っているが、私からしたらなぜ日本はアスリートの権利を守るためにそれをやらないのか、外国からもっと参考にしたらいい例もあるのだが、おそらくそういう広がりつつある解釈にたいして対応できずに自分たちのやり方をとおすところに無理がある。やはりこういったことは英語力が問題ではないかと思っている。

西洋には縦社会がなく、女性のアスリートが強く主張できるのは、フランクに物事を考え、言える世界だからではなく、そういうことにおいてきちんと権利が守られている。人権が重んじられているからだ。そういう権利が守られるためにも、物事を客観的に見る力を養うことが大事であり、そしてそのことは教育や教養と深くかかわってくるのではないだろうか。たぶんこういうことは同じ土地だけで生きて、何も学ばない人間にはわからないだろう。何も同じ土地にしか生きることをしない人間を揶揄する気持ちはないが、しかし本当にその集団の質やあり方を問うのであれば、いろいろな考え方をまとめる意味でも、学び、そして自分とは違う人間と意見を交換することは大事なこと、そしてある程度の英語力は必要である。




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所謂

2019-09-06 | Weblog
よく格闘技のジムなどで格闘技をやっている人間は暴力をふるってはいけないと言うのを聞く。でもしかしそんなことを上から目線でいってもだめだ、大事なことは暴力をふるわないという雰囲気をクラブのコミュニティが持つことだ、ただ言うだけではなく、そういう環境で暴力はいけないということを伝えることが一番大事だと思う。暴力をふるうなとか言っていてもまわりが武勇伝ややんちゃばなしを自慢する、うっとうしいと思うのは骨折をしたとか、誰々が鼻をおったとかおられたとかそういうけがをした話を当たり前のようにする。こういう話を抵抗なく、中には自慢げに話すような人間もいるのだが、私はこういうことを平気で言える人間は人にけがをさせたり、したりすることを当たり前に思っている、一般的に感覚がずれているアウトローだと認識している。
フランスの哲学者であるロラン・バルトは言葉づかいで人は決まると言っているが、クラブに平和的な雰囲気をつくりたかったら責任者がしっかりとした言葉を持つことが大事だ。日本のことわざにも類は友を呼ぶと言う言葉があるが責任者の教養がひくければそのまわりには同じような人間かそれ以下の人間しか集まってこない、私の見解では学力がひくいと言葉を深く解釈できない、考え方がものすごく単純なので刺激でしか動かない、結局そういう群れはアウトローややんちゃですが集まる質のわるい集団だと思っている。しかし一方その責任者に教養があれば、そのむれにはおのずとしっかりとした人たちが集まってくる。乱暴な言葉をつかわない、語彙力が高い、知的である、そういう要素をもったコミュニティからは決して暴力的なものは生まれないと思っている。うちのクラブがボクシングのほかにも英語などの教育を重んじるのはうちのコミュニティを平和でかつ健全なクラブにしたいと考えているからだ。


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저는 일본사람이에요。私は日本人です。

2019-09-03 | Weblog
「私は日本人です。今、NO安倍集会が行われています。日本ではこれが反日デモと報じられ、韓国人全員が日本人を嫌いだと思ってしまう人もいます。しかし、私はそう思いません」「日本には、日韓友好を願う多くの市民がいます。韓国にも、日韓友好を望む多くの方がいると思っています。私は皆さんを信じています。皆さんも私を信じてくれますか? もしそうなら、ハグを」
というプラカードを持った男性がNo阿部集会にあらわれてハグを求めた。結果1時間で50人もの韓国人がハグをしてくれたそうである。私はもうだいぶ前から韓国は政治と民衆では温度差がかなりあると言ってきた。それは私が前から言ってきたことであり、私のブログをさかのぼって見てくれたらわかると思うのだが、韓国は80年代に比べたら大きく変わってきている。確かにネットなどの書き込みにはいまだにひどいものがあるが、しかし日本人や日本文化に敬意を払い、仲良くしようとしている人もたくさんいる。情報がとびかい、日本に何回も来たり、言葉を話せたりする人もかなり多くなってきた今、もう半日は韓国人に通用しない時代になってきている。
 
実は私は韓国人が大嫌いであった。私は反韓のはしりだといっても過言ではないが、特に在日韓国人には敵意みたいなものも持っていたし、キムチなんか絶対に食べなかった。しかし否定しても私は彼ら彼女らとはつきあっていかなければいけない、そういう中で彼ら彼女らのいやな部分を見てますます嫌いになっていったことは確かなことである。
でも私はハワイで一人のチングによってかえられた。それはよくブログにも出てくるジウンである。もう詳しく話す必要はないと思うが、フルネームはキムジウンアメリカ系韓国人で3か国語を流暢に話す。その彼女とはウマが合うのかお互いいろいろなことを話し合えたのだが、日韓問題についてもすごく議論した。その時までは私の問題が複雑なので日本人に話してもややこしいので関わりたくもないのだろう、正体がばれたらはなれていく人間もいた。当時はそれだけ日韓の問題は複雑であったのである。しかし私はこのアジア人が多い国で、彼女に率直に気持ちをぶつけて行くことができたと思う。時にはすごいえげつない議論に発展しもう関係がおわるんじゃねえのかと思ったこともあったが、しかしどんなに激しく議論しても決して関係がこわれることもなく、次の日あったらまた普通に話せる、そんな韓国人を私は信用していったことは確かなことであった。議論をしている時エキサイトする私に彼女は言った「どっちが正しいと言うことではなく、憎しみだけの色眼鏡をとおしてみているだけでは何も解決しない。大事なことはお互いがゆるしあい、愛し合うことだ、それは今を生きている私たちのためだけではなく、これからの未来のために.....憎しみや怒りは戦争と言う負の産物を残す、しかしゆるし合い、愛し合うということは私たちが未来に平和をのこすことができる。怒りや憎しみをもったままでは幸せにはならない、ホヨン、人間は幸せになるために生きている、もしあなたがそうだとしたら怒りをすてて私の言っていることがわかると思う」と、まあ昔のことなので多少のデフォルメはあるがこの言葉は私にとって衝撃的で、この日からお互いそのことについては議論しなくなったのだが、この一人の韓国人の出会いによって自分の過去と向き合い、民族や国籍に関係なく話し合えば必ず仲良くなれる、特に韓国人はわれわれの隣人であると言うことに気づいたのである。あれから何十年たって今ネットやマスコミはお互いをバッシングしあっている。しかし怒りや憎しみの色眼鏡をとおしてお互いを見るのではなくて、互いの未来を見てゆるしあい愛し合う精神が大事だと言うジウンの言葉はまさに今の我々の関係に向けられているように思える。話はハグの話にもどるが、憎しみや怒りをもった人間どうしがハグなんかできない、このハグは未来への希望のハグだと言っても過言ではない。そしてこの日本人を信じてハグしてくれた50人の人のためにももっともっとお互いを知って助け合うことができる関係が築けることを願っている。
 

日本人が反日デモでフリーハグをしてみた 일본인이 반일데모 현장에서 프리허그를 해보았다


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