脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

自由はそこにではなく、その先にある

2018-08-31 | Weblog

フェイスブックでいくつかの思い出のジムをあげている。そしてその中でも思い出にのこっているのはジョージと出会ったKalakaua Boxing Clubである。もう何度も書いているのでわかっている人はわかっていると思うのだが、このジムはヒスパニック系の人間とスパーをしたけれど相手にならず、くやしくてくやしくてリングをずっと見ていたらジョージが強くなりたかったら明日また来いと話しかけてきた場所だ。ハワイと言えどアメリカ、そして当時のアメリカは本当に強かったと思う。当時はそこそこ実績ができたらメインランドに渡ってプロになると言うのも何人かいてその当時の代表格だったのがWBCの世界1位まで行った男で、その男は我々よりも頭3つぐらい出ているぐらいうまかった。私よりも1つ下の階級だった男もたいしたトレーニングしていないくせにやたら強かった。結局そいつは強盗でつかまったらしいが、当時強い人間はたくさんいたと思う。踏み込みのはやさがはんぱじゃないのでパンと入って来られて知らぬ間にパンチをたたきこまれる。こいつは手品師かと思ったが、そこには明らかに実力の違いがあった。たいした才能もない、たいした実力も実績もない私は本当にそこでくやしい思いをした。くやしくてくやしくてSon of a bitch的な言葉はおそらく誰よりも言ったであろう。でもその競技人生は楽しかったし本当に自由であった。よく人は俺は自由人だとか言うが、しかし自由と言うのは勝ちとらなくては価値がない。英語のlibertyとかfreedomと言うのは、何々から自由とか何々に対しての自由という対象があっての自由だ。自由であろうとすることは様々な弊害があるし、時には拘束しようとする力がはたらくこともあるであろう、でもしかしそういうことに屈せず自身をつらぬいていけるからこそ、そこに本当の自由があると思う。そしてそういう自由を獲得するにはある程度の実力がなければ、ただの井の中の蛙、スポーツを一生懸命やって大学の学位をとると言うように、自分に今できることを一生懸命して、そしてその先の自分を見据えて地道な努力をすることも必要である。そしてその地道な努力があるからこそ自分で好きな生き方を選び取って行くことができるし、生きることができると思っている。若い人に言うが自由は今そこにあるものではなく、その先にあるものだ。そして本当に自分のやりたいことをやりたければ、その将来を見据えて地道な努力をしなければ本当に自分のやりたいことができない。言葉をかえれば今何がしたいのかというよりも今自分には何ができるのかと言うことを問うことがプライオリティであり、その何ができるのかと言う選択肢や実力を広げていくことで好きな生き方ができる、人生の自由度が広がると思う。

私は本当に拘束されることがいやである。群れる奴はアホだと思っているし、仲間と言う言葉は씨빨だ。たぶんそれは朝鮮半島が長い間大国に支配され翻弄されたと言う歴史的なDNAがあるからだと思っている。


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Everybody can change

2018-08-30 | Weblog

私は昔すごくケグジェンイだった。でもそんな私がボクシングから学んだことは大きく、特に相手を尊重することを学ぶことができたと思っている。私自身仲間と言う言葉はFuck you!だ。DQNや運動部系の人間があわないのは仲間意識がつよくつるむ、思いやりや助け合いをその小さい群れの範囲でしか理解できないからだ。私は実際に海外で競技したわけであるが、日本と海外では環境は明らかに違う。試合にしてもそうだ、向こうもそう思っていると思うのだが、相手の肌の色も違うし、顔も言葉も違う。そういう人間と向き合うということは非常に違和感を感じることであり、場合によっては日本と韓国のように相手によって敵意が生まれることもある。でもそういった違いや敵意も共に正々堂々とリングで戦うことでその違いや敵意が尊敬にかわる。それが競技者としてリングに上がることで得られる貴重な経験であると思っている。

これは私の貴重な体験であるが、むこうで何戦か試合をしたころ、何か少しそこで違和感を感じてまわりに少し敵対心を持ったことがあった。それはそんな私が試合をした時の話、こちらは相手に対して敵対心を持っているので、当然向こうも敵対心をもって挑んでくる。その試合はお互いが敵対心むき出しで殴り合ったと思う。でもお互い一生懸命競技することで、何かが少し変わりはじめた。その時はお互い相手を倒してやろうと必死だったが、でも試合が終わってそれぞれがコーナーに帰って行った時何かすごく気持ちがよくて、リングの中央に立った時もう勝ち負けなんかどうでもよくて何か吹っ切れた様で「Thank you」と相手に言ったらにっこりと返してくれたことを思い出す。そしてその時から私の中で彼はもはや敵ではなく、尊敬すべき相手となった。

ロッキー4は有名な映画だ。そのストーリーはロッキーが敵対するロシアに単独で乗り込んでいってそこで試合をする。けれども当時ロシア(旧ソビエト)はアメリカと仲がわるくて、ロッキーは完全にアウエイで試合は当然、彼をひとりも応援するものはなく、その状況で試合が行われた。しかし試合が始めるにつれロッキーを応援するものが次々とあらわれ、ラストはみんながその彼をたたえてスタンディングオベーションとなるアメリカ映画のお決まりのパターンであるが、ラストにロッキーが言ったインタビュー言葉が印象的であった。それはお互いが敵対する中でお互い少しづつかわりだして、そして最後には自分がかわることができたし、相手もかわることができた、そしてみんながかわることができた。と言う言葉であるが、この言葉がアメリカとロシアの関係で語られたことは大きな意味がある。英語で言えばI can change you can cheng everybody can changeだが、この物語はものすごく単純であるがスポーツのすばらしさを我々に伝えている。スポーツと言うのは力と力のぶつかり合いであるが、この力のぶつかり合いはロッキーのように健全で正しいものを生み出し、そして人に感動と勇気と希望を与えるものだ。けれどもそれとは逆に戦争の力と力のぶつかり合いは悲惨や不幸を生み出す。同じ力をつかうものでもスポーツとは対極にある。オリンピックが素晴らしいと言えるのはまさにその力と力のぶつかりあいがいい意味での生産性を生み出すからである。そしてそのスポーツを健全でよくしていくのは、われわれひとりびとりの力で、その力が大きくかわるとき本当にすべてをかえて世界が平和になることを信じたいと思う。

今日あげた歌はカントリーロードと言う有名な歌。当時留学生たちでそれぞれの国のことを話し合ったことを思い出す。誰にでも故郷がある。世界にはロヒンギャ族のように故郷をうしなった民族がたくさん存在するが、彼ら彼女らの多くは政治的な争いごとの犠牲者、いわゆる戦争の犠牲者だ。私はそういう現実にあっていろいろな国が集まるオリンピックなどのスポーツはひとつの希望だと思う。メダルを取ることも大事なことだろうが、しかし今一度こんな時代だからこそクーベルタンの言うオリンピズムの精神に立ち返ることが必要だと思う。

 


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ノージック的に言えば

2018-08-26 | Weblog

ロールズの「A Theory of Justice」は私が影響を受けた書物であるが、ノージックは彼が言う公平なしくみと分配に対して異をとなえた人物である。彼は特にロールズの分配のしくみにたいして分配的不正と言う言葉をもって批判しているが、とどのつまりロールズの分配はあくまで分配される側の権利を主張しているだけであって、その分配される富や財産は所有者のものだ、ロールズの分配はその財やしくみを努力してつくってきた所有者を無視するもので、それは必ずしも公平と言えないというのがノージックの考え方である。

少し見方はかわるが、私がここではたかだかボクシングができるぐらいで偉そうにはさせないというのは、一生懸命コツコツと働いてきた社会人を無視したくないためだ。中には一生懸命勉強して働いて地位を気づいてきた人もいる。それをたかだかボクシングを一生懸命やっているというだけで、そういう社会的な能力もないのに、ただ目立つような人間たち中心の集まりにしてしまったら、一生懸命まじめにやってきた社会人たちを無視していることになるからだ。前にも言ったが人間を見る時私が見ているのがそいつがあいさつができるかとか、受け答えがきちんとしているかということではない。そういうことは世間ずれしていたら誰でもできる。そういうことは夜の街に出入りしていたら誰でもできること、むしろそういう人間のほうがしたたかだ。肝心なことはその人間の受けてきた教育であったり、人間関係、そして家族関係、そういう部分をよく見てコミュニティを形成しなくてはどこかでそのコミュニティはずれてくる。うちのクラブの雰囲気がいいのは私が人間のこの部分をよく見て社会人を尊重しているからだ。うちのクラブはまじめにコツコツと生きてきた人たちで、みなさん家族や人間関係も健全である。

ボクシングしかできないような人間が集まって、ボクシングができるということだけで偉そうにしたり、ちょっと特別感を出すような人間を改めさせたり排除できないコミュニティは未熟だと思う。個性とかこれが俺のやり方だとか、自由とか平等とか与えられる権利ばかりを主張して、それを与える学校の教師やその他の人の権利を考えたり思いやることはない。こういう奴に限って目立つ格好をしたり、髪をド派手に染めることが個性だとか言うけれども、人間の個性は知性だ。パスカル的に言えば人間と他の生物の違いは人間には思考能力があるが、動物にはない。その思考することが人間の個性だ。思考できない人間に限ってド派手な格好をしたがるというのが私の意見であるが、これは裏をかえせば個性がない、個性がないからこういう悪趣味な恰好や髪型にこだわるのだろう。そういう人間がいくらド派手に赤とか、金とかド派手な色で髪を染めてもそんなものは個性ではなく、動物で言うところの種類であって、わたしから見たらそのほとんどがサルかチンパンジーそして大きい奴はゴリラだ。今までの哲学は弱者に重きを置いてきたが、しかしそこにあぐらをかいてしまって今度はあしき平等、そしてそれがねじまげられてしまって社会通念的に自分勝手な考え方ができるようになったが、まさにDQNの言う個性はそれ、学校にド派手な髪型で行ってこれが俺の個性だというのは、自分の権利しか考えていない、いわゆる与えられるだけで与える人のことを考えていない一方的で恣意的な考え方だ。これから大事なことは責任である。その責任は隣人や地域社会だけではなく、もっと広い意味での責任であるが、それは与えられるのではなくて与える側としてひとりびとりをとらえていくことで見えてくる責任、そういう責任をひとりびとりが考えておう必要がある。

 

 


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I'm in HNL City of mind

2018-08-22 | Weblog

夏のこの季節は少し強い風をうけるとハワイのジムを思い出す。学生時代に自分の軌跡をのこすことができた場所、その頃の楽しかった時代を思い出す。ハワイのジムは本当によかった、自分が本当に自分でいられる場所であったからだ。キャンバスで動いている時は何もかもをわすれることができたし、何よりもあの場所は平等であったと思う。事実私はアメリカではマイノリティが生き生きと競技しているのを見て救われたことも事実であるが、キャンバスは社会的にハンデをもった人間、孤独で人と強調できない不器用な人間が思いっきり自分を表現できる場だ。人によっては社会ではいろいろなハンデがあって平等とは言えない扱いを受けるだろうが、しかしハワイのキャンバスは自分のすべてをぶつけていける場であったと思う。マイノリティであろうがpovertyであろうが関係なくそこは平等である。何とか軍団とか権威主義のじいさんがいばっているわけでもなく、べらべらと仲間意識を強調するかのようなおしゃべりなどなかったが、私はそこで生まれてはじめて拘束されない自由と言うものを感じて心から楽しかったことは確かである。徹底して協調性のない人間が外国に行くのだから、当然そこには軋轢がある。当時はこいつだけはと言うのが何人かいて一応顔見知りなので試合で会うとすれ違いざまに顔を合わせて「うんっ」いうようなしぐさを見せるが、しかし内面は絶対こいつだけはぶちのめしてやるなどと思っていたし、向こうも思っていただろう。はたから見たら一体何なんだとさえ思うだろうが、しかし本当にすごくおもしろかったし充実していた。今までの最高の思い出であったと思う。自分は本当に群れるのがいや、数で行く奴は本当に卑怯だと思うし、仲間なんて言う言葉はfuck youだ。でもたぶんいごこちがよかったのはそこがひとりでいい場所だったからだと思う。


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隣を見るな前を見ろ。

2018-08-19 | Weblog

ラッキースターと交流戦があった。佐藤代表からメッセージをいただいたが、今回うちの選手が最優秀、佐藤代表も取るべき人物がとってよかったと言っていた。実は私は彼は上手になると確信していた。私が上手になると言う根拠はまず楽しんでそれをやっているかと言うことそして土踏まずがあがっていることだ。土踏まずが上がっているというのはフットワークに非常に有利で踏み込みが早いということでもある。最初マスをした時に何か足がバタバタしていてリングのサイドにあるものを次々とけり散らしていたが、この時思ったのはまだ彼は自分のフットワークを制御できていないからで、リズムができたらうまくなると思っていた。そして同時に体感を鍛えていたので、このことによってだいぶその動きが制御できるようになったのだと思う。私はあまり彼について面倒をみるわけでもないし、アドバイスもしない。むしろこういうできる競技者よりも女性やビギナーのおっさんの指導のほうが大事だと思っている。でも私の持論ではうまくなる人間はほおっておいてもうまくなる。彼は自分が現役だったら少々やっかいだなあと思える競技者であることは間違いない。そういうこともひっくるめて上手になる言っているのだ。ちなみに私は自慢ではないが全盛期と言われている時代にその国で競技してきた人間、そこで何十戦もしているのだから本能的にこいつはうまいかどうかということはわかる。その私が言っているのだから自信をもってこれからも楽しんでボクシングを続けてほしいと心から思うし、その気であれば本気で協力したいと思っている。

ただボクシングと言うのは簡単にタイトル見たいなものがとれるスポーツでもある。一回勝ったら優勝とか、負けても準優勝とか、私はそういうことにあぐらをかいて自慢する人間はダメだと思うし、こういう奴はあまり相手にしたくない。何よりもボクシングは上を目指せば目指すほど自分の実績が相対化されて小さくなっていく、そういう中で常にチャレンジ精神を持ち続けるのが競技者ではないかと思う。以下の文章は私がハワイで経験したことをつづつたブログであるがこのブログの抜粋で締めくくりたいと思う。

でもこてんぱんにやられたからこそ見えてくるものもある。偉そうに言わせてもらうが、誰も自分のことを知らない国で一生懸命思い切りやって限界を知る。その限界を知ることで見えてくるものも大きい。私はクンナッソ(終わった)と天を見上げたが、しかしそれはこれでよかったということで、やり遂げたという気持ちである。最初ここにきてパンチがあたらなかったので、悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたら。ジョージが声をかけてきてくれたことではじまった彼と二人三脚で歩んだボクシング、そこそこ強豪のアメリカ人と対戦して勝った時は、単純だが、東洋人も彼ら彼女らと対等にやれると思ったし、メダルも取れた。そういった経験が私の中で自信になっていったことは確かである。けれども自分の実力なんて相対化されればされるほど小さくなっていく。そして一生懸命やればやるほど、自分の限界や現実を受けとめなくてはならない時があるのだ。人間は前に進むためには、時には大切なものを捨てなくてはいけない時もある。でもしかしその捨てたものが正しければ年とともに思い出となり、その人の年輪となる。それは決して今しがみつくものではないが、それが年をとって思い出となって自分の軌跡を振り返った時に、自分の生きてきたことはよかったんだと振り返ることができる。それが年を取ってからの人間の幅や自信になると思う。私は本当に向こうでは小さい存在であったと思う。そしていくら頑張っても認められることはなかった。そういう平凡なちっぽけな存在である。けれども一生懸命挑戦することで自分の軌跡をのこすことができた。そしてそのことを今振り返って後悔はない、それは私を語る上での本当の年輪になっていると思う。

 

 


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Boxing Creed

2018-08-15 | Weblog

私が信用できない人間は仲間をつくろうとする人間。そういう人間がたちが取り仕切っている組織は問題だと思っている。私の考えでは正しいリーダーはその組織が機能するために、正しいルールや規則をつくって環境をととのえる。しかしダメなリーダーは仲間集めに躍起になる。人によって意見は様々であるが、今のボクシング連盟はどう見ても後者にしか見えないのだが、報道を見る限りでは自分たちは被害者で前会長が悪だという風にしか見えない。奈良判定なんて言うのも特定の地域を出して、奈良判定と言う言葉をつくってマスコミに流布したのも問題だと思うし、細かいことを言うが会長にもてなしたぜいたく品はどこからでているのか。自費でやっていれば問題ないが、しかしそうでなければ予算から不適切な支出をしたということではないのか。もしそうだとしたら助成金問題も金額は違うが50歩100歩ではないか。本気で改革するのならば、あとからこういう意見がボロボロと出てこないとおかしい。特にその予算が何に使われたのかと言うのは重要なチェック事項だ。そこを徹底してやることで全体の引き締めになると思うが、本当に組織を刷新したかったら一度バラバラにしないとできない。その能力と覚悟があるかどうかはわからないが、本当にボクシングをよくしたかったらむしろ嫌われる覚悟で徹底した改革を行う必要があるのではないだろうか。

私は宗教学を勉強したのでその視点から話をすると、キャソリックが腐敗して、プロテスタントが台頭した時代があった。その時代にできた教会のグループがReformed Church所謂ジャンカルバン派と呼ばれる人たちだが、その彼ら彼女らの特徴は信条や宣言を持つということである。見えないものを信じる人間が自分たちの言葉によって何を信じるかということを告白、あるいは宣言することによってその信じていることを確かにする。テレビで池上氏がマックスウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と精神」の解釈の中でプロテスタントが発展してきたのは、予定説からくる選民思想が勤勉さにつながって経済が発展したと言っていたが、まさにその彼ら彼女らの信仰を確かにしてきたのが、その信条であったり宣言である。私がインタビューやコメントを聞いて感じたのは、言葉が適切ではない、言葉のつたなさである。言葉の乱れは組織に悪影響をおよぼす。正しい言葉を持つというのはその群れを引きしめることであり、正しい方向へと導くことだと信じている。ここらで日本ボクシング連盟宣言なるものを草案してみてはどうだろうか。


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사랑 사랑 하다

2018-08-14 | Weblog

少し前の記事で恐縮だが評判がよかったのであげたい。私はめったに泣かない男だ、でも学生の時一度ハワイで慟哭したことがある。それは自分ではどうすることもできない不条理に対して流した悔しいとも悲しいともいえる涙であったが、でもその泣く姿を見られるのがいやでその時ジウンにくるりと背をむけて帰って行ったことをおぼえている。彼女は私が男は涙をそう簡単に見せるものではないと言うプライドがあるので、そのことについては何もふれることはなかったが、それからしばらくして、あるスポーツ店で働く韓国人女性の話になったのだが、彼女はいわゆるわけがあってここに来ている女性であった。当時韓国人の子供が養子に出されたり、女性がDVにあって離婚したりしたら、本国で生きることができないので、外国で水商売をすることが当たり前のようにあった時代、実際ここにはそういう養子に出された子供やDVからのがれてきた女性たちがいたが彼女もその一人である。たぶん前にに泣いたところを見られたことがはずかしかったのもあって、私が「俺はそういう人たちに比べたらまだ幸せなほうだ。もうたいしたことでは泣けない」と言ったら。彼女はこういった。「人間が悲しいと感じる時泣くことは大事なことだ、よく怒りを力に変えるとかいうけれども、人のために涙を流すことは人のために何かをしたいと言う気持ちが生まれてくる。そういう力が世の中をかえることもある。私は人のために泣けない人は信用しない。だから傷ついた時は泣いてもいいと思う」たぶん彼女はこういうことで私もあなたと同じ考えを持っていると、私の悲しんだ気持ちを肯定してくれたのだと思っているが、その時私は笑ったり泣いたりすることは人間の特別に与えられた感情なんだと思った。そしてそれらの感情はもちろん相手はあってのことであるが、人間の傷ついた感情は泣いて表現できるから伝わるし、その伝わった感情にまた同情して泣く、人間はこの特別な感情を大事にして生きていかなくては人生が無味乾燥なものになってしまう。そして人間は自ら傷つくからこそ相手の気持ちがわかり、人間特有の助け合いの気持ちが生まれるのだ。それが泣くものとともに泣き笑うものとともに笑うというキリスト教徒である彼女が言うLoveである。私は笑ったり泣いたりするのはまさに人間の気持ちや感情を豊かにし、その人間の幅をつくるものだと思っている。人間は助け合うことが大事だ。でもその助け合う前に自らも傷つき涙を流すことも大事なことである。韓国語で涙はヌンムル(目の水)というが、しかし涙は単なる水ではない、感情や心がこもっているからこそ出てくるものである。

 


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Pax Japan

2018-08-11 | Weblog

2年後に東京オリンピックが開催される。ボクシングは参加できるかどうかと言うことが問題になっているが、私が毎回オリンピックが開催されるたびに思うことは日本は競技者が高年齢化していることである。テレビなどでも40にも近いおっさんやおばさんたちがそれに打ち込んでオリンピックに出ている姿をよく見るのだが、飽きたということを通りこしてみっともない。まあ人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、2回も3回もオリンピックに出てくる人間を見たらもういいだろう他の人間にゆずってやれよとさえ思う。日本は平和で好きなことができるのだから本当に幸せだ。しかしそれは自分たちがたまたま日本人に生まれてきたからで、オリンピック出場国には余裕がない貧困にあえいでいる国は少なくはない。何が言いたいかと言うとオリンピックと言うのは世界各国からいろいろな国が集まってくるのだから、もう少し全体から個というものをとらえてまわりのことも考える必要はあるということだ。記録がどうとか経済効果がどうとかいうのも大事であるが、しかしその多くの国が集まるからこそ自分たちを他者とのかかわりの中で考えるべきことがあると思っている。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムは、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿である。競技者はただ好きなことだけをやっていたらいいというわけではない。今やコスモポリタンで人とのつながりを考えなくてはいけない時代だ。特に自分たちよりもめぐまれない国や人身売買などのえげつないことが起こっている現実に目をむけて思いやりを示す必要がある。スポーツは国境をこえるというがまさに競技者は代表であってそういう義務をおっていると思う。しかし日本の競技者は社会や世界の問題などに関心がない。テレビに出てきてバカ話をうれしそうに話すアスリート、そういう人間が物事の善悪をしっかりとらえて正しい倫理的基準に従って生きているなんて思えない。よく何とか部の顧問とかスポーツ指導者は日本一になれとか世界を目指せと言うが、しかし教育がかけた記録さえのばせばいいという考え方は思いっきり間違っている。今自分が競技している国がどこにあるのさえもわからない人間、テレビに出てきても部室で話す程度のことしか話せないような人間がはたして本当に代表としてふさわしいのだろうか。最近ましになってきたと言うが、しかしまだまだアスリートの教育レベルがひくい。朝練とかトレーニングの拘束時間が長いのだから勉強できるはずはない。まずはきちんと勉強する時間を与えて知識を与えて「知る」と言うことを教える必要があるだろう。そしてもし可能ならば海外遠征の時にそこの国でおこっている現実をきちんと学習させたらいいだろう。私の考え方ではまともに物を考える人間の育成ができなければ、組織論と言う言葉など存在しない。組織とと言うのは上があってということではない。日本人はよく上が上がと組織の上層部のことを言うが、しかし組織と言うのはみんなでつくっていくもの、それは民主主義が成立していった歴史を見ればわかること。だから教育が必要だ。

 


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いまさらデモクラシーを問う

2018-08-02 | Weblog

組織にバカが集まると。組織自体がやくざ化する。組織に勉強しませんとかやんちゃですが集まるのは猿山と同じで、その組織に親玉が君臨するのはそのサル山にボス猿が君臨するのと同じことだ。勉強もしない、目立つことしか考えていない人間が全体を通して何がいいのかわるいのかとかいうことが考えられるはずはない。私は体育会の組織はやくざに近いと思っているが、何も考えていない人間は上意下達のそういう世界がぴったりと当てはまる。でかい声であいさつができて先輩を立てたら礼儀正しい奴とみとめられる非常にわかりやすい世界だ、そういう組織ではボス猿のような絶対的な親玉がいてみんなそれに従う、非常識で非常に小さい世界である。

私はほとんどよその団体のホームページを見ないが、その団体のホームページを見たらよくわかる。その書いた文章の表現力、どういうお金の使い方をしているのか、どういう報告の仕方をしているか、そしてどういうことに関心を持っているかというようなことを見たら、だいたいのレベルがわかるし、そういうことをチェックしたら健全ではない、ずれた集団が見えてくる。コナンではないがずれた集団を客観的に物事を見たら、おかしい、あれと思うようなことに気づくはずだ。そういうところをよく見ていないと組織そのものがくさってきて弱体化する。あほな集団と言うのはそういう批判力がないから意味のない人間関係を重視する。あの先輩には頭が上がらないとか、何々さんにはすごくお世話になったとかそういう恩を売る世界では客観的に正しいことが見れるはずはない。だからずるい奴やでたらめがはびこる。私が競技者の知的レベルを上げろと言うのはそういった客観的な見方ができる人間をふやせ、物の見方を多面化しろと言うことだ。そのためには一般的だが競技者の学力を上げることが必要だと思う。組織がおかしくなるのは上にいる人間だけがわるいのではなくて、我々競技者にも責任はある。民主主義の世界で政治家がわるいことをしたら選んだ我々もわるいと言うのと同じことだ。王政の時代絶対君主がいた時代は、まわりはそのいわれたことだけをやっていれば生きていけた時代、でも民主主義になって一般の人たちも議会にくわわることができるようになって教育が必要になった。ついでに言えば民主主義的な組織をよくし、守っていくためには教育が大事であるということである。

少し語弊があるが知的な職業についている人たちに言われるのが、ホームページを見て文章を見て安心した。ある人は確固たる信念をもって運営している。女性の尊重の仕方にもきちんとした哲学がある。だからうちに来たとはっきり言ってくれる人も少なくはない。ある人は電話の応対でここにしょうと思ったと言っていたが、言葉と言うのは非常に大事だ、きちんとした人は相手がどういうことを考えているかとか、どれぐらいまともなのかということを見ているのだが、そう言ったことはおそらくこちらの知的レベル、いわゆるそのレベルが言葉にあらわれると思う。組織を健全に正しく運営させるためには、そこにどういう人たちが集まるかが重要なこと、そのため責任者は特定の人間ではなく、多くの人に認められる必要がある。

スポーツで親でも言えないようなことをえらそうにオシメをかえたわけでもないのに言う監督。あそこまで言われてよく「ハイ」と返事できるから不思議だ。私ならあそこまでえらそうにされたらF〇ck you!と言うだろう。

 

 

 


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